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2008年5月31日 (土)

持ち時間と待ち時間

人生において、各人生まれた時から持ち時間は決まっている。それを知らないのは本人だけだということになっている、ということを子供の頃、母からよく聞かされた。だから、一瞬一瞬を大切に過ごさなければならないと言いたかったのかもしれない。

だが、人生には、「待ち時間」というのもある。一応、無駄に思えることが多いが、必ずしもそうではないだろう。無駄は、仮に無為に時間を過ごしても、次の段階では意味を持つことが多い。

人によっては、スケジュールをすべて埋め尽くさないと安心できないタイプもいるようだが、それでは余裕を持って人生を過ごすことは出来ない。人生のスケジュールを全て事前に埋めることなどできない。

いつも予想外のことが起こるのが人生だろう。計画通りにならないのが、またその面白さではないか。そう考えると、人生のスケジュールなど、三割も立てられていれば十分で、後は、日々活動の中で埋めていけばいいのだ。

自殺された女性フリーアナウンサー川田亜子さんも、自殺の理由は明確ではないが、仮に仕事が原因とすれば、生き急ぎされた感がある。真面目な人にありがちだが、自分を追い込む前に、もっと遊び心を持って欲しかった。

一応、気になるアナウンサーだったので、大変残念な思いだ。彼女にはご冥福をお祈りすると共に、あの世では、待ち時間というものを知って、もう少し、力を抜いて欲しいものだ。そして、それは多くの人に同様のことが当てはまるのではないか。

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2008年5月30日 (金)

恋への執心

             玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば

             忍ぶることの 弱りもぞする

                     百人一首・第八十九番・式子内親王

別れた異性に未練を残して執着するのは男に多いとのことである。そういうと、女性は付き合っていた男性からもらったものを、別れると、すぐに処分する傾向がある。男は、未練を残して、どこかに取って置いて、後で新しい女性と、ひと悶着起すのは、よくあることのようだ(笑)。

さて、先に挙げた式子内親王の歌は、忍ぶ恋という題材で詠っているということだ。ちなみに、式子内親王は、後白河天皇の第三皇女で、『千載和歌集』、『新古今集』時代の女流歌人だ。平治元年より賀茂の斎院を十一年奉仕した。

残念ながら、案外、内親王については、意外とそれ以外のデータが少なく、はっきりとしたことがわかっていない。たくさん歌を詠んでいるが、本当に彼女のものかどうかも、はっきりしない。ただ、わかっていることは、生涯、結婚もせず、目だった浮名は流していないということだ。

だから、この歌が、彼女の経験に基づくものかどうかはわからない。だが、表面上、恋をしていないという女性ほど、内心、異性に対して、ほとばしるような抑えきれない情熱をもっているかもしれない。非常に激しい歌の内容からすると、彼女の「ある人」に対する思いを詠っていると考えられる。

ところで、藤原定家の恋人が、式子内親王とずっと云われて来た(*注1)。定家については説明は不要だろう。彼の『明月記』に、内親王ののことが、よく記されているため、後年、彼女との関係が取り沙汰された。

しかし、式子内親王の恋人が定家だったと言い換えた方が適切かもしれない。年上の彼女の滲み出るような色気に、定家の方が、気おされたと考えた方がいいような気がするのだ。年上の女性に迫られて、あたふたしている定家が見えてくる(笑)。果たして、年齢差13歳という、この恋はどのようだったのだろうか。

ところが、謡曲『定家』は、彼らのことを題材に謡曲が作られたというのだが、それは立場を逆に描いている。いろいろ配慮した結果かもしれない。つまり、むしろ、定家の執心が、あの世までも残り、内親王の墓に彼が葛(かずら)となってまとわり付いていると描いているのだ(*注2)。

だから、この作品も、他の謡曲の作品同様、可能性として、かなりの創作が入っている可能性が高い。それに墓に葛がまとわりついているというのは、後年わかったところでは、戦争などで、荒れ放題になり、人々の記憶も薄れ、誰も手入れしなかったため、彼女の墓の状態が悪かったので、それをうまく題材に使ったと考えられる。

謡曲では、最終的にも、僧が弔って、読誦すると、一旦は葛がほどけるのだが、少し時間が経つと、元の木阿弥。葛は、さらにまとわりついていたという男の執心の話で終わっている。相手をした内親王も大変だねえ、という風に描いている。現代でも、時々事件になっているから、時代を超えて、確かに、そういう男がいるのだろう。まあ、逆に女性の場合も、そういうタイプはいるかもしれない。

広く世間を見渡せば、男女共に腐るほど異性はいるのにねえ(笑)。縁がなかったと割り切れない、ぐじくじ人間にはなりたくないものだ。恋への執心は、ほどほどにしたい。最終的には、恋は、なるようにしてなるものだから。

*注1

定家の父、藤原俊成に内親王が師事していたことも、定家と彼女を近づけた。しかしながら、実は、恋の相手は、定家ではなくて法然だというのが、真実性が高くなっているという。むしろ、定家は、それを見守っていたのかもしれない。

*注2

但し、般船院陵(千本今出川)にある塚が、彼女の墓と云われている。この墓が、彼女の墓であるかはわからない。そう伝えられているだけだ。

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2008年5月29日 (木)

民間に迷惑をかけない政治

昔は、年貢とは別に公役というものが民に課された。それは兵農一致政策によるものだったからだ。防人もその一つだろう。兵農分離をしたのは織田信長といわれるが、その頃までは、延々と兵農一致政策が取られたことになる。

兵農一致政策の時代の指針が、十七条の憲法第十六に示されている。民に迷惑が掛かるような時期に徴集をかけてはいけないと戒めている。そんなことをすれば、民が疲弊し、ひいては国家が衰亡するということがわかっていたからだろう。ただし、このことは、既に『論語』に述べられていたことでもある。

念のため、十七条の憲法第十六を解釈すると、次のようになるだろうか。

「民を公役に使うには時期をよく考えて、配慮が必要だ、というのは、古の法則である。冬の間は、農業も暇であるから、この期間に民を使うことが望ましい。春から秋にかけては、農蚕業が大変忙しい。この期間は、民を公役につかってはならない。もし、民が農業をしなければ、何を食べればいいのか。また民が養蚕をしなかったら、何を着て暮らすのか(よく考えよ)」

さて、現代における公役とは何だろうか。日本には、現在徴兵制度はないので、国民の仕事や生活に優先して、国のために仕事をするということは何を指すのだろうか。

現代における、公役の主たるものは選挙かもしれない。忙しい時や、暑い時・寒い時に選挙されるのは嫌なものである。選挙はいつしてもいいものではないだろう。

また裁判員制度が実施されれば、公役と言えるだろう。安い報酬で、時間を奪われ、正味国民に迷惑が掛かる。裁判官の仕事を代行し、一体、裁判官はどれほど減給されるというのか。新しい現代の公役のあり方を考えてもらいたいものだ。

*参考 十七条の憲法第十六 読み下し文

  十六に曰く、

  民を使うに時を以てするは、古の良典なり。

  故に冬月、間あれば、以て民を使うべし。

  春より秋に至るまでは、農桑の節なり。民を使うべからず。

  其れ農せざれば、何をか食せむ。桑とらずむば、何をか服む。

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2008年5月28日 (水)

波乱の人生(下) ジョセフ・ヒコ

その後、彦太郎は民間人として、次々と米国の三人の大統領と会見することになる。まず、1853年には、大統領のピアースと謁見している。日本人として、正式に米国大統領に会見したということなっている。謁見の詳細内容は不明だ。ただ言えるのは、大統領は、単に、物珍しさで会ったのではなかろう。多分、ここから、彼の運命に新たな変化が起こる兆しだったと考えられる。

すなわち、その後、1854年10月30日に、サンダース夫人の強い勧めもあり、キリスト教の洗礼を受け、それ以後、音の響きのよい「ジョセフ」のクリスチャンネームを使い、「ジョセフ・彦」と名乗るようになる。これで米国社会に受け入れられる素地が出来たわけだ。

人生で一番大切な時期に、キリスト教に触れ、学校で聖書を学んでいるし、サンダース夫妻に世話になっているわけだから、これは自然な流れだったのだろう。すなわち、彼は人生の途中から米国人として、育てられた結果ということだろう。それが運命のいたずらとしては止むを得なかったのかもしれない

1857年には、大統領ブキャナンとも会見。残念ながら、これも会見内容不明だ。ただ、その後、1858年6月30日には、サンダースの勧めもあり、日本からの帰化第一号として米国の市民権を得ている。大統領と会見したことが意味を持ったのかもしれない。

これで、米国は、一人の日本人を取り込んだことになる。少なくとも、二つの国の言葉を話す人材を得たことは大きい。ただ彦太郎が遭難した時は、13歳。どれくらいの日本語の読み書きが出来たかは不明だ。しかし、日本語を話せることは大きい。

1859年6月、アメリカ領事館の通訳として、米国人として、「来日」という帰国。当時、キリシタンに対して、幕府の目は厳しかった。彼は、既に米国流の仕草を身につけており、日本人としては遇してくれず、外国人として扱われ、孤独の日々を送る。ただ、そうするしか入国の手立てがなかったのも事実だ。だから、帰国子女みたいなものとはまた違う。むしろ、浦島太郎状態に近かったと言った方が的確かもしれない。

だが、「米国人」にはなりながら、新しい知見を得て、日本の開国には強い意思を以て貢献しようとしている。ところが、貢献すればするほど、外国の片棒を担いでいると捉えられ、攘夷派の人間に命を狙われるはめになる。おおよそ誤解というものはそんなものだろう。コミュニケーションの不十分さから来るものだ。

それに当時は、外国人だという理由だけで、殺される事件が起こっていた時代だ。まあ、それはわからんでもない。当時、鎖国中の日本としては、外国に対する警戒は異常に強かっただろう。彼は、やむを得ず、それを逃れようと1861年、脱出のため再渡米する。

