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2008年10月31日 (金)

阿吽の呼吸

人間、それぞれ、立ち位置が違うため、近くにいても、二人でも呼吸を合わせることはなかなか難しい。二人の呼吸の合うことを、「阿吽の呼吸」などと称するけれども、合うというのは稀な気がする。むしろ、無理やり、合わせようとすれば、それは無理が来る。合わないことを前提に物事を進めた方がいいのかもしれない。

さて、「阿吽(あうん)」については、多くの方がご存知であると思うが、念のために記せば、「阿吽」はサンスクリット文字の音写で、「阿」は最初の韻で、「吽」は最後の韻である。前者は口を開いて最初に出す音で、後者は口を閉じて最後の音である。転じて、前者は呼気であり、後者は吸気とされる。すなわち、二つ合わせて、「呼吸」である。

これで思い出すのが、呼吸の仕方だ。よく吸って吐いている人を見かけるが、実際は、吐いて吸うのが正しい。「阿吽」を知っておれば、間違わないと思うのだが、意外と知らない方が多い。さあ、明日から正しい呼吸をしよう(笑)。

ところで、どこかの政党さんは、選挙の実施時期について、なかなか阿吽の呼吸という風には行かないようだ。各党の思惑入り乱れ、有権者の国民は、どこへ。有権者としては、いつやって頂いてもいいよ。どうせ不在者投票だから、投票日は関係ないし。もちろん、棄権なんて馬鹿なことはしない。

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2008年10月30日 (木)

薬物犯罪には罰則強化を

現在、日本でも薬物犯罪が広がっているようだ。相撲界も変な外人を採用して、ますますおかしくなっている。全ての外国人力士が悪いとは言わないが、西欧・東欧系は非常に危ないと感じる。彼らは日本の治安を乱すだけだ。

しかし、当局の処分は甘すぎると思う。外国人の扱いは面倒と思っているのだろうか。外交問題に発展すると思っているのだろうか。彼らは事件を起こせば、即、国外追放の措置を取ればいいのだ。もっと厳しくしないと、治安は守れない。また、その他の蟻の穴のような犯罪でも見過ごすべきではないだろう。

また最近は、大学生による薬物犯罪も多い。興味本位からかもしれないが、未成年であっても氏名を公表し、社会的制裁を加えるべきだろう。薬物犯罪は、未成年であっても、他の犯罪より厳しくて当然なのだ。社会を乱す輩には、厳しい制裁は当然である。それにしても、慶應大学も堕ちたものだ。いろんな学生がいるから仕方ないと言い訳しても、それは通用しない。

国は、薬物犯罪の更生が難しいことを知っているだろう。広がった汚染をクリーンにするには時間がかかる。まず社会の風潮を糾すべく、厳しい法体系の確立が急がれる。そして、若い人中心に、無防備な人々に警告教育を施すことも求められる。人生を無駄にしないためにも。

*追記

この薬物犯罪の原因は、次のようなものが考えられる。これらすべてを断つ方策が望まれる。

 ①国際交流の悪い面が出た結果

 ②犯罪を目的とした外国からの持ち込み

 ③ネットによる入手

 ④大麻取締法における種子の販売が可能なこと

 ⑤薬物リスクについての知識不足

*平成21年8月7日追記

芸能人の薬物犯罪に対して、当局は厳重に対処すべきだろう。かつては、甘い対応もあった。基本的に、一般人への影響を考慮して、芸能界から、永久追放を業界に求めていくことも必要だ。

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2008年10月29日 (水)

大手食品会社の食品事故から考える

食品会社のナショナルブランド(NB商品)を信頼していたのに、最近、大手食品会社の食品事故の報道に接して、この業界がいかに病んでいるかを再認識する。監督官庁にも問題があるのだろうが、業界がまず姿勢を正さないと、大手食品会社であっても、消費者から見放されて、業界から消えていくかもしれない。

どうも基本的な品質管理が十分でないようだ。社内情報管理もまだ未成熟のようだ。企業規模は大きくても、社会的使命を忘れているのかもしれない。利益優先の経営になっているのだろう。創業者は地下で泣いているかもしれない。

実際の経験では、ある大手パンメーカーの食パンを食べると必ず、体調が悪くなるし、ある大手調味料メーカーが出している加工品で調理すると、体調が悪くなる。それは時間をずらして何回試しても症状も同じだ(*注)。

最初は、流風の体質と合わないのかと思ったが、最近の事故を考えると、必ずしもそうでないのかもしれない。消費者の周りは危険な食品がいっぱいなのかもしれない。

更に、スーパーなどが出すプライベートブランド(PB商品)では、製造会社を商品に明示していないので、食品の場合は、決して購入しない。大手食品会社を製造依頼する例もあるらしいが、消費者には見えてこない。今回のカップラーメンもどうもそのようだ。

また、ある業者によると、PB商品は、スーパー等の要請で価格を安く設定するため、商品グレードを下げるらしい。一般消費者には、その内容はわからないが、NBブランドとは、明らかに違う物を買わされている。スーパー等は、PB商品に熱心だが、そういう戦略は見直した方がいいかもしれない。利益より、消費者をまず守るべきだろう。

*注追記

どのような症状か、問い合わせがあったので、記しておく。

最近は、ほとんど食しないが、ある牛丼チェーンの牛丼を食すると、必ず頭痛がしていた。ところが、その他のチェーン店の牛丼や自分で作った牛丼では一度もそういうことがない。

あるメーカーの食パンは、トーストすると、必ず口腔内を傷つける。まるで針が刺した様になる。口の中は血だらけだ。ところが、他社品では同じ様にトーストしても、そういうことには決してならない。これは数年前からだ。

次に、ある調味料メーカーが出している、麻婆豆腐の素で、麻婆豆腐を作って食すると、必ず身体の一部(主として足)に蕁麻疹が出る。始めは豆腐を疑ったが、品質の良い新鮮な豆腐で作っても同じだ。これも数年前からだ。

そういう症状に懲りて一旦買い控えるのだか、しばらく間を置いて、そのことを忘れて購入すると、同じ現象になる。これが流風の体質によるものなのか、商品に問題があるのかはわからない。

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2008年10月28日 (火)

住宅ローン減税の拡大は必要か

先般のブログでも、記したように、住宅市場は変化している。戦後と違って、住宅ストックは十分ある。もちろん、地域レベルでの需要と供給のミスマッチングの問題は残っている。

しかし、贅沢を言わなければ、一応、市場は完全とは言えないが、整っていると言える。だから、新規物件(一次)取得のための住宅ローン減税は、政策としては終わっているのではないか。

よって、現在、住宅政策に求められるのは、ローンをわざわざ作って、家を買う時代ではないのだから、住宅ローン減税を、現状より拡大することには、有効性が疑われる(:減税拡大は高所得者にしか有効でないということについては、ここでは敢えて述べない)。

住宅市場に刺激を与え、内需を拡大させようという意図は理解できるが、住宅ローン減税は過去の政策だろう。もちろん、現況のある一定程度の減税は継続してもいいかもしれないが、もう廃止してもいいだろう。

むしろ、今後、必要なのは、住宅ストックをどう動かしていくか、という政策が求められる。住み続ける人は問題ないとして、遊休化した不動産の活性化が求められる。地方に行くと、たくさんの遊休住宅不動産がある。

住宅というのは、住まなければ、傷んでいく。国家としては、そのような遊休不動産をできるだけ少なくすることが望ましい。それを支援する税制が必要なのではないか。

またバブル時に取得した住宅は、その資産価値も落ちて、転売が難しくなっていたのは確かだ。しかし、バブル崩壊後、20年近く経ち、ローン返済も目途が立っている人もいるだろう。所有者も若干買い替える余裕ができていると推定できる。

買い替えるなら、不動産がやや下落している今がチャンスと言えないこともない。そういうことを考えると、住宅ローン減税の拡大は必要がないだろう。むしろ買い替え促進税制の更なる充実(*注)やリフォーム・ローン税制の充実が求められるのではないか。

*注

例えば、都市住民が、地方の不動産を取得するための情報提供や、税制の支援やその他の支援が考えられる。その場合、それは国の支援と地方の支援が合わさったものになり、支援内容が都市住民に認知される方策が望まれる。

また地域住宅・不動産を取得して、一定期間住まなくても、売却しなければ、優遇措置は受けられるようにした方がいいかもしれない。そして転居すれば、継続して優遇措置が受けられるようにすればいい。

*追記

米国のバブル崩壊で、多くの人々が実物資産の重要性を再認識したであろう。不動産所有の価値見直しは必ず来る。但し、住まない不動産の所有は意味がない。そういう意味でも、不動産の市場の活性化に期待がかかる。

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2008年10月27日 (月)

政治とマスコミ報道の関係

政治とマスコミの絡み方は、複雑だ。双方、持ちつ持たれつの関係だ。しかし、その関係は難しい。大阪府知事が朝日新聞の報道内容と姿勢を批判している。激昂しているようだ。彼一流のポーズなのだろうか。でも、子供ぽいなあ。ああいう姿は、あまり見られたものではない。見苦しいだけ。君は若すぎる。

権力者というのは、常に批判されるものだ。その批判を見方にするのも、その人の器だ。今のままでは、大阪をまとめるのは難しいだろう。それに大阪はスマートさだけでは、人々を束ねることはできない。彼はスマートさを全面に出し過ぎなのだ。

