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2008年11月30日 (日)

税金を“取る”“取られる”意識の転換を

一般に、税金を取るとか、取られるという表現がある。この「取る」という意識は、本来、封建制度の意識だ。残念ながら、この意識が、現代日本においても、続いていることは悲しむべきことだ。それは国家側も、国民側も同じである。

この取るという意識は、孔子が、「臣より取る、これ取ると謂ふ、と。仮ると曰(い)はず」と言い、君臣の位置づけを明確にしたことから始まっている。すなわち、お上は、臣下から欲しい物を取り上げるが、臣下から借りるということはありえないとしたのである。

従来、税金を納めることはしても、その使い方は知らされておらず、庶民は無関心にならざるを得なかったが、現在は、与野党伯仲で、いろんな情報がもたらされることになった。マスコミはそのことを報道し、庶民は否が応でも関心を持たざるを得なくなった。

政官は、今までのような運営の仕方では、切り盛りすることは不可能になった。政官は、国民が納得のいく、税金の使い方と、その集め方にせざるを得ない。政治も、官僚も、もはや特別の仕事ではなくなった。ある意味、代わりはいくらでもいる時代になった。少なくとも、もう学校エリートの職場ではないだろう。

政治家は、政治で金儲けは最早出来ないし、官僚も、年功序列、天下り、高額の俸給や退職金は、もう続けられないだろう。変なエリート意識は捨て、普通の政治と行政を執り行うことが求められている。

そして、一般国民も、もう孔子の時代ではないのだから、国に納得を求める必要がある。しかし、それは公私のレベルでバランスして考えることも求められることを忘れてはならないだろう。すなわち、国任せではなく、自分でも、どうあるべきなのか、考えなくてはならない、厄介な時代であることを認識する必要がある。

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2008年11月29日 (土)

戦い続けることの浪費

     鞭声粛粛夜河を過る

     暁に見る千兵の大牙を擁するを

     遺恨なり十年一剣を磨き

     流星光底長蛇を逸す

                            頼山陽 『題不識庵撃機山図』(*注)

 

世の中、ライバルというものは、自分を成長させる。企業同士のライバル競争は、市場を拡大させる。企業においても、社員同士がライバルを持つことは、お互いの仕事を切磋琢磨させる。適度なライバル心を持つことは大切である。

しかしながら、それが行き過ぎれば、かえって、それは害になる。歴史的に、それを証明したのが、上杉謙信と武田信玄だろう。彼らはライバル心に捉われて、大目標を見失ってしまった。ライバル心のため、多くの時間を無駄に過ごし、天下統一という大目標を両者共に達成できなかった。

もちろん、二人とも、強い自尊心のある個性的な武人だったから、それは止むを得なかったのかもしれない。しかし、本当に大目標に対する信念があったのか、疑問が残る。歴史に、「もしも」は禁句かもしれないが、彼らが同盟を結んで、天下統一を目指していれば、現在の日本とは違ったものになったかもしれない。

ただ織田信長のような革新的思想の持ち主でなかったから、新しい日本を創ることはできなかったかもしれない。信長は、世界最強の軍事国家を作り出し、新しい国家の枠組みを作った。当時、欧米諸国家も、日本には手を出せなかったと云う。

それが、謙信・信玄連合では、世界から侵略されたかもしれない。そういう意味では、謙信と信玄が、無駄に戦い続けたことは、適切な天の配剤だった訳で、今の日本があるのは、そのお蔭かもしれない。歴史は皮肉のものだ。

*注  頼山陽 『題不識庵撃機山図』

大変有名なので、解説は不要と思う。ご存じない方に、念のために記すと、「ふしきあん きざんを うつのずにだいす」と読む。

不識庵とは、上杉謙信の出家後の法名で、同じく、機山とは、武田信玄の法名。この詩は、上杉側に立って詠われているので、「長蛇」とは、信玄を指している。

謙信の奇襲をもってしても、もう一歩のところで、信玄を仕留めることは出来なかった。しかしながら、謙信が、本当に信玄を仕留めなかったと言うより、わざと取り逃がした印象が強い。

 

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2008年11月27日 (木)

表現能力の足りない麻生首相の限界

高齢者医療について、「たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の金まで、何で私が払うんだ」とは、一国の首相の発言だろうか。どこか、金持ちの驕りが感じられる。彼がどれほどお金持ちか知らないが、お金持ちも多くの人に支えられて、金持ちなのだ。それを忘れた発言に聞こえてくる。謙虚さがないとすれば、国のリーダーとしてはそれは非常に危い。

別に、言葉狩りするつもりはないが、一国の首相の度々の軽口には、閉口する。善意に取っても、彼の思いと、口から出でくる言葉には、あまりにも誤解されやすい表現が多すぎる。これは教養のなさを示すものかもしれない。首相は、こういうことを言えば、人々はこういう反応をするだろうと、もっと考え予測して、慎重に発言して欲しいものだ。

ある意味、彼はお坊ちゃんで、正直すぎるのかもしれないが、庶民の思いに対しては鈍感なようだ。いつまでも、このような発言を続けていると、国民から見放されるだろう。いや、もう既に見放されているかもしれない。

これ以上、混乱を招く発言が続くのなら、はやく退陣して欲しい。それにしても、与党は首相の人選を間違ったようだ。それとも、首相になりうる人材がいないのか。国民の選択肢はますます限られてくる。いずれにせよ、ベストの選択はないけれど。

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暖房の設定温度はいくつ?

暖房の設定温度は、皆さん、何度ぐらいに設定されているのだろうか。以前の話では、北海道の方が異常に設定温度が高いと聞いて、違和感があった。確か、24度ぐらいに設定していると、その方は仰っていた。当時、流風は、15,6度で暖房機を入れていたと思う。

さすがに、最近では、少し上げて18度に設定している。設定していると言っても、普通の赤外線ガスストーブを使っている(ガスファンヒーターは温度設定できるが、ある理由から使っていない。注1)ので、暖房機で温度が設定できない。

そこで、各部屋に、温湿度器を設置して、適度に、暖房を調節し、18度近辺になるようにしている。確かに、少し手間がかかるが、ストーブを全開と半開の調節で、十分対応できている。今のところ、問題はないだろう(*注2)。

暖房以外に、問題があるとすれば、湿度の調整だ。冬はどうしても乾燥しがちだが、部屋によって、その程度は大きく異なる。そこで、加湿器という手もあるが、敢えて文明の器は使わずに、湿度の低い部屋には、花瓶に花を活けて、湿度調整するようにしている。

そうすると、花も楽しめて落ち着く。花や花瓶を変えると、又違った雰囲気になるし、気分転換にもいい。ただ、湿度調整は、温度調整ほど簡単ではない。結局、咽喉がいがらっぽくなったりして、ある種の信号が出れば、湿度を高める工夫をするぐらいだ(*注3)。

温湿度の調整は、風邪やインフルエンザの予防にもなると思う。室外とのバランスを考えながら、室内の状態をいい状態に保ちたいものだ。

*注1   ガスファンヒーターを使わない理由

 1.   起動に電気を使用するようだが、その電気代が高くつく。

     最近はガス-ガスのものも一部販売されているが、限られている。

 2.   ガスの特性が無視されて、温まるのに時間がかかる。

     電気のように温まるのに時間がかかるのでは、意味がない。

 3.   変な臭いがするし、普通のガスストーブに比べて、換気が大変である。

     新品で試して駄目だったし、その後、使っても同様だった。

     ガス会社は、商品開発をきちんとすべきだろう。

 4.   停電になると使えない。

     電気とガスが連動するものは、リスク管理上望ましくないと考える。

*注2

最近は、ガスストーブで、最初に温度を上げておいて、一定温度になったらスイッチを切り、空調によって、温度維持を図る場合もある。

*注3

最近は、昔ながらのガスストーブで湯を沸かし、湿度調整をすることもある。

*追記

ちなみに、クーラーの冷房は基本的に使わないが、使う時は、28度以上の場合のみである。

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2008年11月26日 (水)

現代の日本国家の胸算用

今、世界は経済的には混乱している。日本は、まだ一般人には、その感じが遅れているように感じるが、いずれ、その波はやってきて、人々は実感することだろう。しかし、悲観するには及ばない。混沌の中で時代を先読みする感覚が、国家にも、個人にも求められる。すなわちそれが胸算用だ。

胸算用と言えば、西鶴の『世間胸算用』が頭に浮かぶが、現代の胸算用は、どのようなのだろうか。彼の語っていることは、現代の相場の話に通ずるものがある。商売をするのは、最終的には、金儲けのためである。もちろん、お金儲けだけが目的では、稼ぐことができないのも世間だが。

  世になきものは、銀(かね)といふは、よき所を見ぬゆゑなり。

  世にあるものは、銀なり。

つまり西鶴が、この小説を書いた頃、明暦の大火で、江戸経済は壊滅的な打撃を蒙っていた。しかし、これをきっかけに、大阪は復興物資の供給により、飛躍的に発展した。兵庫県の知事は、東京圏の震災はチャンスと言って、非難されたが、現実は、まさにそのようだ。

これを今に引き写せば、米国の災難を、日本が機会にして、さらに経済を発展させる時であると言える。だから、日本の経営者は悲観的になる必要はない。混沌は新しい芽を生む。世界をどのように、「調理」するかが問われているのだ。必要なのはセンスだ。

確かに米国市場は、当面期待できないが、米国の弱い面を徹底的に補完し、それをビジネスする可能性もある。また米国が進出して中途半端になった国家・地域に対して、日本的な進出をする可能性もある。

また21世紀はアジアの時代と言われて久しいが、まさにそのチャンスがやってきたと言うこともできる。中国、インド、西アジアと、どのように絡んで、市場を整備し、いかに参画していくか。

