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2008年8月31日 (日)

夏の困った客

まるで雷雨のような大雨かと思えば、梅雨のような雨が続き、関西にも蒸し暑さが戻ってきた。しかし、その一方で、夏の終わりを告げる、ツクツクボウシが鳴きはじめた。まもなく秋を迎えるのだろうが、残暑はいつまで続くのだろうか。

ところで、流風は、夏の来客は苦手だ。夏は好きだけれども、来客は、暑苦しい。親戚の人で、流風家に連なる人では、割と珍しくおしゃべりな叔母さんがいた。彼女は話題が豊富なのだろうが、どうでもいいことが延々と続くで、両親も、その扱いに苦慮していた。もちろん、楽しい人には違いないのだが、それも程度問題。

まだ、冬のような寒い時期には、なかなか賑やかに盛り上げてくれるので、それはそれでいいのだが、夏になると、それは苦痛になる。早く帰ってくれないかと、サインを送っても、わかっているのか、わかっていないのか、軽く無視されて、とうとう父が痺れを切らして、もう帰ってくれないかと、言っていた。

流風も、確かに困った叔母さんだな、と思ったこともあるが、話題が豊富でいろいろ教えてもらったので、親戚の人の中では印象に残る女性でもある。まあ、いろいろプレゼントも頂いたし(笑)。

さて、漢詩にも、程暁による『熱客を嘲る』(*参考参照)と題したものがある。暑い盛りは、お互い訪問しないものなのに、気の利かない連中は、夏に訪問してくる、と批判的に詩を作っている。今は、扇風機もあるし、クーラーもある。しかし、当時は、せいぜい団扇ぐらいだろう。その気持ちが手に取るようにわかる。現代でも、扇風機やクーラーがあっても、来客の熱気は、暑くなる。夏の訪問は、避けたいものだと、夏の終わりに、つくずく思う。

*参考   程暁  『熱客を嘲る』

  平生 三伏の時、道路 行く車なし。

  門を閉ざし、暑を避けて臥す。

  出入 相過(よぎ)らず。

  今の世の褦(だい)●(たい)子、    (●は衤に戴)

   熱さを触して人の家に到る。

  主人 客の来たるを聞き、

  顰蹙すれども 此れを奈何せん。

  当に起ち行き去るべしと謂(おも)いしに、

  安坐して 正に●(はん)跨(こ)す。  (●は、足ヘンに半)

   説く所 一つとして急なるなきに、

  ●(とう)唅(かん)  一に何ぞ多き。  (●は、口ヘンに沓)

  疲れ倦みて これに向かうこと久しく、

  甫(はじ)めて問う 君 極(つか)れし那(や)と。

  扇を揺がせば 髀(ひ)中疾(いた)く、

  流るる汗は 正に滂沱たり。

  小事為りと謂う莫かれ、

  亦た是れ一大瑕(か)なり。

  戒めを云う 諸高明に、

  熱行は宜しく呵(とが)め見るべし。

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2008年8月30日 (土)

政争と蝸牛角上

  蝸牛角上 何事をか争う

  石火光中 この身を寄す

  富に随い 貧に随いて しばらく歓楽す

  口を開いて 笑わざるは 是れ癡(ち。愚かな)人

                                             (白楽天、「対酒」より*参考)

近頃、政治家の皆さんは、選挙が迫ってきたのか、なりふりかまわずの政争だ。選挙民に対するご機嫌取りの政策をごり押しする政党もあれば、無理な財政出動を主張する議員もいる。そして、この期に及んで、政党離脱騒ぎ。無責任極ると言うのは、このことを指すのだろう。

さて、そのことはさておき、先に挙げた詩の元になった、「蝸牛角上の争い」という話は、『荘子』則陽篇第二十五の三にある。魏の国の恵王が、盟約を破った斉の王の仕打ちに激怒して、斉を攻めようと言い出した。しかし、臣下の意見はまとまらない。その中で、賢人、戴晋人が、蝸牛の二つの角に例えて、この二つの角が戦う無駄を示して、戦争を諌める話だ。

確かに、物事を大きく視る目を養えば、そのように捉えられるだろう。しかし、目前の選挙という現実ばかり見て、保身に捉われると、見えるものも見えなくなる。政治家の皆さんは、真に国民・国家のために汗を流してもらいたい。また、そういった政治家を選びたいものだ。

*参考 詩の大意

 蝸牛の角の上のような狭い世界で、何を争っているのか。

 人の人生は、火花のように短い世界に寄りかかっているのだ。

 富のある人は、富のあるように、貧しい者は、それなりに、人生を楽しもう。

 口を開いて笑わないのは、馬鹿げている。 (気持ちの持ちようで、人生はどうにでもなる)

まあ、彼はエリートだから、詠える歌でもあるのだが。でも、どうでもいいことに捉われて、無駄な時間を過ごさないようにしたいものです。

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2008年8月29日 (金)

パンダ誕生とパンダの映画

神戸市立王子動物園で、人口受精によるジャイアントパンダの赤ちゃんが誕生したようだ。どこかの知事は、パンダ外交で、パンダはいらないと仰ったらしいが、日本で生まれるのが増えたら、確かに、もういらないかもしれない。借り賃も高いしね。

とは言っても、まあ、この赤ちゃんも、いずれ中国に引き渡す約束らしいから、いくら日本で生まれても、日本ではパンダは増えない。労多くして、成果少なし、ということか。それでも人工授精が今後、どのように進化していくのか、わからないが、今後の展開を見守りたいと思う。

でも、赤ちゃんは、いつ公開されるのだろうか。三ヵ月後ということだから、年内にはお披露目があるかもしれない。久しぶりに動物園に行きたくなった。

また、もうすぐ『パンダフルライフ』という映画が公開されるが、何ともタイミングの良い、パンダの赤ちゃんの誕生だ。ちゃんと計算していたのかな。まず、これを観に行くか。我ながら、ミーハーだな(笑)。

*追記

残念ながら、本日29日、パンダの赤ちゃんが死んだと発表があった。今後に期待しよう。

*参考  『パンダフルライフ』  8月30日より全国ロードショー

       http://www.pandaful.jp/

*参考 神戸市立王子動物園  

       http://www.ojizoo.jp/

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2008年8月28日 (木)

異常なドル高は迷惑

サブプライムで混乱している米国のドルが異常に高いと思っていたら、米国の主導で、日米欧が、秘密合意で、ドル安防衛をしていたらしい。なんだかねえ。そんなことをやっても、却って、米国の衰退を早めるだけなんだけれど。