人物のメッキがはげてきたのは事実だろう。もっと地に足をつけた政治が求められる。マスコミに露出しすぎた反動が来た証拠だ。現在は、マスコミを利用したツケが来ているのだ(宮崎県知事も、いずれそのようになるだろう。もっとも、彼はもっとずるがしこく立ちまわるだろうが)。

別件では、鹿児島の阿久根市の市長と地元新聞社の南日本新聞社が報道のあり方について揉めているらしい。市長がその報道の仕方を批判して、取材を拒否して、「あっかんべー」をしたとして問題になっているらしい。

原因となった公人のブログが、果たして私人のブログと分けられるかも疑問だ。政治家にとって政治活動としてのブログも、私人としてのブログにも境界はない。それを別物と考えるのは、少し甘い。政治家としては、慎重な姿勢が望まれる。選挙活動に使うのも、将来はわからないが、現況、問題だ。

他方、マスコミの取材方法にも、政治取材の方法も難しい問題を孕んでいる。政治家と近づかないと情報は取れない。しかし、近づきすぎると、政治とマスコミの癒着になる。バランスを取るため、マスコミとしては、権力に対する批判も含めて、批判的な記事になりがちだ。そうかといって、政治と談合すれば、それは業界雑誌になってしまう。問題は、程度問題だ。

そのように、政治とマスコミ報道のあり方は難しい。報道は民意に影響するので、結果的に政治にも影響を及ぼす。それは当局の政策を歪める可能性もある。しかし、政治家の立場としては、マニュフェストを謳って選挙に勝っているわけだから、修正すれば、選挙公約を破る結果になる。それは野党からの攻撃材料にもなる。

報道の偏りは、あるべき民意を歪めることもある。住民が政治に対して、本来意見を陳述すべきなのだが、直接民主制でない日本は、選挙で選ばれた議員に任せるしかない。そこで、報道が住民を代表して意見を述べることになるのだが、この市長が指摘するように、報道は住民に心地よい意見を述べがちだ。報道もビジネスだからだ。

報道のバランス感覚は必要だ。最近の各社の報道は、社説に止まらず、意見報道になりがちだ。それは新聞以上にテレビの時事番組はそのように受け取れる。ストレートな表現も多いが、もう少しオブラートに包んだ表現も求められる。新聞も、社説以外の意見報道は控えるべきだろう。特に匿名記事はあまり感心しない。それはブログや週刊誌などで意見表明すればいいのだ。

そして政治家の方々も、マスコミ報道批判も時には許されるが、彼らの立場を良く理解して、包み込むような態度も必要だ。マスコミをその政治家のファンにする機会も与えられているのだから。

またマスコミの取材方法も工夫が求められる。政治家も人間だし、感情もある。夜討ち朝駆けの取材も否定はしないが、何がしかのルールも必要だろう。品のない取材は、読者や視聴者も遠ざける。

これらの問題は、案外、根が深くて、今後も各地で起こりうる問題である。単に地方都市の話題で終わるわけでもなかろう。政治家とマスコミ報道の相互の器が問われる問題とも考えられる。

*追記

権力者に対するマスコミ報道には、重箱の隅をつつく報道も散見される。例えば、麻生首相のホテルでのたびたびの会食と批判するが、そんなことは、どうでも宜しい。報道するマスコミのレベルが疑われる。

*参考

拙ブログの以前の記事(2007年1月28日付。「政治とマスコミ」)を以下に転載しておく。

真っ白な社会は理想ではあるが、きれい過ぎる社会は逆に危い。水清ければ魚棲まず、という言葉を噛み締める必要はある。

政治というものは、そもそも黒と白の間の解決に努めるものであり、基本的に灰色の部分を扱う。それは法律が、そういう部分を持っているからである。だから、あまり政治家に、真っ白な状態を迫るのはどうかと思う。

清廉潔白が望ましいが、それだけでは社会をうまくまわすことはできないだろう。そんなことをすれば政治活動が停滞してしまう。政治は結果であり、社会がうまく回ればそれでいい。

もちろん、政治が明らかに黒になりそうになれば、徹底的に糾す必要はある。それが時代の雰囲気で判断されることも否定しない。時代によって、灰色の強弱は変化する。そのことに鈍感な政治家は残れないことも事実だ。

そういう意味では、政治献金の献金者リストと政治家の発言はチェックする必要はある。それは政治家のためでもあり、国民のためでもある。マスコミは、その点を監視・報道し、政治家にブレーキをかけなければならない。

そして、もっと糾すべき問題は、官僚たちが、政治家に引き摺られて、灰色になったり、黒くなったりすることである。官僚たちに求められるのは、清廉潔白であることなのだ。マスコミは、むしろ、その点にもっと監視を強めるべきだろう。

以上から、言明できることは、社会に灰色の部分があるから、政治の領分があると言って間違いないだろう。だから政治家は、常に危い立場にあることを再認識すべきで、献金の受け取りやその発言には慎重さが求められる。

そして、マスコミは、政治家の周辺(政治献金者、官僚など関係者)の監視強化が求められ、もっと報道するべきだろう。

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2008年10月26日 (日)

天高く馬肥ゆる秋

子供時代、博労かどうかは、今となってはわからないが、舗装されていない道を、馬に荷物を曳かせて、行き来する人がいた。学校の下校時、時々遭遇し、よく肥えた馬が歩きながら、大きな糞をするのを見た。いわゆる馬糞である。臭いなあ、と思って、鼻をつまみながら傍を通りながら帰宅して、遊びに出かけると、馬糞はまだ置き去りであった。

しかし、遊びから帰ると、既に馬糞は撤去されていた。あんな臭いもの、移動されるのは大変だろうな、と思って、母にそのことを告げると、「ああ、馬の糞は、十分に消化されていないから、肥料にいいので、農家の人がすぐ引き取っていくのです」と教えられた。

ええっ、あんな臭い物を引き取るのかと思ったら、人糞も肥料になっていると知って、少し驚いた。あのぼっとん便所の大便も肥料になるのだと思って、少し感心したことがある。最近、よく言う有機農業だ。「自然界の物は、ぐるぐる回っている。人も自然の一部」と母に、また聞かされ、そういうものかと納得したことがある。

よく、天高く馬肥ゆる秋という。秋に馬が丸々と太っていることを指す。だから、人間様が、秋になって食欲が増し、肥えるのでは、思っていたが、実際は、意味が異なる。馬は春から夏にかけて、草をたくさん食べ、秋には肥えるから、出た言葉らしい。

もともと、中国を取り巻く異民族である蒙古民族等の騎馬民族が、匈奴と呼ばれ、中国が秋に太った馬に乗って、侵略したから、それを警戒しての言葉のようだ。馬が肥えてくる時期が一番危ないと警戒したのだ。それは相当長い期間、悩まされたようだ。

匈奴にすれば、それは極寒の地に住む宿命として、冬のための準備だったかもしれない。でも、侵略されて略奪される側にとっては、とんでもないことだ。それを防ぐには、この時期、警戒を怠らないようしなければならない。

この言葉は、日本では、違った理解になったようだが、その語源ルーツは厳しいものがある。いつの時代も、食糧を巡って、争いは起こる。現在、地球のキャパシティを超えていると言われる人口と食糧危機。そう考えると、天が高くても、あまり肥える気分にもなれない感じだ。

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2008年10月25日 (土)

地方商業施設の買い物送迎バス

全国レベルで展開していた百貨店が、地方を撤退縮小し、人口の集中する都市部に資源の集中をし、その結果、各百貨店の統合が進み、メガ百貨店が生まれている。そのことについては、先のブログで記した。

さて、切り捨てられた地方の場合、地域の百貨店のみが残ることになる。あるいは、撤退した百貨店の跡は何もないかもしれない。地方の商業はどうすればいいのか。

基本的に、地方都市に集積ということでは、大都市と変わらない。問題は集積の内容であろう。何を集積すべきか。基本的に、百貨店を核とした商業施設、スーパー、ホームセンター、病院、介護・福祉施設、出先の役所等が揃うワン・ポイント・ショッピンクが可能であることが求められる。

但し、郊外型は、もう流行らないかもしれない。むしろ主要駅周辺に施設を集積させる伝統的なやり方が支持されるだろう。それはよく高齢者の方々と話するとわかる。郊外型施設では、売り場が広いだけで、楽しめないと言うのだ。郊外型施設には、せいぜい日常品のコンビニの拡大版のような施設があればいいということらしい。

だから、田舎に住む高齢者は、誘い合わせて、一週間に一、二度、バスに乗って、駅まで行って、駅近くの周辺地帯で買い物するのが楽しみという人も多い。そこにはいろんな施設が集積していた方が便利だ。できれば、いろんな催しが楽しめればベストだ。ショッピングは娯楽なのだ。商業地域内に、屋外型舞台などで、いろんな催しがされていれば、それに越したことはない。

後は、いろんな店で買い物した物が、一度に同じ時間にまとめて配達されるサービスがあれば、よりよい。よく街中で、高齢者の方々がたくさんの百貨店の紙袋を持って、ふらふらになりながら歩いているのは、何とも気の毒だ。

