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2008年12月29日 (月)

酒屋と饅頭屋の話題と落語『清正公酒屋』

本日は、非常に寒い。朝、起きるのが辛かった。でも、大掃除もまだ少し残っているし、仕方ない。買い物も多少しなければならない。

ところで、年末とあって、さすがに酒屋は大忙しのようだ。流風も、日本酒を大瓶、中瓶と二種類買い求めた。一つは兵庫県下のある地酒で、もう一つは、灘の銘酒だ。普段は、そんなにお酒は飲まないが、お正月は別だ。生より、燗をして飲むことが多い。

また饅頭屋も、帰省と、帰省帰りのためのお土産ということで、どこもてんてこ舞いの様子だ。最近は、饅頭屋もクリスマス商戦に参入しているので、連続して、忙しい状態が続く。どこに不況感があるのだろうという雰囲気だ。

さて落語に、酒屋と饅頭屋を両方扱ったものがある。それは『清正公酒屋』である。「せいしょうこうざかや」と読む。お題は、酒屋だけだが、饅頭屋も登場する。清正公とは、もちろん加藤清正のこと。

秀吉の家来だった清正は、生涯、秀吉に忠誠を誓ったが、秀吉亡き後の権力闘争で豊臣側が分裂した後、徳川家康にうまくつけこまれ、結局、豊臣政権を崩壊に導いていくことに加担してしまう。それでも、彼は豊臣秀頼に忠誠を尽くすあまり、徳川方から目障りとして、毒饅頭で毒殺されたと云われる。

清正公を尊崇する、ある酒屋が彼の木像を店頭に飾っていた。そういうことから、「清正公酒屋」と呼ばれていた。上戸相手の商売ということで、法華宗の信者でもあった。

そして、その向かいに饅頭屋があった。屋号は「虎屋」と言って、木彫りの虎の看板を屋根に掲げていた。虎屋というと、現在では、羊羹が有名だが、高くて滅多に買うことができない。この虎屋さんの先祖がモデルなのかな。酒が飲めない下戸を相手としており、念仏宗の信者だった。

こういうことで、近所なのに仲が極めて悪かった。それはそうだろう。清正公は、虎退治で有名だし、宗派の違いは、交流を妨げる。それに甘いものと辛いものと正反対のものを扱うからだ。

でも、考えようによっては、酒屋と饅頭屋は、顧客が全く違うわけで、ある意味、棲み分けしているので、本来、関係が悪化するのは、少しおかしい。それに宗派は違うといっても、同じ仏教だから、根は同じだ。清正公と虎にしたって、お互いがあるから、相互の価値が高まる。

こういう対立軸で、物事を見るのは、わかりやすいので、周囲は盛んに囃すが、実際は、もっと違う所で仲が悪かったのだろう。おっと、また脱線してしまった。あらすじに戻すと、ここからはロミオとジュリエットばりのお話だ。

酒屋の一人息子の清七は、水も滴るいい男。町内きっての美男子だった。他方、饅頭屋の一人娘のおなかは、町内きっての小町娘と噂も高い美人だった。この二人が、人目を忍んだ深い仲になる。

清七は親を説得して、一緒にさせてくれと頼むが、親同士仲が悪いから、了解してくれない。おなかの親も、彼女を親戚に預けて、遠ざけてしまう。そうすれば、ますます強まる恋心。二人は思い余って、大川への心中を決意する。

おなかは先に川に飛び込み、清七も飛び込もうとすると、その襟首を捕まえて、押えた者がいた。蛇の目の紋の烏帽子兜で、鎧姿の清正公だった(ように見えた。あるいは亡霊)。清七はびっくりして、「私を助けて頂きますなら、彼女も助けてください」と言うと、「それはまかりならん。俺の敵の饅頭屋の娘だから」とオチ。

毒饅頭の恨みは、いつまでもということだろうか。後世、武者人形の代表型となり、名声を大きくした加藤清正だが、これだけは許せなかったのだろうか。いくら、邪魔になっても、やり方を間違えば、あの世から、一生恨まれることになる。徳川方への怨念があると庶民は感じていたのだろうか。ご用心、ご用心。

でもねえ、清正さん、ちょっと狭量ではないかえ。おなかはお蔭で、どんだとばっちり。でも、この世で愛した記憶で、あの世に行けたことはある面、幸せか。現世での幸せなど、大したことがないものだから。小さいことを喜びと感じることは大切だけれども。

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2008年12月28日 (日)

修業の意味

             桂林荘雑詠             広瀬淡窓

    道(いう)を休(や)めよ他郷苦辛多しと

    同袍友あり自から相親しむ

    柴扉暁に出づれば霜雪の如し

    君は川流を汲めよ我は薪を拾わん

昔の修業と言えば、住み込みで、まず生活の知識の習得があった。職人の家には住み込みで入り、ボンさんとして、まず生活周りの手伝いから入った。商家には、丁稚として住み込みとして入り、やはり同様のことだった。現在では、わかりやすいところでは落語家が、そのようなシステムになっている。

ところが、現在は、進学はするものの、そういう修業の場は与えられていない。寮制度を導入している所もあるが、数は少ない。多くは、寮のような住み込みでないので、学校の掃除~最近では一部ボランティアとして、地域の掃除には参加しているようだが~を嫌々やっても、真の修業にはなっていない学生が多い。

親方や番頭から、掃除の意味を教えられることもないし、その仕方について、注意を受けることも少ないし、ましてや頭をどつかれることもない。そういうことを学校がやれば、即、暴力行為として訴えられる。

そして学校における共同生活のあり方も十分に説明されているようには見えないし、当然、学生が真に理解しているとは思えないフシがある。現在は、学業がよければそれでいいというムードが、学校にも親にもある。

その結果、そういう人たちが、就学中に、あるいは社会に出て、問題を起こしている。問題の程度は様々だ。事件こそ起こさないが、企業組織で問題を起こす若い人も多く見受けられる。それは就学中に、社会への準備期間として、志を以って修業をしているのだという意識が極めて低い人が多いのかもしれない。

さて、先に挙げた漢詩は、江戸時代の儒学者、広瀬淡窓のものだが、彼は詩学を教育の中心に据えた。詩の涵養が人材の意識を育てると思ったのだろう。そして、「桂林荘又咸宜園」を開設し、多くの門人を育てている。詩の内容は意訳すれば次のようだろうか。

「そこには、多くの人たちが生活を共にしながら、お互いが支えながら、勉学していく。基本的なことを私から学んで、各人、思うところを議論しよう。当然、意見が異なるから衝突も生じる。しかし、志を同じくする限り、それは問題がない。

また家を離れて辛いこともあるだろうが、同じ様な志を持つものが集えることは楽しいものであると理解して、精進しようではないか。

朝早く起きると、あたり一面、霜で雪のように真っ白だ。寒さは辛いけれど、炊事の時間は迫っている。君は川に行って水を汲みたまえ。私は山に行って薪を拾いに行ってくるよ。さあ、今日も元気に励もう」。

ここで重要なことは、先生も学生と共にあるという姿勢だろう。先生は先生であると同時に、「学生」でもある。「タテ」と「ヨコ」の柔軟な関係が、当時、封建社会であっても、既に築かれていたと推定される。

修業は何も学生だけでもないということは、現代でも通用することだろう。過去の実績だけに依存して権威主義を標榜するどこかの教授たちには耳の痛いことだろう。そして、志が明確でなければ、いかに修業らしきことをやっても、それは実質修業でないということを示すものだ。

