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2009年1月31日 (土)

恒産ある者は、恒心あり

「恒産ある者は、恒心あり」は孟子の言葉だ。一般には、その後で、述べている「恒産なき者は、恒心なし」の方がよく知られている。民は、経済的に潤えば、その心も落ち着き、正しい道を歩むと理解されている。

だから、心さえ正しければ、何とかなるとは、孟子は説いていない。それは、孟子の先人である孔子も同様と思う。経済的に苦しければ、心も正しく保つことは難しいのだ。民の生活を隅々まで安定させることは為政者の役目だ。

もちろん、経済だけが全てではないという人もいるだろう。それは確かだ。お金だけあっても、味気ないだけだろう。無趣味で、家庭生活も不安定で、友人もなければ、それは意味のある人生とは言えないだろう。

しかしながら、経済の余裕ががなければ、それらを獲得することは不可能だ。大体、人間というものは、経済的にゆとりが出ると、それを失いたくないという心が働く。つまり保守的になるのだ。

それは、行動にも影響を与える。経済的にゆとりのない時代とは、明らかに違ってくるようになる。そして、道徳的な意味も理解できるようになる。若い時は、散財して遊びたいものだが、それを若干辛抱していると、お金は貯まっていく。

ある程度貯まれば、後は時間が増やしてくれると言われてきた。しかし、日本の経済はバブル崩壊後、国内経済は停滞し、金利もほとんどつかない状態だから、財産を時間で増やしていくことが難しくなっている。

そこで、政府は、「貯蓄から投資へ」と旗振りしたが、素人が利回りを確保することは難しく、デフレ状態であれば、結局、しっかり働いて、少しずつ貯蓄していく方が賢明と判断される状況だ。

貯蓄などというものは、結局、どのレベルの所得であっても、見栄をはらず、支出をコントロールして、それなりの生活をすれば、可能だ。別に、お金持ちになる必要はないけれど、人生の変動に耐えられるほどのある程度の貯蓄は求められる。

若い人は、時間があるのだから、時間をかけて、「恒産」に励んでもらいたいものだ。そして、同時に、家族の形成、親友の確保、自分に合う趣味などにより、人生を豊かにしてもらいたいものだ。

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2009年1月30日 (金)

コウノトリ米を食べる

日頃から、お米は好きで、毎日食べている。かつては、10キロ、5キロ入りを買っていたが、最近は少し割高だが、2キロ入りにして、いろんな銘柄を購入している。いろいろ試すと、お米の味は様々だ。有名産地のブランド米もいいが、地元産のお米も捨て切れない。

最近は、農薬を減らしている「特別栽培米」を購入することが多い。ただ、この「特別栽培米」には、いろんな種類がある。つまり「無農薬栽培米」「無化学肥料栽培米」「減農薬栽培米」「減農薬肥料栽培米」だ。現在、購入しているのは、「減農薬栽培米」かつ「減農薬肥料栽培米」であるものだ。

つまり、購入している、この「特別栽培米」は農薬を農水省の指導の下、一定限度、農薬を減じればいいようだ。だが、意外と美味しいのも、この「特別栽培米」だ。流風は、丹波産を最近購入することが比較的多い。もちろん、他の県内産や他府県のものも時々購入しているが、「特別栽培米」は割りと味はいいだろう。

そして、今回は、豊岡の「こうのとり米」である『こうのとり物語』を購入してみた。これはコウノトリの繁殖を促すため、地元農家が、協力して、種の段階から化学農薬、化学肥料を使わずに、有機肥料でお米を作っているものだ。つまり「無農薬栽培米」かつ「無化学肥料栽培米」であると言える。別名「自然農法米」とも呼ばれている。コウノトリに優しいということは、結局、人間にも優しいと言うことだろう。

ただ、作るのに手間がかかるため、現状、購入価格が2㎏1500円かかる。これは日頃買う物と比べると、5割ほど高い。しかし、手間を考えると、その値段でも安いかもしれない。最近は、東京にも販売されているそうで、多分、いくらでも需要がありそうな気がする。そういうこともあり、最近は、耕作範囲を広げる動きもあるようだ。いずれ、全国に有機肥料のみの自然農法のお米の生産が増えていくかもしれない。

ただ、その味については、深くはわからなかった。昔の素朴な味だが、美味しいかどうかは微妙だった。流風の舌も麻痺しているのかもしれない。いろいろな「特別栽培米」のお米も、その評価は、味のレベルではなかなか判断が難しい。完全自然農法のお米を採るか、減農薬・減化学肥料の美味しい特別栽培米を採るか、迷う所だ。さてさて、今後、どうしようかな。

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2009年1月29日 (木)

子供時代に金銭感覚は養われる

金銭感覚を身につけようとすれば、子供時代は、お金に苦労している親の元で育った方がいいという。そんなことを言えば、銀の匙を咥えて生まれた方がいいに決まっていると言う人がいるかもしれない。

確かに、お金持ちの家に生まれれば、何不自由ない生活が子供時代から送れるだろう。但し、金銭感覚は、身に付かない。10円や100円の価値を知らずに過ごすと、大人になっても、子供時代の親の消費感覚が抜けず、結局、いつも不足を感じるようになると云う。

だから、子供の時代から、お金の有り難味を知っておくことは大切だ。そうすれば、何かの対価としてお金を頂くだけでも、感謝の気持ちが持てる。今の親は、与えすぎと言われ、また爺婆は、孫に甘いから、余分な物を与えて、子供を駄目にしている。

子供の頃、小学生になって、父から初めてお小遣いをもらった。そして、それと共に、一冊の金銭出納帳を渡され、記入の仕方を教えられた。最初、難しそうで、その意味はわからなかったが、学年が上がると、欲しい物は、お金を貯めないといけないと自然にわかった。

お小遣いは、当時、小学一年生で、月100円であったと思う。学年が一つ上がると、100円ずつ上がり、それは高校卒業まで、そのペースだった。確かに、高学年になると、周囲はもっともらっていたが、特に不満はなかった。父からは、もっと欲しかったら、大きくなって自分で稼げと常々言われていたからだ。

しかしながら、学生の間は、アルバイト禁止だったので、お小遣いの範囲で使える金額は厳しく、友人との付き合いも制限されたことは、少し残念だ。今の学生さんのように、アルバイトが自由にできて、ある意味、羨ましいと思うこともある。だが、逆に言えば、アルバイトせずに学生生活を過ごせたことは、幸せだったのかもしれない(但し、自宅からの遠距離通学で下宿はさせてもらえなかった)。

その結果、流風は、倹しい生活に慣れきってしまった。多分、若い時から、同じペースの生活ぶりだろう。だから、景気とかは、世間が騒いでも、あまり関係ない。もちろん、このことは、全ての皆さんに推奨するわけではない。それも一つの生き方と考えてみてもらえばいい。

*追記

流風は金融機関に勤めた経験はないが、金融機関の各種不祥事を考えると、金融機関のトップの人たちは、鋭い金銭感覚が求められると思う。そうすれば、巨額の損失を出すことはまずありえないと思う。金銭感覚のないトップが金融機関にいるのは、何という皮肉だろう。これは巨額の損失を出す他の産業の経営者にも言える。

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2009年1月28日 (水)

牡蠣鍋に挑戦

本日は、比較的暖かい感じだ。寒いのも、それなりにいいけれど、朝は辛い時がある。今日は、早く起きることができた。寒いと眼が覚めていても、寝間の中で、ぐずぐずしているのは子供並だ(笑)。まあ、少し暖かいと言っても、それなりの寒さはあるので、食べ物は鍋物が温まる。

そういうことで、昨日は、牡蠣鍋に挑戦してみた。と言っても、鍋物だから、そんな難しいことはない。材料が揃えば、本当にできたようなものだ。牡蠣は、あまり煮込むと美味しくなくなるので、さっと煮るので、時間も少なくていい。

そして、今回、自宅で作ってみようと思ったきっかけは、外食の牡蠣鍋は、やはり味が濃いからである。確かに美味しいのだが、味が強く感じられる。もっと、あっさりした味にできないものか。そこで、牡蠣鍋に挑戦してみた。

まず、出汁は、昆布とカツオの出汁に、先日のブログで紹介した「健康野菜スープ」をブレンドし、更にお酒を加えて、味噌は少なめに入れる。味噌は総出汁量の十分の一ぐらいにした。味噌は、白甘系だ。別に白甘系でなくても、いいように思うが、結果から言うと、塩辛い味噌なら、流風は、多分砂糖を加えるかもしれない。そして煮たてる。

それに、きざんだ白ネギ、きのこ類、豆腐を入れ、再度煮立てる。火が通った段階で、牡蠣を入れる。牡蠣は今回も広島産にした。他の地区の牡蠣も試してみたが、少し物足りない感じがした。粒の大きさも広島産がちょうどいい頃合だ。煮すぎないようにした。さらに、青菜の葉っぱ部分のみを加えて、さっと煮て出来上がり。