市場介入に、あれだけ批判的だった米国が、いざ自分の身に火の粉が降りかかると、そんなことは忘れて、介入する。まったく、外交と同じで、ご都合主義。また、それに、はいはいとついていく日欧もいい加減だ。

そして、それなのに、日本は、おかしな低金利を続行している。適正な金利水準は必要だ。為替も、明らかに円安の度が過ぎる。それが、原油高と共に、輸入インフレで、景気を悪化させる。結局、迷惑するのは、国民だ。米国のバブル崩壊の尻拭いをなぜ日本国民が被らなければならないのか。

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2008年8月27日 (水)

元首相の方々は、すぐに引退を

元首相の方々がいろいろ発言して、物議を醸しているが、彼らの存在は正直言ってうっとうしい。首相在任中に、どれだけの成果を上げられているだろうか。後輩議員に影響力を残したいのだろうが、これは政治を停滞させかねない。

そもそも首相になった方々が、議員に留まるのも、けったいなことである。双六であれば、上がった人が、そこにいるはずがない。彼らは、即、引退して、他国の首脳同様、思い出(回想録)を出版でもすればいいのだ。

次の選挙では、引退して、選挙には出ないでもらいたい。選挙民の方も、世代交代を意識して、新しい議員を選んでもらいたいものだ。

*平成20年9月25日追記

小泉元首相が引退を表明をされたようだ。賢明な判断と思う。他の元首相たちも早く引退してもらいたい。

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2008年8月25日 (月)

景気対策の行方

現在(2008年8月末現在)、政府により景気対策がらみで、財政出動の必要性が謳われているが、疑問が多い。現在の経済停滞は、原油価格の上昇が主たる原因で、そこに財政出動させたところで、経済が活性化されるかどうかは多分に疑わしい。

例えば、漁業関係者からの要請で、燃料代を負担したのは、いろいろな要素があるが、本来あるべき姿ではない。燃料代を国が負担しても、漁業全体が活性化するかどうかは、疑問だ(*注)。

問題は、漁業全体が抱えている諸課題を解決することなしに、漁業の将来の見通しは語れない。仮に、燃料問題を解決しても、全てが解決するわけではない。業界の後進性打破、流通の既得権打破、消費構造の改革、漁業マーケティングの強化なしには、明日はない。

これらは、何も漁業だけではない。国内のあらゆる分野の業種にも当てはまることだ。そんなところに、仮にお金をいくら、ばら撒いても、経済効果は短期的で、結局は、国民の負担が増すだけである。輸入物価の上昇は、単なる財政出動では解決しない。

それでは、どうすればいいのかと言うと、原油情勢は見極めながらも、その問題とは切り離して、国内問題を解決していくことが求められる。全ての業界の問題を洗い直しし、業界に課題を投げかけることが求められる。その上で、それを支援するのなら反対はしない(しかしながら財源は限られる。無駄遣いしている分を振り分けるぐらいか)。

そして、景気対策として残される政策としては、租税政策の変更と、そのアナウンス効果を利用した景気刺激策が望ましい。日本のように、ある程度、確立された市場では、強い政策誘導か、税制の変更しか、市場を刺激できないからだ。

ただ、一部議論であるように、高齢者の投資を増やすために、配当や投資利益の控除枠を増やすような政策は、決して取らないでもらいたい。そんなことで、高齢者の国内投資は増えないであろう。聞く所によると、証券会社等に勧められて、火傷している高齢者も多いようである。彼らが、もう一度、市場に戻るとは考えにくい。

税制の変更は、所得税の累進化税制度の強化(所得の二分化の是正)であり、財産税の見直し(現在バブル破綻後の優遇措置が続いているので、以前の制度に戻す)であろう。但し、財産税の改正による増収は限られるだろう。

結果的に、問題の消費税も、残念ながら、数年後、上げざるを得ないだろう。これは民主党政権になっても、税の名前を変えて、上げる可能性がある。それなら、上げる日程を早めに発表して、アナウンス効果を経済活性化に活かすべきだろう。

もちろん、上げ幅で獲得できる税の使用は、社会保険関係に使われるように制限すべきだろう。そうしないと、国民の納得は得られない。民主党が主張するように、流用禁止法案の成立も必要だろう。そのようにして、国民の不安が解消されるのなら、国民の賛意は得られるだろう。

上げる幅は、数年に分けても、合計で5%程度になるだろうが、食料品控除の問題は、消費税10%までは難しいだろう。但し、10%を超えた場合の、10%を超える部分については、食料品控除問題として、もう議論されていいのではないか。そのように、景気対策は、財政政策ではなく、租税政策の議論が優先されるべきだろう。

*注

実際には、補助金には省エネなど条件が付いており、申請が大変なこともあり、漁業者は敬遠しており、補助金の実績はないようだ。

*追記

公明党が、定額減税を主張しているようだが、ピンボケ。時代遅れの政策だろう。この政党には政策提言能力がないのかもしれない。あるいは、自民党と距離を置きたくて、自民党に嫌がらせをしているのかもしれない。そのように国民に見せたいのかな。まあ、選挙対策だな。せいぜいその程度の政党だ。

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2008年8月24日 (日)

海外報道と様々な考え方

凡そ、世の中、いろんな考えを持つ人で成り立っている。どの国にも、いろんな考え方を持つ人がいる。マスコミなどは、単純だから、全ての国の現象を、一面的にスポットを当てて報道し騒ぎ立てるが、それは、その現象を作り出している人々の術中に嵌っているだけのことである。

だから、特に、マスコミの一面的な海外報道を鵜呑みするのは危険極まりない。現象は何も仕掛けなくして起こることは少ない。確かに自然発生的に起こることもあるが、大抵が誰かが焚きつけている歴史的事実を知っておく必要がある。

マスコミはネタを探しているので、視聴者の食いつきのよい情報に飛びつきがちだ。情報操作する人間にとっては、まさに利用しやすい道具と言えるだろう。そのことを認識しているのかどうかわからないが、各国のマスコミは嵌められやすい。

それでは、私達一般人はどのように対応したらよいのだろうか。各国にいろんな考え方を持った人がいることを忘れてはならないだろう。そして、様々な現象の裏にあるものを、基本的に自分で考えるくせをつけることかもしれない。もちろん、それには情報を捌く技術が必要だけれど。

*追記

そして、これらの海外報道に対して、評論家が色々言うからややこしくなる。最近は、マスコミ受けのよい極端なことを言う評論家が好まれるのも、困ったことだ。バランスの取れた評論家も、いるにはいるが、最近は、あまり採用されないようだ。若い人は、このような評論番組は、あまり視聴しない方がいいかもしれない。

