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2008年7月31日 (木)

若い人に仕事がないとは

最近、一部の若い人が、追いつめられて、各種犯罪を起こしている。その中で、仕事がないとか、今後の人生に見通しが立たないとか、よく言う。

しかし、それは本当だろうか。留学生や海外から来ている人々に言わせると、日本ほど仕事が溢れている国はないという。もちろん、単純労働だったり、面白くない仕事が多いかもしれない。だが、仕事がないということではない。

今の若い人は、自分に合う仕事とか、よく言うが、そんなものはどこを探してもないだろう。基本は、労働需要のある中から、どんな仕事でも、いかに楽しみを見つけるかにある。自分が主体となって、何か課題を抽出し、解決できれば、どんな小さいことでも、嬉しいものである。

次に、仕事は実績の積み重ねだということ。人生の時間軸で、どのように実績を積み重ねていくかということをもっと考えなければならない。よく所得の低さが問題にされるが、それはどんな生活を望むかによって、見え方は違ってくる。所得が全てではない。

そのためには、いかに経験を積ませてくれるかということで職場を選択する必要がある。派遣とかアルバイトでは限界があるだろう。そういう仕事を選択しないことも重要なことだ。少々給料が安くても正社員の道を選択した方がいいかもしれない。

更に、流風が思うには、都市における他者との比較で仕事を選びすぎではないか、ということが、指摘される。都会での生活を中心に考えすぎないことだ。それには、現在住んでいる地域に縛られる必要はないだろう。

また、高齢者時代には、体力の要る仕事は、花形になる。中途半端に頭を使う仕事より、実入りはよくなるかもしれない。もっと手足を動かす仕事を選択できないか。

例えば、地方に行けば、人が足りないので、いろんな仕事が考えられる。今、問題になっている農業者の不足もあり、いずれそういう需要は拡大する。確かに年収は上がらないかもしれないが、食い物に困ることはない。

また、人付き合いの嫌いな人も、作物が相手なので、ストレスはあまりたまらないだろう(但し、地域の付き合いは濃密かもしれないが、地域も変わりつつある)。天候に左右される作物の成果については、心配もあろうが、それなら、どうすべきかという課題も楽しめばいい。

また職人の世界も人不足である。ちゃんとした職人になるには、十年以上の修業が必要だが、モノに向き合うので、考え方で専門性を高めることができる。修業は大変かもしれないが、その技術は一生どこでも役に立つものになる。

結局、言えることは、仕事の内容も大事かもしれないが、自分が真に楽しめる仕事にしていく思考が望まれるのではないか。そして、どんな仕事でも、極めれば、それなりに人格が形成されるものだと思う。そして、それが社会の質を向上させ、ひいては社会貢献にもつながる。

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2008年7月30日 (水)

本当の笑顔

女性の笑顔は額面通りに受け取ると、大きな勘違いにつながる。よく男が、いつもニコニコしている女性が自分だけに向けられていると錯覚して、トラブルになることは、よくあるようだ。若い時の流風も、被害者の一人だ(苦笑)。

最近の広告でも、女性(井上真央さん)が笑顔を示しながらも、「笑顔は嘘つき」というのがあったが、うまく表現している。作り笑顔は女性の処世術とはいえ、曲者だ。まあ、その笑顔でも、ホッとする時があるから、全てを否定することはできない。

同様に、会社員時代、顔は笑っているが、目は決して笑っていない部長(もちろん男だよ)がいた。その部長が、笑いながら話しかけてくる時は、何かあるのかと警戒したものだ。笑顔は、確かに時と場合によって、作り笑いも必要かもしれない。しかし、それが習い性になると、その人物の人格に若干疑問を持ってしまう。

彼にとっては、何事も、内心を気取られないようにするのは、処世術の一つであったかもしれないが、周囲に不安を持たせてしまえば逆効果の場合もある。女性の作り笑顔も、その点では同様である。やはり日頃の言動や行動は大切だ。

では、どうすればいいのか。基本的に他者から勘ぐられるようなことをしないことだろう。少なくとも、内部の人間には、隠し立てはない方がいい。商売における「正直」は「馬鹿正直」とは異なるが、組織内の表向きのことはオープンにして、笑顔で処する方が、周囲は安心する。

そうすれば、見える物は見えるし、周囲もいろんな物を見つけてくれる。そんなアホなことできんという人も、一度試してみればよくわかる。組織内の安心感は、笑顔を生み、それは積極的な組織にする。本当の笑顔は、結構、いい効果がある。組織とは、ナイーブなものだ。それは企業内に限らず、学校や家庭でも同じことだろう。

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2008年7月29日 (火)

夏の夜の想い

   夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを

          雲のいづこに 月やどるらむ

                   (清原深養父、古今和歌集、百人一首第三十六)

激しい雷雨の後、夕方、外に出て様子を見る。涼しくて気持ちがよい。ふと見ると、黒いトンボが木の葉に留っていた。羽根を広げたり縮めたりして、少し優雅さを感じさせる。多分、ハグロトンボと言われるものだろう。

最初見た時は、少し戸惑ったが、じっくり見ると、細い身体に、細い羽。夜会服を纏った貴婦人というところか。優雅なステップで、葉から葉へ。そのようにして、随分、男を迷わすのだろうか(笑)。

さて、夏の夜は、本当に短い。雷雨のお陰で、少し涼しいが、暑くてなかなか眠れないなあと、思っていると、いつの間にか、夜が明けている。

どうも清原深養父の心境とは程遠い。昔の人は、こんな状況でも歌を詠んで偉いなあ。でも、夏の月を詠った歌は少ないそうだから、この時期の月に感慨を覚えるのは珍しかったかもしれない。

ちなみに清原深養父は、あの清少納言の曽祖父にあたる。彼は、『土佐日記』を書いた紀貫之とも交流があったようだ。ところで、清少納言は多少、鼻に付くが、清原氏が天武天皇の流れとすると、祖先に誇りを持ったのも致し方ないのかもしれない。でも、当時でも、嫌われただろう。曽祖父の感性を見習えばよかったのに。

さて、この歌をどのような状況で詠んだのだろうか。一般には、恋歌とは思われていない様だが、彼が見たかった月は一体何だったのだろうか。それとも、誰かを思い出したかったのだろうか。

案外、逆説的に、彼が気になったのは、月ではなくて、どこからともなく現れて去っていた雲のように、ある貴婦人のことを思い出したのかもしれない。偲ぶ恋で、自分の心は、あの人という雲に覆われていると。解釈にちょっと無理があるかな(笑)。

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2008年7月28日 (月)

出世主義は悪いか

最近の若い人は、なかなか前に出ようとしないらしい。自分が前に出ることを警戒しているのかもしれない。もちろん、先に前に出れば、いろんな困難があるかもしれない。そういうことで、安全運転を志向しているのかもしれない。

そういうことを考える上で、『葉隠』で、山本常朝が大切なことを言っている。それは次のようだ。

「名利を思ふは奉公人にあらず、名利を思はざるも奉公人にあらず」(旧仮名遣い)

言いたい趣旨は、次のようなものであろう。

「やたら出世主義に走る奉公人には困ったものだ。しかし、立身出世を考えない者も、また困った者である」。

これは具体的には、何を言おうとしているのだろうか。

凡そ、立身出世主義者は、どうしても、自己の利益中心主義になりがちで、会社の利益より私益を重視しがちになる。目前の利益を重視し、長期的視野が欠け、辛抱強く目立たない仕事を避けたがる。それは組織にとって、必ずしもよい影響をもたらさない。