まずスープを飲んでみたが、我ながら、絶妙の味だった。自画自賛。これなら、簡単に作れる。レパートリーの一つに追加する。最近は、牡蠣は年中食べられるが、それでも、牡蠣は冬のこの時期が美味しく感じられた。満足、満足。次ぎは、牡蠣フライでも作るか、思案中。

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2009年1月26日 (月)

国と地方の借金の行方

国と地方の2008年9月現在の債務残高は、次のようだと、財務省は公表している。

 国債等の債務残高 843兆円

 地方債等の債務残高 197億円

 合計 1040兆円

その内、国債等の債務残高 843兆円の明細は次の通り(四捨五入)

         普通国債 541兆円

    財投債 136兆円

    借入金、交付国債等  59兆円

    政府短期証券  107兆円

麻生内閣が主張している定額給付金などをする余裕は全く国にない。むしろ、社会保障を除く一般予算を大幅に削って、借金返済に回すべきなのだ。それなのに国の資産を国民に移転する余裕などないはずなのに、それを強行するのはまったくおかしい。

このことは、昨年の11月12日付けブログ「国の借金と政権の行方」で述べたので、ここでくどくど記さないが、この内閣は、本当に国のことを考えているのだろうか。本来、国債の償却に充てるべき資金を流用していいのか。その経済効果も疑問が残るだけに、ますます不信感が募る。

*追記

また野党も、定額給付金の分の資金を雇用等社会保障に回すべきだと言うが、これもおかしな話だ。問題をすり替えても、問題は解決しない。きちっと筋道が通るように議論すべきだ。

*追記

経済評論家の中には、国には資産が700兆円ぐらいあるから、日本の純負債は、それほどでもないと言う人がいるが、その考え方は甘いだろう。資産は所詮、資産であり、現金化しない限り、確定的なことは言えない。国としては、依然高いリスクを抱えていることに違いない。

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2009年1月25日 (日)

“わたし出すわ”を考える

森田芳光監督が、『わたし出すわ』という映画を撮影されているらしい(*参考参照)。小雪さんがヒロインらしい。実際は、どうか知らないが、ちょっと変わった雰囲気の女優さんだ。そして、残念ながら、今のところ、映画の内容は深くは把握していない。ここで取り扱っている女性がお金を出すというのは、どういうことで取り上げられているのだろうか。今年、公開されるそうだから、それまで待ってみよう。

さて、若い頃、親や世話する人があって、何十回とお見合いをした。まだ結婚に夢を見ていた頃だ。男が結婚に夢を見るというと、少し表現がおかしいが、結婚すれば、世間から一人前として認められるという考えはあった。当時、異性との付き合いは、あまり縁がなく、見合いは、異性と会える絶好の機会だった。

写真で見て、あまり気に入らなくても、積極的に会うことにしていた。ただ、中に入る人に、食事代等は、全て男の負担であることを強く言い含められていた。流風も、それは仕方ないと思い、了解した。

そして、当日、見合いして、「それでは、お二人で」ということになり、食事や観劇等をするのだが、その費用はもちろん流風が負担した。当時は、まだキャリアウーマンが幅を利かせるほどでもない時代なので、それは当然の行為でもあった。女性たちは、見合いの結果如何にかかわらず、ただで美味しい食事や観劇ができるので、喜んでいた。

しかし、何回目かのお見合いの時、ある有名な大手の会社に勤めている女性と見合いしたことがある。その時、食事の後、「私も出します」と言われた時は、驚いた。少し高級店だったので、まずまずの金額である。そこで、少し押し合い問答の上、結局、流風が支払った。ちょっと気になる女性だったので、余計にそうしたかった。

ところが、その後の、彼女の反応は逆で、「私の意向を聞いてもらえなかった」ということで、話はなかったことに、ということになった。途中までの雰囲気がよかっただけに、大変残念な結果になった。果たして、本当の理由は何だったのか不明だが、彼女にすれば、意識の差が大きかったのかもしれない。

女性がお金を出すというのは、昔から、金回りのいい女性が若い男をツバメとして囲うことはあった。現代では、男女同権の考えから、女性の地位が上がり、意識も向上しているのだろうか。先の女性は、時代の先を行っていたのだろう。もちろん経済的に余裕があればこそ、言えることではある。最近は、そういう女性が更に増えているだろう。

そして、別の観点から見ると、それがどういう意味を持ちつつあるのか。多くの女性が自立できるが故に、婚期が遅れ、平均結婚年齢は30歳近くになっている。そうした世間の気分のため、婚期を逃す女性も多いのかもしれない。最近の親は、昔ほどうるさくなく、のんびり構えていたら、気づいた時には、若干手遅れで、人生の意味を再び問い直す羽目になる。

ところが、必ずしも結婚のためにというわけではないが、ある程度お金を貯めているのだろう。そのお金の使い道を失って、今後は、それは自然と社会に向けられるかもしれないと言う人もいる。そこで、社会の課題を自分なりに見つけると、それに投資してみたい気持ちになると言うのだ。

だが、本来、ケチな女性がそんなことをするだろうかという疑問も残る。ただ、その底辺には、程度の差はあれ、誰しも自分の自由になる男を周りに侍らせてみたい欲求があるのかもしれない。ホストクラブが流行るのもそういうことだろう。彼女等の関心は、結局、遠まわしにせよ、何かの理由をつけて、異性に関心があると考えた方が自然だろう。

自分のその本心を隠して、“わたし出すわ”という局面は、今後、多く出てくるかもしれない。それで自分が満たされなかったものの埋め合わせにしようとするかもしれない。でも、もし、今、女性から流風に“わたし出すわ”と言われたら、どうしよう(笑)。

彼女の下心に如何に対応すべきか。やっぱり、流風には無理ね(笑)。遠ざける結果になっても、やはり自分の方から出すよ。所詮、流風には、女性を手玉に取るプレイボーイにはなりえない。それでは、皆さんはいかに。

*追記

しかし、女性の心理は、男にとってはミステリーだ。いろいろ記したが、結局、流風には、未だ何もわからない(笑)。わからないということにしておこう。

*参考

 映画『わたし出すわ』オフィシャル・ブログ「わたし書くわ」

    http://dasuwa.at.webry.info/

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2009年1月24日 (土)

一を聞いて十を知る

世の中には、世の中のちょっとした現象から、全てを見通す人がいる。流風は、一を聞いて、やっと一を知る凡人だが、一を聞いて十を知る人が羨ましい。父は、子供の頃、周囲から、そのように言われたらしいが、その後も、そのようであったかはわからない。

ただ言えることは、こまめに新聞情報から得た情報を分析し、近未来は正確に予測していたように思う。流風が社会人になってからも、ちょくちょく父に相談したが、その判断にほとんど間違いはなかった。

度々、その判断力に驚いたが、父は誰にでもできることだ、と言い、お前は努力が足りないのだと注意を受けた。確かに、父は閃きの天才型というより、秀才型だろう。そして、その努力は確かだが、また勘所を押えるのも、うまかったと思う。

何が問題で、その中の何が課題で、その解決策はどのようにすればいいのか、自然にそういう思考が日常的に出来ていたのだろう。父は、度々、哲学と歴史から、人間学を習得することが大事たが、現代教育は、それを等閑にしていると憂えていた。

父によると、小学生時代は、最低限覚えなければならない詰め込み教育も必要だが、人間社会でどうあるべきかを十分理解しないと、世の中を見通すことはできないと常々言っていたことが懐かしい。

さあ、流風も、一を聞いて、二ぐらいわかるように努力しよう(笑)。遅すぎることもあるまい。

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2009年1月23日 (金)

内食が主流に

エンゲル係数の高い流風は、支出のほとんどが食品代に消える(笑)。最近は、健康のため、外食をほとんどしないから、内(うち)食がほとんとだ。とは言っても、中(なか)食は、ある程度、購買する。弁当は少ないが、加工品は、時々買う。

正月のお節も、今年は、大枚はたいて、比較的高級と言えるお節を買った。しかし、これは大きな失敗だった。皆、味が濃くて、健康に悪そうなものばかり。勿体無いから、ある程度は食したが、その後、体調を少し壊した。医師からも塩分の摂り過ぎではないかと警告を受ける始末だ。

年齢的に、糖分や塩分を控えるためには、来年からは、お節を購入することを止めようと思う。一般のお弁当と言われるものより、味が濃く、舌にも合わない。お節は薄味にした田舎お節の手作りが、流風には、やはり良さそうだ。簡単だし、余分な出費も抑えられる。作り手は、果たして、そのようなことに配慮しているのだろうか。

そういうことを考えていたら、世間は、景気の悪化に伴い、多くの人々は外食や中(なか)食を抑え、内食を増やしているようだ。関西は、不景気になると、食品代を削るのは伝統的なこと(東京方面は、保険代を削ると言われていたが、どうなのだろう)。