高齢者にとって、買った物を自分で持ち帰る喜びも確かにあるだろうが、配達してもらった方が有り難いものもあるだろう。できればある程度の金額合計で無料で。スーパーには、そういう仕組みがあるが、百貨店ではあまり聞かない。実際は、どうなのだろうか。

さて、ここに大きな問題がある。駅周辺の商業施設に行くにしても、「足」の問題だ。地方に行けば行くほど、車は必需品だが、自分で乗れなくなると、他人に頼らざるを得ない。そうなると、時間が拘束される。となると、自分で行ってみたいとなる。

ところが、地方では、バスの運行している本数が少ないことがある。それをどうするか。お買い物循環バスというものも、地域によっては運行しているようだが、そういうものでもいいかもしれない。

となると、これからの地方商業施設は、お客を連れてくる方法を探らなければならないのかもしれない。周辺と協力して、「買い物送迎バス」なるものを不定期(例えば、セールに合わせて)に運行するのがベストかもしれない。

*追記

駅周辺は地価が高く、小売業は進出しづらいという意見もある。その点は、むしろ地方行政で土地は公有にして、再開発する仕組みも大切だ。その他にもいろいろ方法はあろう。資本の論理の流れでなすがままにしておいては、地方の活性化はままならない。しかし、建物については、行政は指導だけで、民間に任せ、公的所有は避けるべきだろう。

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2008年10月23日 (木)

定額減税の有効性

政府与党が2兆円の定額減税を決める方向にあるようだが、景気に対する有効性は極めて疑問である。大体、このタイミングで、減税するのは、選挙対策と見られても仕方ない。自民党は、嫌々ながら、選挙対策のために公明党に押し切られたようだ。だらしない。

サブプライムに端を発した米国金融危機は、確かに日本の景気に影響を与えるが、消費者の懐に響くのは、来年以降のことである。すなわち、タイムラグがある。現時点では、日常的な消費は、そんなに落ち込んでいない。このタイミングで減税しても何の意味もない。

さらに、今は、円高で、物価高騰が収まり、むしろ物価下落の兆候もある。だから、公明党の主張する、急激な物価上昇だから、定額減税をする必要があるという条件は最早崩れている。

それを不況対策の先取りした政策だと、当局は言うかもしれないが、それは論理のすり替えだ。「活き金・死に金」理論で行くと、所得の返りがあることは、死に金にはならない見方もあるが、現況、預貯金に消える可能性も高い。

そうなれば、消費は増えず、活き金にもならない。結果的に、国から国民への所得の移転になるだけだ。今、国は貧しいのに、さらに貧しくして、どうするのか。減税というのは、費用対効果が明確でなければ、現在の日本では打てない政策なのだ。

そもそも、この定額減税に対しては、流風は否定的だ。消費を刺激したいのであれば、一時的な消費税減税の方が利く筈だ。凡そ、人々は、税引き収入で生活しており、関心があるのは手取りで、よくないことかもしれないが、そこに至るまでのプロセスに無関心なことが多い。一時的に所得が上がっても、それは一瞬だ。記憶に残らない政策と言える。

それに対して、自分の懐からお金が出て行くことには、大変敏感だ。だから所得税減税するよりも、支払い時に毎回意識するのは、内税であっても同じだ。よって消費税減税する方が、その有り難味は大きく感じるはずだ。そういうことで、その政策効果は大きい。それは錯覚だと言う人もいるが、庶民感情は、そのようなのだ。為政者は、庶民の気持ちが、もう少しわかって欲しいものだ。

結局、定額減税は、無駄遣いに終わるだろう。そして、それはいずれ国民に余計な負担をかけることになる。かつての小渕政権のように。

*追記

一般に、減税というもの自体、それが悪いものではないかもしれない。しかし、今は、そのタイミングではない。

また、その減税も、現在と、将来を睨んで、国民のトータル・コストを踏まえたものにする必要がある。

*平成20年11月1日追記

結局、「定額給付金」ということになったようだが、意味のない政策に変わりはない。将来に負担を増加させ、それにからめて3年後に、消費税増税をする可能性を麻生首相は示唆した。しかし、自民党による消費税増税は信用ならない。何に流用するかわからない。もちろん、民主党政権になっても、消費税増税に近いものもあるだろうが、彼らの方がまだ使用目的が明確な点がまだ評価できる。

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2008年10月22日 (水)

マドンナの熟年離婚

マドンナが11月に熟年離婚らしい。本当に離婚するのだろうか。少しファンなのに。慰謝料等が話し合われているようだ。夫の間には息子がおり、連れ子、養子までいる。これらの子供の将来はどうなるのだろう。おそらく、子供の立場で物事を考えていない感じがする。有名人で女性の方が有名で稼ぎが多いとこういうことになるのだろうか。

一般的に、有名で稼ぎのいい女性のパートナーは、徹底して目立たない方が成功すると云われる。すなわち、「内助の功」に徹するのだ。確かに、女性に対抗して、頑張った例も散見されるが、それは相対的に女性の人気が落ちたことも影響していることが多い。

また、どちらも売れっ子というのは、夫婦生活を不可能にする。それでは長続きはしない。稼ぐ女性は、ある意味、外見は女性だけれども、実質「男」だ。そういうことで、家庭内に、「男」は二人共存できないのだ。つまり求められるのは、外見は男だけれども、実質「妻」の役割ができる男と言うことになる。

マドンナの例は、夫の方が妙にメジャーになろうとして失敗したのではないか。マドンナは選択を誤まったのだろう。彼には、本来「妻」の役割が求められたのだが、それができなかった。確かに、男のプライドがそうさせないということもある。

しかし、どこかで折り合いをつけて妥協する必要もある。それができないのであれば、そのような女性を選択すべきでなかったのだ。そして、子供がいなければいいが、子供がいれば、離婚されて一番迷惑するのは子供たちだ。

稼ぎのいい女房を持つ前に、このことは十分考えておくべきだろう。外野からは、「ヒモ」生活とかうるさいだろうが、本人達が幸せであれば、それでいいのだから。でも、稼ぎのいい女性には、癖のない男がよろしいようで、流風には、とても無理です(笑)。

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2008年10月21日 (火)

安くて、よい物は幻想か?

あるテレビ番組(NHK)を視ていると、某味噌メーカーの副社長が、原料の大豆を入手するために、世界を走り回っているとの事であった。日本だけでは原料の調達が不可能なので、世界で調達せざるを得ない。そして、次の発言が気にかかった。

 「消費者は、安くて、よい物でなければ、受け止めてもらえない」と。

確かに、消費者にとって、安くて、よい物は望ましいだろう。だが、そんなことが続くだろうか。大いに疑問を感じる。

まず、よい物を作ろうとすれば、それなりにコストはかかる。よい材料、よい道具、よい施設も必要だろう。もちろん、能力のある、いい人材は欠かせない。

だから、よい物を安く提供するのはどこか無理がある。以前、あるメーカーの担当者から聞いたことだが、実際、よい物を安く作ることは不可能で、どこかで手抜きしなければならない。

手抜きの内容は様々だ。材料の質を落とす、工程を省く、仕上げを落とすなどだ。後は、従業員の給料を削る、利益を少なくするしか方法は無い。

確か、「安くて、よい物」をいい始めたのは、某大手流通産業だったと思うが、それは誤魔化しの何物でもないだろう。消費者には、確かに受けの良いフレーズだが、それはまやかしでもある。

そうなると、消費者は、このフレーズを疑ってかかる必要がある。それはどこかに無理があることを消費者は理解しなければならない。うまい話には、無理があると。論理的に不可能なことを期待するのは、もう止めよう。メーカーも流通業者も、フレーズを変える必要がある。それは、

  「いい物を、その時々の、適正価格で」と。

また、消費者も、価値と価格の見極めは、今のようなネット時代、もっと学習することも求められる。高級ブランド品が、必ずしも、価値と価格が一致していないことは、それを売却してみて感じた人は多いだろう。商品価値は、利用価値(消費価値)と価格とのバランスで適正か、もっと考える必要があるだろう。

*注

だからと言って、経営者がコストダウンへの経営努力をしなくてもいいという意味ではない、ということは念押ししておく。

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2008年10月20日 (月)

『ふるさとの神々』展鑑賞

東京にいた頃、雅楽と舞楽のコンサートに行った事がある。大ホールでの催しであったが、満員であった。中高年のご婦人方を中心に、多くの人々がこういう催しに関心があるということがよくわかったものだ。

しかし、こちらに帰ってきてからは、神社での雅楽を聞くぐらいしか機会がない。今、東京ではどのようなのかわからないが、関西でも大々的に催してもらいたいものだ。京都辺りは、そういう催しがありそうな気がするが、何分遠い。近くで、ないものか。

さて、そのようなルーツを探る展覧会が、兵庫県立歴史博物館で、『ふるさとの神々』展として開催されている。県内にある鎮守や氏神として親しまれている神社にある宝物品が展示してある。県内の物を集めただけで、結構あるものだ。

但し、由来は兵庫県の神社なのに、宝物は東京の博物館にあったりするから、気持ちは複雑だ。ふるさとのものがふるさとにない。日本の浮世絵が、米国の美術館や博物館にあるのと同様の気持ちだ。ふるさとに返してくれないかな。

それはさておき、そもそも神道は、明治以降の神仏分離による国家神道と、それ以前からある民間神道がある。国家神道は、神道の統一であり、神社神道の国教化だった。それは戦前まで続き、戦後は、他の宗教と同じ扱いになる。