しかし、その一方で、与えられた仕事をこなすばかりで、保守的な仕事振りでは、日々の進歩もないし、やがて、それは惰性になり、不満が募るだけである。それは組織の雰囲気を微妙に悪化させていく。

そう考えれば、そのような人間より、むしろ、立身出世主義者を正しく導く方が、組織にとって望ましいかもしれない。つまり企業目標が明確で、組織に対する基本的な忠誠心があれば、出世主義のエネルギーを新しい試みにぶつけさせて、働き甲斐を感じさせることが、企業に活力をもたらすことになる。

山本常朝の指摘は、的を得ているだろう。前に出ることを嫌がってはならないし、前に出る人たちを非難することも望ましくない。ただし、そのためには、適切な指導とコミュニケーションの充実が望まれる。

*追記

ちなみに流風は、若い頃、前に出すぎて、それは大変だったことを思い出す。それが良かったのか、悪かったのか、未だにわからない。ただ、常朝も言っているのだが、あまり早い出世は、本人にも、よくないだろう。出世主義はよいが、出世のスピードは、ほどほどが宜しいということになる。抜擢人事も、全体の人事バランスを考えて、行う必要があると考える。

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2008年7月27日 (日)

家の匂い

家には、人と同様、それぞれの匂いがある。それは住む人が決めていくのだろう。確かに、子供の頃、親戚の家に行って、すべて違う匂いだったので、家の違いを知ったものだ。いい匂いの家もあれば、そうでない家もある。それは好き好きなのかもしれない。

そして、家の匂いを作るのは、ほとんど女性だということだ。祖母の家は、祖母の匂いがしたし、伯母の家は伯母の匂いがした。そして、流風家は、母の匂いだ。男は、一人住まいのうちは、独特の匂いを発するが、結婚すると、家の匂いは変わってくる。それは奥さんのつくる匂いに、男の匂いが消されるからだろう。

だから、女性は、夫が違う匂いを持って帰宅すると、敏感に感じ取り、夫を責めることになる(笑)。そういう意味では、女性は匂いというのは、強い自己主張と言えなくもない。男も体臭とかオーデコロンをつけたりして、匂いを主張することもあるが、全般的には、女性が匂いをコントロールしているのだろう。

さて、あなたの家は、どんな匂いですか。

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2008年7月26日 (土)

大器晩成はあるのか

よく何かに失敗したか、自信をなくした若い人を慰めるために、「お前は大器晩成だ」と言うことがある。これを単に慰めととるか、励ましととるかで、その人の人生は変わってくる。

ところで、この「大器晩成」は『老子』41章(「大方無隅 大器晩成」)に見える。もっともきちんとしたものはかえって、何の輪郭もないように見える、という意味だ(*注)。別の訳では、古代中国は、地球を四角いものと考えていたので、その隅が見えないことを例えているとする。

確かに大器の人はいるのかもしれない。妙に世間ズレしているのとは違い、物事を大きく見ることができる人が、それに相当するのかもしれない。

ただ、そういう人でも、何もせずして、「晩成」するということはない。そして、「晩成」は「大成」でなくてはならない。そのためには、「小成」を繰り返して、自信をつける必要がある。

「大成」は「小成」の積み重ねだ。一発逆転を意味しない。若い時は、いきなり「大成」を求めようとするが、それは宝くじを当てる行為に等しい。

よって、大器晩成は、小さな目標の達成を繰り返して、なされるものと考えられる。安易な「大器晩成」思考は戒めたいものである。

*注

王明訳『老子(全)』より

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2008年7月25日 (金)

手間いらずの家庭菜園の成果

家庭菜園の成果は今のところ順調なようである。先月植えたトマトの苗は順調に生育し、300グラム大のものが5個、170グラムクラスが10個できた。まだやや小さい物はできそうだが、それらは成果外としておこう。苗1本が65円だったから、費用対成果は大きい。市場価格に照らしてみれば、1000円程度の成果なのだろうが、金額以上に嬉しい感じだ。手間はほとんどかけていないだけれど。

ナスの方は、やはり手入れが必要なようで、何もしなかったため、今のところ、普通の大きさのナスが6個と少ない。これは育成の方法を来年は、もう少し研究が必要なようだ。この苗も65円程度だ。市場価格に照らせれば、600円程度の成果。

ジャガイモは1.5キロ収穫した。大きさは様々だけれど、美味しそうだ。もう少しすれば、メークインもできるだろう。これらは毎年できるので、費用は全くかかっていない。成果としては300円程度か。

あと期待できるのが、サトイモ。毎年冷蔵庫で腐らせてしまったサトイモを植えるのだが、いつもなかなかできなかったのに、今年はどうしたことか、昔いくつか植えたものも含めて、大きい葉を茂らせている。サトイモは大好きなので、成果が待ち遠しい。

ショウガも作っているが、これは新ショウガという段階にはなっている。ただ秋まで放置して、収穫するつもり。これは種ショウガに比較的かかっている(2000円程度)ので、成果は期待できないと思う。ショウガがどのようにできるのか知りたかっただけだ。土を荒らすから、作るのは今年だけにするつもりだ。

柑橘類は、夏みかんとユズは順調だ。しかし、レモンは不作になるだろう。柿も肥料をやるタイミングを間違えたため、不作になるだろう。葉は青々としているが(以上は借地)。

食物ではないが、ヒマワリを数十年ぶりに植えてみた。小学生の頃、夏休みの宿題を兼ねて植えて以来、初めてだ。それにしても、気持ちよくぐんぐん大きくなり、流風の背丈を越えて、まだ大きくなっている。ただ近所では既に咲いているのに、まだ咲かないと思っていたら、やっと昨日咲いた。でも、植える場所が塀際のため、見るのが大変。ここしかなかったのだが。

ヒマワリというと、昔、中国の留学生の方から、ヒマワリの種の食べ方を教えてもらって、頂いたけれども、あまり美味しくはなかった。でも、彼らはよく食べるようだ。でも、このヒマワリの種を食用には多分しないだろう。

家庭菜園も、まだ本格的に取り組んでいないので、勉強が必要なようだ。植物を育成するのは簡単なようで難しいところがある。何をするにしても、その奥行きの深さは、経験することによってわかるのかもしれない。

但し、家庭菜園は、基本的に、農業者と異なり、あくまでも道楽だ。あまり熱くなる必要はないし、気楽にやった方がいいのかもしれない。それでも、何かができる喜びは大きい。まあ、これからも適当に続けるつもりだ。

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2008年7月24日 (木)

経営における悲観主義

悲観主義なんて言うと、なんて暗い奴だと言われそうだ。流風は、外見は、悲観的な考えの持ち主と思われているらしいが、母に言わせると、「お前は、楽天家。だから出世できなかったのだ」とのたまう。まあ、親はよく見ていると言うべきか。

さて、出光興産の社長だった出光佐三は、経営は、「順調にいて悲観し、逆境にいて悲観する」のが要諦と言っていたらしい。松下幸之助は、「雨の日に傘をさす」と自然体を強調したが、出光佐三の考え方はシビアだ。

彼は、いつも傘を用意していたかもしれない。もちろん、幸之助とは産業も違い扱うものも違う。装置産業とメーカーの違いがあるかもしれない。結局、二人の言っていることに最終的な差はないのかもしれない。だが、出光佐三の場合は、経営のリスク管理に重きが置かれたのだろう。

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2008年7月23日 (水)

誠と『老子』八十一章

世の中には、滔々と自説をぶって、人を迷わせる人々がいる。それがどういう人たちかは、ここでは述べないが、昔から、ユダヤの金融業者は、そのように言われてきた。もちろん、全ての人がそうでないことはわかっている。どこの国ににも、同じタイプの人はいる。

