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2008年7月23日 (水)

誠と『老子』八十一章

世の中には、滔々と自説をぶって、人を迷わせる人々がいる。それがどういう人たちかは、ここでは述べないが、昔から、ユダヤの金融業者は、そのように言われてきた。もちろん、全ての人がそうでないことはわかっている。どこの国ににも、同じタイプの人はいる。

そして、彼らのまことしやかな言説に騙され、損失を抱える人たちがいるのも現実だ。人は欲に目が眩む、のはいつの時代も同じだ。少し冷静に考えれば、誰でも、それが嘘だとわかるのだが、雰囲気に呑まれ、騙されてしまうのだ。いちいち、人の裏側を考えるのも、うっとうしいが、世の中、いろんな人がいる。

そういうことを戒めるのが、『老子』八十一章だ。人を判断する目安としては適切かもしれない。これは老子の最終章でもある。老子をまとめたのは老子ではなかろうが、誰が最終章に、この話を持ってきたのだろうか。それはそれとして、これを流風なりに、読み解いていこうと思う。読み下し文は次のようになっている。

  信言は美ならず、美言は信ならず。

  善者は辯せず、辯ずる者は善からず。

  知る者は博からず、博き者は知らず。

  聖人は積まず。

  既に以て人の為にして、己愈(いよいよ)有り。

  既に以て人に興へて、己愈多し。

  天の道は、利して而して害せず。

  聖人の道は、為して而して争わず。

例によって、流風なりの解釈を示しておく。

まず「信言は美ならず、美言は信ならず」は、真実の言葉は、決してうわべを飾ったものではなく、うわべだけを飾った言葉には、真実味はなく、偽りが多い。論語の「巧言令色、鮮し仁」と同じような語り口だ。

次の「善者は辯せず、辯ずる者は善からず」は、道を極めた者は、ぺらぺらと得意になって論じたりしない。よくぺらぺらと論ずる者は、まだ道を極めてもいないのだ。ちょっと新しい知識を得たとしても、それを自分のものとなっていないのに、第三者に話す者の話などは聞いてはならないのだ。

「知る者は博からず、博き者は知らず」は、本当に道を知っている者は、自分の博識を論じたりしないし、自分は博識だと思って、多々弁ずる者は、本当の道はわかっていないのだ。

「聖人は積まず。既に以て人の為にして、己愈(いよいよ)有り。既に以て人に興へて、己愈多し」は、誠の耳と口を持つ人は、特別な私心がない。彼は人に誠を尽くし、それが彼の肥やしになる。また人に先に与えて、彼の心を富ませるのだ。

「天の道は、利して而して害せず。聖人の道は、為して而して争わず」は、天の道とは、あらゆる他を利すると、自らを害することはない。そういうことで、誠がわかっている人は、決して争ったりしないものだ。謙譲の精神を以て、お互いが棲み分けする知恵を持っていれば、世の中は平穏なのだ。

世の中、誠が通じないようで、通じている。そして、そういうことは幼少の頃から教える必要がある。人生経験を十分経てない若い人が、偉そうなことを言っても、誰もわかってくれない。また、そういう人の言葉を安易に信じてはならないだろう。

頭で考えたことと、実際は違う。考えたことを実際やってみて、初めて理解できる。考行の積み重ねが、貴重な経験となり、誤差がなくなり、信用となり、自分の価値を高めていく。

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