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2008年6月24日 (火)

占いには裏がある

おおよそ、この世の中を見る方法に二元論がある。これが正しいかどうかは別にして、見方として存在している。例えば、天があれば地がある。上があれば下がある。表があれば裏がある。男がいれば、女がいる。別に、これらを否定する人はいないだろう。そういう風にして、人々は区別してきた。すべては「全」という見方もあるが、それでは目印がなく、人は生きにくい。

この裏表を利用したのが、「占い」だろう。占いは「裏ない」でもある。しかし、わざわざ、そういうところに、胡散臭さが伴う。「裏ない」ということは、「裏あり」に通ずるものがある。情報なしに、人を占うのは、不可能に近い。人相見だって、人の顔を見ながら、相手の心理を読み取っている。占い師は、相手との会話から情報を読み取り、世間話から答えを引き出そうとしている。

落語にも、『お神酒徳利(おみきどくり)』というものがある。あらすじは演者によって、登場人物が異なる。(*参考)。しかし、基本的な筋は同じだ。以下に、知っている、あらすじを紹介しよう。

ある大店で、すす払いの十二月十三日に、台所に洗いかけの、お神酒徳利が転がっていた。それを出入りの八百屋(番頭とする場合もある)が見つけて、いたずら心から、水瓶の中に隠した。そのことは忘れて、帰ってしまうが、店では、お神酒徳利がないと大騒ぎ。

まあ、お神酒徳利で、大騒ぎするとは、何か謂れのある徳利だったのでしょう。落語では、それを省略しているのもあるし、神君、家康公からの賜り物とか説明しているものもある。そういうのを有難がる人々もいるのは確かだろう。

八百屋は家に帰って思い出すが、大騒ぎになっているので、今更、自分がやったとはいえない。そこで、占い師の娘であった、おかみさんに相談すると、「算盤占い」をして出せばいいと入れ知恵をする。八百屋がその通りにすると、大店の主人は見つかって大喜び。

現在、算盤占いは、あまり聞かないが、珠の出具合で占うものだろうか。広辞苑にも掲載されているから、昔からあったのは事実のようである。この占い師の娘のおかみさんが、現実的な人であることは、後の話しでわかる。

主人から、「お前が占いをするとは知らなかった。三島にいる弟が、迷いが生じて、よい占い師を紹介してくれと書面が来ている。ちょうどいい機会だから、一緒に行っておくれ」と頼まれるが、これには、困って家に逃げ帰るが、おかみさんに、「適当にやればいい。たんまりのお礼も頂けるのだし」と説得され、渋々三島に行くことになる。

人間、迷いが生じるのは、よくあることだ。皆が皆、最初から悟っている人など誰もいないだろう。迷うのも人生。それをどう凌ぐかが分かれ目なのだが。三島の人も迷っているようだが、八百屋も迷いながら、現実的なおかみに背中を押されて、行動を起こしている。世の中、せいぜい、そんなものだ。

途中、小田原の旅籠に泊まったところ、大騒ぎしている。聞けば、客のお金百両が紛失したとのことだ。それを聞いた同行の主人は、早速、旅籠の主人に八百屋のことを紹介する。

これは大変とあせった八百屋は、これはたまらんと、逃げる算段をする。「籠るため一人にしてくれ」と言って、離れをあけてもらい、占いに必要な算盤や、お供え用として、握り飯十個や提灯を用意させ、人を遠ざける。辺りはすっかり暗くなり、そろそろ逃げ出そうとした所、誰かがやってくる。

人間、崖っぷちに立ったとき、意外と幸運がやってくることがある。そういうことがあるから、最後まで諦めないことが大切なのだろう。まあ、人間、もう駄目、という経験をすると、もうどうにでもなれ、と開き直るから、何かが見えてくるのかもしれない。

見ると、真っ青な顔をした宿の女中のお梅がやってくる。実は親元から母親が病気と知らされ、つい出来心で、お金に手をつけて、庭にある、手入れされていない、お稲荷さんの床下に隠したという。彼女は、「そのことは、内分にお願いします」と泣いて言うので、「安心しろ。何も言わないから、その代わり、お前がここに来たことは決して何も言うな」と口止めする。

これで、占いの裏は取れたわけだ。後は、自信をもって告げるだけ(笑)。

翌朝、番頭に、お金の在りかを告げると、お金はお宮の下から見つかり、旅籠屋は大喜び。三十両のお礼をもらい、その内の五両をお梅に与える。女将には、お稲荷明神をもっと大切にしなければならないと諭す。この評判は、小田原中に広がり、占って欲しいという人々が殺到。人の噂とは、そういうもの。現在も、マスコミが囃したて、そういうことになるケースもある。

しかし、八百屋は、これには、もう、たまらん、と今度は本当に逃げ出した。それは賢明なこと。いつもうまく行くとは限らない。もう冷や汗はかきたくない。

落ちは、「今度は先生がいなくなりました」と、なっている。

以上のように、この落語の話は笑い話になっているが、全ての占いは、同じ構造を持っているだろう。遊びは、まだいいとしても、深みにはまるのは避けたいものだ。それにしても、八百屋は、その後、大店の主人にどう言い訳したのだろうか。

*参考 落語『お神酒徳利』の別のあらすじ。

大店の旅籠の通い番頭善六が、徳利を隠して、大騒ぎするのは、上記の例と同じ。

ただここから、少し様子が違う。ここに、たまたま鴻池の支配人が泊まっており、鴻池の一人娘が難病に罹っていて、原因がわからないので、それを占って欲しいと依頼される。善六は自信がないから断りたいが、おかみさんが礼金三十両に目がくらみ、主人をそそのかして、大阪の旅に出す。

その途中、神奈川宿に宿泊すると、お金がなくなったと大騒ぎしている。この話は、上記にあげた筋とほぼ同じ。しかし、ここからがやや異なる。さすがに、大阪の件は、どうしようもないと覚悟し、旅の続きは、水垢離をし続ける。

そうすると、満願の日、例の稲荷明神が修復され、女将達の信心が戻ったようで、稲荷明神が、そのことを感謝して、善六に教示する。その内容は、「鴻池家の乾の方向(北西)の隅の柱の四十二番目の柱の土中に観音像が埋もれているから、それを掘り返して、祭れば、娘の病気は治るだろう」ということだった。

半信半疑だったが、そのことを支配人に伝え、掘り起こすと、観音像が見つかり、娘の病気はすぐに治った。鴻池家は感謝し、米倉を開いて、貧民に施しをした。善六は、たくさんのお金で旅籠を造って貰い、暮らしが大金持ちになった。算盤占いで、桁違いになったとさ。

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