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2009年5月31日 (日)

視・観・察について

昨日に引き続き、佐藤一斎の『言志四録』から取り上げてみよう。今回は、彼が66歳の時に、記したものだ。以下に示す(一部、現代表記に改める)。

  余自ら視・観・察を翻転して、しぱらく一生に配せんに、

  三十以下は視の時候に似たり。

  三十より五十に至るまでは、観の時候に似たり。

  五十より七十に至るまでは、察の時候に似たり。

  察の時候は、まさに知命・楽天に達すべし。

解釈はするまでもないが、一応、流風なりの考え方を付加しておこう。この「視・観・察」という言葉は、『論語』にあるものだが、彼は、そこから、人生に重ね合わせて、更に考えている。

つまり、30歳以下の者は、案外、世間を雑に捉えている。見ているようで、その実、表面的なことしか見えていない。それは年齢的に、経験も浅く、仕方のないことだ。それが、「視」だ。

それが30歳から50歳になる頃には、個人差はあるものの、世間をもう少し、深く見ていこうといことになる。人間社会は、表面的なものだけで動いておらず、いろんな複雑な連関や人々の見えない心理で動いていることがわかるようになる。それが、「観」だ。

さらに、50歳から70歳ぐらいになると、更に詳しく世の中を見るようになる。それは過去の歴史や古文書などからも、真実を探り当て、現況と照らし合わせて、未来のあるべき姿まで、見えてくる。これが「察」である。

この「察」の時期になれば、次世代に対して、やるべき天命を感じつつ、期待を込めて、人生を楽観的にとらえることが大切だ。あまり悲観的に考えるのは、よくないだろう。

まあ、大体、このような解釈だろうか。確かに、自分の人生に照らし合わせても、そうなのだろう。ただ、この意識を持つのと、持たないでは、その意味の重みは違ってくる。つまり、ただ単に歳を重ねても仕方ないということだろう。

 

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2009年5月30日 (土)

人生における、それぞれの段階

以前のブログて、「人生20年が4回」を記したが、人生のそれぞれの段階で、意味がある。佐藤一斎は次のように語っている。

  人生は、二十より三十に至る、方(まさ)に出ずるの日の如し。

  四十より六十に至る、日中の日の如く、盛徳大業の時候に在り。

  七十八十は則ち衰頽蹉跎して、将に落ちんとする日の如く能く為す無きのみ。

  少壮者は宜しく時に及んで勉強し以て大業を成すべし。

  遅暮の嘆或ることなくば可なり。

解釈はいらないだろう。ただ言えることは、彼が語っているように、20歳から30歳までは、仕事を覚えることが多く、大切な時期には違いない。この期間に、鍛えられた者のみ、将来、成功する可能性が高い。意外と、この時期に遊んでしまう人々が多いが、それはあまり望ましくない。

40歳から60歳までは、指導力を発揮して、仕事の成果を刈り取る時期と言えよう。そして、次世代の後継者の育成に力を注ぐ必要がある。

70歳から80歳ぐらいになると、余生を送るということになる。ここで、あれができなかったとか、これができなかったとか言っても、すでに手遅れである。若い時や壮年の時にやったことが、そのまま反映される時期である。

結局、若い時に、集中して成し遂げたことが人生を左右すると言えそうだ。若い人たちは、これを肝に銘じてほしい。

*追記  出典:『言志四録』

上記の考え方の背景には、『論語』為政篇とか、『礼記』曲礼上編があるものと考えられる。

また、どういうわけか、三十より四十までと、六十から七十までは、論じられていない。この間は、それほど重要でないのだろうか。多分、三十より四十までは、仕事を固めていく時期とも言え、六十から七十までは、現役を引退し、今までやってきた整理の時間とも言える。

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2009年5月28日 (木)

禍を福に転じる神戸の宿泊施設

インフルエンザの影響で、神戸市内の宿泊施設は、予約キャンセル続出で、厳しい状態が続いていたが、それを取り戻すべく、大幅割引で、対処している。その結果、予約が順調に入っているという。

まあ、こんなに暑いと、しばらくインフルエンザの心配もない。それなのに割引してくれるのだから、これに乗らない法はない。顧客はシビアだ。それでも、お客が戻れば、ホテルにしろ、温泉施設にしろ、あまり儲からないだろうけれど、それなりに活気は戻る。

こういう取り組みによる、各施設における活気の取り戻しは大切で、組織運営上、欠かせない。結局、運営コストを厳しく管理して、利益をわずかでも生みだす工夫が経営者に求められる。高い料金で、上質の顧客層を確保するのも、戦略の一つだろうが、こういう危機的状況に対して、柔軟に対応している、神戸市内の宿泊施設は、大丈夫だろう。

またインフルエンザの影響で中止になった「神戸まつり」も、7月下旬から、お盆前までに、開催することが決定している。子供たちは、夏休みだから、参加しやすいだろう。かつて6月頃にやっていた「神戸まつり」も、雨によく降られるので、ここ数年5月に繰り上げたのだが、今回は、それが徒になってしまった。だが、夏のお祭は結構盛り上がるだろう。まさに禍転じて福となすということだ。

やはり客を呼ぶ催しは、この業界には欠かせない。

*追記

延期された「神戸まつり」のパレードは、7月19日(日)に催すことが決定した。翌日20日は、「海の日」だから休日。ゆっくり観ることができるだろう。

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2009年5月27日 (水)

仙俗のバランス

政治評論家の中で、清廉潔白なことが当り前と声高に言う人々がいる。確かに理想はそうかもしれないが、人間の身体が汚いものから成り立っているように、世間は混沌としているのが実情だ。

そんな中で、自分だけががきれいと言うのは偽善だし、極めて怪しいものだ。もし、仮に、それを本気で信じているのなら、世間知らずと言える。もちろん、彼らは、本音と建前を使い分けているのが事実だろう。だが、マスコミで、言うようなことではあるまい。まあ、評論家という者は、日和見主義で、いい加減なものだが。

逆に、この世の中は汚れているのだから、皆やっているのだから、悪いことをして、いい結果を出せばいいのだという大変俗っぽい人々もいる。彼らは、あるべき姿を示さず、目の前の成果だけで満足しようとする。それは世間を甘く見過ぎている。

現実を見過ぎると、何が正しいかということが見えなくなる。あるいは曇ってくる。何の理想もなく、日々を送っても、それは空しいだけだ。人間社会の現実をわきまえて、理想を語ることは大切だ。

私達は、どちらに行き過ぎてもいけないような気がする。仙俗と基本的に適切な距離を保ちながら、物事を見るのがいいのだろう。要はバランスだ。指導者はバランス感覚が求められる。そして、一般人は、案外、バランス感覚で世間を見ている。ということは、指導者にも、庶民感覚が求められるということだ。

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2009年5月26日 (火)

最近の食品の賞味期限

乳製品とか、卵は、比較的よく買う方だ。その中で、以前は、牛乳は毛嫌いしていたが、料理に使うため、最近は購入が少し増えた。牛乳も、ヨーグルトも、直接、飲んだり食べたりするものと思っていたが、料理に使うと、まろやかな味になることが分かったのだ。

