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2008年5月24日 (土)

茅の輪伝説

よく知られた話だが、茅の輪(ちのわ)の由来をメモ的に取り上げておく。茅の輪は神社の茅輪祭で見られる。旧暦の6月30日に行われる例祭だ。正月から6月までの罪穢を祓う大祓に茅の輪が使われる。左回り・右回りと八の字を書くように、三度潜り抜けたらよいとされる。

その由来(*注)は、蘇民将来と武塔神にある。蘇民将来は、少し前に岩手県黒石寺の蘇民祭で男が裸になるということで問題になっていた。千年も続いている祭りに、クレームをつける人々がいるとは信じられない。それとも、祭りの内容が変質しているのだろうか。深いことはわからないが、伝統は正しく守られるべきだろう。一時的な感情で、変えるのは望ましくない。

さて、話を戻すと、この武塔神とはスサノオノミコトのことだ。スサノオノミコトが妻を求めて旅の途中、あるところまで来ると、日が暮れて、宿を探した。嫁探しに旅行ねえ。まあ、今でも、人生、そういうことかもしれないが。

当時、そこには、蘇民将来・巨旦将来という兄弟が住んでおり、兄の蘇民将来は非常に貧しかったが、弟の巨旦将来は大変な金持ちだった。兄弟のうち、どちらかが恵まれ、どちらかが貧しい。昔話には、よくある話だ。そして、今でもそうだろう。両親、特に母から、よくそのような話は聞かされた。

武塔神はスサノオノミコトであるということを隠して、最初に弟の巨旦将来の所に行き、泊めてくれとお願いするが、巨旦将来はケチだったので、すぐに断られる。よくある話だ。大体、身分を隠して、相手の本性を試すのは、今でも通用する。以前にも、記したが、外見で判断する人たちを試すと面白い結果が出る。

仕方なく、貧しい兄の蘇民将来のところに行って頼むと、「こんな所でよければ、何のおもてなしもできませんが」と快く泊めてくれた。食事も、粟飯という粗末な物だったが、薦めてくれた。武塔神は夜が明けると、すぐに旅立った。

8年たった、ある日、武塔神が再訪してきて言うには、「あの時にはお世話になった。今日はその御礼に来た」と言う。何をするかと見ていると、茅を竹に巻きつけて丸い輪を作り、蘇民一家の人々の腰に付けさせた。変なことをするなあ、と思いながらも、その夜は更けた。

夜が明けると、蘇民家以外の人々は疫病で全て亡くなっていた。蘇民家の人々は生き残っているのが自分たちだけとわかってびっくりしている所に、武塔神が現れ、「実は私はスサノオノミコトである」と身分を明かし、「悪い病気が流行れば、蘇民将来の子孫だということを書いた紙を門口に貼り、茅の輪を腰に付ければ、病や悪いことから免れる」と言って、何処ともなく去っていった。

さて、茅の輪が一体、何だったのだろうか。流風は、そこに関心がある。伝染病に罹らなかったということは、何か薬の一種だったのだろうか。当時だったら、薬草だったのかもしれない。また茅(ちがや、茅萱)はツバナ(摘花菜とも茅花)とも言われる。端午の節句に供える粽(ちまき)は、茅萱の葉で餅を包んで稲で結んだことから始まっている。そういうことからすると、何らかの防腐剤の役割をしているのかもしれない。

*注

日本の民話に多いことだが、この話は、海外から伝わったものに、日本の神様を重ね合わせて創作されたものと云われている。多分、海外から移民した人々が伝えた話を時代の変遷と共に、加工されて、新しい話に書き換えられたと考えられる。

*追記

この話の裏は、読みようによっては怖ろしいものがある。蘇民一族以外、生き残った人々がいなかったというのは、少し気持ちが悪い。自分に味方しない者は、全て滅ぼすという意思が見えるからだ。武塔神の独裁主義が見え隠れする。

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