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2008年9月21日 (日)

真意を隠した諦めの歌

世の中、世渡りには、ゴマすりも必要悪だろう。人はヨイショされて、嫌な気分になる人は少ない。そういうことができない人は、ゴマすりする人を非難するが、一度ゴマすりを経験してみればいい。人間関係の潤滑油としてみれば、それは意味がある。但し、仕事ができないのに、ゴマすりだけでは、現在では生き残ることは難しい。

ところで、在原業平にも、真意はともかく、ゴマすりの歌がある。『伊勢物語』に、次のように物語られている。

在原行平の家に、よい酒があったので、藤原良近という人を主賓にして、饗応の席を設けた。藤原良近は藤原不比等の孫で酒豪であったと伝えられる。美味しいお酒と聞いて、ほいほいやってきたのだろう。

行平が大きな藤の花を瓶に挿して、それを題材に歌を詠うことになった。そこで弟の業平が詠んだのが、次の歌と云われる。

  咲く花の 下にかくるる 人を多み 

        ありしにまさる 藤のかげかも

皆、その歌の主旨を怪しがったので、業平は、次のように説明したという。

  おほきおとどの栄花の盛りにみまそがりて、藤氏のことに栄ゆるを思ひてよめる。

すなわち、太政大臣の良房氏が栄花の盛りにあられる。皆がその恩恵を受けようと彼を頼っていて、それはまさに、藤の花の下に人が集まっているのと同じことよ、と。

人は間接的に褒められると嬉しくなる。良近を出汁にして、藤原家を誉めそやして、おべっかを言ったと見られても仕方ない。しかし、その裏に、真意は隠されている。若干諦めのようなものが感じられる。

益々栄える藤原家と、没落する在原家。業平の歌には、諦念が感じられる。その裏の心理では、藤原家もいつか・・・、という思いがあるのだろうか。驕れる者、久しからずと。

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