ところで、この牛乳にしろ、ヨーグルトにしろ、そして卵の賞味期限が、どうも短くなっているような気がする。以前は、冬と夏で、賞味期限が違い、夏場は短く、冬場は、比較的長かった。だが、現在は、賞味期限が、どの季節も更に以前より一週間ほど短くなっていると思う。

他の食品でも、パン類は、そのようだ。保存添加物が減って、そのようになっているのなら、いいのだが、果たしてそうなのだろうか。パン類はともかく、乳製品や卵は、短くなった賞味期限であれば、ケースの入り基本個数を減らしてほしい。

もちろん、賞味期限と消費期限とは異なるから、賞味期限が過ぎれば、それなりの加工をすればいいのはわかる。それでも、現在の半分ぐらいの量にしてもらった方が望ましいと思う。果たして、製造メーカーは、どのように考えているのだろうか。

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業績目標を出さないボンクラ企業の行方

企業の中には、業績目標を出さないで、のうのうとしている経営者がいる。それが三流企業ならともかく、一流企業がそのようにしているのには、恐れ入る。それは多分、リスクを取れない経営者が、一流企業でも跋扈し始めたということだろう。日本経済にとっては、極めて危惧すべきことだ。

凡そ、企業経営者は、企業数値目標を明確にしてこそ、経営も可能になる。それを定めなければ、企業経営は、大海を漂う漂流船と同じだ。このような経営をしておれば、いつか難破するのは明らかだ。

企業経営は、その規模を問わず、経営者は、全身全霊で、未来を読み取り、運営していくものだ。そのためには、仮想目標でも、明確に数値を設定すべきで、それをなしに経営は本来できない。

多分、これらの経営者は、利益関係者から、うまくいかなかった時の攻撃に耐えられないのだろう。本来、そのような精神性で、経営者は務まらない。はっきり言えることは、これらの企業に決して投資してはいけないということだろう。

その日暮らしの経営は、いつまでも続かないことは明らかだ。数値目標できない企業は、いかなる理由であろうと、市場から退出してもらいたい。

*参考記事

http://news.nifty.com/cs/headline/detail/gendai-02041292/1.htm

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2009年5月25日 (月)

安田善次郎の寄付

このブログで、安田善次郎を取り上げるのは、三回目。どうしても気になる存在だ。多分、当時、どぎつい個性だったと思うのだが、人間として面白い。今回は別の切り口から記してみる。人間には、多くの面があるので、一義的には、捉えきれないからだ。

前にも記したが、彼は84歳の時に、朝日平吾という者に暗殺されている。寄付を依頼しに行って、断られたからという理由だ。しかし、彼は断られることはわかっていたので、初めから殺しに行ったというのだ。それほどケチが徹底していたのだろう。

確かに、安田は寄付嫌いだった。寄付をするぐらいなら、事業に精進して利益を上げることが社会に貢献すると考えていた。だから、慈善事業にも寄付していないし、故郷にも錦を飾るとして寄付もしていない。その点は、彼の哲学に迷いはない(*注)。

更に慈善で売名行為をすることは、父親からも禁じられていたのが、強く影響しているという。むしろ事業を通じて、人々を豊かにできると考えたようだ。だから、世間からケチと言われても、あまり気にしなかった。だが、その行為は、一般人には理解されない。そこで、恨みを買うことになる。

だが、ケチと言われた安田善次郎は、実は莫大な寄付をしている。但し、死後に。彼も晩年、お金は持って、あの世に行くことはできないと悟ったのか、当時の東京市長だった後藤新平の東京再生のプロジェクトの、俗に言う、大風呂敷演説を聞いて、感ずるところがあったらしく、資金の提供を申し出ている。それも、いろんな資金が入れば、ややこしくなるので、単独で、すべての資金を賄うとしているのだ。

ところが、翌年に暗殺されてしまった。この話は、飛んでしまったのかと思ったら、遺産整理する中で、東京市への寄付が記された書類が発見され、子息が代わりに寄付しているそうだ。お金の他に、本宅や土地もだ。

その額、現在の金額にして、百数十億円を超える(但し、その評価金額は、もっと多いという人もいる)という。戦災で焼けたとはいえ、東京の原型があるのは、後藤や安田のお陰ということだろう。安田らしい寄付が、後世の者に寄与している。そして、これは、ケチのあり方と、寄付の仕方の一つの方法として、示唆していると言えるだろう。

*注

ただし、彼は、晩年、匿名で寄付している。つまり寄付に名を残すことはやっていない。

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2009年5月24日 (日)

鯖の味噌煮は、やはり美味しい

鯖が比較的安かったので、今日は鯖料理にすることにした。今回の鯖は、千葉産。季節により、長崎産だったり、新潟産だったりする。一目見て、これは新鮮そうだったので購入。ただ、鯖は足が早いので、即調理。

さて、どんな料理をしようかと思ったが、結局、鯖の味噌煮。簡単で美味しいからね。今回は、レジメを変えて、少しやり方を変えてみた。味噌は白系を使い、しょうが、酒、みりんを入れ、更に隠し味に砂糖を少々入れて、熱して、鯖を入れるだけだ。いつもは砂糖は加えないのだが、少し入れてみた。

更に、今回は、白ネギと豆腐も加えた。ネギの甘みも加わり、どれだけ甘くなるだろうかと、少し心配だったが、まろやかな味だ。豆腐が、それを吸収している。副菜には、茹で筍をバターで炒めて、鰹節を加えたもの。それに、いつも食べる、干しシイタケの甘煮。

本日も満腹。食べ過ぎた(笑)。

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小さな幸福、大きな不幸

かつて高橋義孝氏が、「小さな幸福、大きな不幸」というような内容のことを述べられていた。不幸は、往々にして、ど~んと来るほど大きいが、幸福は、案外小さい。そして、大きな不幸が先行して、小さな幸福で少しずつ穴埋めしていく。

だから、たくさん小さな幸福を感じる力が弱ければ、不幸に負けてしまう。うろ覚えだが、そんな内容だったと思う。多分、このような考えに至ったのは、老齢になられてのことだろう。若い時には、そんなことは考えない。夢も希望もあり、時間のある若い人には、まだ見ぬ未来がある。

そう考えると、歳を重ねるとは、辛いことかもしれない。経験により、いろいろ知識や知恵を得ることは、大切であろうが、それが全ての足かせになる。そうなると、知っている方がいいのか、中途半端に知らない方がいいのか、ということになる。

だが、人は、いつも前を見ている。そういうことから逃れられないとすれば、高橋氏の知恵は、確かかもしれない。

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2009年5月23日 (土)

インフルエンザ対策と口腔管理

季節外れのインフルエンザが蔓延しているようだが、国全体の対応は、国の危機感はわかるのだが、まるでインフルエンザ・ノイローゼだ。人間は、基本的にウィルスを持っているし、我々を取り巻く環境で、完全に清潔な環境はあり得ない。だから、ウィルスを除去する発想より、ウイルスとともにあるという考え方が望まれる。

だから、過度の薬の服用は、あまり望ましくない。本来、人間が持っている免疫力に任せるべきなのだ。薬が必要な人は、病気のため体力が弱っている人とか、子供たちだけなのだ。そうしないと、ウイルスは、薬耐性で、現在より、更に強いウィルスを生み、更に私たちを困らせる結果になりかねない。

