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2008年5月28日 (水)

波乱の人生(下) ジョセフ・ヒコ

その後、彦太郎は民間人として、次々と米国の三人の大統領と会見することになる。まず、1853年には、大統領のピアースと謁見している。日本人として、正式に米国大統領に会見したということなっている。謁見の詳細内容は不明だ。ただ言えるのは、大統領は、単に、物珍しさで会ったのではなかろう。多分、ここから、彼の運命に新たな変化が起こる兆しだったと考えられる。

すなわち、その後、1854年10月30日に、サンダース夫人の強い勧めもあり、キリスト教の洗礼を受け、それ以後、音の響きのよい「ジョセフ」のクリスチャンネームを使い、「ジョセフ・彦」と名乗るようになる。これで米国社会に受け入れられる素地が出来たわけだ。

人生で一番大切な時期に、キリスト教に触れ、学校で聖書を学んでいるし、サンダース夫妻に世話になっているわけだから、これは自然な流れだったのだろう。すなわち、彼は人生の途中から米国人として、育てられた結果ということだろう。それが運命のいたずらとしては止むを得なかったのかもしれない

1857年には、大統領ブキャナンとも会見。残念ながら、これも会見内容不明だ。ただ、その後、1858年6月30日には、サンダースの勧めもあり、日本からの帰化第一号として米国の市民権を得ている。大統領と会見したことが意味を持ったのかもしれない。

これで、米国は、一人の日本人を取り込んだことになる。少なくとも、二つの国の言葉を話す人材を得たことは大きい。ただ彦太郎が遭難した時は、13歳。どれくらいの日本語の読み書きが出来たかは不明だ。しかし、日本語を話せることは大きい。

1859年6月、アメリカ領事館の通訳として、米国人として、「来日」という帰国。当時、キリシタンに対して、幕府の目は厳しかった。彼は、既に米国流の仕草を身につけており、日本人としては遇してくれず、外国人として扱われ、孤独の日々を送る。ただ、そうするしか入国の手立てがなかったのも事実だ。だから、帰国子女みたいなものとはまた違う。むしろ、浦島太郎状態に近かったと言った方が的確かもしれない。

だが、「米国人」にはなりながら、新しい知見を得て、日本の開国には強い意思を以て貢献しようとしている。ところが、貢献すればするほど、外国の片棒を担いでいると捉えられ、攘夷派の人間に命を狙われるはめになる。おおよそ誤解というものはそんなものだろう。コミュニケーションの不十分さから来るものだ。

それに当時は、外国人だという理由だけで、殺される事件が起こっていた時代だ。まあ、それはわからんでもない。当時、鎖国中の日本としては、外国に対する警戒は異常に強かっただろう。彼は、やむを得ず、それを逃れようと1861年、脱出のため再渡米する。

渡米後、1862年3月31日に、エイブラハム・リンカーン大統領と会見。リンカーンは大きな手で握手して、日本の開国前の状況についていろいろ尋ねたらしい。そして、民主主義のあり方を直接伝授しているという。例の有名な演説と同じ様な内容だったのだろうか(*注)。そして、リンカーンにどういう意図があったのか知る由もない。単に一米国人に対する教えだけだっのだろうか。

ただ、彼は、その後も、望郷の念強く、1862年10月13日、再度日本に帰る。しかし、国内の状況は変わっていなかった。その後、領事館の仕事をする限り、命を狙われると覚り、辞職を決断。当初、外国人向けの英字新聞の事業を始めることになる。

しかし、まもなく方向転換して、1864年6月28日、横浜の外国人居留地内で、我国初の民間の新聞「新聞誌」創刊を決意する。英字新聞を日本語に翻訳。しかし、情報収集は幕府の警戒と監視が強く、ままならなかったようだ。それでも、協力者を得て、世の中の事実を国民に正しく伝えることに奮闘する。