渡米後、1862年3月31日に、エイブラハム・リンカーン大統領と会見。リンカーンは大きな手で握手して、日本の開国前の状況についていろいろ尋ねたらしい。そして、民主主義のあり方を直接伝授しているという。例の有名な演説と同じ様な内容だったのだろうか(*注)。そして、リンカーンにどういう意図があったのか知る由もない。単に一米国人に対する教えだけだっのだろうか。

ただ、彼は、その後も、望郷の念強く、1862年10月13日、再度日本に帰る。しかし、国内の状況は変わっていなかった。その後、領事館の仕事をする限り、命を狙われると覚り、辞職を決断。当初、外国人向けの英字新聞の事業を始めることになる。

しかし、まもなく方向転換して、1864年6月28日、横浜の外国人居留地内で、我国初の民間の新聞「新聞誌」創刊を決意する。英字新聞を日本語に翻訳。しかし、情報収集は幕府の警戒と監視が強く、ままならなかったようだ。それでも、協力者を得て、世の中の事実を国民に正しく伝えることに奮闘する。

内容は、各国の貿易の動きや商品相場の変動、米国概略史、外国の広告などであった。月2回の発行で、部数は100部程度だったという。また営利目的ではなく、あくまで世界の状況を報せる啓蒙活動であった。一種のボランティア活動ですな。

1865年5月に、「海外新聞」と改題。月2回発行。だが、赤字だった。1866年11月、その居留地内で火事のため、協力者の転居に伴い、新聞発行断念。号数は26号で終わった。大体、強いスポンサーがなければ続かないのは今も同じ。

1866年12月、長崎に転居する。英国商館と鍋島家をセッティングしたり、高島炭坑の共同経営の設立に関与したりしている。1867年(慶応3年)には長崎に、木戸孝允と伊藤博文が訪ねてくる。そして米英の歴史、制度、政治の仕組みなどを彼に質問している。彼はいろいろ伝えたようだ。

1868年9月22日に18年ぶりに帰郷している。1869年には、大蔵造幣局創設に尽力し、大蔵省に勤め、国立銀行条例の編纂に関わっている。今でも、いろいろ取り沙汰されるが、日本の紙幣作りに、彼の影響が今でも残っているのではないだろうか。一度、じっくり、紙幣を見てみますか。

1897年(明治30年)12月12日、心臓病で死去。享年61歳。墓は外国人として扱われ、青山の外国人墓地に葬られた。日本人として死ねなかった彼の心情はいかばかりだろう。

日本人としては認められず、でも米国人にもなりきれない。人生の中途から半端な運命に翻弄され、彼の苦悩が推し量られる。しかし、それでも多くの困難を抱えながら、日本のために時代を切り開いた。兵庫県の先人に、ジョセフ・彦のような人物がいたことに県民として誇りを持ちたい。

*注

原文は、“Government of the people, by the people, for the people”

「人民の、人民による、人民のための政治」と、かつて学校で教えられた翻訳では、正確に伝わらないかもしれない。今では、どう教えているのだろう。

また浜田は、日本に帰国後、このゲティスバーグのリンカーンの演説とその反響をニューヨークタイムズで知ることになったという。だから、会見時には、そのような表現がリンカーンによってなされたかどうかは不明。ただ、これに近いことは教えられているだろう。

そして、彼は、新聞の影響力を始めて実感したことが、新聞発行の動機付けになったのだろう。

*参考文献 播磨町 ジョセフ彦

      http://www.town.harima.lg.jp/profile_senkakusya_josefu

*平成24年12月30日追記

小惑星に、ジョセフ・ヒコにちなみ、「Heco(ヒコ)」と命名されたようだ。兵庫県播磨町が、東亜天文学会会長の関学氏が1990年に発見した小惑星に、命名を要請し、関氏が快諾したことにより、命名された。氏は、「日本の夜明けの時代に貢献した人物」ということで了解したようだ。すでに国際天文学連合(IAU)により承認されている。ちなみに小惑星は、水瓶座の19等星だ。

*平成25年10月14日追記

ジョセフ・ヒコの新聞に関連して、『ヒコのの新聞と錦絵新聞』という催しが播磨町郷土資料館でなされている(平成25年12月1日まで)。そこでは彼の新聞と錦絵新聞のの特徴が紹介されている。

一、幕末の新聞は、和紙を使っていた。故に、両面印刷ができず、二つ折りにする冊子型だった。

二、明治五年創刊の「東京日日新聞」は、難しい文体で、購読料も高かった。しかし、明治七年に発行された「東京日々新聞」は、錦絵で表現され、庶民に受け、瞬く間に広がった。

三、「東京日々新聞」に対抗して「郵便報知新聞」が出版される。そのようにして錦絵新聞が流行する。

四、錦絵新聞は、大阪でも発行されるが、その大きさは東京の半分だった。東京では、筆者と絵師は分業だったが、大阪は兼任だった。

*平成29年1月4日追記

今年、2017年は、ジョセフ・ヒコが亡くなって120年。ということは、丁酉年に亡くなっているから、ちょうど今年で二回り。彼を偲んで何か催しがあるのだろうか。

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2008年5月27日 (火)

波乱の人生(上) ジョセフ・ヒコ

戦前、民間人で、3人の米国大統領に会った男がいる。もちろん現代であれば、そういうことは政治家とか外交官でなくても、可能かもしれないが、それは運命が惹き起こした苦難の道の結果だった。以下、備忘録的に記してみよう。

その名はジョセフ・彦だ。日本名は、幼名彦太郎で、後に浜田彦蔵と名乗る。ジョセフ・彦は米国で洗礼を受けた名前だ。日本で始めて新聞を創刊した人で「新聞の父」と云われる。しかし、その業界の人や関係者を除けば、あまり知られていない。彼の生涯は、流転と言えないこともない。

彼は播磨国(現・兵庫県)加古郡阿閇村古宮で、1837年(天保8年)8月21日生まれで、幼名彦太郎だが、幼い時に、漁師の父が病死。母親が、隣村の本庄浜田に再婚したため、後、浜田と名乗る。13歳の時、母が病死。失意の中、義父に連れられ、神戸・灘浜の樽回船・栄力丸に一緒に乗り込む。栄力丸は、1450石積で、16人(他に1人)が乗り込んでいた。

ところが、1850年(嘉永3年)10月29日夜、江戸見物から帰航中、彦太郎だけ同村の知人の船に乗り換えて、旅を続けるが、ここから、彼のまさに波乱の人生が始まる。

すなわち、志摩沖で暴風雨に見舞われ、難破し、船は自走力を失い漂流。その後、太平洋を40日余りも漂うことになる。絶望の淵に追い込まれた時、通りがかりの米国商船オークランド号に救助される。黒い船だったという。

彼らは親切で、フランクに話しかけ、食べ物を与えてくれたという。言葉もわからず、はじめて外国人に接した乗組員たちは、戸惑うが、彼は一番若かったので、英語も、少しずつ理解していったようだった。しかし、当時日本は鎖国中。オランダ船と中国船以外は入港できない。止む無く、翌年、1851年2月サンフランシスコまで運ばれることになる。彦太郎13歳だった。

米国は、当時、日本に開国を要求するためペリーを提督とする軍艦を派遣しようとしていた。ちょうど、そんな時に、彼らが迷い込んできたので、彼らを利用しようとした。すなわち、彦太郎達を無事送り返し、国交開始のきっかけ作りにしようとした。

そこで、1852年ペリーの東洋艦隊にマカオで乗せる段取りをつけた。しかし、ペリーのマカオ着が遅れたため、止む無く、彦太郎は再度渡米する。その背景には、マカオで同じに目に遭って、帰国がままならない者から、帰国の難しさも聞いているようだ。当時、外国文化に触れた人間を、その帰国を認めなかった様子がうかがえる。それほど難しい国内状況だった。そういうことも、再渡米を促している。

再びサンフランシスコに着いた彦太郎は、米国の水夫仲間に下宿屋などの仕事を紹介されていた。それを地元有力者で、子供のいなかった税関長サンダースに可愛がられ、引き取られることになる。

そしてワシントンやニューヨークなどに連れて行かれる。彼は文明の発達した米国社会を見て驚くことになる。大きな建築物、電信、汽車など見るもの全てが驚きの連続だったようだ。更にサンダースの支援で、ボルチモアのミッションスクールに行くことになり、そこで聖書・英語・算数を学ぶ。

(下)に続く。

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2008年5月26日 (月)

南画展を鑑賞してきた

先日のブログでも紹介した「南画って何だ?!」展を観て来た。久しぶりに行く兵庫県立美術館は、周囲もあまり変わっていなかった。変わり様がないけどね。阪神電車岩屋駅から南側に、てこてこ歩いていくと、すぐわかる大きな建物だ。近くには、「人と防災未来センター」、「JICA兵庫」「WHO健康開発総合研究センター」などの施設もある。これらは、皆、震災後、造られた物ばかりだ。それぞれに意味のある施設だ。建物も、シンプルだ。

ただ、兵庫県立美術館の建築物を設計した設計者(安藤忠雄らしい)には悪いけれど、無駄が多い建物だ。それが芸術だと言われれば、そうかもしれないが、建物の中を歩き回らねば、展示室に行けないのは、ちょっとうざい感じもする。

設計者の意図は、展示室に着く前に、いろいろ楽しんで、という意味があるのかもしれないが、別に建築物を鑑賞しに来たわけでもない。フン、所詮、設計者の自己満足だろうが、と悪態をつきながら、展示室にやっとついた。

受付の、にこやかな、お嬢さんに、鑑賞券を渡すと、すぐそこは会場だった。平日のためか、入場者も少なく、静か。これは助かる。美術館は、海外の例を出して、美術館は賑やかな方がいいという人もいるが、私は静かなほうがいい。

ところで、この展覧会は、前期と後期に分かれていたが、前期は来ることができなかった。総展示数のかなりの部分が前期に展示されており、随分、惜しいことをした。パンフレットには、前期・後期の有無が記載されていなかった。