日本として、アジアの時代に相応しく、中国、インド、西アジアの市場を創造し、拡大していくことが中心活動になるべきだろう。そして、米国等も含めて、環太平洋市場の成長をさせることが大義というか、目標になるだろう。

だから、そのためには、米国におんぶに抱っこの外交政策では全く駄目で、日本の独自の外交が求められる。それは過去の米国の政策がいつも正しかったとは言えないことから、当然だ。米国の外交に付き合っていると、結局、遠回りしなければならないようになって、大変非効率なのだ。

中曽根政権以後、日本外交は、日米同盟を基軸に、という、頭を使わない外交になってしまったが、今こそ、主体性を取り戻し、日本独自の外交を取り戻すべきなのだ。そして、それは日本経済にも大きく影響していくし、結局、、中長期的には、米国経済の復活にもつながっていく。今こそ、国の胸算用が問われている。そして、経営者も、個人も、それに対応して、手を打っていく準備が求められる。

*追記

いつまでも、政権に捉われて、くだらない政争を続ける与野党は、はやく目を覚ますべきだろう。器の小さい政治トップは日本の不幸だ。

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2008年11月25日 (火)

誤算の人生

先日の日本経済新聞に「誤算のおかげ」(平成20年11月23日付)という記事が目に入った。内容は、サントリーのビールのシェアが伸び、やっと利益が上がるようになったということだ。但し、ビール事業は先々代が始めて、ずっと赤字だった。それを補ったのがウィスキー事業だった。しかし、経営者にとっては、意外だったようで、「ビールがこれほど売れないとは思わなかったし、ウィスキーがこれほど売れるとも思わなかった」という点が、印象に残った。

ただ、このことは、多くの企業の経営者も感じていることかもしれない。多額の研究投資をしたにもかかわらず、事業としては市場に受け入れられず、赤字続きだったが、あまり研究も投資もしなかったのに、ちょっと遊び心で出した、ある商品が市場に受け入れられて、大変売れるというようなことはある。

また主力事業だけで、経営は十分成り立つのだが、たまたま知り合った人物が熱心だったので、付き合い程度に扱った商品がバカ売れすることもある。ところが、主力事業は、振るわなくなったりして、随分助かったという話も聞く。

同様に、育成事業より、傍流の事業が当たったりする。経営者の思い込みで、育成したつもりのビジネスは、結局、開花せずに終わることもある。ところが、一部の社員が拘って開発した商品が市場にマッチして、一大事業になったりする。これらは、皆、誤算のビジネスと言うのかもしれない。

人材の例では、成績優秀で期待した人材は、平凡な成果しか達成できないことがある。その一方で、学業成績も良くなく、あまり期待できないのだが、何となく、人柄の面白さを感じて、お情で採用した人材が、事業に貢献したりする。

採用側の先入観なんて、いい加減なものだ。人材の将来までは読めない。一般的な常識があれば、人材にそんなに差がないのかもしれない。このように見ていくと、経営とは、誤算にいかに適切に対応するかと言うことなのかもしれない。

そして、これは人生にでも言えるだろう。子供の頃、親に将来何になりたいと尋ねられると、子供は直接目にする運転手とか、パイロットとか、お医者さんとか、ケーキ屋さんとか、よく返事する。

しかし、これを、そのまま夢として持ち続ける人は少ないであろう。そして、少し大きくなって、夢を抱いても挫折する人は多いかもしれない。結果的に、現実を知り、流されるままに人生を過ごす人もいれば、誰かがひいた路線に乗ってしまう人もいるだろう。しかし、そのまま人生を送れれば、まだ幸せな方だろう。

現代の日本では、夢もなく、方向感もなく、儘ならない人生を送る人々も多いかもしれない。例の元官僚を殺した殺人犯にしても、思い通りにならず、誤算の人生を感じていたのかもしれない。学校エリートがどこで挫折したのか。彼は暴走して、他人の生命を奪うという卑劣な手段で、人生を捨ててしまった。

しかし、自分の思い通りにならない人生を、誤算の人生だと思い込み、後悔として捉えるのは本人次第だろう。人生の誤算でも、意外な喜びもある場合もある。夢を持ちつつ、人生の誤算を楽しむ余裕が欲しいものだ。山があったり、谷があったりしながらも、それでも、淡々と人生を歩んで、『無事是貴人』という心の領域に達したいものです。

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2008年11月24日 (月)

ワケギ料理の季節

ワケギがやっとスーパー等に出回ってきた。しかし、大きいスーパーは探しても置いていない。あまり売れないのかもしれない。とういうことで、今回は地域スーパーで入手。この時期はどこでも広島産だ。広島しか作っていないのだろうか。ネギの一種だから、作るのは、そんなに手間はかからないと思うのだが、売れないのかな。

そして、早速料理。まず、わけぎのぬただ。子供の頃から好きで、父から、こいつは将来、酒好きになると心配したが、そういう風にはならなかった。まあ、酒のあてにはいいのだろうけれど。料理はいたって簡単。3cmほどに切って、茹でて、絞って、酢味噌で和えるだけだ。

男でも簡単に出来る。酢味噌を作るのが大変だと言う向きには、最近は、酢味噌がチューブに入ったものや、小分けしたものが売られているから、それを和えれば、すぐ出来上がりだ。

それが勿体無いという方は、酢味噌をつくればいい。白味噌と砂糖を3対1程度の比率で混ぜ合わせ、酢1.5程度を少しずつ入れながら、のばしていけばいい。いろんな作り方があるので、いろいろ工夫してオリジナルを作るのも楽しい。

次にネットで紹介されていた、「茹蛸とワケギの御飯」を作ってみた。米に昆布と鰹の出汁と水とあわせて、通常の水の分量よりやや少なめにして、一かけの生姜のみじん切りを入れ、茹蛸を適当に切り、ワケギは2センチほどに切ったものを入れ、酒、砂糖、醤油、塩を適量入れて、炊くだけだ。

これもなかなか美味しかった。新しいレパートリーとして追加することにする。ぬたと共に簡単だからね(笑)。男の手抜き料理という料理教室というのはどこかにないものかな。オーソドックスな料理教室では、腰が引けてしまう。

更に、おかずとしては、ナスを煮たものにした。いつもは煮干の出汁で甘辛く煮るのだが、今回は、剥きエビを酒、みりん、醤油で煮て、エビを取り出し、その出し汁に昆布とカツオの出汁と醤油、砂糖を追加して、ナスに適当に出汁が染み込むように、切れ目を入れた物を入れて煮ると、美味しい、ナスの煮物になる。食べる時に、先に煮たエビを戻して、少し煮合わせしてもいい。

後は、豆腐の澄し汁を作って、大満足。ああ、美味しかった。

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2008年11月23日 (日)

国連による日本の死刑批判は余計なお世話

国連のB規約(市民的及び政治的権利)に関して、国連の人権委員会による対日審査で、死刑や代用監獄を批判しているらしい。余計なお世話と言うしかない。日本は政治犯が死刑になる国ではない。どこの国と勘違いしているのか。

まったく国連のセンスを疑いたい。国連の画一的な政策を世界のあらゆる国に押し付ける態度はB級センスと言えるだろう。また本題とは別の視点だが、高い報酬を受け取っている国連の官僚は、どこが出している資金で賄われていると思うのか。こんなことを勧告するのなら、国連官僚をリストラすべきだろう。

死刑制度は、各国の運営状態によって違うのかもしれないが、法治国家である限り、死刑制度は必要だ。法三章の時代から、統治のために、死刑は必要な制度だ。国を運営するということが何もわかっていない国連官僚にいちいち口出しされるのは不愉快というしかない。国連が、こんなことにお金をかけるのなら、日本は国連拠出金を減らせばいい。

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2008年11月22日 (土)

新自由主義経済の崩壊

サブプライムの崩壊に端を発し、世界経済の破綻への道を歩んでいる。米国が標榜する民主主義と自由主義の躓きはいろんな示唆を与えてくれる。米国経済は、砂上の楼閣だったということだ。やっかいなことだが、今後の世界経済は、山が高かった分、その谷底も深い。多くの人が巻き込まれて覚悟せねばならないのだろう。

また民主主義の輸出については、他の項で触れているので、詳しくは記さないが、国家運営の多様性を理解しない米国指導者の無知が世界を混乱に落としいれ、無用の摩擦を繰り広げている。

そして自由主義、今は新自由主義と言われるが、あらゆる規制を取り除いて、自由競争させると経済は、その思惑通りには機能せず、市場は暴走するということを皆は学んだのではなかろうか。規制緩和と新しい規制は時代と共に調和させる必要がある。

さて日本に関しては、バブル崩壊後の処理に追われて、たまたまサブプライムのビジネスに乗り遅れたため、直接の被害は小さくて済んだようだが、日本のメガバンクの経営者に、それに参加しないという哲学があったかと言うと、それは多分に疑わしい。

それは米国の金融機関が破綻した後、投資銀行に投資しようとしたことからも窺える。彼らは投資銀行の危さを真に理解していないのだろう。そのビジネスモデルは、凡そ、『詐欺ビジネス』であろう。それをそのまま受け入れたところで、米国の金融機関と同じ過ちをする可能性は極めて高い。

もちろん、その『詐欺ビジネス』でさえも、練り直して純化させれば、正しいビジネスになるという見方もできるが、そんな回りくどいことをやるぐらいなら、自ら新しいビジネスモデルを確立した方がはやい。全ての金融機関は、真の役割を再認識し、正しい哲学を持ち、国家経済、世界経済の血となるべく、資金が正しく循環するように努めるべきだろう。

