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2008年8月15日 (金)

西欧とアジア

一般に、日本人に限らず、世界のあらゆる人は、自分以外の世界の人々は全て自分と同じ考えを持つと判断しがちだ。だが、国際社会において、それぞれの考え方は大きく異なっており、「違い」「異差」を知らなければ、調和することはできない。

特にアジアと西欧では、思考方法が大いに異なる。それは大きくは、文化の基礎が異なるからだと云われて来た。だから、今でも、西欧の思考、アジアの思考の差を、はっきり認識しておくことは大切だ。

特に、日本人は、明治以降、どうも日本人の思考も、西欧の思考も同じだと考えてきたフシがある。鎖国から目覚めた江戸末期から明治時代の指導者は、従来の日本文化などより、単純に西欧文化が優れていると錯覚して、日本文化の延長線上で、物真似してしまった過去がある。

それは以前にも指摘したように、翻訳などに如実に表われている。真に西欧の文化・思考を深く考えなかったのかもしれない。本来、キリスト教布教を先兵とする侵略志向の西欧文化は、日本文化とは全く異なるものであったのに。そして、そういうことを戦後も、現在まで、引き摺っている。

他方、西欧人は、そのように考えないようだ。全て自分が基準で、他はそれに倣うべきだと考えるようだ。彼らは常に他者を見下した感じを常に受ける。流風が今までに会った西欧の人々は、表面上は繕っても、本音の所では、差別感丸出しである。常に自分に都合のいいように基準変更するのは、その表れと言って過言ではないだろう。

我々日本人は、今一度、原点に戻って、西欧の侵略文化を理解すべきかもしれない。それなりに相手の思考方法の差異を理解する必要がある。日本人は、西欧人に憧れを持つといわれてきた(例としては、ファッション、音楽、化粧、ブランド品、茶髪など)が、これは大きな錯覚であったと言える。彼らが必ずしも尊敬できる相手ではない。

そうであるなら、彼らに対しては、彼らの流儀に準じて、アジア的に対抗していく必要がある。ところが、どうも最近の流れは、日本の学者、研究者、官僚の方々は、西欧の考え方が正しいと思いがちだ。彼らの基準に準じる傾向が強い。自らの基準を作る意思が弱い。それは何も若い方々のみならず、結構高齢の方々でも、そういう考え方が見られるのは危険だ。

もちろん、いろんな情報を取り、それを研究し参考とすることは許される。すなわち取捨選択する限りにおいては、西欧の考え方を参考にするのは問題はない。

だが、どうも西欧の資料・データを入手することに精を出しても、その後、自分の頭で考えることが欠けていることが多い。彼らの論理で攻め立てられ、同意することが多いのだ。それは考える行為を侵略されているに等しい。主体性を取り戻し、自ら考え、世界をリードしていく思考がトップ層には求められる。

そして、アジアの中では調和しながら、西欧とは競争していく時代になるのは間違いない。尤も、西欧とアジアの溝はなかなか埋まらないのかもしれないが、時間をかけて、そのように努力することも大切だ。だが、西欧と協調していくのは、彼らが独善主義を廃した、ずっと先のことになるだろう。

*追記

日本が西欧社会の一員と捉えられていると思うのは、大きな錯覚である。そして、彼らの文化を理解することは大切だが、基本的に、良いものだけ、アジアの文化に取り込むのが基本だということを忘れてはならないだろう。

*注記

現在の「西欧」の範囲は、東欧も含まれている。ただ、米国は含まれていない。米国は西欧の亜流だが、若干、雰囲気が異なる。ただ歴史がない割りに、独善主義の国であることは間違いない。それは今回の論点とは別である。

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