それはそれとして、鑑賞した作品をいくつか挙げてみよう。まず村上華岳の作品は、まだ元気な頃のものが多く展示されており、以前鑑賞した末期の作品ばかり観たのとは、別の印象を受けた。人間は、その健康状態によって、作品が大きく左右されることを再確認した。

まず1907年の『熊』の絵を観るのは初めてだったが、少し笑ってしまった。その熊が、どこかひょうきんに描かれているのだ。そして本物を見て描いたと感じられないことだ。むしろ熊の縫いぐるみを見て描いた印象なのだ。実際のことはわからないが。

また彼は浮世絵を研究していたそうで、1913年『夜桜の図』も、彼のイメージとは大きく異なった。京都、平野神社で、華やかな夜桜の宴を描いたものらしく、そのたくさんの人々の表情が、浮世絵のように描かれている。しかし、どれもパターン化されており、とても写実的とは言えない。宴会で客や芸妓を仮面を被った人々として描きたかったのだろうか。

そして、1920年ごろ以降は、以前鑑賞した通り、幽遠な世界に入ってしまう。いつ観ても、少し怖いくらいだ。目が悪くなるということは、画家にとって、こんなに影響してしまうのか。心が内向き志向になってしまった結果の作品になっている。また、それが彼の価値を高めることになるのだが。

次に、富岡鉄斎の作品が、清荒神清澄寺より借りて、たくさん展示してあった。こんなにたくさん観るのは久しぶりで、旧友にあったような感じだ。以前ブログにも記したが、彼の作品が比較的好きなこともあって、じっくり鑑賞させてもらった。それぞれ仏教的意味があるが、ここでは触れずに、機会があれば別途、感想を記したい。

そして、今回最大の収穫は、何と言っても、水越松南だ。不勉強で、流風は知らなかったのだが、観てて大変面白い。全体にユーモアが溢れている。ぱっと見ただけで、こんなに面白いだから、もっと深く観れば、彼の考え方がわかったかもしれないが、今回はそこまでは行かなかった。しかし、人間に対する愛が感じられるものだった。

でも、その他、いろんな画家の絵を観たが、南画がどういうものであるかは、結局、画から正確に理解できなかった。やむなく、図録(*参考)を買い求め、これから、少し理解を深めますか(笑)。

*参考

ところがこの図録、サイズがA5サイズには、少し面食らった。大抵がA4サイズだからだ。たしかにA5サイズの方が持ちやすくて軽いが、価格は変わらない(1,800円)し、図も当然のことながら小さい。う~む、どちらのサイズがいいのか。保管するには、確かにいいのだが。

*追記

なお、レストランでは、「南画って何だ?!」オリジナルメニューがあるそうだが、当日は、味わう時間が持てなかった。少し、残念。

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2008年5月24日 (土)

茅の輪伝説

よく知られた話だが、茅の輪(ちのわ)の由来をメモ的に取り上げておく。茅の輪は神社の茅輪祭で見られる。旧暦の6月30日に行われる例祭だ。正月から6月までの罪穢を祓う大祓に茅の輪が使われる。左回り・右回りと八の字を書くように、三度潜り抜けたらよいとされる。

その由来(*注)は、蘇民将来と武塔神にある。蘇民将来は、少し前に岩手県黒石寺の蘇民祭で男が裸になるということで問題になっていた。千年も続いている祭りに、クレームをつける人々がいるとは信じられない。それとも、祭りの内容が変質しているのだろうか。深いことはわからないが、伝統は正しく守られるべきだろう。一時的な感情で、変えるのは望ましくない。

さて、話を戻すと、この武塔神とはスサノオノミコトのことだ。スサノオノミコトが妻を求めて旅の途中、あるところまで来ると、日が暮れて、宿を探した。嫁探しに旅行ねえ。まあ、今でも、人生、そういうことかもしれないが。

当時、そこには、蘇民将来・巨旦将来という兄弟が住んでおり、兄の蘇民将来は非常に貧しかったが、弟の巨旦将来は大変な金持ちだった。兄弟のうち、どちらかが恵まれ、どちらかが貧しい。昔話には、よくある話だ。そして、今でもそうだろう。両親、特に母から、よくそのような話は聞かされた。

武塔神はスサノオノミコトであるということを隠して、最初に弟の巨旦将来の所に行き、泊めてくれとお願いするが、巨旦将来はケチだったので、すぐに断られる。よくある話だ。大体、身分を隠して、相手の本性を試すのは、今でも通用する。以前にも、記したが、外見で判断する人たちを試すと面白い結果が出る。

仕方なく、貧しい兄の蘇民将来のところに行って頼むと、「こんな所でよければ、何のおもてなしもできませんが」と快く泊めてくれた。食事も、粟飯という粗末な物だったが、薦めてくれた。武塔神は夜が明けると、すぐに旅立った。

8年たった、ある日、武塔神が再訪してきて言うには、「あの時にはお世話になった。今日はその御礼に来た」と言う。何をするかと見ていると、茅を竹に巻きつけて丸い輪を作り、蘇民一家の人々の腰に付けさせた。変なことをするなあ、と思いながらも、その夜は更けた。

夜が明けると、蘇民家以外の人々は疫病で全て亡くなっていた。蘇民家の人々は生き残っているのが自分たちだけとわかってびっくりしている所に、武塔神が現れ、「実は私はスサノオノミコトである」と身分を明かし、「悪い病気が流行れば、蘇民将来の子孫だということを書いた紙を門口に貼り、茅の輪を腰に付ければ、病や悪いことから免れる」と言って、何処ともなく去っていった。

さて、茅の輪が一体、何だったのだろうか。流風は、そこに関心がある。伝染病に罹らなかったということは、何か薬の一種だったのだろうか。当時だったら、薬草だったのかもしれない。また茅(ちがや、茅萱)はツバナ(摘花菜とも茅花)とも言われる。端午の節句に供える粽(ちまき)は、茅萱の葉で餅を包んで稲で結んだことから始まっている。そういうことからすると、何らかの防腐剤の役割をしているのかもしれない。

*注

日本の民話に多いことだが、この話は、海外から伝わったものに、日本の神様を重ね合わせて創作されたものと云われている。多分、海外から移民した人々が伝えた話を時代の変遷と共に、加工されて、新しい話に書き換えられたと考えられる。

*追記

この話の裏は、読みようによっては怖ろしいものがある。蘇民一族以外、生き残った人々がいなかったというのは、少し気持ちが悪い。自分に味方しない者は、全て滅ぼすという意思が見えるからだ。武塔神の独裁主義が見え隠れする。

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2008年5月23日 (金)

女の愛嬌とは

「男は度胸、女は愛嬌」と昔から云われてきたが、「女は愛嬌」については、どうも本当の理解は少しニュアンスが違うようである。一般に、愛嬌というと、愛想がよく、お世辞の一つも言って、周囲を和やかな雰囲気にする、という意味に捉えられている。

しかし、確かに、そういう意味も含まれているかもしれないが、「愛嬌」とは、本来、色気のある、はんなりした女性のことを指す。どちらかというと、一見、か細くて、ひ弱さを感じさせる(但し、実際は、中身はそうではない)タイプ限定だ。

別の言葉で言えば、シンの強さはあるが、しなやかさがある女性だ。だから、いかにもぶつけても死なないような元気な女性が、愛想を振りまいても、それは愛嬌とは言わない(笑)。

まずコスモスのような可憐さがありきなのだ。気品高く、清らかで、シンはしっかりしているが、万事が控えめで、慎ましい色気が滲み出るような女性が、愛嬌があると言うのだ。そして、愛する男性には、惜しみなく愛を与える、尽くす女性でもある。

恋人同士の時は、どうしても、自分だけに愛嬌を振りまいて欲しいと思うものだが、パートナーになれば、周囲に愛嬌を振りまいてくれる方がいいかもしれない。それで、男の評価が上がるからだ。

そう考えると、現代は、愛嬌のある女性はなかなか期待できない(笑)。しかしながら、意外なところに潜んでいる可能性もある。それが愛嬌の条件でもあるからだ。それでは、日頃スポットの当たらない、「隠れ」愛嬌のある女性を見つけるとしますか。若い男性諸氏よ、目立つ女性より、とてつもない拾いものをするかもしれませんぞ(*注)。

*注

しかしながら、愛嬌のある女性の心の奥底は知ることはできない。それは『閑吟集』の中にもある。

    えくぼの中へ 身を投げばやと思へど 底の邪が怖い

えくぼは、美人の象徴だが、外見やその心遣いだけで判断すると、間違いがあるかもしれないということ。所詮、女は女。拾いものをしたつもりでも、ゆめゆめ、ご安心めさるな(笑)。

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2008年5月22日 (木)

滅私奉公ということ

昔は官においても民にいても、よく滅私奉公と言われた。私欲や私心をなくして、公に尽くすという意味だが、最近は、あまり聞かない。実は、これは難しいことだ。一つは、その実現。もう一つは、その意味においてだ。

前者は、自分を棄てて、公に尽くすというのは、あるべき姿だが、その域に達するには、相当の哲学と修練が求められる。口だけで、そういうのは簡単だが、実行は難しい。例えば、自分一人だけであれば、まだそれは可能かもしれない。

しかし、家族や守るべき者があれば、迷うこともあるだろう。まだ私と公をバランスをとることはできても、「滅私」というのはなかなかなのだ。その実現には、周囲にも十分説明して、納得を得ることが大切だ。

後者の、滅私奉公の意味において、これはトッブが常に正しい判断をしていることを前提にしていなければならない。誤まっているトップに滅私奉公すれば、それは、ある意味、最悪だ。

これは別の捉え方をすれば、トップが誤まっていれば、それを糾すことも求められる。いわゆる諫言だ。それは簡単にできるものではない。一歩間違えば、路頭に迷うことになるからだ。そういうことを家族や関係者に、常日頃から覚悟させておく必要がある。

