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2009年6月30日 (火)

国家経営の基は、倹約にあり

国家や自治体の金銭感覚は、疑いたくなる場合が多い。それは自分の金と違って、他人の金と思って、国民から預かっている金である意識もないのだろう。そもそも、国家経営の基は倹約にあることを忘れてはならない。

天下りのために、予算取りする官庁も、反国家的行動だろう。これぐらいはいいだろう、の連続が、国家財政を危機に陥れている。多大な国の借金は、いずれ国民の上に、重くのしかかる。

それは税金か、インフレか。いずれにせよ、国民にとっては、あまり望ましいことではない。国家経営は、もっとケチでなければならない。そして、使わなければならない時は、思い切って使う。ということは、各所からの要望に沿って、予算など立てていたら、キリがなく、無駄遣いを生んでしまう。

仮に湯水のような税収があっても、それはいつの間にか無くなる性格のものだ。出ずるを制すということが、国家予算で重要なことは、一般家庭と異ならない。私達は、あまりにも無能な、為政者や行政に任せてきたのだ。彼らに俸給を返上させるべきかもしれない。彼らが高給を取っていいという時代は終わりつつある。

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2009年6月29日 (月)

刈り上げは、やはりいい

流風は、月1回、理容店に行く。そこで、いつも刈り上げにしてもらう。年齢的には、可笑しいのでは、よく指摘されるが、刈り上げ指定。それも年中だ。暑くなる夏の期間だけ、短くしたり、刈り上げにする人は多いが、流風は通年だ。

この短い髪の毛で通しているのは、子供時代の、父の方針が影響している。小さい子供時代は丸刈りだった。少しでも、伸びようものなら、母にすぐ行かせて切って来いと言っていた。もちろん、父も散髪好きで、2週間か20日間隔で、理容店に行っていた。晩年は、ほとんど髪の毛は薄くなり、無くなっていたのに、どこを刈っていたのだろうか。

だから、流風家では、長髪は絶対あり得ない。しかし、子供の頃の丸坊主は、夏の間は、いいのだが、冬に床に入ると、頭がスースーして、冷たかった。だから、布団をかぶって、よく寝たものだ。それでも、父は髪を伸ばすことを許さなかった。子供は頭を洗っても、冬場は、髪の毛から風邪をひくと言って聞かなかった。

そういうことで、それが習慣になり、ずっと短い髪だ。先日も散髪に行って、刈り上げにしてもらった。ああ、気持ちがいい。それに二次効果もある。先日、散髪帰りに電車に乗って、少し居眠りをしていると、誰かが頭をなでなでしている。うむ!

起き上がると、隣の男の子の赤ん坊だった。おいおい、そんなにいじらんでくれ。気持ちがいいのかな。お母さんは、居眠り中のようで、起こすわけにもいかず、困ったもんだ。途中で、そのお母さんが気付かれ、恐縮されていたが、小さな子供は何でも触りたがる。まあ、短い髪の毛だから、大勢に影響なし。これも刈り上げ効果?

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2009年6月28日 (日)

農地の所有と農業経営の分離

農業者の高齢化と、食糧自給率が低いことから、危機感を感じて、農業が注目されている。新規営農者の募集もされているようだが、問題は農地が確保できないことだという。すなわち、農地の所有者が、現地を離れ、相続しても、誰が所有しているか、第三者にはわかりにくいことが原因という。

農業を継がない相続者がいるが、それが放置されるという問題がある。結局、活用されない農地があるのは、不自然な感じだ。農水省も対策を考えているようだが、国内資源が有効に活用されるように配慮してほしいものだ。

やはり、そこでは、今後は、農地の所有と農業経営の分離が求められる。ただし、農地を貸し出すにしても、何らかのルールを作り、行政が関与することが望ましいだろう。農地の貸借でトラブルが起こらないようにすることが望まれる。つまり土地を国や地方行政機関が借り上げ、農地所有者を安心させることが肝心だ。

一般経営では、資本と経営の分離は当り前だが、農業分野では、それができていなかった。それには様々な事情があるだろうが、農業就労者が減っている現在、近い将来、食糧安保の問題が大きくなるのは見えている。渋谷ギャルによる渋谷米など、若い人の農業への関心が強まっている間に、制度を抜本的に変えて、新就農者が増えるようにしてもらいたいものだ。

*平成26年12月26日追記

現在、兵庫県では、「農地中間管理事業の推進に関する法律」に基づき、平成26年4月に、公益社団法人兵庫みどり公社を農地中間管理機構に指定。公社は、農地の集積・集約化を促進し、農地の貸手から借りて、新たな農業の担い手に農地を貸付している。5年前に記したことが、今、実現している。

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2009年6月27日 (土)

美術館か、ギャラリーかという問題

日本の美術館には、大変規模の小さいものがある。これが果たして、美術館と呼べるのだろうかというものまである。所詮、これらはギャラリーではないかとよく感じる。それなのに、結構高い料金を取る。展示数で料金を決めるものではないだろうが、100点以下で、1000円近くとるのは、全く解せない。

本来、美術館として、入場料を取れるところは、本当は限られているのではないか。以前、公共投資として、上物投資された“美術館”という残骸が全国にあるが、大半は企画内容も大したことないし、もうこれらは、明らかに美術館と言うには、おこがましいのではないか。

そうであれば、ギャラリーに格下げするか、他の美術館と合併・再編して、真の美術館にすることが求められている。文化政策には、どことも少し甘い所がある。しかし、これらにも大ナタを振るい、無駄な文化施設の見直し・転換及び、予算の大幅な削減が求められる。

*追記

基本的にギャラリーは無料であり、そのような美術館まがいの施設は、ギャラリーに変更して、NPOあたりに運営を任せればいい。その中で貴重な美術品は、国立美術館等が買い取りすればいい。

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2009年6月26日 (金)

緩急ということ

野球で、豪速球を投げるピッチャーは見ていても、気持ちよいが、そういうスタイルで、いつまでも投げ続けられるわけでもない。年齢とともに、スピードが落ちるのはやむを得ない。また、投げるポイントが相手にわかると、結構打たれることもある。

それに比べて、軟投のピッチャーは、打たれそうで、大半は、フニャフニャの速くない球なのに、打者を封じ込めるケースが多々ある。打者の打ち気をそらすため、逆の球を投げる。そうして、打者の迷いを誘い、最終的に打ち取るわけだ。

これは、ちょっと意味は違うが、組織運営でも緩急は大切だろう。いつも怒鳴り散らし、組織が緊張の連続では、組織はもたない。構成部員は緊張で疲れてしまって、いいアイデアも生まれなくなる。それは組織の停滞を生む。

やはり、時には、無礼講で、ハメをは外す機会を設けなければならない。それは新しい活力を生み、組織の活性化につながる。最近は、若い人も、仕事の後の飲み会も断らないようになりつつあるようだが、これは非効率のようではあるが、仕事をする上では効果的だ。

同様に、家庭の運営も、案外、そういうところに依存している。いつも夫を締め付けている妻は、家庭の運営が下手な女性だろう(笑)。時には、旦那を解放させてやる操縦術が意味を持つのだ。意外な妻の優しさには、ころりと参る男は多くいるだろう。そうかと言って、男なんて簡単さ、と思わないで頂きたいが(笑)。

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2009年6月25日 (木)

騒ぐ地方の首長たち

どこかの県知事が、県知事の仕事を放り出して、国会議員になると言っている。そして、自民党の総裁選候補になることを条件にしているという。大体、思い上がりも甚だしい。とても彼はそんな器ではないだろう。知事と国会議員の仕事は全く異なる。

そんなことより、地方財政の無駄遣いの洗い直しをもっと徹底させるべきだろう。国の無駄遣いもひどいが、地方に金をよこせと言っている地方自治体の無駄遣いも相当なものだ。そういうことには、手を入れず、わいわい騒ぐ自治体の首長は情けない。まるで自分の無能さを露わにしているだけではないか。

皆によいしょされるから、天狗になり、思い上がった発言につながるのだろう。こんな低レベルのことはどうでもよいが、あの県民が可哀想なだけである。為政者は、低支持率も困るが、高支持率も、為政者を増長させるだけだと、県民は、初めて気付いたのではないか。

タレント出身の首長たちは、話題作りは、上手だが、地に足のついた行政をやっているとは思えない。全てを否定するつもりはないが、もっと地道な活動を続けるべきだろう。住民や地方役人に負担させることは言わずに、国に全て押し付けるのは、どこかおかしい。