そして、彼らのまことしやかな言説に騙され、損失を抱える人たちがいるのも現実だ。人は欲に目が眩む、のはいつの時代も同じだ。少し冷静に考えれば、誰でも、それが嘘だとわかるのだが、雰囲気に呑まれ、騙されてしまうのだ。いちいち、人の裏側を考えるのも、うっとうしいが、世の中、いろんな人がいる。

そういうことを戒めるのが、『老子』八十一章だ。人を判断する目安としては適切かもしれない。これは老子の最終章でもある。老子をまとめたのは老子ではなかろうが、誰が最終章に、この話を持ってきたのだろうか。それはそれとして、これを流風なりに、読み解いていこうと思う。読み下し文は次のようになっている。

  信言は美ならず、美言は信ならず。

  善者は辯せず、辯ずる者は善からず。

  知る者は博からず、博き者は知らず。

  聖人は積まず。

  既に以て人の為にして、己愈(いよいよ)有り。

  既に以て人に興へて、己愈多し。

  天の道は、利して而して害せず。

  聖人の道は、為して而して争わず。

例によって、流風なりの解釈を示しておく。

まず「信言は美ならず、美言は信ならず」は、真実の言葉は、決してうわべを飾ったものではなく、うわべだけを飾った言葉には、真実味はなく、偽りが多い。論語の「巧言令色、鮮し仁」と同じような語り口だ。

次の「善者は辯せず、辯ずる者は善からず」は、道を極めた者は、ぺらぺらと得意になって論じたりしない。よくぺらぺらと論ずる者は、まだ道を極めてもいないのだ。ちょっと新しい知識を得たとしても、それを自分のものとなっていないのに、第三者に話す者の話などは聞いてはならないのだ。

「知る者は博からず、博き者は知らず」は、本当に道を知っている者は、自分の博識を論じたりしないし、自分は博識だと思って、多々弁ずる者は、本当の道はわかっていないのだ。

「聖人は積まず。既に以て人の為にして、己愈(いよいよ)有り。既に以て人に興へて、己愈多し」は、誠の耳と口を持つ人は、特別な私心がない。彼は人に誠を尽くし、それが彼の肥やしになる。また人に先に与えて、彼の心を富ませるのだ。

「天の道は、利して而して害せず。聖人の道は、為して而して争わず」は、天の道とは、あらゆる他を利すると、自らを害することはない。そういうことで、誠がわかっている人は、決して争ったりしないものだ。謙譲の精神を以て、お互いが棲み分けする知恵を持っていれば、世の中は平穏なのだ。

世の中、誠が通じないようで、通じている。そして、そういうことは幼少の頃から教える必要がある。人生経験を十分経てない若い人が、偉そうなことを言っても、誰もわかってくれない。また、そういう人の言葉を安易に信じてはならないだろう。

頭で考えたことと、実際は違う。考えたことを実際やってみて、初めて理解できる。考行の積み重ねが、貴重な経験となり、誤差がなくなり、信用となり、自分の価値を高めていく。

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2008年7月21日 (月)

ヒゲの社会的評価

日本においては、ヒゲはあまり評価を受けない。国によっては、ヒゲをはやしていないと、威厳がなく、評価されない所もあるようだが、日本は、そのようではない。もちろん、手入れをしておれば、いいではないかという意見も聞く。

確かに、海外に出れば、日本人の顔は幼く見えるらしいので、それなりの威厳を持たせるため、ヒゲを蓄える人もいる。それは仕方ないのかもしれない。それでも、国内では、むさ苦しいだけだろう。

実は、流風はヒゲは濃い方だ。だから前日の夜に剃っても、翌朝には、うっすら生えている。そのまま出かければ、午後には、人が近くで見れば、無精ヒゲに見えるかもしれない。会社員時代は、いつも朝に髭剃りすればいいのだが、なかなかそれができずに困った。

朝急いで剃ろうとすれば、あらぬことか、皮膚まで剃って血がだらだら。時間は迫ってくるし、焦ったこともしばしばだ。父からは「お前は電気かみそりにした方がいいのではないか」と言われたが、どうもしっくり来ない。そういうことで、随分無精ヒゲをさらして、人に悪いイメージを与えていたかもしれない。

話を元に戻すと、日本では、無精ヒゲはもちろんだが、全般的にヒゲは評判はよろしくない。せいぜい芸術家とか、大学教授あたりが許される程度だ。かつて金融機関では、融資検討先の社長がヒゲをはやしていたら、要注意だったと聞く。つまり倒産可能性が高いからだ。ある苗字の社長が会社を倒産させる傾向が強いのと合わせて、金融界では常識だった。

もちろん、全ての人が、それに当てはまるとは言えないが、傾向値は高かったという。ヒゲもきちんと手入れされていればいいではないかと、という意見も聞くが、その手入れは意外と大変だ。そんなことに時間をかけるくらいなら、経営に集中する必要がある。

それでは、一般社員はどうかというと、顧客の立場からすると、流風の経験ではあまり宜しくない。あるガス会社の工事担当者がヒゲを生やしていたが、汚らしくて、嫌だった。店頭で接客担当がヒゲを生やしていると、説得力に欠ける。不精ヒゲは、身だしなみという点で、もちろん不可だが、きちんと手入れされていてもあまりいい感じはしない。

確かにサービス業などで、それなりの役職の人が、ヒゲを生やしても、いい雰囲気の人はいる。そういう意味では、個人差はあるだろうが、全般的に、日本では避けた方がいいのかもしれない。

さて、流風はどうしますか。人には避けた方がいいなんて言いながら、思い切って伸ばしてみようか。むしろ、だらしない顔が引き締まるかもしれない。でも、ヒゲの管理ができないから無理だろうな(笑)。

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2008年7月20日 (日)

学友とのつきあいはどのようにすべきか

流風が若い頃、ある会合で、そこそこ年輩の人と話す機会があったか゜、ビジネス上はお互いまったく関係なかった。そういうことで比較的気楽に話し合えたように思う。もちろん、多分、父よりも年上そうなので、話し方には十分気をつけたつもりだ。

話好きなようで、最初は戦争のことや戦後のどさくさの話やら、いろいろ聞かされた。奥様は先年亡くされたようだった。いろいろ話していくうちに、仕事上で悩むことはないかと振られたので、厚かましくも聞いてみた。

それは「学生時代の友達とのつきあいはどのようにされているか」といった内容だった。そうすると、その人が仰るには、付き合い方にはコツがあるということだった。大きくは二つの原則があるそうだ。

一つは、お互い仕事では、公私共に、関わらないということだった。

その人も、苦い思い出があるらしく、戦後、私的な仕事を、友人が親から仕事を継いだことを聞いたので、仕事を頼んだそうである。

しかし、その仕事の仕上がりには不満が多かった。でも、友人だから、どうしても遠慮がちになる。それで不満を持ちながら、その友人とは疎遠になったとのことである。そして、後々、風の噂では、その友人も仕事の割には金銭的に合わないとぼやいていたそうだ。

結局、学友だったから、お互い言いたいことも言えず、不満だけ残って、友人関係が破綻したのだった。

この教訓を活かして、学友とは一切ビジネスで関わらないようにされているとのこと。学友は、自分を客観的に見てもらえる存在で、ビジネスで関われば、それができなくなり、友人関係を維持できなくなるということだった。

二つ目は、金銭の貸し借りは厳禁で、また保証人はいくら頼まれても断ること、という内容だった。

このことは父からもよく聞かされていたので、すぐ納得がいった。知人から金を借りるのはもちろん、貸すのも、人間関係を悪化させるのは間違いない。金を貸せといわれたら、幾ばくかのお金を与えた方がましだとも言っていた。貸すという事は与えることに近い。それなら、最初から与えてしまえば、お互い気持ちが楽だとも言っていた。だから、決して貸してはならないということだった。