だが、バブル崩壊後、日本国民は、金融機関救済のために多くの犠牲を払った(そして現在も低金利で犠牲を払わされている)にもかかわらず、現在の日本の金融機関が、将来、今回の欧米の危機を再度同じことをしない保証はない。

二度と、こんな馬鹿な金融機関を生まない仕組みを早急に求めたい。早く解決するには、過去に捉われず、あらゆる仕組みや運用のシステムを改革することが求められる。過去を踏襲する官僚的発想では何も解決しないだろう。

いずれにせよ、日本でも、小泉改革でもたらされた「新自由主義」は今後大きく修正されるべきだろう。もちろん、それで大きい政府にする必要はなく、国は大きく関与することは避け、新しいシステムと制度を設け、民間でブレーキのかかる「民間規制」の仕組みを今一度作るべきだろう。

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2008年11月21日 (金)

隠れた美術館?兵庫県公館

JR元町西口を北に上がっていくと、国の登録有形文化財である兵庫県公館がある。文化を感じさせる古い建物だ。1902年に山口半六によって設計され、県本庁舎として利用された。戦争末期に、内部消失したが、戦後、復旧工事や改造工事を繰り返し、1985年(昭和60年)に「兵庫県公館」になった。

この公館で、現在、「兵庫県公館県政資料館収蔵資料展」が開催されている(平成20年12月22日まで)。兵庫県域の古文書と記録の展示だ。その内容は、地価取調帳、企業の就業規則届、村の覚書・文書・陳情書・上申書、企業の定款、罹災救助米等給与通知、海難救助褒状、訓令などが展示してある。

本来は、2階にある県政資料館の一環の展示なので、そういうものに関心がないと特に面白いというものではない。残念ながら、これらの内容は詳しくはわからなかった。まあ、そんなものがあるというぐらいの受け取り(笑)。

流風は、むしろ土曜日に公開している迎賓館としての、この建物と中に展示してある美術品に興味を持つ。建物は、確かに重要人物の迎賓に相応しいものだし、その内装も重厚さがあり、なかなかのものだ。

また全館に展示してある美術品は、それなりに鑑賞できるものだ。例えば、県知事だった伊藤博文の書『鴎盟』、伊藤継郎『赤牛』、山根渓石『春秋左氏伝』、元川嘉津美『トレド風景』、横尾忠則『ROGER AND ANGELICA 19』、小磯良平のタペストリー『KOBE,THE AMERICAN HARBOUR』、市野弘之『菊花文大皿』など、50点ほどの展示が無料で観覧できる。

また現在は、淡路浄瑠璃人形展も開催していた。ここは観光者にとっては、意外と穴場だろう。観光コースに取り入れてもらいたいものだ。それに近くには県民会館もある。そこで休憩して食事もできる。なお、さらに北に上がっていくと、先日のブログでも取り上げた相楽園がある。そこから、東に移動して、異人館コースも、いい。

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2008年11月20日 (木)

円高を前提とした中小企業経営を

相変わらず、報道は、円高で大騒ぎする傾向が強い。確かに、今回の米国金融危機は、国にしても、米国債をたくさん保持しているため、円高になれば目減りする。それが大変なことはわかる。

もちろん、景気を輸出に依存してきたため、米国経済の日本に対する影響は避けられない。特に大企業は大きく影響を受けるだろう。そして中小企業経営者も大変だと大騒ぎしているようだが、自分の経営能力を棚上げして、ちょっと騒ぎすぎだと思う。本来、中小企業が持つべき経営の柔軟性を失っていると思う。

もちろん中小企業経営者にとって、大変な気持ちはわかる。だが今回の危機は、前提とした条件が変わっただけのことだ。これで大騒ぎするのは、自分は能力がありませんと言っているのに等しい。経営に主体性がなく、流れに身を任せてきたから困るのだ。これは何も大企業の経営者だけでなく、中小企業の経営者にも当てはまる。

中小企業は、世界の大勢とは関係ないと思っている人が多いが、決してそんなことはないだろう。これらのことは、一般に真面目な技術屋の経営者に多く見られる。大手企業の下請けで仕事をこなすだけが習い性になっているのかもしれないが、独自の情報感は大切と思う。

やはり世界の流れには敏感になってもらいたいものだ。それは何も難しいことではなく、新聞をじっくり読んでいればわかることだ。スポーツ新聞も話題を知る上では大切かもしれないが、一般紙や経済誌にも目を通して経営感覚を磨いてもらいたい。

さて、前振りが長くなったが、輸出企業の下請けや、あるいは直接輸出している中小企業以外でも、為替の動きには、もっと関心を持った方がいいだろう。例えば、現在ドル=95円(2008年11月20日現在)程度で推移しているが、今後、どのようになるのだろうかと、自ら予測してみることも関心を持つ方法だ。

流風が思うには、基本的には、ドル=80円までは、円高と考えないことだ。この水準が当たり前と考えればいい。そして、さらに円高が進む可能性が高いと読んだ方がいいだろう。もちろん、為替の動きは誰にも予測はできない。

しかしながら、当面は、ドル=80円突破の円高も十分ありうるとして経営することも大切なのではないか。これは輸出業者(あるいは、輸出業者と仕事をしている)にとって、先の予測をして経営することが求められる。例えば、円高に進めば、海外への投資チャンスでもあるので、そのことに対する準備も求められる。ピンチはチャンスだ。但し、借金してビジネスする時ではない。その辺の慎重さは求められる。

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2008年11月19日 (水)

食い合わせを考える

本日の朝は、本格的な冬のような感じで大変寒い。少し寝坊をしてしまった。起きようとすると非常に寒くて、しばらく寝床で待機(笑)。子供の頃、起きるのをぐずぐずしていたら、母から掛け布団を取り去られ、早く起きるように言われたものだ。

こういう時期になると、やはり温かい物が嬉しい。ホット牛乳、ホツトコーヒー、ホットココアにホツト紅茶。流風は、特に紅茶が好きで、紅茶にレモンを浮かべて、少しの砂糖を入れて飲むことが多い。

ところが、紅茶にレモンというのは食品の組み合わせとしては悪いということを聞いた。よく聞くと、いわわる防カビ剤(OPP)使用のレモンとの組み合わせが悪いそうだ。紅茶のカフェインと防カビ剤の組み合わせが、発ガンの可能性を高めるらしい。流風は国産の無農薬レモンしか使用しないので、ひとまず安心。でも喫茶店で飲む紅茶にはちょっと心配だな。今後レモン抜きとするか。

そういうと、昔から、食い合わせとか言って、古人は食事に注意してきた。ところが、最近は、あまりそういうことを聞かない。皆さん、注意されているのだろうか。

食い合わせの悪い例として有名なのは、例えば、次のようなものがあるかもしれない。

  一、鰻と梅干は食い合わせが悪い。む

  一、天ぷらとスイカは食い合わせが悪い。

その他にも、次のような物もあるらしい。知らずに組み合わせていた物もある。

  一、カキとひじきは食い合わせが悪い。

  一、蟹と柿は食い合わせが悪い。

  一、酒と辛子は食い合わせが悪い。

  一、お茶と昆布が食い合わせが悪い。

  一、ほうれん草とゆで卵は食い合わせが悪い。

その他にも、中国の古書には、食い合わせの悪い例として、次のようなものが挙げられている。

  一、牛肉と栗は食い合わせが悪い

  一、牛肉の肝臓となまずは食い合わせてはならない。

  一、鹿の肉となまずは食い合わせてはならない。

  一、鶏肉と魚の汁を食い合わせてはならない。

  一、卵とすっぽんの肉は食い合わせてはならない

  一、卵は、ネギやニラと食い合わせてはならない

  一、エビは猪の肉と食い合わせてはならない

  一、エビは鶏肉と食い合わせてはならない

等々。ニラタマなんて料理もあるけれど、本当に身体に悪いのだろうか。しかし、組み合わせとしては、もっとたくさんあるだろう。医学的根拠は不明だが、先人はおそらく経験からはじき出したのだろう。その他にも、地域の環境特性から生み出される体質が大きく影響している可能性もある。

子供の頃、母は、食い合わせに注意して調理していたようだ。しかし、今となっては、確認することもできない。料理番組の通り作って果たして大丈夫なのだろうか。現代の日本の「食養訓」をどなたかまとめてもらえないものか。すでにそういうものはあるのかな。

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2008年11月18日 (火)

相楽園と中国画家展

相楽園に久しぶりに行ってきた。毎年、菊の季節には、訪れるのだが、今年の菊も美しかった。ここは、そんなに観光客も来ないところだと思うが、さすがに、この時期は、少し多い。落ち着ける庭園には違いない。皆さん、ゆったりと菊を鑑賞されている。

ここの見所は、庭園での菊花展のような催しのほかに、旧ハッサム住宅、旧小寺家厩舎、舟屋形などがある。大体、春と秋に催しが多いようだ。今回は、旧小寺家厩舎が公開されていた。

そこでは、四川省画家・何昌林氏による絵画展が催されていた(2008年11月23日まで)。四川省南西部の少数民族に題材を取ったもので、独特の風俗が描かれていた。そこに派遣された何氏は漢民族らしいが、少数民族の特徴をよく捉え、そこに愛情というか、尊敬さえも感じたような描き方だ。

それは未開の厳しい自然の中で育まれた何かを感じ取ったのだろう。都会との落差を痛切に感じたのかもしれない。日本でも、都会は、歌ではないが、砂漠と感じる人は少なくないだろう。相楽園のような庭園に来る動機づけも、多分そういうところから来ている。

そして、今回は、「うまやライブ」として、中国の江蘇省出身の歌手、徐莉氏による、「中国情歌~少数民族の心~」が催された。十曲程度歌われ、その意味はわからなかったが、雰囲気は味わえた。雰囲気をブログで表すことはできないが、その題だけでも示しておこう。