そう考えれば、インフルエンザへの基本的な対応方法は、ある程度、決まっている。それは基本生活の見直しだ。もちろん、ある程度の予防措置は否定しない。何度も記したが、もう一度、整理しておく。

一、出来るだけ、繁華街などへの外出を控える。

出かけるなと言う意味ではなくて、人のごみの中に出かけないこと。また多くの人と閉じられた空間に長くいないこと。伝染するのは、むしろ人の集まる室内空間であろう。

一、口の中が乾燥しないようにする。高齢者は、マスクをして、口内の乾燥を防ぐ。

インフルエンザは、乾燥を好む。

一、出かける場合は、出来るだけマスクをする。

外部からの細菌を防ぐ意味と、口の乾燥を防ぐ効果がある。但し、過剰な期待はできない。

一、帰宅後は、手洗い、顔洗い、うがいを励行する。

いわゆる口からの細菌の侵入を防ぐため。これは普段から励行しておれば問題ない。

一、身体を清潔に保つ。外部と接触する頭部などは、シャンプーで取り除く。

身体全体の細菌の除去。これも普段から励行しておれば問題がない。

一、室内の温度は20度以上に保つ。

インフルエンザは熱に弱い。

一、室内の湿度は、50%~60%を保つ。

インフルエンザは、低湿度に強く、高湿度に弱い。

一、規則正しい生活をする。睡眠は十分とって、疲労を残さない。

基礎体力の維持は、最近の入り込む余地を縮める。これも普段からの生活が大切ということ。

一、十分な栄養の摂取を心がける。

上記と同様の理由。

一、太陽によくあたること。紫外線が消毒してくれる。

室内にこもるより、適切な太陽の下で過ごせば、除菌につながる。あらゆる薬剤を使うより有効とのこと。女性は、日焼けを意識しすぎて、屋内にこもれば、それは却って逆効果。

等が指摘されてる。

これ以外にも、歯科医からは、口腔管理の大切さを指摘されている。というのは、口腔管理を適切にすれば、発熱、肺炎、インフルエンザの発症率が下がるそうだ。よく病は口からと言われる。口からは、いろんなものが入る。

だから、口腔を清潔に保つことは、病をある程度、防げることになる。歯磨きは、何も歯のためだけではなかろう。以前のブログでも記したように、定期検診して、口の中の健康管理をすれば、いろんな病を防げるのではないか。

別に流風は歯科医の廻し者ではないが(笑)、6月4日からは、「歯の衛生週間」。今一度、口腔管理も含めて、もう一度、基本生活の見直しをしたいものだ。

*追記

こういう時期だから、歯科医での定期検診を止めている人も多いと聞く。しかし、歯科は大体、予約制になっており、他の患者と接する機会は低い。あまり神経質になる必要はないと思う。

*追記

人によっては、うがいは意味がないという人もいる。うがいに殺菌効果はないというのである。ウィルスは鼻腔から入るからという理由であるとする。しかし、鼻腔を清潔にするのもいいが、それは逆効果と言う人もいる。こうなってくると、一般人には、何が何だかわからなくなる。

だが、経験的には、うがいは大切と思う。但し、うがいだけではだめで、手洗い、顔洗いして、初めて有効であろう。よって、普段からの生活習慣は大切だが、あまり神経質になりすぎるのもよくないだろう。

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2009年5月22日 (金)

花の命は短くて

花は、咲いているうちが花。終わってしまうと無惨だ。美しく咲いていた花も、終わりごろには、色も変色し、汚くなっている。この落差は、一体何なのか。

先日、咲いていた大きなバラも、結局は、変色し、色褪せてしまった。ボタンも、もう、その影もなく、シャクヤクも終わりかけている。そういうと、ツツジやサツキの花も、豪快に色とりどりに咲いていたが、今は無残な姿をさらしている。

少し前には、沈丁花が、いい匂いを放っていたが、もうそれもなく、いつの間にか、花も終わっている。シャリンバイも、ついに終わってしまった。花モモやボケの花も、賑やかに咲いていたが、それも終わり、カリンやヒイラギナンテンも、かわいい花は終わり、小さい実を作っている。

それにしても、花の命は短い。よく女性にたとえられるが、最近の女性は、以前より花の期間が長いように思える。錯覚かな(笑)。流風自体が歳を重ねたから、女性が少し年齢がいっていても、若く見えるのだろう。でも、花の命は短くても、女性は、いつまでも美しくあってほしいものだ。

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2009年5月21日 (木)

専業主夫の増加

海外でも、専業主夫が増えているらしい。例の金融破綻によるものが大きく影響しているようだ。ただ、あちらの方は、もともと家庭内分業とか、協働が進んでいるから、仕事がなくなっても、スムーズに移行できるのだろう。

それに対して、若い人はともかく、家庭内のことに疎い日本の男は、仕事を取られると、全てを失ったと勘違いしがちだ。大体、何のために働くか、という意識が薄い。流風も、若い頃、気になる女性に、そう尋ねられて、困ったことがある。

食べるためとか、生きるため、と言えば、それもそうだろうが、それだけでない、とわかったのは、歳を重ねてからだ。日本の婚姻率の低下も、そういうことが原因かもしれない。むしろ、結婚して一家をなすという目的があれば、仕事にも違う見方ができるかもしれない。

家庭が、一つの共同体としてみれば、働けるものが働いたらいいし、家事もできるものがやればいい。そういう考え方に、日本もなっていくかもしれない。でも、これは新しい考え方ではないだろう。かつて、男が失職すれば、妻は内職で支えたし、男は、案外、家事を手伝ったものだ。もちろん、手伝わない男もたくさんいたが。

今後は、家庭を運営していく上で、男女の柔軟な考え方がもっと求められるだろう。どういう家庭を目指し、それを運営するには、どれくらいのコストがかかるのか。そうしたら、二人で゛どれくらい稼がなくてはならないのか。病気とか、出産による働き手のリスクは、どう回避するか。

そういうことが話し合われて、家庭経営がなされていくかもしれない。現在は、そういう計画がないままに、働いて所得を得て、流されるままに、皆、仕事をしているのではないだろうか。専業主夫の是非はともかく、もう一度、家庭経済について、二人で話されることが若い人に求められるだろう。

*専業主夫増加の関連ニュース

 http://news.nifty.com/cs/economy/economyalldetail/moneyzine20090519152158/1.htm

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2009年5月20日 (水)

風邪の記憶

今、豚インフルエンザの流行で、神戸は大変だ。不要不急のお出かけを止めよという。まるで、戒厳令だ。ただ、休校になった学生は、街に繰り出している。おいおい、趣旨と違うでしょ。危機感をあおり過ぎるのも、どうかと思うが、危機感がないのも困ったことだ。そうことを考えていると、昔のことを思い出した。

子供の頃、流風はよく熱を出して、母が騒いでまわっていたらしい。どこの母親も同じことだろう。当時は、往診というものがあって(今でも、あるのだろうが)、小さい子供の頃は、そのようにして診てもらっていた。病院に行けば、却って病気をうつされる心配があったのだろう。

