為政者と庶民の生活
日出でて作(はたら)き
日入りて息(いこ)う
井を鑿(ほ)りて飲み
田を耕して食う
帝力我に何かあらんや。
最近の為政者は、おおっぴらに庶民の生活を見学するようだが、昔の偉い為政者は、お忍びで、庶民の生活状況を観察したものだった。自分の知っている国民の状況と本当の国民の生活状況にズレがないか確認したのである。
あの水戸黄門が全国を行脚したというのは創作で、彼は水戸藩を一歩も出ていないが、その代わり、家来に命じて、民の生活を報告させたという。ただ家来がどの程度の正確さで、庶民の生活を伝えていたかはわからない。間接情報には、歪みが伴うものだ。
子供の頃、糸電話で、最初に話した内容が、最終者には正確には伝わらなかった経験をお持ちの方は多いだろう。あれは社会、企業社会でも同じで、中間に介在者があると、当初の意図とは違った伝わり方をする。
そういう意味では、私達がマスコミ等を信用するのは危い。だが、いつの間にか、刷り込まれていることもある。自分自身をもっとしっかり持たなければ現代は厳しい。
さて、また脱線してしまったが、最初に挙げた歌は、『一八史略』にある。ある老いた百姓が、何かを食べながら、腹を叩いて、木ゴマをぶつけ合って遊んでいた。そして、この歌を歌っていたのだ。これを聞いて、お忍びで町に出ていた中国の皇帝、堯は安心したと云う。人々の生活が皇帝のことを気にすることもなく、安寧にやっていると。
もちろん、この話は創作だろう。作者の意図は、若い皇帝に、皇帝というものは、そうあらねばならないと諭して作ったように感じられる。大きい組織では、トップには、いつも正しい情報が伝えられるとは限らない。だから、正確な判断が出来るように、多様な情報ルートを持たなければならないということだろう。そのための一つの手段が、直接の多様な視察だ。
現代の日本でも、為政者は正確な情報入手に心掛けてもらいたいものだ。内密に、こまめに庶民の状況を視察して、その状態を把握することは大切だ。そして、多様な情報入手ルートを確保すべきだろう。マスコミ報道で知って、始めて動くようなことのないようにしてもらいたいものだ。
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