内容は、各国の貿易の動きや商品相場の変動、米国概略史、外国の広告などであった。月2回の発行で、部数は100部程度だったという。また営利目的ではなく、あくまで世界の状況を報せる啓蒙活動であった。一種のボランティア活動ですな。

1865年5月に、「海外新聞」と改題。月2回発行。だが、赤字だった。1866年11月、その居留地内で火事のため、協力者の転居に伴い、新聞発行断念。号数は26号で終わった。大体、強いスポンサーがなければ続かないのは今も同じ。

1866年12月、長崎に転居する。英国商館と鍋島家をセッティングしたり、高島炭坑の共同経営の設立に関与したりしている。1867年(慶応3年)には長崎に、木戸孝允と伊藤博文が訪ねてくる。そして米英の歴史、制度、政治の仕組みなどを彼に質問している。彼はいろいろ伝えたようだ。

1868年9月22日に18年ぶりに帰郷している。1869年には、大蔵造幣局創設に尽力し、大蔵省に勤め、国立銀行条例の編纂に関わっている。今でも、いろいろ取り沙汰されるが、日本の紙幣作りに、彼の影響が今でも残っているのではないだろうか。一度、じっくり、紙幣を見てみますか。

1897年(明治30年)12月12日、心臓病で死去。享年61歳。墓は外国人として扱われ、青山の外国人墓地に葬られた。日本人として死ねなかった彼の心情はいかばかりだろう。

日本人としては認められず、でも米国人にもなりきれない。人生の中途から半端な運命に翻弄され、彼の苦悩が推し量られる。しかし、それでも多くの困難を抱えながら、日本のために時代を切り開いた。兵庫県の先人に、ジョセフ・彦のような人物がいたことに県民として誇りを持ちたい。

*注

原文は、“Government of the people, by the people, for the people”

「人民の、人民による、人民のための政治」と、かつて学校で教えられた翻訳では、正確に伝わらないかもしれない。今では、どう教えているのだろう。

また浜田は、日本に帰国後、このゲティスバーグのリンカーンの演説とその反響をニューヨークタイムズで知ることになったという。だから、会見時には、そのような表現がリンカーンによってなされたかどうかは不明。ただ、これに近いことは教えられているだろう。

そして、彼は、新聞の影響力を始めて実感したことが、新聞発行の動機付けになったのだろう。

*参考文献 播磨町 ジョセフ彦

      http://www.town.harima.lg.jp/profile_senkakusya_josefu

*平成24年12月30日追記

小惑星に、ジョセフ・ヒコにちなみ、「Heco(ヒコ)」と命名されたようだ。兵庫県播磨町が、東亜天文学会会長の関学氏が1990年に発見した小惑星に、命名を要請し、関氏が快諾したことにより、命名された。氏は、「日本の夜明けの時代に貢献した人物」ということで了解したようだ。すでに国際天文学連合(IAU)により承認されている。ちなみに小惑星は、水瓶座の19等星だ。

*平成25年10月14日追記

ジョセフ・ヒコの新聞に関連して、『ヒコのの新聞と錦絵新聞』という催しが播磨町郷土資料館でなされている(平成25年12月1日まで)。そこでは彼の新聞と錦絵新聞のの特徴が紹介されている。

一、幕末の新聞は、和紙を使っていた。故に、両面印刷ができず、二つ折りにする冊子型だった。

二、明治五年創刊の「東京日日新聞」は、難しい文体で、購読料も高かった。しかし、明治七年に発行された「東京日々新聞」は、錦絵で表現され、庶民に受け、瞬く間に広がった。

三、「東京日々新聞」に対抗して「郵便報知新聞」が出版される。そのようにして錦絵新聞が流行する。

四、錦絵新聞は、大阪でも発行されるが、その大きさは東京の半分だった。東京では、筆者と絵師は分業だったが、大阪は兼任だった。

*平成29年1月4日追記

今年、2017年は、ジョセフ・ヒコが亡くなって120年。ということは、丁酉年に亡くなっているから、ちょうど今年で二回り。彼を偲んで何か催しがあるのだろうか。

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