もっとやるべきことをやってから、国と交渉すべきだろう。それを一足飛びに国会議員になったところで、いずれ無力感を味わうだけなのだから、きちんと地方で実績を上げてもらいたいものだ。それができないというのなら、それがあなたの能力の限界と言うことだろう。それなら、さっさと次の人に譲ればいい。

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方言による文章は傲慢か

かつて著名な作家の方が、文章の中に、方言を入れるのは、独善主義とか、語っておられたような記憶がある。しかし、果たして、そうなのだろうか。この作家の出身地はわからないが、東京方面の生まれではなかったのか。残念ながら、確認はできないが、そんな気がする。

もちろん、方言を使えば、その意味は、その地方に住む人にしか理解できず、作品としては、限界があることはわかる。しかし、今はネットで調べれば、わかるし、どうしても伝えたかったら、注記すればすむ話だ(*注1)。

例えば、以前にも少しふれたが、『源氏物語』の現代語訳でも、標準語で訳せば、そのニュアンスは微妙に違ってくる。やはり、その訳は京都弁(*注2)でなくてはならない。京都弁の微妙なニュアンスがわかれば、『源氏物語』の真の理解ができるだろう。

確かに、これまでの訳者は、それなりの努力はされているが、ニュアンスを伝えるために、余計に文章が長くなり、本来の文章の美しさを伝えきれていないのだ。これは、『源氏物語』だけに限らない。古典の京都文学はすべてそうだ。

こう考えると、方言のもつ地域性や文化は、それなりに尊重されてもいいと思う。方言の意味を知らない方に、伝える努力も大切だが、方言のもつ文化を知ってもらうにはいい機会とも言える。

*注1

確かに、方言ばかりだと、他の地区の人には、まったく理解されないかもしれない。その辺は程度問題だろう。内々の文学なのか、広く読まれたい文学なのか、という差で、方言の扱われ方は異なる。

*注2

京都弁を方言とすることに違和感を覚える京都人も多いかもしれないが、ここは例証として、勘弁頂きたい。

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2009年6月24日 (水)

翻訳しやすい日本語で話すこと

義務教育の小学生での英語教育が盛んに言われるが、あまり成果を上げていないようだ。小学生での、バイリンガルは、脳を混乱させるだけだろう。言語は、文化であり、きちんとした教養のない上に、自国言語以上の言語を学べば、混乱するのは当り前である。

外国語は、基本的に学びたい人だけが学べばいい。全ての日本人に英語が必要なわけではない。きちんとした日本人としての意見が言えることがまず優先される。

ただ、国際交流時代に、外国語に触れる機会は、日常的になりつつある。その中では、異文化のコミュニケーションは必要になってくる。そこで、求められるのは、通訳や翻訳機を利用するにしても、翻訳しやすい、わかりやすい日本語を使うことだろう。

そうすれば、翻訳が的確に行われて、コミュニケーションは、スムーズになる。だから、むしろ話し方の訓練が求められる。結論から話すというのも、一つの方法だろうが、基本的に短いセンテンスで話す方が伝わりやすい。そのような話し方の工夫をすることが、国際社会でのコミュニケーションをスムースにすることだと考える。

ただ、話したいことを明確に話すことは、簡単なようで簡単でない。日頃からの伝わりやすい話し方の訓練が必要で、日本人に求められているのは、まさにそういうことであって、外国語教育がすべてではない。

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2009年6月23日 (火)

岐路に立つということ

人間、生きていると、岐路に立つことがある。人生は選択の連続だ。お昼に何を食べるかという、小さい選択とは別に、仕事の選択やパートナーの選択のような人生の節目の重要な選択がある。一体、右行けばいいのか、それとも左に行けばいいのか。そういう時、人々はどんな判断で決めているのだろう。

そして、その選択が、人生を決めてしまうことも多い。それは極端に、天国か地獄となる場合もある。判断基準は、たくさんの情報を集めつつも、おそらく瞬間的なものが多いかもしれない。それは、だから、“かつて見た風景(記憶)”で脳が判断するのかもしれない。それでは、天国と地獄の分かれ道は何なのか。

それは結局のところ、正しい心を持ち続けるということではないか。正しい心は正しい行動を選択する。いくら貧乏でも、心は正しくということが、天国への切符を手に入れることのようだ。つまり、歌の文句じゃないけれど、「ぼろは着てても、心は錦」の精神で、芯のある生活を送っていると、見えない物が見えるということかもしれない。

若い人は、これから何回も岐路に立たせられることだろう。その中で、正しい選択をし、運をつかむには、正しい心を持つことだと思ってもらいたい。そして、いつもそれが発揮できるように常に平常心で臨んでもらいたいものだ。

すなわち、岐路に立っても、特別な判断をしないということかもしれない。日常的な行いが、いざという場合も、冷静さを失わずにいれば、正しい判断はできるということだ。

もちろん、それは多くの修羅場を踏んで、真に理解できることかもしれない。つまり失敗の選択と思ったことも、長期的に見れば成功のこともある。選択の結果は、すぐにわかることもあるが、時間が経たないと正確に評価できない時もある。時々、選択と結果を俯瞰して、客観視することも大切だ。

*追記

ここでは岐路での選択について記したが、もちろん、選択後の心構えや行動も同様である。

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2009年6月22日 (月)

人生の折り返し地点はいつ?

人生の折り返し地点というのは、いつ頃を指すのだろうか。流風は、もう既に、折り返し地点を過ぎていると思うが、明確な地点は把握していない。多分、平均寿命から割り出して、普通は考える。でも、いつまで生きるかという寿命は誰にもわからない。

となると、折り返し地点というのは、随分曖昧なものである。だから多くの人は、マラソンのように気にせず、いつの間にか、折り返し地点を通過することになる。それがわかるのは、死が近くなって、初めてわかるのだろう。あの時が、折り返し点であったと。

となると、やはり、それなりに明確な生きる目標を以て、生活することが大切ということなる。だらだら過ごしていたら、いつの間にか、お迎えがきているということになりかねない。その時になって、「自分の人生は何だったのか」と嘆いても、すでに遅い。

わからないながらも、人生の折り返し地点を意識しながら、生きていくことが、メリハリののある人生の過ごし方なのだろう。ああ、自省(笑)。今時、自省なんて、テキトーな人生だったな(苦笑)。

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2009年6月21日 (日)

鶏肉とほうれん草炒め

今日は雨かなと思ったが、意外と晴れ。晴れ男も、こうも暑い日が続くと、さすがに少し参る。明日から、天気が崩れるらしい。まあ、それもいいか。

さて、夕食は何にしようかと思ったが、先日作った親子どんぶり用の鶏肉が余っていたので、ほうれん草と炒めてみた。これは15年ほど前に買った料理本にあるレジメで、気に入って、よく作っている料理だ。簡単だし。手順は次の通りだ。

まず、鶏肉は、適当に切って、酒、醤油をまぶして、なじませる。

次に、卵に塩、胡椒を少し振りかけて、よく混ぜる。フライパンを熱して、油を入れ、スクランブルエッグにする。一旦皿に取り出す。

フライパンに油をたして、鶏肉を炒め、肉の色が変わったら、予め茹でておいた、ほうれん草の短く切ったものを加えて、さらに炒める。

そして卵を戻し、オイスターソースと酒を加えて、手早く混ぜて、出来上がり。簡単にできて、栄養バランスもいいという。中華スープなどあればなおよし。

ほうれん草は、以前茹でて冷凍していた物を使用。全く問題はない。本日も、満足、満足。

それにしても、この料理本は、もうボロボロ。捨てるわけにもいかないし、修復をどのようにしようか、思案中。

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茄子と和尚

家庭菜園で、今、夏の野菜の定番、キュウリと茄子と、トマトの苗を買ってきて植えている。それを日経流通によると、「自産自消」というらしいが、まあ、流風が作るのは、どれも、所詮、趣味の範囲内だ。それほど、たくさん作るわけでもない。

それでも、一応順調に育ち、キュウリは先日、1本収穫し、そのあとに2本収穫した。1本は、収穫が一日遅れたため、少し巨大化(笑)。後、4~5本はできるだろう。茄子は花が咲いている。実はなりかけているが、収穫は少し先のようだ。トマトは、何個か青い実をつけて、少しずつ大きくなっている。これも、しばらくすれば収穫できるかもしれない。

さて、今回は、落語の話だが、茄子関係のものを一応取り上げておく。公演はあまりされない。ちょっとシモネタでもあるからだろうか。

嫁に茄子を食わすなとは言うけれど、ある和尚さんが茄子好きだった。女性は、イモ、たこ、南京が好きと言うけれど、流風も、どれも好きだ。別に男が食ってもいいでしょ。この和尚さんは、嫁ではないが、茄子がお気に入り。

