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2009年2月28日 (土)

輸出企業は経営者を変えろ

関西の某家電大手の2009年度のスローガンは、「打って出る!」だそうだ。しかし、あまりにもタイミングよく、リストラ15000人とは、恐れ入った。中国でも、リストラで問題になっているようだ。もう、どの会社か、お分かりですね(笑)。

この会社の創業者は、リストラしないことで有名だったが、企業規模が大きくなりすぎて、そういうことはできなくなったのだろうか。それとも、創業者の遺志は無視され、欧米風の経営になってしまった結果だろうか。この会社も、普通の会社に成り下がってしまったのか。

確かに、あのグリーンスパンが、「百年に一度の危機」とか言ったため、それが流布されているようだが、経営者が見通しを誤ったことの言い訳に使うのは、感心できない。もちろん、グリーンスパンの言い回しに、多くの人間が騙されたのは事実だろう。そう考えれば、今回の急激な環境変化は、確かに完全に無傷な企業はないかもしれない。

しかしながら、彼は、既に危険を感じて退任しており、相当前から、危機は予測されていた。それを注意深く観測しておれば、危機に対する準備はできていたはずだ。だが、経営者は、初めて聞くが如くに、驚愕し、対応に追われている。

かの創業者は、「人を残す経営」をやっていたが、今の経営者は、目先の利益に捉われて、真の利益の出し方がわかっていないのだろう。数字を機械的に追いかけるから、中身のない経営になる。非正規労働者を過剰に使い、人を育成せず、モノ扱いするから、「人」というものが見えなくなっている。

ある経営者も言っていたが、非正規労働者の活用により、社員のモノづくりに対する改善運動が停滞しているという。モノをただ機械的に作って、不良品はなぜ出たかも追求せず、捨て置かれるという。コストだけ見て、非効率は御座なりにされる。

そういうと、車のリコールの多さも気になる。日本のモノ作りが揺れている証拠だ。以前、別の大手の家電メーカーの洗濯機を買ったが、明らかに製造ミスだった。すぐに交換すると言うことだったが、交換すれば、それでいいというものではないだろう。そして、その型式はいつの間にか、売り場から消えている。

日本の製造業は、その原点に戻り、人材を育成し、その成長以上の、企業の成長を求めないことだ。そんなことをすれば、国際競争に打ち勝てないというかもしれないが、日本の製品は、それはきっちりした日本文化が織り込まれてこそ、その価値が認められる。

何も発展途上国と価格で競争することだけが生きる道ではなかろう。国内では、付加価値の高い商品作りを目指し、海外では、その国の発展段階に合致した低価格の商品作りをその国で生産することが大切だ。

もちろん、多くの輸出企業は、そういう態勢が出来ているにもかかわらず、円高で大騒ぎし、国に景気対策を強く要望するのは明らかにおかしい。企業の国際戦略をはやく整備して、人を中心とする経営に力を入れるのが当然の姿ではなかろうか。

米国の新自由主義に乗っかって、過大に輸出した結果が、現在の大企業の実態だろう。そのための雇用調整で、多くの労働者が被害を被っている。もっと地道な経営姿勢に戻り、日本企業として、あるべき姿を、投資家をはじめ、多くの利害関係者に示すべきだろう。

大企業経営者には、今、大きな意識転換が求められている。そのためには、経営者を総入れ替えすることが大切だろう。過去の成功体験が、自己改革を阻害していることを、新自由主義経営をしてきた人々は悟り、身を引くべきだろう。

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2009年2月27日 (金)

磯の鮑の片思い

ある落語(*注)で、地主の所に婿が来るというので、少し足りない男が、長屋からのお祝いとは別に、鮑を持っていくシーンがある。お祝い返しを別途、期待する女房にそそのかされて、それを持って行った男に、地主は、彼の女房のやり方を見抜いて腹を立て、いちゃもんをつける。つまり、「磯の鮑の片思い」と言われる鮑をお祝いの品として持ってくるとはどういうことだ、と。

男はびっくりして取って返すが、途中で鳶の頭に出会い、事情を話すと知恵を授けてくれる。「祝い物には、すべて熨斗(のし)をつけるが、その熨斗を返すかって言ってやれ。熨斗というものは、鮑から作るものだと」。それをそのまま言うと、地主は感心して驚くが、所詮、借りてきた知恵には限界があり、逆に地主に突っ込まれる。それを何とか切り抜けるという話だ。

借り物の知恵で、自分の知恵のようにいう人は、現代でも多いが、身に付いた知恵と借りてきた知恵とでは雲泥の差がある。流風も、そういう過ちをしている可能性があり、この男のことを笑うことはできない。ご用心、ご用心。でも、この男は、地主から、鮑の代金より大きいお祝い返しをもらったであろう。知恵のない者も、周囲にアドバイスを素直に聞けば、いいことがあるのかもしれない。まあ、一番得をしたのは、最初に、そそのかした女房か(笑)。

ところで、前振りが長くなったが、先に出で来た「磯の鮑の片思い」は、片貝ゆえ、そのように言われるのだろうが、昔の人はうまく表現したものだ。でも、世の中、両思いは稀なことのようにも思う、皆さんは、どうだろう。

若い頃、小心者の流風は、ちょっといいなあと思った女性に話しかけられなくて、随分と片思いで悩んだものである。大体、気軽に話しかけるということが出来なかった。時々、興味のない女性から話しかけられたが、それはそれで対応に困ったものだ。嫌なものは嫌という態度をどうしてもはっきり示すので、女性たちからは嫌われたものだ。

まあ、人見知りが激かったのは事実だろう。今でも人見知りはするかしもしれないが、以前ほどではないだろう。世の中、いろんな人がいる。先入観と実際に会って話すのとでは、大きな差異があることが多い。まあ、今となっては、片思いも懐かしい経験だ。流風の受ける第一印象なんて、あまりあてにならないことがわかったからね(笑)。

*注  落語『鮑熨斗』

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2009年2月26日 (木)

新自営業の時代

今の日本は、大半がサラリーマンだ。だからサラリーマン社会と言えよう。しかしながら、そのサラリーマン社会にバブル崩壊後、歪が出て、十年以上になる。派遣や請負の問題が大きくなるのは、その比率が大きくなったことだろう。

だが、いかに、これから政策変更したところで、全てが解決するわけでもない。派遣や請負の人が全て正社員になれるわけでもないし、正社員も、これからはいつまでも正社員でおれるわけでもない。経営者が欧米式の経営に拘る限り、これはなかなか難しい問題だ(これらの経営者は、大きく方針変換しないと、未来の日本が危いことは明らかだが)。

だから、当面、非正規雇用の方々は、新しい挑戦が求められるだろう。もちろん、指示待ちに慣れた製造系の人々は、考え方の転換が求められる。そして、もっと自分が主体となって、顧客に近い仕事を作り出すことを検討すれば、案外未来は開けてくるかもしれない。

今までの所得の方がいいから、踏み切れないとか考えずに、一からやり直して、ビジネスを作るつもりで臨んで欲しいものだ。指示されるより、指示する方にまわれば、それは案外楽しいものである。それは所得の問題ではない。

もちろん、国が期待するようなベンチャービジネスの可能性は薄いだろうが、顧客に近い所でやるサービス系の仕事は、発想次第で、いくらでもある。そのためには、消費者の望んでいることを人と接しながら、把握することが重要だ。

決して机上の論理でかなえられるものではないだろう。顧客に聞けば、いろんなアイデアが出てくる。顧客のちょっとした困っていることに、ちょっとスパイスを利かせれば、それなりのビジネスになる。

最初は、そんなに大きいビジネスを目指す必要はない。可能性が出てくれば、少しずつ拡げればいいのだ。最近話題になっている農業や、林業とか、地方の福祉・医療周辺ビジネス、衰退した商店街など、新たな切り口(*追記)で、いろんなマイクロビジネスとしての新自営業が可能だろう。

必要なものは、主体性を持った、ちょっとした、やる気だ。後は、人とのつながりを大切にすれば、未来は開ける。

*追記

例えば、生産業と思われている農業でも、単に作るだけでなく、いかに消費者の立場に立って、考えるかが大切だ。つまり、そこに求められるのは、マーケティング戦略の確立、顧客満足志向、顧客の立場に立った流通再構築ということになる。

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2009年2月25日 (水)

「士」の心がけ

ある書物(*注)に「士」のあるべき達人の心がけについて、触れている。「士」とは、国民の上に立って、重要な仕事をしている人たちを指す。武士の「士」も、本来、そういう意味を持つ。それでは、その心がけについて、若干の注釈を加えて紹介しておこう。

 一、士は貴ぶべき行いをすることはできるが、世間から必ずしも貴ばれる保証はない。

士というものは、常に、高い理想を掲げて、それが達成できるように努力しなければならないが、国のためと思って、やったとしても、それが全て評価されるとは限らない。常に批判される立場にあるが、それを乗り越えて、正しく導かねばならない。