 

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2008年12月27日 (土)

最近の労働問題概観

最近の日本の労働市場は、非正規社員の派遣切りで騒然となっているが、これはかつての下請け切りと似ている。下請企業は、仕事を切られて、リストラしても、資金の目途が立たず、倒産していた。結果的に失業者を生み出していた。

今回は、下請企業を切る代わりに、直接個人の労働者を切る事態になっている。個人は個人である限り、弱い。派遣者も、自営業者の自覚があれば、まだいいが、それがないと、苦しい。企業に属している気持ちが強いので、企業に対する依存度は高い。

だから仕事を切られると、路頭に迷うという不安に覆われる。それは厳しく言えば、将来に対する準備が足りないとも言えるが、現在のような製造業に対する労働派遣が認められたことが、多くの不幸を生んでいることは間違いないだろう。

経営者にとっては、これほど都合よく人材コストを切れる法律はない。経営者は、この結果、人をコストとして捉え、モノのように扱った。しかし、法律上は問題はない。だが、社会的倫理上、大きな課題を抱えている。極めて社会の不安定化を促進する法律なのだ。

もちろん、いつの時代も、整理しやすい人材はいる。パート、アルバイトのような直接採用の社員もそうだろう。だが、一般的に、彼らの収入は、家計において主たる収入源ではなかった。しかし、製造派遣社員は、主たる収入源であり世帯主であることが多いことが、問題を深刻化させている。

そもそも、このような労働を生んだのは、バブル崩壊と、企業内で進んでいた年代別人材のアンバランスが生んだものと言えよう。バブル崩壊による金融収縮により、企業はコストの見直しに迫られるが、従来のコストダウンだけではどうしようもなく、人材コストに手をつけるしか解決方法は見つからなかった。

しかし、労働保護政策から、正社員のリストラに経営者は苦慮する。しかし、リストラを遂行しないと企業はもたないことから、多額の退職金を用意して、リストラを敢行する。だが、給料の高い熟年世代をリストラすると、人材バランスを崩し、それを補う社員が必要になった。

それが他社からスカウトしたり、転職などによって人材を補うことだった。しかしながら、企業文化の異なる転職者は、高コストをかけたのにもかかわらず、必ずしも成果を上げてくれない。そこで、企業の都合に合わせて、人材を提供してくれる専門技術者の派遣を歓迎し、そこそこの成果を上げた。

そして次に人材のコストダウンを推し進めるため、ITの導入により、正社員の間接人員を整理し、派遣社員に頼るようになった。いわゆる一般派遣というものである。派遣社員は時間給は正社員より高いものの、契約社員であるため、社会保障費の負担も必要がないし、いつでも切れるので歓迎された。

これで味を占めた経営者の欲望はさらに大きくなる。製造業の人材は固定費で、景気変動による負担が大きい。更に、産業の高度化に限界を感じ、海外の賃金の安い国との競争に勝つには、製造人件費のコストダウンが必要と経営者は感じるようになった。そこで固定費にメスを入れるため、政府に製造業派遣の規制緩和を要求。国の規制緩和の流れに乗って、政府は許可し、現在に至っている。

こうして見て来ると、派遣はバブル崩壊後の流れであった。それに対して、労働の主体となりつつある派遣者の生活を守る政策が遅れたのが、現在の状況だろう。大体、行政というのは、問題が起こらないと、対策を出せない。法律とは、現況認識があって、初めて動く。なかなか予防的措置というのが取られないのが、法治国家の限界かもしれない。

しかしながら、ここまで問題が大きくなると、その対策は求められる。まず求められるのは、(つぶしの利かない)製造派遣の禁止であろう。ちょうど2009年は、製造派遣の3年期限の年度にあたっており、ちょうどいいタイミングだ。バブル崩壊は一応終了しているのだから、今後は正社員での採用が望ましい。

そして、バブル崩壊後、苦難の道を歩んだ派遣社員の救済は大切だ。彼らには、労働転換させるための技術を習得させて、転職先を紹介する必要がある。更に、彼らの社会保障面でのバックアップをどのようにするか。これらの問題は、一般国民にとっても他人事ではなく、社会を安定させるためにはどうしても必要である。そのための相互扶助的な負担は止むを得ないと思う。やはり消費税は、早々に上げる必要がある。

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2008年12月26日 (金)

目黒の秋刀魚がうまくて安い?

秋刀魚は、栄養価が高いし、昔から庶民の魚だった。そのまま焼いても美味しいし、開きの秋刀魚もうまい。秋刀魚も、最近は七輪で焼くことは、さすがに難しいが、ガスレンジでも、焼ける。それに大根おろしにポン酢の醤油で、美味しく頂ける。

ところが、秋刀魚が円高になって、輸出できなくなって、業者が困っているらしい。でも消費者にとっては価格が安いことは有り難いことだ。ただ、安いと行っても、いっぺんにそんなにたくさん食するわけにもいかない。

業者の方々は、いろいろ加工して、消費者が料理しやすいようにして、食べやすい料理として、流通させることも必要だ。缶詰だけでなく、もっと多様な加工品を提案して、流通させるべきだろう。よく野菜なども、たくさん採れ過ぎて、廃棄するということも聞くが、そういうことはせずに、もっと有効活用してもらいたいものだ。

さて、秋刀魚を題材にした落語では、あの有名な『目黒の秋刀魚』がある。ある殿様(それは赤井御門守や雲州松江の松平出羽守などがよく取り扱われているが)が、江戸郊外で馬で遠乗りをしていると、元富士(現在の東京都目黒区上目黒1丁目辺り)まで行き着いた。そうすると、農家のどこからか、いい匂いがする。農家に家来と共に行くと、それは秋刀魚を焼いているのだった。

食欲がそそったので、その農家で、御飯と秋刀魚を食べ、満足して帰館するのだが、あの秋刀魚の味は忘れられない。そのことを他の大名に言いふらしていると、筑前の殿様、黒田公は、それほど美味しいのなら、同じ物を食べたいと家来に命じて、秋刀魚を料理させる。

ところが出てきた料理は、現代で言えば、どこかの高級料亭で作ったような手の込んだ料理の上、毒見をするので、冷めたものだった。しかし、まったく美味しくない。そこで、美味しい、美味しいと言っていた、かの殿様に尋ねると、その殿様は、「果たして、その秋刀魚はどこのものかな」。応えて、「家来によると、秋刀魚の本場の房州から取り寄せたとのこと」。「ああ、それは駄目だ。秋刀魚は目黒に限る」とオチ。

相変わらず、テレビのグルメ番組では、手の込んだ料理が持て囃されているが、食してみると、そんなに美味しいものではないことも多い。また洋風料理は外国人には美味しく感じても、日本人には合わないものもある。日本料理でも、高級料亭のように、器や建物の雰囲気はいいが、料理はどうも、というものもある。外食でも同様だ。

自分で調理した方が断然うまいということもある。いい素材であれば、あとは、そんなに手を入れずとも、シンプルな料理方法で、手早く調理すれば、十分満足できるのだ。日本料理は、いかに新鮮な素材を、あまり加工せずに、作り上げることが肝要だ。人間、偉くなると、かえって真に美味しい物を味わえなくなるのだろうか。庶民でよかった(笑)。