  1   ジャスミンの花             江蘇省民謡

  2   刺繍の贈り物              山西省民謡

  3   太陽の喜び               四川省民謡

  4   康定情歌                四川省民謡

  5   四季の歌                青海省民謡

  6   恋人たちの調べ            雲南省民謡

  7   遠く離れたかわいい娘        青海省民謡

  8   マイラ                  新彊省民謡

  9      月光の下で               新彊省民謡               

  10    小川の流れ               雲南省民謡

歌声を聴きながら、時を忘れ、遠い地に思いを馳せた。たまには、こういう時間を過ごすのも悪くない。いつもは、学生による琴の音が多いが、今回は、絵画展に合わせた園長の粋な計らいに感謝。入園料300円で、十分お釣が来ました(笑)。

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2008年11月17日 (月)

能の味わい方は様々

総合芸術である能は、その鑑賞には手間がかかる。単にあらすじを知って、能楽を鑑賞しに行っても、外国人じゃないが、単調で退屈なだけだろう。鑑賞するには、下準備がいる。少なくとも、謡曲の内容を理解して鑑賞することが望ましい。

ただ謡曲のテキストを読んだからといって、その内容が理解できるわけではない。狂言のようなものであれば、単純にその内容を楽しんでみたら、それでいいが、謡曲はそういうわけにはいかない。すなわち、テキストを読んでも、その行間に示される内容を深く理解しないと、楽しめない。

そして、その理解度は、各人の経験と知識によって左右されるし、その解釈も異なってくる。その解釈の差を楽しむと、謡曲は断然楽しくなってくる。解釈は、各人、それぞれのやり方が許されるし、他人の解釈をそのまま受け入れなくてもいい。

しかしながら、能を真に楽しむとなると、次の段階に進むことが求められる。すなわち演者の謡曲の解釈による舞が果たしてどのように表現され、自分の解釈と、どのような共通点があり、差異があるのか。となると、舞の知識もなくては能は鑑賞できない。舞台を眺めるだけでは鑑賞にはならない。

演者の一つ一つの所作にどういう意味が込められているのか、わからなければ、能は理解できないし、楽しめもしない。もちろん、その音楽と空間が醸し出す雰囲気も、鑑賞者側は大きく影響を受ける。そういう意味では、能は、演者・鑑賞者双方の練磨が求められる総合芸術といえる。日本人は、能という文化に、もっと自信を持っていいと思う。

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2008年11月16日 (日)

自分より優れた部下

中国のある話に、次のようなものがある。楚の国の荘王の夫人だった樊姫(はんき)という人がいた。ある日、荘王が帰ってくるのが遅かったので、その理由を尋ねると、優れた大臣と話し込んで遅くなったという。その大臣名を問うと、虞丘子だというので、樊姫は笑った。

不審に思った王がその理由を尋ねると、「彼は大臣になって十数年になるのに、まだ一人の賢人も薦めていない。これはどういうことでしょう。賢人がいるのに薦めないのは不忠であり、賢人がわからないのは不智です。彼が優れた大臣とはどうして言えましょう」と。

俗に、雌鳥が鳴く家は栄えないと言うけれど、樊姫の指摘は的を得ているだろう。ところで、自分より優れた部下が出てきた時、あなたはどのように処していますか。上司(管理者)の対応としては、次のようなことが考えられるだろうか。

一、部下の有能さを認め、さらにもう一段能力を高めるべく環境を整える。

部下が、飼い殺しにならないよう、その持てる能力をフルに発揮できるような環境を整え、そのことにより、ビジネスチャンスを拡大させる。更に、次の段階では、広い視野を持つように指導し、自分の地位を任せるか、あるいは飛び越えられるような配慮をする。つまり、そこそこ自立できる目途が立てば、上司に人材の紹介をして、全社的な活用を促す。

二、部下の有能さは認め、能力を上げるように指導はするが、あくまでも、現体制・組織内での人材育成に留める。

これはいわゆる上司の保身だ。自らの出世を優先し、有能な部下は、そのために使う。もちろん、自分が出世すれば、自分の現在の地位を渡す用意はあるが、飛び越えないように注意する。よって、優れた部下の存在は、トップには、情報として積極的には上げない。いわゆる、年功序列の徹底だ。

三、部下の能力に嫉妬して、能力が発揮できないように追いつめる。あるいは、能力発揮の機会を与えない。

どうでもいい仕事に従事させて、本人がやる気を失うようにもっていく。結局、部下は辞めていくことになる。上司の地位は、依然として上がることはないが、部下の脅威からは逃れることができる。トップには、部下が辞めたことを「最近の若い者は」とか言って、部下のだらしなさで言い繕う。

さて、現代の上司はどの立場を取られているのだろう。それでは、最初に示した物語の結末を紹介しておこう。

荘王は、翌日政庁に出向くと、かの大臣を呼び出して、樊姫の言ったことを伝えた。そうすると、虞丘子は、樊姫様のおっしゃる通りです、と言い、大臣職をすぐ辞し、優れた人物を推挙した。それが孫叔敖である。彼が大臣になると、荘は富み、強力になり、ついに覇者になった。

*追記

虞丘子の偉い所は、人材をきちんと育成していたことであり、後継者をすぐ指名できるようにしていたこと。そして、後継者が仕事をしやすいように、すぐ大臣を辞め、引退していることだろう。その引き際のよさは、首相を退任しても、議員に留まり、権力を維持しようとする日本の政治家とは大きく異なる。

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2008年11月15日 (土)

こんにゃく料理と健康

以前のブログで、落語『こんにゃく問答』(*参考参照)に触れて、権威者の勘違いを取り上げた。禅問答など門外漢のこんにゃく屋の親父が、たまたま僧になりすまして、旅僧に対応して、打ち負かすというものである。

もちろん、こんにゃく屋の親父にすれば、禅問答などしている気はさらさらない。あくまでも、こんにゃく屋の知識で対応しているに過ぎない。旅僧の方が、それを禅知識と勘違いして解釈して、自分が負けたと錯覚するのだ。人間、専門の域に達すると、かえってその専門性故に、全体感を見失うのかもしれない。学者の世間知らずと同じだ。

さて、こんにゃくは、このこんにゃく問答同様、確かにつかまえるには捉えどころがない。包丁で切る時は問題はないが、千切る時は、つかむと、くにゃと逃げていく。鰻ほどではないが、手で千切るのは一苦労だ。

こんにゃく料理は、時々作っているが、なかなかレパートリーが増えないでいる。正月のお節同様、煮炊きするか、せいぜい、すき焼き、味噌田楽、おでん、かす汁に利用するぐらいた。

こんにゃくは、俗に、砂下しと言われるように、便秘に利く。流風は、どちらかと言うと、お通じはいい方なので、女性のように便秘に困ることはない。だが、こんにゃくは老廃物やダイオキシンなど胃腸にたまっている物を一緒に体外に排出してくれる。

そういう意味では、もっと食材として利用した方がいいのかもしれない。何かと危険な食品が多いことの世の中、体内に蓄積されないようにするためには、有用なようだ。

ということで、こんにゃく料理のレパートリーを増やしたいなと思っていたら、リンクしているブログでこんにゃく料理が紹介されていたので、作ってみた。

それは千切ったこんにゃくと薄切りしたレンコンをごま油で炒めて、出汁、酒、砂糖、醤油で煮たものだ。出来上がった物を食べてみたが、これはなかなかいける。お酒のあてにもなりそうだ。お蔭で、胃腸も快調。今後、もう少し、料理のレパートリーを増やしてみようと思う。

*参考    落語『こんにゃく問答』の概要

       http://www.pippo-jp.com/runde/spot/y03/kon-nyaku.html

*追記

最近、「こんにゃくゼリー」なるものを、幼児や高齢者が咽喉につめて、不幸な事件が起こっているが、母も一度咽喉に詰めて大変なことになった。一応、何とか吐き出させたが、二度と食べないと言っていた。母はこんにゃく料理は好きで、よく食べるのだが、その時、咽喉に詰めたことは一度もない。

結局、何が悪いのか考えてみたが、この商品のネーミングが悪いのだろうということになった。つまり、こんにゃくなのにゼリーと勘違いして、呑み込むから、咽喉に詰めてしまうのだ。ゼリーは普通呑み込むので、同じ行動を起こしてしまう。こんにゃくであれば、噛むので、呑み込むことはないだろう。人間の先入観は怖い。メーカーは、名称を変更する必要がある。

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2008年11月14日 (金)

菊の霊水

        心あてに 折らばや折らむ 初霜の

            置きまどはせる 白菊の花

                (古今和歌集、百人一首第二十九番、凡河内躬恒)

白菊は、霜と区別できないくらいに白い。白色にもいろいろあるが、この両者は似ているかもしれない。このような描写をするのは、日本人の感性のような気がする。ただ、この歌が、額面通りの意味なのかは、わからない。何か別の意味を含んでいるように思うのだが、不勉強で、ここでは詳しくは触れないことにしよう。

さて、昔から、長生きしたい気持ちは多くの人が持っていたようだ。もちろん、苦しい生活が続いた時代は、人生を厭う気持ちが強かったかもしれない。しかし、それでも、病気にもならず、食べ物にも不自由しない夢を見たことは確かだろう。

それが高じて、神仙思想などというものまでに発展する。すなわち、長生きする人たちを観察して、一部の知識人は、何が身体によければ長生きできるのかを考えたようだ。だから、いろんな食物を試して、その効用を知り、経験的に医学のようなものに高めていった。

そういったことを最初に試したのは、残念ながら日本人ではなくて、中国人である。日本へは、結果的に、中国への留学僧や来日した僧たちから、それらがもたらされた。例えば、お茶や菊などは当初、医薬品として入ってきている。