 一、用いるべき才能を磨くことは出来るが、当世に必ず用いられる保証はない。

常に能力を高めるために切磋琢磨しなければならないが、それを使う、時と人に恵まれなければ、使われることはない。しかし、それでも、努力しなければならない。また無理して、使われようとしてはならない。

 一、粗末な服を着て、野菜を食べ、釣り糸を垂れ、ウサギを追っていれば、心は満足、これで一生終えてもいいぐらいに思っている。

いろいろ努力しても、報われないかもしれない。そういう覚悟をして、日々質素な生活を送りながらも、いざと言う時のために準備は怠りなくやっておく。自分が使われても、使われなくても、いいぐらいの自然体が大切である。

 一、冠をつけ、馬車に乗り、朱や紫の印綬を帯びることがあっても、もとから持っていたように平然として、布衣(ほい。庶民)の時と少しも変わらない。

仮に、高い地位を与えられようと、それまでと何ら生活態度を変更することはない。自分は常に自分であり、地位という飾り物の衣服が付いたところで、自分の本質が変わるだけでない。いつでも脱ぎ捨てる覚悟が大切だ。

これらの言葉は、日本の政治家や官僚にどのように届くだろうか。日本の政治家や官僚がサラリーマン化して、それぞれの仕事で所得を稼ぐことが重要な意味を持ってしまっている。これは忌々しき事だ。初心に戻って、常に志を新たにすることが求められる。

しかしながらも、民間にあって、「士」に値し、高い志のある人を支え、育てることも、必要だ。彼らが失意の時に、私的利益を超えて、支援することは、一般人も大切な心がけと思う。彼らを育てるのは、国民自身でもある。

*注

中国の古典『抱朴子』(翻訳、本田済、平凡社刊)より。

 

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2009年2月24日 (火)

継子いじめにあった姫~中将姫

昔から、継子いじめはある。子供時代、継母にいじめられている近所の子供さんがいた。流風とあまり歳は変わらなかったと思う。いじめにあっている現場は見たことはないが、母は、子供さんが折檻されているという噂話をよく近所の人としていた。

場合によっては、食事を与えられないこともあったようで、近所の人は、可哀想に思って、食事等を与えていたようだ。その後、引越しされたので、その子供さんがどのようになったかは知らない。普通なら、横道にそれて、ぐれてしまうだろうな。

自分の子供でも、親子は多くの行き違いがあるのに、まして血のつながっていない子供とは、コミュニケーションを取るのはなかなか難しいのは確かだろう。でも、子供がいることを覚悟で、嫁いでいるのだから、子供がなつかなくても、それは耐えるべきだろう。

最近では、継父の継子いじめが目立って報道されている。継母と同様に、難しい問題だ。子供を作りながら、安易に離婚して、また、すぐ再婚しようとするからおかしくなる。再婚する親に、子供はいい迷惑だ。新しい親にすぐ馴染むというのは、安易過ぎる考えだ。

さらに再婚相手との間に子供が生まれれば、余計に事態は複雑になる。どうしても、実子に愛情が行ってしまうからである。時たま、再婚相手との約束で、子供を生まない条件にして、それを貫いている人もいるが、珍しい。

多くのトラブルを防ぐには、それが一番いいのだが、継母の場合は、まだいいが、継父の場合は、血のつながった自分の子供が欲しいものだ。子供のいる場合の再婚は、いずれにせよ慎重さが求められる。

謡曲でも、継子いじめにあった中将姫を扱った『雲雀山』がある。続きの話と考えられる『当麻』と共に、有名だ。雲雀山は、紀伊の国にあったらしいが、大和にもあったとも伝えられている。この謡曲では、紀伊の国にあったとする。地名からすると、ピーチパーチク、雲雀の鳴き声が盛んだったと想像できる。まあ、田舎ということかな。

この話は、『当麻時寺縁起』に材を取っていると云われる。すなわち、藤原豊成の息女が、十歳の時、継母の讒奏にあい、葛城山に捨てられ、更に紀伊国に移設させられて、殺されそうになったことを素材としていると言うのだ。

後妻の言うことを真に受けた豊成も豊成だが、余程巧妙な讒奏だったのかもしれない。まあ、寝物語で、耳元で囁かれれば、嘘も真実に聞こえてくることは、多くの男性諸氏が経験していることだろう(笑)。

そういうことに長けた女性は確かにいる。自分にのみ、愛情を受けたいことが、そういう狭い了見にさせる。結局、中将姫を殺す命を受けた従者は、お経を熱心に唱える姿を見て、助けることを決心する。こういう話は、戦国武将についても、同様なことを読んだ気がする。

この話が、事実かどうかはわからないが、当時でも、似たような話はあっただろう。継母と継子の関係は、いつの時代も複雑だろう。男は、妻なしの生活は大変だし、そこそこの地位にあれば、妻の必要性は求められる。そして、そこでは子供の存在は軽視される。

なお、この謡曲では、中将姫は、後、乳母や従者のお蔭で、豊成の誤解が解け、彼の下に戻るというようになって、一応、めでたし、めでたし、ということになっている。しかしながら、後の話(『当麻』)では、どういう事情かしらないが、彼女は、家を出て、出家している。複雑な彼女の家庭環境が、彼女をそのように仕向けたのなら、実に可哀想なことである。

この謡曲の題材の継子問題は、いつの時代も存在し、子供たちは、皆、苦悩する。そういう問題の投げかけとしては有効だろう。現実、継母になる方も、それなりに苦労はあるだろう。そういうことを乗り越える意思がないのなら、再婚は望んではならないだろう。親のエゴは子供を傷つけるしかないことを忘れてはならない。そういう示唆に富む作品だ。

*追記

ただ、本当の話は、大臣であった豊成の弟が、ある人を讒訴した結果、兄の豊成の身にも及び、筑紫に流され、そこで、豊成の娘である中将姫は、逃れるため、当麻寺に身を隠して尼になったということも伝わっている。

だが、なぜか、先に示したような、まったく違う話になって、現代まで伝えられている。どこからどこまでが創作なのか、残念ながら不明だ。よって、一つの小説として、この謡曲は味わった方がいいのかもしれない。

もちろん、この謡曲に限らず、文学作品のほとんどは、ヒントとなる事件を題材としながらも、多くは創作と考えていいだろう。現代でも、様々な歴史小説があるが、大半は作家による創作だ。テレビドラマになんかなると、史実と錯覚しがちだが、ほとんどが作家の感情移入による創作というのが事実だ。

なお、『当麻』については、未鑑賞だ。いずれ取り上げてみたい。

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2009年2月23日 (月)

こまめな人

どこの世界にも、こまめな人はいる。人任せにせず、ちょっとした細々としたことも自分でやる。もちろん、そのためには、自分で考え行動するから、見聞は広くなる。雑学にも強いから、話を聞いても面白い。そこで女性にもてる。プレイボーイは、皆、こまめだ。

こまめな人は、一応、長生きすると云われている。しかし、その論で行くと、プレイボーイは長生きするということになる。ところが、プレイボーイは、案外、不摂生。結局、病を得て、あの世逝きということもよくある。

しかし、女性で、こまめな人は、周囲にいると便利なこともある。大体、妻にすると、あらゆることが楽だ。彼女も、それが苦痛にならないということも幸いだ。こまめさを喜びとする女性は、最近は、どうなのだろうか。口は立派なことは言うが、手足はまったく動かない女性より、こまめな女性の方がいいと思う。

だが、あまりにも家庭のことや周辺のことを、何もかもやってくれると、男は仕事をやるしかない。そして、仕事中毒。とどのつまりは、病気になって、一巻の終わり。後は、残された遺産で、妻は悠々自適。しかしながら、これは案外、男の理想かもしれない。

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2009年2月22日 (日)

舌先三寸と落語『柳の馬場』

暖かくなったり、寒くなったり大変だが、それでも、春を告げるネコヤナキ゜の花穂がきれいな時期になってきた。他人の家にやってきて、糞尿を撒き散らすネコは嫌いだが、このネコヤナギの花穂はなかなか美しい。だが、スズメバチも好きらしい。ジコチューだが、かわいいニャンコ娘に、悪い虫がつくイメージ(笑)。

さて、話はころっと変わって(笑)、世の中、口先三寸で、人々を惑わす人がいる。結果的に、人を騙して、損害を与えたりする。ただ、自慢たれは、人々にはあまり迷惑をかけず、むしろ自分自身に災いが及ぶものだ。例えば、気になる異性の前での、男の自慢話は、後々それがばれて、馬鹿にされるぐらいがオチだ。