他方、民間神道は、昔、人々が農業を通じて、自然と接するうちに、自然発生的に生まれたものであろう。人々の思いは、生きるためには真剣だったに違いない。山上様を敬い、人々と一線を画した世界を想像した。それが6世紀に仏教が伝来し、大きく影響を受けることになる。いわゆる神仏習合である。

そのことを示す展示内容は、地域の庶民と結びついた祭りの神輿、神々を描いた神像、神社由来の絵巻物、奉納された絵馬が中心で、その他に刀などの武具も展示されている。もちろん、雅楽や舞楽も重要な役割を果たしている。多くの面も展示してある。

これなどを見ていくと、日本の宗教がいかに無理なく自然に庶民に溶け込んで行ったかがわかる。これは当初、当時の宗教家や知識人たちが、文字が読めない人たちにも、宗教の意味が理解できるように、如何に腐心したかが窺える。

そして、「日本教」というものは、結局、人間が自然と調和する「自然教」であると改めて認識する。「ふるさとの神々」は農業の神様なのだ。さらに、山の持つ意味が大切であったと改めて認識する。

それは見えるようで見えないものを仰ぎ見てきた人々の気持ちがわかるような気がする。最早、農業国とは言えない日本だが、改めて、日本の成り立ちとその心を確認する機会になった。

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2008年10月19日 (日)

マンションの価値と住宅新時代

都市部において、マンションが売れ残り、価格が下落しているらしい。東京圏を中心に都市部でミニバブルが生じていた。しかし米国のバブル崩壊に伴い、国内不動産会社も破綻の憂き目にあっている。そのため、マンションが見切り売りされている。その結果、価格が暴落していることのようだ。

しかしながら、家賃相場は今のところ、そんなに下落していない。それからすれば、マンション価格は、正しい価格に調整されているといえる。マンション業者が設定した価格が家賃相場と乖離し、ブームに乗って異常に高く設定されていたと推定できる。

ところで、マンションの価値について、どのようにお考えだろうか。

まず、言えることは、マンション市場の変化は、購入者の購買行動の価値観の変化がある。以前はマンションは、一戸建てを買うまでの第一段階と考えられていたが、マンションの転売価格が、購入価格を下回るようになってからは、そのような行動を取れなくなった。それゆえ、マンションが終の住まいになっているようだ。

他方、マンションをローンを組んで借金して、わざわざ購入する時代ではなくなったとも言える。ローンを組むぐらいなら、借りた方がましなのだ。仮にマンションを買っても、それは、「修繕費の負担が上乗せされた賃貸の家賃の先払い」という見方ができる。これは考えようによっては、一般賃貸より割高(*注)だ。ということは、家賃が高くなるインフレ時の場合を除いては、経済的メリットは薄いということになる。

さらに、マンションは、まだ実験段階にあり、どれくらいの寿命があるか保証されていない。それゆえ、その価値は、まだ未確定だ。30年と言う人もあれば、50年くらいは大丈夫と言う人もいる。ただ、それは建設業者によって、寿命が違うような気がする。

また、管理会社のメンテナンス意識によっても、それは違うだろう。修繕計画のでたらめなマンション管理会社は依然として多い。マンション購入時の修繕積立金が異常に少ないのも気になる。販売業者の売らんかな、売りっぱなしの傾向を反映している。結局、追加の一時修繕負担金が必要になり、家計計画が狂ってくることもあるだろう。

更に、その品質面に関しては、建設時期によっても、それは違う感じだ。まず、1981年の建築基準法改正前のマンションは、相対的に価値が低い。大震災があれば、倒壊の可能性が高いからだ。中古のマンションであれば、それ以後のものに基本的価値がある。ところが、それがわかっていない購入者も多いようだ。いくらリフォームしても、外見的にはきれいになっても、基本的な構造に問題があれば、その価値は低いはずだ。

ついでに言えば、1981年以後のマンションで、バブルの頃に立てられたマンションは、意外としっかり建てられており、価値が高いと言われる。それに比べて、最近のマンションはデザインはいいが、やたら広い部屋が多く、設備は最新の物を採用していても、見えないところでの手抜きマンションも多いという。もちろん、それは全てはそうとも言い切れないかもしれないが。

結論的には、マンションは、相対的価値が低くなると見てよいだろう。今後の住宅需要は、現役時代はローンでマンションなどの家を買わず、相続不動産が無ければ、定年近くになって、地方都市の一戸建てを現金で買う時代かもしれない。もちろん、それまでに土地の手当てとか、土地勘は養っておく必要があるかもしれない。

都市部のマンションは、借りるためのものと割り切る人は増えそうな気がする。中古マンションを活用した賃貸ビジネスが流行るかもしれない。また部屋の広さも、ワンルームマンションではなく、ファミリーマンションタイプの賃貸が主流になるかもしれない。

国は、そういう人たちのための住宅政策が望まれる。また地方も、元住民が都市に出てしまって空き地・空き家になっている所を積極的に関与して、都市住民が入手できるように、不動産が有効活用されるような方策を取るべきだろう。

*注

もちろん、借りる側も、修繕費が実質家賃に含まれている(名目では、含まれていない)が、それは一応短期的なのに対して、マンションの所有は、いつまで所有するかわからないのに、売却するまで、修繕費の負担をしなければならない。

*追記

ちなみに都市部の高層億ションと言われるものも、価値はそんなに高くないと思われる。基本的に、その価値は錯覚に過ぎない。そんな金を出すなら、ホテルに住んだ方が快適だろう。

*追記

そもそもマンションの価値に疑問を持ったのは、阪神・淡路大震災を経験してからである。マンションは共同住宅の宿命とは言え、実質、個人の自由にならないことを再認識させられたのだ。一戸建てであれば、土地があるので、個人の判断で再建が可能だが、マンションでは、それが簡単にいかない。

あの震災で倒壊したマンションは再建の合意をするのに非常に手間取ったと言われる。特に合意形成に、高層マンションは最悪だ。そういう意味を含めると、少しましだということで、今後は中低層のマンションが価値を持つだろう。

*追記

高層マンションにはいろいろな弊害がある。神戸は震災後、人口を増やすために、高層マンション建築を容認したが、それは景観を著しく損ねている。そのため、海側から見ると、六甲山が十分に見ることができないケースが出てきている。そして、その結果として、神戸の価値・魅力を落としている。

また神戸市の政策は誤まっている。人だけ増やしても、税収は増えない。将来、新たな負担が増大するだけである。人は産業と共に招かなければ、それは有効な政策ではないのである。

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2008年10月18日 (土)

道真の『秋思詩』

先日、コオロギの鳴き声が比較的大きく聞こえた。しかし、屋外にしては、大きすぎるので、探してみると、玄関の箒の後ろにいた。おいおい、そんなところで鳴くなよ。ということで、外に出してやった。

まあ、それでも、秋になると、それなりに感傷的になるのは、自然なことかもしれない。杜甫の漢詩も、他の季節では若干重たい感じがしても、この季節には受け入れられるようになる。気分が同期するのかもしれない。

日本では、菅原道真の詩に、秋を題材にしたものがある。それは『秋思詩』である。菅原道真と言えば、彼は学者政治家で、何の閨閥も無いのに右大臣になった。天皇の引きがあったとは言え、やはり相当能力は高かったのだろう。

しかし、時として、学者は理想を追い求める。それが藤原家にとっては、鬱陶しい存在だったのだろう。結局、藤原時平に讒訴され、大宰府に配流された。その時に詠んだ詩がこれだ。秋に題材を取った詩の代表かもしれない。それに、この詩は、秋にしか詠めない。

全体を通して、自分自身の脇の甘さを後悔しつつ、天皇の御恩に報いられない無念さを詠んでいると考えられる。次に、その詩を示そう(*注1)。

  丞相年を度って幾度か楽思す

  今宵物に触れて自然に悲し

  声は寒し絡緯風吹くの処

  葉は落つ梧桐雨打つの時

  君春秋に富み臣漸く老ゆ

  恩に涯無く報猶お遅し

  知らず此の意何かに安慰せん

  酒を飲み琴を聴き又詩を詠ず

解釈は、流風的に見ていくと、次のようであろうか。

「私、道真は、多年のわたり、天皇の御恩を授かり、そのお蔭でもって、幸運な生活を送ることができました。今宵は、秋の風に触れて、感傷的になり、悲しくなってきました。虫の声は(心が冷えているためか)寒々としており、吹き渡る風の中に、桐の葉に雨が落ちる音が聞こえ、それが益々、孤独感を強めていきます。

陛下は、まだお若く、これからの未来に楽しみもいっぱいあろうかと思いますが、臣である私共は、既に老境を越えるところにあります。それゆえ、陛下へのご恩に対して報いるには、時間がないことを悲しみます。このようなどうしようもない状況で、鬱々として、自分の心を慰める術が見当たりません。せいぜい、酒を飲み、琴を聴き、詩を詠じて、気を紛らわすしかない状況です。私が十分にご奉公できないことをお許しください」

この慙愧の念が、後、都を雷で脅かし、藤原家を恐怖に陥れていく。彼の怒りを鎮めるため、彼を祀ることになる。童謡の「とおりゃんせ」にもある、いわゆる「天神様」である。こういうことで、神でありながら、庶民に近くなった人も珍しい。