ところが、彼らが日本に来て、唯一感心したものがある。それは水である。地勢的な自然環境に加えて、豊かな森林があったので、水が美味しい。その水は、明らかに中国のものとは異なる。彼の国では、よい水が身体にいいことは経験的にわかっていても、美味しい水は、入手は困難であった。だが、この国ではいとも簡単に入手できる。

そして、そのような水が、菊の花から、零れていたら、人はどう感じるだろうか。それはまさに、菊の霊水、すなわち、お神酒と考えたようだ。そういう言い伝えを、現代でも、一部の清酒会社は受け継いで、菊を社名や商品名に冠している。

また、謡曲『菊慈童』(別名『枕慈童』。参考参照)でも、主として扱うのは菊だが、水が重要な役割を果たしている。その中に、上歌として、次のように示されている。

  この妙文を菊の葉に置く滴りや、

  露の身の不老不死の薬となって、七百歳を送りぬる。

  汲む人も汲まざるも、延ぶるや千歳なるらん。

  面白の遊舞やな。

まあ、菊水酒を飲んで、不老長寿になるかは、疑わしいが、菊には、高血圧や心臓病や、肩こりに薬効があるとされてきた。少なくとも、健康維持のためには役立ったようである。現代の菊の霊水はどこにあるのだろうか。

そういうと、菊の薬効としては、以前、南京町のある中国茶店で、菊茶を勧められて買ったことがあるが、かなり癖のあるものだった。まあ、良薬は口に苦し、とまでは行かなかったが、進んで飲みたい代物ではない。

ということで、菊茶は御免だが、ネットの『3分間クッキング』で紹介されていた「菊菜御飯」を作ってみた。菊菜のいい匂いと、味も意外と美味しくて、豚汁と刺身で、ご馳走様(笑)。ただ、菊の花はなかったので、長寿になるには、効果半減?。まっ、いいか。菊の名のついた清酒で補うとする(笑)。

*謡曲『菊慈童』について

謡曲『菊慈童』についての解釈は、例によって、記してみようと思ったが、小山昌宏氏が、覚書としながらも、見事なものがあるので、参考までに紹介しておく。

            http://www2u.biglobe.ne.jp/~kym_noh/kikujido.htm

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2008年11月13日 (木)

東京圏災害リスク拡大

井戸敏三兵庫県知事が、関東大震災が起これば、関西にはチャンス、というようなニュアンスの発言をして非難されている。確かに、「チャンス」という言葉は日本ではまずい。

「chance」には、いろいろな意味があるが、日本では、一般的には、「好機」という意味で捉えられている。単に「機会」とか「可能性」と受け取られればいいが、日本では難しいだろう。言葉の選択を間違ったのだろう。

ただ、実際、阪神・淡路大震災で、兵庫県下の有力企業は、東京やその他の地域に工場や本社を移動し、復興後も、戻っていない。結果的に、産業力は低下している。仮に東京圏も震災等の大災害が起これば、著しく経済力が低下することは否めない。それは兵庫県の比ではない。また東京に、あらゆる機能が集中しているため、国家的にも甚大な被害を受ける可能性は高い。

まあ、別の見方をすれば、兵庫県は、石原都知事に、阪神・淡路大震災について、当時の政府の対応の悪さを忘れて、兵庫県の対応に関して非難・暴言を吐かれていたので、その意趣返しとも考えられる。県民にしても、マスコミ報道のように、何も怒っている人たちばかりではない。

さて、それはそれとして、東京圏の災害リスクは年々拡大しているのは確かだ。災害は何も自然災害だけに止まらない。いわゆるテロを含めた災害リスクも、あれだけ人口と機能が集中していると被害を受ける可能性も高い。

企業も、個人も、そのリスク分散の意味で、東京圏から離脱することも考えていた方がいいだろう。そして、国も、機能分散を真剣に考える時が来ている。また東京圏に関しては、その規模から、災害が起こってから手を打っても遅すぎることを再確認して欲しい。だが、もう残された時間は少ないと思う。

*追記

仮に、現状のまま、機能分散せずに、東京圏で大震災等が起これば、その処理のために、巨額の資金を要し、税金が上がることは間違いないだろう。その場合、消費税は、20%近くになることも想定される。東京圏以外の人々も無関心ではいられないはずだ。

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2008年11月12日 (水)

国の借金と政権の行方

日本の財政問題には、社会保障体制の揺らぎと、巨大な国の借金問題がある。社会保障の揺らぎは、厚生労働省の行政能力不足と腐敗によるものだ。もちろん、他省にも同様のことがある。天下りを重視するあまり、多くの無駄をしてきた。

こうなってくると、お金に関する管理は、財務省に一任した方がいいとも考えられる(財務省も、もちろん天下りはある)が、扱う金額が多すぎて、歳入と歳出を両方担当するのは問題があるかもしれない。いずれ歳入庁と歳出庁に分離することになるかもしれない。

他方、国の借金については、財務省が発表した所によると、国の借金である、国債、借入金、政府短期証券の合計が、今年の8月末現在で、5兆9602億円減って、843兆2794億円になったとのことである。しかし、減ったといっても、国民一人当たりの負担に換算すると、約660万円になる。

いろいろ議論はあるだろうが、国が貧乏で、国民が金持ちであるということはある程度修正される必要があるかもしれない。国に借金がある限り、公共投資もまともにできない。時と場合によっては、国の役割を小さくする必要もあるが、国が国家全体をならすことは重要な役割だ。そのためには、公共投資のその内容や予算の透明性は高める必要があるが。

ということで、内需拡大政策も国の借金に縛られることになる。そういう意味では、国の借金は、もっと減らす必要がある。ただ、国には、どれくらい借金返済のためのお金があるのかは、国民には見えない。まだ隠された返済に充当できる資金は十分あるという人もいるし、それは考え方によって左右されるという人もいる。

しかし、それが不透明では、国民にとって、消費税アップも納得がいかないということになる。消費税が一体何に使われるのかが不明であれば、国民の納得は得られない。特に、今の政府のその使い方は不明である。麻生首相は、3年後に消費税をアップする可能性に言及したものの、どのように使うか表明していない。自民党政権では、今までの経過を見ると誤魔化す可能性がある。過去の政権では、約束した目的外の流用も多い。

そのような状況下、政府は、「定額給付金」を、政権維持のため、お金をばら撒く。そんなものは、政治の利己心によるもので、決して国民のためではない。金が2兆円もあるのなら、借金をまず減らすべきではないか。それをやらないということは、国の借金を返済する資金がまだ、どこかに隠されているのではないかと疑われても仕方ない。

麻生政権のやることは、まったくちぐはぐだ。今、政権信頼性が問われている。衆議院選挙を遅らせて、政権にとって、ますます状況が悪化しているように見える。彼は選挙の顔になるべく選ばれたのだろうが、状況が悪化しているとすれば、自民党は、次の顔が必要になるかもしれない。政治の迷走による無駄遣いは無くしてほしいものだ。

*追記

それにしても政権を狙う民主党も、選挙を意識しすぎて、ふらふらしている。自党の主張をきちんと続けるべきだろう。さもないと有権者から、そっぽを向かれるだろう。それは自民党政権の延命を援けるものになるだけだ。

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2008年11月11日 (火)

今後の米国経済の行方と一つの可能性

現在、米国市場は、乱高下しているが、不気味な感じだ。それほど人々は疑心暗鬼になっているのだろう。そういう意味で、市場が壊れているのは確かだ。これはまだ膿は残っているだろうことを示すものかもしれない。金融業界の更なる不正はこれから摘発されるのだろうか。それとも公的資金を投入して、それを政治的に誤魔化すのだろうか。

かつて日本の金融機関を、極めて、いい加減で恣意的な数字(解釈の仕方で、どのようにでも見える)で、罵った欧米金融機関や格付会社が、今、いかに出鱈目な経営・運営していたかが問われている。まあ、いつの時代も、偶像というものは、いつか化けの顔を剥がされるものらしい。

まさに「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す」そのままだ。欧米の経営者も、『平家物語』を読んだ方がいいかもしれない。驕りは凋落の前触れということだろう。

実際、その経済実情は破綻していると言って間違いない。大統領が変わっても、その回復の足取りは極めて重いだろう。つまり打てる手は、全て時間がかかるということだ。それにしても、自動車産業のビッグスリーと言われた企業が国に支援を求めているのは異様な感じだ。米国は、自由主義を放棄したのだろうか。自由主義の限界をやっと感じているのだろうか。

もちろん、学習能力に優れている米国は、同じ過ちは今後しないと思うが、その経済を回復させるには、戦争経済から脱して、国内経済の再確立が求められる。例えば、インフラの再整備が考えられる。一部で米国新幹線の可能性が持ち上がっているが、それも有効な手段かもしれない。

米国は国内の移動に、どちらかと言うと、航空機産業に依存してきた。ただ航空機産業に依存するということは、国家の全てに目が届かないとも言える。国家の開発が粗いと言える。今後、米国が鉄道産業の見直しで、国家の血管のように巡らせば、国全体の再開発になる可能性もある。そして、それが自動車産業の復活につながる可能性もある。日本も場合によっては、発展途上国並みと見なして、「対米国版ODA」の実施が有効かもしれない。

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2008年11月10日 (月)

現代日本教育の課題と不要なPTA

過激発言で目立つ、例の大阪府知事が、「PTAを解体」とか発言して、問題になっていた。しかし、流風は、PTAの存在自体に懐疑的だ。父も、PTAが日本の教育を歪めていると、常々言っていた。こんなものは、必要ないとのことだった。