食費の節減に努めているのだろう。料理をしない人が料理をするのは望ましいことだ。内食のための料理といっても、今はレシピが溢れているし、一回目は、その通り作れば、それなりのものはできる。味は、それ以後調整すればいい。母がよく言っていたように、材料が揃えば、出来たようなものだ。

そして、その結果の副産物として、家族のコミュニケーションが深まっているらしい。サラリーマンにしたって、残業禁止だから、早く家に帰るしかないし、そうなると、家で家族一緒に食事することになる。不景気をネタに、家族の絆を強めることも大切だ。まあ、これは不景気の恩恵と言えなくもない。不景気も考え方によっては、いいことだ。

それに外食や中食は、昨年、色々な問題が発覚したし、食の安全や安心に不安があるのは、今も変わらない。それは食品偽装が、現在でも摘発されており、食品業界のいい加減さには本当にうんざりする。

そういうことが相俟って、外食産業は悲鳴を上げている。しかしながら、それは仕方ない。業界の品質管理が問われているのだ。これは一朝一夕には解決しないだろう。食品産業はもっと苦しめばいい。自業自得だ。そして、しばらく、内食が主流になるだろう。

*追記

時々、テレビで視る(いろんな子供たちが、家に電話して、夕食のメニューを聞くというもの)のだが、大阪の家庭の食生活は貧しいなあ、と思う。いかにも、出来合いの食べ物が多かったり、あまり健康に良くない食生活だと感じる。

様々な家庭で、あんな食生活をしていたら、「舌」の感性が衰えるものばかりだ。もっと、薄味の料理を子供たちに与えてもらいたいものだ。そうしないと、健康的と言われる日本食文化が維持できないと思う。

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2009年1月22日 (木)

為政者と庶民の生活

  日出でて作(はたら)き

  日入りて息(いこ)う

    井を鑿(ほ)りて飲み

  田を耕して食う

  帝力我に何かあらんや。

最近の為政者は、おおっぴらに庶民の生活を見学するようだが、昔の偉い為政者は、お忍びで、庶民の生活状況を観察したものだった。自分の知っている国民の状況と本当の国民の生活状況にズレがないか確認したのである。

あの水戸黄門が全国を行脚したというのは創作で、彼は水戸藩を一歩も出ていないが、その代わり、家来に命じて、民の生活を報告させたという。ただ家来がどの程度の正確さで、庶民の生活を伝えていたかはわからない。間接情報には、歪みが伴うものだ。

子供の頃、糸電話で、最初に話した内容が、最終者には正確には伝わらなかった経験をお持ちの方は多いだろう。あれは社会、企業社会でも同じで、中間に介在者があると、当初の意図とは違った伝わり方をする。

そういう意味では、私達がマスコミ等を信用するのは危い。だが、いつの間にか、刷り込まれていることもある。自分自身をもっとしっかり持たなければ現代は厳しい。

さて、また脱線してしまったが、最初に挙げた歌は、『一八史略』にある。ある老いた百姓が、何かを食べながら、腹を叩いて、木ゴマをぶつけ合って遊んでいた。そして、この歌を歌っていたのだ。これを聞いて、お忍びで町に出ていた中国の皇帝、堯は安心したと云う。人々の生活が皇帝のことを気にすることもなく、安寧にやっていると。

もちろん、この話は創作だろう。作者の意図は、若い皇帝に、皇帝というものは、そうあらねばならないと諭して作ったように感じられる。大きい組織では、トップには、いつも正しい情報が伝えられるとは限らない。だから、正確な判断が出来るように、多様な情報ルートを持たなければならないということだろう。そのための一つの手段が、直接の多様な視察だ。

現代の日本でも、為政者は正確な情報入手に心掛けてもらいたいものだ。内密に、こまめに庶民の状況を視察して、その状態を把握することは大切だ。そして、多様な情報入手ルートを確保すべきだろう。マスコミ報道で知って、始めて動くようなことのないようにしてもらいたいものだ。

 

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2009年1月21日 (水)

米国新大統領への期待と不安

バラク・オバマ氏が、米国大統領に就任した。米国だけでなく、世界が話題にしている。それだけ今後の米国の動向が気になると言うことだろう。金融崩壊の影響は世界に影響している。オバマ大統領が米国経済を建て直すことへの期待が大きいのだろう。

しかし、サービスの原則同様、期待値が大きいと、実績が上がらなければ、その失望も大きくなる。オバマ政権の政策運営は難しいものになるだろう。そのことを意識してかどうかはわからないが、その就任演説の内容は慎重なものだった。

ただ、選挙前に、大きく期待させてしまっただけに、今後辛い場面が起こるだろう。そのことを反映してか、米国市場は、大きく下げている。しかし、これは悪いことではない。就任時点で大幅に下げれば、もちろん、更に下げる可能性もあるが、政策によっては、じんわり相場を上げていく可能性も否定できない。

確かに、国内景気対策は、限定的だろうし、いかに対策を打ったところで、即効的な効果はありえない。だが、将来的な見通しが立てば、人々は、その未来に少し期待を持つかもしれない。とりあえず、今後3ヶ月間の政権動向に注目したい。

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2009年1月20日 (火)

歌舞伎『山姥』と金太郎

子供の頃、よく歌った童謡『金太郎』は、ひらがな部分を感じにすると、次のような歌詞だ。

  一 

     鉞かついで 金太郎

     熊にまたがり お馬の稽古

     ハイシドウドウ ハイドウドウ

     ハイシドウドウ ハイドウドウ

 二

     足柄山の 山奥で

     獣集めて 相撲の稽古

     ハッケヨイヨイ ノコッタ

     ハッケヨイヨイ ノコッタ

子供の頃、流風は、菱形の腹掛けを着用して、父の背中にまたがって、いつも嬉しそうにしていたらしい。後年、母から懐かしそうに教えられたが、当時、父も流風が、「ドウドウ」と希望すると、喜んで、背を貸していたという。親の気持ちとしては、皆、そんなものだろう。

さて、歌舞伎に、謡曲と同じ題名で、『山姥』というものがある。能同様、未だ鑑賞したことはない。調べて見ると、これは、謡曲とは、全く内容が異なり、金太郎が出てくる。山姥は金太郎の母(ちなみに父親は雷神だ)という設定になっている。源頼光の家来の三田の仕(つかさ)が、頼光の家来となりうる勇者を探し出す筋になっている。源頼光は、土蜘蛛退治で有名で、以前のブログでも取り上げた。

頼光にはも四天王と呼ばれる四人の強者の家来がいた。すなわち、渡辺綱、卜部据季武、碓井貞光、そして、金太郎のモデルと云われる坂田金時だ。彼の出生は不明だ。兵庫県川西市の満願寺にお墓があるとも伝えられているが、その出自はわからない。

封建制度が確立していなかった時代は、いろんな階層から、能力がある者が取り立てられたと推定できる。凡そ、いつの時代も、新興勢力は、実力主義だ。武家集団の勃興が、少し評判を聞けば、実力ある者を取り立てたのだろう。

ある子供の評判を聞いた三田の仕は、スカウトのため、足柄山で、山姥に会いに行く。そして、その息子怪童丸に接見してみて、その豪力に驚き、頼光に仕官するよう促し、山姥は、自分の素性が子供の将来に傷をつけると考えて立ち去るという、身分社会の少し悲しい筋だ(*注記)。

現在でも、若い時、やんちゃをやっていた若者が、いい指導者の下で、いい仕事をしている人たちがある。いかに彼らを覚醒させ、チャンスを与えるかが指導者に問われている。酒呑童子を退治した金太郎のように、現代の金太郎の出現を望みたいものだ。

そのためには、彼らの持つエネルギーを社会に正しく向かわせる仕組みとリーダーが大切だろう。そして、いろんな価値観を尊重し、偏った教育にならないようにして、多様な人材を育成できるように、為政者は配慮してもらいたいものだ。

*注記

まあ、こういうことは、封建社会後も続けられ、美しい町娘などを自分の養女として、迎え、自分の娘として、それなりの家に嫁がせた武家は、たくさんあった。日本は、割と家系にシビアでなく、養子を受け入れたのは、家というものを絶やさない工夫とも言える。今は割りと減ったけれども、少子化の現在、また増えるかもしれない。

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2009年1月18日 (日)

謡曲『山姥』の物語を考える

東京や大阪の繁華街に行くと、いまだに山姥(やまんば)頭をした若い女性を見かける。あれはファッションなんだろうが、昔、子供の頃よく見たルンペンのおばあさんと、あまり変わらない。彼女達は、どういう目で見られているかわかっているのだろうか。

まあ、流風も、若い時、朝、髪が固い質のため、強すぎて、なかなか髪の毛が寝ない。電車の時間に間に合わないので、止む無く、髪が立ったまま出社して、先輩や上司からからかわれたから、あまり、それと違わないかもしれない。