茄子は炒めものにしても美味しいし、漬物、あるいは焼き茄子なども堪らない。生姜醤油につけて食べると、天下一品だ。先日は、茄子の煮物を作ってみた。出汁は、二つの方法を取る。一つは、エビを甘辛く焚いて、その出汁で、茄子を煮る。もう一つは、出汁雑魚(煮干しのこと)で出汁を取り、砂糖、醤油、みりんで味付けし、煮る。油を少し落とした方がいいかもしれない。ちなみに流風はゴマ油を少し、風味づけに入れる。どちらも美味しい。

この和尚さんも、どのような料理をしていたかは不明だが、寺の後ろの空きスペースとなる庭に、毎年、茄子を作っていた。手入れを十分するものだから、実もたくさん成る。それを食べるのを楽しみとしていた。

ある年に、お盆の施餓鬼を終えて、ホッとして、夜は湯浴みをした。施餓鬼は、仏教徒なら、みな御存じなように、たくさんのお坊さんによるお経が延々と続く。だから、施餓鬼は長い時間、お経を唱えるので、聞く方もお経を上げる方も大変だ。終われば、ホッとするのは、お坊さんだけでなく、檀家の皆もそうであろう。暑い季節だから、湯浴みすれば、多少疲れも取れるかもしれない。

後は、庫裏でくつろぎ、寺男も盆踊りとかで出かけたので、夜食に酒を飲みながら、くつろいでいた。どうも、生臭(なまくさ)坊主のようだ。僧侶としての規範を守らず、呼び名を変えて(般若湯など)、肉や魚や酒を食らう。まあ、僧侶を聖人扱いするのは、洋の東西を問わず間違っているは思うが、節度は必要だ。

そうすると、眠くなって、うとうとしていた。そこへ、若い娘登場。こりゃ、危ないぞ(笑)。酒とくれば、女、相場は決まっている。坊さんの恋は、はりまや橋だけに限らない。そして、その娘が言うには、「私は、日頃可愛がってもらっている畑の茄子でございます。いつものお礼に、肩でも揉んでみせましょう」と言う。きたきた、何か魂胆があるぞ。

ところが、その和尚は、無防備にも、酒のお酌をさせる。そして、後は、よくある、男と女の仲、契りを結んでしまった。据え膳食わぬは、男の恥だなんて、いうけれど、あんたは、一応僧侶でしょ。困ったもんだ。でも、今の宗教界でも、あるんでしょうね。

事を終えて、これは厄介なことをしてしまったと思ったら、目が覚め、夢だったと気付いた。ああ、よかったと一安心(笑)。それでも、この和尚は、「これは、愚僧が、まだ修行が足りなくて、煩悩に迷わされている証拠だ」と気付き、そのまま寺を出で、諸国行脚の旅に出かけてしまった。

何年かして、寺の近くまで戻ると、畑を歩いていた小さい娘が、「おとうちゃん」と走り寄ってきて、足にすがりつく。以前、流風も、祭りで、小さな子供さんに、間違われて足にまとわりつかれて、同じことを言われた(笑)。和尚は、「これはこれは、何かの勘違い。私のような世捨て人に子供はいない。どこの子供さんかな」と言う。

しかし、娘は、「いや、確かに、おとうちゃんだ。今から7年前、施餓鬼の晩に、茄子のお腹に宿った子供です」と言う。まさかと思ったが、「もしや、誰かと。親はナスとも、子は育つか」とオチ。

この落語は、馬鹿げていると言えば、馬鹿げている。しかし、若い女性に迫られたら、どうするか、という問題は残る。それが誰かの差し金なのか、本当に好意を持ったからなのか。そういうことも、男の修行と言えば、一般人にも、同じことが言えるかもしれない。

一時的な歓喜のために、子供ができて、養えるのか。子供を責任を以て養育できるのか。単に親はなくても子は育つともいうが、それでいいだろうか。やはり無責任な男女関係は避けるのが望ましいと言うことだろう。やはり、家庭菜園の、茄子、キュウリ、トマトの収穫で満足する方がいいようですな。これらだったら、いくらできても、食べるだけ。できすぎるのも困るのだけれど。

*追記

もちろん、この落語はフィクションであり、事実ではありません(笑)。でもね、・・・。

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2009年6月20日 (土)

料理の選択に迷う

自炊するようになって、それなりの時が過ぎたが、料理の選択はなかなか難しいものがある。意識しなければ、どうしても好きな料理に偏るし、それは避けたい。そうかと言って、そんなに豊かな料理の知識があるわけでもない。今更ながら、主婦の苦しみをやっと理解した段階だ。

最近は、多少諦めの境地に入ってきて、いろんな料理本から、まず1冊を選択し、ぱっと開けたところの料理を作ったりもしている(笑)。但し、材料がそろわない時は、適当に材料を変えたり、減らしたりしている。

しかし、それでも、似たような料理になることもある。その場合は、もう一度選択し直したりしている。まあ、随分といい加減なものだ。それに、素材として、家庭菜園の収穫もある。トマト、キュウリ、ネギ、茄子をどのように使うか。これから収穫できるので、本当に悩ましい(笑)。何といっても、一度にどさっとできるじゃないですか。

それに、夏場は、冷蔵庫に入れるにしても、日持ちしにくい。冷凍という手もあるが、できるだけ避けたい。となると、一日料理ということになる。だから余計に大変だ。結局、似たような料理ばかりになるんだろうな。こうなってくると、家庭菜園も善し悪しだ。

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高校生やり手スナックママ

先日、高校生やり手スナックママが報道されている。ただ、警察への届け出を怠ったため、摘発されたようだ。札幌の高校生が、スナックママとして、年上のホステス7名を使って、運営していたらしい。企画も上手で、飲み放題キャンペーンで、200万円も売りあげる月もあったようだ。

商売は上手だったのでしょう。商売の勘所を押さえるセンスが、この高校生にはあったと思われる。昔、よく親類の人が、商売を始めるのだったら、学校など行かずに、できるだけ若い方がいいと言っていたが、接客商売では、特にそのことが言えるかもしれない。

接客のツボとかは、若い時ほど呑み込みも早い。ある程度、年齢が上がれば、変なプライドから、接客の勘所をつかめない。流風は、学校に行くなとは言わないが、商売をするのなら、早く関与した方がいいというのは、当たっているかもしれないと思う。

むしろ、そういうタイプは、学校は、それからでもいいのだ。必要と感じた時、学びたいと思う時が、一番学べる時なのだから。惰性で学校に行くより、どういう事情だか知らないが、この女子高生の生き方も、一つの可能性と思えるのだが。

*追記

念の為に、申し添えるが、流風は、違法スナックをやることを奨励しているわけではない。最初から、きちんとした正しい商売を覚えることが望ましい。しかし、適法と違法の境界線に、ビジネスチャンスがあることも否めない。

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2009年6月19日 (金)

白菜と豚肉料理

今年の6月は大変暑い。梅雨とは思えない。いつもは梅雨で蒸し暑いのだが、今は真夏の暑さだ。蒸し暑いのも嫌だが、あまり暑いのも困ったものだ。食欲にも影響する。冷たい飲み物は避けてはいるものの、水分の補給は必要だから、ちょっとお腹がだぶついている(笑)。

そこで、料理はどうしても簡単なメニューになる。まあ、いつも、料理は作ると言っても、簡単な物ばかりだが。本日は、暑い季節によく作る、白菜と豚肉の料理を紹介しておこう。白菜料理は煮炊きすると、どうしても熱くなった分食べにくい。そこで、白菜は生のまま食べる。手順は、次のようにしている。

まあ、白菜の方は、細かく切るだけだ。芯の方は特に細く。葉の部分は適当。それを生のまま皿に盛る。

次に、豚肉は、同様に刻んで、いつものように、酒と醤油と片栗粉少々を混ぜたものに、絡めて、しばらく置いておく。

また、ネギがあれば、少量刻んでおく。フライパンを熱し、油を適量入れて、ネギ、豚肉を炒めて、皿の上の白菜に盛るだけ。

後は、練りからしとポン酢を入れて、混ぜ合わして、頂く。これだと、暑くても、食べられるので重宝している。豚肉の冷しゃぶも美味しいが、こちらも、割といけるので気に入っている。

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地域ミニFM局の面白さ

最近は、地域オリジナルのミニFM局が、あちらこちらで開局しているが、聞いてみると、意外と面白い。全てがすべて、自局の作成ではなさそうだが、結構、方言が入っており、面白いのだ。そして地域の観光情報なども流されており、旅行者にも楽しい気分を届けてくれる。

確かに、今は、ネットや携帯で、それらの情報は入手できるが、ミニFM局から流される情報もなかなか捨てがたい。地方に行くと、まだまだ娯楽も少ない。これは、いずれテレビのデジタル放送で、ある程度、解決するだろうけれど、それでも、地域が発信する、コネタの情報による情報発信は貴重だ。

音楽の選定にしても、懐かしい音楽が流されることもあり、それは地域のリクエストから、そうなるのかもしれない。地域住民の要望に応えていたら、そうなるのであろう。これも、なかなかいいことだ。

そして、仕入番組として、東京制作の情報番組も適切に組み込まれているのもあるようだから、それなりに番組の多様化も図られている。こうなってくると、大都市のFM局の番組は、案外、若者だけを対象としているのとは差別化を図り、今後は、狭い範囲での、きめ細かな、いわゆるミニFM局は、ますます増えていくのだろうと思う。

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2009年6月18日 (木)

居眠り対応マニュアル?