結局、求められるのは、「正しい公」とは何か、各自考えることだろう。そんなものは、トップが考えることだと思ってはならない。自分なりに、「正しい公」のあり方を考えるのは仕事をする上で決して無駄ではない(*注)。

*注

と同時に、自分自身がどうあらねばならないか、常々考えて、支えてくれる周囲と話しておくことも大切だ。

* 参考 十七条の憲法  第十五 解釈

十七条の憲法  第十五にも、その大切さが指摘されているが、彼は、「私に背きて公に向かう」と説いている。滅私奉公とは少しニュアンスが違うかもしれない。彼は、官職にある者が私利私欲に走ることを戒めている。一応、参考までに解釈を示しておこう。

「私(利や欲)に背を向けて、公のために心を集中して尽くすのが臣下たる者の道である。おおよそ、人間というものは、私利私欲に走れば、必ず、不満や恨みを持つようになる。このような気持ちを持ち続けると、その他の人々と調和することができない。調和することができないと、私心で、公的な仕事を妨げることにつながる。そして、終には、法を破り、制度に反するようになる。この憲法の第一条に、「上下和諧せよ」と示したのは、まさにこのことを指しているのだ」

* 参考 十七条の憲法  第十五 訓読文

  十五に曰く、

  私に背きて公に向かうは、是れ臣の道なり。

  凡そ人、私あれば必ず憾みあり。

  憾みあれば、必ず同じうせず。

  同じうせざれば、則ち私を以て公を妨ぐ。

  憾起これば、則ち制に違い、法を害(そこな)う。

  故に初章に曰く、上下和諧せよと。其れまた是の情なるか。

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2008年5月21日 (水)

一本釣り

一本釣りとは、網で漁をせずに、一本の釣り糸に一個の釣針をつけて魚を釣ることだが、政治の世界では、政権を握った場合、他派閥の議員を大臣ポストなどを派閥の長には連絡せず、与えて、自陣営に取り込もうとする行為と捉えられている。

さて、薩摩の武将に山田有信という人がいたらしい。流風は詳しくは知らない。彼は島津義久に仕えていた。時は、秀吉が大軍を率いて、島津を攻め込んでいた。山田有信は日向高城に立てこもり、勇戦し、さすがの秀吉軍も手を焼いていた。

しかし、当主の島津義久が、案に違えて、秀吉に降伏してしまったから、たまらない。彼はなおも抵抗を続けた。秀吉は、義久を責め、はやく説得して投降するように命じた。島津の何回かの自著による手紙による説得で、はじめて城から出たということだ。

手紙には、秀吉と講和したのだから、お前だけの存念で戦っても、薩摩全体に迷惑がかかるというような内容だったらしい。

戦後、秀吉は、その戦いぶりと降伏ぶりに感心し、肥後天草4万三千石を与えようとした。人たらしの秀吉なら、やりそうなことだ。自前の部下の少ない秀吉は、直属の部下を増やそうとしたのだろう。

しかし、山田有信は、うんとは言わなかった。「仰せは有り難いけれども、主人、島津義久の領土して頂くのなら、快く頂きますが、私個人の領分としては、決して受け取れません」と受け取ることはなかったと云う。

人間、目の前に人参をぶら下げられると、心が揺れるものだが、彼は、組織における奉公のあり方を十分理解していたのだろう。できそうで、なかなかできないことだが、踏み止まることで、多くを失わなくて済むのだ。

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2008年5月20日 (火)

空気動力自動車(エア・カー)は普及するか

現在、エコ・カーとして、燃料電池車、電気自動車あるいは水素自動車や天然ガス自動車などが検討されているが、市場投入は遅れている。技術革新によるコストダウンにまだ目途がついていないからだ。特に燃料電池車に至っては、本格的な市場投入は十年後ぐらいと言われている。

ところで、フランスのベンチャー企業が開発した空気動力自動車(エア・カー)の製造・販売をインドの自動車大手のタタ・モーターズが計画しているらしいが、日本の企業はどうするのだろう。

圧縮空気をタンクに満たして動力とするらしいが、燃費性能も高く、それなら環境的にも、ハイブリッド車よりいいかもしれない。自動車価格も安く設定されているようだ。日本の価格で言えば、軽自動車を買う感覚だ。もちろん、公表されていない、いろんな障害があるのかもしれない。

そうであれば、市場は限定されるかもしれないが、更に高度化すれば、燃料電池車の市場投入が遅れている現在、この空気動力自動車「エア・カー」の普及も一つの事案として、メーカーは検討すべきではないか。

いずれにせよ、「エコ・カー」市場は、一国の市場に限定すべきものではなく、世界市場で見ていくものだろう。エネルギー・環境問題を考える上では、特に中国、インド市場に対する共同開発が大切なのではないか。必ずしも日本市場で先行する必要もないと思うのだが。

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2008年5月19日 (月)

四川大震災被災地への次なる支援

中国四川省の大震災に日本から救助活動に行かれた人々は、絶望感の中での作業になっている。というのは残念ながら、多くの人々は助からない可能性が高いからだ。早くから救助活動に参加できなかったこともあるが、地震の規模が大きすぎて、急激な被災に手の施しようがないのが事実だろう。

しかし、何もしないよりはした方がいいのに決まっている。あの震災の時もそうだった。当時の日本政府の決断は大変遅く、海外からの救急支援の受け入れは遅れた。結局、海外からの救急支援はほとんど役に立たなかったが、それでも被災者にとっては、その行為一つ一つが有り難かったのだ。

人というのは、自分の存在を確かめるため、横に人がいると気分的に落ち着く。誰かが何かをやってくれていると思うだけで、少し気分が平常心に戻るのだ。もちろん、生き残っても、心身ともに大きな傷を負っており、完全に戻るには、長い年月を必要とする。しかし、支援は無駄ではない。

さて、日本としては、これから何をやればいいのだろう。街頭では、募金集めをする人が増えている。特に神戸は、その気持ちが強い。全てを失くした人の気持ちがわかるからだ。それにしても、今回の被害の規模は尋常ではない。

流風が心配するのは、隣国の政治不安・社会不安・経済不安だ。今のところは大丈夫のようだが、歴史的に、日本は、中国が不安定になると、日本も不幸になっている。ちょうど米国との関係が悪化すると、不幸になるのと同様に。そういう意味では無関心にはなれない。

中国が求める基本的な物資の提供は当然としても、復興のための支援も求められる。しかし、現在、政府は財政赤字だし、国内的には諸問題を抱え、そんなに支援できるわけでもないが、その中で、予算を組み直し、新たな長期的視野での支援を国に求めたい。例えば、現在、ODAは削減中だが、災害復興ODA的なものでの支援は止むを得ないと思う。それも、今後10年間程度の継続的支援が望まれる。

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2008年5月17日 (土)

じゃじゃ馬を乗りこなす

街を歩いていると、時々、「乗馬を経験しませんか」と乗馬クラブの人々から勧誘を受ける。運動神経の鈍い流風にとっては、命取りになりかねないから丁重にお断りしている。

しかしながら、乗馬を趣味とする女性は安産らしい。乗馬でお尻が割れるからだろうか。それともお尻が大きくなるのだろうか。大体、お尻の大きい女性は安産と昔から云われてきた。

いくら器量がよくても、お尻が小さいと、難産になり、産後の肥立ちが悪く、寝込んだりすると、農家では労働力が期待できなくなる。祖母あたりは、農家でもないのに、よくそんなことを言っていた。

さて、シェイクスピア『じゃじゃ馬馴らし』は、じゃじゃ馬のカタリーナをプレイボーイのペトルーキオーが矯正して行く物語だが、いつの時代も、カタリーナのような女性はいる。特に子供時代から甘やかされて育った女性に多い。そう考えると、現代の日本はじゃじゃ馬娘の氾濫ではないか(笑)。

だからと言って、彼女たちの本当の人間性に問題があるかといえば、表面的な態度とは異なる案外純真な一面も持ち合わせている。そうした彼女が変わるのは、心の奥深くに隠された本心をさらけ出す異性が出てきた時とも言える。

また、そういう異性を待っているフシもある。きちんとぶつかってくれる男性を求めているのかもしれない。じゃじゃ馬を装い本心を隠しているとも考えられる。ただ、その表現方法に問題があるから、周囲からは誤解され、煙たい存在に映るのだ。

そういう風に捉えると、じゃじゃ馬は強いカモフラージュでもあるけれども、それさえ見抜けば、意外と扱いは簡単かも(笑)。流風には無理だけどね。でも、じゃじゃ馬を乗りこなす強い意思のある男が出現しない限り、彼女等の春は遠くなるだろう。こりゃ、期待薄だ(笑)。さあ、現代のじゃじゃ馬娘は、どう乗り切っていくのだろう。

*参考 馬に関することわざ等

   ◎ 人気も知らぬ 荒野の牧の 駒だに捕れぱ 終に馴るるもの

   ◎ 馬には乗りて見よ、人には添うて見よ

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2008年5月15日 (木)

嫉妬心は邪魔

このブログでは、女性の嫉妬を題材によく取り上げたが、男の嫉妬も、なかなか怖い。女性の嫉妬はそれなりに怖いが、男の嫉妬は、身の毛もよだつものが多い。しかし、嫉妬が強く作用すると、その組織は機能不全になる。本来、敵は外部なのに、内部抗争にエネルギーを投入するため、組織内がごたごたする。だから、ライバルからすると、付けこみやすい。

十七条の憲法 第十四条では、そのことを強く戒めている。人の能力を羨むのではなくて、相手の能力を正しく評価し、尊重し、それをうまく活用することに意を注がなくてはならない。この世の中、自分が全てやることはできない。分野ごとに能力のある者に任せる必要がある。そして任された者は、自己の責任において、最大限努力し、組織が成果をあげうるように努めなければならない。

そのためには、自分ができないからといって、嫉むのではなくて、自分の存在価値は何なのか改めて再確認して、自分の分野を極めることが望まれる。それが“賢人”であり、“聖人”なのだ。賢人や聖人は、必ずしも全知全能を指すのではない。皆、そのことに気づくべきだ。そうすれば、嫉妬で無駄な時間を空費することもないのだ。

