雨の歌~20年前のCD(橋本一子)から
本は割と整理処分するのに、CDは嵩が低いためか、どうしても御座なりになる。それでも、やっと重い腰を上げて、今回整理にかかってみた。大体、クラッシックが多いのだが、それも十分聴きこなしたものは少ない。クラシックを聴きますと言えば、聞こえはいいが、はっきり言って詳しくはない。全く、ミーハー的(笑)。
いろいろ見ていくと、若い時に、気まぐれで時々買ったものが、積み重なって、たくさんある。クラッシックの他には、軽音楽とか、映画音楽のものが少しある。後は、親が遺した古い歌謡曲のテープやCDが割とたくさんある。いずれ処分しようと思っているが、なかなか思い切れない。あ~あ、今回も、整理できないのかな。
そういうものも含めて整理していると、懐かしいCDが出てきた。流風が20年ほど前に買ったものだ。確かFMで流されていたので、衝動的に購入したものだ。若い人には、無駄遣いはいけませんよと、よく言っているが、流風も、若い頃は、それなりに使っていたかもしれない。
そして、そのCDが、橋本一子さんの『ロマンチックな雨』というものだ。当時は、音楽だけ気に入って、買ったのだと思うが、改めて歌詞を読んでみると、作詞も一子さんが手がけられているのだが、なかなか面白い。20年目で、初めて気付く、この間抜けさ(笑)。
女性にしては、結構、哲学的で、なかなか難しいことを歌詞にしている。流風も、今の歳になって、やっと理解できるような。当時は、歌詞を読んでも、あまり理解できなかったのではないか。流風と同じ年代だから、頭のいい人は、時代を先行するんですね。
その割に、音楽の方は軽いから、そのアンバランスが不思議だ。と思いながら、一子さんのブログがあるということで、アクセスしてみた。そうすると、彼女は、そのアルバムにある「すこしときどき」を今でも、歌われているとのこと。
また最近、ニューアルバムを発売された。『Arc'd-X(アークト・エックス)』というものだった。ということで、久しぶりにCDショップに行き、ミーハー的に衝動買い(笑)。若い人には、衝動買いを戒めながら、自ら破っている、この愚かさ(苦笑)。そして聴いてみると、ガーン。ダンスミュージックだった。いつもは視聴するのに、慎重さが足りなかったか。
若い人には受けるだろうが、中高年男には、ちと辛い。『ロマンチックな雨』から20年たてば、音楽も変わるのはわかるが、ちと変わりすぎ。まあ、それでも、20年も経てば、仕方ない。折角だから聴いてみると、それは基本はダンスミュージックがあるが、それにいろんなジャンルの音楽が重なっている感じで、フュージョン化している。
ただ歌詞がないので、イメージしにくい。多分、ご本人は、歌詞がなければ伝えられないものは作品ではないと考えているのだろう。それは、『ロマンチックな雨』の歌詞の中にも、そういうことが歌われていたように思う。
音楽を身体で感じ取り、それをダンスで表現し、コミュニケーションできる。それが本来のあり方で、そういう感性を持つ必要があるということだろうか。確かに、そう言われると、現代人は、文字に追われ過ぎているのかもしれない。そのため、本質を見失っているといいたいのかもしれない。文字は、余計なものかもしれない。
彼女は、独特の感性で掴んだものは、言葉では伝えられなくて、音楽を通じて伝えていこうとしているだろう。そういう意味では、彼女は、“現代の巫女”なのかもしれない。彼女の本当の考え方は、わからないが、この2枚のCDからは、そのように捉えられる。その間のCDは買っていませんので、聴いてもいませんから、あまりにも大胆な推論だが(笑)。
でもね、果たして、何を伝えようとしているのか。CD内に、若干の説明書きはあるが、それがヒントなのだろう。否、それが答えかもしれない。だが、皆が皆、音楽から、その伝えたいことをわかることはないだろう。
できれば、DVDで、ダンス映像と一緒にしてほしかった。もちろん、それでも意図は汲めないかもしれない。でも、わかる方にはわかるのだろう。まあ、それはそれとして、梅雨空を眺めながら、再び『ロマンチックな雨』を聴いている。
そして、『Arc'd-X(アークト・エックス)』が理解できるには、更に何十年も要するのだろうか。CDは、一向に片付かない(苦笑)。
*参考
ブログ * 橋本一子のnajanaja生活
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