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2009年5月31日 (日)

視・観・察について

昨日に引き続き、佐藤一斎の『言志四録』から取り上げてみよう。今回は、彼が66歳の時に、記したものだ。以下に示す(一部、現代表記に改める)。

  余自ら視・観・察を翻転して、しぱらく一生に配せんに、

  三十以下は視の時候に似たり。

  三十より五十に至るまでは、観の時候に似たり。

  五十より七十に至るまでは、察の時候に似たり。

  察の時候は、まさに知命・楽天に達すべし。

解釈はするまでもないが、一応、流風なりの考え方を付加しておこう。この「視・観・察」という言葉は、『論語』にあるものだが、彼は、そこから、人生に重ね合わせて、更に考えている。

つまり、30歳以下の者は、案外、世間を雑に捉えている。見ているようで、その実、表面的なことしか見えていない。それは年齢的に、経験も浅く、仕方のないことだ。それが、「視」だ。

それが30歳から50歳になる頃には、個人差はあるものの、世間をもう少し、深く見ていこうといことになる。人間社会は、表面的なものだけで動いておらず、いろんな複雑な連関や人々の見えない心理で動いていることがわかるようになる。それが、「観」だ。

さらに、50歳から70歳ぐらいになると、更に詳しく世の中を見るようになる。それは過去の歴史や古文書などからも、真実を探り当て、現況と照らし合わせて、未来のあるべき姿まで、見えてくる。これが「察」である。

この「察」の時期になれば、次世代に対して、やるべき天命を感じつつ、期待を込めて、人生を楽観的にとらえることが大切だ。あまり悲観的に考えるのは、よくないだろう。

まあ、大体、このような解釈だろうか。確かに、自分の人生に照らし合わせても、そうなのだろう。ただ、この意識を持つのと、持たないでは、その意味の重みは違ってくる。つまり、ただ単に歳を重ねても仕方ないということだろう。

 

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