落語にも、『柳の馬場』というものがある。京都にも、そういう地名があるが、馬場とは関係あるが、その地名とはどうも関係ない話のようだ。知ったかぶりで自慢たれの富の市という按摩の話だ。大体、知ったかぶりというのは、ボロが出やすい。嘘と同じで、どこかで話の辻褄が合わなくなることが多い。さらにこの話は、知ったかぶりに嘘が絡むから最悪だ。

話は次のようだ。出入りの旗本屋敷の暇をもてあましている殿様に、ある日行くと、ちょうどいいところに来たという感じで、からかわれる。「その方、武芸も相当達しているようだな」と。このように言われると、調子に乗りたくなる富の市。ついつい、あることないこと、言いまくり。

まあ、自分より地位の上の人には、ちょっと自慢してみたい感じもわからないわけでもない。だが、それも程度問題。おっちょこちょいの富の市は殿様にうまく乗せられたということのようだ。

「殿様には申し上げにくいのですが、武芸十八般、何事にも通じております。まずは剣術は一刀流の免許皆伝ですし、弓は日置流、槍は宝蔵院流。そして馬は大坪流、柔術は揚心流。いずれも免許皆伝であります」と鼻高々に言う。まあ、口から、次から次へとでまかせを。お前は、B型か(笑)。

殿様は心得ているから、しめしめと、「武家でも、なかなか免許皆伝とはならないのに、そちは、そんなに免許皆伝を持っているのか。ことに馬はどうにもならん。最近、癇が強い馬を入手したが、お前なら乗りこなせるだろう。一鞍攻めてもらいたいものだ」と言う。

これには、富の市もこれには驚き、しまったと思い、いろいろ逃げ口上を言うが、後の祭り。殿様は、最早、逃さない(笑)。なんたって、暇をもてあましている殿様だ。馬を引き出して、無理やり、富の市を馬に乗せて、馬場へ引き出す。そして、あらんことか、馬の尻を叩いた。

驚いた馬はもちろん、一目散に駆ける。富の市は、何がなにやら、必死に馬の首に抱きついて、わめいている。殿様は、それを見て、「山に登るな、谷に落ちるぞ。寄るな、谷に落ちるぞ」とからかう。「殿様、後生だから、助けてください」と必死の形相。実際は、馬場の中をぐるぐる回っているだけなのだが、目が不自由だから、そんなことはわからない。

脂汗一杯の富の市は、ついに顔に触れた。蜘蛛の糸の如く、すがるように、何かをつかんだ。それは柳の枝で、つかまると、馬はそのまま行ってしまった。そこで、また殿様はからかう。「それ、手を放すな。離せば、谷底に落ちるぞ」「殿様、助けてください。わたしが死ねば、家族が困ります」「大丈夫だ、家族は面倒見てやるから、安心しろ」と殿様。

「もう駄目です。腕が抜ける」「おおそうか。それなら手を放してみよ。これで成仏できるぞ。舌三寸の誤りに気づけ。そして手を離すことだ」「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、手を放します」とぱっと手を放した。

結果は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

手を放すと、大地に立った。それもそのはず、足下三寸だった。冷や汗たらたら、その場にへなへなと崩れ落ちたのであった。

凡そ、人を騙す人は、言葉が多い。丹念に発したその言葉を分析すれば、矛盾点は多い。だが、人は騙される。論理矛盾より、その話の雰囲気に呑まれてしまうからだろう。嘘が真実らしく聞こえてくる。この落語の場合は、明らかに無理ということが、聞き手にわかるため、誰もが嘘と見抜けるが、世の中、真実そうに嘘を話す人がいる。

それは何も詐欺師に限らない。無意識に、多くの人がやっている。特に名士と言われる人が、それをやっている。政治家もその部類かもしれない。評論家もそうかもしれない。学者もそうかもしれない。専門家は、狭い分野での真実に拘り、広い分野での真実とは食い違うことも多い。我々は何を信じればいいのか。

結局、言えることは、残念なことだが、常々、「何を信じればいいのか」と疑問を感じて生きていくしかないのかもしれない。そして、自分の心に、嘘を受け入れる悪い虫がつかないようにしたいものである。

*注記

この話は必ずしも、身体の不自由な人を冒涜するものではないと思う。目の不自由な按摩が、自慢たれで墓穴を掘るということになっているが、いかなる人も、嘘をつく行為自体に問題があるという話として、取り上げている。

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2009年2月21日 (土)

学卒エリートの危さ

最近、非常に凶悪な犯罪が多発している。何も罪のない一般人が巻き込まれる悲劇が起こっている。また少し前の元官僚に対する殺人行為も異常というしかない。常軌を逸している。犯罪者もいろいろなタイプがあるのだろうが、この事件は、調査にも慣れ、計画性も強い。その上、殺し方に強い憎悪が感じられる。

これらの犯罪の理由はわからないが、意外と学歴が高く、成績優秀だった人が多いように感じる。そういう人が社会に出て、初めて挫折を味わい、自分の不幸感を埋めるため、他人を殺めているような感じだ。出世した、その他のエリートに対する嫉妬のようにも取れる。彼らは成功し、自分はなぜ駄目なんだという一種あせりのようなものを感じさせる。

さて、普通、子供の頃から、小さい挫折を積み重ね、それを乗り越えると、それが節になって、竹の様にしなやかになるが、それを経験しないと、ちょっとした衝撃で、ぽきっと折れやすい。大人になってから、心をしなやかにすることは、本人の努力にもよるが、なかなか難しい。

結局、犯人は、挫折を経験しなかった学卒エリートのような感じもする。それが社会に出て、それまでに経験のない挫折を味わう内に、「こんなはずではなかった」という焦りが、学卒エリートのプライドを傷つけるのであろう。このようにして、考え方がおかしくなったと考えられる。

一般に若い人が、順境を歩み続けると、社会に出て、挫折には弱い。よく商売人は、三代目で、身上を潰すと言われる。生まれた時から、何不自由なく暮らしていると、世間の厳しさがわからず、ちょっとしたことですぐ挫折する。学校エリートも、同じ様なものだ。

学校時代は、成績が良いから、周囲からちやほやされる。そして、そのような状態が当たり前と思い込むようになる。当然、プライドは高くなる。そのため、社会に出ると、「あれはできない、これもできない」と理屈をつけて、仕事から逃げの姿勢になる。

結局、企業側からすると、使いにくい人材になって、学歴では見下している人材に追い抜かれてしまうのだ。新卒にしたって、就職が大変だとは言うが、企業を選び過ぎだろう。自分を磨くつもりなら、いろんな経験が出来る中堅企業や中小企業が相応しい。

だが、学校エリートは、そういう選択はできない。どうしても、学校エリートに相応しい企業や地位・役割があると幻想する。そう考えれば、高い学歴を誇り、官僚になっている方々も危いと言うことになる。これらから、はっきり言えることは、学校時代の成績は、社会での成功とは、必ずしも連動しないということを各人が認識することだろうと思う。

*追記

一般に学卒エリートは挫折に弱いが、世間体を気にするためかスキャンダルを過剰に怖れたりする。そういうことも相俟って、学卒エリートを、基本的に企業のトップに据えてはならない。よく言われるのが、東大卒が社長になると、その企業は衰退期にあると。

これは何を意味するのか。企業の草創期や、リスクの伴う成長期には、挫折を怖がる人材は、決してトップに就かない。学卒エリートは、基盤が既に整っている成熟期から衰退期に、トップになることが多い。今の米国経済や日本経済を救えるのは、学卒エリートではないことは確かだ。

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2009年2月20日 (金)

甘え上手は、お芝居上手

一般に、男は甘えてくる女性が好きだ。甘えられると、男は守ってやらなくてはと思う。女性の中には、そういうことはできないという人もいる。結構、プライドの高い正直な女性に多いかもしれない。

逆に言えば、甘える女性は強か(笑)。甘えて、相手を試している。この男は、どれくらい甘えさせてくれるか。どういうメリットを私に与えてくれるのか。甘えたら、どのような反応をして、男が愛情表現してくれるか。まあ、そんなところだと思う。これは女性特有の本能と指摘する人もいる。

ところが、男は単純に、女性が自分のことを気に入って頼ってくれるのだと勘違いする。そこに男女のズレがある。だから、女の甘えが、ある意味、お芝居だと気づかない。恋愛期間中はともかく、一緒なってしまうと、夢破れて山河あり(笑)。現実に引き戻されて、大きな失望を味わうわけだ。釣った魚に餌はやらない、の逆バージョンっていうわけだ。

女性が現実主義者だとわかっておれば、こういう誤解はないという人もいるが、はるかに女性の方が強かで上手だ。相手に過剰に思い、夢を見、期待してしまう男の性(さが)、甘さ。これは、歴史的にも繰り返されているのだろう。

時たま、仲良し夫婦というものもあるが、でも、じっくり観察すれば、狐と狸の騙しあい(笑)。根源的につながっている夫婦もあるにはあるが稀だろう。そして、多くの男女は、その稀なケースになると思って、一緒になる。

