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2008年12月12日 (金)

お墓の意味

     古墓何れの代の人ぞ。

     化して路傍の土と作(な)り、

     年々春草生ず。

                        (『白氏文集』より)

一昨年、『千の風になって』という歌が流行ったが、その中で、「私のお墓の前で、泣かないでください。そこに私はいません。眠ってなんかいません」というフレーズがあった。この歌詞について、ある僧は、「これは日本の歌」ではないと断じていた。

確かに、原詩は外国人のものということだから、確かにそうだろう。お墓には、仏教は魂魄思想として考える中で、故人はお墓に常に「魄」がある、と理解する。「お墓にいない」というのは確かに引っかかる。更にお盆に、先祖の魂が戻ってきて、魂魄一体となるのだから、この歌詞は日本のものではないとも言える(*注)。

さて、先日、若い人がお寺の墓地で酒盛りをして、たくさんの墓をなぎ倒したそうである。被害額1500万円と報道されていた。その金額を聞いて、その若い人たちもびっくりしたそうだが、お墓は高額だ。それを賠償する親も可哀想だ。馬鹿な子供を育てたものだ。

それにしても、お寺の戦略かもしれないが、分家すれば、新たな墓が必要になるから、お墓はどんどん増えていく。お墓は高額だが、果たして、どれくらい墓がきちんと参られているだろうか。お盆くらいは参っても、その他はお寺任せも多いかもしれない。この若い人たちは論外だが、多くの人たちはお墓にどれくらいの意味を感じ取っているのだろう。

だが、最近は、海外旅行とかで、お墓参りも等閑にされているという声もよく聞く。本来、お墓は誰のためにあるのか。それは先祖のためにあるのではないだろう。子孫の中にある先祖を確認するためにあるものだろう。それは位牌と似た存在だ。

自分を再確認する手段として、お墓は意味がある。だから、子孫が絶えたなら、そのお墓は、その存在意義は薄れる。そして冒頭に示した文言のような状態になるのが常だろう。お墓の大半は無縁仏になると言う。

繰り返すようだが、お墓は生きている子孫のためにある。お墓は、いずれ路傍の石になり、土になる。せいぜい、お墓参りをして、先祖が何を考え、実行していたのかに思いを馳せ、自分の存在価値を見直したいものだ。

*注

この歌の日本の作詞者も、キリスト教の影響が大きいのかもしれない。ただこのフレーズも、風が「魂」と考えれば、別に仏教でも問題なく理解できると思う。多くの人は、そのように理解して、同感し、人気になったのだろう。ただ、「魄」の持つ意味をもう一度、確認してみる必要はある。

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