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2008年12月24日 (水)

英語教育は選択科目で

英語教育を英語で行う、ということが情報として流れていたが、英語を必要としている人たちには有効かもしれない。しかしながら、義務教育において、英語教育は大半は不要だ。

前にも記したように、日本は英語を既に必ずしも必要としていない。多くの研究者にとっても、海外の研究を調査するより、自ら考える研究が中心になる。物真似の研究調査は過去のことだ。未だに、海外の研究が気になるというのなら、それは意識が遅れているということだ。どうしてもというのなら、海外文献の調査は、別の専門機関がやればいいことだ。

もちろん、外交官や政治家、商社員、一部研究者は英語力が必要だろう。外交官や政治家が、英語をある程度話せなければ、それは問題だろう(但し、外交官に求められるのは、各国の言語で、必要なのは、英語だけで事足りるとは言えない)。彼らには、若い時から、英語教育は求められる。そのために、英語教育を英語で行うことは、有効かもしれない。

しかしながら、大半の学生は英語が必ずしも必要ではないだろう。それは全世界に英語が通用するわけでもないということからも明らかだ。英語は世界万能言語ではない。世界各地で、ほとんどが通用しないと考えた方がいい。

それにもまして、これから、世界は多極化していく。英語は、世界の言語の、“One of Them”であることは明らかだ。ということは、学校教育における英語教育は選択科目で十分ということになる。それに対応した語学教育をするというのなら、それはそれで教育の意味があるかもしれない。そして外国語教育をやるというのなら、もっと多様な言語に接する機会を与えた方がいい。

だが、学校の語学教育で全てが完成するわけでもあるまい。学校における語学教育はきっかけ作りに過ぎない。教えるべきことは、これからの世界のあり方や構造を踏まえて、学生に必要な語学を選択させることだ。英語教育を必須から選択科目への移行が望まれる。

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2008年12月23日 (火)

栴檀は二葉より芳し

いつ頃か、人々は臭いに敏感になった。男の加齢臭が話題になったのは、少し前からだが、嫌な臭いを人々は嫌がるようになった。そもそも臭いは文化でもある。昔は、その臭いが当たり前であっても、文化水準が上がれば、それを嫌うようになるという。

しかし、そうとも必ずしもそうとはいえないのではないか。外国人は、日本の醤油を臭いというのは、食文化の違いによるものだろう。最近では、日本の食文化を理解し、その醤油も欧米に広がりつつある。また日本人も、かつてアジアの人々が作るニンニク料理には、顔を背けたはずなのに、今では、ニンニクを料理に使っているご婦人方も多い。

車内に、持ち帰り豚饅や餃子を持ち込んでくる、おばさん達も多い。さすがに若い女性は少ないが。韓国のキムチにしたって、あんなに臭い物を今では、多くの人が食べている。臭いに関する感覚は変化するのだろう。

逆に、若い女性が好む「におい」は、芳しい「匂い」だ。あの百貨店の化粧品売り場の匂いが、それを代表しているのかもしれない。しかし、あれは皆、西洋風。日本には、日本の芳しい匂いがあった。

例えば、線香で有名な白檀(びゃくだん)は、その一つだろう。白檀、すなわち栴檀は、発芽の頃から、いい匂いを発するらしい。つまり、別に線香にして、焚かなくても、それ自体がさわやかな、いい匂いを発するのだ。それも発芽の頃から。

そいうことから、「栴檀は二葉より芳し」という諺が生まれている。意味は、成功する人は、子供の時から何かが違う、ということだろう。まあ、末は博士か大臣か、と嘱望された子供が、平凡な人生を歩むことも多いようだが(笑)。

流風なんて、栴檀どころか、せいぜいドクダミ程度だったんだろうな。期待されずに、よかったとも言えるが。でも、そのドクダミ、発芽時から、臭いが、お茶になったり、塗り薬になっている。それなりに役立っているのかな(苦笑)。

*追記

栴檀の「檀」という意味は、人に役立つ木ということのようで、インドや中国では薬用として利用されている。インドネシアやインドで採取されるが、近年、入手が難しくなっている。

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2008年12月22日 (月)

画家は、なぜ自画像を描くのか

高名な画家たちは、ほとんどが自画像を描いている。絵画方面には疎いので~そういうわけなので、若干トンチンカンなことを以下に記しているかもしれない~、それがどういう理由なのか知らないが、まず自分自身を描いて自分を知ろうというのだろうか。それともモデルを雇えないので、鏡に映る自分を描いているだろうか。

確かに自分を観察するということは、単に外見的なものだけでなく、自分がどのように見えるかという検証にもなる。そして、それは心の状態で見え方が異なってくるから不思議だ。人間の顔はいつも同じ様に思っても、いつも違う。顔は手相のように、常に変化しているのだろう。

だが、画家の描く自画像は、大抵が一点だけということも少なくない。それは画家の自惚れなのか、自尊心のなせる業か。自分の変化には関心がなくなるのかもしれない(もちろん、男が女性のように鏡をいつも見るのも少し気持ちが悪い)。

それとも、他者への関心が強くなるのかもしれない。もちろん、その観察は、自画像と同じ様な捉え方かもしれない。それはその画家が描いた人物像を見ると、全てどこか似ていることからわかる。モデルを、自分が映った鏡と重ね合わせて、観察しているようなのだ。

つまり他人を描きながら、他人の中に自己を見出し、自分を描いているように見えるのだ。そして、それが画家の個性になっていくのかもしれない。画家というのは、ナルシストが多いのかもしれない。

しかしながら、一般人も同様なことをしているかもしれない。他人を見るのに、自分の先入観で見ることは多い。視野を広げようとしていても、ついつい自分の考え方に捉われ、狭い見識になることも多い。

他人の観察もいいが、時々、もう一度、自分の顔がいい顔しているか(自分の考え方が、捉われていないかどうか)を再確認してみるのは良いことかもしれない。つまり、観察手法の見直しも、時として求められるだろう。

*追記

画家が、自画像を描くのは、一部には、自分の顔は、見ることができないから、という見方もある。そういう見方もあるが、そんなに単純ではないと思う。それは一要素に過ぎない。

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2008年12月21日 (日)

知と不知

  『何も知らぬと人生は最も楽しい』(西洋のことわざより)

世の中を渡るには、知識の涵養は必要かもしれない。しかし、人は知識を持てば持つほど不安になるものである。凡そ、学歴が上がるほど、その決断力や行動力は遅れ気味と言われる。よく考えることは大切なことだけれど、考え過ぎて決断が遅れ、行動が遅くなるのだ。

確かに、八方美人的に思考を巡らせば、そのようになるのもわかる。あちら立てれば、こちら立たず、になるし、それぞれの結果に対しては、いつも懐疑が伴う。そのようにして、ずるずる結論を持ち越しにしてしまう。

しかし、この世の中は完全なものはないだろう。それゆえ完全な方策などは存在しない。すべての価値判断は、偏りがある。絶対的な善はない。全ての行いは、ある人にはよく働き、他の人には悪く働く。

そういう割り切りは必要だ。そういうことで闇雲に情報を得れば、かえって混乱するのは間違いない。基本的には、ある切り口を以って、情報を収集し捌くしかない。そのようにして得た情報は、もちろん、偏るので、決断し行動した場合には、必ず、自分の思いとは違う方向に行くこともある。