大分県教育委員会は、会議(報告会)中、居眠りしていた某教育次長を戒告懲戒処分にして、更迭したようだ。毎回毎回居眠りしていたのだろうか。緊張感がないと言われてしまえば、そうだが、居眠りで更迭とは、ちょっと厳しすぎる感じだ(*注)。

実際、会議や講義を聞いていて、眠くなることはよくある。話し手の話し方が単調であれば、余計にそうなる。流風も、学生時代は、よく居眠りした。先生の方からは、それがよくわかるようで、チョークなどが飛んできた。

しかしながら、話し方に、もっと工夫をして欲しいもんだと、よく思ったもんだ。大体、企業でも、長い会議では、そうだろう。人間の集中力はそんなに長く続かない。話し手は。大体、15分単位で、聞き手の意識を切り替える話し方が必要がある。

それでも、眠くなれば、どうすればいいのか。誰が教えたか、席にずっと留まらなければならないという意識が、却って、眠気を生んで、居眠りが話し手を不愉快にさせるのだ。これに対応する方法はあるのだろうか。

言えることは、どこでも許されないかもしれないが、席を立って、外の空気を吸えばいいのだ。席に留まらなければならないという強迫観念が、より眠りを誘う。そうであれば、ちょっと席をはずして、気分を変えた上で、席に戻るようにしたらいい。居眠り対応マニュアルをもっと普及させよう(笑)。

*注

どうせ報告会なんて、レジメは渡されるし、内容は、読めばわかる。所詮、セレモニーに過ぎないではないか。だから、公務員は、こんなことに時間を費やして無駄遣いをしているんだろうね。公務員の会議を減らせば、人件費はもっと大幅に削減できると思うよ。

そういうと、国会もそうですね。事前に質問事項はわかっていて、その回答も用意しておいて、結局、国会は、セレモニー化している。議員さんたちの晴れ舞台なんだろうが、国として、意味があるのだろうか。

そうなると、まだ稚拙とはいえ、党首討論の方が意味があるかもしれない。政治家の実力が、そのまま反映される。

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2009年6月17日 (水)

理想の妻とは(下)

それでは、なぜ、この「あほう、かしこ」の考え方が出てきたのか、少し、考察してみよう。実は、この「あほう、かしこ」の考え方は、随分と中国的なのだ。

例えば、孔子の弟子の顔回のことは、「終日違わず、愚なる如し」と言われている。しかし、顔回は、孔子も認めた、一番の弟子だ。孔子は、むしろ顔回から学ぶことが多かったのではないかと言われるほどだ。

その彼は、自分のもっている知や智に奢ることなく、謙虚な態度で、常に他人の意見を聴き、受け入れていた。悪く言えば、馬鹿な振りをしていた。しかし、常に自分の知識や経験に疑いの眼を向けていたのは事実だろう。

同様な考え方は、時代は大きく下るが、同じく中国の元の末期から明の初期に活躍した、劉基という、軍人であり、政治家であった人がいた。彼の著書『郁離子』の中で、次のように語っている。

  知にして愚をよくすれば、

  すなわち天下の知、

  加わるものなし。

解釈する前に、彼はどんな人であったか、軽く触れてみよう。彼は、明の建国に貢献した人物で、初代皇帝の朱元璋が最も恐れた人間である。日本でいえば、豊臣秀吉に対する黒田官兵衛ということになるかもしれない。彼も黒田を恐れたことは有名だ(*注1)。

それは戦争もうまく、実は映画『レッド・クリフ』で話題になった赤壁の戦いの火による仕掛けによる戦いは、実際、劉基が、ある戦争でやったものがモデルと云われているほどなのだ。

それを、『三国志演義』の作者が参考にした。作者は、赤壁の戦いを、いかにも見たように描いているが、諸葛孔明の時代は、ずっと昔で、歴史的にも、その戦いの詳しいことは伝わっていない。そこで、創作するために、参照したと云うのだ。

そのように、優れた軍略家が、上記の言葉を示している。実に深い言葉だ。解釈としては、顔回と同じことで、自分に智慧がある上に、更に謙虚になって自分を愚者と考え、他者の意見を受け入れることができたなら、最早、これに付け加える智慧というものは存在しない、という意味だろう。

これは何を意味しているかと言えば、たとえ、結論は最終的に、自分の思った通りになっても、そのプロセスでは、謙虚な姿勢で、多くの人の意見を聴き、それを取り入れながら、結論に導けば、多くの人の納得も得られて、最終的には、物事がスムーズに運ぶということだろう。急がば回れ、ということかもしれない。

果たして、日本にどのように伝わって、商家の考え方になったかは、定かではないが、多分、華僑ともつながりがあったとされる、近江商人あたりに伝わり、商売のあり方を研究するうちに、そういう考え方ができたのだろう(*注2)。

それが、彼らが京都・大阪に進出するに従い、関西に広まったのではないかと思う。商売の運営は、人の運営でもある。それをうまく運営するには、「あほう、かしこ」の知恵が、一番と理解したのかもしれない。そして、この考え方は、商家の嫁の条件になったのだろう。こうなってくると、「あほう、かしこ」の考え方は、まさに人間学の領域である。

*注1

黒田官兵衛は、秀吉に従軍し、毛利軍と戦っていた時、織田信長が明智光秀による本能寺の変で、亡くなったという報に接して、慌てふためいている秀吉を説得して、天下を取るチャンスと進言している。それが中国大返しにつながる。どんな時も、冷静に対処する黒田官兵衛を秀吉が恐れたのも、頷ける。

*注2

神道、儒教、仏教の研究に基づく、石門心学が、商人道に影響しているとも考えられる。

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2009年6月16日 (火)

理想の妻とは(中)

昨日に引き続き、同じテーマで、迎えるべき妻の理想の解説をしておこう。

まず、Aのタイプの「かしこ、かしこ」型。これは説明はいらないと思う。いわゆる良妻賢母となりうる教養もあり、それをそのまま知性を表面に出して行動するタイプだ。まあ、エリートタイプの女性だ。

次の、Bのタイプの「かしこ、あほう」型は、一見、賢そうなのだが、どこか抜けていて、失敗をしでかす、ある意味、かわいいタイプだ。

Cのタイプの「あほう、かしこ」型は、外見は、あまり賢そうには見えないが、いざとなると、肝心なことは押さえて、発言もし、処理できるタイプだ。

最後の、Dのタイプの「あほう、あほう」型は、外見も、中身も、あほなタイプだ。これは、どうしようもないね。

となると、Aタイプ、Bタイプ、Cタイプの中から選ぶことになる。

まず、Aタイプは、多少、煙たいが、多分、全てのことを任せても大丈夫だろう。何をさせても、そつなく、やってくれるのでいいのは確かだ。だが夫の方も息が抜けない。家庭は、安息の場ではないだろう。また自分の意見が絶対正しいと、自信を持っているがゆえに、男としては、やりにくい。夫の意見を聞くことはないだろうし、第三者の意見にも耳を貸さない。このような妻に選べば、結局、息が詰まって、苛立ち、夫は浮気に走りがちだ。

それでは、Bタイプは、どうかというと、流行に敏感で、いろいろ情報を得て、口うるさい割には、中身がない。得た情報を鵜呑みして、それが正しいと言い張るタイプだ。話を聞かなければ、うるさいし、何も言わなければ、それに対しても、詰問する。それでも、妻が失敗すれば、夫が、全て尻拭いせざるをえなくなる。そういうことが続けば、心身ともに疲れ果て、仕事にも悪い影響を及ぼす。