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2008年8月23日 (土)

根と葉のバランス

ここ数日、急激に気温が下がり、体調管理が難しい。昼の気温が十度以上も下がり、朝晩は、それ以上なので、さすがにちょっと応える。それに今年の関西は、湿度が低く、いつもより寒く感じる。湿度計が40%~50%程度なのは、冬ならともかく、この時期には珍しい。この夏、関西独特の蒸し暑さは避けられたのは嬉しかったが、ちょっと不気味な感じだ。

さて、秋の雰囲気が急に漂うようになると、木の植え替えも可能となる。あまり大きい木は植え替えは素人はできないが、小さい木は、流風でも可能だ。ただ、この植え替えも、いい加減にやると、枯らしてしまうことになる。

基本は、根と葉のバランスを取ることだ。つまり根を切れば、葉も切らねばならぬ。普通に考えれば、当たり前のことも、案外見落とす。根を切って、葉を切らねば、水分の汲み上げが少なく、葉が枯れることになる。

よく収入の範囲内で生活しなさいと、言われたものだが、収入が減っているのに、生活はそのままで、生活が苦しいと言っている人がいる。当たり前の原理を理解していないからだろう。

そして、いかに、「根」の収入が増えたとしても、「葉」の支出を多くしないことが、木が大きくなる条件と言える。無駄な支出は切り捨てるべきなのだ。そういうことができる人が、世の成功者と言えるのだろう。

*追記

よく家の前に、木を三本植えよと云われる。そうすると、夏は涼しくなり、冬は風を遮り、保温効果があるからだ。

また漢字では木を三本書くと、「森」になる。もちろん、一挙に「森」にするのではなく、二本植えて「林」にするプロセスを踏む必要がある。その上で、「森」にする。

これは企業でも、家計でも同じことだろう。収入源の柱を数本、作ることは大切だ。根と葉のバランスの発想と共に、昔の人は、うまく考えた。自然はいろいろ教えてくれる。このことは、マンション住まいでは何もわからない。脱マンション生活が望まれる。

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2008年8月22日 (金)

善意は巡る

社会人になって、少ししてから、ちょっと田舎に小旅行した時のことだが、バスに乗って、支払う段になって、お金が一万円札と五千円札しかなく、運転手と少しもめていると、後ろから背中を叩く人がいる。高齢のおばあさんだ。そして、「これ使いなさい」と小銭を渡してくれた。お礼を言って、下りたが、あんなに嬉しかったことはない。

こういう経験は、流風は、この経験が生きず、あと一回経験している。その時は、回数券を一枚頂いた。それ以後、これに懲りて、バスに乗るときは、その前に必ず小銭があるか、千円札ががあるか確認するようになって、そのような恥ずかしい目に合うことはなくなった。

その後、流風と同じ様なことをしている若者や学生がいることに何回が遭遇した。一回は、運転手が、どなたか両替できませんかとアナウンスがあったので、それに応えた事がある。

その後、回数券や小銭を渡したこともある。あのおばあさんには、お返しはできなかったが、違う形で返すことができた。そう考えると、少し大袈裟だが、善意は巡るということは言えるかもしれない。

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2008年8月21日 (木)

雨に濡れる女人

  鶯の 花をぬふてふ 笠もがな

      ぬるめる人に きせてかへさむ

最近の雨は、急に降り出すので本当に困ったことだ。先日は、傘の準備をしていなくて、びしょ濡れになってしまった。軒で雨宿りしようかと思ったが、生憎適当な場所がない。少し行くと、小さな店の軒先で女性が濡れながら雨宿りしていた。とても一緒に雨宿りできるようなスペースではなかったので、結局、濡れながら帰ったのは少し残念(笑)。本当に大変な一日でした。

さて、先に挙げた歌は、『伊勢物語』にあるものだが、女の人が後宮の凝華舎から雨に濡れて退出する姿を見て、ある男が詠ったもの。梅の花笠があれば、あなたにお着せして返しましょうものに、というような内容。凝華舎の中庭には、梅が植えてある所から出た発想で、鶯が花笠をつくると云われているところから創作しているようだ。

それに対して、女の返歌は、次のようだ。

  鶯の 花を縫ふてふ 笠はいな 

      思ひをつけよ ほしてかへさむ

まあ、笠などはいいですから、あなたの思い(“火”をかけている)をつけてくださいよ。そうすれば、濡れた着物を乾かして、あなたへの思いを返しますよ、と返している。

裏読みすれば、あなた、また私に雨をネタに私にちょっかいなどかけたりせずに、本当に私のことを思ってくださいよ。そんな気もないくせに、というニュアンスだろうか。女性の歌の方に技ありというところかな(笑)。

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2008年8月20日 (水)

美しい老人

演劇の分野では、老人の真似をすることは難しいそうだ。『花伝書』でも世阿弥は、老人の真似は能の芸の実力が、そのまま出ると言っている。老人の身体イメージそのままに演じれば、汚くなるから、老木に花が咲くような感じにする必要があるとしている。能の老人と現実の老人は違うだろうけど、世阿弥は老人の理想を描きたかったのかもしれない。

さて、母は、常々美しく老いたいと言っていた。それでは、老人の美しさとは一体何なのか。母は、「女は、歳が行くと、どうも品がなくなる。しかし、恩師は、いつまでも凛として年と共に、さらに美しさに磨きがかかった。あの先生を見習いたい」と思い出しながら、深いため息をついていた。

確かに、街を歩くと、男女共に品のよい老人はいる。ただ(他の地区は知らないが、関西に関しては)段々少なくなっている感じだ。昔よく見た品のある老人は確かに、男女共に頑固な人が多かったが、一本筋が通っていた。それが心身ともに姿勢をよくし、美しく見えていたのかもしれない。

最近は、どうも、がさつな老人が増えているような気がする。そして女性の60代の老人に特に多い。特に、いい物を身に付け、一見、品がよく見えても、話せば、がっかりという老人は多い。仕草の美しさや話に中身がないのだ。彼女らは、老人と言われるのを嫌うが、外見は老人でなくても、中身は既に老いている。

なぜ女性の方が歳とともに、品がなくなるかというと、これまた母の言だが、「女は現実に執着すると貧しい顔や風体になる」とのこと。

それでは母はどうだったのだろう。確かに恥ずかしがり屋で、始末な生活を通し、贅沢とは縁遠かったが、読書好きで、夢想気味の人生だったかもしれない。また他者を頼ることを嫌い、自立心が旺盛だった。それが惨めな雰囲気を出さなかった可能性もある。美しかったとまでは言えないが。