また保証人は、親戚に頼まれても断れ、と言われるように、それが他人だったら猶のことである。保証人は財産を失う本だからだ。断るには鬼になれとよく言われたものだ。同じことを、その人も言っていた。

また、その人が言うには、友達が飲食店を経営していても、基本的に利用しないそうである。誘われても、何か理由をつけて不義理をしているそうだ。それは利用すれば、友達の経営に緩みがでるからだ。

友達ということで、どうしても甘えが出る。そうなれば、友達のためにはならない。ただ、知人にそれとなく店の紹介はするそうである。それで利用してもよし、しなくてもよしの考えだ。もちろん、友人には紹介したことは決して伝えないそうだ。

こういうことを考えると、学校を卒業後の学友との付き合い方は案外難しい。ところが、それを何も考えていない人がいかに多いことか。しかし、一定のルールを守れば、それは生涯の友となる。

*追記

さて、あの先輩は、今どうされているのだろう。存命なら、かなり高齢のはずだが。生涯に一度だけ話したことが、貴重な財産になっていることに不思議なものを感じる。一期一会は大事にしたいものだ。

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2008年7月19日 (土)

愛欲に限りはあるのか

流風が、まだ小さい時、母が、人間の性欲は、死んで灰になるまでなんて、よく言っていた。当時は、何のことかさっぱりわからなかったが、人間の性欲は食欲と共に死ぬまで衰えることはない。食欲についても、母は食べられなくなったら死ぬだけのこと、とも語っていた。

河鍋暁斎の作とされる『七福神図屏風』には、仮に七福神が混浴すれば、どうなるかというのを描いているそうだ。七福神に、女性の神は弁天さんだけだから、他の男神たちから視線が集まるだろうというところから描いているのだ。人間だけでなく、神の世界も男女の関心は変わらない。ナベさんの見識に一票(笑)。

さて、ある婆さんが、若い僧を長い間、世話していた。そして身の回りの世話は、なぜか常に若い娘にさせていた。それは婆さんの娘のようであった。そして、二十年一日の如し。ある日、老婆は、若い娘に言い含めて、僧を誘惑させた。さて、あなたが僧だったらどうするか。実は、この話は禅の公案にある。

民間では、据え膳食わぬは男の恥なんて言うけれども、昔の禅僧は、女性と交わることは戒められていた。不犯のしきたりがあった。

この話には続きがあって、この若い僧は、娘の申し出を強く拒否し、禅僧としての立場を貫こうとします。しかし、老婆は、二十年も仕えてきたのに、こんな僧を世話してきたとは情けないと、庵を焼き払い去っていきます。さて、この僧の行いは正しかったのか。

逆に、彼が若い娘を抱いたとしても、それは禅の修行者としては問題がある。だが、何を優先すべきなのか。禅僧の前にどのような人間であるべきなのか。そういう問題を、この公案は暗に示している。

こういうことは、別に禅僧でなくても起こりうる。昔の小説にも、下宿屋の奥さんが、娘と優秀な学生と、結び付けようとする話である。このような相手の思惑でいろんなケースがあるかもしれない。そこでどう対応するか。婆の立場の人と絶縁するか、関係を強めるか。絶縁するのは簡単だ。もし老婆の思惑に嵌ったらどうなるか。

禅僧でなくても、人との付き合い方は、その関係性も含めて、修業であると言えないこともない。人と付き合うには、それなりの覚悟が必要ということだろう。すなわち、それなりの後々の制約を抱え込むわけだし、ある意味、人間性が試されるということだから。

それを運命と考えるか、宿縁と考えるべきか。愛欲は、生きるということと関連している。それを無視して生きることは、この世の中では難しいということだろう。そういった中で、愛欲にはまらず、生きる方法はあるのだろうか。

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2008年7月18日 (金)

五箇条のご誓文 その六

今回は五箇条のご誓文の五番目の最後の文言を取り上げる。

 一、知識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。

解釈としては、世界に新しい知識を求めて、大いに国家を繁栄させようではないか、といった意味合いだろう。学校では、「皇基」という言葉がひっかかるのか、教えないそうであるが、おかしなことである。

日本国というのは、戦後憲法の象徴天皇であっても、天皇を戴いているのは変わらない。世界は、日本を立憲民主主義の国と理解している。そうであれば、この文言も正確に教えるべきだろう。

確かに日本の民主主義は、欧米諸国が考える民主主義とやや趣が異なるかもしれない。日本が歩んできた風土がそれを異ならせているのだろう。だが、いろんな民主主義のあり方があっていいはずだ。

最近になって、彼らも日本方式を理解したようだ。我々は、そのような認識で、この「五箇条のご誓文」を再度読み込むのは無駄ではないだろう。

*追記

確かに歴史的に見れば、天皇が権力を握った時代、摂政・関白など外戚が権力を握った時代、武家が統治のために天皇を利用した時代、天皇制度を利用した戦前の軍部など、天皇を巡る権力問題はある。ただ、日本は、良くも悪くも、天皇を中心にまとまってきた。そういったことを客観的に冷静な知見を持つことは大切である。学校教育で、この五番目のご誓文を教えないのは、若干問題だ。

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2008年7月16日 (水)

夏を告げる雨

夏を告げる雷雨が降った。暑い日々が続くので、この雨は有り難い。梅雨の雨と違って、豪快にあっさりした雨で、一応大好きだ。「一応」が付くのは、あのゴロゴロビカッという鳴り物が、子供時代から苦手だったからだ。

落ちるぞ、落ちるぞと、さんざん脅かされ、逃げまくった、ある夏の思い出。実際、落ちて、命を落とされた人がいると母から聞いてからは、雷の中を出かけるのは非常に嫌だった覚えがある。それでも、雨の中を買い物に行けと言われて困ったものだ。でも、少し時間が経つと、雷もおさまり、打って変わって太陽の光が出て来た時は、ああよかったと一安心。

そういうことから、詠ったかどうかは不明だが、山崎闇斎の漢詩に『有感』というものがある。彼は江戸時代の儒学者であり神学者でもあった。儒教と神道の合一を主張し、人の心は天心と同じと主張している。詩の内容は次のようなものだ。

  坐(そぞ)ろに憶(おも)う天公世塵を洗うを

  雨過て四望更に清新

  光風霽月今猶在り

  唯缺(か)く胸中灑落の人

意味は次のようだろうか。

「天の神が、雷と共に一雨降らせると、止んだあとは、世の中の全ての塵埃を洗い流したかのようで、周囲全体が何もかも大変すがすがしい思いになる。

その後の、風は清く月は明々と気持ちよく照っている。ただ残念なのは、このような心の清い人がほとんどいないことは残念なことだ」

山崎闇斎の嘆きはわからぬでもないが、あまり清い人ばかりでも、清流に魚棲まず、の如く、世の中は回らない。清濁のバランスは、いつの時代でも求められる(濁があるから清があるとも言える)。彼は理想主義者だったのだろう。学者や哲学者には求められることではあるが。

それにしても、晴れ渡った空を見ていると、本格的に暑い夏がやってきそうだ。明日からは、打ち水が必要だろう。時々、雷雨も頼みますよ(笑)。

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2008年7月15日 (火)

大阪の二つの飲食店の廃業を考える

道頓堀の「くいだおれ」が廃業して話題になっているが、少し前には、「船場吉兆」が問題を起こして廃業している。この大阪を代表する二つの料理屋が同じ時期に廃業したのは、妙な巡り合わせだ。