ちなみに、十七条の憲法 第十四条(*参考)を流風なりに現代語に訳してみると、次のようになるかもしれない。

「全ての大臣・役人は、嫉妬することがあってはならない。自分が人を嫉めば、人もまたあなたを嫉むのは人の常である。この嫉妬の災いは、限りがない。すなわち、他人が能力的に自分より優れていると、嫉妬心が起こる。そうなれば、賢人に会おうとすれば、五百年に一人しか現れないし、まして聖人となると一千年に一人しか出現しない。しかし、聖人や賢人を得なければ、どのようにして国を治められるだろうか。」

*  参考 十七条の憲法 第十四条   訓読文

    群臣百僚、嫉妬あることなかれ。

    われ既に人を嫉まば、人またわれを嫉まむ。

    嫉妬の患、その極みを知らず。

    所以に智、己に勝れば、則ち悦ばず。

    才、己に優れば、則ち嫉妬す。

    是を以て、五百歳の後、乃ち賢に遭わしむとも、

    千載にして以て、一聖を待つこと難し。

    其れ聖賢を得ざれば、何を以てか国を治めむ。

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2008年5月14日 (水)

震災復興支援で記憶に残った人々

隣国・中国四川て゜大地震が起こったようである。多くの人が亡くなられ、多くの人が傷ついたようである。亡くなった方々にはご冥福をお祈りし、怪我を負われた方々は早く回復されることを祈念する。

この震災は、他人事ではない。日本にも大地震が予測されており、十分警戒しなければならない。あの阪神淡路大震災も予測外の被害の甚大さであった。所詮、自然には人間は勝てないが、最善の予防措置をとりたいものである。

さて、あの大震災の折、多くの支援者があった。しかし、全ての支援者を記憶しているわけではない。多くの方々からは、被災者にはわからぬまま、支援を頂いたのだろう。ここでは、改めて、お礼を申し上げたい。

以下は断片的に、今回、歌手を中心に少し取り上げてみよう。人間、逆境の時に、手を差し伸べられると、記憶に残るものだろう。企業や所属組織、宗教関係などの指示で動いた方もいるかしれない。しかし、理由は何であれ、行動すれば、記憶に残る。

例えば、地元で関係者が被害を受けた場合は、当事者に近く、支援を申し出た人はいる(以下、敬称略)。例えば、平松愛理、大江千里がそうだろう。その他では、河島英五(現在、故人)、泉谷しげる、嘉門辰夫などが記憶に残っている。それ以外では、森高千里、江口洋介は一緒に。当時、既に付き合っていたのか、それとも、これが機会になったのか、彼らは、その後、結婚している。外国人では、シンディー・ローパー。

彼らは、流風は、当時、ほとんど知らなかったし、ファンでもなかった。しかし、これを機会に彼らの存在を知り、ファンとまではいかなくても、映像に出たり、話題にのぼれば、気になるようになった。今でも、彼らが活躍すれば、素直に嬉しいと思う。

そういうことを考えると、この中国の震災にも、まず災害援助が大切だが、四川の人々も少し落ち着けば、日本の芸能界の人々も応援メッセージを出してもらいたい。尤も、彼らの記憶に残るという下心があってはならないが、純粋に支援したいと思う人々は、メッセージを送った方がいいだろう(*注)。

*注

シンディー・ローパーさんの場合は、震災後、メッセージを送り、後日、来日し、曲を披露している。翌年の豆まきの折にも来日し、話題になった。

*追記

震災を応援してくれた歌手は、もちろん上記の方々だけではない。あくまで、直接接した人を中心に挙げている。それだけに印象が強いのだ。

*追記

ちなみに、流風は、本来、少額の寄付でも嫌いだが、震災の時は、身につまされるようで、わずかばかりの寄付をしており、今回も考えている。

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2008年5月13日 (火)

金は天下の回り物

鎌倉時代のことだろうか、ある人がかなりの領地を所有していた。土地は肥えており、その領主は十分潤っていたが、その生活は地味で驕った生活は見られなかった。

そして、領民のために、いざという時は、蓄積した財産を思い切って使い、領民の信頼を得ていた。そのため領民は決して飢えることはなかったと云う。

彼がある日、馬に乗って出かけて、橋を渡る途中、腰に下げていた小銭袋を川に落としてしまった。僅かの金額だから、供の者は去ろうとしたが、その領主は、松明を買い求めさせ、探させたという。

何ともケチな行いと周囲から嘲笑されたが、彼が言うには、「松明を買い求めたから、その商人は潤い、また戻ってきた小銭もまた使うことになるから、僅かではあるけれども、世の中の役に立つ。川の中に置き去りでは、何の役にも立たない」と、諭した。

このように見ると、一見無駄金と思われるものも、世の中に役に立っているのかもしれない。男は、往々にして、女性の無駄な買い物やサービスの利用をあざ笑うが、それも考えようということかもしれない。金は天下のまわり物ということか。

男から見れば、一見無駄と思われる、女性のブランド物などの高級品や雑貨品などの購入は消費をある程度、経済を活性化させるのだろう。成熟化社会では、女性の消費が鍵を握っているのだろう。そして、流風にも、お金が回って来る?まさかね(笑)。

*追記

このブログは、ある本を昔読んで思い出しながら記したもので、長い間、参考文献がわからなかったのだが、学生さんから問い合わせを受けて、再度調べてみたら、下記の文献が出典とわかりました。文献内容と、文章はかなり異なりますが、参考文献となりますので、改めて追記しておきます。

参考文献 『決断の一言』(風巻絃一著)

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2008年5月12日 (月)

双蝶の舞

二頭のアゲハチョウ(*注1)が仲良く飛んでいる。多分カップルなのだろう。しばらく眺めていたが、なかなか離れることもなく、ずっとお互いが沿うように一緒に飛んでいた。羨ましいなあ。双蝶の舞と言うべきか。軽やかなステップだ。

そういうと、歌舞伎にも『蝶の道行』というものがある。『傾城倭荘子(けいせいやまとそうし)』の五幕目のもので、悲しい話だ。あらすじは、北畠家の当主が陰謀によって殺され、家宝も奪われる。そのため、その若殿と許婚の桃井家息女は追われる身になる。

そこで、北畠家の元家臣の息子佐国(すけくに)と桃井家の家臣の妹・小槙は代わりに処刑される(*注2)。主君に対する忠義とはいえ、残酷な話だ。しかし、封建社会の当時、伝えられる似たようなモデルはあったのかもしれない。

二人は恋仲で、死をもって現世から引き裂かれる。生前、逢瀬のたびに、二頭の蝶が仲良く舞っているのを羨ましく思ったことがあり、死後、まるで、そのことを思い出すように夫婦の蝶になって、道行となる。

現世では、添い遂げられなかったが、昔の楽しい思い出に浸りながら踊り狂うが、所詮、蝶の命は儚い。やがて悪鬼が迎えに来て、連れ戻され、地獄の責めにあいながら、二人は花園で折り重なって息絶える。

封建社会のなんと悲しい物語か、と思う、涙もちょちょぎれる話だ。あのアゲハチョウたちもそうなのだろうか。まあ、そういうことは感じさせることもなく、気持ちよく飛んでいるように見えたが。でも寿命は短い。

それにしても、どんな理由であろうと、引き裂かれると、その恋は純粋なものとして伝えられる。時が、そこで止まるから。あれっ、ロマンチックな話も現実的に。流風には、こんな話、無理かもね。

*注1

蝶の数え方は、正式には「頭」。「匹」ではないらしい。少し変な感じだが。

*注2

まず、小槙が姫君の代わりに、兄に首を打たれ、それを知った佐国が後を追って自害するという筋立てもある。

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2008年5月11日 (日)

東京都の国家管理

長年、地方で活躍してきた企業が、本社を東京に移動する傾向が強いが、それで東京に活力や税収が吸収されるのは納得がいくものではない。更に経営者が東京に本社を移転するのは、必ずしも経営上の理由だけではなさそうだ。

例えば、東京暮らしが長いとか、奥さんに言われてそうしたというのが、本当の理由のことも多いらしい。表面上は繕っているが、随分といい加減なものである。確かに、東京圏は市場が大きく、売上の占める部分が大きいことは否定しない。

しかし、そうだからと言って、簡単に本社を移転していいものだろうか。育ててもらった地域をもっと大切にすべきではないか。別に東京に本社を移転したからと言って、売上が莫大に拡大するわけでもなかろう。

大阪の大手ラーメンメーカーは、創業者が亡くなると、すぐ東京への移転を発表したが、嫌な感じだ。裏切られた気持ちだ。それ以来、このメーカーのラーメンは購入していない。それに、今は、このメーカーのものでなくても、美味しいラーメンはたくさんある。

また統計局のデータを見ると、さらに都市部への人口増加が報告されるが、あまり望ましいことではない。そのようにして、地方の活力が失われる。むしろ東京の企業を地方に分散させる方策が望まれるのかもしれない。地方の自治体も、そういう努力を怠っていたのかもしれない。

しかし、依然として東京圏への人口集中は続いている。そして、それに伴い東京都は税収を上げ続けているが、これは地方の犠牲の上に成り立っている。その税を東京都のためだけに使うのは納得がいかない。

このような傾向が続くのであれば、東京都を国家管理すればいい。東京都の税収は国税として扱えばいいのだ。東京都の税収を地方に還元しない限り、このような考え方は強まるだろう。また経営者も、個人の都合で、安易に東京に本社移動しないことが求められる。

*追記

東京都を国家管理する場合、当然内閣には、東京担当大臣が必要になってくる。

* 平成20年5月17日追記

東京圏で、今回の中国・四川省のような地震が起これば、東京都は別の意味で国家管理にする必要に迫られるだろう。今から法的に準備しておいておいた方がいいだろう。

なお、東京圏に限らず、広域の激震災害の場合は一時的に国家管理する仕組みが求められる。

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2008年5月10日 (土)