そう考えると、信念を持ち、いつまでも何か理想を追いかけ、活き活きとした生活を送ることが、美しさを保つと言えるかもしれない。男女を問わず、何か理想を持ち続ける意識が大切なのだろう。サミュエル・ウルマンの『青春』を再確認したいものだ。

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2008年8月19日 (火)

昇進に対する考え方

  ながらへば またこのごろや しのばれむ

          憂しと見し世ぞ 今は恋しき

 (藤原清輔朝臣、新古今集巻十八、百人一首第八十四番)

この歌は、昇進ができなかったことに対する不満を表したものと云われている。時に、藤原清輔朝臣、30歳頃の歌らしい。出世欲の盛んな年齢と言えなくもない。まあ、出世できないことを辛いと思えば、辛いのだろう。人間は、相対的判断をする。特に似たような年齢で、出世が遅れると辛くなる。

でも、人間はゆっくり出世した方がいい。人間の成長は、それほど早くない。促成栽培の人間は脆い。他がどうであろうが、自分なりの道をきっちり歩んだ方が、いい。だが、人間の煩悩は時として生じる。それが人間を苦しめることになる。でも、長期的に見れば、適正に評価されると思いたい。焦らず、じっくり歩みたいものだ。

さて、サラリーマンであれば、多かれ少なかれ昇進に対する気持ちはあるだろう。ただ昇進に対する考え方は、雇用者と被雇用者では違うかもしれない。本当は、昇進は結果に対する評価と将来に対する期待である。

だから、昇進して、それで成長が止まれば、企業としては、期待はずれということになる。ところが被雇用者側は、やっと地位が獲得でき、それで満足してしまうことも多いようだ。それはわからぬでもない。昇進のために、エネルギーをフルに活用してきたのだから、そこで一服したい気持ちがある。

もちろん、昇進の喜びを味わうのは悪くないが、できれば昇進する前に、昇進後の方策を用意しておくことが望ましい。よく言われるように、サラリーマンは、一つ上のランクの仕事を観察すべきなのだ。

つまり自分ならどうする、こうするという考えを日頃から蓄え、準備していることが大切だ。そういうことを準備せずに、昇進してしまうと、次の段階になかなか進めなくて、企業に迷惑をかけることになる。そうなれば、昇進させるべきでなかったとか、という意見が社内に出てくる。結果的に本人は辛くなる。そういうことのないように、中長期的に準備してもらいたいものだ。

*追記

記事では、ざっくり「昇進」としているが、正確には昇進、昇任、昇格と分けられる。ここでは、全てを対象としている。

◎昇格

会社内の階級が上がり、基礎給与や基礎ボーナスも上がる。

◎昇進

会社内の階級はそのまま、基礎給与もそのまま、会社の肩書が上がり、役職手当が増え、ボーナスも増える。

◎昇任

会社内の階級や給与関係はそのままで、部署内の肩書だけ上がる。

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2008年8月18日 (月)

肝試しを考える

子供の頃は、大体暗くなると、怖くなるものだった。最近の子供は、夜、うろうろしているので気持ち悪い。事件も起こるはずだ。流風の子供の頃は、夜、子供が出歩くのは、祭りの時ぐらいだった。親に脅かされ、夜の外出は当時考えられなかった。

夜の暗さがなぜ怖いかと言えば、ある意味、刷り込みかもしれない。怖いお化けや幽霊の話を母から聞かされ、暗いところは、怖いものだと思わされる。だから、いたずらをして、父から押入れに入れられたことさえ怖かった。

しかし、夜の外出は許されないとは言うものの、夏に、近所の子供が集まってやる「肝試し」は親公認だった。親に連れられていった「お化け屋敷」も怖かったが、近くに親がいるので、何とか耐えられる。

だが、「肝試し」は、子供だけで行くので、あの暗さは結構怖いものだった。近所の墓地に行って、指令されたものを取って戻るのだが、はじめは元気にしている近所の友達も、お墓の近く辺りに行くと、灯りがないので、不気味に感じ、もう帰ろうとうるさいこと。さっきまで、人魂など怖くないと強がり言っていたのに。

お墓近くに行くと、不思議に何か光っているように見えて、怖かったものだ。恐る恐る近づき、目標のものをゲットし、冷や汗かきながら戻ったものだ。確かに、暑い夏に、少しひゃっとする。

最近になってよく思うのだが、人間、怖い物の存在は一つぐらいあった方がいいかもしれないということ。確かに、肝の据わった人は、少々のことには動じない。その人たちは、「あると思えばあるし、ないと思えばない」と言って、その逞しさを見せ付ける。

しかしながら、人間は絶対ではないだろう。何かを怖れることで、心のブレーキは働く。子供の時に、そういう教育も必要だろう。そう考えると、肝試しも捨てたものではない。

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2008年8月17日 (日)

姥捨山はどこに

  わが心 なぐさめかねつ 更科や

        をばすて山に 照る月をみて

凡そ、嫁と姑の関係の難しさは、今に始まったことではない。どこの国でもある問題だろう。しかし、現在の日本のように、世帯が細かく分離してしまっては、家に伝わる文化も途切れてしまう。そういう意味では、嫁・姑問題を避けることは、日本文化を断絶させる原因にもなりかねない。

実際、姑関係に悩んだ嫁は、家を立派に守り立てている女性が多い。亡き祖母によると、「女は、大体、楽な方向の思考になりやすい。手抜き料理などというのは、その好例。姑は、それにブレーキをかける役割がある。駄目な嫁も姑に鍛えられて、まともな嫁になる。鉄は熱い内に打たなければならない、という諺は女のためにあるようなもの」と常々言っていた。

まあ、これを現代の女性がどう捉えるかはわからないが、一応理屈は通っているかもしれない。しかし、嫁と姑の間に挟まれて、いつも苦悩するのは、夫である。親を立てれば、嫁はむくれるし、嫁を立てれば、親不孝者と言われる。

そういうことは、昔から世界で起こっていたことだろう。日本で、これを文学にしたのは、『今昔物語』であろうが、後世、いろんな作家が、これを基にして、いろんな小説を書き上げた。そして、映画にもなっている。

さて、その、『今昔物語』の話では、母親は登場せず、叔母が登場する。その叔母と嫁の関係が悪いのである(*注)。少々呆け気味の叔母はいろいろ物議を醸して、夫も嫁の言うことに一理あると理解し、叔母を騙して、山に捨てに行くのである。

しかし、いざ叔母を捨てて戻ってきたものの、心は晴れない。そこで詠ったのが、最初に挙げた歌である。そして、思い直して、叔母を迎えに行くのである。そして、以前のように養ったとある。