しかしながら、学者道真が、本当に藤原家を恨んだかどうかは疑わしい。彼は多分達観していたのではなかろうか。彼の周囲の人たちの同情が、そのような話を生んでいったのだろう。判官びいきは、日本人の伝統だ(*注2)。

そして、誰でも、道真のような例はともかく、中高年になると、あれをやっておけばよかった、これをやっておけばよかったとか、後悔は多かれ少なかれ誰でも存在する。そういうことのないように、一日一日を確認しながら歩みたいものだ。

*注1

但し、この歌は京の都での歌会で、「秋思」という題で詠われたものという解説もある。

*注2

但し、菅原家に対する藤原家の過酷な処置は、いくら政敵とは言っても、やりすぎであることは確かである。そのことに対して、無念は感じたとは思う。しかし、当時、やったらやり返されるという恐怖は勝者側に常にあったことは否めない。

*参考

神戸には、道真がらみの施設としては、須磨に綱敷天満宮がある。彼が大宰府に左遷された折、その途中(901年)、風波を避けるため、一時、須磨に上陸された。土地の漁師は急なことなので、松の下に魚網の大綱を巻いて、円座を作り、彼を坐らせ休憩させたという。その故事に基づき、天元2年(979年)に創建された。

JR須磨駅から東に歩くか、山陽電車須磨寺駅から東南の海方向に歩いていくとある。先日、サーフボードのオブシェが奉納されたらしいが、彼は政界を泳ぎ切れなかったのだから、若干皮肉がこもると流風は思うのだが。

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2008年10月17日 (金)

中国製冷凍インゲンの事件

中国製冷凍インゲンの事件が起こっている。原因は不明だが、故意の可能性があり、事件性が強いとの報道だ。流風は、野菜の冷凍品は全く購入しないので、被害にはあっていない。

大体、野菜の冷凍品を買うこと自体、良くわからない。野菜は、調理して冷凍するのならわかるが、野菜の冷凍品を買うなんて、ちょっと考えられない。茹でるのも手抜きしたいのか。インゲンなんて、買ってきて、茹でて冷凍すればいいではないか。それさえもできないと言うのか。そこまで家事を手抜きする必要があるのだろうか。それに冷凍品で野菜を一年中食べようという発想もおかしい。

まあ、それはそれとして、今回の事件は、故意とすれば、何らかの意図があるということになる。それは中国内の問題なのか、日本に対する嫌がらせなのかはわからない。あるいは、何らかの事情で経営者を困らせようとしているのかもしれない。

製品に穴などは開いていないというから、それは生産地で薬品が仕込まれた可能性が高い(*注追記参照)。野菜の生産過程で問題が無いとすれば、後は包装過程で、薬品を入れた可能性が高い。事実関係を早く調査して公開してもらいたいものだ。政府も過度に外交問題に発展するのを心配すべきではない。国民を守ることを優先すべきだ。

また専門家によると、輸入野菜や加工品をなくすことはできないと言うが、そうだろうか。それは一般家庭というより、外食産業や中食産業に対しての言葉だろう。コストの問題があるのだろう。よって外食産業や中食産業で、我々は必ずしも安全とは言えないヘンな物を食べさせられている可能性は高い。

しかしながら、一般家庭向けには、少なくとも、このような冷凍商品は国産に切り替えても、十分やっていけるだろう。改めて、専門家の常識と一般人の常識は異なることを理解した。また輸入野菜や加工品に頼る食品産業、商社、流通産業、外食産業や中食産業は意識転換が望まれる。そうしないと、国民から見捨てられるだろう。

*平成20年10月17日追記

問題の商品の空気穴の近くに約1ミリの穴が開いていることが判明したらしい。そうなると、事件は、いろんな場所で考えられ、工場外も考えられることになる。袋に製品にしてから穴が開けられたのか、製品になる前から穴が開けられていたのか、解明が望まれる。

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2008年10月16日 (木)

湖上の愁い

湖ほど、春と秋では印象の異なる所はない。秋の湖は、どこか物悲しい。気分もどこか鬱陶しい。昔、お見合いして、湖畔を歩いたが、お互い気分が盛り上がらくなって、結局、失敗した苦い思い出がある。

コースの選択を間違えたようだ。湖でボートに乗るのも、春と秋では気分違う(その時はボートには乗っていない)。秋の湖畔は集団か一人が相応しいと気づいたのは、その時以来である。その後、気づいたのは、湖畔や湖上の愁いは、詩にもそのようである。若い時に、気づくべきであったが、当時は詩には関心がなかったので致し方ない。

そういうことで、今回は、「秋日湖上」という漢詩を取り上げてみる。薛瑩(せつえい)という人の作で、『唐詩選』にも紹介されている。薛瑩については、よくわからない。湖は洞庭湖とされ、湖上で詠んだものだ。

洞庭湖がらみの漢詩では、杜甫の「岳陽楼に登る」(*参考)が有名だが、これは洞庭湖の岸にある岳陽楼で戦争から切り離された孤独を詠んだものだ。これは別の機会に味わうとして、その薛瑩の詩は次の通りだ。

  落日 五湖の遊

  煙波 処処に愁えしむ

  浮沈 千古の事

  誰ぞ与に東流に問わん

一応解釈すると、次のようになるのだろうか。

「夕方、気晴らしのため、洞庭湖に小さい舟を浮かべて、湖上の人になった。しかし、却って、あちらこちらの波間の霧のように、私の心は晴れず、覆い隠すように、憂鬱にさせる。その中を舟は大きく揺れている。人生の浮沈は舟と同じことだろうし、それは大昔からそのようであったろう。ところが河はそういうことには関係なく、厳然と東に滔々と流れている。時は過ぎ行き、私は時代に埋もれてしまうのだろうか。河に問いてみたいものだ」と。

薛瑩については詳しくはわからないけれども、詩の内容からすると、左遷でもされたのかもしれない。もちろん、いい時もあったのだろう。しかし、それは長続きはしない。それを洞庭湖の舟上で、人生の侘しさを嘆いているのだろう。

*参考   杜甫「岳陽楼に登る」

学生時代に学んだ、この詩も参考に挙げておく。

  昔聞く洞庭の水

  今上る岳陽楼

  呉楚東南に坼(さ)け

  乾坤日夜に浮ぶ

  親朋一字無く

  老病孤舟有り

  戎馬関山の北

  軒に憑(よ)って涕泗(ていし)流る

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2008年10月14日 (火)

仙人になる食べ物~レンコン(蓮根)

秋が深くなっていけば、根菜類が美味しい季節となる。ゴボウ、レンコン(蓮根)、人参、大根などは代表的なものであろう。煮たり、炒めたり、味噌汁の具にしたりすると、大変美味しいものだ。それぞれ個性がある。ゴボウなどはアクが強いが、豚汁にゴボウを入れるのと入れないのでは、全く風味が違う。

さて、今回は、その中で、古書にも、仙人になる食べ物として紹介されているレンコンを取り上げよう。仙人になる食べ物としては、いろいろあるようで、菖蒲、ゴマ、さねかずら、レンコン、蓮の実、蓮の花の雄しべと雌しべ、ツルドクダミなどが挙げられている。これらの根拠はよくわからないが、これらを食する人たちが、結構長生きだったのだろう。

レンコンだけでなく、蓮の実や蓮の花の雄しべと雌しべが取り上げられているのは、蓮には何かいい物を生み出す何かがあるのかもしれない。蓮の実はよいとは聞いたことがあるが、蓮の花の雄しべと雌しべおしべについては、あまり聞いたことがない。このことはよくわからないので、今回はさらっと流しておく。

レンコンは、お節に煮た物を必ず母が作っていたが、その他では、金平にするか、フライにしたものとか、ごま油で炒めたものなどを子供時代から、良く食べた。お節は、料理屋で食べると、白く料理しているが、わが家のものは、父の方針で醤油で甘辛く炊かれて、黒くなったものが好まれた。まあ、田舎料理なんでしょう。

このレンコン、確かに食べると体調は極めてよい。理由はわからないが、寒い時期には、特に良いようだ。咳止めにも利くと云われる。今年の冬も、結構お世話になりそうだ。でも、仙人にはなれそうにもないけれど(笑)。

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2008年10月13日 (月)

秋に想う老境の歌~李白『秋浦歌』

気温がぐっと下がって秋らしくなってきた。今年は、夏も食欲が落ちず、結構元気な流風は、過ごしやすくなって、更に食欲が増しそうだ。今のところは、体重はベスト体重を保っているので、安心しているのだが、掛かり付けの医師からは、ちょっと食べすぎだと警告されている。血液検査の結果、中性脂肪が以前より高いのだ。

そういうことで、少し気が重い。でも、あのでっぷり肥えたイメージのある李白と比べれば、細い方だと思うのだが、最近の報道では、痩せのメタボがあるそうで、少し食事の内容の見直しの必要性に迫られている。

ところで、李白というと、あの奇想天外な詩想にいつも驚かせるが、多かれ少なかれ、彼が中国人のイメージを日本人に定着させた詩人ということになるかもしれない。

実際、日本人は、事実に近い情報で、話す傾向が強いのに対して、中国人は、少し過大に表現する傾向が強い。それが国民性なのかもしれないが、それがもとで、日本人の誤解も招きやすい。まあ、双方が、その違いを理解すればいいのだが。