しかし、彼女等の髪型は、自分で意識して、ああいう格好をしているのだから、違和感を感じる。彼女らのファッションは、流風には全く理解できないが、彼女らにすれば、あれが自己主張の一つの表現なのだろうか。

考え方によっては、誰も寄り付かないようにしているとも考えられるが、それとは逆に、かえって近寄ってくる人を選り分けているのかもしれない。そう考えれば、人間は誰でも、好みで付き合う人間を狭めているかもしれない。

彼女等とはお近づきになりたいとは思わないが、それは彼女等もそうであろう。だとすれば、安易に彼女等を笑うことはできない。

さて、話は全く変わるが、山姥を題材にしたもので、謡曲にも『山姥』というものがある。残念ながら、能はまだ鑑賞したことがない。そして、正直言って、その内容は、なかなか解釈には、難しいものがある。余程、中国の詩歌や日本の古典・仏典に通じていないと、真の理解は無理があるようだ。

それを敢えて取り上げようとするのだから、無謀と言われても仕方ないが、流風なりの印象や感想を少し記してみよう。

内容は、山姥山廻りの曲舞を得意とし、そのため「百萬山姥」と呼ばれている遊女が、険しい上路越えをしていると、本当の山姥が現れ、一緒に舞う情景を描いている。単に一緒に舞うだけでは、別にどうってことないのだが、そこには、仏教思想を底辺に、東洋の文学や思想をあしらい、より複雑な内容になっている。表面的なあらすじは次のようになっている。

山姥の曲舞を得意とするため、「百萬山姥」と渾名されている遊女が、従者を連れて、善光寺詣を思い立ち、越後越中の境川に着き、そこから徒歩で、上路の山にさしかかると、急に天候が変わり、困っていると、女が現れて、宿として自分の庵を勧めてくれる。

ついていくと、その女性が「山姥」の曲舞を舞い詠ってくれと所望し、自分が本当の山姥だと告白する。それに慄き、舞おうとすると、それを止めさせ、夕月の頃、一緒に舞おうと言って、消えうせる。

約束の時間になると、怖ろしい姿の山姥になって現れ、山姥の曲舞を舞う。そして舞いながら、どこともなく消えうせる、といったものだ。

これは作者、世阿弥元清は、何を意図して創ったのだろうか。実際に、山姥が現れたというのとは違って、あくまで、それは、ある夜の雷鳴の時、眠りに落ち、夢による啓示の様なものを作者が感じ取ったのではなかろうか。それを謡曲に表現したのではないか。それは上歌に、表されているような気がする。

  鬼一口の雨乃夜に、鬼一口の雨乃夜に。

  神鳴り騒ぎ恐ろしき。

  その夜を思ひ白玉か何ぞと問いし人までも

  我が身の上になりぬべき。

  浮世語も、恥かしや浮世がたりも恥ずかしや。

作者は、山姥の夢で、ヒントを得て、百万山姥が、芸をより高めるため、昔の山姥と遭遇し示唆を得たという作品を創出したと思われる。そこに、仏教思想の輪廻というテーマを絡ませて、人々の魂は、時代を超えて、伝えられていると考えたのではなかろうか。

輪廻とは、生死一体ということ。生きることでの色々な思い悩みや捉われ、死後の世界から見ると何もない現世の空しさ。生死は別々ではなく、一体で、ぐるぐる回っている。それは同心円状なのか、螺旋状かはわからないが繰り返されている。私達は、時々立ち止まり、先人に学ぶ必要があるのだろう。世代を超えて大切なことは変わらないのだから。

そして自分の意思を後世に伝える。身近な所では、親から子へ、子から孫へ。世代から世代へ語り継いで、伝承され、継承されること。もっと私達は、大切なことを忘れてはいないだろうか。この『山姥』の謡曲は、そのような意味を含んでいるように感じられる。

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2009年1月17日 (土)

誤認逮捕による冤罪の保険制度を

当局による誤認逮捕による冤罪などで蒙る社会的制裁は計り知れない。一度失った信用は、それが誤認逮捕に基づくものであっても、被疑者は社会的復帰が難しい場合が多いだろう。

単に名誉回復だけでは、社会はなかなか信用してもらえない。名誉回復は、大々的に報道されることもなく、ほとんどが人々にきちんと認知されない。結局、名誉回復で、その人の信用が回復するには頗る時間がかかる。

誤認逮捕の被疑者というのは、いつまでも、疑いの目で見られるものだ。誤認逮捕の被疑者の失われるものは、あまりにも大きすぎる。

確かに、危ないものには近づかなければ、そういうことはないのかもしれないが、現代は、周囲は落とし穴だらけだ。本人がいくら注意しても、疑われる事態が生じない保証はない。

少し前だが、大阪で地下鉄での痴漢騒ぎも偽装だったことが判明した例は、職場の人たちの弁護もあり、後、真犯人の共犯者から、その事件の真犯人(某大学生)が判明した。最終的には、誤認逮捕が解けたが、いつも、そのように行く場合ばかりでもなかろう。

当局の捜査方法にも問題があるのかもしれないが、一度疑われると、それが覆ることは少ないように思える。警察官の評価制度に問題があるのだろう。しかし、犯人は迅速に捕まえる必要がある。一体、どのようにすればいいのだろうか。

やはり、こういう時の場合に備えて、「誤認逮捕による冤罪の保険制度」の確立が望まれる。保険金は、犯罪事件の程度、当局の被疑者拘束解除から社会的残存時間への補償、当局の拘束期間に対する慰謝料から成り立ち、最大3億円ぐらいは必要だろう。

損害保険会社は、その難しさを主張するが、それを工夫するのがプロではないか。保険とは、本来、そのようなもののためにあるのではなかろうか。

逆に、当局にしても、誤認逮捕を恐れていては、捜査活動は停滞する。捜査が守りに入り過ぎると、それは社会に良い結果を及ぼさない。保険料を負担しても、捜査活動に支障がないようにすることも大切ではなかろうか。

そして、誤認逮捕が増えて、結果的に保険料がアップすれば、捜査活動の見直しにも寄与する可能性も高い。「誤認逮捕による冤罪の保険制度」を確立することは決して無駄ではないと思う。

いろいろと難しい問題はあるだろうが、当局と保険会社は真剣に検討すべきだろう。そして、一般人は、日常から、人から信頼されるような慎重な行動が望ましいのは言うまでもない。

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2009年1月16日 (金)

防災の心構え

阪神・淡路大震災が平成7年1月17日に起こって、14年経ったが、この震災は、戦争でもあったのかと思われるほど、被災した。流風は、たまたま神戸にいなかったから、助かったが、親戚などによると、逃げる暇はなかったという。

一瞬のことなので、どうすることもできなかった。結局、わかったことは、予防的な準備しか、自らを救えないということだ。しかしながら、震災から時間が経ち、防災意識もやや衰えているかもしれない。

ここで、もう一度、再確認しておきたい。

一、まず、寝ている場合の、震災は、どうしても無防備になる。だから、寝室には、家具を置かないことが望ましい。大きな家具だけでなく、小さい家具も、宙を舞って飛び出すので、注意が必要だ。どうしても家具を設置する場合は、固定金具で固定しておく。

二、日頃から、家屋の中での逃げ場所と、地域の避難場所を確認しておく。いざというときに、なかなか行動できないもの。日頃から意識の中に強く持っておく。

三、そして、身近なところに、携帯ラジオと懐中電灯を常備する。携帯ラジオと懐中電灯が一体になり、手動充電できる防災ラジオが、電池切れを防げてベストだ。

四、寝室には、靴を用意する。それも脱げにくい運動靴が望ましい。部屋中が荒れ放題になると、素足では怪我をする。動きやすい運動靴があることが望まれる。外部への脱出もこれで可能になる。

五、ペットボトルの水を2~3本用意しておく。食料もあればそれに越したことがないが、水に勝るものはない。

六、大目の小銭が入った小銭袋を常備する。携帯電話が使える保証はない。最近は少なくなった公衆電話だが、これは非常時でも通用する。それには小銭が必要だった。

七、できれば、冬対策として、釣用防寒用上下ジャンパーを用意しておく。これは寒さ対策である。また震災以外でも、洪水などに有効だ。

八、また屋内においては、ドアで室内に閉じ込められないようにするべきだが、閉鎖されても、外に出る作業が出来る工具類が部屋内にあればベスト。

もちろん、上記以外でも、貴重品とかの保全とかは必要かもしれないが、まず命を守ることが大切である。もう一度、防災の再確認をしたい。

追記

災害に遭うと、やはり困るのがお金の問題だ。家が倒壊して、建て直すのにもお金がかかるし、ローンがあれば、その支払いもしなければならない。日頃から、それに対する準備が必要だ。

この震災以後、やっと国による災害支援制度が確立されたが、それだけではまったく足りないだろう。兵庫県では、「住宅再建共済制度」が作られたが、加入者は増えないらしいが、危機感が足りないと思う。年間5000円の負担で、倒壊などで最大600万円もらえるのだから、有効な手段と思う。