妻は日頃の不満を基に、色々夫に文句を言う。それはストレス発散でもある。夫は、それを真に受けて、道にはずれることをしてはならないと諭している。夫というのは、いつの時代も調整者でなければならないのかもしれない。

看てもらう辛さ、厳しい言葉を受ける辛さ、間に挟まれる辛さ。三者三様の辛さに耐えられず、姨捨山は現代でも存在している。問題は、果たして、それがベストの選択なのかということ。今後も、皆、姥捨山で悩んでいくことになるのだろう。何せ輪廻の問題だから。

*注

『今昔物語』巻三十の第九話にある。舞台は、信濃の更科とある。

*追記

この筋から行くと、「叔母」を捨てたから、「叔母捨山」なのかもしれないが、後世、「姨捨山」となった。「姨」とは、老婆の意味だ。確かに、「叔母」は「姨」であったことから、間違いではなかったのだが、最初の意味からはずれているかもしれない。後世、「姨」を強調して現代に至っている。

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2008年8月16日 (土)

グーグル・ストリート・ビューは禁止を

世の中、何が正しくして正しくないか、判断に迷うことはある。その中で、現在グーグル・ストリート・ビューが話題になっているが、やはり禁止すべきだろう。日本の詳細な情報をあまりに公開しすぎるのは、治安上、問題が多いだろう。

グーグル・ビュー自体は、米国の軍事情報をオープンにしたものかもしれないが、それを更に一歩進めたグーグル・ストリート・ビューは、プライバシーの問題もあるし、犯罪の温床になりかねない。

一部の論者は規制は弊害を招くと言うが、それはあまりにも楽観的な意見だろう。社会的にどういう影響がもたらされるか、という議論がまず第一で、ひとつ利用を間違えれば、社会を混乱させることは、誰でもわかる。

もちろん、詳細地図と一緒ではないかという議論もあろうが、地図では雰囲気まではわからない。犯罪者の特性として、下見をすることを考えれば、その事前情報を渡してしまうのは、極めて馬鹿げている。

確かに、流風のような方向音痴には、有用かもしれないが、グーグル・ストリート・ビューはあえて禁止を望みたい。

*平成21年6月22日追記

総務省は、グーグル・ストリート・ビューを問題なしとしたようだが、基本的に問題がわかっていない。プライバシーは、いくら見えない工夫をしても、守られないだろう。いずれ大きな問題に発展してから、大騒ぎするだろう。その時には、今の政府はないだろうが。鈍感な人たちばかりだ。

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2008年8月15日 (金)

西欧とアジア

一般に、日本人に限らず、世界のあらゆる人は、自分以外の世界の人々は全て自分と同じ考えを持つと判断しがちだ。だが、国際社会において、それぞれの考え方は大きく異なっており、「違い」「異差」を知らなければ、調和することはできない。

特にアジアと西欧では、思考方法が大いに異なる。それは大きくは、文化の基礎が異なるからだと云われて来た。だから、今でも、西欧の思考、アジアの思考の差を、はっきり認識しておくことは大切だ。

特に、日本人は、明治以降、どうも日本人の思考も、西欧の思考も同じだと考えてきたフシがある。鎖国から目覚めた江戸末期から明治時代の指導者は、従来の日本文化などより、単純に西欧文化が優れていると錯覚して、日本文化の延長線上で、物真似してしまった過去がある。

それは以前にも指摘したように、翻訳などに如実に表われている。真に西欧の文化・思考を深く考えなかったのかもしれない。本来、キリスト教布教を先兵とする侵略志向の西欧文化は、日本文化とは全く異なるものであったのに。そして、そういうことを戦後も、現在まで、引き摺っている。

他方、西欧人は、そのように考えないようだ。全て自分が基準で、他はそれに倣うべきだと考えるようだ。彼らは常に他者を見下した感じを常に受ける。流風が今までに会った西欧の人々は、表面上は繕っても、本音の所では、差別感丸出しである。常に自分に都合のいいように基準変更するのは、その表れと言って過言ではないだろう。

我々日本人は、今一度、原点に戻って、西欧の侵略文化を理解すべきかもしれない。それなりに相手の思考方法の差異を理解する必要がある。日本人は、西欧人に憧れを持つといわれてきた(例としては、ファッション、音楽、化粧、ブランド品、茶髪など)が、これは大きな錯覚であったと言える。彼らが必ずしも尊敬できる相手ではない。

そうであるなら、彼らに対しては、彼らの流儀に準じて、アジア的に対抗していく必要がある。ところが、どうも最近の流れは、日本の学者、研究者、官僚の方々は、西欧の考え方が正しいと思いがちだ。彼らの基準に準じる傾向が強い。自らの基準を作る意思が弱い。それは何も若い方々のみならず、結構高齢の方々でも、そういう考え方が見られるのは危険だ。

もちろん、いろんな情報を取り、それを研究し参考とすることは許される。すなわち取捨選択する限りにおいては、西欧の考え方を参考にするのは問題はない。

だが、どうも西欧の資料・データを入手することに精を出しても、その後、自分の頭で考えることが欠けていることが多い。彼らの論理で攻め立てられ、同意することが多いのだ。それは考える行為を侵略されているに等しい。主体性を取り戻し、自ら考え、世界をリードしていく思考がトップ層には求められる。

そして、アジアの中では調和しながら、西欧とは競争していく時代になるのは間違いない。尤も、西欧とアジアの溝はなかなか埋まらないのかもしれないが、時間をかけて、そのように努力することも大切だ。だが、西欧と協調していくのは、彼らが独善主義を廃した、ずっと先のことになるだろう。

*追記

日本が西欧社会の一員と捉えられていると思うのは、大きな錯覚である。そして、彼らの文化を理解することは大切だが、基本的に、良いものだけ、アジアの文化に取り込むのが基本だということを忘れてはならないだろう。

*注記

現在の「西欧」の範囲は、東欧も含まれている。ただ、米国は含まれていない。米国は西欧の亜流だが、若干、雰囲気が異なる。ただ歴史がない割りに、独善主義の国であることは間違いない。それは今回の論点とは別である。

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2008年8月12日 (火)

暑い日々と麦茶

毎日、暑い日が続いている。朝方は、室内で、31度ぐらいだが、夕方だと37度になっている。それもなかなか下がらない。暑いのは嫌いではないが、さすがに室内でとなると暑すぎる。

でもねクーラーはつけない。扇風機オンリーだ。別に節約しているとわけではなく、その方が気持ちよい。ただ外出すると、クーラーが強すぎて、気持ち悪い。公共交通機関にしても、物販店にしても、飲食施設にしても、なぜあんなに強い冷房をするのだろうか。

