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2008年8月17日 (日)

姥捨山はどこに

  わが心 なぐさめかねつ 更科や

        をばすて山に 照る月をみて

凡そ、嫁と姑の関係の難しさは、今に始まったことではない。どこの国でもある問題だろう。しかし、現在の日本のように、世帯が細かく分離してしまっては、家に伝わる文化も途切れてしまう。そういう意味では、嫁・姑問題を避けることは、日本文化を断絶させる原因にもなりかねない。

実際、姑関係に悩んだ嫁は、家を立派に守り立てている女性が多い。亡き祖母によると、「女は、大体、楽な方向の思考になりやすい。手抜き料理などというのは、その好例。姑は、それにブレーキをかける役割がある。駄目な嫁も姑に鍛えられて、まともな嫁になる。鉄は熱い内に打たなければならない、という諺は女のためにあるようなもの」と常々言っていた。

まあ、これを現代の女性がどう捉えるかはわからないが、一応理屈は通っているかもしれない。しかし、嫁と姑の間に挟まれて、いつも苦悩するのは、夫である。親を立てれば、嫁はむくれるし、嫁を立てれば、親不孝者と言われる。

そういうことは、昔から世界で起こっていたことだろう。日本で、これを文学にしたのは、『今昔物語』であろうが、後世、いろんな作家が、これを基にして、いろんな小説を書き上げた。そして、映画にもなっている。

さて、その、『今昔物語』の話では、母親は登場せず、叔母が登場する。その叔母と嫁の関係が悪いのである(*注)。少々呆け気味の叔母はいろいろ物議を醸して、夫も嫁の言うことに一理あると理解し、叔母を騙して、山に捨てに行くのである。

しかし、いざ叔母を捨てて戻ってきたものの、心は晴れない。そこで詠ったのが、最初に挙げた歌である。そして、思い直して、叔母を迎えに行くのである。そして、以前のように養ったとある。

妻は日頃の不満を基に、色々夫に文句を言う。それはストレス発散でもある。夫は、それを真に受けて、道にはずれることをしてはならないと諭している。夫というのは、いつの時代も調整者でなければならないのかもしれない。

看てもらう辛さ、厳しい言葉を受ける辛さ、間に挟まれる辛さ。三者三様の辛さに耐えられず、姨捨山は現代でも存在している。問題は、果たして、それがベストの選択なのかということ。今後も、皆、姥捨山で悩んでいくことになるのだろう。何せ輪廻の問題だから。

*注

『今昔物語』巻三十の第九話にある。舞台は、信濃の更科とある。

*追記

この筋から行くと、「叔母」を捨てたから、「叔母捨山」なのかもしれないが、後世、「姨捨山」となった。「姨」とは、老婆の意味だ。確かに、「叔母」は「姨」であったことから、間違いではなかったのだが、最初の意味からはずれているかもしれない。後世、「姨」を強調して現代に至っている。

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