近所に電話を借りに行って、いろいろ手配していたようだ。しばらくして、医師と看護師がやってきて、注射やらして、注意事項を示して、薬をもらっていたようだ。大体、小さい子供は、よく熱を出すものだ。それで騒ぎまわるものだから、近所の人は、笑っていた。「そんなに過保護にすれば、弱い子供になるよ」と。

母の状況は、今の若い母親と同様、姑と同居していなかったので、そういう緊急事態への対応能力が問題があったのだろう。そのようにして、一応、小学校に通うようになると、風邪をひいて、よく熱を出した。そうすると、母は、よく心配していた。しかし、近所の人は、よく言っていた。「親が心配し過ぎると、子供は治る病気も治らない」と。

学年が上に上がるにつれて、そういうこともだんだんなくなり、熱を出しても、いずれひくということがわかったらしく、母はあまり騒がないようになった。そうすると、近所の人が、「前にも言ったでしょ。子供が、段々体がしっかりしてくるので、心配いらない」と。

社会人になって、独立すると、病気になっても、誰も看護してくれない。風邪は時々ひいて、高熱を出すこともあった。でも、会社を休むのが嫌で、無理をして出勤していた。風邪のウィルスをまき散らしていたかもしれない。上司が見かねて、早退を促した場合は、それに従ったが、翌日、休むことはなかった。

そして、風邪をひいて、熱を出すのは、土曜日が多かった。当時は、週休二日制でないので、土曜日に家に帰ってから、体調の変調が来ることが多かった。緊張が解けて、風邪をひくのだと、先輩から教えられた。それ以後も、同様で、会社を辞めるまで、無遅刻・無欠勤だと思う。

但し、ここには、裏がある。入社して、何年目かに、月曜日の朝になっても、熱が下がらず、足の節々は痛み、身動きすることが難しかった時がある。今で言う、インフルエンザだったのかもしれない。それで止む無く、休みを届けて、休んだ。だが、会社に行くと、有給扱いにしてくれて、欠勤とはならなかったのだ。当時は、有給なんて、取れる時代ではなかったので、これは有難かった。これで、無欠勤。早退なども、そういう処理をしてくれていた。

もう一つの記憶は、仕事を通じて知り合いになった、あるお爺さんは、風邪などひいたことがないと常々仰っていた。当時、すでに70歳を超えられていたと思う。理由を聞くと、風邪は、まず胃腸にくる。ということは、胃腸が強ければ、風邪はひかないということになる。胃腸を強くして、胃腸に負担がかかることをしなければ、風邪なんて、絶対ひかないと断言されていた。

当時は、そんなものかなと思っていたが、納得できる面もある。胃腸に負担がかかるのは、暴飲暴食もそうだろうが、過度なストレスもそうだろう。心身共に、健全な状態に保つことが、風邪やインフルエンザに打つ勝つ方法かもしれない、とふと思った。そうなると、過剰なインフルエンザ報道も、あまり良くないのかもしれない。あらゆる病は、脳から指令されるのかもしれない。

*追記

兵庫県下では、マスクが薬局からなくなる騒動に発展している。我々日本人は、本当にマスコミに影響されやすい人種だなと思う。確かに、顧客に接する人々がマスクをするのは止むをえないかもしれない。しかし、一般人とっては、マスクがすべてではない。

日頃の健康管理が大切なわけで、マスクがすべてを解消してくれるわけでもない。それに医療関係者は、マスクは使い捨てが望ましいと言うことが、混乱に拍車をかけている。もちろん、それがいいのはわかるが、こういう騒動を引き起こす可能性について、十分配慮した上で発言すべきだろう。

どうしてもマスクが入手できなければ、煮沸消毒という手もある。子供時代、マスクは使い捨てではなかったから、母は煮沸消毒していた。せいぜい、口と鼻にあてるガーゼだけを時々交換していたくらいだ。

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2009年5月19日 (火)

額縁の役割

若い時、割と美術館に行って、絵画を鑑賞した。しかし、正確に言えば、当時は、絵画をよく“見た”ということだろう。残念ながら、“観た”とは言えない。絵画については、何も予備知識もなく、暇つぶしに、“眺めた”というべきか。時々、ちょっと面白そうな絵画については、わかったようなふりをして、見ていた(笑)。

こういうのは、若い時に、内容など、ほとんど理解できないのに、ちょっと背伸びをして、哲学書を読むようなものである。まあ、少し優越感を持ちたいという、自己満足的な行動だ。もちろん、今となっては、それも無駄ではなかったと思っている。お陰で、長い間、図録だけは残っており、後日、ちらちら見ていたから、全く、役に立たなかったということもない。それなりの知識も得た。

さて、そのことはさておき、本題に入ろう。昔、先輩で絵を描くのが好きな人がいた。その人がいいだろう、いいだろうと言って、一枚絵をくれたことがある。画用紙に描いた水彩画のようなものだったと思う。ペラペラで、こんなものをと思ったが、一応、お礼を言って、持ち帰った。

さすがに、すぐに捨てることもできないし、押し入れの奥に入れておけば、先輩が来た時に都合が悪い。止む無く、画材屋に行って、安物の額縁を入手し、それに入れてみた。

ところが、額縁に入れると、貧相な絵が、ぱっと活きてくる。これが同じものかと言うほどだ。この時ほど、びっくりしたことはない。これは一体、絵が主体なのか、額縁が主体なのか。結局、お互いが補いながら、一つの絵画の世界を構成しているのだろう。

そこで、初めて、額縁の果たす役割を知ったわけだ。額縁は、一つの世界を作るのだ。これは人間社会でも同じような気がする。絵の役割をする人と、額縁の役割をする人。どちらも必要で、どちらが欠けても、十分な成果は得られない。

本来、何もない空間に、ある特定の場所を切り取って、新空間を作る。産業人の役割もそうであろう。この世界は、もっと複雑で、モザイクのように組み合わさって、一つの空間を作る。絵画の世界は、それの最も小さい単位と言うことだろう。

誰にも、与えられた役割がある。どのように他の人と組み合わさって、新しい空間を作るかが、皆に問われているのだろう。

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2009年5月18日 (月)

晩餐の恩

食い物の恨みは恐ろしいというが、逆の話がある。昔の中国での逸話に次のようなものがある。

ある身分高い人が、晩餐に招かれた。もちろん、出てくる接待料理は豪華なものばかりだ。給仕が次々と料理を持ってくる。ある時、給仕が、それを、もの欲しそうな顔をしているのを見てとった。そういうことならと、気を配って、その者に、その料理を与えた。

当時、こういう習慣はない。周囲は、宴会の席で、下僕などに物を与えるなど、つまらない同情だと、嘲笑った。しかし、彼は、同じ人間なのに、ただ給仕するだけでは、その料理の味も知らず、かわいそうではないか、と気にしなかった。

時は流れ、国は乱れ、身分の高かった人は別の地に行かざるを得なくなった。知らない土地では、いろいろな苦難や危難があった。だが、そのたびごとに、誰かが助けてくれた。不思議に思っていたが、ある時、気になって調べたら、例の給仕していた下僕だった。

彼は、出世しており、それなりの立場にあったのだ。情けは人のためならず、というが、現代でも、このようなことはあるだろう。情理バランスと言われるが、情は、若干、理に優先する方がいいのだろう。