さて、李白の晩年の詩としては、あの「白髪三千丈」で始まる「秋浦歌」が有名だろう。

  白髪三千丈

  愁に縁って箇の似く長し

  知らず明鏡の浦(うち)

    何れの処にか秋霜を得たる

この詩は、十七首中の第十五首に当たるそうだが、他の詩には、まだ接したことがない。この詩の内容は、鏡を見てみれば、白髪だらけになってしまい、人生の秋を感じている、ということを表現しているのだろう。普通、男は、女性のように、余程ナルシストでない限り、鏡を見たりはしない。

彼はどういう心境で鏡を見たのか。実は、彼は晩年流刑されていたが、許されて「秋浦」という所に戻って、詠んだらしい。現在の安徽省の蕪湖と云われている。すなわち、「鏡」とは、湖に映るわが身を見て、詠嘆したのではないか。本当の鏡を見たわけではないだろう。

人は誰でも老いる。成功しても、しなくても、歳を重ねて老いていく。李白のような派手な人生を送った人も、老境に入って、人生の無情を感じたのかもしれない。落差の多い人生を送った李白は、この地で生涯を終える。

流風も、いずれ老境に入る。自分なりに、元気に明るく過ごしたいものだ。

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2008年10月12日 (日)

顧客から遠ざかるメガ百貨店

最近、百貨店の経営統合が多く発表される。百貨店業界の行き詰まりを象徴するものかもしれない。また基本的に人口が大都市に集中する結果、地方での百貨店展開が苦しくなったという事情もあるだろう。

百貨店業界もサービス化社会の掟に従わざるを得ないのはわかる。製造業と異なり、顧客に近い所で展開しないと、ビジネスにならないのは明らかであろう。しかし、経営努力を怠り、安易な道を歩んでいるように見える。

現実には、都市に百貨店が集中する結果、競争が過大になり、儲からなくなったのは確かにそうであろう。どこの百貨店も特徴がなく、内容は皆、同じ様なものになっていることも百貨店経営を苦しくしている。

そういうことも相俟って、百貨店の統合という発想が生まれるのであろう。しかし、これは消費者としては、あまり有り難いものではない。統合すれば、サービス面が統一され、利便性が良くなると言うが、所詮、その程度だろう。結果的な行く末は、あまり期待できないということになる。

つまり、経営統合の次にくるものは、組織効率ということに行き着く。そのためには、権限を本部に集中し、本部企画のものを下部組織に押し付ける可能性が高い。

そうなれば、百貨店に個性が更になくなり、結果的に消費者に対する、きめ細かいサービスを不可能にする。その結果、消費者は、メガ百貨店を敬遠し、業績は悪化し、更なるリストラが必要になるかもしれない。これは悪魔のサイクルだ。

このように考えると、資本の論理でビジネス展開をしていては、大きな間違いを犯すと言うことになる。それはメガバンクで実証済みだ。メガ百貨店の将来は厳しいものが待ち受けているだろう。

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2008年10月11日 (土)

株価暴落、どこまで続くか

今年は阪神が優勝を逃すなど予想外の展開が多い。前半は、超特急だったのに(ちなみに阪神電車に超特急は無い。やりなれない急発進するものだから、チーム全体がおかしくなってしまった)、途中から脱線。巨人に優勝をさらわれてしまった。岡田、お前はアホか。リーダーとしての資質を星野と共に問われる。

そういうと、百貨店の阪急・阪神は高島屋と経営統合するらしい。そうなると、チーム名はどうするのだろう。まさか、阪神のままというわけにも行くまい。チーム名を「大阪湾」とでもしますか(笑)。

さて、株価市場はそんな暢気な気分でなく、日本の株価が、暴落している。一体どこまで下がるか、わからないと報道では盛んに伝えている。まあ、これは米国金融市場の混乱から十分予測されたことだ。流風は、先のブログでも日経平均1万円割れを予測していたので、別に驚きはない。

報道の気持ちはわからぬでもないが、そんなに慌てた気分を伝えてどうするのか。もっと明らかなことがあるだろう。報道はあまり感情的になってはならない。まあ、報道の限界と言うべきか。そういうことで、以下、流風が妄想的に今後の動きの予測を記してみよう。もちろん、内容にはもちろん一切責任持ちません(笑)。是非は各自でご判断してください。

基本的に、ヘッジファンドなどの投資ファンドが換金売りして、日本市場から資金を引き上げざるを得ないのが実情だろう。決算も迫っている。現実的な穴埋めの可能性も高い。それに輪をかけて、今は米国の市場の投資家が冷静さを失っていることが市場を混乱させている。

だから、実物投資中心の日本やアジアの投資家は慌てる必要はない。過大な信用創造が大元の原因だから、それが修正されるには時間がかかるだけのことだ。ただ短期資金を回していた人々は自業自得とは言え、大変だろう。まあ、デイトレーダーが減るのはいいことで、市場から消えてくれればいい。彼らも、別の意味では、投資銀行のやり方に乗じたわけだから、同じ穴の狢だ。

それでは、どれくらい株価は暴落するかと大胆に予測すれば、日経平均で最大5000円程度が考えられる。しかし最終的には(一時的に5000円近辺に行っても)、現実的に、6500円程度で落ち着く可能性が高い。日本の投資家が、慌てて売らなければ、その程度で株価下落は止まる。確かに、リスクマネーで運用している金融会社などの破綻は、まだ考えられるが、輸出企業を除けば、ほとんどの企業はそれほど今期の業績には響かないだろう(但し、決算は株式は時価評価のため、評価減で企業によっては大きく影響が出る)。

もし、日経平均が5000円を割る事態になれば、それは恐慌の始まりと言える。景気に大きく影響する。時代は大きくデフレ時代となり、相当長期に不況が来る。欧米の景気回復は当面考えられないし、内需も弱いとなると、景気回復の見通しは全く立たなくなる。

ただ当面は、円高は更に進むだろうが、日本市場には、アジアで資金に余裕ある投資家等が、日本に投資することが考えられる。どこかに投資する必要に迫られ、比較的安定している日本に資金は向かうだろう。そういうことで、急激な下げは、ちょっとした機会で、急激な上げにもなりうる。その場合は、日経平均で、底値から50%アップ程度まで戻す可能性はある。

しかしながら、いずれにせよ、その後、株価は、数年低迷するだろう。それにIMFが予測するように、景気も悪化が考えられ、来年の経済成長率はゼロパーセントの可能性が高い。場合によってはマイナス成長もありうる。

また、米国があらゆる方策を打っても、その効果が現れるのには数年かかるため、景気が上昇するのは、数年先のことになると考えられる。それまでは、なべ底株価になるだ可能性が高い。しかし、優良株は銘柄によっては、気長に保持するつもりなら、投資チャンスにもなりうるかもしれない。辛抱できないタイプは、当面投資は諦めて、旅行や温泉にでも行けばいい(笑)。

以上、独断と偏見による流風の見解でした。さて、皆さんの予測は?

*追記

ただ次の危機は、何らかの理由で株価が急伸した場合だ。その場合、再度、株価は急落する可能性がある。個人投資家は、上げ相場と間違った判断をして、無闇に投資しない方がいいだろう。本格的な上げ相場になるまで、投資は休んだ方がいい。

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2008年10月10日 (金)

企業の三種類の人

よく言われるように、企業には三種類の人がいる。言い古されたことだけれど、改めて記しておこう。

一、人財

ほんの一握りだが、企業には、どうしても欠かせない人がいる。しかし、その比率は、あまり多くても、「船頭多くして」ということになりかねない。いい人財はたくさん欲しいが、どういう人物を選ぶかで、企業の業績は決まってくる。信念、哲学があること。主体性が確立した人。孤独に強いこと。

二、人材

企業の大半を占めている人で、企業経営者の持っていきようで、どうにでもなる人。いわゆる、代わりの人はいくらでもいるということ。すなわち、玉石混淆という段階の人。主体性がまだ確立していない人。よって、指導者・リーダーの役割は大きいし、彼らの命運を握っている。

三、人罪

いない方がいい人。いると組織が乱れ、健全な運営を阻害する人を指す。しかし、人は、最初からそうだったわけではない。人の活用を誤った結果がそのようであるとも言える。主体性がないとは言えないが、方向性を誤まった人。逆に言えば、環境を変えてやれば、人財になりうるとも言える。但し、妙に拗ねてしまえば、どうしようもなく、組織から放り出すしか手が無い。

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2008年10月 9日 (木)

眼高手低

ノーベル物理学賞を受賞された一人、京都産業大学理学部(京都大学名誉教授)益川敏英教授が、インタビューで、若い研究者へのアドバイスは、と問われて、「眼高手低」を挙げられていた。なるほど、彼らしい回答だ。

「眼高手低」とは、氏も説明しておられたが、「理想は高いが、実力が伴わないこと」を指す。本来、評論家に対する言葉のようだ。言葉でどんな理想論を掲げても、それをこなす実力が無ければ、物事は達成されない、ということを益川氏は、言いたかったのだろうか。

研究者は、志を高く持つことは大切だが、雑研究を嫌がり、狭い範囲での純研究で満足してしまえば、理想の実現は遠くなっていくと思われているのかもしれない。小さいことでも、実績を積み上げれば、以前は見えなかったものが見えるようになるかもしれない。それが、ある日、突然、閃きとして、新たな発想を生む。