それでも、甘えられない女性より、甘える女性の方が、付き合って楽しいのは、どの男も経験している。甘えられないという女性も、訓練次第では、そういうことは可能なのだから、いろいろ試してみればいい。いい男運が開けると思うよ(笑)。

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2009年2月19日 (木)

風邪は万病の元

暑くなったり、寒くなったりで、体調の維持が難しい。花粉症なのか、風邪なのか、わからないが、時々、くしゃみが出る。熱はないようだが、安心は出来ない。風呂に入るのは控えようか。また風邪薬を飲んでいいものか、判断に苦しむ。風邪でないのに、風邪薬を飲めば、それは身体にいいことはなかろう。う~ん、判断が難しい。

若い頃は、風邪をひいても、熱い飲み物を飲んで、一晩寝れば、治ったが、最近は、なかなかしぶとい。それに花粉症が加わって、ややこしい。そうかといって、医者に行くのも、憚られる。大体、医者に行けば、周囲は病人だらけ。かえって、うつされそうな気もする。

まあ、だいたい、熱が出ない限り、医者には行かないようにしているが、それでも、長引けば、行かざるを得ない。医者に行くタイミングは、他の病気と同様、判断に迷う所だ。そうかといって、父のように医者嫌いでは、手遅れになる可能性もある。

父も、若い時は、調子が悪いと、すぐ医者にかかっていたのに、高齢になるに従って、嫌がるようになった。悪い予感がして、それが当たるのが嫌だったのかもしれない。老齢になると、そのような考えになるのであろうか。

でも、風邪は万病の元と言われる。本来、風邪という病気はないそうだが、それは医学上のことであって、風邪という定義は、確かに曖昧だが、そういう分野の病はありそうな気がする。つまり、それは心身の疲れから来る病と捉えられる。

よくあることだが、緊張感ある仕事をしている間は、風邪をひかないのに、仕事が終わって、ホッとした瞬間、風邪をひくことがある。結局、これは疲労を蓄積しないようにして、病気に対する耐性を強くしつつ、過度な緊張と弛緩をしないようにすることが求められているのかもしれない。

しかし、現代人は、なかなかそれが許される状況にない。結局、風邪だなと気づいたら、早めに対策を取って、休養を取るべきなのだろう。そして、風邪をひいて熱を出したなら、無理をせず、早めに医療機関に言った方がいいのだろう。

若い方に伝えたいことは、無理を出来るのは、20代前半までと考えておこう。その後の、若い時の無理は、結局、その後の年代になって、ボディーブローのように効いてくることを忘れてはならない。いくら頑健でも、無理はいけませんよ、アラサー、アラフォーの皆さん(笑)。

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2009年2月18日 (水)

日本企業の経営転機

今、円高になった結果、今まで円安過ぎたのだが、輸出企業は、欧米市場の破綻と共に、大慌てのようである。ついに大手の電機メーカーも正社員のリストラに踏み込んだ。確かに市場の急激な変化により、需要が急減し、パニックになっていると理解できる。

しかしながら、そういうことを予測できなかったとしたら、彼らの経営能力を疑いたい。まるで素人経営ではないか。五感の衰えた経営者がトップに居座っていたと考えられる。老舗ということで、伝統に胡坐をかいていたのではないか。

確かに急激な環境変化には、誰でもたじろぐことはあるだろう。だが、大企業の経営者にしては肝が据わっていない。バダバタするのはみっともない。まず今後の状況を見通し、打開策を考えることが大事だ。慌てて、緊急手術をしても、体力が落ちるだけだ。

もちろん、一時的な、ある程度の縮小均衡は必要なのかもしれない。それなら、まず社員を説得し、賃金カットで雇用を守ったり、株主を説得し、減配・無配をお願いして、利益の流出とコストカットを徹底することだ。

本来、利益が適正に社内留保されておれば、急激なリストラ策は避けられたはずである。社内留保があるのに、急激なリストラをするのは、経営に心がないからだろう。あまりに余裕のない対応にはあきれるしかない。

彼らの経営姿勢は、米国式経営の導入により、日本的経営を捨てたようだが、今後も日本で経営活動するのならば、日本的経営を見据えて経営をする必要がある。かつてのように人材を社内できちんと育成していく経営にする必要がある。

人材の成長を無視した過度な企業成長は期待するのは、本末転倒である。企業の成長は、人材の成長以上に成長させると、必ず歪が生じる。(輸出)企業の経営姿勢は改める必要がある。

そして、米国市場が壊れ、消失した現在、今後十年は、円高に、上下しながらも、円高に振れて行くだろう。新自由主義に基づく経営は、終わった。それに乗っかった経営は、止めにしなければならない。

よって、それを踏まえて、新目標を定め、戦略を立てて、日本的経営に戻って、じっくり新しい時代に対応できる人材育成をしていくべきだろう。そして、それは中小企業にも同様のことが言える。

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2009年2月17日 (火)

ポテトサラダを初めて作る

ポテトサラダは好きな方だが、いつもスーパーや百貨店などで店屋物を買い、自分で作った事はなかった。何か手間がかかりそうで嫌だったのだ。しかし、1ヶ月ほど前、ふと思いつき(笑。よくあることです)、初めて、挑戦することになった。

作り方は、わからなかったが、まずジャガイモ3個の皮を取り、4等分して、水に晒して、鍋に水を入れて、それから柔らかくなるまで煮て、しゃもじでとことん潰した。店屋物は、潰し方が粗いものが多いが、きめ細かくして、塩、胡椒。

後は、人参をスライスして煮て、タマネギはみじん切りして水に晒す。それからはマヨネーズで和えるだけと思ったが、店屋物は、マヨネーズが強すぎるので、大体塩辛い。そこでヨーグルトで薄めることにした。最初は牛乳を考えたが、水分が多すぎるから、ヨーグルトに変更。

ヨーグルトは、最初はプレンヨーグルトを使用したが、今はいろんなヨーグルトで楽しんでいる。マヨネーズとの比率は、好みだろうが、ヨーグルトを入れ過ぎると、べちゃべちゃになるので、マヨネーズ大さじ1に対して、ヨーグルトは少しだけがいいようだ。

食べてみると、売っている物より、美味しい。ただ物足りないのは、色彩。緑が足りない。きゅうりなどがいいのだろうが、季節外れ。九州産などが売られているが、この季節にはねえ。ピーマンも、季節外れ。何がいいんだろう。しばらく、冷蔵庫にあった魚肉ソーセージで誤魔化している。割といい感じ。ハムなどもいいかもしれない。

ポテトサラダには初めて挑戦したが、意外と簡単だった。長年難しいと先入観を持っていたが、それは違った。これは何でもそうなのかもしれない。やらずに難しいと考えるのが一番悪いのかもしれない。反省。

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アレルギー週間って?

2月17日から23日までは、アレルギー週間らしい。というのは、最近知った。でも、そんなありがたくない週間いるのかな。実は、アレルギーについて、国民に正しく認識してもらおうというもののようだ。

アレルギーについては、子供の頃は、喘息で苦しんだ。今はアレルギーは何もないと思っていたが、最近は、花粉症は程度の差はあれ、影響を受けている。花粉症は、植物が出す花粉の影響もあるのだろうが、食べ物がもたらすアレルギー受容体質、周辺環境、建築物から発生するホルムアルデヒド、車の排気ガス、空気汚染など、理由は様々だろう。

これらを全て潰す必要があるが、なかなか個人では限界がある。花粉症は、ある意味、社会病の一種と言えるのかもしれない。でも、諦めずに、皆が声を上げれば、少しずつ改善していくかもしれない。

それにしても、今年は花粉が多いそうだが、嫌だなあ。ティッシュやマスクは多めに用意はしなければならないのかもしれない。

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2009年2月16日 (月)

酒は身を滅ぼす

酒は百薬の長と言われるが、深酒して、酒に飲まれてしまえば、それは健康も害すし、醜態をさらす羽目になる。中川財務大臣が、酔っ払い状態で記者会見して、世界に恥をさらしている。大体、酒を飲みながら仕事をする神経が理解できない。

昔、建設現場の人たちは、確かに「酒を飲まないとやってられない」と言いながら、一杯ひっかけて、仕事をしているのをよく見たものだ。さすがに最近は、そうした光景を見ることはなくなったが、お昼の食事時に、明らかにそういう人たちが、お酒を飲んでいるのをよく見る。

大丈夫かなと思うが、本人達は、現場で飲みさえしなければいいと思っているのだろう。特に夏場の現場は大変だから、飲みたい気持ちはわからないでもない。でも、建築現場で、足を踏みはずせば、悲惨な事故になりかねない。