しかし、その廃業の内容は「一応」大きく異なる。世間から信用を失って止む無く廃業した料理屋と、世間から惜しまれて、やめた料理屋。

一方は、賞味期限切れの販売、偽装、使い回しが発覚し、信用を失って廃業。もう一方は、周辺環境の変化で、将来の経営に見通しがつかないためとされる。しかし、実際のところはわからない。船場吉兆と同様のことがあり、早めに手を打って店を畳んだとも受け取れる。タイミングがよすぎるのだ。

もちろん、当事者は強く否定するだろう。しかし、残念ながら、船場吉兆のようなことは、飲食業では、長くどこでもあったことを踏まえれば、可能性はある。しかし、廃業された現在、それを追及してもどうにもなるものでもない。

それでは、この二つの飲食業は、一体何が違ったのか。まず指摘されるのが、広く顧客に愛されたかということ。片方は、高級料理で、庶民には程遠い所に位置し、もう一方は、庶民的な店だった。

一般人は、滅多に利用できない「船場吉兆」は、高い山のように、厳しい環境条件下にあったことを経営者は理解していなかったのだろう。高いお金を取る飲食店の経営としては、非常にまずかったと言える。そういうところは、針の一穴で世間から批判にさらされるというリスク管理が甘かったのだろう。

もう一方の、「くいだおれ」は、流風も若い時に利用したが、名前こそ有名だが、普通の食堂である。特別美味しいわけではない。どこにでもある食堂なのだ。だから、提供されるものもほどほど、価格もほどほどだった。そういうことで、親しみやすい存在だったことが指摘される。そういうところに対しては、庶民の批判は若干甘いかもしれない。

次に指摘されるのが、女将の差だろう。顧客対応が根本的に違う。「船場吉兆」の女将は、顧客になりうる一部の特別の顧客にのみしか対応したことがないので、ある意味、世間ズレしていない。

それに会見時のあの不遜な態度は、多くの人を敵にまわした。独裁的なイメージは、あまり宜しくない。そして、実際も、そうであったようだ。それで世間から、とことん叩かれた。あの時、身を引いておれば、助かったかもしれないのに、そういうセンスはなかったようだ。

これに対して、「くいだおれ」の女将は、ある意味、したたかで、いろんな層の顧客に対応慣れしている。その対応能力の差が、マスコミ対応に如実に出ている。それは、あの女将の笑顔から察することができる。

あの笑顔の裏には、明らかに強かさを感じる。ある意味、大阪を代表する女将かもしれない。彼女なら、「きたなく儲けて、きれいに使う」ことができるのではと思わせるのだ。正面から喧嘩はしない。相手が仕掛けても巧みにかわす。表面は笑顔でも、心の中では、舌を出しているかもしれない。そういうものを感じさせる。

飲食業は、接客業でもあるわけだが、結局、その差がマスコミ対応でも出たわけだ。もちろん、経営姿勢も大きく影響しているかもしれない。ただ、私達の反応は、その表面的な接客対応術で大きく違ってくるのも事実だ。今後の大阪の飲食業がどのように変わるのか、わからないが、一つのヒントを提供してくれた二つの飲食店の廃業だった。

*追記

ちなみに、「くいだおれ太郎」には、関西のロボット業界の表看板になって欲しい。

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2008年7月14日 (月)

足るを知る

よく「足るを知る」ということが言われる。人の満足には限りがないし、上を見ていてはキリがない。もちろん、今のままで満足してしまうのも、成長の妨げになる。さらに下を見て、自己満足してしまったら、それは落ちてしまう。

ということで、人間は魚のように泳ぎ続けることが求められるのであろうが、時には上を見、時には下を見、そして、時には休息し、バランスをとっていくことが大切だ。もちろん、いつも環境に流されていっても、苦痛が伴うだけだ。自己を確立し、自分は自分、他人は他人という境地をもつことも求められる。

あの良寛和尚も、『吾唯知足』(*注)という詩で、次のように詠んでおられる。詩吟などでは、『可意(意に可なり)』という題で詠われている。

  欲なければ一切足り

  求むるあれば万事窮す

  淡菜餓を癒すべく

  衲衣いささか躬に纏う

  独り往きて麋鹿(びろく)をともとし

  高歌して村童と和す

  耳を洗う岩下の水

  意に可なり嶺上の松

まあ、良寛の領域に達するには、ある程度の修業と年齢が必要かもしれない。若い人があまりにも早く老成してしまっても問題だ。ただ、自分を見失わないために、心の片隅に少し残してもらえばいい。

*注   『吾唯知足』の解釈

基本的に、「足るを知る」の意で、解釈の必要はないと思うが、念のために記すと次のようになるだろうか。

「欲を出さなければ、全てのことに満足できる。しかし、欲を少しでも出すと、それはキリがない。

粗末な野菜があれば、それは空腹を癒してくれるし、僧衣があれば、それで結構間に合う。

(寂しくなれば、)一人で出かけていって、鹿と戯れ、村の子供と一緒に歌を歌う。

岩下の水は、俗声で汚れた耳を洗うのに適しており、見慣れた岩の上の松は、私の心を表しており、お気に入りだ」

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2008年7月13日 (日)

夏本番と帽子

梅雨明け宣言は、近畿地方で、まだされていないが、実際は、既に明けていると思われる。昨日も、神戸市内を歩き回ったが、真夏の暑さだ。日差しは明らかな夏だろう。歩き過ぎて、一万歩をはるかに超えていた。

夏の季節は、比較的好きな季節で、母からも、「あなたは夏の子」と言われ続けてきたが、やはりそうかなと思う。暑さは、それほどには気にならない。もちろん、冷たいものの摂取はできるだけ控えている。毎夏のことだが、ついつい冷たいものに手を出すと、必ず夏バテが起こる。それゆえ、今年は、十分気をつけたい。

さて、話は変わるが、街を歩いていて気づいたのだが、皆さん、比較的帽子を被っていないのに気づいた。女性は黒い日傘を利用されているのも見かけたが、そういう人も少なく、無帽のままだ。熱中症に罹ることはないのだろうか。

子供の頃は、必ず麦藁帽子を被って遊びに出かけたし、学校時代も帽子は必須だった。社会人になってからは、若干被る頻度は落ちたものの、何がしかの帽子を利用していた。最近は、丸い帽子を外出時は被っている。

確かに帽子を被ると、頭部が蒸せるし、禿になりやすいとも聞く。髪型も乱れる。まあ、流風の場合、髪型はいつも乱れているので、実害はない。でも、髪の毛が薄くなるとすれば、少し考えてしまうが、熱中症になっても馬鹿らしい。

でも、皆さん、被っていないなあ。大丈夫かいな。

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2008年7月12日 (土)

パン屋の経営危機

パン屋は、経営危機に陥っているかもしれない。小麦粉等の値上がりは、他産業と同様、厳しい経営を迫られる。そして原料コストの値上がりを製品価格に転嫁するのは、限界が来ている。

つまり、あまり急激な値上がりには、消費者もついていけない。ある程度の価格アップは容認できても、予想以上の値上がりにはついていけない。消費者としても、ある程度の値上がりの覚悟ができていても、懐具合との相談で、あまりにも値上がりされると、パンの消費は抑えるしかない。

最近になって、やっとマスコミがはやしている米粉の利用と言っても、その流通は少ないし、すぐ対応できるわけでもない。そうなると、パン屋も消費者も打つ手なし、ということになる。パン屋は経営危機に陥っていると言って過言ではなかろう。

今のところ、パパママのパン屋さんの方が、まだ頑張っているかもしれない。もちろん、ある程度は値上がりしているが、その幅は抑え気味にして、いろいろなパンのデザインで付加価値を上げている所もあるようだ。