温度に対する感度は個人差があるとは言え、やはりクーラーのつけ過ぎは室内外の温度差を考えると、あまり気持ちのよいものではない。だから、室外に出ると、ホッとする。

夏バテ対策としては、いろいろ紹介されているが、基本的に十分な食事と睡眠と言うことになるのだろう。今年の夏に限って言えば、食欲は落ちていないし、睡眠もまずまずだ。確かに寝苦しいが、いつの間にか寝入っている。

それに、流風は麦茶をよく飲む。むろん環境のため、ペットボトルを購入したりはしない。毎日、麦茶を薬缶で沸かす。そして、冷ました物をそのままテーブルの上に置いておく。決して冷蔵庫には入れて冷やさない。そのまま飲む。

そうすると、胃腸も快適だ。体調も非常にいい。普通のお茶もよく飲むのだが、麦茶を一日2リットルぐらい飲む。少し運動して、毎回飲めば、あっという間になくなる。流風にとっては、麦茶は夏バテ対策の一つなのだ。

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2008年8月11日 (月)

パーティーの意味

企業には、かつて“宴会部長”なる人物がいた。仕事はあまりできないのだが、各種催しとか宴会では、盛り上げ役となって、それなりの役割を果たすのだ。彼らの役割は、ある意味、潤滑油的なものかもしれないが、陰では、“宴会部長”と揶揄されることになる。

それでも、各種宴会は、非正規の情報交換の場所になって、それなりに役割を果たしている時は、有効で、彼らの存在も必要悪だった。こういうことは、いかにスマートな経営体制になっていても、ある程度は求められる。

さて、外国人や女性を中心にパーティー好きな人種がいる。だが、パーティーは、そもそも孤独な人の集まりで、知り合いを増やし、その孤独を癒したい気持ちがあると云う。男も、いろんな研修や会議で、その後の立食パーティーもその類のものと言えなくもない。

しかし、海外では、私的なものを除けば、パーティーは、本来、会議等で、喧嘩腰で喧々諤々やった後で、それを修復するものと云われている。

だが、その点、日本人は海外の会議では、国内で偉そうにしている政治家、官僚達も、借りてきた猫みたいに何も発言しないと言われている。基本的には、用意してきたペーパーを読んだら、その役割は終了したと思っているらしい。

そして、海外の人たちがいろんな意見を言うのに、沈黙を守るものだから、日本は全てに賛意していると受け取られ、後日、誤解を招くということを度々やってきた。

だから、その後で、パーティーに参加しても、参加者はパーティーの意味を理解していない。自分の見識を持っている者だけが、本来、国際会議などに参加できる資格があるのだから、積極的に論議に参加しなかった日本人は、ある意味、パーティーに参加しても、興味を持たれないことになる。

そのように、国内的には、通用しても、海外では通用しないことがある。ところが、未だに、そのことを学習していない人たちがいる。若い人たちは、国内と海外を使い分ける強かさを持って欲しい。

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2008年8月 9日 (土)

馬鹿と利口

関西では、従来、あまり「馬鹿」という言葉は使わなかったが、最近は使う人もいる。でも、やはり関西では、「アホ」が多いかもしれない。だが、「馬鹿」と「アホ」では、ニュアンスが異なる。しかし、以下では、似たようなニュアンスで述べてみよう。但し、このブログは、東日本の方が閲覧が多いので、今回は、一応「馬鹿」と「利口」の違いとして取り上げる。

凡そ、「馬鹿」と「利口」を比べれば、一般的には、「利口」がいいことになる。でも、多くは、流風も含めて、「馬鹿」ではないかと思われる。そんなことを言えば、怒る人がいるかもしれないが、本当に利口な人がいるのだろうか。

一見、「利口」そうに見える人も、実際は「利口」でないこともあるだろうし、「馬鹿」そうに見える人も、本当は「利口」だったりするのを、私達はいろいろ見てきた。そのように「利口」と「馬鹿」は紙一重なのだ。

一人の人間を、一つのジャンルに決めつけるのは極めて危険と言える。そうであるならば、「利口」ぶるより、「馬鹿」そうに振舞う方が、いろいろメリットが多そうである。変なプライドは、自身のためにならない。

プライドを持つことは大切だが、それが過剰になるのはよくない。そして、自分の持つ「利口」さは、案外大したことがないとも言えるのではないか。そういう自覚をしておれば、あまり自分を追いつめることもなくなるだろう。

*追記

これは、よい成績の人とか、高学歴の人や、出世した人とか、高い地位にある人への警告でもある。自分の存在や地位は、他者によって、相対的に決められていることを忘れてはならないだろう。

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2008年8月 8日 (金)

内閣支持率は国民の意見か

内閣支持率は国民の意見か、と問われれば、多くの人は首肯するかもしれない。しかしながら、マスコミ各社の政権の支持率はかなりばらついており、果たしてマスコミの示す支持率が絶対かと言われると、それは怪しいものがある。

それはマスコミ自体の支持率であり、国民全体の支持率を反映していないことが多いからだ。大体、アンケートは、質問の仕方で、回答は大きく異なるはずである。むしろ各社、誘導尋問的な質問が多いのではないか。

そうならば、各社別々の質問項目でなく、ある一定の基準に基づいた全社共通の質問の仕方でなくてはならない。支持率を問う前の質問事項に、回答者は大きく回答が左右されると考えられるからだ。

それに、マスコミを利用した権力闘争の上での情報戦の場合もあるだろう。だから、昔、某有名知事が、「支持率は国民の意見」で、絶対的なものだと言ったのは、疑問を持たざるを得ない。

もちろん内閣支持率は無視できないが、それには、もっと合理的な世論調査(アンケートのとり方)が求められるだろう。決してマスコミの願望であってはならない。歪められた世論調査を100%信じるのは危い。それにしても、政権の本当の国民の支持率は、どうなのだろうか。

*追記

国民としては、信用できるマスコミの内閣支持率を参考にすべきだろう。少なくとも、読売新聞・日本テレビの内閣支持率は信用できないことは明らかだ。これに限らず、彼らの世論調査は作為的だろう。過去の経験だと、他に、日経系、産経系も、アンケート対象が限られていて怪しい。

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2008年8月 7日 (木)

男らしい男とは

女性がどう考えるかは別にして、男らしい男というのはいる。一般に、男らしい男は、気風が良くて、勇気のある者と思われているかもしれない。それも一つの見方だが、それは匹夫の勇に近い場合もある。ここでは、別の視点で、「男らしい男」を示してみよう。