ところが、最近は、現場とは何の関係もない、明らかに営業職と思われる人たちも、昼間から、お酒を飲んでいる風景に出くわす。おいおい、そんな状態で、顧客先に行くのだろうか。それとも、顧客と飲んでいるのだろうか。でも、顧客に誘われても、断るべきだろう。

先日は、昼間から、酒の臭いのするサラリーマン風の男女が電車に乗ってきた。会社の書類を持っていたから、そう判断したのだが、そうではないのだろうか。会話の内容は仕事の話だったから、やはりビジネス関係の人間だろう。しかし、これらの規範の乱れはひっかかる。これは社会の弛みと言えるだろう。

それにしても、世界に、その醜態を晒した中川財務大臣は、国の恥だ。即、更迭されるべきだろう。更迭する人も問題は多いが(苦笑)。最早、この内閣は崩壊しているのだろう。もう誰も相手にしなくなるのは時間の問題だ。それにしても、経済の大変な時に、こんな、いい加減な人々が権力者であるのは、本当に憂えることだ。

*追記

本来は、「酒で身を滅ぼす」が、正しい表現だろうが、敢えて「酒は身を滅ぼす」にした。酒というものの怖さを知っている人は、前者の表現でいいが、酒が強いと思い、無意識に酒を煽ってしまい、酒の怖さを自覚していない人間には、後者の意識が必要だからだ。酒呑みは、すなわち、リスクが大きいのだ。

*追記

ちなみに中川財務大臣は、風邪薬を飲んだ影響と弁明している。一体どんな風邪薬(笑)。まあ、玉子酒も風邪薬にはなるけれど。飲酒が過ぎたことを白状したらどうですか。

*平成21年2月17日追記

ついに、中川財務大臣は辞任をするようだ。途中、予算が通ってから辞任すると言っていたが、それは身を引くタイミングが悪い。すぐ辞めて当たり前だ。後任の財務・金融相に与謝野氏が兼任するという。

しかしながら、これも大変心配な人事だ。与謝野氏は、リーマンショック時にも、トンチンカンな危機感のないコメントをしていたし、定額給付金に対する意見も、内閣を混乱させている。麻生内閣を崩壊に導いた張本人の一人だ。彼の政治センスでは、国の困難な、この時期に、きちんとした方向性を示せるか疑問だ。他に適任者はいなかったのか。これなら、解散・選挙して、次の政権に全てを任した方がいい。

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2009年2月15日 (日)

無駄な努力

一般に努力は尊いと言われるが、それは正しい方向に、正しい努力をして、結果を出した時のみ言えることだ。いかに努力しても、それが間違った方向であれば、それは結果を生まない。むしろ、それは時間をロスするに過ぎない。

確かに、未来の方向性が見えない場合は、試行錯誤するため、いろんな方向への努力がなされるため、なかなか結果が出ない場合もある。そういう場合は、ある程度仕方ないが、それでも、期間を限定して、投入する努力も、それなりの効率が求められる。

子供の頃、腕白な悪ガキでも、渋柿か甘柿かの区別は知っていた。柿がたくさん生っているからと言って、無闇に取りに行くことはしない。しかしながら、大人が、案外、それをやっている。それは国の場合もあるし、企業の場合もある。当然、それでは成果は出ない。

中国の古書にも、「樹は道辺にありて、実多し。これ必ず苦李ならん」と柿を李(すもも)に置き換えて、王戎が子供の時に言ったことを伝えている。これは、道端にたくさん李の実が生っているのに、誰も取った跡がなく、きれいな状態で残っていたので、多くの子供たちは、それを取ろうとしたが、王戎だけは、それを疑い、取ろうとしなかったのだ。

私達は、結果を生むかどうか、よく考えて、努力をする必要がある。そこには、観察力や洞察力が求められる。

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2009年2月14日 (土)

家康遺訓

徳川家康の遺訓はよく知られていると思っていたのだが、若い人の中には、ご存じない方もいるらしい。先日、若い人と話していて、知らないというので、少し驚いた。マンガばかり読んでいるのかな。ということで、それを紹介しておく。

  人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。

  急ぐべからず。

  不自由を常と思えば、不足なし。

  心に望おこらば、困窮したる時を思ひ出すべし。

  堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思へ。

  勝つ事ばかり知りて、負くる事を知らざれば、其の身に到る。

  己を責めて人を責むるな。

  及ばざるは過ぎたるよりまされり。

彼は、狸と言われたが、苦労人らしい含蓄のある言葉だ。余計な解釈は止めておこう。一言一句、味わいたいものだ。

 

 

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2009年2月13日 (金)

不老長寿の法

昔から、健康法として、流布しているものに、英国医師のフーカー氏による「不老長寿の法十箇条」というものがある。これは、中高年に対するアドバイスとして適切だ。流風は、残念ながら、フーカー氏について、詳しくは知らないが、その「不老長寿の法十箇条」を、自分なりの解釈を示して、紹介しておこう。

一、自分で自分が歳を取ったと思わないこと。自分で自分を年寄りにしたら、お仕舞。

人間、年齢と共に、歳を感じることはあるが、体力的にはともかく、精神的に老いないことが、最終的には、身体をも老いさせない。

二、気を若く持てば、体はおのずから若やぐ。病は気から。

気持ちを若く保つことは大切だ。そのためには、同じ年齢層や、その周辺で固まらずに、若い人と接する努力が求められる。そして、若い人には、自ら働きかける行為が大切だ。

三、前途に希望をかけ、楽しみを持ち、何十年も生きる計画を立てよ。

寿命は誰にも見えない。常に、十年後、二十年後の未来を見ていると、心身共に活動することになる。仕事に引退はあっても、人生に引退はない。

四、過去は過去として葬らしめよ。つまらぬことを思い出して悔やむな。

過去を時々振り返って反省することは大切だが、あまり、それに捉われると、辛くなる。今まで生きてきたことが成功であると思い、過去を捨てる発想も大切だ。忘却は、人を時として幸せにする。人間は忘れるから生きられる。

五、何事にも腹を立てるな。笑って暮らせ。

若い時には腹を立てたことも、年齢と共に、一つの味付けとして理解できるようになる。いい歳をして、腹を立てるな。腹を立てることは、毒を排出させ、寿命を縮め、周囲にも悪影響をもたらす。すべて、あるようにある。なるようになる。笑福。

六、全ての思慮を精密にすべし。頭を使うことは老い込みの最大の防止になる。

周囲に何でも任せ、本人はいい加減では呆けるだけ。常に、どうあるべきかを考える習慣が大切だ。若い人も、高齢の先輩の役割を奪うな。それなりの役割を与えよ。

七、常に新鮮な外気を吸え。

最近は、冷暖房効率を上げるため、高密閉型の住宅が多いが、一時間毎の換気は大切だ。空調だけで、換気が出来ていると考えるな。また家に、こもらず、深呼吸できる空間へ出かけることも大切だ。

八、金銭の計算を忘れぬのはよいが、あまりこれに捉われすぎるな。

あまり細かい計算に捉われるなということ。節約は大切だが、それも行き過ぎれば、心を狭くする。日々の生活に困らない程度の生活設計ができておれば、それで十分ではないか。

九、食物はできるだけ淡白に、そしてその量をなるべく節せよ。

食べ物は、薄味にして、外食を控える。あるいは、そのように指定して作ってもらうこと。もちろん、腹八分目であることは言うまでもない。

十、何か打ち込める娯楽を持て。

無趣味ではなかなか辛い。だが、会社の延長のような趣味もまた辛い。自分だけが打ち込める趣味の開発が大切だ。そして、最初は仕方ないが、人や集団に頼った趣味でないことが望ましい。それは特に趣味として紹介されているものに限らないはずだ。

以上

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2009年2月12日 (木)

消費のケチ道?と企業

国内は、皆さん、倹約に走っているようだが、流風は実は、不景気の時に、よく物を買う。最近買ったり、買い替えたものは、ガスストーブ、電気釜、テーブル、ワゴン、FAX台、時計などだ。全て国産のものだ。今後買い物リストとしては、電動自転車、デジタルテレビ、古いパソコンの買い替え、古い箪笥などの買い替えなどを、考えている。

逆に景気の良い時は、ほとんど物を買わない。なぜ、そのようにするかは、多分、貧乏根性が染み込んでいるのだろう(苦笑)。でも、そういう買い方をして、あまり損をしたように思わない。

景気の良い時は、いろいろ新しい機能を多く持った製品が出されるが、新製品ゆえ、機能も多機能で不安定だ。価格も高い。故障する可能性も高い。複合機能を持つ故に、壊れやすい。また壊れたものは、修理費も高くつき、買い替えた方が安くつく。それは結構、ロスが多い。

日本の製造業も、かつてのような頑強な製品を長く売るのではなくて、次々新製品が出る関西風の壊れやすい商品が主流だ。今後は、環境問題で、そのような企業姿勢は、改めることが求められるだろうが、しばらく、そういうことがまだ続くだろう。