詳しくは聞いていないが、教師が、一々PTAにお伺いを立てるのは、明らかにおかしいと指摘していた。PTAが完全に中立的存在で、学校側と生徒側の橋渡しになるのなら、よいのだが、得てして、それはPTA役員のための組織になりがちだ。

学校教育に過度にPTAが関与することは、教育を歪める結果になりかねない。もちろん、学校教育者の監視は、どこかで求められるだろう。不良教育者が犯罪を犯す例もある。しかしながら、大半が、良心的な教育者であろう。むしろ彼らの悩みを解消する仕組みを作る必要があろう。外部から見ても、あきらかに、教育以外の雑用が多すぎる。

まず生徒の質の問題がある。教育を受ける態勢になっていない生徒を全体の中で、活かすことは大変難しい。すなわち、教育目標は何なのかを明確にした就学前教育が不十分なのだ。それをどのようにするか。

それを誰がやるか。家庭なのか、地域なのか。そういう問題を解決せずして、学校側に押し付けても、問題が複雑化するばかりである。いずれにせよ、教育の主体は家庭にある。それを放棄して、どのようにでもなるものではなかろう。

次に指摘するのは、教師の持ち時間の限界であろう。教師は、ただある教科書を機械的に教えれば済む問題ではない。もし、そんなことで済むのなら、今では、ネットシステムでマンツーマンで十分だ。よって、その教師でないと教えられない、学問の研究と教え方の常々の工夫が求められる。しかし、それをするのに十分な時間は与えられていない。

さらに、国民やマスコミが教育の現場の諸問題をすぐ問題化させるため、担当官庁は管理面を強化さぜるをえない。そうなると、結果的に、教師の前は、書類の山で、それに相当時間を割かれることになり、本来の教育準備時間を減少させる結果になる。

そして、最初に挙げたPTAとのお付き合いなどが増えると最悪である。個々の役員との対応に時間を割かれると、もはやPTAは教育側にとって、お荷物に過ぎない。PTAは解散して、就学前教育に腐心するべきだろう。そうすれば、教育者側からも歓迎されるだろう。

現代教育は、生徒の父兄側がいろいろ権利を主張しておかしくなった。学校教育はその学校を選択した段階で教育側に任せた方がうまくいく。教育側と生徒側のお互いの信頼関係再構築が求められる。それと共に、国家的には、教育側のシステム再構築(教育目標の再設定と、その構造と運営の再編)も求められる。

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2008年11月 9日 (日)

子供時代の躾の思い出

子供の頃、騒いでいて、枕を踏んだり、またいで母に叱られた。どういう意味で、母が叱っていたのかわからないが、よく言われた。そういうと、中国の話でも、周の穆王に寵愛された慈童が、穆王の枕の上をまたいだ罪で、流罪された例もある。

流風の場合は、どういう理由か聞かずじまいだが、行儀が悪いことは確かだろう。そして、子供の躾には、ほとんどの親が悩むことだろう。子供に理由を問われると、返事をするのは、また一苦労だ。

特に男の子は大変だ。なかなか言うことを聞かないし、元気がなければ、それはそれで問題だし、元気がありすぎても、それもまた困る。流風は、子供時代は大人しい方だったと思うが、それでも、両親に、たびたび叱られた。

友達と部屋で騒いでいて、障子や襖を破ったこともよくある。その度ごとに、母は、障子を張り替えたりしていたが、襖は素人ではなかなか直すことはできない。大きな紙を貼り付けて誤魔化そうとするが、余計に目立つだけ。

結局、父の帰宅後、大目玉を食らって、押入れに入れられたり、屋外に立たされたり、夕食は抜きだ、とか言われたりした。それでも、懲りずに、穴の開いた障子や襖にさらに穴を大きくしてしまったこともある。

その他にも、食事は音を立てずに食べることは、母から良く注意を受けた。もちろん、箸の持ち方は、くどいほど訓練された。嫌がると、「それは将来、お前が恥をかかないため」とか言われ、ちゃんとできないと食事させてもらえない。

また父は室内で音を立てることを非常に嫌がった。歩く時も、まるで泥棒みたいに音を立てずに歩く。障子や襖は音を立てずに閉める。ある時、ちょっとした弾みで、襖が音を立てると、厳しく叱られた。でも、子供にはちょっと厳しすぎる感じ。

父の基準は、今でも、どのようであったのかわからないが、まるで人の気配がないくらいに静かにせよ、ということだったのかもしれない。それは、子供には非常に辛い。まあ、父の言うことは正しかったのだろう。そうすれば、家も傷まないし、あらゆる無駄が省ける。

それから母からは、敷居は踏んではいけないし、畳の縁は踏んではならないと教えられた。華道やお茶の心得があるから、余計にうるさかった。不思議と、それはすぐ守ることができた。しかし、他人の家では、不思議がられたこともある。そういう躾をしない家もあるのだった。

掃除についても、廊下を中心として、拭き掃除は毎日のように命じられた。夏はいいけれど、冬は手がしもやけになって、辛かったけれども、許してはもらえなかった。その後のおやつはうれしかったけれど。母は、掃除は子供教育に必要と思っていたようだ。周囲をきれいにすることは、心身によいと思っていたらしい。

ある時、新聞を踏んだ時は、父に激怒された。その時、別に父が新聞を読んでいたわけではないのだが、後で、聞くと、「神を踏む」に通じ、神を怒らせたら、お前は無事に過ごせないと言われ、さすがに、それ以後しなくなった。

道を歩く時も、真中を歩いてはいけませんと言われた。最初、それは交通事故に遭うから、それに配慮してのことかと思ったが、神社に参詣する時も、真中を歩こうとすると、それは許されなかった。以前にも記したが、ポケットに手を入れても叱られた。もちろん、近所の方への挨拶は、当然だった。挨拶することは、自らを守ることと教えられた。

このように見ていくと、子供時代、いかに両親、特に父に叱られていたかがわかる。その結果は、残念ながら、イマイチだが、教えられたことは覚えている。それが財産と言われればそうかもしれない。十分にそれを守っていないことが、問題(特に掃除)だが。

*追記

躾には、両親共にうるさかったが、学業成績については、成績が悪くても、父に叱られた経験はない。学業に対する取り組み方について、時々示唆があったくらいである。母がよい成績の時は、時々喜んでいたぐらいである。

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2008年11月 8日 (土)

やっぱり新米は美味しい

今回買った、お米は新米だ。もちろん減肥料の県産米だ。男の性で、時々、他県米を購入するが、結局、県産米に戻ってくる。浮気しても、結局、古女房に戻るのと同じ感覚かもしれない(笑)。

そのお米を炊いてみると、やはり美味しい。それにいい匂いだ。昔は、水の加減が難しかったが、今は含水率が調整されており、いつものように炊飯器で炊いて問題はない。うまく炊き上がった。

新しいものは、やっぱりいいなあ。そういうと、今年、畳も表替えを久しぶりしたところ、畳のいい匂いがして、気持ちよかった。畳屋からは、もっと替えないと健康にも良くないですよ、と言われたが、商売上の話だけでなく、実際、そのように感じる。空気がおいしくなった感じだ。

また俗に、「女房と畳は、新しい方がいい」とは言うけれど、女房はまだ、新しいのを迎えていない。上げた畳はそのままだ(笑)。いろいろ候補はあるけれど、ニュータイプの畳には違和感を覚えるし、迷う所だ。ただ女房は、お金持ちでも、そう度々取り替えては、どこかの芸能人ではないが、破産してしまう。運気も逃すしね。

あれ、何の話をしているのだか。話を本題に戻すと、お米も新しいのがいい。「女房と畳とお米は、新しい方がいい」と言い換えても、いいぐらいだ。新米は、特におかずがなくても、それだけで食欲が湧く。

しばらく、パン食が一日一食はあったのだか、しばらく三食御飯ということになりそうだ。食欲はさらに増しそうだ。しかし、食べ過ぎる可能性もあり、健康管理には困ったことだ。

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2008年11月 7日 (金)

菊花の契り~信義とは

11月になっても、比較的暖かい日が続いているが、菊花展は各所で開催されている。今年も数箇所回ったが、どこも立派な菊ばかりである。以前にも、記したが、子供の頃、父が大輪の菊作りに挑戦したが、一応大輪のものはできたが、満足できるものができず、父にしては珍しく1年で止めてしまった。

流風は、そういう段階までは、とても行っていないので、せいぜい小菊を作るぐらいである。それでも、黄色や白色の菊が満開だ。少し大きな茶色の壷にナンテンの枝を切り取ったものに、白い小菊をあしらうと、品のある生け花になり、一人悦に入っている。

そういうことで、今回は菊に関する物語について、備忘録的に触れてみよう。それは人口に膾炙した『雨月物語』の中にある「菊花の契り」だ。『雨月物語』と言えば、怪奇小説と言えないこともないが、上田秋声の人間哲学が反映された教訓書と捉えることもできる。

さて、そのあらすじだが、舞台は、現在の兵庫県加古川市。丈部(はせべ)左門という貧乏な学者がいた。彼には老いた母親がいたが、息子の高い理想に共鳴し、生活を支えていた。彼の妹は、裕福な佐用家に嫁いでおり、佐用家はいろいろ支援を申し出たが、決して受けようとはしなかった。

少し脱線するが、この話には、親戚に同様の人がいた。戦前の話だが、その家は夫を病気で亡くして貧しい状態が続き、生活は大変苦しく、それを見かねた、夫の親戚は、農家でも比較的ゆっくりしており、多くが支援を申しでていた。

しかし、決して、その奥さんは、それを受けなかったということだ。息子がその理由を聞くと、彼女は彼に次のように語ったという。「生活は確かに苦しいが、今、もし親戚のお世話になれば、お前が仮に将来出世しても、親戚の皆さんには、一生頭が上がらなくなる。だから、決して、支援は受けてはいけない」ということだったらしい。