美味しいキャベツ

以前は、そんなに食べなかったのに、最近よく食べるのがキャベツだ。最近のキャベツは甘い。特に新キャベツでなくても、甘い。

よく食べるようになって、かつては四分の一カットなどを購入してといたが、最近は丸ごと買うことも多い。若い頃は、丸ごと買っても、腐らせてしまうことも多く、カットものを買っていたのとは大違いだ。

それにキャベツは胃腸薬になっていたように、確かに整腸作用はあるようだ。もともと、お通じはよい方だが、食べた翌日は、更によくなる。

料理としては、そのままスライスして食べるのが一般的かもしれないが、料理店のようには切れない。繊維に沿って切ればいいとは聞くが、なかなかうまくはいかない。スライサーなども購入してみたが、それでもイマイチ。

結局、ビタミンCが失われるらしいが、湯がいて食べることが多い。湯がくと自然と量もかなり食することになる。そのまま、マヨネーズやドレッシングをかけて食べるのもいいが、湯がいて適当に切って、油で炒めて、溶き卵を入れ、再度炒めれば、それなりの料理にもなる。後は、トマトケチャップを少し落とせば、これで一品料理。これはよくファミリーレストランなどにありますね。

野菜炒めにも絶対欠かせないし、ラーメンの具にも使える。このほかにも、湯がいたキャベツは、オリーブオイルとお酢に漬け込んでも、いい。少し、つまみが足りないときは役立つ。カレー屋では、ついている店もありますね。

また先日、テレビで百歳のお爺さんが、キャベツを蒸して食べていたので、試してみると、これもなかなかいける。湯がくとの蒸すのと、どう違うのか、わからないが、いろんなやり方があるものだ。

もちろん、キャベツを豚肉やひき肉などを互い違いに重ねて、共に炊いて、コンソメで煮ても美味しい。それに塩・胡椒して味を調え、ケチャップを加えることもある。

それに関西では、粉ものには欠かせない。お好み焼き、焼きソバには必須だ。こういうのに、キャベツをローテーションで使っていると、いつの間にか、なくなっている。

農家の皆さん、美味しいキャベツを今後も宜しく。

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2008年5月 9日 (金)

食品用プラスチック容器は安全か

母は、食品がプラスチック容器に入っていると嫌がっていた。さらにラップ類は一切使おうとせず、安全性に常に疑問を持ち続けていた。流風は全てのプラスチック容器やラップ類が必ずしも危険とは思わないが、温める場合は、果たして安全なのか疑問に思ってしまう。

あまり買わないコンビニのお弁当の容器も安全なのだろうか。基本的には、温めはお願いしないことにしている。あのプラスチック容器が果たして電子レンジ規格に合っているのだろうか、と思うからである。

専門家によると、電子レンジ規格に合ったプラスチック容器を使わないと、危険な化学物質が含まれている可能性があるとの事だ。危険な化学物質には、酸化防止剤、着色料、紫外線吸収剤などがある。

基本的に、プラスチック容器はなくす方向で検討が必要だが、急にはなくすことは難しいかもしれない。そうなると、消費者は自衛するしかない。要するに、プラスチック容器のまま加熱しないことが求められる。

手間かもしれないが、専用のガラス容器や陶器に移しかえて、温めることが必要だ。そういうことは、結局、自身の健康にいずれ反映されることになるのだろう。

まあ、流風にとっては、いまだ電子レンジを持っていない原始人だし、温めるとしても、自分で作ったものを、鍋で温めなおすか、蒸し器を使うし、あまり関係のないテーマだけれど。それよりも、食品用プラスチック容器包装を減らせないものかなあ。

*平成20年11月1日追記

現在、伊藤ハムのトルエン問題が出ているが、プラスチック包装が疑われている。特に熱処理した食品の包装は危ない気がする。

*平成21年5月18日追記

時々、節約主婦が、食品用でないプラスチック容器を使って、食品を保存しているのを、テレビ等で見るが、これは危ういのではないか。消費者には、食品用も、非食品用も、プラスチックの区別ができていないのではないだろうか。

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2008年5月 8日 (木)

助け合う組織文化

官庁や大企業に問い合わせをすると、たらい回しによくされることがある。この時間の無駄に空しいものを感じる。最近は改善されてるというが、それでも、体質はあまり変わらない。最近は、ある大手銀行にそれを感じた。彼らの体質は全く変わっていない。これはいいように解釈すれば、機能別組織ができているのだろうが、横の連携が悪い。よく言われる縦割り組織の弊害だ。

組織成員にすれば、そのことは重々理解していても、口が出せないことも多いようだ。口を出されるのを極端に嫌がる人々がいるからだ。結局、これらの人々は自分のことだけしか考えていない。自分の立場、面子に捉われて、外部からどう思われようとお構いなし。顧客のことなど全く視野にないようだ。

これらは、基本的には、その組織の文化が、大きく左右する。顧客を第一に置けば、本来こういうことはできない。最近、民間企業では、さすがに、こういうことは減ってきたというが、先の例のように全く変わらない大企業もある。また、官公庁も、昔のようではなく、相当に改善している。しかし、それは一般市民と直接接触をもつ部門に限られるのではないだろうか。

官庁も、まだまだ縦社会だし、機能別組織が強い。一人の公務員が複数の職務を担当するということもあまり聞かない。この問題は、とうの昔の十七条の憲法第十三条にも、指摘されており、時代は変われど、その官庁の体質はあまり変わっていないということかもしれない。前にも触れたが、組織構造を変えない限り、どうしようもないようだ。

一応、参考までに、十七条の憲法第十三条の解釈を示しておく。

「官に任ぜられた諸々の役人は、自分の担当以外の他の仕事にも目を配れ。誰でも、病気したり、どこかに用事で出かけたりして、その間、仕事ができないことがある。

しかしながら、担当以外の仕事も知っておれば、求められれば助けることもできるし、それでチームワークもよくなり、今まで以上に相互を認め合うようにせよ。

決して、担当外は、自分は関係ないと放置し、公務に支障が出るような心構えではいけない。」

*  参考 十七条の憲法第十三条 訓読文

十三に曰く

諸の官に任ずる者は、同じく職掌を知れ。

或いは病し、或いは使いして、事に闕(か)くることあり。

しかれども、知ることを得る日には、和すること嘗てより識れるが如くせよ。

其れ与り聞くことなしというを以て、公務を妨ぐること勿れ。

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2008年5月 7日 (水)

権力の二重構造問題

おおよそ、権力者にとって、自分の領域を侵す権力者は認めない。もちろん、それは守らないと、自分の地位が危なくなるからだ。

例えば、信長・秀吉・家康にしても、最初はキリスト教を容認していたが、彼らがゼウスを主とするということがわかった瞬間から、禁止令を発布している。キリスト教は彼らの地位を脅かす存在と悟ったからだ。

歴史的に見ても、実際、宣教師は、その目的で布教活動をしており、奇しくも、彼らの直感は間違っていなかったことになる(*参考)。

また別の例では、秀吉は、最初、権力保持のため、利休を利用するが、利休が別の権力を持ち始めると警戒し、最終的には彼に切腹を命じている。秀吉にとって、自領域内において、別の権力者は、自らの地位を危くすると感じたからであった。

同様に、今回、騒いでいるチベット問題も同様であろう。一党独裁の中国共産党にとって、チベットのダライ・ラマというのは別の権力者に映っているのに違いない。

共産主義というのは、一つの宗教集団と言えないこともない。そう考えると、この国は政教分離していない。チベットも同様だ。その中で、チベットが新たな政教一致の権力を目指せば、そこに闘争は起こる。

もちろん、チベットに同情できる部分もある。清の時代は、チベット仏教は、帝自ら保護していたからである。中国共産党の政権になって、政策転換があり、それについていけないチベットの人々の思いもある。

また第三者から見ても、中国の統治の方法に若干行き過ぎたものがあったのではないかという疑いは残っている。

だが、よく言われるように、中国にとっては、歴史的に常に外敵との戦いであったから、他の少数民族同様、彼らが新しい権力を持つことを怖れているのも事実だろう。

いずれにせよ、体制内に二つ(あるいは複数)の権力は並存し得ない。単なる統治の問題としては、中国だけを問題視できない。ただ彼らは、行き過ぎを反省し、是正する努力を求めたい。

最終的には、可能かどうかは別にして、相互が政教分離をするしかないと思う。問題は単純だが、現実に解決は単純ではないかもしれない。根本を相互が理解しない限り、単に話し合いでは、平行性を辿るだけだろう。

*注1

一部の日本の女性は、キリスト教に対して好意的に受け止めているかもしれない。しかし、イメージとは異なり、キリスト教は侵略の手段であったことは歴史的事実である。キリスト教で信者を獲得し、手なずけて、彼らを先兵として、侵略するのは、彼らのやり方であった。

更に侵略先に対する差別感覚は大きい。実際、イエズス会は、五十万人という日本の子供たちを世界に奴隷売買として、船に積み込んでビジネスをしたのだ。秀吉は、それに気づき激怒し、信長に、キリスト教追放を進言している。

また、彼らは現在でも閉鎖的で、ミッション系スクールにしても、彼ら信者以外は、教師にしない例も多い。彼らの意図するところと異なる人物は教師として招きたくないのだ。彼らの目的が、現在では、さすがに国家侵略とは言わないが、ある意味、経済的にも、文化的にも「侵略」の意図を捨ててはいないだろう。

現在でも、社会奉仕として貢献しているように見せかけているが、それはイメージ戦略に過ぎない。キリスト教のイメージ戦略に騙されてはいけないだろう。彼らは、あくまで自分たちだけが正しいと思う一神教なのだから、日本文化には本来馴染まない。