残されたCのタイプは、一見抜けていそうなので、夫の方も配慮すべく、気遣うが、家庭では、息抜きできる空間がある。それでいて、実際は、そういう心配もなく、妻が、いつの間にか、そつなく自然に当り前のように処理してくれるので、安心して、家庭を任せられる。知識や教養は表だって、出すこともなく、適当に夫を立てて、さらに周囲の雰囲気に合わせて、話題を合わせられる。それでいて、、肝心なことは、きちんと押さえてくれるので、家庭がまとまるのだ。夫にとって、これは大変ありがたいし、親戚関係でもめることもない。

結局、Cのタイプが、関西では妻の理想とされてきた。もちろん、これは専業主婦時代で、かつ姑が同居しているという条件下での理想であろう。現在とは、事情が異なるかもしれないが、嫁選びの参考にはなるだろう。

つまり、たとえ、わかっていても、知らないふりをする。ずるく捉えれば、自分の主張を最終的に通すには、周囲の意見に、きちんと耳を傾ける姿勢が大切なのだ。それは遠回りで、あほくさいと思われても、最も効率のよいやり方なのだ。これは案外、仕事でも、同じことが言える。

*追記

日頃から、このように、女性を観察していくと、単に外見だけで判断せず、冷静に見ることができる。ただ、実際、これらのタイプを見分けるには、対個人で、わかることもあるが、わからないこともある。結局、集団の中で、どう活動しているか観察するしかない。あるいは、その評判を確認してみる。

次回に続く

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2009年6月15日 (月)

理想の妻とは(上)

関西では、妻を迎えるに際して、ある理想の条件があると云われてきた。凡そ、女性には次のタイプがあるという。

  Aのタイプ  「かしこ、かしこ」型

  Bのタイプ  「かしこ、あほう」型

  Cのタイプ  「あほう、かしこ」型

  Dのタイプ  「あほう、あほう」型

さて、世の若い男性諸君は、どのタイプを選ぶだろうか。

ただ、関西以外の方には、多少わかりにくいかもしれないので、若干、解説を添えておく。

「かしこ」は、文字通り、「賢い」こと。

「あほう」とは、「阿呆」のことで、「アホ」。東日本で言う「馬鹿」とは若干ニュアンスが異なる。ネット辞書でも、解説はしてあるが、正確ではないと思う。強いて示せば、「愛すべき馬鹿」ということかな。

各タイプの解説は、明日のブログで、紹介する。

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2009年6月14日 (日)

地域の市民祭りは、物産販促の機会

6月10日が、時の記念日だったことで、明石(兵庫県)は、いつものように盛り上がっている。「時のウィーク」イベントとして、昨日(6月13日)は、いろんな催しが行われていた。まず、明石駅構内で、音楽イベントがあった。いろんな演奏や歌で、いつもは静かな構内が、賑やかだった。流風も、懐かしい音楽が流れており、よかったと思う。

駅の南側でも、いろんな催しがされていた。商工会議所で落語が演じられていたようだが、それは知らなかったため、観ることができなかったのは、少し残念。そういうと、駅に、のぼりを持った会議所の人が立っていたので、その時に気付くべきであったが、後の祭り。まあ、それでも、祭りのようで、祭り好きの流風としては、全体的に行ってよかったと思う。

これから夏の盛りから秋にかけて、あちらこちらで、このような祭りが催されることであろう。祭り好きな流風は、あちこちに行って、楽しむ。そこでは、どこでも屋台とかが見られることも多い。しかし、どこも変わり映えのしないことも多い。屋台で扱う物は、ほとんど変わらず、特色が見出せない。

その点、市民祭りである神戸まつりでは、中央広場で、地域の物産展のようなものが催される。そこで、いろんなものを食べたり、地域のパンフレットをもらって、新しい知識を得たりする。最近は、神戸市だけの物産に限らず、いろんな地域の物産や観光の売り込みに熱心だ。

もちろん、ここで得た情報で、すぐ購買する人もあれば、情報だけ得て何もしない人もいるかもしれない。しかし、少なくとも、認知には役立っているだろう。流風なんて、いろんな試供品や試食をさせてもらえば、ついついふらふらと買ってしまうこともある(笑)。結構、安いこともあるからね(笑)。

こういうのは、テレビ等のマスコミで得た情報と意味が違う。祭りの中で、マンツーマンで得た物は、どこか違うのだ。現在のところ、まだ、そのフォローシステムが甘いようだが、いずれ、もっと有効な販促がなされるだろう(例えば、ネットとの連携とか。祭りの時に得たパンフレットに記載されている番号をネットで登録すれば、安く入手できるとか)。地域の祭りは、人々の心が開放的になっており、売り込みに有効な手段の一つだろう。

*注

一応、ここでは、神社が中心となる祭りと、市民が中心となる市民祭りを区別し、後者の市民祭りの在り方を記しているつもりだ。

*追記

神戸まつり 平成21年7月19日

明石市民祭り 平成21年8月30日

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2009年6月13日 (土)

郵政払下げ問題

凡そ、官から民へ、払い下げる場合は、いろいろ癒着が生じやすい。今、騒いでいる郵政社長人事も、まさにそのことを物語っているようだ。これらの問題は、明治維新時、薩長に資金提供した、三井など旧財閥グループは、ほとんどタダ同然で、国の資産を払下げで譲り受けている。

明治の勲功と言われる人は、多くが金に汚い。それは下級武士で、教養が足りない人々だったからだと言われている。もちろん、払下げの決め方は、闇から闇で、内々に、いつの間にか、決まっていたのだ。もちろん、当時に情報公開などない。

ところが、その問題が、現代の日本に噴出している。流風は、郵政民営化は、米国の要求だとしても、それは、ある程度、評価している。しかしながら、そのやり方は拙速であったことは否めない。

いろんなことが、内々で決められている。権力者と同じ考えを持つものばかりで、審議会等で決定され、それがそのまま実行されている。これは、ある意味、権力の濫用である。いずれ、この問題は、風前の灯状態の自民党政権が終わり、一大疑獄に発展するようだ。そのスケールは、西松問題など微々たるものだ。

もちろん、払下げは、ある程度は、そういうことも仕方ない面があるかもしれない。しかし、やりすぎた。三井住友グループは、その利権を独り占めしようとしたため、多くの嫉妬を生んでいる。郵政の主力人事は、三井住友グループで支配している。ある意味、やりたい放題だ。

結局、平成の時代になっても、権力者と、それを取り巻く一部財界は、あまり教養も高まらず、明治時代とあまり変わっていなかったのは、大変残念だ。そして、多くの人が、奢れる者、久しからずと、彼らが転落する姿を見ることは確実なようだ。

*注

鳩山前総務省大臣は、簡保の問題を大きく考えているようだが、流風は、「郵政」全体の払下げ問題として捉えている。

*追記

もちろん、これらは、守旧派と改革派という、同じむじなの権力闘争という見方もできる。いい迷惑なのは、一般国民だ。

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2009年6月12日 (金)

懲りない人々

多くの人々が、金融危機は去ったと錯覚しているようだ。なぜなら、株式市場や投資信託に投資している人々が増えているという。確かに、株式市場は、銘柄によっては、売られ過ぎたものも散見される。それに投資するのならまだわかる。

しかし、いかに株価が上がっていても、全体としては、不安定な相場ということに変わりはない。輸出企業は、戦略転換の最中だし、仮に転換ができたとしても、業種によっては、以前の利益水準を確保するには、まだ相当の時間がかかるだろう。

もちろん、株式市場が上げているのは、単純に企業業績だけではないことはわかる。株式市場の事情や、世界的な金融規制が強化される流れに、資金循環が変わったとも捉えることができる。

ただ、全体的な雰囲気で、投資するのは危ないことだ。慎重な投資姿勢が望まれる。ましてや、投資信託などは、個人は投資すべきでないだろう。大体、この仕組み自体、投資家にはあまりメリットがない。それは以前にも記した。他人に投資内容を委ねることは、いい加減になりやすい。投資信託するぐらいなら、株式投資の方がまだ許せる。

それなのに、投資信託の解約より申し込みが増えているという。どうも懲りない面々が多いようである。楽をして、運用益を上げるという欲の皮が突っ張れば、その行く先はいつも同じである。第二のリーマンショックはいずれ起こるのである。慎重なお金の運用をしてもらいたいものだ。それは企業の財務担当者にも言える。

*追記

「第二のリーマンショック」が、いつおこるか、それはわからない。そんなもん、わかっていたら、流風は大金持ちになれる(笑)。ただ米国景気が良くなったと、マスコミが持ち上げ始めたら、危機は迫っているということだろう。お金持ちの方は、「財産三分法」を守った方がいいだろう。

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2009年6月11日 (木)