ある古人は、「男らしい男」の四つの条件を次のように語っている。

 一、人にお金を儲けるだけ儲けさせる。

いかに儲けようが、嫉妬の心を起して邪魔をしたりしない。儲ける人を非難しても、結局、お前は、それができないではないかと、馬鹿にされる。儲ける人には儲けたいだけ儲けさせればいい。

 二、人が女性に溺れようが好きにさせておく。

人が女色にはまっても、忠告紛いのことは一切言わない。人は、あることに集中していると、他人の声には耳を貸さない。そうであれば、させたいようにさせておけばいい。

 三、人が名誉を誇っても、嫉妬の心を持ったりせず、自慢するに任せている。

自慢したい人には、自慢させておけばいい。それを批判した所で、どうなるものでもない。せいぜい反感を持たれるだけだ。

 四、人が派閥を作って勢力を持とうが、為すがままにさせておく。

勢力を持ちたい人には持たせればいい。それを持つなと言っても、せいぜい排除されるだけだ。

どうです。これが「男らしい男」と言っても、違和感を持たれた方は多いのではないか。ただ、この四つの条件を裏読みすれば、次のように捉えられるかもしれない。

 一、  正しく儲けなければ、いずれ儲けられない時期が来る。それを本人が自覚していないなら、いずれ彼は失敗する。

 二、女に溺れて溺れずが、女遊びの原則だが、彼がそれを理解しているのかどうか。それがわかっていないのなら、いずれ彼は女で身を滅ぼす。

 三、名誉を自慢することは、嫉妬や反感者を増やす自殺行為だ。彼がいつまでも、それに気づかないのなら、いずれ多くの人が離反していくだろう。

 四、派閥を作って勢力を増し、権力を得ようとすれば、いずれ他勢力から狙われたり、部下から地位を剥奪される危険性がある。彼が勢力のトップに相応しければ問題はないが、器に問題があれば、いずれ勢力はなくなって、彼は地位を剥奪される。

こういう風に理解すれば、結局、力を持つのは、こういう状況を睥睨し、冷静に読みつつ、全体感を持ち、デザインしていくセンスのある男ということになるのだろう。

まあ、これも「男らしい男」と言えなくもない。ちょっと陰険な感じもしないわけではないが、周囲の状況を把握しつつ、長期的に自分の力を蓄えていくことが大切と言うこともできる。

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2008年8月 6日 (水)

ステテコ一丁

子供の頃、父がステテコ一丁で、家の中はもちろん、近所をうろうろするので、母が非常に嫌がっていた。しかし、父は改めようとせず、「この方が楽なんだ」と言って、それで通した。

流風は、長い間、ステテコの着用はしなかったのだが、さすがに、この歳になると、夏の蒸し暑い季節に、ズボンは短ズボンでも、少々苦痛になってきたので、ステテコを購入し、試した所、大変楽なことがわかった。

まず何と言っても、軽い。ズボンのように物は入れられないが、そんなことを気にしなければ、結構快適だ。父がステテコ姿に執着したのが、やっとわかった気がする。身体も軽く、心も軽くなる。蒸し暑い時期には相応しい。

始めは、さすがに屋外に出るのは、近所の手前、遠慮していたが、段々厚かましくなって、家の外に出ている。それでも、一応、庭ぐらいで、さすがに外出はしていない。ステテコが下着なのか微妙だ。これで外を歩けば、軽犯罪法に触れるかもしれないと思うからだ。

そのステテコ、父が愛用していたのは麻製だ。流風は、綿のものを使っているが、汗をかくと、どこか肌にまとわり付きそうな感じを受ける。ちょっと高額だけど、麻のステテコを入手しようと思う。でも、混麻ぐらいから始めるか(*注)。

*注

混麻製は、綿製より高いが、麻製よりはかなり安い。そういうことで、懐具合と相談だ(笑)。

*2009年8月12日追記

若い人の間で、ステテコが流行っているらしい。ただし、白色ではなくて、デザインステテコだ。これなら、ちょっとした出歩きが可能かな。また女性の冷え防止のために、ステテコが愛用されていると言う。こうなれば、隔世の感じだ。

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2008年8月 5日 (火)

青森のりんごジュース偽装

流風は、りんごジュースが好きで、特に果汁ストレートのものをよく飲む。濃縮還元ものはちょっと美味しくないからだ。ところが、そのストレートジュースでまた偽装だ。青森の業者が青森産のりんご使用と偽って、2年前から出荷していたらしい。

これはちょっとショックだ。なぜなら青森産のりんごジュースは美味しいということで評価していたからだ。流風が飲んだりんごジュースに該当しているかは不明だが、嫌な感じだ。それにしても、全国のいろんな業者が偽装で毒されている事実に唖然とする。

商売の倫理はどこに行ってしまったのだろう。生き延びるためか、不当利得を獲得したいためか、理由は様々だろうが、食品業界の不正は次々と明らかになる。この業界への不信感は、外食産業に対しても広がっている。

もう、消費者は、直接生産者とつながらないといけないのかもしれない。りんご生産者の知り合いを探そうかな。りんごさえあれば、りんごジュースなんて、自分でも作れるし。

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2008年8月 4日 (月)

困った浴衣姿

女性が浴衣を着こなせば、それは黒田清輝(*参考)の絵画ではないが、色気のあるものだ。昔、助平な、ある殿様が多くの女性の浴衣姿を見たくて、祭りにした地域もあるぐらい、その姿は色っぽい。

最近は、茶髪に浴衣姿と、ちょっと違和感を感じることも多いが、意外と似合っている方もいる。まあ、大抵が、そのようにすれば、芋ねえちゃんに見えるけれど。いや、なんば(南蛮黍、とうもろこしのこと)姉さんか(笑)。

ところが、そのなんば姉さんが、ある有名な百貨店の和菓子売り場に、店員として浴衣姿で大勢いたのには、少し引いた。浴衣は着崩れているし、お化けのような化粧だし、頭のセットはへんとこりんだし、とてもいい雰囲気を出しているとは言い難い。何とも言えない品のなさだ。店としては、夏の雰囲気を出したかったのだろうが、まるで逆効果。

結局、贈答用の和菓子を買うのは断念し、他店で買うことにした。店は、客の側に立った服装にすべきだろう。別に流行のスタイルはいらない。若い女性が日頃のファッションで売り場に立つのはどうかと思う。この百貨店全体のイメージ低下にならなければいいのだが。顧客の立場に立って、売り場に立つ人間のファッションチェックは必要だろう。

