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2009年4月29日 (水)

『平家物語』の絵本

『平家物語』を読み直しているが、人間の世界は、どの時代も似たようなものだとつくづく感じる。たかだか百年の命なのに、いろんな私欲・権力欲から、争いを起こし、恨まれ、復讐し、それがずるずると繰り返し争っている。多くの原因は、トップの為政者の考え方に原因があることが多い。

ただ、『平家物語』は、単に争いごとだけを描いているのではない。間に挟まれる多くの人間的なエピソードが満載だから、ずっと庶民にも人気があった。そこには、義理や、男女間の情がある。それに、多くの人たちが共感したから人気がある。

しかし、それさえも、短い人間の生命からすれば、どうってことないというようにも感じられる。すなわち、作者は、無常観を伝えている。無常観を認識しつつ、生と死はつながっていることを知り、いかに生の中で死を感じつつ生きるか。作者は、そういうことを伝えたかったのかもしれない。生き方を示唆する文学と言えるだろう。

ところで、この『平家物語』は、清盛が、福原京を造ったので、神戸とも関わりが強いのだが、残念ながら、いろんな祭りも一部催されているが、それほどには目立たない。大学関係でも、公開講座で、一部講演されているが、限られたものだ。

神戸は、どうしても西欧と結び付けたいようで、清盛については、あまり関わりたくないような感じを受ける。清盛は神戸に港を開き、中国との交易で利益を得て、それが権力基盤になっているから、神戸とは、本来、関わりが強いにも、かかわらずだ。福原が現在、歓楽街になっていることが影響しているのかもしれない。

ところが、先日、兵庫県立歴史博物館で、『妖怪天国ニッポン』を鑑賞したところ、姫路文学館で、『安野光雅が描く絵本平家物語の世界』(*注1)を開催していることを知ったので、ついでに行ってきた。だが、姫路は、本来、『平家物語』には、登場しない、あまり関係のない土地柄だ(*注2)。『平家物語』で登場するのは、せいぜい加古川までぐらいだろう。その姫路で、この展覧会が開かれていたので、若干の違和感を感じた。

だが、比較的狭い空間での展示であるにもかかわらず、安野氏の描く絵本は、見ごたえがあり、状況がわかりやすい状態だった。『源氏物語』でも、フランスの方が、絵巻を挿入させながら、豪華本を作っていたが、日本では、過去にそういうものが作られなかった。日本の歴史文学は、その見せ方において、まだまだ工夫が足りないということだろう。

今回、同様に、物語とは関係のない土地での『平家物語』の絵の展示は、この文学館で、作られたものではなく、安野氏の作品は、津和野にある彼の美術館(津和野町立安野光雅美術館)からの借り物であるのだが、関係美術資産の掘り起こし企画という意味においては価値がある。そういう観点から見れは、こういう企画は、一応成功と言えるだろう。

安野氏の絵は、本を読んで文字を追うだけでは、なかなかイメージできない場面が、描かれていて、本当によかった。こういう企画をしたのが、神戸の美術館や博物館でないのが残念だ。更に、その図録を読むと、『平家物語』の神戸の舞台となった場所がたくさん紹介されており、ますますその念を強くした。このような催しは、神戸市立博物館で、定期的に開催してほしいものだ。

* 注1

    平成21年6月28日まで。姫路文学館 特別展示室(北館2階)

*  注2

         実際は、御津港も、旧姫路市に含めて考えると、無縁ではないとのこと。

    だが、全体的に関わりは薄い。

* 追記

図録では、展示品すべての掲載がなく、少し残念である。図録価格が高くなることへ配慮したのかもしれない。あるいは安野氏の図録が別途あるのかもしれないが、それは販売されていなかった。

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