価値あるものとは

昔、ある人が、高価な茶碗でも、使わないのなら、それは意味がないと語っていた。確かに、使えば、割ったり、欠けたりするであろう。だが、その高級な茶碗で、食事をすることに、本来所有している意味がある。

同様に、美術品でも、蔵の奥深く所有して、一般にはほとんど目に触れないようにしている所有者もいると聞く。そんなものは、自己満足に過ぎないのではないか。美術品は、多くの人の目に触れて、初めて価値を持つものだろう。

また時々、テレビなどで、個人が持っている骨董品の評価がなされている。見ていくと、へぇー、こんなものに、そんな価値があるのか、ぴっくりするようなものもある。

しかし、それは永久に続く価値ではないように思われる物が多い。確かに希少性とかが、一定のある人々には需要があるとすれば、それは価値があるものなのだろう。だが、それは狭い市場での価値で、汎用性はないだろう。

結局、それは持つ人の自己満足に過ぎない。そう考えると、市場が大きくならない骨董品は、財産的には、あまり価値がないということになる。

ただ、思い出すことがある。子供時代、友達と廃坑に行って、水晶や黄銅鉱などを採掘して、家に持ち帰り、大事にしていた。しかし、ある時、家に帰ると、入れておいた空き缶がなくなっている。どこを調べてもないので、母に尋ねたら、ゴミのような石ころがあったので捨てたとのこと。しばらく、母とは口をきかなかった。

これほど、悲しくて、腹が立ったことはなかった。第三者から見ると、大したものでないものも、本人にとっては宝物である場合がある。骨とう品も、その類と言えないこともない。

ということは、その人の一生において、密かに楽しめる価値があるのなら、一代限りの道楽としての意味があるかもしれない。流風は、それは否定しない。誰しも、そんな無駄遣いは、多かれ少なかれ、しているものだ。

単に、論理的に価値がないから、そういうものは持たないというのも、一つの生き方だろうが、感性的な無駄遣いは、ある程度認めた方が、生活に潤いがあるだろう。但し、他人に処分されないようにね(笑)。

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2009年6月 9日 (火)

山椒の実がなった

先日、母が植えていた山椒の木をふと見ると、2本あるうちの大きい方に、緑の実がなっていた。植えてどれくらいの年月が経つのだろうか。少なくとも、10年以上は経っているだろう。

手入れもせず、ほったらかしであった。今では、高さ1.5メートルぐらいになっている。直径は1メートル余りぐらいだろうか。生前、母は割と世話をしたようだが、「この木は雄木のようだ。全然、実がならへん」と、よくぼやいていた。

ということは、実をつけたのは、今年が初めてかもしれない。母は、それを見ずして、逝ってしまったようだ。仏前に供えるとしようか(棘のある花を供えてはならないと言うが、実は許されるだろう)。

しかし、棘がいっぱいあるから、実を取りにくい。でも、いい匂いだ。山椒の匂いもいいものだ。今までは、春に木の芽を取るぐらいだった。何とか、少しだけ取れた。全ては採りきれない。残りは、秋まで放置して、粉山椒にでもしようかな。

結局、採れた量は、50グラム程度だ。お供えするのはいいとして、その後、どうしよう。やはり酒、みりん、醤油で煮詰めるぐらいしか手がないか。作ったことないけれど。

でも、実自体、どんな味がするのだろう。小粒でぴりりと辛いのだろうか。一粒、口の中に入れて、噛み砕いてみると、パーッと痺れる感じだ。悪い感じではない。なるほど、なるほど、何事も経験しないとわからない。この歳にして、初めて、山椒の青い実の味を知る。

*追記

成果というものは、自分がいる時に、出るとは限らない。企業でも、種蒔きして、いろいろ世話して、芽は出たが、成果が出なかったものが、自分が他部署に異動して、成果が出ることも多い。後任者は、成果を単に喜ぶだけでなくて、その背景を知ることは大切かもしれない。

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2009年6月 8日 (月)

晴れ男に、雨女

俗説であるが、晴れ男には、雨女がいいという。そうかと言って、晴れ男に、晴れ女では、かち合うのでよくないと言う。晴れ女は、友達としてはいい。だが、彼女としては、・・・(笑)。逆に、雨男に、晴れ女がいいかと言うと、これも問題を孕んでおり、全くよくないと言われる。

雨男が嫌がられるのは、水も滴るいい男ではなく、行動しようとすると、すぐに雨になってしまうのは、男の精神性に若干問題があるということだ。男は、外が嵐でも、いつも晴れさせてみせるという気持ちがなければならない。そういう意味で、男は晴れ男であることが望まれるらしい。

それでは、女性は、なぜ雨女がいいのか。それは晴れた天気で乾いた空気を、湿気で癒してくれるからだろう。いくら男が晴れ男がいいとしても、そればかりだと、カラカラの天気で自爆してしまう。そこで適度なお湿りが要求される。それで、女性は雨女がいいということかな。

いずれなにせよ、女性は、男選びに、このことに十分配慮した方がいいかもしれない。ちなみに流風は晴れ男だ。大丈夫だよ(笑)。何か行動しようとすると、前日は雨で、天気予報でも、明日はどうも雨かなと言っていても、当日になれば、晴れることが多い。晴れてくれ、晴れてくれと祈っていると、自然とそうなるのかもしれない。別に、特に祈っているわけでもないが。

でも、さすがに、大嵐とか台風では、そういうことはあり得ないだろう。知らず知らず、体内で、天気予報をして、それに基づき行動しているのかもしれない。単に、本人が、晴れ男だと思っているだけかもしれない。それでも、いずれにせよ、男は、晴れ男であると自ら思った方がいい。

そして、雨男には、男も女も、関わらないことだ。彼らは周囲の運気を弱くする。また女性で雨が過ぎる、大雨女、暴風雨女は敬遠したいものだ。パートナーとしては多分問題だろう。強すぎる晴れ女よりはましかもしれないが。

もちろん、このことは、俗説なのかもしれない。こういうことを気にせず、自分の“気”が左右されないことも大切だ。自分の“気”が強ければ、悪い運気も跳ね飛ばしてしまうからだ。でも、男は、元気に晴れ男といこう!!そうすれば、雨女もついていきやすいだろう。

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2009年6月 6日 (土)

神戸市が、新インフルエンザ・ショック対応観光振興策

神戸市は、新インフルエンザの影響で、あの忌まわしい大震災以後、最大の危機を迎えている。今回は、自然災害ではなく、政府は未だに気が付いていないかもしれないが、人為的な災害だ。

しかし、神戸のビジネス界は、そんな原因探しより、何か効果的な手を打たざるを得ない。風評被害の打撃はあまりにも大きすぎるが、商人は、こういう時ほど、力を発揮しなければならない。

神戸市は、それを後押しする政策を推進する。観光産業の打撃の大きかった神戸市は、「行こう!神戸」というキャッチフレーズで、夏の一定期間、特定の施設で、入場料を無料にするそうだ(*注参照。)。

これは、かなり思い切ったことだと思う。学生の夏休みにあたるし、相当な人出になるかも。何せ、タダだからね。子供のいる家庭は助かると思う。交通費と食事代だけ覚悟すれば、いいのだし、また宿泊するにしても、早期割引キャンペーンに申し込めば、かなりお得な観光が可能だ。毎年、この時期には、そうしてくれないかな(笑)。

*注参照

神戸市の無料施設情報

http://www.city.kobe.lg.jp/culture/kobe/index.html

一部半額の施設もある。

*追記

ちなみに、兵庫県も県内施設の入場料を、半額にするキャンペーンを開始するようであるか、神戸市の無料キャンペーンと比べるとインパクトが小さいと思う。何といっても、無料は、その意味が大きい。

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2009年6月 5日 (金)

ブランドで買う人々

世の中には、流風からすると、不思議な人々がいる。それは商品の内容も確認せずに、ブランドだけで、物を買う人々だ。それは企業の業務内容や業績も知らずに投資する人々と似ている。もちろん、ブランドを掲げているということで、ある程度の信用はできるのは確かだ。

だが、そのブランドの内容は、日々変化している。いかに有名なブランドでも、毀損していることはよくあることだ。例えば、有名になる前は、こつこつと職人が、手間をかけて作っていたものを、あまりにも売れるので、それに対応するため、外注に出して、間に合わせてしまう。外注に出せば、似たものは作れるかもしれないが、初期の精神は失われている。

今、世界でブランド物というものは、そういうもので溢れているのではないか。ある意味、随分、怪しいものが出回っていると言って過言ではない。それはコピー商品のように偽物ではないかもしれないが、「本物」ではないだろう。もちろんブランド物でも、きっちりと管理している企業の物はまだいい。でも、今は玉石混淆と言ってよいだろう。