問題は、いかにそれを早く修正するかということにある。そこでは変な拘りは捨てなければならない。拘れば、苦しくなるだけである。全てをクリアにして、初めから始めればいい。変化するもの、変化しないものを把握して、情報を捌けば、問題はない。

でも、あれやこれやと悩むのもいいが、最初に示したように、何も知らずに過ごせるから、それが一番幸せというのもわかるような気もする。

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2008年12月20日 (土)

にこやかな笑顔のB型彼女

サービス業で、ある所に行くと、受付の彼女は非常に、にこやかにいつも対応してくれるので、大変気持ちがいい。もちろん、来る人たちには、誰にも笑顔満開である。でも、いつもああだと、若い男は勘違いする奴もいるだろうな、と密やかに思っている(笑)。

企業としては、顧客対応としては全く問題がなく、高齢者にも受けがいいから、有り難い受付だろう。それに質問にも、そつなく対応しているようだ。質問内容は聞こえないが、お客の態度や笑顔を見れば、それはわかる。笑顔が“伝染”している。

ある時、話す機会があって、彼女の血液型がB型であると知った。なるほど。一般に、B型はとらえどころがなく何を考えているかわからないと言うが、あの、あっけらかんとした雰囲気は周囲を明るくさせる。

でも、少し前も、血液型B型の本が売れて話題になるほどだから、そういうこととは反対に、B型の人への対応には、皆、それなりに苦労しているのかもしれない(笑)。日本人は、A型が多く、B型は少ないとされる。血液型で、性格判断するのは間違いだと言う人もいるが、長年の経験では、やはり何らかの傾向があるようにも感じられる。

そして日本人は、B型が苦手とされる。そういうと、中国人はB型が多いそうである。日本人は、よく彼らの考え方がわからないというが、案外B型人間の研究をした方がいいかもしれない。もちろん、歴史的風土により、その違いは培われたのが実際だろうが、思考方法において、その差を認識することは、外交や貿易に携わる人たちにとっては、必須と感じられる。

話が大きくそれてしまったが、流風も若い頃、ある団体に勤めていたB型彼女をたまたま好きになった経験がある。先に挙げた受付の女性同様、非常にあたりが柔らかく、気持ちがほっとするような女性だった。

ただ付き合ってみると、彼女は何事もオープンなので、戸惑ったことがある。それが彼女の流儀としたら、当時の流風には、やや負担だった。確かに一緒にいる時は、話題も豊富で、手間いらずの女性だったが、基本的にマイペース。何を考えているのか、まったく理解できなかった。

話し方は、論理的ではなく、あちこち話題が飛ぶ上に、その話に乗らないと不機嫌になる。ついには、こちらが疲れてしまって、交際は自然消滅した。後から聞いた話では、全ての話題はつながっているとのことであった。

全ての話をインプットしながら、つなぎ合わせる作業をしないと、彼女の頭の中は理解できない構造になっていた。残念ながら、当時の流風では、理解してやることができなかった。B型の女性が全て、彼女のようだとは思えないが、今までの経験では、どこか雰囲気が共通しているように思う。

でも、とことん嫌いになれないのもB型女性だ。友達レベルでの付き合いであれば、なおのこと。また、用もないのに、受付の彼女をからかいに行くか。あの笑顔を見ると、一日気持ちがいいからね。笑顔の魔力は怖ろしい(笑)。企業も、彼女等を適材適所に配置することは、かなり有効なようだ。

 

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2008年12月19日 (金)

政策金利引き下げとこれからの企業経営

本日(平成20年12月19日)、日本銀行は、政策金利を0.2%引き下げて、0.1%にすると発表した。政府首脳は、日本のアピールのため有効と発言していたが、(CPなどの買い入れなどの、その他の政策の有効性はともかく、金利の引き下げは)円高を止めるには何の意味もないだろう。もはや金融政策で、円高を止めることはできない。

結局、当局は為替介入に食指が動くだろうが、それさえも有効な手段とは言えない。為替介入は、無駄にドルを抱え込むだけになるだろう。こういう時は、流れが行き着くところまで行かせて、様子を見ればいいのだ。

どちらにせよ、海外市場は金融、モノ共に壊れているのだから、輸出を増やすことは困難だ。当面は輸出企業も体制を建て直し、新たな戦略構築をするのに時間をかければいい。円高が、どれくらい進むかは、誰も予測できないが、1ドル=80円突破は、来年には十分ありうるだろう。

しかし、慌てず静観すればいい。じたばたするのが一番いけない。最終的には、どこかに落ち着く。底を打った段階で、改めて事前に錬った対策を講じればいいのだ。今は事態の推移を見守りつつ、耐える期間だ。経営者も従業員も辛い立場が続くが、それも永遠に続くわけでもない。ただ今回は、耐える時間が長引くということだろう。結局、企業と企業の我慢比べに勝った所が生き残るのだろう。

もちろん耐えるだけでは駄目で、新しいパラダイム(paradigm,模範)を創造したところが、今後の新しい日本経済を支えることになるだろう。それによっては産業構造が大きく転換する可能性もある。少なくとも、自動車産業が基幹産業でなくなる可能性は高い。

*追記

基本的には、円高を有効に使う国の政策や、企業の体質転換が求められる。まず、仮説設定として、1ドル=50円になったら、どういうビジネスの可能性があるか、追求すればいい。

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2008年12月18日 (木)

埋蔵金なるもの

以前、徳川埋蔵金とか、騒いで、実際に試掘してテレビ番組にもなっていた。これは大久保長安が謀反のために、隠していたと云われるもので、小説にもなっているが、真偽は不明だ。その他にも、旧日本軍が金塊を隠していたとかいう話も、まことしやかに流れていた。人々は、「金塊」というものには、どこか惹かれるのだろう。

ところが、この埋蔵金が政治の世界で少し前に囁かれるようになって、今では大きな話題になっている。これは何を指しているのかを流風の理解では、特別会計の不明朗かつ不活性な資金のことを指しているように思う。

確かに、特別会計には、巨額の資金が埋もれている。これは従来、国会で問題にされなかったことである。それで官僚がやり放題している噂が立ち、実際、無駄な投資や不要不急のことに使ったり、天下り官僚の高額な俸給にも使われていた。

そういうことで、国民の不信感が募り、国会も、その問題を取り上げざるを得なくなったのが実情だろう。確かに無駄遣いは多そうだ。

ただ、その問題を除けば、特別会計は特別な理由で国民から集めた資金や、一般会計から当てられた資金から成っているだろう。国民から集めた資金は、いずれ国民に返す必要のある資金も多い。いわゆる預かり資産とも言える。

問題は、国民にどのような時系列で、どの程度ずつ返すかということだろう。年金のように、政治が国民に約束していれば、資金の運用も必要になってくる。経済は長期的に見ればインフレだから、預かった資金より多くの資金を積み立てていくことが求められる。1千万円預かって、45年後に1千万円返すのなら、何の問題もない。しかし、それでは国民は困るだろう。

ところが、特別会計は、年金のように、全てが全て100%以上国民に返すものではないだろう(ただし、今のままでは、かけた保険金額より戻りが少ない世代も今後出てくる)。保険によっては、50%でいいものもあれば、20%でいいものもあるだろう。しかし、運用する側の常として、余裕率を大きく見がちだ。50%でいいものを70%まで安全率をかけて積み立てし、あるいは20%でいいものを40%まで積み立てしているかもしれない。

