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2008年5月27日 (火)

波乱の人生(上) ジョセフ・ヒコ

戦前、民間人で、3人の米国大統領に会った男がいる。もちろん現代であれば、そういうことは政治家とか外交官でなくても、可能かもしれないが、それは運命が惹き起こした苦難の道の結果だった。以下、備忘録的に記してみよう。

その名はジョセフ・彦だ。日本名は、幼名彦太郎で、後に浜田彦蔵と名乗る。ジョセフ・彦は米国で洗礼を受けた名前だ。日本で始めて新聞を創刊した人で「新聞の父」と云われる。しかし、その業界の人や関係者を除けば、あまり知られていない。彼の生涯は、流転と言えないこともない。

彼は播磨国(現・兵庫県)加古郡阿閇村古宮で、1837年(天保8年)8月21日生まれで、幼名彦太郎だが、幼い時に、漁師の父が病死。母親が、隣村の本庄浜田に再婚したため、後、浜田と名乗る。13歳の時、母が病死。失意の中、義父に連れられ、神戸・灘浜の樽回船・栄力丸に一緒に乗り込む。栄力丸は、1450石積で、16人(他に1人)が乗り込んでいた。

ところが、1850年(嘉永3年)10月29日夜、江戸見物から帰航中、彦太郎だけ同村の知人の船に乗り換えて、旅を続けるが、ここから、彼のまさに波乱の人生が始まる。

すなわち、志摩沖で暴風雨に見舞われ、難破し、船は自走力を失い漂流。その後、太平洋を40日余りも漂うことになる。絶望の淵に追い込まれた時、通りがかりの米国商船オークランド号に救助される。黒い船だったという。

彼らは親切で、フランクに話しかけ、食べ物を与えてくれたという。言葉もわからず、はじめて外国人に接した乗組員たちは、戸惑うが、彼は一番若かったので、英語も、少しずつ理解していったようだった。しかし、当時日本は鎖国中。オランダ船と中国船以外は入港できない。止む無く、翌年、1851年2月サンフランシスコまで運ばれることになる。彦太郎13歳だった。

米国は、当時、日本に開国を要求するためペリーを提督とする軍艦を派遣しようとしていた。ちょうど、そんな時に、彼らが迷い込んできたので、彼らを利用しようとした。すなわち、彦太郎達を無事送り返し、国交開始のきっかけ作りにしようとした。

そこで、1852年ペリーの東洋艦隊にマカオで乗せる段取りをつけた。しかし、ペリーのマカオ着が遅れたため、止む無く、彦太郎は再度渡米する。その背景には、マカオで同じに目に遭って、帰国がままならない者から、帰国の難しさも聞いているようだ。当時、外国文化に触れた人間を、その帰国を認めなかった様子がうかがえる。それほど難しい国内状況だった。そういうことも、再渡米を促している。

再びサンフランシスコに着いた彦太郎は、米国の水夫仲間に下宿屋などの仕事を紹介されていた。それを地元有力者で、子供のいなかった税関長サンダースに可愛がられ、引き取られることになる。

そしてワシントンやニューヨークなどに連れて行かれる。彼は文明の発達した米国社会を見て驚くことになる。大きな建築物、電信、汽車など見るもの全てが驚きの連続だったようだ。更にサンダースの支援で、ボルチモアのミッションスクールに行くことになり、そこで聖書・英語・算数を学ぶ。

(下)に続く。

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