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2009年6月25日 (木)

方言による文章は傲慢か

かつて著名な作家の方が、文章の中に、方言を入れるのは、独善主義とか、語っておられたような記憶がある。しかし、果たして、そうなのだろうか。この作家の出身地はわからないが、東京方面の生まれではなかったのか。残念ながら、確認はできないが、そんな気がする。

もちろん、方言を使えば、その意味は、その地方に住む人にしか理解できず、作品としては、限界があることはわかる。しかし、今はネットで調べれば、わかるし、どうしても伝えたかったら、注記すればすむ話だ(*注1)。

例えば、以前にも少しふれたが、『源氏物語』の現代語訳でも、標準語で訳せば、そのニュアンスは微妙に違ってくる。やはり、その訳は京都弁(*注2)でなくてはならない。京都弁の微妙なニュアンスがわかれば、『源氏物語』の真の理解ができるだろう。

確かに、これまでの訳者は、それなりの努力はされているが、ニュアンスを伝えるために、余計に文章が長くなり、本来の文章の美しさを伝えきれていないのだ。これは、『源氏物語』だけに限らない。古典の京都文学はすべてそうだ。

こう考えると、方言のもつ地域性や文化は、それなりに尊重されてもいいと思う。方言の意味を知らない方に、伝える努力も大切だが、方言のもつ文化を知ってもらうにはいい機会とも言える。

*注1

確かに、方言ばかりだと、他の地区の人には、まったく理解されないかもしれない。その辺は程度問題だろう。内々の文学なのか、広く読まれたい文学なのか、という差で、方言の扱われ方は異なる。

*注2

京都弁を方言とすることに違和感を覚える京都人も多いかもしれないが、ここは例証として、勘弁頂きたい。

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