視野を広く持ち、いろんな経験をして、現実の煩わしさから逃げず、それさえも研究に役立てていく泥臭さが求められるのかもしれない。蓮の花が泥に生えるように。この言葉は、何も研究者に限らず、全ての若い人に必要なことだろう。但し、まず自分の理想を持つことが大事で、それもなければどうしようもないが。

*追記

その後、益川博士の発言を聞いていると、この言葉の解釈は、流風の解釈と若干異なるようだ。凡人の流風には、天才?の仰ることは十分理解できていないのは当然である。

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2008年10月 7日 (火)

社会保障は雇用問題

社会保障の問題が話題になって久しい。最近は、厚生労働省の組織・運営事態に問題があると、大手新聞も叫び始めた。確かに、厚生労働省の、組織疲労と機能不全は、問題を大きくしているかもしれない。

しかし、根本問題は、社会保障は雇用問題ということに尽きるのではないか。まず、ここにスポットを当てて、どう解決するかを考えなくてはならない。かつて雇用の確保は、国の命題だった。それがバブル崩壊により、それを維持できなくなったのに、社会保障の仕組みは従前通りという矛盾が生じていることが、まず指摘できる。

それでは、雇用にどのような問題が生じているのか。まず、公共投資の減少に伴い、当然、雇用量は減っている。その減少を補う政策が取られているかといえば、疑問だろう。民間で、それらの労働者を雇用する仕事は増えていないだろう。

次に電子化の影響がある。まず事務職の価値が下がった。企業は一番にリストラし、外部化し、正規雇用を減らした。そのために、非正規社員が増え、所得を減らしている。さらにネット化により、流通のカット化が進められ、その人員の余剰が労働市場に溢れている。彼らの雇用及び所得をアップさせる職種転換教育制度が求められる。

次に、労働需給のアンバランスが指摘される。経済のサービス化に伴い、都市に偏った産業に雇用が集中し、地域の産業(農林水産業など)に人を回す政策が取られていない。それは都市に人が集中することを避ける人為的な政策が求められる。

また伝統芸能や伝統工芸を引き継ぐ職人の養成も、十分に為されていない。これは現在の学校教育の仕組みに問題がある。中学校を卒業すれば、そのような人材を育てる専門学校の普及が望まれる。宝塚専門学校がいい例だ。

そのためには、伝統芸能や伝統工芸を魅力的に見せる工夫が求められる。これらは日本の価値を高める重要な仕事である。伝統の継承保護基金などを設立して、社会的にバックアップする必要がある。

更にもう一つは、男女雇用均等法の施行により、女性が社会進出してきたが、雇用は増えていないのに、女性労働者だけ増えたものだから、労働需給のバランスが取れなくなったことが大きい。

結局、一人当たりの所得が減り、共稼ぎしないと生活の質を維持できなくなっている。所得の低い人からは、税金はなかなか取れない。そういう人が増えすぎて、自業自得だが、国を困難に追いやっている。

以上のことを鑑みると、言えることは、国は、国全体としての仕事量を倍増させるか、共稼ぎを止めさせて(女性の雇用を減らせという意味ではない。男女どちらかが働きに出ればいい)、仕事量と労働者の総量をバランスさせることが求められる。

すなわち、雇用を確保するには、それに相応しい仕事量を確保しないといけないことになる。そのためには、新産業の育成も必要だろうし、産業の仕組み全体を日本国内だけに捉われず、世界でどういう位置づけで雇用を確保するか考えなくてはならない。

ただ海外に進出している大企業の経営者の発言を見ていると、国内の雇用を確保する意識は、昔の経営者と比べて薄い。海外に進出すると共に、国内の雇用を増やす考え方がなくてはならない。経営者の意識転換が求められる。そして国もそのように仕向ける必要がある。

そうすれば、国は確実に税金を取ることができるし、社会保障も低所得の非正規社員(*注1)を規制すれば、一応維持できることになる(*注2)。いずれにせよ、国は、もう一度原点に戻り、雇用の確保を国の命題とすべきだろう。そうすれば、社会保障問題にも光が見えてくるだろう。

*注1

現在問題になっている派遣社員も、特別な能力のある仕事で高給の仕事は制限されるべきでないだろう。問題なのは、あくまでも所得が低所得で不安定なものは制限すべきであろう。

*注2 

但し、人口構成アンバランスによる社会保障体制の是正は求められる。是非はあるが、後期高齢者医療制度のような制度導入もその一つであろう。消費税の増税も、全額がその充実に向けられるのなら、国民から賛意は取り付けることが可能だろう。

*平成27年6月26日追記

消費税増税分が、社会保障に全額回されない政府のやり方に、国民の不信感は増している。

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2008年10月 6日 (月)

株式投資の原則?

知り合いの高齢者の方たちは、今回の株価暴落で、多くが評価損を抱えているらしい。しばらくは旅行もできないと嘆いている。でも、詳しく聞いて見ると、あまり株についての知識もお持ちでない。定年退職して、退職金を使って、少しお小遣いを稼げばという感覚なのだ。どうも危なっかしい。

流風も、あまり偉そうなことを言えるほどの投資をしたことはないが、株式投資するなら、もう少し研究してもらいたいものだ。でも、本来、高齢者は、よほどの余裕資金がなければ、株式投資や投資信託には手を染めてはならないだろう。そういう意味では、国が高齢者の投資を期待するのはお門違いだ。

そういうことで、以下、株式投資について、若干触れておこう。しかし、若い人たちは、基本的に仕事に集中して、株式投資に時間を費やすのは好ましいことではない。但し、一定の配当のある一流優良株を資産として長期に持つのなら、それは意味のあることかもしれない。

さて、昔から、株式投資にも、原理原則があるらしい。父の遺品を整理していたら、メモ帳に記載されていたものがあった。どこかから転記したのだろう。その内容が正しいかどうかは、流風には判断できないが、父が後生大事にメモとして残しているのだから、あながちはずれてもいないだろう。もちろん、その通りにしても利益の保証はないが、リスク管理には役立つかもしれない。以下にそれを示す。

一、要するに商売と同じこと。

つまり安く買って、高く売ること。往々にして失敗する人は、人気とか話題で判断して、高値で買い、安値で売っている。つまり、商売感覚の無い人は、株式投資に手を出してはいけないということ。

二、確実な利回りを第一とすること

持株が買値より上がっていくと、ついつい深追いして、売り損ねる。そして、ついには相場が終わって、買値より下がり、塩漬けとなる。これは資産効率を悪化させる。企業と同様、在庫を多く持つことは、利益を損なう。最初から、確実な利回りで売ることを決めておけば、損することが少ない。未実現利益ほど危いものはない。

三、その会社の現状の業績と将来性を鑑みて、銘柄を選択する。

そのためには、日本だけの動きだけの観察では不十分で、世界の動きを観察しなければならない。そういう勉強がやりたくないのなら、株式投資はやめておいた方がいい。

四、経営者の発言を注視し、その人格を観察しなければならない。

経営者の言葉は重い。そのことを理解しているかとどうか判断するだけで、投資に相応しい企業かどうかはわかるものだ。

五、株式投資は、適度に休むことが大切。

多くの人が、このことは指摘している。投資し続けて、儲かるほど市場の動きは一定ではない。長期サイクルで、上がったり下がったりしている。投資し続けると、結局、トータルで損することになる。

六、余裕資金で投資するわけだが、それも全額一遍に投資してはならない。

常に、投資資金に余裕を持たせて、投資することが求められる。つまり相場が急落した時の場合に備えておくというのだ。

七、同じ銘柄で、何回も続けて儲かると思ってはならない。

売値より安くなれば、買って儲かることもあるが、相対的に難しい。また株価が下がった時に、追加投資する(ナンピン買)のは危険だ。相場が下がった時は、別の銘柄に注目すべきなのだ。

八、底値で買えると思わないこと。天井価格で売れることはまずない。

何事もほどほどにするということ。神でもない限り、全てを見通すことは不可能。テクニカルな方法で、それが得られるほど、相場は単純ではない。

九、全て自分の判断によって投資すること

相談して、うまく行った例はない。うまく行くのなら、その人が投資して儲けているはずだ。すなわち、投資は、よく言われるように、自己責任で行うことが求められる。他人任せで、利益を上げることは難しい。大抵が損をする。

十、儲けたお金は別会計とし、投資資金に回さないこと。

投資資金と儲けたお金を一緒くたにすると、いわゆるどんぶり勘定になって、投資としては成功しない。

*追記

確か父は、投資明細を記録していたが、全生涯の決算は、若干のプラス程度ということだった。長い間に、インフレが続いていたわけだから、実質、運用はマイナスであろう。流風から見て、父の失敗は、見切りが早く、売り買いを頻繁にしていたことだろう。最近のデイトレーダーと似ている。小売の商売なら、それでもいいが、相場では必ずしも通用しない。まあ、父は投資金額も少なく、頭の体操とは言っていたが。

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2008年10月 5日 (日)

何が親孝行か~漢詩『帰省』を読む

親孝行、したい時には、親はなし、ということがよく言われるが、確かにそういうことは言える。子供というのは、親はいつまでもいると思いがちだ。親の有難さがわかるのは、失ってからだろう。