兵庫県以外では、そのような制度があるのだろうか。震災に遭ってから、この制度を作っても間に合わない。地震保険という仕組みもあるが、保険料が高い現在、この仕組みを全国的に広めたほうがいいと思う。

もちろん、その他にも、震災により収入の道が断たれたりする可能性もある。そんなこんなで、日頃から、堅実な生活態度が望まれる。

また、この震災で気づいたことは、遠くの親類より、近くの知り合いが大切ということ。日常のお付き合いが大切だ。自治会活動にも、積極的に関与したいものだ。

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2009年1月15日 (木)

鋳掛屋のこと

子供の頃、「いかけや~、いかけや~、いかけやっか~」と、言いながら、家を回る行商の人がいた。鋳掛屋さんである。穴あき鍋や穴あき弁当箱の修理や包丁研ぎなどを、出張しながらやってくれるのだ。最近は、そういう風景はほとんど見ないが、当時は、母はお願いしていた。

包丁研ぎの方は、父が砥石を購入して、やるようになったから、頼まなくなったが、アルミ鍋や弁当箱に穴が開くと、頼んでいた。当時は、戦争の影響で、鉄鍋の入手は難しく、ほとんどの鍋はアルミ製が多かったが、品質が悪く、穴が開きやすかったようだ。アルミの弁当箱も、梅干で穴が開くという代物だった。

最近は、鍋に穴が開くようなことはないが、包丁研ぎは、時々、スーパーや百貨店で催しをしている。流風は、包丁を持ち歩くのも面倒だから、自分で磨いているが、父のようにはうまくいかず、出来はイマイチかもしれない。そこで最近はダイヤモンド研磨機なども売っているので、そちらの利用が多いかもしれない。

そのおじさんは、家の前で、火を起こして、ふいごで火力を増しながら、記憶が曖昧だが、こてのようなものを使いながら、うまく穴を埋めていたと思う。穴の下に何かの板を当てて、トンカチしながら、溶接のようなことをしていた。小さい子供時代のことなのに、不思議と思い出される。

ただ、穴が開いても、行商だから、タイミングよく来てくれるとは限らない。鍋は大、中、小とあり、一つではなかったが、適当な鍋がない時は、料理嫌いの母は、それを言い訳にして、作る料理の種類が限られていたように思う。本当に困った母だった。

ただ父の弁当箱に穴が開いたことに朝、気づいた時は、母は本当に当惑していた。結局、しばらく、お弁当の代わりに、おにぎりが続いたようだった。父も恥ずかしかっただろう。少し、母ともめていた。当時は梅干弁当は当たり前で、母の責任ではないのだが。

今は、物が溢れ、傷んだら、すぐ買い替えるようになっているが、物のなかった時代は、修理して使うしかなかった。その心掛けは、今も大事にしたいものだ。

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2009年1月14日 (水)

健康野菜スープを作る

最近は、野菜飲料や青汁がよく売られている。確かに、健康にいいのだろうが、少しもったいない感じもする。そこで、数年前から、野菜スープを作っている。それが健康にいいか医学的なことはわからないが、個人的には、有効のようだ。ということで、厚かましくも、その作り方を紹介しよう(笑)。

一、使うのは、料理で残った野菜の残りくずだ。基本的に緑黄野菜中心に残りくずを用意する。例えば、大根の葉、こかぶの葉、セロリの葉、大根の皮、人参の皮、キャベツの芯、白菜の芯。農薬が気になる方は、水の中に一定時間つけておいて、流し洗いをする。

ただ、注意としては、肉類や魚類は入れない。出汁用のかつおとか炒り子も入れない。あくまでも、野菜で作る。

二、次に、厚手の大鍋に、出汁をとるつもりで、大目の水を入れて、昆布を適量、少し洗って、漬けて置く。

三、次に、干ししいたけを適当な枚数をいしづきを取らずに、そのまま入れる。生椎茸では駄目である。

四、20分ほど経ったら、火を入れて沸かす。沸騰したら、昆布のみ取り出す。

五、次に、料理で出た野菜の残りくずを順次入れて、じっくり煮て、灰汁を取って、出来上がり。超簡単(笑)。

残りくずが揃わない場合は、野菜くずが出た段階で冷蔵庫に保管しておくのもよいが、冬の間は、野菜くずが出れば、順次追加している。夏の場合は、それは残念ながらできないので、貯めておいて、一斉に作る。

スープとして飲むことが多いが、使う材料にもよるが、癖があり、飲みにくいこともある。そこで味噌汁や煮込み料理の出汁にも使うこともある。またスープに使った柔らかく煮込まれた野菜を料理に使えないこともない。中華風に炒め料理にもよいと思うが、流風は、土に漉き込み、堆肥にしている。これで生ゴミは全くでないし、健康にも役立ち、万々歳。

薬膳スープとまでは言わないが、生活習慣病には有効かもしれないと思っている。これを飲むと、体調はいいし、健康診断の結果もよい。本当は、外食やお弁当の多い人には、お薦めと思うが、そういう人は料理はしないだろうから、作ることは難しいかもしれない。その場合は、誰かに作ってもらってください(笑)。

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2009年1月13日 (火)

短時間労働正社員の時代は来るか

製造業への派遣労働禁止について、いろいろ議論があるようだが、非正規社員の増加は、社会保障体制を崩す。いや、もう既に崩しつつある。現在のように、非正規社員を増やしていけば、いずれ、更に無年金、無保険の人々で街は溢れ、社会を不安定化させるだろう。

そして、彼らを救済するために、一般国民に過剰な負担を求めることになるだろう。それは相互扶助とは言え、一部の企業のエゴのために、一般国民の負担を大きくするのは正しいことだろうか。

もちろん、企業にも言い分があるだろう。特に大企業は、国際競争力における人件費コストを主張する。

しかしながら、従業員の後ろには生活があり、家族がある。そこまで経営者は目配りしないと、人は雇ってはならないだろう。中小企業の経営者は、できるだけ、経営コストの見直しや、役員報酬の大幅の引き下げによって、従業員が困らないように配慮している所も多い。

大企業の経営者は規模が違うから、そんなことはできないと言うかもしれない。ただ、正社員だけ面倒を見ておればいいというのは、経営のレベルが低いと言えるだろう。正社員の賃金の引き下げをして、非正規社員の雇用を続けるなどいろいろな方法はある。

労働組合を説得できるかは、むしろ経営者の器にある。また配当の切り下げをして、非正規社員を守る方法もある。こちらは株主をいかに説得できるかにある。それも経営者の哲学や器が問われることである。

だが、今後は、社員を雇用する場合、まず正社員が前提になるだろう。ただ正社員の労働時間8時間の縛りは、確かに、経営者にとって、負担感が大きいかもしれない。正社員化によるコスト負担は、企業は受け入れがたいかもしれない。

解決策としては、短時間労働時間正社員(短時間労働時間は4時間)の制度化が求められるかもしれない。普通労働時間正社員と短時間労働時間正社員の組み合わせが必要になるかもしれない。そして短時間労働者が、労働時間がフルタイムになるのなら、普通社員に転換させることを義務づけるべきだろう。

経営者は、景気によって、適宜、短時間労働時間正社員に残業させたり、普通と短期のバランスで雇用調整させていく。そうすれば、リストラは避けられるので、社会保障の問題もある程度は緩和できる。

もちろん、普通から短期への移行に伴う最低年収保証の問題は残る。また短期労働時間正社員が世帯の主たる収入者である場合、家計が成り立たない。そういうことを考慮して、短期労働時間正社員には、副業を認めることも求められる。その場合は、情報漏洩の問題もあり、副業の紹介も必要かもしれない。

このようにすれば、企業の事情と個人の事情をいろんな形態で、仕事と生活をバランスさせることも可能だし、年金や社会保険で困る人も少なくできるのではないか。

いずれにせよ、企業は人を雇用すれば、その生活にまで、ある程度、目配りすることは大切なことだ。儲かれば、何をやっていいということはない。そして、可能な限り、非正規社員を減らすことは、国家にとっても、民生を安定させるため、大切なことと思う。

*追記

現状、短時間労働者と言っても、正社員とは規定していないし、労働時間は4時間とはされていない。正社員にして、労働時間を4時間に定めるべきと思う。

  (参考)   現況の短時間労働者の雇用管理

                      http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H05/H05HO076.html

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2009年1月12日 (月)

食卓の魚料理が増えた

最近、魚料理をすることが増えた。以前は、週にせいぜい2回、食卓に上がっていたのは、近頃は3回以上になった。理由は、年齢的に、肉料理では、いろいろ問題が出るということもある。だが、現実的には、比較的手頃な価格で、魚が入手できることが原因だ。

