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2008年10月 5日 (日)

何が親孝行か~漢詩『帰省』を読む

親孝行、したい時には、親はなし、ということがよく言われるが、確かにそういうことは言える。子供というのは、親はいつまでもいると思いがちだ。親の有難さがわかるのは、失ってからだろう。

そういうことはない方がいいが、ついつい自分の生活に追われて、親のことまで目配りできなくなる。現在では、同居より、別居が多いから、余計に親への関心はついつい薄くなる。

だから、親が病気で倒れたりすると、予定外のことのように、オタオタしたりする。特に男はそうかもしれない。仕事に没頭していると、どうしても親への関心は薄くなる。全く親孝行に関心が無い訳ではないのだが、形式的な付き合いになりがちだ。

そういうことで、親たち(特に母親)は、息子より娘に期待し、付き合いを深めることになる。娘は結婚しても、嫁ぎ先より実家を重んじる結果、夫婦の仲が破綻することも多い。また親もそれを期待している向きもあるというから驚きだ。子供の将来をどのように考えているのだろうか。親の利己心が、娘たちの人生を変えてしまう。どうも困った親たちだ。

それでは、親孝行は、どのようにあるべきなのか。ここでは、昔の人の親に対する感性はどうだったのだろうかということに、少し触れてみよう。

以前、頼山陽の漢詩を紹介したが、彼は老いた母を心配しながらも、当時の交通事情では、頻繁に帰ることは叶わなかった。仕事を抱えながら、遠方にいる親を思う気持ちはあるが、何もできないもどかしさ。彼はたまに実家を訪れて、罪滅ぼしをしていたのだろう。

さて、今回取り上げる、狄仁傑の『帰省』では、どのように表現されているだろうか。彼は、則天武后に仕えた宰相だが、諫言が過ぎて、左遷され、それが塞翁が馬、というか、お蔭で両親に会う時間を持つことができた。その時に詠んだ詩と云われる。

  幾度か天涯白雲を望み

  今朝帰省して雙親に見ゆ

  春秋富みて朱顔在りと雖も

  歳月憑る無くして白髪新なり

  美味羹を調して玉筍を呈し

  佳殽撰に入って氷鱗を鱠にす

  人生の百行は孝に如く無し

  此の志眷眷として古人を慕う

解釈は、若干、意味のわからない言葉(*注)もあるが、次の様だろうか。

「宰相の地位にある時は、皇帝に仕える身として、粉骨砕身、仕事に集中し、両親を慮る余裕はなく、時々思い出しては、白雲の彼方の故郷を思い出して、空の彼方を眺めたことか。今日、幸か不幸か帰省して、両親に会うことができた。

幸い、天の恵み、有難く、元気そうな顔を見せてくれて安心したが、寄る年波、防ぎがたく、白髪はさらに増えている。美味しい吸い物に筍を入れ、冷やした鱠も差し上げる。せいぜい私にできることはこの程度だ。

しかしながら、人生において、孝はあらゆる行いにも勝ると云われる。古人の心に従いたい、この気持ちを大事にして、両親にできる限りの孝行を尽くしていきたい」

彼は、左遷された時を活かして、両親に孝行を尽くしたわけだが、両親はどのように思っていただろうか。帰ってきて嬉しかっただろうが、その一方で、息子の行く末を案じたかもしれない。親とはそういうものであろう。

彼は、後、国家の危機に際して、戻され、唐王朝を救う。そして国老として遇される。その時、親が生きていたかどうかはわからないが、生きていれば、自分たちの手元を離れても喜んだであろう。

そう考えると、親にとって、子供が遠くにいても、頑張っている姿が、何といっても親孝行になると言えるのではないか。

*注

「佳殽撰」という意味がどうもわからない。どこかの場所だろうか。

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