*参考 黒田清輝展

現在、小磯記念美術館にて、「近代日本洋画の巨匠 黒田清輝展」開催中(8月31日まで)

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2008年8月 3日 (日)

今年も、「昨日・今日・明日」

  昨日といひ けふとくらして あすか川

          流れて速き 月日なりけり

                  (古今和歌集 第三百四十一番、春道列樹)

お盆が近くなると、こういうテーマを取り上げたくなる。流風も、歳がいったかな。実は、昨年も、「昨日・今日・明日」というテーマで、拙ブログにて取り上げた。ただ簡単に触れたので、今年は、もう少し詳しく、違う角度から取り上げてみよう。

前回にも示したように、昔のイタリア映画で、ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニ主演の『昨日・今日・明日』というのがあった。三つの話からなるオムニバスのコメディーで、男女の悲喜劇を描いていた。子供時代に視たので、あまり覚えていないが、父が割りと熱心に視ていた。

後から聞いた話では、一つ目は妊娠中は女性が罪に問われない話、二つ目が女性国会議員とその愛人の話。そして、三つ目が、神学生がストリップ娘に恋をして、てんやわんやの話だったらしい。でも、はっきり覚えていない。やたらソフィア・ローレンが叫んでいたような気がするだけだ。

イタリアの情話と言えば、そうなんだろうけれど、日本人の感覚とは当時ずれていただろう。まあ、今の日本だと受け入れられるかもしれない。しかし、現在でも、日本人は、同じ様に「昨日・今日・明日」と言っても、全く捉え方が違うだろう。国民性の違いと言えようか。

さて、上記の歌は、春道列樹(はるみちのつらき。*注)が年末晦日近くに詠んだようだが、もののあわれを示している。無常観と言えるかもしれない。過去・現在・未来と時間軸での推移をわが身に感じて、そのように感じるのは、自然と一体の感性が導くのかもしれない。

さらに、彼は、別の歌を詠っている。それも掲げてみよう。

  山川に 風のかけたる しがらみは

       流れもあへぬ もみぢなりけり

                  (古今和歌集 第三百三番、百人一首 第三十二番)

一般的な解釈は、次のようなものだろう。

「志賀の山を越えていると、山間の川に、風がかけた“しがらみ”は、流れきれずにいる紅葉であったことよ」。

これは何を語ろうとしているのだろうか。人生の山を越えていると、いろいろ困難なことがある。時代の流れに押し流され、何とかその流れを食い止めようと、「しがらみ」に、身を任せることになってしまった。生きるためとは言え、自分の意思とは関係なく、人生とは思い通りにはならないものだ。

こうしてみていくと、春道列樹には、厭世観が見られる。彼の経歴は不詳だが、多分、亡命帰化人か、逼塞した家系と考えられる。自分の力では、どうしようもない諦めの境地の無常観から生まれた歌なのかもしれない。

*注

春道列樹とは、珍しい名前だ。貞観六年に、物部門起に姓として与えられたようだが、彼の出生は不明だ。帰化人の可能性もあるのではないか。

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2008年8月 2日 (土)

男しか、一流になれないか

母が、「一流といわれる人は、皆、男や」、とよく言っていた。「政治家、学者、技術者、職人、俳優、料理人、皆、そうだ」と。理由を問うと、「男はアホになれるし、集中力もある。女は、現実的やから、適当な所で妥協してしまうからや」と御託宣(笑)。でも、流風みたいに二流の男の多いのも事実なのだが(苦笑)。

確かに、母の言うように、一流と言う人を見渡せば、一部の例外を除いて、男の方が多いかもしれない。もちろん、女性でも、女を捨てた人は、成功している人もいる。女優で成功しているのは、ほとんど「女」を捨て、「男」になっているのだろう。

だから、彼女等は、実質、「男」でありながら、女の振りをした「女優」ということになる。つまり、イメージとは大きく異なるわけだ。そして、「女」を捨てられない女優はあまり長期には成功していない。引退して結婚しているケースが多い。それはそれでいいのだが。

そのほかの世界も同様で、女性の政治家で成功している例は少ない。首相や大統領になっても、ことごとく失敗している。あのイギリスのサッチャーにしても、現在では酷評されている。その他の女性の政治家トップは、皆、ボロボロだ。

男は、女からすれば、どうでもいいことを極めることができる。一見、それは自己満足で無駄のように思えるのだが、後年、それが評価されることが多い。現実を無視して、夢を見ることができる。それが男の特性でもある。

また最近は、女性の研究者も多いが、全体の構想力が弱い例が指摘されている。細々とした辛抱強い研究には向いているが、研究の意味や哲学になってくると、突然現実的になり、その構想力に限界が見えるのだ。そういうことで、女性の研究者の場合、適切な男の研究者をパートナーに迎えることが成功の秘訣と言える。

これらは、全ての業界や分野で言えることだ。男女共同参画なんて、わけのわからない施策があるが、基本的に男女の特性の違いを踏まえて、考えないと、変なことになる。

*注記

この記事に関して、若干の誤解があるようなので、以下に記す。確かに、男が一流になるのに向いているが、そうかと言って、全ての男がそうであるとは言っていない。三流、四流にしかなれない男もたくさんいる。

また女性も一流がいないかと言うと、職種によっては存在する。ただ女性は大体、持続的に平均的な力を発揮する傾向が強い。それが女性の強みでもある。そして、女性にも、三流、四流の人もいる。

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2008年8月 1日 (金)

連帯責任の重要性

最近、連帯責任を軽視する傾向は憂えることである。問題を起こした野球部員の所属する桐生第一高校の甲子園出場が高野連によって容認された理由が、そのようであるのは、決して望ましいことではない。

これは日本の社会秩序を考える上で、重要なことであるからだ。最近の多くの犯罪も、人々が近隣の人に無関心になったことが、その原因と言えなくもないからだ。

江戸時代には、五人組制度があり、それがお互いの牽制になり、社会秩序を守ってきた。それは明治維新後も、その意識は残り、戦後も、多かれ少なかれ影響を受けてきたのだ。

もちろん、五人組制度の連帯責任の負の部分もある。問題を起こせば、例えば、村八分ということもあった。罪を犯した当人だけでなく、その家族も、そういう扱いになり、精神的に追いつめられてきた。

しかしながら、いかに法律が整い、法権力や警察が頑張っても、全ての治安をカバーすることは現実、難しいだろう。やはり、それを補うには、民間で牽制しあう何かが必要で、それで始めて、社会の均衡が保たれる。

そう考えると、連帯責任を軽く考えることは、あまり宜しくない風潮だ。

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