埋蔵金というのは、どうも見方の差異のようである。これは安全率を厳しく精査すれば、捻出できるかもしれないという性格のものだろう。だから、これは一旦使ってしまえば、後は何も残らない。ということで、あくまで緊急に流用する資金でしかない。

このように考えると、埋蔵金はあまり期待できない資金と思う。埋蔵金は打ち出の小槌ではないだろう。埋蔵金を探し出すより、むしろ考えるべきは、不要あるいは縮小すべき特別会計のあぶり出しだろう。その特別会計が本当に必要であるか、吟味することが大切と思う。官僚の方々も、保身に走らず、協力すべきだろう。

*追記

埋蔵金なるものの使い方は、やはり国債の償却資金として積み立てるべきだろう。一般予算に戻して使ったりするのは、やはりおかしい。政治家の方は、その発想から脱しないといけない。必要なのは、歳出の見直しで、埋蔵金の流用では何も解決しないことを認識すべきだろう。

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2008年12月17日 (水)

病は気から~落語のネタと共に少々脱線気味に

病は気からと、よく言われるが、それは確かにそうかもしれない。気持ちが緊張し、ストレスがたまれば、胃腸の具合が悪くなったり、頭痛を起したりする。人間の身体は微妙で、ちょっとしたストレスで、身体がおかしくなったりする。

落語にも、『薬罐(やかん)なめ』というものがある。薬罐とは、漢方薬などを煎じるために、鉄瓶の代わりの、銅等で作った湯沸し瓶だ。鉄瓶は漢方薬を煎じるのは不適とされる。流風は耐熱土瓶を使っているけれどね。

この落語のあらすじは、あの家の内儀(商人の妻)が、癪を起した時は、薬罐をなめると治るということがあった。妙な癖だが、鰯の頭も信心からというのと、同じ類かもしれない。この内儀の癪の原因までは、落語では言及していないので不明だが、商家に慣れないのか、あるいは、よくあることだが亭主の浮気かもしれない(お内儀の年齢がわからないが、更年期障害の可能性もある。でも、ここでは、そうでないと想定しておく)。

癪は癇癪を起すの「癪」だが、胃腸に激痛が走ることをいう。流風も若い頃は、ストレスでよくあった。そして下痢になるという最悪のパターンだった。仕事に慣れると、そういうことは少なくなったが、それが完全になくなったのは会社を辞めてからだ。

さて、その内儀は、女中と共に花見に出かけたのだが、途中で、蛇に出会い、癪を起こしてしまう。しかし、出先であるので、薬罐がない。ところが、そこにたまたま老武士が部下を伴い、歩いてきた。

その頭を見ると、見事な薬罐頭。女中がその武士に事情を話して、頭を舐めさせてくれと言う。最初、その武士は怒っていたが、事情を知って、了解してくれることになる。多分、その内儀は相当美人だったのかもしれない。

内儀は薬罐に似た頭をなめると、癪はあっという間に止んでしまった。お礼を言って、別れるが、老武士は、謡を詠いながら、ご機嫌になって歩いていくが、どうも頭がひりひりするので、部下に頭を見させると、歯型がついているという。

ということで、「あの内儀は狐で、化かされたのでは」と、部下が言うと、「なるほど、狐か。そういうことで、やかん(薬罐と野干とかけている)を好んだのか」、でオチ。念のために記せば、野干とは狐のこと。

落語のオチはあらぬ方向へ行ってしまったが、癪の要因を断つには、この内儀に関しては、主人の浮気の心配であったとしたら、なかなか難しいことだ。女性は、自分の勘(*注)に頼って、目の前のことにくよくよしがちだ。旦那は商売などの別のことで悩んでいるのかもしれないのに、女性独特の考え方で疑いを持ってしまうことはよくあることだ。

男にとっては、それがかえって疎ましく、結果的に浮気に走らせてしまうことになりかねない。女性の嫉妬が、男を思わぬ方向に導いてしまった例は、たくさんある。女性の皆さん、一旦一緒になったからには、相手を信用しましょうね(笑)。嫉妬の病は気からですよ。

*注

確かに、女性の直感は鋭いが、いつも当たるわけでもない。夫婦間でも、誤解が誤解を招く例は多くある。ただ言えることは、その場合は、コミュニケーション不足がほとんどの原因だ。

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2008年12月14日 (日)

ラジオ体操とお粥の朝食

寒くなると思われた冬も、ここ数日は比較的暖かい日が続いている。しかし、温度差が激しいので、少し辛い。それに元来運動好きでない流風は、どうしても冬は運動不足になりがちだ。それを補うため、ラジオ体操を復活させた。

テレビ体操というのもあるが、あれはどうも馴染めない。やはりラジオ体操は、身体に染み付いているので、しばらくやらないでいても、音楽にすぐ反応しやりやすい。この体操を始めて、体調は頗る良い。やはり体操はラジオ体操に限る。

体調がよいのは、それだけが理由ではない。少し前から、朝食はお粥にしている。お粥の作り方はいろいろあるが、最初は残り御飯から作っていたが、昔を思い出して、お米から作っている。しかし、どうしてもなかなかいい塩梅のお粥ができないので、ついに、お粥機を購入した。炊飯器でもお粥はつくれないこともないが、イマイチ。お粥機で作ると、自分で鍋で作るのと、出来が違う。

実は、その構造が異なるのだが、ここでは敢えて記さない(笑)。お粥づくりの得意な方には当たり前なのだろうが、流風には新しい発見であった。これで毎朝作っているのだが、なかなか美味しい。作るのにお米を研いでから、1時間程度かかるので、準備してから、ラジオ体操後、食事ができるようにしている。

このお粥は、胃腸への負担を小さくしているのだろうが、朝のお粥は体調を良くしてくれる。味噌汁やおかず類は、今までと同じだから、不思議なものだ。お粥といえば、病人が食べるものと思っていたが、一般人の常食として相応しいようだ(まあ、流風の体力が落ちているのかもしれないが)。外食としても、もっと流行るかもしれない。

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2008年12月13日 (土)

全体の見せ方を大切に

全体の見せ方というのは、見る方に影響を与える。全体のバランスが崩れていると、それは美しくない場合がある。もちろん、日本の美学は、不均衡の美であるが、それでも、その中には、それなりのバランス感覚というものがあって、始めて、不均衡の美が成り立つ。

このことは、文化、芸術、ファッションで、常に指摘されてきたことだ。例えば、かつて、六代目尾上菊五郎は、歌舞伎においては、全体の「みてくれ」がいいのが大切と指摘した。

これは何を意味するかというと、歌舞伎全体の「みてくれ」が大切ということで、いかに個人が優れていても、それだけでは、調和せず、全体は美しく観客には見えないということのようだ。

すなわち、個人のスタンドプレー、つまり「みてくれ」だけでは、いかに舞台を台無しにするかということを言っている。舞台全体の演技が流れるように自然であることが望ましいのだ。そういう意味では、スタンドプレーも全体の中で計算されたものである必要があるのだ。

最近は、各界で、全体感のなく、自分だけ目立とうとする人がいるが、あまり褒められたものではない。非常に視野が狭い発言が多い。彼らは過激な発言をして、マスコミに囃されるが、全体のことを無視している。特にトップ層の方々や、そうであった人々の発言は、注意を要するだろう。

