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2009年6月11日 (木)

価値あるものとは

昔、ある人が、高価な茶碗でも、使わないのなら、それは意味がないと語っていた。確かに、使えば、割ったり、欠けたりするであろう。だが、その高級な茶碗で、食事をすることに、本来所有している意味がある。

同様に、美術品でも、蔵の奥深く所有して、一般にはほとんど目に触れないようにしている所有者もいると聞く。そんなものは、自己満足に過ぎないのではないか。美術品は、多くの人の目に触れて、初めて価値を持つものだろう。

また時々、テレビなどで、個人が持っている骨董品の評価がなされている。見ていくと、へぇー、こんなものに、そんな価値があるのか、ぴっくりするようなものもある。

しかし、それは永久に続く価値ではないように思われる物が多い。確かに希少性とかが、一定のある人々には需要があるとすれば、それは価値があるものなのだろう。だが、それは狭い市場での価値で、汎用性はないだろう。

結局、それは持つ人の自己満足に過ぎない。そう考えると、市場が大きくならない骨董品は、財産的には、あまり価値がないということになる。

ただ、思い出すことがある。子供時代、友達と廃坑に行って、水晶や黄銅鉱などを採掘して、家に持ち帰り、大事にしていた。しかし、ある時、家に帰ると、入れておいた空き缶がなくなっている。どこを調べてもないので、母に尋ねたら、ゴミのような石ころがあったので捨てたとのこと。しばらく、母とは口をきかなかった。

これほど、悲しくて、腹が立ったことはなかった。第三者から見ると、大したものでないものも、本人にとっては宝物である場合がある。骨とう品も、その類と言えないこともない。

ということは、その人の一生において、密かに楽しめる価値があるのなら、一代限りの道楽としての意味があるかもしれない。流風は、それは否定しない。誰しも、そんな無駄遣いは、多かれ少なかれ、しているものだ。

単に、論理的に価値がないから、そういうものは持たないというのも、一つの生き方だろうが、感性的な無駄遣いは、ある程度認めた方が、生活に潤いがあるだろう。但し、他人に処分されないようにね(笑)。

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