*注

ここでは、本来的な「二重」という意味で使っていない。複数の権力が、現在の一つの権力構造下に存在し、それが権力闘争に発展する可能性を例えている。

ただし、下位の勢力が伸長し、実質権力を有するようになって、上位の権力を奪取する場合は、本当の二重構造だ。それは戦国時代、下剋上と呼ばれている。

*平成21年9月4日追記

現在、民主党政権における「権力の二重構造」について、マスコミが囃している。どういうわけか、拙ブログの、この記事に対しても、アクセスが急増している(笑)。

ただ、民主党政権においては、政府と党の代表が機能的に分かれているわけで、そこには、権力の二重構造は発生しない。問題が起こるとすれば、越権行為をした時だろう。

しかしながら、この時期に、問題提起するのは、早すぎる。マスコミが、囃すのは、アラ探しの感を否めない。多分、これらの記事を書くのは、反民主党的な報道関係者が多いからだろう。

ただ、民主党内の問題ではなく、社民党等と連立を組んだ場合の運営方法を誤れば、確かに、権力の二重構造問題が発生する。これは民主党としても、警戒しなければならない。

それにしても、自民党政権にすり寄っていたマスコミ(読売、産経、日経)は、今後どうするのだろう。自民党の復活は、最早あり得ないし。まあ、彼ら新聞社は、適当な時期に、転向するのだろうか(笑)。

もちろん、政権発足して、半年ぐらい経てば、権力チェックの役割はマスコミに求められるのは確かだ。それまでは、わいわい騒ぐこともあるまい。旧政権の担当記者や自民党系政治評論家の慌てぶりを露呈させるだけだ。

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2008年5月 6日 (火)

後期高齢者医療について

後期高齢者医療制度について、例によって、マスコミで侃々諤々やっている。流風は、結論としては、この制度は止むを得ないと思う。ただ、政府の告知の徹底が不十分だったことは否めない。小泉元首相時代に決まっていたのなら、なぜ今まで周知徹底を怠ったのか。問題は、その一点に尽きる。

この制度がなぜ必要かというと、現在の健康保険制度は、主として現役を対象としたものだからだ。今までは、その範囲内で、高齢者も面倒を見てきたが、少子高齢化に伴い、これまでの保険制度では、高齢者の面倒を見切れなくなったということだろう。

もちろん、このことはとうの昔にわかっていたことだが、長い間、御座なりにされていたのだ。国は国民に説明するのが下手すぎる。確かに、国民に負担を求めるのは、政治家にとって、リスクかもしれないが、それを避けたところで、何にもならない。きちんと受益と負担を説明すべきなのだ。それをやってこなかった与野党の政治の責任は重い。

だから、これは小泉改革とは、別次元のものである。一緒くたに悪意を以て考える人たちがいるようだが、それはおかしい。周知徹底ということを軽く考える官僚や政治家の力が落ちていることは憂えるべきことなのだ。

そして、今まで、後期高齢者がきちんと医療機関にかかって、予防に努めてきたかと言えば、それは疑わしい。病気になって、本人だけ苦しむのなら許されるが、多くの医療機関を煩わせることになる。

父だって、毎年の健康診断を怠ったから、病気の発見が遅れ、重大な事態になり命を落としている(*注)。ただし、医療機関を煩わせたのは半年程度だから、国にはあまり迷惑をかけていないかもしれない。もう少し、長生きして欲しかったが。

そうしない意味においても、掛かり付け医を設け、定期的で継続的な診断をしてもらうことは、大切なことで、延命治療も含め、無駄な医療費は削減できるのだ。

確かに、新しい仕組みにして困る後期高齢者は出てくるであろう。だが、その問題は、各自治体が別途手配して個別に救済すればいいことだ。そういう意味では、ある程度、地方に裁量権を国から移すことも求められる。国の画一的政策では限界があるだろう。

後期高齢者医療制度が全て悪いわけではない。根幹の制度として確立し、柔軟な地域判断ができる仕組みを作り上げれば、評価できるシステムになるだろう。マスコミは極端な事例を出して騒ぎすぎる。特殊事例ばかりつついても、政策のグレードアップはできない。政権チェックは必要だが、大所高所かつ、もう少し広く客観性に基づく報道が求められる。

*注

更に不運なことに、父の場合は、以前にも記したが、初期診療の誤診が病気の発見を遅らせている。そして、転院した病院での治療ミスが状態を更に悪化させている。最初診療したのは、中堅の病院。転院した病院は、独立行政法人の病院だ。この時は、医療の質が落ちていることを痛切に感じた。どんな医療機関に掛かるかは、一種の運と言えるかもしれない。

*追記

いずれ前期高齢者も、高齢者医療制度に組み込まれることになるだろう。そのことは、今後ますます高齢者が増えることから、前期高齢者、高齢者予備軍も覚悟が必要だ。

*平成20年7月13日追記

後期高齢者医療について、未だ結論が出ていないようだが、この件に関しては、野党の主張はあまり宜しくない。根本的な議論ではなく、枝葉末葉の議論で政争の具にしていると感じられる。早く結論を出して、野党は妥協すべきだ。後々の運用の問題で、事態を遅らせるべきではない。

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2008年5月 5日 (月)

地方都市の回遊性

東京をはじめ都市の面白さは、いろんな観光スポットが重層的かつ多面的に存在することだろう。そういうことが、いろんな人々を惹きつける。身近な例で言えば、神戸が、なぜ楽しいかと言えば、海と山が近く、文化の匂いを漂わせながら、いろんな楽しみを味わえるからだろう。

そういう意味では、神戸はイメージ戦略に成功した都市と言えよう。もちろん、その根底には、いろんな試みの積み重ねがあるからだが、その他の地域においても、回遊性の楽しさは求められる。兵庫県内の例(今回は田舎の例は除外。考え方は基本的に同じ))を挙げながら考察してみよう。

まず一点豪華主義の地域では観光に限界があることを指摘しておこう。先日、菓子博で寄った姫路は、姫路城中心主義だ。会場は姫路城の近くだし、この催しが、なぜ姫路城周辺で行われるのか理解に苦しむ。姫路城観光が目的で来た人々には迷惑なことだろう。

観光拠点を分散し、観光地の回遊性を増すべきだろう。今のままでは、観光リピーターは期待できないだろう。もちろん、姫路は姫路城があるだけまだましだと言う人もいるだろうが、いつまでも、姫路城におんぶに抱っこでは、この地方の観光の発展性には疑問を持たざるを得ない。

次に、明石には、駅の北側に明石城と明石公園があるが、姫路同様、明石城周辺だけでは限界があるだろう。駅南側には魚市場として魚の棚商店街があるが、それは明石焼きと共に観光化に成功しているが規模が小さい。この程度のスポットが、あと5,6箇所は欲しい。

小さいポイントでも、こまめに開発して、つなげて、アピールしていけば、それなりに観光地になる可能性はある。後の課題は、回遊性確保と他の地域との連携にある。自地域でどうしても観光ポイントが見つけられなければ、他地域との連携は必要だ。

芦屋のように観光地の少ない地域は、本来住宅地のため、観光化は考えていないかもしれないが、地域活性のため、他地域と連携強化して、回遊性のためのコース開発を強化した方がいいのではないだろうか。

芦屋は、住宅地中心で、観光地域としては、あまり面白くない。せいぜい、JR芦屋周辺の商業施設や文化施設ぐらいで、海側にも文化施設があるものの、その内容はイマイチだ。その他の地域と連携しているというが、回遊性の魅力があるとはいい難い。ただ、住民が観光を望まないのであれば、それはそれで仕方ない。ただ今のままでは、全体が地盤沈下を起して行くだろう。

西宮の場合も、文教地域で住宅地という面が強いが、芦屋より学校の数が多いということは、やはり、それなりに文教地域も観光の枠内に入れて、観光地化することも検討が必要だろう。

例えば、一部試みがあるようだが、旅行のコースに大学のショートセミナーが組み込まれるとか、ちょっした文化的催しが鑑賞できるとかが、もっとオープンにされてよい。大上段に構えた公開セミナーもいいが、もう少し気楽なセミナーがあっていいし、学食などを経験できれば、よりいい。さらに複数の学校施設を組み合わせれば、面白いものができ、回遊性も増すだろう。少子化時代に、大学にとってはアピールの機会にもなり、一石二鳥ではないか。

最後に兵庫県ではないが、大阪市について考えると、回遊性はあるが、基本的に猥雑性の強い街だ。都市の魅力には、確かに欠かせないのもだが、それだけが強すぎると、却って敬遠されることもある。実際、治安の悪さは、大阪スルーの原因でもある。大阪に求められるのは、見えない形で統制された猥雑性の維持だろう。

また大阪はアジア的いい加減さが魅力でもあるが、大阪的発想に籠らない事も求められる。すなわち、他の都市同様の常識が求められるのだ。それまでは、大阪の自意識を棄てられず、大阪の再生はなかなか進まない可能性もある。大阪の良質の猥雑性を維持しつつ、回遊性のバージョンアップと観光品質を高めることが大事だ。

このように考えていくと、いずれにせよ、その他の地域も、地域の個性を大事にしながら、多様な人々を呼べる仕掛けが求められる。そして、一点豪華主義を目指すことは避けてもらいたいものだ。

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2008年5月 3日 (土)

食べ物の使い回し

子供の頃、流風の食べ残しを、母は、勿体無いと言って、食べていた。基本的に食べ残すということは、父の前では決して許されなかったが、母は私が調子が悪いと、「無理せんでええ」と言って、代わりに残りを食べていた。

父は、食べ残しを嫌い、特に自分で皿に取った分を残すと、烈火のごとく叱られた。「お前は自分の食べる量も計れないのか」と。とてもそんなことがわかるとは思えない年齢の時からだ。

ただ外食で定食のような物の時は、「食べられなかったら、残してもええ」と言われた。中身は自分で決めたものではないからだ。単品物の食べ残しは不可だったので、父と外食する時は、いつも定食を頼んでいた気がする。