全体として美しくない発言は、決して褒められたものではない。それは、どこかに無理がある。作為があると言えようか。自分の発言が、社会に、どのような影響を及ぼし、あるいは所属する組織に負担をかけるかに、もっと配慮しなければならない。それには、まず心を正し、洞察力を深める必要がある。

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2008年12月12日 (金)

お墓の意味

     古墓何れの代の人ぞ。

     化して路傍の土と作(な)り、

     年々春草生ず。

                        (『白氏文集』より)

一昨年、『千の風になって』という歌が流行ったが、その中で、「私のお墓の前で、泣かないでください。そこに私はいません。眠ってなんかいません」というフレーズがあった。この歌詞について、ある僧は、「これは日本の歌」ではないと断じていた。

確かに、原詩は外国人のものということだから、確かにそうだろう。お墓には、仏教は魂魄思想として考える中で、故人はお墓に常に「魄」がある、と理解する。「お墓にいない」というのは確かに引っかかる。更にお盆に、先祖の魂が戻ってきて、魂魄一体となるのだから、この歌詞は日本のものではないとも言える(*注)。

さて、先日、若い人がお寺の墓地で酒盛りをして、たくさんの墓をなぎ倒したそうである。被害額1500万円と報道されていた。その金額を聞いて、その若い人たちもびっくりしたそうだが、お墓は高額だ。それを賠償する親も可哀想だ。馬鹿な子供を育てたものだ。

それにしても、お寺の戦略かもしれないが、分家すれば、新たな墓が必要になるから、お墓はどんどん増えていく。お墓は高額だが、果たして、どれくらい墓がきちんと参られているだろうか。お盆くらいは参っても、その他はお寺任せも多いかもしれない。この若い人たちは論外だが、多くの人たちはお墓にどれくらいの意味を感じ取っているのだろう。

だが、最近は、海外旅行とかで、お墓参りも等閑にされているという声もよく聞く。本来、お墓は誰のためにあるのか。それは先祖のためにあるのではないだろう。子孫の中にある先祖を確認するためにあるものだろう。それは位牌と似た存在だ。

自分を再確認する手段として、お墓は意味がある。だから、子孫が絶えたなら、そのお墓は、その存在意義は薄れる。そして冒頭に示した文言のような状態になるのが常だろう。お墓の大半は無縁仏になると言う。

繰り返すようだが、お墓は生きている子孫のためにある。お墓は、いずれ路傍の石になり、土になる。せいぜい、お墓参りをして、先祖が何を考え、実行していたのかに思いを馳せ、自分の存在価値を見直したいものだ。

*注

この歌の日本の作詞者も、キリスト教の影響が大きいのかもしれない。ただこのフレーズも、風が「魂」と考えれば、別に仏教でも問題なく理解できると思う。多くの人は、そのように理解して、同感し、人気になったのだろう。ただ、「魄」の持つ意味をもう一度、確認してみる必要はある。

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2008年12月11日 (木)

人生は与えられるものか

人生は与えられる、とか言うと、多くの人は、人生は自分で切り開くものだと反論を受けるかもしれない。そんな心構えでは、人生をまっとうに送れないという人もいるかもしれない。

それは確かにそうであろう。しかし、人は多くの人の影響下にあることは事実だろう。いろんな意思決定も、自分の意思だといいながら、環境に支配されている。教育自体も、そうと言えるだろう。

だから決定の仕方も、それは周囲の人だけでなく、何らかの形で情報を得れば、それは直接的でなくても、それは他者の影響下にあると言えよう。

つまり、そのような情報に基づき、私達は判断し、自己決定している。そのように考えると、それは自己決定しているようで、他者に依存していることがわかる。それが人間社会の特徴だろう。

以前から、ビジネスの社会でよく言われる「顧客満足」という言葉も、ビジネス提供側が、顧客により決定支配されていると言える。それを大きいスケールで見れば、それは社会が決定していると言えよう。

現在の世論形成は複雑だが、それでも、社会の決定したことに素直に従うことは、少々納得がいかなくても、従う必要があるのかもしれない。人生は、自己決定できるようで、広い意味で社会に縛られているのかもしれない。

そういう意味では、社会の期待に応えることは大変なことだ。それは地位が上がれば、上がるほど、期待は大きくなり、難しくなる。そういうことなので、権力を持った人は、人々の「期待」というものにどのように対応するか常々考えておかなくてはならない(*注)。

*注

但し、人々に迎合するだけでは、うまく行かないことも多い。社会に善である、あるべき指針を示して、人々を説得し、折り合いをつけることも大切なことである。

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2008年12月10日 (水)

今年の青森のりんごは例年より美味しい

先日、散歩していて、角の出会い頭で、女子中学生(あるいは高校生)とぶつかりそうになった。相当な勢いで彼女は走っていたので、危ないところだった。とりあえず、ぶつからずに済んだのは幸いだ。何を急いでいたのか知らないが、気をつけてほしいものだ。

彼女は、「すみません」と言いつつ、最近の子供にしては珍しく、真っ赤な顔をして走り去った。丸い顔が、赤くなっているので、少しおかしかった。まるで、りんごのようだったからだ。流風も若い頃は赤面症で苦労したが、彼女もそうなのかもしれない。

りんごで思い出すのは、子供時代から、りんごは果物の中で大好きな部類だろう。母が「この子はりんごを与えていたら、ご機嫌なんだら」と、父に言っていたのを記憶している。確かに、果物は、何でも食するが、他の果物と比較して、今も好きな果物かもしれない。

それにりんごは一日に一個食すれば、医者知らずと言われるほど、健康にいいので、毎日できるだけ食べるようにしている。そういうことで、りんごが家に常時、いろんな種類で10個ほど置いている。

ところで、今は、年中、流通しているが、今の時期が一番美味しい。今年も、そのりんごが市場に出回っているが、青森のりんごが例年より美味しい。大粒で、それでいて甘くて美味しい。価格もそんなに高くない。消費者としては、文句の言い様がない。

もちろん、長野のりんごは例年通り美味しいが、関西は流通量が少ないので、大半が青森産が中心だ。だが、これほど青森の美味しくなったのは何か理由があるのだろうか。気候のせいかもしれない。それに生産者の努力もあるのだろう。

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2008年12月 9日 (火)

パンドラの箱を開けたのか~米国のビッグスリー救済の意味

どうやら米国政府は自動車産業のビッグスリーを救済するようだ。総額150億ドルの公的資金を短期融資として支援するらしい。これは何を意味するのだろう。とうとう米国は自由主義を放棄したということだろうか。このような私企業を救済をすれば、それは止め処なく続く。

それに、現状のままで、ビッグスリーは復活できるだろうか。資産も査定せず、公的資金を投ずるとすれば、それはかなり無駄金の投入になりかねない。それに現在の経営陣のままでは、建て直しは不可能だろう。事態をさらに悪化させるだけのことである。

支援は、相当の無駄遣いになる可能性も高い。目先だけ見て、将来を見据えていない。確かに、米国経済はパニックになって大変だろうが、これを機会に、ビジネスを再整理して、立て直さない限り、米国に未来はない。今のままで、生き残れるのは幻想と早く気づくべきだろう。

救済して、一時的に、市場が持ち直しても、基本的に、このままでは米国は売りだ。日本は、相当注意して、今後の取り組みに配慮せざるをえない。また日本は、これを機会に、世界市場への展開戦略の再構築が早く求められる。