このようにブランド物は絶対ではない。そして、これは物だけでもなさそうだ。有名な作家の、新作の小説が内容も不明なのに、バカ売れしているらしい。流風は、元来、ベストセラーには、手を出さないが、内容もわからないのに、ベストセラーとは恐れ入った(*注)。

日本には、まだまだ無駄遣いしている人々が多くいるということだろう。お金の使い方には、もっと慎重であるべきだろう。

*注

彼の作品は、過去に一冊だけ読んだことがある。この作家の手法は、膨大な日記と、その分析に基づくものだ。もちろん、彼の無理のない考え方が反映されているのだろう。人々が過去を忘れ去ったことを利用して、既視感で呼び戻そうとするのが、基本的な彼の戦略だと思う。それが人々に支持されて読まれるのは、別に否定はしない。

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2009年6月 4日 (木)

反魂香の話

反魂香については、以前にも少し記したが、能や落語の題材に使われたりして、人口に膾炙されているとはいえ、興味を引く話なので、もう一度、覚えとして詳しく記してみる。

漢の武帝が、河北出身の李延年という歌舞の師匠から、『絶世傾国の歌』という詩を聞かされる。それは次のようであったという。

   北方に佳人有り

   絶世にして独立す

   一顧すれば人の城を傾け

   再顧すれば人の国を傾く

   寧んぞ傾城と傾国とを知らざらんや

   佳人は再び得がたし

まあ、全詩を通じて、言いたいことは、私の国には、絶世の美人がいますよ、という意味。もし、よかったら紹介しますよ、という含み。大体、権力者に取り入るには、人、物、金と相場は決まっている。人とは、女性のこと、物は貢物、金は賄賂のことですね。

特に、権力を握った男は、美しい女に弱い。彼は、そこに付け込もうとしたのだ。女を世話すれば、いずれ、その関係で、自分たちも重用される。そういうことを期待してのことだろう。そういうことは、歴史の中で延々と繰り返されてきた。

実は、この絶世の美人は、李延年の妹のことだった。名前は不明だ。彼女は容姿がいい上に、兄の仕込み宜しく、歌舞にも秀でている。

武帝は大変関心を示して、この兄のたくらみは成功し、妹を呼び寄せ、武帝に会わせる。武帝は、彼女があまりにも美人なので、すぐに気に入り、自分の愛人にする。大体、近親者は、身内を過大評価しがちだが、これは額面通りだったようだ。確かに、この妹は、実際、美人だったらしい

ところが、美人薄命というように、彼女は、しばらくして、病に陥る。最近の美人は、そうでないから、昔の美人は不健康な生活を強いられていたのかもしれない。武帝も大変気になり、様子を見にいくが、どうしても彼女は会えないという。追い返され、武帝は、仕方なく、帰っていく。

つまり、彼女は、病気で容姿の衰えて、こんな醜い姿は姿は見せたくないと思ったのだ。大体、どんな美人も、年齢とともに、容姿は衰えていく。それは美人ほど、その落差が大きい。同様に病気で、容姿が見る影もなくなり、それを見られるのが嫌で、李夫人は武帝と会わなかったのだ。

結局、武帝は、彼女の最後の姿を見ることなく、彼女は死んでしまう。ということで、武帝には、彼女の美しい、いい記憶しか残っていない。彼女が武帝に会わなかった本心は、武帝には、自分のいいイメージだけを残したかった。自分を本当に愛してくれているのではなくて、自分の容姿だけで私を愛しているのだろうから。

結果的には、武帝には、いいイメージ残像だけが残り、亡き李夫人に対する想いは募るばかりであった。彼女のことが忘れられず、甘泉殿の壁に、彼女の姿を写して、悲嘆に暮れる。

そこに死者を呼び寄せることができるという、斉の方士、少翁の評判を聞いて、彼を招いて、彼女を呼びださせる。いつの時代にも、胡散臭い人間はいる。武帝の取り巻き連中が手配したのだろう。少翁は、武帝が帳の中で李夫人を想いさせながら、反魂香を焚いて、霊を呼び戻すことを実行した。そうすると、焚いたところに、死んだはずの李夫人が現れたという。

つまり、想いは通じるということを言いたいのだろう。現実的に考えれば、何かを飲まされたか、嗅がせられたりして、武帝は、幻覚に陥ったのだろう。その前に、李夫人とスタイルが似ていて、同じような格好させれば、武帝は、李夫人と錯覚するだろう。

多分、そういうことだったに違いない。こういうと、夢も希望もないね(笑)。でも、大体、このようなことを勧めるのは、この手の人間だろう。トリックは、あったと考えるのが自然だ。ただ当事者たちは、真剣に考えていたかもしれない。

でもね、李夫人にすれば、死んだ後まで、魂を呼び寄せるなど、いい加減してくれと思ったかもしれない。歌の文句じゃないが、「疲れ果てた あなた。幻を愛したの」と。そして「愛は消えたのよ。二度と呼び出さないで(*注)。疲れ果てた あなた。私の幻を愛したのよ」と。(以上、“オリビアを聴きながら”改作)。でも、記憶には残してと。

だが、李夫人の深謀遠慮は、夫人亡き後も、夫人の一族(兄の延年や、もう一人の兄、李広利など)は、普通は権力から遠ざかるのに、重用され続けたという。そう考えると、彼女は、単に美人だけでなく、身内を大切にする賢い女性でもあったようだ。だが、女の浅知恵が、彼女の死後、国を混乱させていく。そうだとすれば、権力者が女性に溺れることはいかに危険かを示している。

*注

原曲 “オリビアを聴きながら”では、「呼び出さないで」ではなくて、「かけてこないで」となっている。若い頃、杏里の歌で、よく聴いたものだ(笑)。場面設定は、全然違うけれど。

*追記

李一族の繁栄は長くは続かなかった。李夫人の子供を皇太子にすべく、李広利が皇帝に働きかけたことから、おかしくなる。権力闘争に巻き込まれ、没落していく。

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2009年6月 3日 (水)

銀行と証券の一体化の危うさ

この6月より、銀行と証券の一体化が促進されるという。本当に大丈夫だろうか。昨日の日経の匿名記事(平成21年6月2日付朝刊)にもあったが、欧米は金融危機の中で、金融機関に対する規制強化を検討中である。日本は、その流れとずれ、周回遅れの可能性があるとしている。

流風は、日経の意見記事はあまり信用しないのだが、この記事については、同感するところがある。そもそも、銀行自体、バブル崩壊時、大量のリストラにより、必要な人材が不足している。現在の貸し渋り問題も、融資が的確に判断できる人材がいないという。銀行本来の仕事ができていないのだ。

そういう観点からすると、彼らが、まずやるべきことは、人材の育成ではないか。あるいは、退行職員の再雇用かもしれない。いずれにせよ、現在の状況で、銀行が証券業務を拡大したところで、うまくいかないだろう。

それは現在やっている投資信託の販売をしている行員のレベルを見れば明らかだ。極めてレベルが低い。商品知識も不十分だし、現在の経済情勢の把握もしていない。ただ、金利が低く、預貯金を集めることができないので、何だか商品内容はわからないが、売って実績を上げたいだけの姿勢に映る。

このように、投資信託の情報力では、証券会社と雲泥の差がある。多分、それを詰める努力も怠り、ただ業績が上がれば、何でもやるという姿勢なのだろう。そこに新規の証券業務をやったところで成功は覚束ない。結局、人件費と時間を空費するだけになるだろう。

逆に証券会社が銀行業務をやるとしても、それは無理だろう。過去に証券会社出身者が企業に赴いて、うまくやった例は極めて少ない。大概、その企業をボロボロにして、ハイさよならというパターンが多い。

彼らの経営感性は、コンサルタントと同じで、現場が分かっていない。机上の数字だけを上げるのが経営と思われても、どうしようもない。彼らは、企業から出てくるデータの分析加工は上手だが、いざ経営となると、投資ファンドと同様、素人なのである。

ということは、証券と銀行業務は、本来、ビジネス感性が大きく異なるのだ。それの垣根をはずしても、うまくいくはずがない。人材不足の銀行と、現場経営に疎い証券会社が組んだところで、ろくなことはできない。せいぜい、実物経済に大きな混乱を招くだけにすぎないだろう。

更に、銀行と証券の一体化は、インサイダー取引の更なる横行があるだろう。今までも、金融機関のインサイダーは、暗黙の了解だったニュアンスがある。彼らは否定するだろうが、融資しておれば、情報は取れる。その情報は、各種流れていたのではないか。

