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2008年4月22日 (火)

『画竜点睛』を考える

百貨店などでウインドーショッピングしていると、時々、いいなあというものを見つける。ただ非常に高かったり、一部のつくりが気に入らなかったりして、購入には至らないことが多い。また、女性と同じ(女性からすれば、男も同じ?)で、遠くから見ていたら、結構いいものに見えても、手に取ると、仕上がりがイマイチということもある(笑)。

そういう意味ではないのだが、今回は、『画竜点睛』を取り上げよう。「ガリュウテンセイ」と読む人がいるが、正しくは、「ガリョウテンセイ」。また念のために記せば、「点睛」の「睛」は「晴」ではない。「睛」とは、「ひとみ」のことだ。

日本では、「画竜点睛を欠く」として、「全体はいいが、肝心なものが欠けている」として、否定の意味としてよく使う。しかし、もともと、画竜点睛は、最後の仕上げを意味する。

この話の源は、中国の南北朝の時代の話だ。ただし、突拍子もない話なので、事実かどうかはわからない。でも、この話は営々と伝えられてきたと思うと、人々の心に何か響くものがあったのだろう。

南朝の梁の国の張僧繇(ちょうそうよう)という人がいたそうな。彼は政治家としては、そこそこの地位にあったが、もう一つの画家としてり面があった。むしろ、その面の方が名高かった。

彼は、ある時、金陵の安楽寺から双竜を描くことを依頼された。双竜というと、日本でも、京都の禅寺などを拝観すると、天井に描かれていることが多い。それがどういう意図で描かれているのか、不勉強であるが、強い生命力を感じるのは、流風だけではないだろう。

彼は渾身の絵を壁に書き上げた。今にも天に昇りそうな双竜には、非常な迫力があって、皆感嘆した。ただ、そこに睛(ひとみ)が画き込まれていなかった。大体、白眼というのはうつろで不気味だ。そこで、多くの人が、その理由を尋ねた。

彼が言うには、「睛を画き込めば、竜は生命の息吹を感じ取り、壁を打ち破って、まさに天に上って行くだろう」と。しかし、人々は、そんな馬鹿なことがあるはずがないと、睛を画き込めとうるさい。まるで関西のおばちゃんの乗りだ(笑)。

やむなく、睛を画き込むと、にわかに天が掻き曇り、雲間ならぬ壁から電光がきらめき、雷鳴が響いた。壁の竜はあっという間に、天に上って、睛を画き込まれなかった、もう一つの竜が行き所を失ったように、空しく残っていたということだ。

おおよそ完成されたものというのは、この世にはない。完成されたと思っても、それは一瞬だ。思った時点で、完成は失われている。時と空間の変化に、常に対応しつづけようとすれば、常に未完成ということになる。

この「画竜点睛」の故事が何を伝えようとしたのか、作者の真意はわからないが、完成したら、なくなってしまうぞ、と人々を諭そうとしたのかもしれない。そう考えれば、私達が付き合うモノにしても、人にしても、同じことが言えるのかもしれない。

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