そういうことはない方がいいが、ついつい自分の生活に追われて、親のことまで目配りできなくなる。現在では、同居より、別居が多いから、余計に親への関心はついつい薄くなる。

だから、親が病気で倒れたりすると、予定外のことのように、オタオタしたりする。特に男はそうかもしれない。仕事に没頭していると、どうしても親への関心は薄くなる。全く親孝行に関心が無い訳ではないのだが、形式的な付き合いになりがちだ。

そういうことで、親たち(特に母親)は、息子より娘に期待し、付き合いを深めることになる。娘は結婚しても、嫁ぎ先より実家を重んじる結果、夫婦の仲が破綻することも多い。また親もそれを期待している向きもあるというから驚きだ。子供の将来をどのように考えているのだろうか。親の利己心が、娘たちの人生を変えてしまう。どうも困った親たちだ。

それでは、親孝行は、どのようにあるべきなのか。ここでは、昔の人の親に対する感性はどうだったのだろうかということに、少し触れてみよう。

以前、頼山陽の漢詩を紹介したが、彼は老いた母を心配しながらも、当時の交通事情では、頻繁に帰ることは叶わなかった。仕事を抱えながら、遠方にいる親を思う気持ちはあるが、何もできないもどかしさ。彼はたまに実家を訪れて、罪滅ぼしをしていたのだろう。

さて、今回取り上げる、狄仁傑の『帰省』では、どのように表現されているだろうか。彼は、則天武后に仕えた宰相だが、諫言が過ぎて、左遷され、それが塞翁が馬、というか、お蔭で両親に会う時間を持つことができた。その時に詠んだ詩と云われる。

  幾度か天涯白雲を望み

  今朝帰省して雙親に見ゆ

  春秋富みて朱顔在りと雖も

  歳月憑る無くして白髪新なり

  美味羹を調して玉筍を呈し

  佳殽撰に入って氷鱗を鱠にす

  人生の百行は孝に如く無し

  此の志眷眷として古人を慕う

解釈は、若干、意味のわからない言葉(*注)もあるが、次の様だろうか。

「宰相の地位にある時は、皇帝に仕える身として、粉骨砕身、仕事に集中し、両親を慮る余裕はなく、時々思い出しては、白雲の彼方の故郷を思い出して、空の彼方を眺めたことか。今日、幸か不幸か帰省して、両親に会うことができた。

幸い、天の恵み、有難く、元気そうな顔を見せてくれて安心したが、寄る年波、防ぎがたく、白髪はさらに増えている。美味しい吸い物に筍を入れ、冷やした鱠も差し上げる。せいぜい私にできることはこの程度だ。

しかしながら、人生において、孝はあらゆる行いにも勝ると云われる。古人の心に従いたい、この気持ちを大事にして、両親にできる限りの孝行を尽くしていきたい」

彼は、左遷された時を活かして、両親に孝行を尽くしたわけだが、両親はどのように思っていただろうか。帰ってきて嬉しかっただろうが、その一方で、息子の行く末を案じたかもしれない。親とはそういうものであろう。

彼は、後、国家の危機に際して、戻され、唐王朝を救う。そして国老として遇される。その時、親が生きていたかどうかはわからないが、生きていれば、自分たちの手元を離れても喜んだであろう。

そう考えると、親にとって、子供が遠くにいても、頑張っている姿が、何といっても親孝行になると言えるのではないか。

*注

「佳殽撰」という意味がどうもわからない。どこかの場所だろうか。

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2008年10月 4日 (土)

政府備蓄米は安全か

政府は、いざの時のために、備蓄している米がある。しかし、問題がなければ、その備蓄した米は、当然古くなる。当然、処分するのだが、あまり古くなると、精米時に壊れやすくなるので、精米改良剤に浸して、新米と区別ができないくらいに、お米を再生しているということだ。

ところが、この精米改良剤は、プロピレングリコールと言われるもので、いわばプラスチックだ。この改良剤に漬け込まれたお米が市場に流通している。今回問題になっている事故米と同様に、問題になる可能性を秘めている。

これらの米は、生めんや、イカの燻製、餃子の皮、シュウマイの皮、春巻きの皮、ワンタンの皮に使われているからだ。そして、外食産業の米にも使われている。中食のお弁当にも使われているかもしれない。

それに、これらに表示義務が課されていない。本当に、農水省は、どこに顔を向けて行政を取り仕切っているのだろう。消費者行政が遅まきながら騒がれる現在、農水省の政策を全て洗い直す必要があると、つくずく感じる。

*追記

米粉パンについても、使用されている米粉がどのようなものなのか(外国産、日本産、事故米など)確認する必要が出てきた。小麦粉の代替として注目された米粉だが、やっかいなことになってきた。

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おかゆの朝食

中国や台湾では、朝の朝食は、お粥が多いと聞いたが、先日、朝の朝食をお粥にしてみた。2,3日、胃腸の調子がやや重いので、パン食にしようと思ったが、御飯が余っていたので、お粥を作ってみた。

お粥は、熱を出して寝込んだ時以外、食べないが、食べてみて、これはなかなかいい。胃腸への負担も軽そうだ。案の定、お粥を続けると、胃腸は回復した。これ以後も、これに味をしめて、時々、作っている。

おかずは従来どおり(漬物、具いっぱいの味噌汁、梅干、玉子焼きなど)だが、納豆の買いだめがあったため、どうするか迷った上、お粥に入れてみた。いつものように、辛子と出汁醤油を混ぜて、お粥に落として混ぜて食べると、豆粥のようになって、意外と美味しかった。

これは癖になりそうだ。流風にとっては、瓢箪から駒ということになった。ちょっと、朝食が楽しくなった。

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2008年10月 3日 (金)

園芸と適材適所

園芸は初心者だが、始めて見ると、いろいろ教えられる。爺臭いと思って、若い時は無関心だったのだが、案外、これは若い時に関心を持ってもいいかもしれない。現在、やっている園芸は、自己流だが、いろんな図書やネットで調べながら、作り上げていくとなかなか面白い。

植物のことだから、思い通りにならないが、それが却って面白い。いろんな発見があるからだ。学生時代は、「生物」の授業もいい加減に受講していたが、なるほどと思うことも多い。それに道理もよくわかる。

例えば、日当たりを好む植物を場所の都合で、日陰に植えると、どこか元気が無い。逆に日陰を好む植物を日向に植えると、これまた元気が無く、場合によっては枯れてしまう。そのような場合は、急いで、植え替えると、たちまち元気を取り戻している。植物の応えは速い。

また植え替えには、チャンスタイミングが大切で、時期を逸すると、枯れてしまう。そういう点は、非常に微妙だ。今の時期は植え替えに適しているが、その他の季節では移植に失敗したことが多い。

ところが移植に成功すると、今まで、それほど成長しなかったのに、飛躍的に成長することがある。その地味に合ったのだろう。元気良く成長している姿は、嬉しいものだ。そして適当な時期に肥料をやり、刈り込みをして、風の通りをしてやると、害虫に襲われることも少ない。

植物が元気に成長してくれるのは、嬉しいことだ。これは何かに似ている。子供の成長もそうだろうし、企業における新人が成長していくのも似たようなことかもしれない。今、再び、「適材適所」という言葉を噛み締める。

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2008年10月 2日 (木)

介護離婚

芸能界の夫婦も大変そうで、介護疲れで、ある夫婦が離婚すると騒がれている(*追記)。介護は、片方の親だけでも大変だが、この夫婦は両親の介護が重なったようだ。介護は片方の親だけでも大変なのに、夫婦両家の親の介護となると、最大4名の介護になる。それが時間差があれば、また何とかなるかもしれないが、同時進行すれば、夫婦関係の維持も難しくなるのもわかるような気がする。

昔は、嫁は嫁いだ先の両親の面倒を見るだけで済んだ(それだけでも大変)が、今は兄弟の数も少なく、それも一人っ子であれば、なおさら、実家の親達の面倒も見なければならなくなる。そして、更に共働きだったら、それは最早打つ手はない。それこそ、親を施設に入れるしかないだろう。しかし、施設に入れるには、それ相当のお金も必要だ。

自宅療養でヘルパーさんを使うとしても、色々手続きは必要だし、全てを任せる事もできないとなると、子供がある程度、介護をすることになる。それは仮に妻が専業主婦でも同じことだろう。結局、子供の生活を犠牲にしないと、面倒は見れなくなる。それが介護疲れを生み、生活が破綻する例も見られる。

それでは、どうすればいいのだろう。いずれ介護者も介護されるというのは間違いないだろう。この世は循環している。とすれば、親が元気なうちから、どのようにしていくか、考えておくことが大事なようだ。その点、親というのは、割と暢気に考えているフシがあり、子供は、その考えに惑わされてはいけないようだ。

例えば、延命治療をすると、子供の負担は異常に増える。だから、元気なうちから、延命治療をするのか決めておいてもらい、その場合の金銭的負担や誰がどのように世話するかも大体決めておいた方がいいかもしれない。

長生きするリスクは、本人もリスクを抱えるが、子供などの周囲もリスクを抱える。リスクに備えて、どのように生きるかが全ての人に問われているのかもしれない。

*平成21年8月17日追記

かの芸能人夫婦は、離婚するそうだ。親の介護だけが離婚原因ではなさそうだが、いろんな負担が、事情を複雑化させた可能性はある。

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