ということで、景気の良い時には、物を買わず、現在のように不景気になった時に、物を買っている。理由としては、まず、不景気になると、企業は経営を縮小均衡させるため、在庫処分をする。そこでは、製品としてはいいものでも、結構安い出物がある。それを買うのだ。

不景気の次の段階では、企業は、当然のことながら、市場に受け入れられるような製品開発をする行動をする。しかし、コストダウンさせるためには、技術力によるものもあるが、それだけでは限界があり、結局、機能の単純化をやらざるを得なくなる。あまり使わない不要な機能を落として、本当に必要な機能に絞る。そうすれば、価格も抑えられる。

そういった商品は、機能が単一であるので、故障もしにくく強い。結局、長持ちするので、買い物としては、トータルで割安になる。だが、流風は、すぐには飛びつかない(笑)。もちろん、市場の評価を見極めて買うことになる。だから、流風のような消費者が動き出すのは、少し先のことになる。だから、しばらく、企業は不況感を味わうことになるだろう。

だが、マスコミ等は、大袈裟に報道しているようだ。不況とは言うが、物を買うお金がないというのは嘘だろう。収入は確かに減るだろうが、必要なものは買う。問題は、買う内容と買い方が変わるということを、企業が理解していないと、その不況から脱することはますます難しくなる。考え方の転換を早くしたところが生き残るのだろう。

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2009年2月10日 (火)

現代の金融問題とノンリコースローンの時代

バブル崩壊時、銀行から融資を剥がされて、倒産した中小企業は多かった。銀行から融資していたお金を急に返済せよ、と言ってきたのだ。その時、大銀行も、街金と大して変わらないなと、思ったものだ。

経営者から、今の金融の仕組みが問題なのだと、当時、よく聞かされた。銀行ほど、無責任な仕事はないとのことだった。ボヤキを割り引いても、銀行は、当時、役割を果たしていなかった。それは、今も変わっていないかもしれない。

確かに、BIS規制とか、時価会計が銀行経営を困難にし、融資を難しくしているのはわかる。そして、大銀行が合併して出来たメガバンクは、国際金融市場で活動しなければならないから、それは止むを得ないのかもしれない。

ただ、欧米の作った仕組みが必ずしもベストとは限らない。日本も、あるべきルール変更をもっと積極的に提案すべきなのだ。そうしないと、国内の資金循環は悪化するばかりである。特に、内需振興のためには、現在の国際ルールは邪魔だろう。

ところが、ルールを急激に変えることは、国際的に相当強い政治力が必要となり、現在の日本の政治家には、あまり期待できないかもしれない。だが国内的に見れば、この国際ルールは、あまり意味がない。

企業の活動を阻害することになっているだけだ。それに長期的視野にたった経営が出来なくなることは、雇用にも悪い影響をもたらす。結局、米国の思惑に乗せられた金融の変な仕組みが、経済に動脈硬化を起こしているのが、今の日本の現状だろう。それが最終的に、多くの破綻企業を生んでいる。

しかし、問題は、それだけではないだろう。中小企業のように間接金融に頼る所は、現在の金融の仕組みが、その経済活動を萎縮させているとも言える。その中で、特に問題なことは、担保を取っておきながら、担保価値の変動によって、融資金額が変動してくることだ(このため、金融機関は、経営者に個人保証を融資時に求め、多くの経営者が、経営破綻時、悲惨な目にあっている)。すなわちリコースローンと言われるものだ。

例えば、貸した時より担保価値が上がれば、もっと借りてくれと言ってくるし、貸した時より担保価値が下がれば、追加担保を言ってくる。すなわち、市場の変化に対して、銀行はリスクを全く取っていないという事だ。こんな気楽な商売はない。

それでも、戦後復興時代は、高度成長によって、インフレ状態の時は、この融資の仕組みは有効だった。インフレが続いている限りは、貸す方も借りる方も、お互いがメリットがあった。

しかしながら、国家の基盤が整い、現在のように成熟している日本では、今後、この融資の仕方がいいかどうか疑わしい。今後は、融資時の担保価値は、変わらないものとして、融資することが望ましい。つまりノンリコースローンだ。もちろん、銀行は市場を睨んだ担保価値変動によるリスク管理に基づく融資が、求められるようになる。

このようにすれば、経営者も個人保証を求められることもないし、仮に破綻しても、再起しやすい。経営者は次々と生まれてくるという人がいるが、それは必ずしもそうではない。リスクを取って起業する人は、現実限られる。そう考えると、事業に失敗しても、再チャレンジできる仕組みにすることが、経済活性化に役立つと考えられる。そういう意味でも、ノンリコースローンに転換することは意味がある。

現在の日本は、企業側は融資を仰ぐことに慎重になり、金融機関も融資に慎重になるという、ダブル「慎重」が、景気の足を引っ張っているとも考えられる。国の中にお金が循環させるには、政府による財政政策などの景気対策より、このような金融の仕組みを変更させる方が有効ではないか。

もちろん、銀行からは反対意見が出されるだろうが、景気が停滞すれば、金融機関も困るわけで、国が活性化されれば、金融機関にとってもチャンスがある。借りる側は、返せなくなれば、担保を放棄すれば、借金はチャラだから、経営の見切りも早くなり、国全体としてのロスも防げる。その方が資金効率が良くなるはずだ。

尤も、資産の査定は、メガバンクしか出来ないという言う意見もあるが、資産査定のある程度の人材育成をやれば、地方銀行でも、それは可能であろう。百年に一度という危機なら、金融の仕組みも、大きく変更させる機会でもあるのではないか。

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2009年2月 9日 (月)

投資信託で財産を失う人たち

先日、ある喫茶店でお茶を飲んでいると、隣の席で、銀行員らしき人物と、その顧客らしき女性が、しきりに話しこんでいる。どうしても聞こえてくるので、聞き耳を立てると、どうも投資信託の話らしい。

内容は、預金の利子が低いから、投資信託で運用したらと、その女性に勧めているのだ。これは悪魔の囁き(笑)。よほど、止めとけとアドバイスしたかったが、他人の商売の邪魔は出来ない。結局、その女性は、納得して、契約するような話の雲行きだった。大丈夫かな。

さて、報道によると(*関連ニュース参照)、投資信託で、多大の損害を出している人たちがいるらしい。株式が暴落した現在、確かに、それはそうだろう。もちろん、株式投資の場合は、自分の才覚で、市場を観察し、銘柄を選択し、投資するわけだから、仮に損失を出しても、それは自己責任だから、投資家も、ある程度は納得が出来るだろう。

ただ、以前のブログでも指摘したことだが、投資信託は、全く他人任せ。大体、他人のお金を運用する側は、その運用結果には、無責任なものだ。募集担当は、お金を集めた段階で、既に評価され、運用結果で評価されるわけでもない。それに、運用者は運用に失敗すれば、リストラされるだろうが、それで終わりだ。

すなわち、投資信託の募集をする者と、運用する者は別人だ。人は、自分の稼いだお金は、大切にするかもしれないが、他人に与えられたお金は、いい加減に扱うものだ。投資信託の持つ危険性は、もうそこに潜んでいる。

投資信託でお金を増やそうとして、失敗する人たちは、あまりにも簡単に他人を信用しすぎた結果とも言える。自業自得とは言え、国としても、多くの財産を失う。そんなことをするのなら、女性のように、何か無駄遣いして欲しいと思うのだが、投資信託で失敗するのも、女性が多いらしい。

夫の退職金の大半を投資信託に回した主婦もいるらしい。まさに、女の浅知恵で、損失を膨らました例だろう。可哀想なのは、その夫だ。一生懸命働いて、稼いだお金を簡単に失う妻。多くの女性が、甘い投資話に乗る事件は、大阪でも起こっている。女性は、もっと、お金の有り難味を知って欲しいものだ(*追記)。

*関連ニュース

http://news.nifty.com/cs/headline/detail/gendai-02040114/1.htm

*追記

そういうと、振り込め詐欺にひっかかるのも多くが女性だ。

*追記

もちろん、投資信託によっては、長期に運用すれば、ペイできると言う考え方もある。うまく売り抜ければ、利益を上げられるのも確かだ。

しかし、それなら金融資産の一定額を超優良株で長期に運用すればいいことだ。配当利回りで投資すればいい。投資企業の業績チェックは必要だが、相場の上げ下げに伴う株価の上げ下げは、あまり意識しないでいい。時々、持ち分の調整をするくらいだろう。

残念ながら、投資信託運用者は、利回りをよくしようと、無理をし過ぎる結果、危ないことになる。株式市場を荒らすのも、投資信託やファンド関係だ。市場にとって、鬼っ子に違いない。

その辺を投資家がしっかり理解して、判断すれば、投資信託も一つの運用方法だろう。だが、運用方針も十分公開されていないものに、何もわからないまま投資することは、避けた方がいいだろう。

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2009年2月 8日 (日)

2月8日は針供養?