昨年は、原油の高騰で、漁業者の皆さんによるストみたいなことがあったが、その原油も落ち着いていることもあるだろう。しかし、最も大きい理由は、大手のスーパーが漁港から直接買い付けることをしたからだろう。そこで以前扱っていた魚は、そんなに美味しくなく、価格も安くはなかった。だが、最近は、魚も新鮮だし、価格も手頃だ。

流風は、煮付けにしたり、蒸したり、焼いたりするが、白身魚の煮つけや蒸したものが好きだ。それには、新鮮な魚である必要があるが、そうした魚は高く、肉より高くつくことも多かった。それが、その店では安く提供してくれるようになったので、魚を購入する機会が増えたわけだ。

日本では、魚の消費量が減っていると言われるが、それはやはり価格が大きく影響していると思う。秋刀魚など背の青い魚や保存食としての加工魚などは、安いことは安いけれど、いつも、そればかりだと飽きてくる。それにどうしても、味が濃くなってしまう。塩分や砂糖を控えなければならない年齢にはちと辛いのだ。

それが白身魚の煮つけや蒸し物だと、さっぱりした味にできるので、ちょうど中高年向きと言えるのだ。このスーパーの直接買い付けには、中間業者からのいろいろな抵抗があるようだが、魚の消費を増やしたいのなら、それはおかしい。既得権益もあるだろうが、消費者にプラスになるような業界の仕組みにしてもらいたいものだ。

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2009年1月11日 (日)

昔の須磨のイメージ

   淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声の

         幾夜寝覚めぬ 須磨の関守

            (源兼昌、百人一首第七十八番)

神戸の観光で、須磨は興味ある面白い地域だ。この点については、以前も多少触れたので、ここで改めて記さないが、場所によっては、意外と観光客が少ないので、ちょっとした穴場なのだ。特に散歩ルートとしては、気持ちよい。

ただ、冬の季節には、ちょっと厳しい。というのは休憩できる屋内の施設が少ないからだ。基本的に、夏の屋外でのレジャーや春と秋の観光を前提としている。冬に観光客を増やそうとすれば、何らかの催しと、気軽な飲食施設が必要だろうが、現状ではペイしないだろう。難しいところだ。

さて、その須磨のことを詠ったのが、先に挙げた有名な歌だ。当時は、貴族にとって、須磨は侘しいイメージが強い。現代のように、移動手段が十分にあったわけでもないから、それは想像上の世界に過ぎない。在原行平のように実際に須磨にいった人は稀であろう。

例えば、『源氏物語』では、光源氏が流されて、須磨のわび住まいをしていると描いている。だが、紫式部も、実際には須磨を見ていないだろう。文学の描いたイメージは一人歩きする。

そして、この歌の作者の源兼昌は、『源氏物語』の須磨の巻を参考にして創作しているのだから、尚更だ。イメージによる作歌に違いない。『源氏物語』の須磨の巻に取り上げられているのは、次の歌だ。

   友千鳥 もろ声鳴く あかつきは

        ひとり寝覚めの 床もたのもし

源兼昌の歌は、光源氏の心理を須磨の関守に重ね合わせながら、詠んだものだろう。実際、冬空の下で、須磨や明石の海辺に立ち、ぼぉっと見える淡路島を眺めると、寒さで、この歌の心境になるから、源兼昌の洞察力には、恐れ入る。

しかし、現在は、須磨は、そんなわび住まいのイメージはなく、住みやすい地域になっている。確かに、冬の海辺の寒さは、多少侘しい感じもしないわけでもない。だが季節によって、感じる落差が大きい場所としては面白い土地だ。

そして震災では、古い家は大きく傷ついたが、今は大半は回復している。海と山を同時に経験できるので、歳がいくと、こういうところに住んでみたいと思う人は多い。イメージも時代と共に変わるものだ。 

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2009年1月10日 (土)

小松菜料理

正直言って、小松菜はあまり好きではなかった。大体、母から教えられた方法は煮炊きすることが多かったから、揚げや天ぷらと一緒に炊くぐらいで、どうも味がワンパターンだった。

ただ、小松菜は、中高年には、健康にいいとのことで、積極的に食するのには、どうすればいいか考えていた所、先日、料理ブログや料理本で、たまたま小松菜を炒める料理が紹介されていたので、試してみた。これが意外と美味しくて、この歳で新しい発見である。

一つは、小松菜を3センチ程度に切って、ごま油で炒めて、酒、醤油、塩などで味付けし、ちりめんじゃこを散らす簡単なものだ。

もう一つも、似たようなもので、小松菜と人参と豚肉をサラダ油で炒めて、酒、醤油、塩で味付けして、すりゴマを散らす。

両方とも、そのまま食べてもいいし、混ぜ御飯の具にしてもいい。最近、料理のレパートリーがワンパターン化していたので、もう少し工夫してみようと思う。

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2009年1月 9日 (金)

安田善次郎の蓄財

安田善次郎と言えば、戦前、安田財閥を築いた逸材だが、そのやり方はえげつなかった(「えげつない」という言葉がわからない方は、ネットで調べてください)と言われる。多分、多くの人々に恨まれていただろう。実際、彼の無惨な最後は、それを象徴している。

しかしながら、彼の経営センスは、ある意味、ユダヤ商法に通ずるもので、国際ビジネスでは、有効な考え方かもしれない。但し、このやり方は短期的には通用するが、長期的には、信用されない。彼は、どちらかというと、策士だ。

だが、当時、財閥を築き上げた先人は、皆、そうであったとも言える。一般に、策士は策に溺れるが、彼は商売に関しては、そういうことはなかったようだ。全て計算ずくで、事実、彼の思惑通り、獲得したいものは全て得た。結果的に、人を騙すことになるので、多くの人々に恨まれた。

彼に欠けていたものを強いて挙げれば、それは社会の気持ちを無視したことだろう。自分だけよければ、それでいいという考え方だった。敗者への思いやりにも欠ける。勝ち過ぎるのだ。商売と言う戦争に勝つには、何をやってもいいという考えが、彼の意識の下に横たわっていたことは間違いない。

もちろん、それでも、彼のやり方が全否定されるわけでもない。商売においては、目先が利くことも大切な成功の要因だ。彼は考えたことをすぐに実行したし、即断即決の行動力は大変評価できる。ただ、孫子の兵法は学んでいなかったようだ。百戦百勝が危いということを理解していなかったのではと思われるのは、少し残念だ。

ただ、その彼が晩年、人々に貯蓄の大切さを問いている。まず、貯める決心をして、実行し、継続すれば、誰でも、蓄財できると説く。そのための心構えとしては、次のようなものを示している。若い人には参考になるかもしれない。

まず第一に、とても無理な貯蓄計画をしないこと。

できない計画を立てると、結局、早期に挫折する。まず可能な第一目標を立て、現実的に貯蓄する。貯蓄の芯「タネ銭」をまず貯蓄し、貯蓄の基礎を作る。

第二に、少し貯まっても、誘惑に耐え、使わないこと。

貯蓄に最も大きい障害は、「見栄」だと指摘する。現代は買い物の欲望を刺激してくるが、買う前に、何回も考えるくせをつける。「タネ銭」を流用しないで、地道に、ひたすら大きくしていく。

第三に、一攫千金を狙わない。それはむしろ財産を失う素だ。

うまい投資話などには乗らない。それに運用で増やすと言うのは、簡単ではない。「貯蓄から投資へ」と、政府は、その旗振りをしたが、無責任、この上ない。細かいことを言えば、宝くじなどはナンセンスと言える。そんな無駄遣いをする余裕があるのなら、貯蓄すればいい。出ずるを制することは大切なのだ。

第四に、こつこつと辛抱強く貯蓄すること。

最初の芯(タネ銭)ができれば、後は時間が経つにつれて、雪達磨式に増えていくことを、知るべきだ。それは現在のデフレ時代も変わらない。貯蓄のくせがつけば、次の段階に自動的に進む。まあ、その前に、しっかり働くことが大切だけれど。働いて稼ぐことは、貯蓄の最大の第一歩だと説く。

このように彼の金銭感覚は当たり前と言えばそうだが、鋭い。彼の成功は、その金銭感覚がベースにあったとも言えるかもしれない。まあ、上記の四項目は、簡単なようで、なかなかできないのが、凡人だが、逆に言えば、決心次第で、誰にでもできるとも言える。

そして若い時に、早くそれに気づいた人は誰でも、安田のように成功するかどうかは別にして、ある程度蓄財できることになるのだろう。この安田の蓄財の教えは、まさに正鵠を射たものだろう。ただ流風のような年齢になって、気づいても遅すぎる(苦笑)。

*追記

彼の言いたいことは、次のような意味だったのかもしれない。

商売や投資の成功で、財産を増やした人は、少ないということを、しっかりと認識することは大切だ。一般庶民は、仕事をしっかりして、生活を堅実にすることが賢明だということだろう。

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2009年1月 8日 (木)