*出典  『世説新語』

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2009年5月17日 (日)

ノーブラの女性

先日、電車に乗り込むと、前に若い女性が座っていた。しばらくして気づいたのは、彼女がノーブラということ。う~ん、目のやり場に困る。ちょうど前だから、どうしても目につく。

目をそらして、きょろきょろしたら、かえって挙動不審者に見られてしまう。仕方ないから、下を向いていたが、なぜそんなに気をつかわなければならないのか、途中で腹が立ってきた。

もっと、ちゃんとした服装をしてくれ!!と叫びたくなった。男の本能をくすぐるようなファッションは止めなさいよ。本当に。と思っていたら、最近は、ノーブラが流行っているらしい。理由は、楽だからということらしい。

確かに、ブラジャーで締め付けるのは、不自然だろうな、というのは、男でもわかる。矯正下着の一種と言えないこともない。見栄を張るための手段と言えないこともない。ただ、ノーブラができるのは、若い女性だからできることと言えるだろう。

彼女たちも、いずれ、そういう格好ができなくなる。そう思えば、今できる特権を行使するのも仕方ないか。でもねえ、上に一枚、何か、羽織ってほしいね。

*関連記事  http://news.nifty.com/cs/headline/detail/jcast-41162/1.htm

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2009年5月16日 (土)

高校生、新インフルエンザ発症で、神戸まつり中止

神戸市内の高校生が、新インフルエンザにかかり、神戸まつりは中止された。明日はパレードの予定であったが、残念ながら、もちろん中止だ。外国からの帰国者でないことから、この病気が一般に流行る可能性が出てきた。

ただ、早期治療すれば、回復する可能性は高いので、冷静な対応が求められる。結局、人の多い所には、外出を控えることが大切だろう。外出する場合は、マスクの着用が勧められる。帰宅時には、消毒液による手洗い、顔洗い、うがいの励行と、清潔な状態を保つことが望ましい。そして、十分な休養と睡眠。

まず高熱などの症状が出れば、各地区の健康福祉事務所にまず相談し、感染を防ぐため、病院には直接行ってははならないとのこと。また政令市の場合は、各保険所に相談する(兵庫県下では、神戸市、姫路市、尼崎市、西宮市)。相談は、休日も含めて、24時間対応だそうだ。

神戸まつり中止は残念だが、致し方あるまい。今年は行くかどうか迷っていたので、流風にとっては、止めるいいきっかけになった。来年に期待しよう。それとも、落ち着いたら、年内に、またやるのかな。

*追記

もう一つの注意点は、室内の湿度を低くしないことだ。湿度は、出来れば、50~60%程度に保ちたい。商業施設によっては、異常に湿度が低い所があるので、要注意だ。

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2009年5月15日 (金)

女性のよく言う“向き合う”ということ

よく女性が、男女関係において、向き合うことが大切と、よくいう。流風の数少ない女性とのつきあいでも、よくそういうことを言われてきた。ただ、これはどういう意味なのか、男にはわかりにくい。単純に言えば、関係性の深さを強めることを言っているのだろうか。

まあ、よく考えれば、女性は異性に対して、「私だけを見て」と、訴えているようにもみえる。だが、男の性(さが)としては、あちこち見るのは本能だ。そのことに対して、女性は頭にくるのかもしれない。ただし、男は、いろんなところを見ることが、その存在価値であり、そうすることがなくなれば、去勢された男と同じだ。

もう一つ考えられるのは、女性は男に、これだけ愛情をかけているのに、男からは、それに対する返しがないということを言っているのかもしれない。愛は無償とは、言うけれど、そうもいかないのかもしれない。だが、愛に見返りを期待しすぎると、それは失望に変わるだろう。

あるいは、このようなタイプの女性は、愛情表現が下手で、異性に、その気持ちが伝わっていないのかもしれない。そういうことで、男女の関係に思いの違いが生じる。それは男が女性に対して、向き合っていないからだと、考えているのかもしれない。これも、やはり異性に対する過剰な期待が原因と言えなくもない。

というのは、男と言うのは、概して、女性の愛に鈍感なのものだ。もちろんナイーブな男もいるにはいる。しかし、逆にいえば頼りない。向き合うということを主張する女性は、そういう男を、母親のように愛したいのかもしれない。こういうタイプの女性は、真面目だが、若干、コミュニケーションが下手で、思い込みが強いタイプが多い。

あまり、「向かい合う」という過剰な期待をせず、異性が、たまに向かい合ってくれたとしたら、それは僥倖と思った方が、気が楽かもしれない。もう少し、肩の力を抜き、しなやかに生きてほしい。お互い、わかりあえるには、時間がかかるものだ、と割り切ってほしいものだ。

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2009年5月14日 (木)

釈迦が説く金持ちになる法

本当かどうか知らないが、釈迦が金持ちになる方法を説いているという。高邁な大僧正が、そのように語っていたらしい。その方法とは、次のようである。

 一、酒を飲むのを好んではいけない。

酒飲みは、酒を飲めないものを馬鹿にするが、いくら酒に強くても、いずれ災いは起こる。それは財産を失うきっかけになる。

 一、博打を打ってはならない。

博打に限らず、勝負事は、負けるようにできている。勝ったように思うのは錯覚にすぎない。それをわからずして、財産を失うのだ。

 一、早寝早起きで、仕事に精励すること。

要するに、人が働いている時は、しっかり働けということ。遅寝遅起きでは、一日のスタートが遅れて、結局、遅くまで仕事をせざるをえなくなる。これは人生において、貴重な時間の無駄遣いだ。

 一、必要な交際は、最低限度に抑える。

人間社会は、交際は必要だが、それにも限度がある。際限なく付き合っておれば、出費はかさむばかりだ。交際の意味を整理して、必要最小限の付き合いにとどめるべきだ。

 一、悪い友達とは、つきあわない。

悪いという意味は、いろんな意味がある。反社会的な人間は、もちろんとして、自分勝手な人もさす。そして、時間とお金を無駄遣いさせる人も指す。

 一、傲慢になって人を軽んじないこと。

つい自分に勢いがあると、人を見下げたりするが、相手は、それを十分感じており、いずれ、しっぺ返しされ、財産を失うきっかけとなる。

こうして見ると、なるほどと思える。特に「必要な交際は、最低限度に抑える」というのは興味深い。たくさんの友達と付き合うより、少ない親友と内容のある付き合いをした方が意味があるということだろうか。

釈迦が、もし、上記のような話をされているとすれば、何と人間臭いことであろうか。案外、釈迦は世渡り上手だったのだろうか。

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2009年5月12日 (火)

平家琵琶を聴く

やっと、『平家物語』の再読を終了したのだが、以前のブログても記したが、感慨深い。人間の業は恐ろしいということだろうか。そうかと言って、若い時から、悟ったようなことを言って、老成するのも頂けない。

結局、成長、成熟、老成と段階を踏むしかないのだろう。だから、若い時にいろんな欲をもつのも止むをえないし、それで失敗するのも仕方ないとも言える。多くの人間が、そういうことをわかっていて、同じ過ちを起こす。

昔の人は、そういう無常感を琵琶などで伝えようとしたのかもしれない。ところで、その琵琶にもいろいろあるそうだ。五弦琵琶、楽琵琶、平家琵琶、盲僧琵琶、唐琵琶、薩摩琵琶、筑前琵琶など。