小学校もろくろく行っていないのに、そういう自尊心は備わっていたということだろう。明治生まれの女性のすごさかもしれない。苦しい時は、ついつい支援を受けてしまいそうだが、将来を見通すことはもっと大切だという事を教えてくれる。子供たちは、ろくろく小学校にも行けなかったが、その後、事業を興して、立派にやり遂げたという。

脱線してしまったが、話を元に戻すと、彼が知人を訪ねて、楽しく過ごしていると、隣室から呻き声が聞こえた。理由を聞くと、その人は、旅の人から宿を求められ、品性卑しからずということで、御泊めしたのだが、その夜、急に苦しみだし、どのようにすべきか困っているのです、と言う。

今は、知らない人を宿泊させるなんて、ありえないと思う人が多いだろうが、戦前までは、よくあったようだ。一宿一飯なんて、任侠だけの世界ではなかった。まあ、皆、貧しいから別に取られるものもないし、気軽に泊めたようだ。そういう助け合いの精神があった。現在ほど、交通も発達していないし、宿泊施設もないことがそうしたのかもしれない。

左門は気の毒に思い、看てあげたいと申し出るが、流行り病だと、もしものことがあってはと、断るが、「死生、命あり」ということで、説得し、病人を看護する。そして、まるで兄弟のような看護の仕方で、ついに病を治してしまう。

ちなみに、「死生、命あり」とは、人間死ぬ時には死ぬし、そうでない時は死なない、ということだ。強く生きる意志があれば、死ぬことはないとも言える。死は、諦めと共に来るのかもしれない。

さて、病気を治してもらった、その人は感激し、松江出身の赤穴宗右衛門であると名乗る。そして、これを機会に、義兄弟の契りを交わし、来年の重陽の節句に会おうということで別れる。

義兄弟とは、別に任侠の世界でなくても、交わされていたようで、それは本当の兄弟以上のつながりでもある。それは友人関係のような、いつでも切れる浅い付き合いではない。友人関係は、大義名分があれば、切り捨てることができるが、義兄弟は、そういうことはない。そういうと、『三国志』でも、義兄弟の契りを交わす場面がありますね。中国では、今でも、そういう考え方が浸透しており、外交面でも、その思考が生かされている。

以下、詳しい話は長くなるので、省略するが、その後、重陽の節句がやってきたので、食事や酒の準備をして、左門は待つが、宗右衛門はなかなかやってこない。しかし、諦めた頃に、宗右衛門らしき姿を認めるが、どうも様子がおかしい。

話を聞くと、囚われの身となり、約束を果たせないので、魂は千里の道も一日で着くと云うので、自刃して、やって来たという。左門は、宗右衛門の信義の厚さに感心し、彼の復讐を遂げるというものだ。

当時の人が、如何に約束を守るということを重視しており、信義を重んじていたことを表す物語かもしれない(その逆で、そういうことが守れない人が当時増えていたのかもしれない。それを諭すために作った物語とも言えなくもない)。

しかしながら、その内容については、実は、中国で作られた物語に似たようなものがある。全ての話が同じではないが、参考にした可能性はある(*注参照)。秋声は、これを基に舞台を日本に移し、翻案したものだろうと云われている。

それでも、この『菊花の契り』という作品は、その後、日本人に深く影響したものと思われる。この物語は、やりすぎとしても、その精神性には共感できる。さあ、今の日本人に、約束を守るということを重視している人がどれくらいいるだろう。

重要な約束は大切にしても、小さな約束を守っている人は少なくなっているのではないか。約束事は、一旦、口に出したら、守らなければならない。そのためには、言葉や行動は慎重になる必要がある。この物語の示唆について、もう一度学ぶ必要があるかもしれない。

*注

中国の『古今小説』の中に、漢の明帝の時代という設定で、張元伯と范巨卿の話として描かれている。成立年はよくわからないが、上田秋成より百年前くらいの作品でないかと推定される。彼が、この本を読んでいた可能性は否定できない。

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2008年11月 6日 (木)

情は人の為ならず

「情は人の為ならず」、という言葉があるが、言葉の意味を誤解している人が未だにいる。それは、「人に情けをかければ、その人のためにならず、そういうことをしてはいけません」と言う意味に理解しているようだ。困った人達だ。

本当は、「ただ人は情あれ、情は人の為ならず」なのだが、前の句が省略されて、後の句だけが残り、どうも誤解を招くようだ。この人間社会では、情が重要な人間関係で重要な意味を持つ。人が情で動くことを忘れてはならない。そして、それは連関し、多くの人に影響を及ぼしていく。

また人に情をかけることは、自分自身を耕すことでもある。人間を知るということでもある。それは社会をうまく回す方法でもある。結局、正しい理解としては、情心を以て、人に接しなさい。人に情をかければ、回りまわって、他人から情をかけられることになる。

こういう言葉が出てきた背景には、一つの人間観が横たわっているのだろう。人は一人では生きていけない。短い人生の中で、人の気持ちを大切にして、仲良く生きようではないかと。人が困っていれば、できる範囲内で助ければいい。見返りなど期待せず、そういうことをやっていれば、その人の表情もよくなる。

だから、人に情をかけたのを忘れた頃、自分自身が危機に陥っても、自然といろんな助けがあちらこちらからやってくる場合もある。人間社会というものは、そんなものだ。日頃から、人を活かす発想が求められる。

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2008年11月 5日 (水)

映画『Red Cliff(レッド・クリフ)』~赤壁を考える

あの『三国志演義』を題材に取った、映画『Red Cliff(レッド・クリフ)』(*  参考1参照)が現在、上映されている。題名の『Red Cliff』は、ずばり「赤壁」の直訳。つまり、赤壁の争いのこと。あらすじは大体知っているので、今更という感じもしないわけではないが、あれだけ広告を打っていると、さすがに、ちょっと観てみようかなと思わせる。絶世の美人の小喬を演じる台湾女優リン・チーリンも見てみたい。ミーハーの流風には刺激的な場面もありそうだし(笑)。

でも、やはり、その中で、圧巻は、この映画の題名通り、魏の曹操と、呉と蜀の連合軍の争い。圧倒的な戦力の曹操軍に、諸葛孔明の奇策で望む呉・蜀連合軍。この赤壁の争いで雌雄を決する。

映画では、呉の司令官である周瑜の妻で、絶世の美人の小喬を得るために、魏の曹操が戦争を起こしたというが、実際はそうではないだろう。曹操は、そういう人物ではないと思う。中国では伝統的に、曹操を悪役と設定しがちだが、必ずしもそうではないと思う。彼は高い教養を身につけた理想主義者だったはずだ。多分、女性に対しても、そのようであったと思う。

まあ、物語を面白くするには、そのようにするのも仕方ない。大体、『三国志演義』そのものが、小説だから、日本の時代小説と変わらない。日本の大河ドラマも、大枠の歴史的事実は確かとしても、細部は実際は、かなり、かけ離れているだろう。それらは著者や制作者の思いの世界だろう。

さて、この争いに関しては、漢詩でも、蘇軾の『赤壁賦(前・後)』(* 参考2参照)が有名だが、長いので、ここでは省略する。彼は、自分のような軽い存在の人の営みは、あっという間のことだが、彼らの行動も、大きな時の流れの中では、これらさえも夢の如しと断じている。織田信長や晩年の秀吉が、感じたことと通ずる。

さらに、この蘇軾の詩を基にしながら、歌った『赤壁』という漢詩もある。清の時代の袁枚によるものだ。これを以下に取り上げておこう。

  一面東風百万の軍

  当年此の処三分を定む

  漢家火徳終に賊を焼き

  池上の蛟竜竟に雲を得たり

  江水自ら流れて秋渺渺

  漁燈猶照して荻紛紛

  我来って蕭を吹く客と共にせず

  烏鵲寒声静夜に聞く

内容は、蘇軾の詩をベースにしているから、当然同様な内容だ。意味は次のようであろうか。

「赤壁は、諸葛孔明が、百万の魏軍を破るためには、東南の風が吹く必要があり、それを祈った。天はそれを許し、魏軍を破ることができ、孔明の「天下三分の計」が成った。火の徳のあった呉・蜀軍が魏の不慣れな兵船を混乱に陥れ、登り竜はついに雲を得て、その名を天下に轟かせた(*注)。

しかしながら、秋の揚子江の大河は、そんなことは関係なく、滔々と流れて、漁火は荻の花をきらきら照らしている。かつて曹操は「烏鵲南へ飛ぶ」という詩を詠ったが、私はそれに同調して、笙を吹くような人とは同席したくない。今、烏鵲の寒そうな声は随分と寂しそうではないか」と。

それでも、人は闘争本能を失くすことはできないのだろう。人生は戦いでもある。そのエネルギーをどのように使うかが、問われている。どういう哲学を持ち、いかに正しい世界観を持つか。それには、心身を強くし、人生の持ち時間をいかに有効に使うか。人生は自分に対する問の連続であると言えるのかもしれない。

*  参考1

    映画『Red Cliff(レッド・クリフ)』        http://redcliff.jp/index.html

* 参考2

    蘇軾の『赤壁賦(前・後)』ついては、下記が参考になる。

              http://www.ccv.ne.jp/home/tohou/seki1.htm

                               http://www.ccv.ne.jp/home/tohou/seki2.htm

*注

詩の中で、「池上の蛟竜竟に雲を得たり」は、暗に、登りつめた竜は、既に上がなく、下に下らならければならない、と言っているようにも感じる。魏は、赤壁の戦いで敗れた後、衰退していくが、呉・蜀も、その後、魏と同様、滅んでいるのだ。