今後は、グループ内で、操作できると言っても過言ではないだろう。銀行と証券の一体化は、不正の温床の拡大と捉えることもできる。

そして、いずれ海外の金融規制強化によって、日本の金融機関は締め出され、業績を上げるために、危ういビジネスに走るのではないか。欧米の金融危機と同じことを招くのではないかという疑念がある。

かつてのような行政指導による護送船団方式は、やり過ぎだったが、いずれオープンな行政指導が必要になってくるかもしれない。いずれにしろ、金融自由化は、国際金融市場からすれば、もう時代遅れとなるのだろう。為政者は、朝令暮改を決して恐れてはならない。

*追記

メガバンクをはじめ、多くの金融機関が、莫大な赤字決算を計上している。経営者の無能ぶりは、明らかだか、更に増資しようとしているのは、変な感じを受ける。資本を増強して、自己資本比率をアップしようとしているのだが、一体、金融機関の役割は何なのか。

かつて、政府の行政指導による護送船団方式では、金融機関の経営は、何も考えなくても経営は楽だった。今は、世界を読み、時代を読み、政治の流れを読むことが必須だ。だが、現在の経営者は、金融自由化に対応できる能力を備えていないことから、多くの赤字を垂れ流している。

こうなれば、金融自由化は、一体何だったのか、ということになる

*2016年8月30日追記

この記事は7年前の2009年のものだが、今でも認識に変わりはない。金融業に限らず、経営の多角化は簡単ではない。今求められるのは、特徴のある金融業だろう。

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2009年6月 2日 (火)

インフルエンザ騒動後の景気雑感

6月になったので、どこの学校の衣替えが行われている。学生の服装も、すがすがしい感じだ。社会人も、クールビスが本格的に始動。まちのあちこちで、ノータイ姿か見られた。単にネクタイ外しだけで、装いという雰囲気には、程遠いが、暑苦しいスーツ姿よりは、望ましい。

景気に関しても、心機一転となるだろうか。ぐだぐだと見える範囲で記してみよう。インフルエンザ騒動の発端となった神戸市内のレストランも、お昼でも、客はやや少なめだ。ちょっと深刻な話も聞こえてくる。隣の客たちは、集団で来ても、どこか盛り上がらない雰囲気がある。皆さん、静かに食事をとっている。お酒が入っていないとはいえ、もう少し、話をするものだが、静かだ。おばさんのように、周囲構わず、うるさい客も迷惑だけれど。

中華街も、ガラガラだ。人通りが少なすぎる。でも、お昼のランチは、以前同様、高いまま。いや、以前より上がっているかな。客が少ないから、値上げしたのだろうか。いつまでも、観光客価格で、大丈夫だろうか。どこか工夫が足りないなあ。

駅周辺の飲食施設には、それなりに客が来ているが、駅から少し離れると、閑散としている。元町通りは、人通りは普通だと思うが、店に入っていく人がやや少ない。皆さん、どこに行くのだろう。やはり景気と言うより、インフルエンザの影響が大きいのだろうな。国があんなに騒ぐから、こんなことになる。

百貨店も、客が少ない感じ。大体、エスカレーターに乗ると、その日の客層が見えてくるが、中年の女性も、若い女性も少なく、店員だけが、やけに目立つ。対策は、やはりバーゲンしかないのだろうか。百貨店ビジネスも、その仕組みを大きく変える必要があるのだが、トップがどれくらい気づいているか。

量販店の入りは、まずまずか。エコポイントの仕組みを活用しているのだろうか。流風なんて、もうすでに、買い替えは終わっているから、何の興味もない。不平等な政策だ。電気店からもいろいろ案内はあるが、残念ながら、必要な物がない。エコポイント不使用の国民には、その分、給付金を渡してもらいたいものだ。

車も、エコカーとかいうけれど、ハイブリッドの車に補助金付けるより、電気自動車に購買を促すような政策が大切だろう。過渡期の車に支援してどうなるものでもなかろう。これも、私企業を救済する政策だ。経団連から泣きつかれたのかな。

それにしても、米GMも実質国有化。これから、どうするんだろう。大きすぎて、国が救済しなければならなくなったんだろうが、企業を巨大化させるリスクがいかに大きいことか。そういうと、我が国のメガバンクも、嫌な予感がする。メガバンク3行もいらないだろう。今のうちに、2行は解体するのがいいのではと思ってしまう。

ごちゃごちゃ記していると、何か気分をよくする出来事がない限り、景気は盛り上がりそうにもないと感じる。何が必要なのか、ここでは記さない。でも、あれしかないよね。まあ、それとても、一時的な祭り騒ぎに終わるだろうけれど。しかし、それでも、雰囲気を変えることが求められている。

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高齢者はいろんな分野の案内人

高齢者の活用がよく話題になるが、今のところ十分に活用されているとは言い難い。仕事の分野での活用を期待しがちであるが、むしろ人生の先輩としての教訓を活かす方がいいかもしれない。

仕事の分野での活用は、基本的に勤めていた企業での伝承となるのに対して、人生の経験は、普遍的である。そういう意味では、“高齢者はいろんな分野で案内人”と捉えた方が、その活用は有効のように感じられる。

若い人も、高齢者に相談すれば、悩み事も解決するかもしれない。高齢者を人生の案内人として活用する仕組みが、各地域社会及びネット上で求められる。

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2009年6月 1日 (月)

不良と呼ばれた人たち

子供の第二反抗期を、親がうまく扱えないと、子供がぐれたり、更に進んで、不良になったりすると言われている。親をはじめ周囲は、注意深くみていないと、とんでもない方向に暴走することがある。

だが、子供には、第二反抗期があるのが当たり前で、そういうものがなく、成長してくると、大人になって、大きな問題や犯罪に走ったりする例も多い。普段は、周囲から大人しいと見られている人物が、とんでもない事件をよく起こしている。

いわゆる、大人が扱いやすい、大人しくて、いい子ぶる子供は、ある意味、大人になってから、危ないのだ。それは過度に自己をコントロールしすぎるからであろう。

だから、子供が反抗的になったり、ぐれたりするのは、本来、自然の形だと、親は理解しなければならない。それを大人が遠ざけたり、煙たがったりすると、子供は、不良化する例が多い。

ある意味、不良化する子供は、孤独で、疎外感を持ちやすい、感性豊かで、純真であるタイプが多い。ちょっと、不合理に見える大人の世間の常識に合わせるのが嫌なだけだ。そのことを案外、大人は理解していない。

以前のブログでも記したが、流風も、中学生頃、何もかもうまくいかなくて、将来が見えないので、茫漠とした不安に襲われ、ぐれかけたことを記した。父が真正面からぶつかってくれ、流風の考えていることを、とことん聞いてくれたので、結局、最終的には、ぐれることはなかった。父は、後年、あの時は、正直きつかったと苦笑していた。

また不良との関わりでは、流風は、高校生になってから、勉強が面白くなくて、不良の一団と関わりそうになったが、その時、彼らのリーダー格から、「お前は、そんなことに首を突っ込むな。勉強していたら、ええんや」と諭され(笑)、流風は、その後、彼らから手出しされることは一度もなかった。彼の統制力には、少し驚いた記憶がある。

芸能人で、活躍している人をみれば、若い頃、不良や暴走族のリーダー格で、結構無茶をしていた人が多いのだが、また成功例も多い。それは修羅場を経験していることが多く、組織の統制の仕方、仕切り方を熟知しているからかもしれない。芸能界で、そういう場面に遭遇しても、強いことが、生き残っている要因だろう。

もちろん、流風は、不良がいいとは言わない。彼らは、世間のルールや常識を守らず、常識外の行動により、世間に迷惑をかけるので、周囲にとっては、困った存在でもある。しかし、彼らの言い分も聞き届けることも大切だ。特に不良のリーダーは頭が悪くてはなれない。

彼らは、ほとんどリーダー主導で動いており、リーダーの話をまともに聞くだけでも、彼らの態度は変わる。なぜなら、彼らの思いや主張が、聞いてもらえないことが、不満の最も大きな要因だからだ。もちろん不良になるには、いろいろ個人的な要因もある。ある意味、いろんな要因が重なり、追い詰められているから、本当に理解してくれる相談相手が必要なのだ。

また最悪、不良が犯罪に走るのは、限界点で止まることができないからだろう。それが、、「生まれか、育ちか」という議論を引き起こす。いずれにしろ、不良と言うのは、危うい所にいるのも事実だ。だが、更生すれば、すごい力を発揮する場合もある。これは、そういう時に、巡り合える人がいるかどうかで、その人の人生が大きく変わる。

*参考ブログ

拙ブログ 「生まれか、育ちか」

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