流風が知っているのは、筑前琵琶と平家琵琶だ。筑前琵琶は、元宝塚の上原まりさんが有名だ。以前、一度、公演を見に行ったことがある。なかなか重々しくて圧倒された。その後、もう一度機会があったのだが、申し込みはしたのだが、スケジュールが結局調整できず、行くことはできなかった。

平家琵琶の方は、鈴木まどかさんによるもので、CD-BOOKを持っている。彼女も、あちこちで公演されている。残念ながら、まだ直接、聴いたことはない。結構、お寺などでも演奏されているようだ。お寺も、住職が、檀家にいろいろお話するより、この演奏を聴かせた方が効果があると思っているのだろう。御詠歌のように聞こえないこともない(笑)。

それでは、CDを聴き直してみるとしよう。

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2009年5月11日 (月)

置き薬の記憶

現在、医薬品の通信販売を許可するかどうかで揉めているようだが、流風の場合は、大衆薬は、常置しており、わざわざネットで買う必要は感じられない。病気になった時は、医師の処方箋で、薬局でもらうわけだから、ほとんど問題はない。

大体にして、日本人は薬を飲み過ぎだろう。それをサプリメントも含めれば、膨大な量の薬等を服用していることになる。もちろん、漢方薬のようなものは、体質改善のために有効かもしれないが、それさえ、医師や薬剤師の指導に基づいて、服用することが望ましい。サプリメントもそうだ。

そうだとすれば、僻地とか医療体制が十分でないところを除けば、ネットで薬を入手できるようにする必要はほとんどないと言える。大衆薬のようなものは、街に出たときに、購入すれば済む話ではないか。事前に用意しておけば、済む話だ。

これで思い出すのが、置き薬だ。子供の頃、富山から行商で、薬売りが来ていた。一か月に一度ぐらいのペースだったと思う。そして、薬箱を改め、減っていた分を支払う仕組みだった。大体、胃腸薬とか風邪薬が多く、後は湿布薬や包帯などを利用していたようだ。紙風船を景品によく貰っていた。

こう考えれば、医療体制の不十分な地域には、現在でもビジネスチャンスはあるだろう。問題は、そういう労をとれるかどうかだ。人の嫌がる仕事に、本来、ビジネスチャンスはあるのだが。しかしながら、現在は、当時と違って、田舎といえども、医薬品の入手は困難ではない。やはり事前の準備が大切ということであろう。

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2009年5月10日 (日)

世間の常識

常識というのは、馬鹿に出来ない。それは、その社会に住む人間が営々と築いてきたものだからだ。それは現代のいかなる知識も上回ることはできない。もちろん、国や、地域によって、その常識は異なるかもしれない。だから、文化・常識の違う人間が交流すれば、当然、摩擦が起こる。

日本は、比較的、海外の文化・常識を柔軟に受け入れてきたが、ただ単に受け入れただけではない。それを取捨選択し、新しい文化や常識を作り上げてきた。よく、それが日本の強さと言われてきた。確かに、そういう面はあるだろう。

その底には、絶えざる新規に対する興味を持ってきたとも言える。もちろん、そのたびごとに、いろいろ問題や課題が生じるわけだが、そこから新しいものを作ってきた。

だが、法律や制度を守ろうとする人たちの感性は、いつの時代も低い。それが彼らの役割と言ってしまえば、その通りだが、彼らの専門的知識が、新しいものを受け入れるのを拒むようだ。それが他者には、保身的に映る。

しかしながら、彼らも常識の変化をつかむ努力を怠ってはいけないだろう。同様に、一般人も、知識だけにとらわれずに、常識をきちんと身につけ、その変化も取り入れるように、常に学ばなければならないだろう。

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2009年5月 9日 (土)

余裕を持つには

余裕など全くない流風が、余裕を持つには、と論を起こすのは、おこがましい感じもするが、少し余裕について考えよう。もちろん、お金がたくさんあれば、余裕につながるのだろうが、お金持ちの人々が余裕があるかと見てみると、必ずしも、そうでもないようである。お金持ちには、それなりの悩みがあるらしい。流風から見れば、贅沢な悩みだなあ、と思うが。

まあ、ここで取り上げるのは、お金のことではなくて、気分的な余裕の気持ちについてだ。五月に入れば、五月病に陥る人々もいるようだから、参考になればね。これについては、“三舟”の一人である、勝海舟が、次のようなことを述べているらしいので紹介する(*表現は意訳して多少変えてあります)。

『人は余裕がなければ、大したことはできない。必要なのは、分相応の余裕だ。それぞれの度量に応じて、物事を見ていけばいい。小さい器量なのに、大きいことを考えると、たちまちにして、余裕がなくなる。自分が、物事を呑み込むぐらいが、ちょうどいい塩梅で、物事に自分が呑み込まれるようになったら、それは不幸というもので、どうしようもない』と。

結局、彼の言っていることは、自分の器を知るということかもしれない。現代人は、小さなこまごまとしたことで悩み苦しむが、第三者から見れば、おかしいことが度々ある。そうなら、自分は大したことないのだからと思って、先輩や優れた人に相談したら、解決する可能性が大きい。無理なことは、自分で抱えこまないことが大切なようだ。

*追記

但し、現在の器の大きさに満足してはいけないだろう。絶えず切磋琢磨して、自分の器を大きくしていく努力は必要だ。

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2009年5月 8日 (金)

今日の料理はポトフだ!

主婦の方は、いろいろ料理のメニューで大変だろうな。流風なんて、せいぜい作る料理は、皆、手抜きだが、本日は、残り物の野菜と冷蔵庫の中身の整理を兼ねて、ポトフとしよう。ポトフは簡単だし、その割においしい。若い時から、ちょくちょく作っている。

ご存じない方に、一応作り方を記すと、まず材料は、適当だ。たいていの家庭にあるもので十分だ。例えば、ジャガイモ、玉ねぎ、人参。まるでカレーの材料です。違うのは、カブ(なければ大根で代用)を入れ、セロリやネギとかがあれば、加えることくらい。肉は、何でもよく、残り物の肉でよい。

作り方は、出汁(あるいはコンソメを使ってもよいと思う)を用意する。それに肉や一口大に切った野菜を入れて、塩と胡椒少々で味つけてして煮るだけ。後は、灰汁を取りながら、柔らかくなるまで煮込む。

出来上がりは、汁も一緒に頂く。とても美味しい。さあ、今日も、うまくできるかな。実は、この料理は、健康的な料理としては推奨されているらしい。調理が簡単で、健康にいいとなっては、一石二鳥。これで、野菜は、ほとんどなくなり、明日は野菜をどっさり買い込む予定だ(笑)。

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水桶の水

徳川家光に仕えた松平信綱という人は、用心深かったようだ。当時も、江戸は、日頃から地震が多かったようで、いざという場合には、お城に駆けつけなければならない。だから、皆、地震があれば、駆けつけなければならない心構えはしていた。