むしろ大手の製造直売のチェーンのように定番にこだわった所が苦しそうだ。効率と利益率を重視する結果、菓子パン等は、アイテムは減少し、パンの大きさは以前より本当に小さくなっているし、価格も五割近く上がっている。胃袋も満たされないし、値段が高いため、購買意欲は低迷する。

流風は、もともと御飯が多いので、不自由することはないが、パン屋さんには、もう少し頑張って欲しいと思う。今のままでは、業界の縮小と再編もありうる。

*小麦粉高騰へのコスト対応の一例

小麦粉の使用を減らすために、米粉の利用も大切だが、パンの部分を少なくして、他の材料を増やしてボリューム感を出すのも大切なことである。また小麦粉を一切使わず、極端に言えば、焼き御飯+惣菜のようなものも考えられる。

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2008年7月11日 (金)

五箇条のご誓文 その五

今回は、五箇条のご誓文の四番目の文言を取り上げる。その文言は次のようだ。

一、旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。

これは、もともと由利の案にはなかった。木戸が新たに付け加えたようだ。この考え方は、坂本竜馬の考え方が色濃く出ていると云う。儒教をベースとした封建社会の打破と、国際社会のルールに則った運営方法に、国を改めようという強い意思が感じられる。

ただ、この宣言は、残念ながら、当時すぐに実行されたとは言えないという人々もいるだろう。しかしながら、当時の他のアジアの国々と比べると、その国の転換は素晴らしく早かったのは歴史的事実だろう。この文言の意思は、いわば、当時の先覚者の危機感の表れとも言うことができる。

残念ながら、この文言を真に理解し、後進に伝えられたかというと、若干怪しいものがある。少なくとも、皮肉にも封建時代に鍛えられた精神が、この危機感とバランスが取れていた間は、問題がなかったが、後に続く指導者達は、危機感だけで、精神的支柱が弱かったことは否定できない。それが日本を危機に導いた。

そして、「国際社会のルール」が正しいかどうかといえば、それは怪しい。それは欧米の論理で作られたものだからだ。彼らの基本的な考え方は、自分の考え方を押し付ける侵略的思考が強い。明治維新は、仕方なかったとしても、現代では、「天地の公道」の中身は、見直されるべきだろう。

この文言を改めて考えると、人材育成において、情理教育の徹底が必要なことを再確認させる。それは戦後教育において、「情」教育がなおざりにされ、「理」教育に偏ったことも、国民を疲弊させている。バランス教育の重要性を今更ながら強く感じる。

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2008年7月10日 (木)

夏バテ予防と夏野菜

先日、家庭菜園で作っているナスをはじめて収穫した。だが、次々と成っているナスも、トマトほどの収穫は見込めそうもないので、自給自足とはいかないようだ。でも、収穫できた喜びは、それにも増して大きいものだ。

少し小振りだが、つやつやして美味しそうだ。早速、仏壇に供えて、収穫を喜ぶ。料理は何にしようか、少し迷ったが、味噌汁にすることにした。揚げとモヤシと一緒に煮て、美味しい味噌汁になった。

俗に、「初ナスを嫁に食わすな」なんて言うけれど、確かに美味しい。しっかりした味わいだ。この俗説は、単に美味しいということだけでなく、ナスは身体を冷やすので、女性にはよくないという意が隠されているという。

まあ、食べ過ぎなければいいと思うけれど。この時期、ナスやトマトとなどで、身体を内部から、ある程度冷やせば、冷房も必要がなくなるので、何が何でも食べるなとは言えないだろう。

さて、梅雨もあけて来たので、これからは暑い夏到来だ。外に出かければ、汗が一杯で、室内に入れば、クーラーに冷たいものと行きたいが、これは健康によくないのは明らか。水分補給は大切だが、冷たい物は胃腸を弱め、夏バテの原因になる。それにクーラーも外気温との温度差は、身体を蝕む。

冷たい物は控えて、常温のものを摂取したいものだ。冷たい物を摂取するにしても、ゆっくり一口か二口ぐらいで止める方がよさそうだ。大体、クーラーを強く必要とする人は、冷たい物を摂取しがちだ。結局、これは悪循環。省エネルギー時代にも合わない行動なのだ。

それと共に、夏野菜の摂取により体内温度を冷やすことも求められる。夏に取れるものを夏に摂取するのは、身体の理にかなっている。夏野菜のナス、トマト、ピーマン、オクラ、ニラの摂取で夏バテを防止したいものだ。ただ料理をするのは辛い時期になってきた。クーラーして料理するのも気に食わないし。

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2008年7月 9日 (水)

医療ドラマから考える

基本的に、日本のドラマはあまり見ないのだが、『Tomorrow』(*参考参照)は番組宣伝を見て、珍しく視聴したくなった。医療関係のドラマは、医療内部の問題を扱ったものが多いが、このドラマは、もう少し、話題を広げているのではないかと思われたのだ。

それは、現在問題になっている地域医療を取り上げているからだ。地域医療は大変深刻で、いろいろな制度変更が混乱を惹き起こしているようだ。そういうことにスポットを当てたドラマのようなのだ。題名の『Tomorrow』がなぜ英題なのか不明な点もあるが、制作者は「明日への希望」とか「明日への光」をこのドラマで暗示したいのかもしれない。

それにしても、医は仁術であるとは、昔よく言われたことだが、今では死語に近いのだろうか。韓国のドラマで、宮廷医への道を描いた『ホジュン』でも、主人公が「心医」を目指すのだが、その困難は壮絶なものだったと描いている。医療の原点は何なのか。確かに、このように使命感だけで医療行為をするには限界があるだろう。しかし、使命感なき医療では、多くの人の共感を得られないのも事実だろう。

さて、このドラマの設定は次のようになっている。地域の漁村、西山室市では、総合病院は一つしかなく、そして、ここでも医師不足である。そのため休診が多く、その結果、患者は減り、悪循環に陥り、実質機能していない。患者が来ないのだから、当然赤字は膨らむばかり。役所はやり手の医師を招いて改革を図ろうとするが、それは結局患者の切捨てにつながる。それに対して、どのように役所・医療者・地域住民が対応していくのか、という重いテーマだ。

このドラマでは、一回目を視聴した限りでは、そのようなものをできるだけコミカルに重くならないように描いている。しかし、ドラマ制作の問題意識は高いように感じられる。実際、政治の場で、侃々諤々論じられても、関係のない都市市民にとっては、わかりにく問題でもある。それを具体的に表現しているのは評価できる。都市は地域によって支えられていると考えれば、都市住民も無視できない問題だろう。

主人公森山航平(竹野内豊)は、かつて病院勤めの時、人を救えなかった。それが心の重荷になって医師を辞め、西山室市に一般職員として流れてきた(*注)。凡そ、名医と言われる方々も、多くの患者を殺している(助けることに失敗している)。医療技術は、教育で伝えられる部分と経験しないとわからない部分がある。

真面目な医師ほど、患者の死に遭遇して、悩むことになる。しかし、それで医師を辞めてしまっては何もならない。患者の死を通じて、次の段階にステップアップすることが求めれる。しかし、現代は、医療訴訟なるものがあるため、医師が最大限努力しても、訴えられる可能性がある。そうすると、医師は萎縮してしまい、安全策しかとらない。

それでは、医療は進歩しない。患者やその家族は、患者を任せた医師や医療機関にどう接するのか、難しい課題が横たわっているのだ。基本的に、これはと思った医師に任せれば、後は天となれ、地となれという気持ちが大切ではないか。それも患者の運命だ。患者側が、生死をどう考えるかという死生観、その上で医療機関といかに接していくか、ということを日々考えていくことが大事なのだろう。