国家戦略における集中と分散

世の中、AかBか、あるいはAか非Aかなどの議論がされることがある。年初の、ある討論番組では、小泉政権を支えたブレーンたちと、それを否定する人々の議論が、喧々諤々とされていた。議論は平行線をたどることが多く、参加者は、それぞれ自分の考えに捉われている感を深くした。

もちろん、全ての人の意見は、それぞれ正しいのだろう。だが、意見の一致を見ることはなかった。結論から言えば、全ての政策は、環境条件に左右されるということであろう。いまだに、小泉政権の政策が全て正しいという人はいないだろう。当時と日本を取り巻く環境条件が大きく変化した。

国家は、基本理念は維持しながらも、その政策は、環境に合わせて適宜変えていく必要がある。もちろん、政策に完全なものはなく、実際には、A政策と非A政策は混在する。二項対立的な政策は、大きな軋みを生む。だが、あまりにも曖昧な政策は、世の中を混沌とさせる。それが今の日本の現政権であろう。

同様に、国家戦略においても、時代によって、集中と分散がある。これは政策と異なり、そんなに頻繁に変更されても困るが、時代の大きな流れの中では、国家戦略は変更させる必要がある。戦略の集中と分散は以前にも多少記したが、次のように示される。これは国益を踏まえて選択される。

  <集中>

       ナショナリズム

       国家主義

       内需中心主義

       閉鎖的

       多様化

       世界の多極化

       格差是正

       保護貿易

  <分散>

       グローバリズム

       世界主義

       貿易中心主義

       開放的

       世界同質化

       世界一極化

       格差拡大

       自由貿易

上記のように見て行くと、集中と分散のどちらがよいとか悪いとかは、一概に言えないことがわかる。あくまでも、時代の流れに合わせて、どういう戦略を選択するかという考え方が問われている。

つまり、何もかも、世界と同調するのがいいとは言えないし、いつも国際世論を無視していては、国家の存在価値が危くされるかもしれない。このバランスをどうするかは、為政者の哲学と意思によって左右される。

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2009年1月 7日 (水)

プレイボーイと狂言『業平餅』

『伊勢物語』では、プレイボーイぶりをいかんなく発揮する在原業平は、彼の時代以後も、実際よりオーバーに表現されているだろう。まあ、有名税みたいなものだ。実際は、彼の行状でなくても、彼の仕業にしてしまった場合も多いのではなかろうか。それに、彼のブランドにしておけば、観客の反応もいいから、さらに大袈裟になっていく。

それに、前にも記したが、女性はブランドに弱い。天皇の血筋であり、男前であれば、どこかの追っかけみたいに、キーキャーと当時もあったに違いない。ちょっと見つめれば、妄想に走り、尾ひれがいっぱいつく。後の時代の女性たちも、恋憧れたに違いない。女性にとって、理想化された男性像よりも、少し危なっかしい男に惹かれるものだろう。

それは女性を対象とした観客に受けるためにも、創作活動にも取り入れられたことだろう。例えば、能や狂言だ。もちろん女性の観客を意識してのことだろうが、作者は、プレイボーイの裏側を描いて、女性に忠告しているとも受け取れるだろう。

例えば、狂言『業平餅』も、その一つだ。これは業平が傘持ちなど多くの家人と共に、和歌の神様を祀る玉津島明神へ参詣の途中の話ということになっている。和歌を詠みながら歩いていると、餅屋の前を通りかがるが、大体、お金を持っていない。当時の殿中人は、お金を持ち歩かない。

今でも、現金は一切持たず、カード主義の人もいるようだが、当時は、貴族は、そのようだった。お金なんて、賎しい者が持つものと考えていた。しかし、その後、貴族は没落し、お金を無視した生活はありえなくなる。業平の時代は、まだ、のんびりした時代だったのでしょう。

さて、お餅を食べたい気持ちは止まない。人間、お腹が減ると、食欲に身分の上下はない。そこで、小町の話(雨乞いの歌を詠って、奇跡が起こり、見事、雨を降らせたことにより、帝から褒美として、餅を賜ったという逸話)をしてやるから、それで餅を食べさせよと言うが、餅屋の主人は、それはできないと言う。

それではと、業平は、鏡餅から始まり、草餅、桜餅などの「餅尽くし」の謡を謡う。今だったら、海苔餅、納豆餅、きな粉餅、あんこ餅、大根おろし餅、焼き餅、汁餅などいろいろ考えられるが、当時の餅は、実際、どれくらいの食べ方があったのだろうか。食いしん坊の流風は、関心がすっとそちらの方にいく(笑)。

話を戻すと、さすがに、主人も関心を示し、家人に、「どなたさまですか」と問い、在原業平と知る。そこで、自分の娘を奉公させてくれるのなら、お餅を差し上げてもよいと約束。「奉公」させるとは、愛人として差し出すこと。

曖昧な返事をしていると、主人は娘を迎えに行く。その間に、業平たちは、お餅を盗み食いして、急いで、たらふく食べようとするが、咽喉につかえて、大変。それでも、食べ続けている。ちょっと茶化しすぎじゃないかい、狂言の作者よ。彼らは、そこまでも卑しくないだろう。ここら辺は、街中の感性。

ところが、主人が連れてきた娘の容姿を見て、あらっ、びっくり。とんでもない醜女だった。これはたまらんと、傘持ちに押し付けようとする。彼女を見ていない傘持ちは、最初は乗り気だったが、顔を見て、(実際はいないのに)決まった女性がいるのでと、急に尻込みして断る。結局、最初喜んでいた娘は取り残され、悲しむ、というような筋。

人間、外見が大事ということか。流風も、若い頃、まったくオシャレとは程遠いところにいたので、ある先輩から、もっとちゃんとすれば、異性は寄ってくるのになあ、と言われたことがある。その当時は、仕事に集中して、そういう方面には、関心がなかった。まあ、まったく関心がなかったのは嘘だが、邪魔臭いの域だった。別に女嫌いじゃなかったよ(笑)。いわゆる、むっつり助べえ(笑)。

また脱線してしまったが、業平は面食いで冷たいなあ。『源氏物語』の光源氏と違うね。でも、あれは紫式部の理想かもね。また時代は下がるが、明智光秀は、婚約していた妻木熙子(つまきひろこ)が、疱瘡になり、顔はあばた顔になったが、それでも彼は婚約を解消せず、妻を大事にしたとのことである。そのため、妻は恩義を感じ取り、光秀に一生尽くしたという。こうでなくてはね。難しいことだけれど。

それにしては、業平は、あまりにも軽すぎる。それがプレイボーイというものかもしれない。そして、概して、女性はプレイボーイを好きになる。まあ、こまめだから。女性にもてるには、こまめじゃないとね。だが、釣った後は、餌をやらないということになり、別れが待ち構えている。業平も、『伊勢物語』では、それを繰り返している。学習能力なし。今でも、そういう男いるねえ(笑)。でも、お餅のために、約束をしてしまうとは、シナリオとしては、ちょっと行き過ぎじゃないかえ。

まあ、この狂言は、業平の御乱行を皮肉ったものとも言える。お餅を食ったとは、「女を食った」とも言えるかもしれない。現代のプレイボーイも、新作の狂言の台本にされないように注意した方がいいよ。あの世に行ってからも、舞台で笑われ続けるから。

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2009年1月 6日 (火)

デフレに向けた年末年始のバーゲン

年末年始に、不況対策として、各社在庫処分を急いでいるようだ。百貨店、家電量販店ともに、結構、いい価格で、バーゲンをしている。福袋も例年より中身がかなり充実して、相当割安だったようだ。流風も、ある食品を買ったが、割安だった。昨年、その中の一部を買ったのだが、それと比べると、価格が全く違う。明らかに在庫処分だ。

また、年末には、家電量販店が、在庫処分市をやっていたので、行ってみたが、いつもの売り出しより、かなり安くなっていた。ということで、古くなった炊飯器を買い替えた。それにしても、最近の炊飯器は高いものが並んでいた。

十万円近くもする炊飯器には、さすがに手が出なかった。比較的安い物を、相当安く提示してあったのだが、レジで更に割引には、少し驚いた。ここも、在庫処分を急いでいるのだろう。おそらく、家電メーカーが在庫処分が後押ししているのだろう。

デフレ対策としては、メーカーにしろ、流通にしろ、在庫を最小限にすることが大切だが、日本企業は、そういうことには慣れていて、在庫処分を急いでいることがわかる。いわゆる換金だ。在庫を死蔵させて、経営を悪化させる企業はかつて多かったが、最近は在庫削減は常識になっている。

消費者にとっては、確かに有り難いが、これはいつまでも続くわけでもない。問題は、企業の次の一手だが、今後はどのような販売になっていくのだろうか。ユニクロのような新しい商品で、市場に臨むのも、一つの方法だろうが、女性市場を除いては難しいだろう。