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2008年12月 8日 (月)

考えさせられる謡曲『善知鳥』

人間が生きるということは、何かを殺して、その生命を頂いて、命を保っている。このことを否定する人はいないだろう。生きるということは、多くの矛盾を有している。でも、生を享けた以上、生き続けるのも、生者の義務であり、権利であろう。そして、多くの犠牲に対しては、感謝の心を持つことは大切である。

そういうことを題材にしたものに、謡曲『善知鳥(うとう)』というものがある。実は、善知鳥という文字を、謡曲に接するまでは、「うとう」と読むとは知らなかった。「うとう」は、ウミスズメ科の鳥で、親子の情愛が強いと云われているらしい。

ただ、この謡曲が題材としている、善知鳥が、果たして、その鳥なのか、若干疑問が残る。何かの鳴き声を鳥の鳴き声と勘違いしたのではないかと思われるのである。例えば、海亀である可能性も、流風には感じられる。

現実、うとうの鳴き声を聞いた人は、いなかったのにもかかわらず、違った声をその鳥の声と勘違いしている可能性はある。それは実際、鳴き声を早とちりで、違う鳥であった他の例もある。

さて、その謡曲では、次のことを前提としている。すなわち、砂の中に卵を産みつけ、母鳥が「うとううとう」と鳴くと、子鳥が「やすかた」と応じ、這い出る。善知鳥は、子鳥を失うと、涙を流すほど親子の愛情が深い、としている。

猟師が、その善知鳥の母鳥の真似をして、「うとううとう」と言うと、子鳥が勘違いして、這い出るので、それを猟師が取って、殺して、商売にしていたという。そのことにより、彼は死後、善知鳥の霊に苦しめられるのである。それは彼らに感謝することなく、善知鳥を殺して商売にしてきたことへの因果応報である、というのだ。

これは、現代でも、人は、生きるために、ある程度の動植物を食することは、致し方はないが、そういう目的で過剰に、彼らを苦しめることは、望ましいことではない。日本は、隣国の韓国同様(*注)、魚でも捕り過ぎとよく批判を受けるが、確かに、そういう面はあるかもしれない。動植物を食糧にする場合、少しも無駄にしないということは、せめてもの感謝の表し方だろう。

*参考  善知鳥神社

       http://www.actv.ne.jp/~utou/utou.html

*注

韓国は、日本の領海で盛んに密漁をして、さらに捕り過ぎている。漁場の侵害のみならず、魚の捕り過ぎは、将来、漁業資源の減少を強める。いずれ彼らも、いずれ善知鳥の霊に悩まされるだろう。そして、日本政府は、もっとしっかり取り締まるべきだろう。

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2008年12月 7日 (日)

寒い日のおしくらまんじゅう

一昨日から、急速に寒くなって冬本番を感じさせる。しかし、いきなりの寒さは堪える。いきなり十度以上も気温が下がるとは、予想もしていなかった。下着も、冬用を取り出し、ついにパッチも着用となった。でも、これを履くと、当面、離せなくなる。

また、コタツも暖房機も、全開だ。もちろん、温度調節もしているが、なかなか温度が上がらない。仕方なく、部屋着も厚手の物を取り出し、ついにひざ掛けを取り出した。しばらく、寒さに慣れるまで時間がかかりそうだ。

報道によると、香川県小豆島の銚子渓自然動物園「お猿の国」では、あまりの寒さに、いつもの年よりも多く、百匹の猿が集まって、暖をとる「サル団子」をやっているらしい。確かに、集まると、その体温で、温かくなるだろう。これは猿の本能で、猿知恵ではなさそうだ。

そういうと、子供時代を思い出すと、氷点下の寒さでも、外に出て遊んでいた。氷を割ったり、焚き火にあたりながらも、外を走り回っていた。ある程度の人数が揃えば、円を地面に描いて、おしくらまんじゅうを、わーわー言いながら、よくやったものだ。

あれは、鬼から逃げ回るため、結構走るし、皆と体を寄せ合うので、その熱気で、身体が温かくなる。体がほっかほかになると、友達の家に行ったりして、そこで焚き火で焼いた熱々の焼き芋などをもらって、楽しかった。

でも最近は、そういう遊びをしている子供たちも見ないし、焼き芋を焚き火で焼いている風景も見ない。そういうことをできる環境でないのだろうが、少し寂しい感じがする。また、どこかで、そういう雰囲気を味わいたいものだ。それにしても寒いなあ。

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2008年12月 6日 (土)

用心のための観察

一般に危機に強い人は、その思考や行動が慎重だ。念には念を入れるというか、石橋を叩いて渡ることが徹底している。普通の人は、危機が迫っていても、案外、暢気に構えている。そうかと言って、石橋を叩いて、なお渡らないのは行き過ぎかもしれない。

危機に強い人は、観察力が鋭く、細かい事象に対しても、何かを感じて、手を打っていく。そうすることが、被害を最小限に抑える。『徒然草』第百八十五段と第百八十六段にも、それが記されている。

まず、第百八十五段では、城陸奥守安泰盛は、類稀なる馬乗りだったようで、馬の動作を細かく観察することにより、危険を察し、危ない馬には乗らなかったと伝えている。

馬の世話をしておれば、馬のちょっとした動きから、その馬が、どのような行動をするのか予測できるであろうが、彼もそのようだったのだろうか。

更に、第百八十六段では、吉田某という馬乗りは、人は馬と争ってはいけないと諭し、まず馬の強い所と弱い所を把握する。その上で、轡と鞍の具に気にかかることがないか注意することが肝心と言っている。

全ての道において、達人といわれる方は、馬乗りに限らず、用心のための観察がしっかりしておられる。現代でも、その道の達人から学ぶことは多い。

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2008年12月 5日 (金)

大好きな焼き穴子料理

焼穴子は年中、市場に出ているが、いろんな料理に使える。穴子丼、卵とじ、穴子御飯、鍋のネタ、ちらし寿司のネタ、茶碗蒸しの具、としてなどいろいろ使える。どれも料理としては簡単で、料理初心者でもできる。

また、頭の部分は、澄まし汁の出汁にも使える。塩を少し加えて、出汁をとると、何とも言えないいい風味が出る。他のだし汁と混ぜてもいいが、そのままでもいい。後は、豆腐とネギを少々加えて出来上がりだ。

穴子丼は簡単にやる例は、適当に切って、御飯の上に乗せて、タレをかければ出来上がりだ。他には、炒めたタマネギと共に卵で閉じて、親子丼風に作っても美味しい。鍋としては、水炊きに、切った物を肉の代わりに入れてもいい。寿司ネタとしては、ちらし寿司、関西では、バラ寿司というが、その材料として、焼き穴子を入れると、味がぐんとよくなる。

母がよく作っていたのは、茶碗蒸しだ。卵、だし汁、かまぼこ、ユリネ、人参、椎茸に、焼き穴子を加えたものだが、大変美味しかった記憶がある。最近は、作っていないが、また作ってみたいと思う。

まあ、基本的に切って、並べるだけなので、便利な食材だ。最近は韓国産(穴子は韓国産で、加工は日本というのが多い)も比較的安く出回っている。焼き穴子だけ食するのであれば、日本産の方が美味しいが、料理に使うのなら、どちらでもいいと思う。

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2008年12月 4日 (木)