*平成21年3月24日追記

ついに、映画『Red Cliff(レッド・クリフ)』後編が4月10日に公開される。なお前編を観ることができなかった人は、4月10日にテレビで放送される(テレビ朝日系)。

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2008年11月 4日 (火)

赤穂浪士から時代を読む

年末になると、やはり赤穂浪士の話題になる。太平の時代の主君の仇討ち。一応、そういうことになっている。しかし、実態は、喧嘩両成敗をきちんと実行できなかった幕府に責任がある。その辺は複雑だ。四十七士の仇討ちは、ある意味、政権に対する批判でもある。それを的確に表現した、次のような詩もある。

  臥薪嘗胆幾辛酸

  一夜剣光雪に映じて寒し

  四十七碑なお主を護り

  凛然冷殺す奸臣の肝

この漢詩は、陽明学者、大塩中斎(平八郎)によるもので、『四十七士』と題するものだ。解釈は特に必要はないだろう。ただ、この詩は、単に、赤穂浪士のことだけを詠ったものではなかろう。彼の現況の思いを重ねているのだ。

特に最後の、「凛然冷殺す奸臣の肝」に大塩の思いが込められている。天保の大飢饉の時、幕府は貧民救済をしなかった。彼は止む無く、蔵書を処分して、多くの人を援けたという。当時の彼の蔵書は、流風の蔵書と違い、かなり価値が高く、救った人の数は一万人とも云われる。

現代の日本は、さすがにそういうことはない。格差とか色々云われるが、食べることに不自由はない。当時と比べれば、豊かな生活を送っているということだろう。上を見れば、キリがない。昔の先人の苦労を慮り、バランス感覚を持つことは大切だ。

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2008年11月 3日 (月)

パナが三洋を吸収に期待

最近、社名を変えたパナソニック(以下、略称パナ)がついに、三洋電機(以下、略称三洋)を吸収することを決断したようだ。このことは、前々から噂に上っていたので、驚くことはなく、やっと決断したんだという感じだ。

やはりパナは商売上手だ。以前、金融機関から持ちかけられた時は、話としては聞き届けたが、受けなかった。そして、今、株価が急落し、金融機関が弱って、三洋の株を処分することを迫られたのを機会に、とうとう買収に乗り出したようだ。

パナも三洋も、もともと根っこは同じだが、長らく別居していたので、社風が違うかもしれない。しかし、両方とも関西企業だし、他社のM&Aとは違って、合併すれば、比較的早く融合するかもしれない。報道によると、三洋のブランドを残すことになりそうだが、それに拘ることもなかろう。

吸収合併のきっかけは、同族経営で危機管理の甘かった三洋の経営危機から始まったが、一つの流れとして、三洋の社員からも歓迎されるかもしれない。同族経営の閉塞感というのは、社員に意欲を減退させる。いくら家族的経営と言っても、それはこれくらいの規模になると不可能になる。

もちろん、パナには重要な思惑があるだろう。つまり、白物家電の重複といったロスを考えても、世界戦略の一環として、三洋の技術が必要なのだろう。基本的に二番手商法で事業を拡大してきた過去がある(今は、全てがそうだとは言えないが)。パイオニア精神は、三洋の方が上かもしれない。

しかしながら、パナに統合されることは、一般人としては、少し安堵の感がある。関西企業の地盤沈下の傾向に歯止めがかかるからだ。それに三洋の技術も国内に保たれる。脱石油、超省エネ時代への対応として、商売が上手なパナの三洋統合には期待がかかる。

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2008年11月 2日 (日)

自衛隊は大丈夫か?

防衛省の田母神俊雄航空幕僚長が、くだらぬ論文「わが国が侵略国家だったというのはぬれぎぬだ」と発表して、物議を醸している。全く馬鹿な人だ。それとも自衛隊には、こういう考えの人が蔓延しているのだろうか。それに幕僚長という立場も弁えず、こういう発言をするレベルの低さには、あきれ返る。彼をこの地位に指名した人間も責任を問われるべきだろう。

また防衛省としても、隣国との信頼関係醸成の重要な時期であるというのに、全くそのことも理解していない。防衛は外交の一環であることが忘れ去られ、それなりの地位にある発言とはとても考えられない。本来、シビリアン・コントロールの上からも、彼は獄につながれるべきだろう。そうしないと、今後も、こういった事件は十分ありうる。

シビリアン・コントロールの上からも、自衛官が、民間に自己の意見表明することは、差し控えられるべきだろう。民間の論文募集に応募することも本来禁止されるべきなのだ。彼らには、言論の自由は制限される。但し、省内において、意見は自由に上げられる雰囲気作りは求められる。今の防衛省は、戦前の古い体質を引き継いでいる。それも改革が求められる。

*追記

ちなみに日本が国内の苦境から満州に「進出」して、満州経営していた段階では、中国は、認めたわけではないが、本来、漢民族の領土ではないので、当時、清朝の崩壊で混乱していたこともあり、黙認というか、静観していた(日本が満州経営しなければ、他国からの侵略を受ける可能性が高かった。よって当面、日本に預けるという感覚)。

そういう意味では、日本は満州経営に専念しておれば、問題は満州に進出したかった米国との確執だけが問題だった(米国のある鉄道産業は満州でのビジネス展開を考えていたので、権益を望んだが、日本は拒否して、結果的に、米国を敵にまわす遠因になった)。もちろん、ここでは記さないが、軍部による満州経営には多くの問題が横たわっていたことは確かである。

ところが、日本軍が暴走して、満州経営を逸脱して、漢民族の領土を「侵略」したことから日中戦争が始まったと言って間違いない。この歴史的事実は明確で、それを否定する発言をするのは、歴史認識が足りなさ過ぎる。

日本は、中国本土への侵略により、結果的に、当時、欧米列強の植民地であった、アジア地域への展開を余儀なくされる。それは全世界を敵にまわす勝ち目のない全面戦争に突入するということを意味していた。

確かに、最終的には、戦後、これらの地域は、民族自決の精神で独立を果たし、それは日本が欧米列強に対して戦争を挑んだ結果という、後付理屈を言って、この戦争を正当化しようとした。

しかし、この戦争で、非常に多くの人が亡くなり、国家を滅亡させる危険性があり、指導者の誤まった戦争であったことは間違いない。防衛省のそれなりの地位に就く人たちは、きちんとした歴史認識が必要であり、省内教育の徹底が望まれる。

*追記

防衛省は、田母神俊雄元航空幕僚長を定年退職させたそうだが、なぜ定年退職なのか。当然懲戒免職であるべきだろう。こういう処置がきちんとできない防衛省に危惧を感じるのは流風だけではなかろう。膿は徹底して出すべきだ。

それに彼は会見で全く反省の気持ちは表していない。また、彼は、日本ほどシビリアン・コントロールの機能している国はないと言ったようだが、シビリアン・コントロールの意味を全く理解していない。自衛隊は、大変、心配な存在になってきた。

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2008年11月 1日 (土)

意味のない政策金利利下げ

市場からの圧力に屈したのか、日本銀行が、政策金利を0.5%から0.2%引き下げて、0.3%とすることを決定したようだ(2008年11月1日現在)。しかし、この金利下げは何の意味も持たないだろう。明らかに政策ミスと言える。

今回の金融界の混乱は、米国にあり、米国はいずれゼロ金利とするかもしれないが、日本は何も協調する必要はない。すでに十分低金利なのだ。もちろん、円高への配慮があるのだろうが、円高への流れは止められない。

円高、円高と大騒ぎするが、適正レートは、ドル=80円であることは、明確であり、企業の設定レートが100円前後というのが、すでにおかしいのだ。もちろん、企業は社内設定レートと外部に発表するレートは違うと思うが、いくら急激なレートの変更とは言え、大騒ぎしすぎである。各社の経営姿勢がむしろ問われる。

そもそも、日本の貿易依存度は、16%~17%であり、それほど高くない。だからマスコミは騒ぎすぎなのだ。輸出企業は今まで、円安で過剰に儲けてきたのだから、今になって助けてくれとは虫が良すぎる。

また金融機関は、バブル崩壊後、公的資金を入れてもらって復活したかのように見えるが、それは遅々としたものだ。未だに公的資金を返却できていない所もある。それに、円高で評価損だと騒ぐが、それは運用を間違えた結果だ。

金融機関は、リスク管理が依然として甘いのだ。米国の危機は相当前から言われており、少し真面目に研究すれば、こういう事態は避けられたはずなのだ。それをなぜ一般国民が被らなければならないのか。

だから日本銀行の政策金利の引き下げに期待するのは、そもそもおかしい。無能な金融機関や輸出企業は、さっさと市場から退出してもらいたい。大体、日本の異常な低金利は、景気回復を遅らせる。なぜ低金利であるといけないかというと、それは経済の発展を阻害するからだ。

普通、金利が上がれば、景気を悪化させると判断しがちだが、日本銀行の政策金利が1%未満である場合は、事情が異なると思われる。すなわち、金利政策が機能していないのと同様なのだ。およそ経済社会は、金利を生んで社会は発展する。金利が経済を刺激するからだ。しかしながら1%未満では、実質、経済発展には寄与しない。

もちろん、0.5%と0.3%では大した違いはないではないかという意見もあろう。しかしながら、金利が下がる気分は、最初の説明のように悪い影響をもたらす。内需は、それを反映して気分的に縮む可能性もある。であれば、政策金利は下げるべきではなかった。

また日本銀行が金融政策で金利の上げ下げで経済に有効になるのは、政策金利1%以上であることを改めて確認して欲しい。金融機関を助けるための金融政策は、現況の日本では必要ない。むしろ、改革できない金融機関を整理すべきなのだ。

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