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2008年4月 5日 (土)

門前雀羅

子供の頃、籠を逆さにして、紐を結びつけた割り箸等で支えて、中に米粒を入れておくと、雀が集まってきて、よく雀を取ったものだ。雀は、餌があるとすぐ察知するのだ。何もないと寄ってこないのに、米粒を少し入れると、間もなく寄ってくるので、餌には雀も弱いんだなと思ったものである。

しかし、取った雀を焼き鳥にすれば美味しいというので、試してみたが、残念ながら美味しくはなかった。その後は、捕っても、逃がすようになったのを覚えている。

さて、話は変わるが、世の中、羽振りのよいときは、周囲に自然と人が集まってくる。しかし、一度、その地位を失えば、人はいつの間にか離散して寂しい状態になる。流風は、それが悪いとは思わない。立場を考えれば、そのように行動するのが、人の常であろう。

同様なことを、漢の武帝に仕えた二人の事例を司馬遷が『史記』に取り上げている。それは汲黯(きゅうあん)と鄭当時(ていとうじ)のことだ。二人とも、相当な地位に就いていたが、人生の浮沈を経験している。

まず汲黯(きゅうあん)は諌臣であったがために、諫臣にありがちな人生の浮沈を味わっている。諫言が取り上げられれば、評価されるが、取り上げられないと左遷されるのだ。

評価された時は、取り巻きが増えるが、左遷されると、いつの間にか誰もいなくなる。大体、諫言というものは、トップにとって耳が痛いので、取り上げられないことの方が多い。彼も、それによって、辛い状況に陥っている。

鄭当時の場合は、人が良かったのか、相談に色々乗っているうちに、犯罪に巻き込まれ、一旦庶民にまで落ちている。その後、名誉回復したものの、辺鄙な地域の太守で終わっている。

そのようになることを辛いという人もいる。だから、適当に無難にやるんだと言う。もちろん、それは処世で悪いとは言わないが、自分を殺しすぎると、人生を無駄に過ごすことにもなる。多くの人は、止む無く、そうしているが、そのような人ばかりでも困る。

それに、人間、生まれてくるのも独りだし、死ぬ時も一人だ。そのように考えれば、人の離散を悲観的に考える必要はない。それが当たり前と思えばいいのだ。思い切って、自分の思いのままに道を歩むのも悪くない。周囲は大変だろうけど、日頃から覚悟させておけばいい。

なお、表題に掲げた「門前雀羅(もんぜんじゃくら)(*注)」とは、人が寄り付かなくなって、多くの雀がたくさん集まって遊び、雀取りの網を張れるほどになっている状況を指している。

*注

『史記』の原文は、「門外雀羅」となっているらしいが、未確認。

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