例外に基づく立法は有効か~国籍法改正案

国籍法改正案が、衆議院を通過しているし、参議院でも採決の方向のようだが、拙速な感じがする。その国籍法改正案は、外国人と日本人の間に生まれた子供の国籍取得要件から婚姻をはずすというものだ。

裁判所が、その立法を後押ししているようだが、例外の事象による判決で、それを一般化するのは無理があるのではないか。国民社会に及ぼす影響が十分考えられていない立法は非常に危いものと感じられる。

この法律が、すべて善意の人々に適用するのなら、それはある程度認めたい気持ちもわからないでもないが、それをやり過ぎれば、国を正しく守れるか疑問も多い。世界には、いろんな人たちがいるし、不正に彼らを手引きする方法も各種あると思う。

この法律改正案は、あまりにも世間知らずの人たちによる立案のように思われる。その方法も非常に稚拙だ。いわゆる誰の子供かわからない場合も、日本国籍を取得する可能性もあるのだ。そんなことは当局を簡単に騙すことが出来るだろう。あまりにも善意の人ばかりという前提で法律を作っていないか。

某国には、国籍のない人がたくさんいる。まかり間違えば、そんな人たちの受け皿にもなりかねない。善意で物事を考えることは悪いことではないが、それを利用する人たちも多いだろう。全ての法律に対するように、「原則」ということを無視して、法律を変えても、社会を混乱させるだけだろう。

国会は、まともに議論しているのか、極めて疑問である。「国籍法」は改正せず、「例外規定」にしても、もっと慎重に議論すべきだろう。一つの事象に惑わされてはならない。マスコミも、情緒的にならずに、もっと冷静に報道すべきだろう。

*追記

法律は通過したようだが、問題は多い。いずれ大問題になるだろう。これは裁判所の判断ミスとして、後世、物笑いになる可能性が高い。なお、偽装任地に対する罰則は、1年以下の懲役か、20万円以下の罰金を科すだけである。これは、ほとんど偽装を止められないことを容認するものだと考えられる。

果たして、これは人口減少対策なのか。しかし、移民を増やすなら、もっと根本的な対策を講じるべきだろう。

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2008年12月 3日 (水)

今年の牡蠣御飯

牡蠣が美味しい季節になってきた。牡蠣御飯、牡蠣鍋など、いろいろ美味しい料理があるが、流風は、やはり牡蠣御飯だ。昨年は、手抜きの牡蠣御飯だったので、素材の味わいは感じられ、まずいとは言えないが、格別美味しいと言えるものでもなかった。

そこで、今年は、牡蠣も、県産(兵庫県相生産)のものではなく、かつてよく食していた広島産を購入して、牡蠣御飯を作ってみた。作り方も、一応、それらしく作ってみた。やはり、一手間かけた牡蠣御飯は大変美味しかった。これだと店のものと遜色ない。満足、満足。

作り方は、昨年、いろいろな方法をネットで入手していたが、昨年は、牡蠣に味付けせずに簡易版で臨んだ結果、イマイチであった。やはり料理は手間をかけないと駄目なんだと再認識した次第。

牡蠣については、兵庫県産と広島産のどちらがよかったのか。作り方が違うので、現段階では比べられない。次回は、兵庫県産を購入して作るつもりだ。評価は、同じ土俵にしないと不平等だからね。結果は、いずれ報告するとしよう。

それにしても、料理の一手間が、その結果を大きく左右するするというが、ついつい手抜きすると、できの悪いものが出来上がる。これは結局、子供の教育でも、人材育成も同じことなんだと思う。

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2008年12月 2日 (火)

花深く咲く処

福田前首相が、日本流行語大賞の出席を辞退して、次の言葉を提供したが、その解釈をどうするかと、話題になっている。

    “花深く咲く処、行跡なし”

彼の意図はわからないが、額面通りの意味は、「深山に花が咲いているようなところには、誰もやって来ないので、歩いた足跡も残らない」、というような意味であろうか。裏には、首相を退任すると、誰も来なくなって静かだよ。それでも、私は、誰にも邪魔されず、静かに時を過ごしている、というような意味かもしれない。

だから、俗世間の日本語流行語大賞には、行くことはできません、悪しからず了承ください。すみませんが、騒がないで静かにしておいてください。福田前首相、こういう解釈で宜しいですか。まあ、老僧の気持ちなんですかねえ。でも、早く議員職を引退されて、ご意見番として、次代の政治家を育てて欲しいですね。

*追記

この言葉は、棟方志功の作品の中にある言葉らしい。但し、彼が作った言葉ではなかろう。仏教に接する内に、どこかの仏典か何かで、この言葉を見つけたのであろう。その大意としては、「大自然の中では、人の足跡など、すぐ消されてしまう」と紹介されていた。流風の解釈とは異なるが、いろいろな解釈があるのだろう。

*平成21年2月22日追記

福田前首相が、党内で麻生政権批判することに対して苦言を呈しているようだが、彼にそのことを言う資格はないだろう。政権を投げ出した者は、静かにしていることだ。それは安倍元首相も同様だ。お二人とも、終わった人たちだ。

*平成21年9月2日追記

首相になった人が、退任後は引退するルールを作らないと、国のためによくない。引退すれば、それなりの役割を与えることもできるのに、それがわからないのか。結局、福田氏は、引退せず、今回の衆議院選に出馬し、議員職を継続される。大変残念なことだ。

それは森氏、羽田氏、安倍氏も同様だ。麻生氏も、次回の衆議院選挙には出馬しないでもらいたい。

*追記

民主党の鳩山前首相は、引退すると言いながら、最近は、また辞めないという、いい加減さ。軽すぎる彼には、早く政界を去りなさいと言いたい。

*平成24年9月28日追記

福田元首相は、次の選挙には出馬されないとのこと。但し、政治的に引退することはないとのこと。それでいいと思う。政党を離れて、国家全体を見渡して、いろいろアドバイスされたり、それなりの役割を果たされたらと思う。首相時代、皆には言えない苦労をされたと思うが、別の視点で見れば、適切な意見ができる立場と思う。今後のご活躍に期待したい。

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2008年12月 1日 (月)

一刹那一念

二兎を追う者、一兎をも得ず、と、よく言われるが、確かに、それは事実だろう。異性に二股かけたつもりが、両方に逃げられることはよくある。若い時は、そういうチャンスがあり、迷うことも多いだろう。流風でも、若い時は、そんなことがあった。そして、結局、両方を失っている(苦笑)。

あの『徒然草』にも、そういうことが記されている。確か、教科書に載っていたと思う。弓の師匠が、初心者を戒めて、次のように言う。

 初心の人、二つの矢を持つ事なかれ。

 後の矢を頼みて、始めの矢に等閑の心あり。

 毎度、ただ、得失なく、この矢に定むべしと思へ。

学生時代は、そんなものかなと思っていたが、社会に出で、現実に接すると、確かにそういうことは度々あった。機会は複数あっても、選択することは求められる。複数追いかけると、成果は出ない。吉田兼好の示唆は、今の人にも、十分警告となる。

一瞬一瞬を大事にして、それに集中する。特に大事に臨んでは、優先順序をよく考えて、そのことが求められる。もちろん、平時に、いつもそのようにしていては、疲れきってしまう場合もあろう。メリハリは大事だ。心の集中と分散が大切と言えるかもしれない。チャンスに強い人は、そういうことに通じているのだろう。

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