ところが、彼は、その目安を作っていたようで、水桶に水を常時汲んでおき、地震が起きても、その揺れる程度で、登城するか判断した。すなわち、地震が起これば、水桶のところに駆けつけ様子を見る。水桶から水がこぼれるようなら、登城し、こぼれなかったら登城しないとしていたようだ。非常に合理的な判断をしていたわけだ。

誰でも、行動基準というものは、それなりに持っているかもしれない。それを明確な形で、持っている人は少ないかしれない。惰性に流されず、大いに学びたいものだ。

*追記

上記とは、少し事情が異なるのだが、子供の頃、父は、朝早く、バケツに水をくむのが習いだった。母がやっていることもあったが、大体、井戸の水を自分で汲んで、家の前に置いていた。それは日課のようだった。そして、夕方に、木々に水遣りするのに使ったていた。ある日、なぜ、その水はほとんど夕方まで、使わないのに、朝早く水を汲むのか聞いたことがある。

そうすると、これは用心のためにすることで、夕方、水遣りするためのものではない。もし、近所で火事などかあれば、水を汲む時間がもったいない。人間、すぐに行動できるようで、できないものなのだ。焦れば、普段できることの倍の時間がかかってしまう。だから、バケツに汲んで、用意しているのだ。大体、そういうような内容だったと思う。そして、水遣り後、新たに、水を汲み直していた。

父らしい配慮だと思ったものだ。それに火事を出せば、七代恨まれるということも言われ、そこに住めなくなる。昔は、地域の団体での奉仕活動は当り前だったから、こういう用意も自然に出てきた発想で、これは父だけではなかったようだ。それだけ、近所には迷惑をかけられないし、もし最悪の事態に陥っても、機敏に動けるように準備していたのだろう。

果たして、流風が、地域にそのような配慮ができているかどうか考えると、まだまだ不十分だ。長いホースを用意して、いつでも放水できるようにはしているが、それは水遣りのためだ。いざという場合に、どうすればいいか、日頃から考えておくのは、今更ながら大切と思う。

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2009年5月 6日 (水)

豚インフルエンザへの対応を見る

豚インフルエンザで、世間は騒がしいが、こんなに暑い日本で、インフルエンザは流行るのだろうか(*注)。確かにインフルエンザは怖いが、もう少し冷静に対応した方がいいのではないか。

日頃の基本的な生活態度が大切だろう。つまり規則正しい生活、十分な睡眠、外出から帰ってきたら、手洗い、顔洗い、うがいの励行。子供、高齢者のマスク着用。それだけをきちんと守るだけで、病気はある程度防げる。

ただ、今のように国際大交流時代には、海外から病は持ち込まれる。そういう意味では、防疫体制の確立は大切だ。単に海外旅行者が増えて喜ぶだけではいけない。結局、あまり、海外や人の多い所には出かけない方がいいのだろうか。

それにしても、牛肉のBSEの問題といい、鳥インフルエンザにしても、そして、今回の豚インフルエンザにしても、結局、人間が作り出した病のように感じられる。確かに、昔は認識されなかったものが、最近は、改めて病気と認識されているとも考えられるが、遺伝子操作とか、そういう人為的な生命加工が、新たな病を生み出している可能性もあるし、不適切な飼料が、動物の病を生んでいる可能性もある。

やはり、生命学・生物学的に無理な食物は危険を伴うということかもしれない。最近注目されている工場での野菜生産も、将来は問題を起こすかもしれない。人口と食糧調達というバランスが崩れかかっている地球において、我々に課された課題は大きい。

もしそうだとすれば、国や世界機関の対応は、極めて場当たり的であり、騒ぎ過ぎと言えるだろう。もっと根本的なことを話し合う必要性を感じる。

*注

インフルエンザが、温暖化対応しているという報道もある。ただ、事実関係は不明だ。新しい病に対して、病名がついていないだけかもしれない。単にインフルエンザとと似ているだけかもしれない。いずれにしろ、予防と抵抗力のある体づくりは必要だ。

*注

2009年5月3日に記したものを加筆訂正した記事です。

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タイミングということ

女性に告白するにしても、上司に失敗を申告するにしても、タイミングがある。これをはずせば、獲得できるものを獲得できず、上司から大目玉を食らうことになる。本日、5月6日で言えば、「六日の菖蒲」ということになると、その意味はなくなってしまう。昨日は、ところで菖蒲湯に入られましたか(笑)。

結局、タイミングの要諦は、何かと言えば、相手の状況把握であり、雰囲気の理解だろう。だが、往々にして、この状況把握や雰囲気の理解に疎いのが、男かもしれない。最近の男は、そういう気配りができる者もいるようだが、瞬間的な状況判断力は、経験を重ねないと、なかなか身に付かないものだ。

ちまちまと現象を見ているだけでは、世の中を見通すことはできない。タイミングを外して、異性には振られ、上司には、失敗を告げて、怒鳴られる。前者と後者では、確かに事情は異なるが、それぞれに修行が必要と言うことだろう(笑)。

つまり、タイミングは大事だ。大きな全体的な流れの中で、タイミングを把握することは重要な意味を持つ。男は、時代感の中で、うまく“瞬間”を捉えたいものだ。こまごまとしたことで、失敗しても、くよくよしないことだ。多くの訓練の中から、いずれ精度は高くなる。数打ちゃ当たる、ということでもないが、失敗を恐れないことは大切だと思う。

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2009年5月 5日 (火)

南蛮美術展に行く

連休で、人が多いだろうなとは思いながら、街に出かけると、意外と観光客は少ない感じだ。インフルエンザ報道のためだろうか。いつもの土日より少ない感じ。いつものように、散歩していると、博物館が目に入ったので、久しぶりに入館してみた。

その神戸市立博物館で、南蛮美術企画展として、『近世初期風俗画と南蛮工芸』が、催されていた。かつて、この博物館で鑑賞したものもあるが、初めて観るものも多かった。展示点数は、24点(他に2点)と、少ないが、なかなか面白かった。

南蛮のパトロンとしての、信長と秀吉像や、遊楽図、洛中洛外図。その他に、初期洋風画、南蛮屏風、南蛮工芸、輸出漆器などが展示されていた(以上、2階南蛮美術館室)。江戸時代にはあまり見られなかった豪華絢爛な感じだ。やはり安土桃山時代はあったのだ(笑)。

1階には、あの有名な「聖フランシスコ・ザヴィエル像」と、狩野内膳による「南蛮屏風」の複製が展示されていた。流風は、あの自信ありげな、そして見下げたような雰囲気のザヴィエルが嫌いだが、この「聖フランシスコ・ザヴィエル像」は、教科書にも出ていて有名だ。彼は、日本に対して、キリスト教布教による植民地化を望んでいたのは言うまでもない。彼は、その先兵だ。結果的に、日本の武力を知って、諦めるのだが。

もう一つの「南蛮屏風」の複製は、京都文化協会とキャノンの協力の下で、作成されたものらしい。そういうと、最近は、展示用に、複製画を用いることが多い。実物では、見にくい所が、復元されて複製されると、観る者にとってもわかりやすくてよい。このように見ると、この屏風は、かなり絢爛豪華だ。秀吉時代を象徴するものだろう。