そして、もう一人の主人公田中愛子(菅野美穂)は、人間的な優しさに溢れる看護師だが、病院経営のことは頭にない。なんとか患者を救いたい一心で、関係者に激しくぶつかっていくので、いろいろ物議をかもす。しかし、彼女の医療に対する心掛けは大切だ。彼女の熱意は、周辺をも変えていく。医師を辞めた森山航平さえも。

実際の医療の現場は、このドラマより、もちろん、もっと厳しい状況だろう。ただ根本的な問題は、このドラマで示されることと類似しているかもしれない。私達は、いつでも利用できると思っている医療機関の危機に対して、無関心ではいけないだろう。

また医療機関は、地域住民と分離された孤独な状態で、被害者意識を持ちやすい。そういうことが医療機関も地域住民であることを忘れがちにさせている。地域に溶け込み、地域に応援を依頼できるような、地域と共に歩む姿勢が求められる。

他方、地域住民は、地域医療といかに付き合っていくか、各人が考えなければならないのだろう。あるべき医療システムは、結局、住民の意思が反映されるのは間違いない。地域住民は、医療機関と共にあるべき姿を目指すことが求められる。

いずれにしろ、このドラマを通じて、医療機関と患者と地域住民の関係性を再度考える機会にしてみたい。今後のこのドラマがどういう課題を取り上げていくのか、その展開が楽しみだ。

*注

その後の話しの展開では、担当教授の医療ミスのようだ。森山航平は、そのことを指摘したが、逆に、疎まれ、大学病院を放り出される。

*追記

なお、このドラマ『Tomorrow』は放送終了したが、全10回のため、どうも表現が荒っぽいものになってしまっていた。取り上げているテーマは、時事的で関心の深いものだが、この問題をたった10回で表現するのは無理がある。政治家が絡んでいるシーンもあり、選挙のことを意識して、早めに打ち切ったニュアンスが感じられた。この手のドラマは、視聴率も大切だろうが、最低30回ぐらいのストーリーを描いてもらいたいものだ。

*追記

それにしても、菅野美穂さんは、オパQ顔だなあ(笑)。それだから、女性にも人気があるのかもしれない。ちなみに彼女は、8月30日公開の『パンダフルライフ』でナレーションを担当するようだ。オパQじゃなくて、パンダ。そういうと似ているかもしれない。なお、この映画については、また別の機会に触れてみたい。

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2008年7月 8日 (火)

百貨店の行方

若い時、薄給でお金がなかったので、百貨店に行っても、ウィンドーショッピンクが主体だった。もちろん、女性のように買いたいものがたくさんあるわけではない。どちらかというと、気分転換を兼ねてのもので、百貨店の雰囲気が好きだった。

子供時代も、休日の楽しみは、両親と百貨店の大食堂で、昼食をとることだった。両親はなぜか正装し、お出かけしたものだ。別に堅苦しい服装などする必要もないと思うのだが、父の方針で、皆、そのようにした。当時、百貨店はそういう雰囲気を持っていたのだろう。

途中、知り合いに会って、「どちらに」と声をかけられても、いつもは「ちょっと」と言うところを「どこどこの百貨店へ」と少し誇らしげに親が応えていたように思う。それほどに百貨店というイメージは当時、両親の中では高かったのだろう。今だと、少し笑えてしまうが。

現在の百貨店は、ホテル同様、気軽な服装で、皆、出かけているので、気楽な場所になったかもしれない。それでも、女性たちは、若干オシャレに気を配り、頑張っているように思える。若い人たちや男はそれほどてもないが、女性の同伴者がいる場合は、それなりの服装をしている場合も見受けられる。

さて、百貨店の価値が落ちているという人々もいるようだが、それは百貨店次第だろう。確かにモノは溢れ、ネットなどで簡単に安く入手できる時代ではある。そういう環境下、ビジネスは難しくなるという指摘も無視はできないかもしれない。

しかし、百貨店の持つ信用力は捨てがたい。新しい商品を売り込む場合、百貨店の評価は一定の重みを持つのは現在でも変わらない。そういう意味では、百貨店は時代をリードする新商品やサービスの取り扱いに常に気を配る必要はある。そして、今まで以上に取り扱い品目が変わるものも確かにあるだろう。

だが、長期的に見直すモノ、中期的に見直すモノ、短期的に見直すモノ、そして流行りモノをいかに組み合わせて、タイミングよく提供していくかということは、今も昔も変わるものではないだろう。要するにマーケティングさえ、しっかりしておけば、百貨店の価値は保たれる。

そう考えれば、百貨店の価値は下がるものではないだろう。現在、業界の再編成が行われているのは、大名商売をして、新しいモノや仕組みを取り入れるのを怠った百貨店があったからだろう。店があるという長年の信用、ブランドという安心感、マーケティング力、ネットとの連携などを考えると、その可能性はまだまだ大きい。そういうことで、百貨店の存在価値は、やり方で、ますます高めていくことは可能だろう。

*追記

また、将来の百貨店は、ショールーム化の強化のため、出展料と入場料を取る可能性を否定できない。全てをそのようにするわけではないが、ネットのための全館ショールーム化はありうると考えている。

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2008年7月 7日 (月)

美味しくなった大手スーパーのお米

以前、大手スーパーの扱うお米がまずいと記した。つい最近、地元の米に少し飽きたので、大手スーパーのお米を試しに買ってみた。

というのは、大手スーパーが農業に進出するという報道があったからだ。彼らは、利益のサヤが抜けると思えば、どこにでも進出するし、そして撤退もする。果たして、彼らが本気で農業に取り組む気があるのかと思ったからである。

そういうところが取り扱うお米に変化があるか、試してみたのだ。購入したお米は、地方のお米だったかが、予想に反して、それは美味しかった。以前同じスーパーで買ったお米とは比べ物にならない。あれは兵庫県産米ということだったが、ひどかった。まあ、あれに比べれば、どこのお米でも美味しいとも言えないこともない。しかし、本当に味は良くなっている。

問題は、それはいつまで続くだろうかということと、生産農家を成長発展させる意思があるかどうかということ。彼らは、生産農家が言うことを聞かなくなると、容赦なく切り捨て、新しい農家を見つける行動に走るのではないか。

そういうことは、過去の行動事例から、十分推測できる。今までやってきた企業行動を見ると、どうも信用できない。ここはじっくり、その行動を監視するとしますか。

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2008年7月 5日 (土)

今年の土用の丑、どうする?