朝、ラジオを聴いていたら、2月8日は「針供養」だと伝えている。少し変だなと思ったら、関西は、12月8日らしい。「らしい」というのは、もちろん、流風は針供養などしたことはないからだ。

ボタン付けなどでも苦労しているが、針を折るほど、裁縫ができるわけでもないし、裁縫が上手になりたいとも思わない。時々、不便を感じることは確かだが、まあ、そんな時は、知り合いの女性に頼むわけでして。最近は、そういうことをやってくれる店もあるにはあるが。

子供の頃、裁縫好きだった母は、一年に何本も針を供養していた。確か、針供養の日には、こんにゃくに突き刺していたように思う。そうすれば、裁縫が上達すると言われていたらしい。

それにしても、子供の頃の服は、全て、母の手作りだった。端切れを買ってきて、いろんな服を作ってくれた。皆、近所の人が褒めてくれるので、流風のお気に入りだったらしい。後年、母から、そのように伝えられた。

当時は、既製服もなく、母も作るしか方法がなかったのも確かだ。今は、作るより買った方が安くて楽だという雰囲気があるが、親による手作りも悪くない。母は、一旦作った物を成長に合わせて、服を解き、再度作り直していたようだ。そうすれば、資源の無駄もない。現代のように、使い捨てはもったいない。

針にまつわる話としては、子供の頃、よく「指きりげんまん 嘘ついたら 針千本飲ます」として、よく約束事をしたものだ。実際、飲まされたことはないけれど、約束を破ったこともある。両親には、お尻を叩かれて、別の罰が待っていたが。

そういうと、聞いた話では、子供が、はいはいできるほどの赤ちゃんの時、ある女性が裁縫をしていた。そして、来客か何かあったのだろう、少し席をはずした。戻って、裁縫を続け、夕方になり、裁縫箱を整理すると、縫い針がどうしても1本足りないということになって大騒ぎしたようだ。

結局、いくら探しても見つからない。そして、疑ったのは、この赤ちゃんだ。もしかして、飲み込んだのではないかと疑ったのだ。そこで、病院に連れて行き、レントゲンを撮ると、針らしきものが映っていたらしい。しかし、医師によると、処置の方法はない。ただ排出されるのを待つしかないということだったらしい。

その女性は、それから毎日、毎日、子供の便をチェックしたらしい。しかし、出る気配はなかった。だが、一週間目にやっと念願の針が、便から出たらしい。それまで、生きた心地がしなかったようだ。つまり、彼女は、ずっと針の筵だったわけだ。

この赤ちゃんは、何も知らず、一本だけだけれども、針を飲んだ経験をしたわけだ。前世で、どんな約束を破ったのだろうか。まあ、それでも、千本でなく、一本だけで良かったとも言える。その不幸中の幸いの子供さんも、今は、針供養しているのだろうか。

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2009年2月 7日 (土)

北方領土は一体いつになったら返還されるのか

2月7日は「北方領土の日」だ。ロシアが北方領土を不法占拠して、長い時間が経つ。最近の動きを見ると、彼らは、それさえも正当化しようとしているらしい。ロシア内部でも、最早統制できなくなっているとも報道されている。いわゆる国粋主義者が跋扈し始めているのかもしれない。

その背景として考えられるのは、ロシア経済も破綻の危機にあるのかもしれない。そういうことが、彼らを保守的にさせているのかもしれない。しかし、この資源暴落は、当面続き、資源国家のロシアは更に苦境に陥るだろう。

それなのに、日本をいつまで敵に回すつもりだろうか。ロシアに進出している日本企業は、早急に撤収するべきだろう。そして、外務省の軟弱外交も、いい加減に止めてもらいたい。もう日本国民は、辛抱の限界を超えている。

日本も、柔弱な外交ではなく、力ずくで取り戻すべきだという議論が起きても仕方ない。日本政府は、その決断が迫られている。それに自衛隊は、自分の力を試したくて、うずうずしている。自衛隊は何も武器の展示場ではない。

それに自国領土さえ守れない国家が、国際社会に貢献できるとはとても思えない。まず自衛隊は、日本の領土を守るべきだろう。海外へ自衛隊を派遣する余裕があるのなら、まず領土を確保・保全するために、北方領土に行使すべきだろう。

自衛権の行使は、憲法以前の問題だから、何も問題はない。自国の北方領土を確保するために、自衛隊を使って、自衛権を行使しても、国際社会から非難させる恐れはない。国も国民も覚悟が求められる。

この点は、日本を侵略し、日本外交を舐め切っているロシア等関係各国への重大な警告になる。そして、この問題を曖昧に対応してきた米国への警告にもなる。日本は、平和を愛してはいるが、不正な占拠をいつまでも許すべきではないだろう。

*追記

実際に自衛隊が実力行使するかどうかの是非はともかく、自衛隊を使って圧をかけることは可能だろう。何もしないのは、おかしい。

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2009年2月 6日 (金)

外食が美味しいのは幻想か

若い頃、東京に旅行に行って、かなり年上の知り合いに、ご馳走してもらったことがある。有名な料亭だそうで、緊張しながら食事したことを覚えている。しかし、その知り合いが、いろんな薀蓄を披露しながら、美味しいと言っていたが、流風は、そんなに美味しいとも感じなかった。

もちろん、緊張していたから、きちんと味わえなかったということもあろうが、当時、高級料亭も、この程度かと思った。確かに、器も盛り付けも、見てくれは立派で、美味しそうに見えるが、味は大したことがなかった。

確かに、この後の経験では、全ての店が美味しくないということはなかった。東京にも美味しい店はあった。だが、異常に高いのだ。寿司一つをとっても、ネタが新鮮などと言うが、関西では当たり前で、それは「東京内では、比較的新鮮」ということで、別にどうってことはなかった。

今では、流通が進歩し、全国どこでも、新鮮な魚が入手できるだろうが、当時は事情も違ったこともある。しかしながら、東京は概して美味しくないと感じた。そして、少しましな料理を味わおうとすると、高いお金を出さなければならないが、全ての高級店が美味しいとも限らない。

そんなこんなで、東京の外食のイメージはあまりよくない。テレビなどで、グルメだ、グルメだと騒いでも、本当かな、と疑いの眼で視ている。まあ、テレビのグルメ番組なんてものは、作為的に作られたものだろうから、余計にだ。

だが、関西も、最近は、段々、その雲行きも怪しくなってきた。美味しい店は少なくなってきたのだ。もちろん、念入りに探せば、いろいろあるのだろうが、狭い経験知では、どうもまずくなっているような気がする。

その理由は何なのか。一つには、チェーン展開する店が増えて、味が固定化して、オリジナル性が薄れていることもあるだろう。また他店の味が評判になれば、すぐそれを真似することもあるだろう。そのため、段々、本物がわかりにくくなっているのかもしれない。

そして、全体的に味が濃くなっているようにも思う。関西の味は基本的に薄味で、素材のよさを引き出すのが、その料理法の中心であったが、洋風の濃い料理に慣れた結果、顧客が味の濃いものを求めているのかもしれない。

それとも、味の濃いお弁当やお惣菜の中食に慣れたことが影響しているのかもしれない。かつて、家庭のおふくろ料理というものは、薄味料理が主体で、味の濃い料理は、敬遠されたものだが、今は、家庭で日本料理することも減り、薄味を経験することが減っているのかもしれない。

味は、舌で味わう。そのように考えると、人々の舌の感性の劣化が、外食のまずさを容認しているのかもしれない。今、内食の時代と言われるが、これを機会に、改めて、関西の食文化を取り戻したいものだ。

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2009年2月 5日 (木)

ショウガの効用

昨年末に、少しショウガを栽培してみた。葉が枯れてきたので、収穫すると、出来上がりは初めてにしては、まずまずだった。今は、土付きのまま、篭に入れて放置している。ただ、保存が難しく、どのようにすれば長持ちするのか、まだまだいろいろ試す必要はある。

それに、これは連作を嫌うので、5年程度は同じ場所で作れない。狭い家庭菜園での今後の栽培は、難しそうだ。まだ、しばらくは在庫があるので、冬の期間は、買わずに済みそうだが、いずれなくなるので、間もなく購入することになるのだろう。まあ、家庭菜園の限界だ。

出来たショウガは、今は、料理にいろいろ使っている。生姜汁を入れると、いい塩梅の料理になることが多い。一番多いのは、豚肉の生姜焼きだ。その他にもスープに使ったり、薄く切ったものを入れて、魚の臭みを取るのにも使っている。