彼は、キリシタンを禁止したが、南蛮貿易は容認した。ここら辺が、彼の現実主義が読み取れる。貿易が富を産み、権力基盤を支えてくれると判断したのだろう。この屏風は、当時の雰囲気をよく出している。安土桃山時代は、権力者の彼の性格を反映して、絢爛豪華で明るい。権力者は時代に影響する典型であろう。その結果として、芸術が残る。芸術はパトロン次第という感を強くした。

*追記

その他に、別の企画展の展示としては、古地図企画展示として、『江戸時代の世界図遊覧』と、『ズームアップ!日本の銅板画』があったが、こちらは軽く流した(笑)。あまり興味がないし、地図の方は、今まで鑑賞済みのものばかりだったから。当時の世界図の展示は、定期的に、よくされるが、もっとほかのものの展示をやってもらいたいが、こういうものに関心がある人も多いのだろうか。

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2009年5月 4日 (月)

食品事故と告知ネット

最近は、食品事故の報道はあまりされませんが、新聞などを見ると、時々、告知の記事が載っている。毎日とは言わないが、食品事故は起こっているようだ。しかしながら、事故米のような大きな事件性を帯びたもの以外は、あまり大きく報道されないので、消費者は、見過ごすことが多いようだ。

しかしながら、事業者を監視するのは、何も行政だけではないだろう。消費者も、日頃から、強く関心を持つ必要がある。実際、事故告知ネットでも、それは公開されているのだから(*注)、それを毎日チェックするだけでも、事業者の監視になるはずだ。

すなわち、消費者にとって、事故を起こした企業名はインプットされるから、仮に一つの製品でも事故を起こせば、イメージダウンだ。企業としても、自制が働く。もちろん、明らかになっていない事故品も多いだろう。内々で処理されているものもあるかもしれない。

そう考えれば、事故品を出したからと言って、単純に、その企業だけを非難することはできないと考えるようになるかもしれない。もちろん、事故品は出さないのがベストだが、そのためには管理コストを負担しなければならない。

情報をオープンにしているところは、次善的に評価できる。闇で処理している企業こそ非難されるべきなのだ。だから、食品事故は、もっとオープンにされるべきであろう。むしろ、その事後処理が、企業に問われる課題であろう。同じ事故を再度起こせば、その企業の品質管理能力が問われることになる。そして、信頼を失うことになる。

いずれにせよ、企業は、この告知ネットをもっと利用すべきだろうし、消費者も強く関心を持ち続けることが、よりよい製品を生み出すと思う。

*注  ネットで下記のように公開されている。   

     『食品事故情報告知ネット』  http://www.shokusan-kokuchi.jp/

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2009年5月 2日 (土)

値下げ、値下げと言うけれど

不況で物が売れないせいか、流通業などは、値下げ、値下げと繰り返している。でも、昨年は、原油高騰の煽りを受けて、物価は高騰したから、値下げと言われても、そんなに下がっているとも思えない。確かに、部分的には、元に戻っているものもあるが、多くは、実質、そんなに下がっていない。

もちろん、いろんな状況がある。外食産業は、国産の材料を使うことを求められているから、下げることはなかなか難しいかもしれない。コストダウンできるのは、大量に食材を扱うファストフードとか、コンビニぐらいのものだろう。他の食産業は、高止まりにならざるをえない。

ところがコーヒーチェーン店の提供価格は、これだけ円高になっているのに、価格は値上げして、据え置きのままである。もともと輸入品なのにだ。だから、流風は、かつて週三回ぐらい利用していたのが、今は一回ぐらいだ。父が喫茶店でお茶を飲むのは贅沢だと言っていたのを噛みしめている。もちろん、下げるには、タイムラグあるのかもしれないが、今後期待したい。

さて、流風の一番の関心事である食材の価格は、概ね安定していると思う。ただ、スーパーによってはアイテム数を減らしているところもある。そして、価格は安いが、商品の質を明記しないところもある。手に取れば、明らかにワケあり商品なのに、それを表示していないのだ。見ればわかるでしょと言うことかもしれないが、少し誠意が足りない。

もちろん、農産物が、かつての流通の事情から生じた食材のワケあり商品が安く提供されることは大歓迎だ。調理すれば、後は、全くわからないからだ。多くの農家で無駄になっていたワケあり農産物が有効消費されることは国としても望ましい。

このように、誰にもメリットのある低価格の商品はいいのだが、商品の組み換え操作したり、中身が劣化している場合もあると聞く。下請けに無理な価格を押しつける流通業者もいるようだ。

例えば、PB商品と言われるものでは、現在、その値下げ競争をしている。これは全く馬鹿げていることは、以前にも指摘した。流通業者は、三方よしを考えなくてはならない。消費者だけが得をするような、あるいは流通業者だけが得をするようなビジネスは長続きしない。

いかに利益関係者とコミュニケーションしながら、その落とし所を考え調整するのが流通の役割ではないか。消費者に単に安売りで、おもねても、いずれ、その正体はばれる。それで、結局、損をするのは消費者である。そうであるなら、無理な商売は考えぬことだ。

そして、消費者は、商品の選択眼をしっかり持つべきだろう。値下げ、値下げで、質の悪いものを買っていないか。いい物を、その価値より割安で買えるのなら、ともかく、そうでないケースが多いのではなかろうか。

安物買いの銭失いとは、昔から言われてきたことだ。それは何も消費者に限ったことではない。流通業者にとっても同じことが言える。消費者は、流通業者の値下げの根拠がどこにあるのか、見定める必要がある。それを見極めてから購入しても遅くないと思う。今こそ、どこから購入するかが問われている。

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2009年5月 1日 (金)

世襲ということ

世襲問題が、やっと政治の世界で取り上げられている。多くの国民にとって、閉塞感があるのは、政治家の世襲も一役担っていることは確かだろう。世襲議員も、能力があればいいではないかという意見もよく聞くが、地盤、看板、鞄で得た地位は、自分の考え通りには、運ばない。結局、これらは世襲議員にとって、大きな足かせになるだろう。

だから、いかに世襲議員に能力が高くとも、それは割り引いて考えなければならない。すなわち、あるべき政策が反映されない場合が多いと見てよい。これが世襲議員の根本的な問題だ。

だから、地盤、看板、鞄(金)をすべて引き継がず、独自の能力で、全く違う選挙区で立候補するなら、それを阻むことはできないだろう。独自の地盤を築き、自分のブランドを築き、多くの支持者から個人献金を集めて、政治家になるのを抑えることはできない。

ただ、現在の世襲議員は、いわゆる出来上がったものの上に乗っかった、お飾り議員であるのがほとんどだろう。自分自身の考えは、基本的に何も反映されない場合も多いだろう。あるいは制限されるだろう。結局、大半は世情に疎く、たまに意見を言っても、世間外れの頓珍漢な的外れの発言をして、騒動を起こすぐらいだ。

国民が政治に対して、諦め、閉塞感を持たないような仕組みが必要だろう。世襲を制限し、新たに政治を志す人々が出てくるようにしたいものだ。そうすれば、本当の世論が反映され、マスコミによる衆愚政治も少しは改善されるだろう。

*追記

一部マスコミ(朝ズバなど)は、世襲制限に、やや否定的だが、何もわかっていない。安易なコメントをしてほしくない。もともと司会者が意見を言うレベルの低い報道番組だが、コメンテイターも問題が多い。

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