本当に、次から次へと偽装のオンパレード。食品業界の体質なんでしょうね。農水省も、甘やかしてきたのでしょう。難しいからと言って、放置してきたのが現状のような気がする。彼らの無能さに付け込み、業者はやりたい放題。

農水省は、業者になめられているのだろう。政治家と共に業者との癒着を疑われても仕方ない。これなら、いっそ業務を業界品質管理手法を理解している経済産業省に移管した方がましかもしれない。

さて、今年(平成20年)の土用の入りは7月19日で、土用の丑は7月24日(今年は8月5日も)だ。両親は、鰻が比較的好きで、毎年土用の丑だけには、必ず鰻を食べていた。流風は、子供の頃は、ぎとぎとになった鰻丼はあまり好きではなかったが、社会人になった頃からは、少し食べるようになった。それでも、大好物と言うほどの物でもない。

もともと平賀源内が、鰻屋の販売促進用に作ったキャッチフレーズが、大ヒットした結果が、現在まで続いているようだが、確かに栄養的には、この時期に望まれるようだ。

だが、今年は、少し様相がちがう。例の偽装問題が、タイミング悪く発覚している。どうも、積極的に食べようとは思わないのだ。本物も、偽装も、こうなれば同じ。気分的に、そんな気にはならない。今年は鰻はパスすることになるだろう。

というのは嘘。結局、一尾ぐらいはどこかで食べることになるかもしれない。そんなに頻繁に食べるわけではないので、毒でも入っていない限り、大した影響はない。だが、偽装だけならまだしも、禁止薬品も使用されていたとなっては、これは本当にパスせねばならないかも。源内もどこかで嘆いていることだろう。鰻文化もなくなるのかと。

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2008年7月 4日 (金)

五箇条のご誓文 その四

今回は、前回に引き続き、五箇条のご誓文 の三番目の文言を取り上げる。その文言は次のようだ。

一、官武一途庶民に至るまで、各其志を遂げ人心をして倦まざらしめんことを要す。

由利案では、「官武一途」はなく、庶民のあり方として述べている。それを福岡が書換えた。それは政治がらみの主張に転換している。

今から考えれば、それはおかしいと言えなくもないが、当時は、お上中心主義(今でも名残はあるが)。国が指導的役割を果たさなかったら、どうにもならなかったのも事実だろう。由利案は、多分に海外の文化の移植を急ぎすぎた感がある。

さて、その内容としては、中央政府と地方が一体となって、一般庶民も含めて、その志を遂げ、人心が倦まないようにしなければならない、という意だ。この中で、「倦む」という意味の解釈であるが、いろいろ捉え方があるだろうが、だらけ腐るという意味にも聞こえてくる。

人間も、生鮮食料品のように、何もしなければ腐ってくる。将来に対する何の展望もなく、だらだらと時を過ごしては、その精神も頼りなくなる。人が腐れば、国家も腐る。そうならないようにするためには、一人一人が、明るい未来を夢見つつ、将来を展望できるようにするのが、国の役目だ。

また、この「倦まざらしめんこと」については、父は大好きな言葉だったようで、よく独り言を言っていた。自分自身の役割をしっかり認識して、日々の生活を怠らない努力をしていたように思う。それは別に大層なことではなく、朝起きて、顔を洗うことから始めて、日常のありふれた生活を確実に過ごすことだった。

流風は、若い時、父のそのような生き方に面白みを感じなかった(母も同様だったようだ)が、今から考えると、常在戦場の精神があったのだろうと察することができる。明日という不確実に、いかに用意と準備を怠りなくするか。

結局、国家とは、それを構成する人たちに、いかに日常において意識させ目配りすることが大切なのかもしれない。もちろん、そういうことをできない人たちも、守ってやる必要もあるのだが。

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2008年7月 2日 (水)

兄弟の争い~『七歩詩』

兄弟は他人の始まりとよく云われる。血は濃いのに、そういうことになるのは、いろいろな原因があろう。民間であれば、兄弟が兄弟である間は、別に問題がなくても、つくものがつくと(すなわち結婚してしまうと)、相互の関係は微妙なものになりがちだ。

それが権力者の跡継ぎをめぐる闘争となると、周囲を巻き込んで大変だ。周囲は、自分の支持する人が跡継ぎになれば、自分の地位は確保できるとして、奔走する。そういうことが兄弟の間の隙間を大きくする。

いつの時代も、そういう醜い争いはあった。それが人間というものかもしれない。闘争を抑制すると、抑制した側が、やられてしまう例も少なくない。生き残るのは大変なことなのだ。闘争には、いろいろやり方があると思うが、基本的に、負けた者が、生き残るのは、新しい権力者からすると、不安でしようがないものらしい。そういう気持ちはわからぬでもない。

そういう例は、例えば、日本では、織田信長や、徳川家光なども、兄弟と争っている。中国の例では、曹操の息子兄弟の場合も当てはまるだろう。今回は、この話題を取り上げよう。

兄は、曹丕(そうひ)といい、弟は曹植(そうち)と言った。曹操は、文武に優れた曹植を愛したが、直情径行で粗暴であったため、やむなく、後継者には曹丕を指名している。これが魏の文帝である。

文帝は子供の頃から曹植を嫌った。親に可愛がられた弟を兄がいい気持ちであったはずがない。その気持ちをずっと文帝は持ち続けていたのだろう。そして、ついに、帝についたのを機会に、彼に言いがかりをつけて殺そうとした。

しかし、弟には、何のことかわからない。いつも兄弟として接してきたのに、という感情があるだろう。愛情を受けてきた人間は、それが当たり前と思い、他の人の思いには、どうしても鈍感になりがちだ。兄の内心を把握する所までは行かなかったようだ。

文帝が、国法を犯したとして、曹植に命令する。「私が七歩歩くうちに、詩を作らぬ時は、命はないものと思え」と。

しかし、曹丕の予想に反して、曹植はたちどころに、次のような詩を作った。彼は若い時から、詩・文に通じていた。それが身を助ける。その詩は、次のようだ。

  豆を煮て持して羹(あつもの)を作る

    豉(し)を漉して以と汁と為す

  萁(き)は釜底に在って泣く

  本(も)と是れ同根より生ず

  相煮る何ぞ太(はなは)だ急なる

意味は、次のようだろうか。

   豆を煮て、豆乳を作り、

   豆を発酵させて汁にする。

   豆の殻は(乾かして)釜の下で、(豆を苦しめようと)燃やして、

   豆は釜の中で泣いている気持ちをお察しください。

   私達は、同じ根から育った豆と豆殻なのに、

   どうして、そんなに急いで、加熱して、私を苦しめるのですか。

   (結局、誰かを利するだけではありませんか)

さすがに、文帝も、彼を罰しなかったという。しかし、兄が権力者である弟の立場は微妙である。いかに弟が忠誠を誓っても、その取り巻きはどう動くかわからない。それは正しい緊張感で政治を執り行えばいいが、大体が権力者独特の不安感に苛まれるようだ。

*参考

 『七歩詩』には、詩吟にした、次のようなものもある。日本では、こちらの方が有名かもしれない。

  豆を煮るに豆の萁(まめがら)を燃(た)く

  豆は釜中に在りて泣く

  本是れ同根より生ず

  相煮る何ぞ太だ急なる

 

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2008年7月 1日 (火)

原油高騰は最後のあだ花か

原油価格が異常に上昇し続けている。省エネの進んでいる日本でも、さすがに物価の上昇は避けられない。いろんな所で、語られているように、その原因は、新興諸国の需要増と資金が投機的に原油に流れているというのは、確かにそうであろう。

しかしながら、今回のオイルショックは、過去のものとは異なるかもしれない。というのは、最後のオイルショックになりかねないということである。歴史的にも、過度の資金が資源に流れる時、それは最終章ということも多い。

例えば、石炭もそうであった。その前では、薪とかも、そうだったかもしれない。そのようになるには、確かに新エネルギーの登場が必要かもしれないが、それは目前に迫っているのではないか。

かつて新エネルギーに対して、及び腰だった政府も、太陽光発電等に注力すると言うし、ガソリンを使わない車も、いずれ市場を席巻するだろう。少なくとも、原油がらみの消費は、直接・間接に減っていくだろう。

そして、これは新興諸国を含めて展開される可能性もある。そうなれば、原油需要は低迷することになる。もしそういう展開がなされるなら、原油価格は、暴落し、低迷することになる。今は、その嵐の前のしかけのような気がする。

賢い投資家や投機家にとって、今は、誰が婆を抜くのか、虎視眈々と狙っている段階だろう。いずれにしろ、過剰な投機マネーは調整されると見ておいた方がいい。世の中は、そのようにして発展していくのだ。まあ、投資している方々は、婆を抜かないようにね(笑)。

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