そして、咽喉がおかしい時は、生姜汁を熱湯で溶かして、ハチミツを入れて飲むと、咽喉の痛みは一気に取れる。これはハチミツレモンより、効く。昔から言い伝えられてきた、ショウガの健康への利用は正しいようだ。今年は、風邪薬は必要がなさそうだ。

*追記

なお、ショウガをするのもいやだと言う方には、市販のショウガ飴がお薦めだ。特に『だいこんしょうがのど飴』がいいだろう。大根おろしの汁とショウガ汁を水飴で炊き込んだものだ。昔からの伝統的な作り方だが、他ののど飴より効くだろう。

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2009年2月 4日 (水)

節分に五目豆を作ったけれども、もう立春

昨日の節分は、皆さん、豆まきされたのだろうか。流風は、結局、豆まきはせずに、五目豆を作った。よく作るのだが、今回の出来は上々。もともと、豆類はよく食べる方だが。昔は、五目豆は、作らずに、出来合いの物を買っていた。

とは言っても、大豆は水煮されたものを使っているので、完全に料理したものとは言えないかもしれない。それでも、味付けは、自分で調整できるので、満足している。市販されているものは味が濃くて、どうも苦手なのだ。

作り方は極めて簡単。市販されている大豆の水煮を用意し、鶏肉、人参、昆布、こんにゃく、ゴボウなどを豆くらいの大きさに切って、出汁で煮るだけである。出汁に、みりん、醤油、砂糖を入れ、火にかけ煮立ったら、材料を入れ、強火で煮て、沸騰したら、弱火にして、汁がなくなるまで煮たら出来上がり。

だし汁の目安は、1カップの出汁に、みりん、醤油、砂糖各大さじ1程度だが、適当に入れている(笑)。材料は、野菜の残りを使うので、その量はいつも異なる。出汁カップだったら、人参やゴボウは各半本ぐらいが目安かもしれない。こんにゃくも、それくらいがいい。鶏肉は適当に。

ということで、昨夜は、豆まきはせずに、五目豆を恵方巻と共に食べて終わった。そして、本日2月4日は、もう立春。でも寒くて、とても春の感じはしない。椿のように、すでに芽吹いているものもあるが、総体としては、まだそんな感じではない。

また立春とは、占いの世界では、今日から新年ということだ。ということは、初詣でのおみくじは、無効で、また引きなおさなければならないのだろうか。折角、今年は大吉だったのに、ありゃりゃ。

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2009年2月 3日 (火)

王者の心配とは

『抱朴子』で、葛洪が「王者の心配」について、記している。

  一、自分が心驕って贅沢になること

  二、賢人が自分のために働いてくれぬこと

  三、自分が使っている者が賢くないこと

現代における「王者の心配」とは、何だろうか。ここで言う王者とは、それぞれの分野で活躍しているトップと言えよう。それは企業だけでなく、家計でも同じことだろう。企業におけるトップのあり方や従業員について考えてみると、当てはまることも多いだろう。

家庭でも、これは、妻が王者とすればわかりやすい(笑)。それでも、一、のことができない妻なのに、パートナーに過剰な要求をするのは、止めにしようね(笑)。よくある事だが、自分がだらしないのに、相手にいたずらに期待をするのは、おかしいでしょう。

人を使うには、それなりの態度を示さなくてはならない。見上げられる存在の、いかに息苦しいことよ。「王者の心配」とは、なんと辛いことよ。その点、流風のような庶民は気楽なことよ。

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2009年2月 2日 (月)

道具持ちの実際

何事も質素だった母だが、子供から見て、贅沢しているなと思ったのは、料理道具の多さであった。以前にも記したが、母は料理が下手ということはないのだが、嫌いで、あまり熱心ではなかった。ところが、料理道具は、通販などで見つけて、あれやこれやと購入していた。

使うのは、最初だけで、結局、どこかにお蔵入り。使うのは昔からある使い慣れた道具ばかりであった。だから、棚を開けると、いろんな道具でぎっしり。使わないのなら、処分したらと言うと、いつか役に立つこともあるだろうから、置いておくという。

そういうわけで、キッチンは荷物で一杯になり、使い勝手の悪いものになっていた。こういうことは誰にでもあるのかもしれない。私は、割と不要な物は処分する傾向が強いが、それでも、書籍の処分にはいつも少し躊躇する。多分、今後も読み返さないものも、また読むかもしれないと、置いておくことはある。

人間、人のことはわかっても、案外、他人から見れば、流風も、使われない道具をいつまでも持っているのだろう。でも、母のように、料理道具だけでなく、何でもかんでも、ガラクタのような物をいつまでも持っていたのは、未だに理解できない。道具は使ってやって初めて価値を持つと常々考えたいものだ。さあ、今日も、整理整頓(笑)。

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2009年2月 1日 (日)

役員報酬を考える

大半の一般サラリーマンは関係ないけれど、今回は役員報酬について考えてみよう。すなわち役員給与のことである。しかし、サラリーマンの給与とは根本的に異なる。役員は経営に関与しており、本来、人件費として処理されない。

この役員報酬を時々、上場会社やベンチャー企業の役員のものを見ると、利益を出すどころか、赤字でも、役員が役員報酬を受け取っている例が見られる。それも非常に多い額だ。どのようにして捻出したのかわからないが、当局は見逃すのだろうか。

大体、数期も利益を上げず、役員報酬を受け取っているのもおかしいが、トップとして、いつまでも留まっているのは、もっと変だ。企業は、利益を追求する集団で、経営者は、その使命を負う。結果が出なければ、無報酬が当然だし、数期も利益が出なければ、仮に創業者でも退任すべきだろう。

このような経営者が、責任も取らず、いつまでも、のさばっているとすれば、日本全体として、資本効率の悪い企業が存在していることと同じ意味だ。東証やベンチャー市場は、早期に改善命令を出すべきだろう。また、そういう仕組みにするべきだろう(*注)。

さて、上場していない中小企業も様々では、いろんな例があるが、一般に、創業期ならいざ知らず、何年も、赤字を出しておきながら、存立している企業がある。これらの企業は、利益を出しても、経費を使って、僅かな利益しか出さないようにしている。大体、高い役員給与を得ている場合が多い。

税理士も、そのように指導する人もいるから、情けない(僅かな利益を出すのは、黒字でないと融資してもらえないし、補助金ももらえないことが多いから)。しかしながら、このような企業は、最終的には、整理することになる可能性が高い。利益を出す企業体質にしない限り、生き残ることは難しい。事業を継続するなら、いつまでも個人企業の延長ではいけないだろう。

凡そ、企業を存続させようとすれば、企業体質を強化し、利益を少しでも多く出して、納税すべきなのだ。その上で、内部留保を将来の景気変動や投資に備えて、蓄積すべきなのだが、どうも経営者側は、税を納めることを悪と考えている人々がいるのには驚く。結局、意味のないことにお金を使って、企業を長い目で見れば、自ら弱体化させている。

そのことで思い出すのは、かなり前のことで恐縮だが、ある中小企業の社長の役員報酬について尋ねた所、驚くべきことに、月15万円だった。確かに、住宅は、資産としてあり、ローンも終わっているようだったし、子供も独立しているようだった。

それでも、曲がりなりにも、中小企業の社長が、月15万円の役員報酬とは。この社長が説明するには、従業員に給料を払い、利益を出すには、自分の報酬をシビアに見ないと、従業員も真剣になってくれないと言うことだった。業績は、まずまず毎年利益を出しており、配当も出して、内部留保も少しずつ、いざというときのために備えていた。

なぜ、そのようにしているのかと問うと、創業した時、かなり儲かったが、経理が出鱈目だったため、税務署から、クレームがきて、追徴され、強く指導されたそうだ。そして、企業を続けるには、企業は利益を出して、それを継続することが大切であることが初めてわかったそうだ。

彼は、税務署の指導を善意に受け止めて、社内のいろいろな無駄な仕組みを整理して、最終的には会計に人材を得て、体制を整えたということだった。つまり税金を納めることを目標にすれば、経営は締まってくるそうだ。

本来、コストを抑えて、利益を捻出することが、企業の本来の役目である。コストには、自分の役員給与も含まれる(税法的には経費として認められないが)。役員も、過剰な報酬や経費を使うことなく、安定的な利益が出る構造にすることが求められる。その社長は、結局、配当が、ボーナスのようなものだと言っていた。そういう考え方の方が健全ではないか。

大企業の経営者も、ベンチャー企業の経営者も、中小企業の経営者も、なすべきことは基本的に変わらない。まず、経営者が報酬のあり方を厳しく戒めて、その経営姿勢を改めるべきだろう。

*注

なお、企業業績は振るわないのに、高い役員報酬を出していたウオッチングしていた某上場会社は、その後、整理したようだ。やはり道理に適わない経営は、いつか破綻するということだ。これは欧米の企業に、よく見受けられる。彼らには企業道徳というものに欠けている。日本の企業は決して参考にしてはならない。

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