結局、いい物を安く売るか、小ロットを売り切りで限定販売するような形になるのだろうか。市場の気持ちを観察しながら、適切に対応するのがいいのだろう。

それにしても、英国の陶器会社「ウェッジウッド」が経営破綻したようだが、どこかでバーゲンしてくれないかな。ちょっとコーヒーカップセットが古くなったので、買い替えたいので(笑)。

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2009年1月 4日 (日)

日本の新聞社の行方

毎年のことだが、元旦の新聞は、ご祝儀とは言え、やたらと分厚い。ただ、くだらない記事に、広告が多いだけのことである。2日が新聞休刊日なので、2日分の記事を集めたものとも捉えられるが、そんなに内容はない。たくさんのゴミが増えて、困るだけだ。

ところで、昨年の米国の新聞紙トリビューン社の破綻は、日本の新聞社にとっても、ドキリとする報道があっただろう。トリビューン社の破綻は、ネット新聞の普及により、新聞の部数が減ったことと言われる。

日本の新聞社にも、同様に危機は迫っているかもしれない。実際、朝日新聞は赤字を出したし、毎日新聞、産経新聞も、半期営業赤字だそうである。日本の新聞社にも、危機はひたひたと押し寄せている。

日本でも、読者は減っており、ネット情報の普及により、若者が新聞を読まなくなったことが原因と言われる。各新聞社は、それへの対応が遅れているのかもしれない。現代は、情報入手が多様化しており、新聞が唯一の情報入手手段ではない。

だから、新聞社は、多様な情報提供手段を持つ必要がある。単に新聞の部数を増やすだけでは、企業としては成り立つことはありえない。つまり新聞社の危機は、その経営センスと戦略が不足しているものと推定される。そういう意味では、一言で言えば、旧態依然ということになる。

さて、流風は、ずっと前から、一般紙は継続購読していない。基本的に、ネットで情報を得て、関心ある情報があれば、それぞれの新聞を、コンビニや駅の売店で適宜購入している。比較的、良く購買するのは、神戸新聞、毎日新聞であろうか。日経新聞、朝日とか読売とかは、ほとんど読まない(*注)。

つまり、日本の一般紙は、皆、情報の出所が似ており、個性がないので、全紙を読む必要はない。独自情報が極めて少ない。日本経済新聞は、その情報が他社とはやや異なるが、それでも、経済面を除けば、あまり変わらないだろう。

もちろん、政治・行政の基本的情報は共通情報は必要だが、その他の情報までも、なぜ、そうなるのかは、いろいろ考えられるが、各社が横並びを好む傾向があるのだろう。また、見方によっては、記者クラブの情報に胡坐をかいているのではないか。新聞記者のレベルが落ちていることも否めないし、編集者の横並び意識も強いのかもしれない。

だが、他社紙に掲載された情報が、自社紙にないというのは恥だと思うのは、どこかおかしい。読者からすれば、各社のスクープは、それはそれでいいと思う。他紙は、別にスクープを抜かれても恥と思わないことだ。それぞれに強い分野の情報が強くて、その分野のスクープをすればいいことなのだ。

ところが、トップ層や編集者はそれを許さない雰囲気があるのだろう。そこで、同じ情報を追いがちになり、無駄な活動をしていると指摘できる。そういうことが、記者の意欲を削いでいるのかもしれない。

その結果、どこも似たような記事になってしまう。だから、読者は、一般紙をたくさん読むことはナンセンスとなる。一日の間に報道される重要なものは限られる。それなら、ネット情報だけで十分となる。それだけ新聞を読む価値が落ちているのだ。

もちろん、各社共に、報道姿勢は異なるので、報道内容は、その情報の選択・解釈において、違っているとも言えるが、その情報の出所は限られているから、結局、それに賛成か反対かという報道になりがちだ。行き過ぎれば、それは意見報道になってしまう。それは本来の報道ではないだろう。

むしろ、これからは、各社の強みを明確にして、独自の情報を獲得して、流し続けることが求められる。そうすれば、読者の信頼感も増す。総合的な情報紙であると同時に、部分的には、限られた情報を限られた人々に、というキャッチフレーズが望ましい。これからは新聞社がそれぞれ独自性を保たないと経営は厳しくなっていくだろう。

それでは、今後どのようにすれば生き残れるのだろうか。個人的見解を少しだけ示しておこう。

まず、各社、読者のターゲットがぼやけているような気がする。それは部数を伸ばす戦略で、闇雲に記事の内容を八方美人的に拡げてしまったことが、その個性を失い、面白いものでなくしている。そのことを改める必要がある。

次に、ネット対策である。ネット情報も、基本的に新聞社等の記事や情報がある程度ベースになっている。本来、持ちつ持たれつの関係であるはずなのに、ネットにのみ有利に働き、新聞社には、あまりメリットがないというのは、シビアに考える必要がある。

ネットに情報を流すのであれば、それなりの見返りがなくてはならない。それをどうビジネス化するか。相互にビジネスメリットのある手法を業界全体で開発すべきだろう。

そして、次には、情報の多様化への対応である。今までも、新聞社は、系列の雑誌や、フォト誌、経済誌、ネット・携帯への情報提供をしているが、それは十分に活かされていない。極めてマニア的な読者しか獲得できていない。

これらは新聞社の付属という位置づけでピラミッド的に下位グループとしてであれば、本来意味をなさない。むしろ新聞社と同列として扱い、各社は独自の展開・営業力が求められる。それらが同期・競争することによって、記事レベルが上がっていく。そうすると、読者は、それぞれに違った関心を示し、購読層に厚みを増すことになるだろう。

それと合わせて、新聞紙情報の流通の多様化も求められる。毎日、朝刊と夕刊を配達すべきなのか。それを必要としていない読者もいるはずだ。朝刊のみ、夕刊のみ、サマリーを週末にウィークーリーのみ、土日のみ等、いろんな配達形態と、価格体系を作り上げるべきだろう。

また関連雑誌の配達も、積極的にやればいい。雑誌等は郵送され、新聞店から配達されないのは疑問が残る。もっと言えば、他誌の配達をやってもいいのではないか。

ざっと、見ただけで、疑問はいっぱいだ。新聞各社は、各業界の批判はしても、自業界は何も見えておらず、改革もできておらず、旧態依然なのは明らかだ、早急な自己改革が望まれる。

*注

新聞社各社には、それぞれ成り立ちからして編集傾向がある。

日本経済新聞は、大体が財界や官界の提灯持ち記事が多い。それは彼らを主として取材先としてきたから、情報入手には、彼らに寄り添う記事が、どうしても増える。だから記事内容は偏る。(*追記。また、秘密保護法により、官界からリーク情報はなくなり、より記事に魅力はなくなった。もう一度、その存在意義を整理し直さない限り、部数を減らしていくだろう)。

朝日新聞は、成り立ちは別にして、戦後は、中国、朝鮮半島寄りの記事が多い(戦前は、反対に戦争を煽った)。どちらかというと、ヒューマン精神先行のため、「思い」を強く紙面に反映したがる。よって、かつては思い込みによる捏造記事もあった。最近は修正され、バランスを採るようにしている。政治的立場は、反自民、左派と目されてきた。やはり、この新聞の課題は客観報道だろう。

毎日新聞は、全体としてバランスが取れているが、はっきりしない立場を採るため、白黒をはっきりさせたい国民性に反し、部数を減らしてきた。ただ、こういう新聞は必要だ。また速報にやや弱く、記事が遅れる傾向があったため、現在は主たる国際、政治、経済記事は共同通信と提携し、記事に反映させている。自社の記者には、特定のテーマを決めて取材させ特集して、内容が充実するようになった。政治的立場は穏健平和主義重視だ。

他に、神戸新聞等、地方新聞があるが、全体報道記事は共同通信に依存し、各社は地域に根差した情報入手により、地域の特性を活かした紙面構成になっている。

*追記

なお、産経新聞は、最早、一般紙として読む価値はない。極論が多く、国家主義的報道を重視した保守、右翼の意見を代弁して、やたらと野党批判し、嫌中、嫌韓を徹底し専門紙化している。昔あった総会屋の発行する雑誌と傾向が似ている。更に、偏った見方をして誤報も多い。不偏不党を考えると、コンビニは取り扱いを止めるべきだろう。それに、ほめ殺しになりかねないので、自民党にとっても、やっかいな新聞だ。

また、読売新聞も、自民党お抱えの新聞に成り下がってしまった。産経同様、不偏不党とは決して言えない。一般国民は読む価値はない。もともと会社の成り立ちからして米国の意向を強く反映させる(但し、米国民の世論を反映したものではない。あくまで支配層の意向)。

ある意味、米国系新聞と理解しておれば分りやすい。よって米国の思惑が強く反映させる。政治的立場は右派とされてきて、自民党とは密着していて、広報紙的役割を担っているため、よいしょばかりして、政権批判できない堕落新聞になっている。また、時事通信社と連携している(ここも自民党寄りの偏向報道が目立つ)。自民党にすれば心地よいかもしれないが、危うい存在でもある。

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