さて、あの船場吉兆が、食べ残しを使い回ししていた事実が判明し、大騒ぎしている。しかし、有名な料亭はともかく、かつて外食産業が使い回ししているのは当たり前だった。子供の時も、両親は、「外食は、使い回ししている所がほとんどだから、子供には食べさせられへん」とよく言っていた。当時、それは当たり前のようだった。

最近の外食産業のことは知らないけれど、今回の事を聞いて、ああ今でもやっているんだと思った。吉兆は箸をつけたものは使い回ししていないと言うが、中華料理店では、客が食べ残したものも、もう一度戻して加熱しているという噂があった。

最近は、そういうことがないと願いたいが、かつて深夜、外食店の厨房を見せてもらったら、ゴキブリが大量にうようよしていて、とても外食では物は食べられないと思ったことと重ね合わせて考えると、外食するには勇気がいると今更ながら感じる。

外食で何を食べさせれているかわかったものではないということは消費者も頭に入れておいた方がいいということか。ということは、何も知らないほうが幸せかも(苦笑)。まったく困ったもんだ。

*追記

次々と外食産業の使い回しが発覚している。やはりずっと続いていたようだ。本当に困ったことだ。

また外食産業の提供の仕方も考えなくてはならない。食べきれないほどのものを提供するのは問題がある。一番有名なのが、温泉旅館等の派手な料理だろう。とても食べきれるとは思えないほどの量が出る。高齢者であれば、余計に無理だ。

たくさん提供して、高い料金を取るやり方を見直す必要があるだろう。すなわち、少ない量の料理の組み合わせにすればいいのだ。あるいは中心の基本料理にオプションで顧客に選ばさせたらいい。

残したものを使いまわすのも問題だが、食べ残さざるを得ない料理の内容と量を考えるべきだろう。提供者の力が問われている。

*平成20年5月28日追記

船場吉兆が廃業とのこと。止むを得ない。時代を読み違えたのだろう。あの女将の不遜な態度もいけない。彼女が会社に残ったことで、存続が難しくなったといえる。まったく新しい経営者で再興が望まれる。そして、料亭などは高い料金を取るのだから、もっとプライドを持って仕事をやってもらいたいものだ。市井の料理屋ではないのだから。

*平成25年12月1日追記

某有名とんかつ店で、客に出したキャベツの残りの使い回しが発覚。このとんかつ店は、若い頃、よく利用していただけに、がっくりだ。もう二度と、この店のチェーン店は利用しない。船場吉兆同様、廃業してもらうしかない。

こういった話は、もう、うんざり。使い回しは昔から聞く話だけれど、未だに改まらない。こうしたことが、全ての外食産業に疑いの目が行く。業界として、いい加減に体質改善しないと、消費者から、そっぽを向かれる。

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富岡鉄斎展

先日、南画家とは知らずに、散歩がてら、「富岡鉄斎展」(~5月6日まで)を鑑賞してきた。財団法人辰馬考古資料館で毎年開かれているものだ。彼の作品は、宝塚にある鉄斎美術館にたくさんあるが、この小さい博物館にも、辰馬家と親交のあった鉄斎の作品は割りと所蔵されているようだ。

今回は、特別出品の六曲一双屏風「阿倍仲麻呂明州望月図・円通大師呉門隠栖図」(重要文化財)の内、円通大師呉門隠栖図が展示してあった。別室には、両方のコピーが展示してあり全体像は把握できるようになっている。

彼らは、中国に留学して、日本に帰国できなかったか、あるいは帰国しなかった人たちである。鉄斎は、一体、どういう思いでこれを描いたのか。阿倍仲麻呂については解説はいらないだろうが、円通大師について若干触れておこう。

三河守大江定基は出家して、源信の弟子になり、後、中国の宋に入り、真宗に接し、やがて円通大師の称号を与えられる。彼は、中国語を理解しようとしなかったのか、全く話せなかったようだが、漢字のやり取りで、全て通じたという。藤原道長が帰国を促したが、帰らなかった。この図は蘇州の呉門寺に隠栖している彼を描いている。

その他の作品としては、「観世音菩薩像」「天鈿女命神楽舞図」「魚籃観世音図」などが展示してある。

*  財団法人辰馬考古資料館

    阪神電車 櫖枦園(こうろえん)駅下車 北に歩いてすぐだ。 

    夙川沿いの散歩のついでにも最適だ。 

    http://www.hakutaka.jp/tatsuuma/ 

*  鉄斎美術館

    阪急電車 清荒神駅より参道を約20分歩く。

    坂になっており、暑くなるとちょっと辛いところもある。

    土産物屋を見ながら行くと、いつの間にか着いている。

    http://www.kiyoshikojin.or.jp/tessai/tessai.html

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南画の世界

ピカソの絵は、若い頃、へんてこりんな絵だなと思って無視していた。多分、今でも、彼の意図は理解していないだろうけれど、流風的に理解すれば、それは時間的、空間的変化と、それの重層的展開ということになるかもしれない。過去、現在、未来をいろんな形で空間を捉え直し、描いているのではないか。それは彼の心象風景ということかもしれない。

さて、話は変わるが、水墨画展の案内状が時々送られてくる。流風も、何となく好きなものだから、よく観に行っている。いろんな流派があるらしく、描き方はと様々だ。日本と中国では、また違うようだ。日本は中国から水墨画を学んだが、そういうものを踏襲しつつ、日本的な手法を編み出しているというが、流風には、わからない。

その水墨画にも、写実画とその心の反映の画、すなわち南画に分けられるらしい。日本にも、水墨画の世界にピカソと同様な絵画の世界があったらしい。すなわち南画は江戸時代に、それまでの絵画手法に飽き足らなくなった人々が、中国の南宋画を参考に、描いたそうだ。

今まで、水墨画はよく鑑賞したことがあるが、南画という意識では観ていない。そういう分野があるとは知らなかったからだ。改めてそういう分野があることを知った。人間、知らないことは尽きない。それとも知らないのは流風だけか。

それはともかく、南画を描く基本は心を鍛えることだという。ピカソ同様、心象風景を描くのだが、そのベースに哲学のようなものが求められる。その辺が、彼の絵と違うのかもしれない。ピカソに哲学がないとは言わないが。

その展覧会が、兵庫県立美術館で「南画って何だ?!」というテーマで開催されている(~6月8日まで)。美術館が、ダジャレを使っているのは笑える。この美術館のホームページ(*参照)で、南画について詳しく解説されているので、ここでは、これ以上詳しくは記さない。

この美術館は、近代・現代アートの展示が多く、あまり観に行かないのだが、今回は行ってみようと思う。さすがに連休は止めにしておこう。それにしても暑いなあ。ツツジは満開で蜂は喜んでいるが。

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2008年5月 2日 (金)

詩を競う

声を出すということは、健康にいいらしい。流風は嫌いだが、カラオケも、それなりに効果があるのだろう。最近は、あまり聞かないが、詩吟や謡曲も同じことかもしれない。

先日、初めて知ったのだが、『詩のボクシング』という催しがあるらしい。ボクシングに見立てた会場で、二人の朗読者が自作の詩を身体全体を使って朗読して、競うものらしい。昔から、和歌の世界では、歌合せというものがあるが、それを詩の方面に現代的にアレンジしたものだろうか。

もちろん、判定はあるわけだが、その催し自体が面白い企画だと思う。判定は、時の運ということもあるだろう。評価は、その時、その時で異なるからだ。そういうことをあまり気にせず、参加してみるのもいいかもしれない。

それだけでも、自作の詩の公表の場を与えられ、それを声に出すのだから、頭の健康にも、身体の健康にもいいだろう。流風は、詩作はやったことがないし、そんなにいいものはできないだろうけど、老化防止のため、やってみようかね。

*『詩のボクシング』公式サイト

   http://www.asahi-net.or.jp/~DM1K-KSNK/bout.htm

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2008年5月 1日 (木)

私腹を肥やすな

一部と思いたいが、公務員が私腹を肥やしている。それは何も業者から賄賂を受け取るだけを意味しない。既得権の確保に血眼になり、組織をいかに温存するかに腐心し、そこに付け込む業者と馴れ合いになり、税金の無駄遣いをしていることも、私腹を肥やすことに他ならない。

十七条の憲法第十二条では、税の二重取りを禁止している。一応、その内容をみると以下のようだ。

「国司や国造は、勝手に百姓から税金を徴収してはならない。国に二君はなく、民にも二人の君主は存在しないからだ。日本の国民は、天皇が主である。任ぜられた官吏は全て天皇の家臣である。国司や国造は公職の身でありながら、百姓から税を徴収することはあってはならない」と。

今の日本では、一応仕組み上、上記のようなことはできないが、税の無駄遣いは横行している。また社会保険料の無駄遣いも指摘され、その補填に税を投入するという馬鹿げたことも行われている。職員の不正の補填までも税が投入されたりして、管理責任が問われないこともある。これらは、ある意味、税金泥棒だろう。

もちろん、全ての公務員がそうだとは思わないが、縦社会の組織では、組織の成員は、既成のシステムにのって、その方向に惰性で流されやすい。組織そのものを見直さない限り、これは改革できないだろう。すなわち、もう少しフラットな組織にすることだ。そして、中間管理職はなくす。これは顧客満足を考える民間企業では当たり前のことである。

組織トップは、確かに多くの成員を管理するのは大変だが、今はITというものがあり、それほど困るわけでもない。早くその組織にして慣れることだ。いつまでも、ピラミッド組織の時代でもあるまい。トップや管理職は、もっと働かなければ、公務員組織は更にリストラされる運命にある。それもピラミッド組織のままリストラされれば、いずれ機能不全になる。早く組織転換が望まれる。自らできないのなら、法律を作って、強制的に転換される必要があるだろう。

*参照 十七条の憲法第十二条 訓読文

       十二に曰く

       国司・国造、百姓より斂(おさ)めとること勿れ。

       国に二君なく、民に両主無し。

       率土の兆民、王を以て主と為す。

       任ずる所の官司は、みなこれ王臣なり。

       何ぞ敢えて公のために百姓を賦斂せむや。

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