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2009年7月 8日 (水)

のぞきはダメよ~謡曲『安達原』(下)

謡曲『安達原』は、結構上演されるので、ご存知の方も多いと思う。なお『安達原』は、曲題は、そのようになっているが、読みは「安達が原」だ。安達原は、テキストによると、福島県岩代国安達郡大平村黒塚だそうだが、今では、地名も変わっているかもしれない。

例によって、多少、茶化しながら、流風的解釈で、そのあらすじを見ていこう(長いので、覚悟してください)。能や謡曲を鑑賞する前の、予習的解釈だ。この能は、まだ鑑賞していないので、観た後は、解釈が違ってくるかもしれない。念のため。

一、那智の東光坊の阿闍梨、祐慶一行は、回国行脚の途中、日暮れに安達原に着く。

山伏修行として、日本六十六カ国を廻る順礼廻国は、どうしてもやらねばならない。そのため、今回は、遠国陸奥の旅で、安達が原に着いた。修行とはいえ、当時は、何の交通手段もないわけだから、当然徒歩で行ったのであろう。托鉢行脚とはいえ、大変なことだ。まあ、人生も、同じことかもね。

二、いつものように野宿をしようと思ったが、幸い一件の庵を見つけ、宿を乞う。

当然、夕方になれば、眠るための休息場所を確保しなければならない。しかし、当時は、ホテルも旅館もない。野宿すると言っても、当時は、狼をはじめ、野生の動物がたくさん、うろうろしている。火を焚けばいいとはいうものの、それはそれで大変だ。冬であれば、野宿も難しい。民家が、運よく見つかればいいが、田舎に行けば、案外見つからない。と思ったら、運よく、灯りが見つかり、宿を乞う。

三、宿の主の女に、中に通してもらうと、そこに枠桛(かせ)輪があり、これが何か興味を持つ。

再三の交渉により、泊めてもらうことになったが、そこの主人は賤しい女だった。だから、侘しい住まいである。それでも、いつもの野宿に比べれば、有難い。ふと見ると、そこに木でつくられた四角い枠のものが置いてある。少し気になって、これは何ですかと聞くと、これは麻を紡いで作った糸を巻き取るものです、と答える。

四、枠桛輪が、どういうものかわかってもらうため、女は糸を手繰って見せて、その動きから、人の身のはかなさを嘆く。

子供の頃、母が、不要になった毛糸で作られたセーターなどをほどいて、糸をこのようなもので巻き取っていた。よく手伝いをさせられたものだ。巻き取ったものを、更に今度は、毛糸玉に丸めていく。今では、そんなことをしている家庭はあるのだろうか。

女は、糸を毎日、巻き取るような日々の繰り返しを嘆く。人間生活は、多かれ少なかれ、そんなものだろう。非日常が連続で続けば、疲れてしまう。案外、平凡なのが幸せなもの。

祐慶は、真の道にかなっておれば、日々に明け暮れ、暇なく暮らせば、浄土への道が開かれると説く。あれこれ思う人間の迷いが、不幸を生んでいるのだ。人間の寿命は限られている。その中で、夢見たところで、儚いものだ。

そういうことを延々とさらに述べる。いくら真実とは言え、少しくどい(笑)。そういうと、お寺のお坊さんの説教も確かに長い。足のしびれが気になって、段々、話が耳に入らなくなる(笑)。修行が足りませんか。すみません。

五、夜も更けて寒くなってきたので、その女は、薪を拾いに外出すると言う。ただ留守中に、閨の中を決して見てはいけませんと言って、出かける。

そうこうするうちに、夜寒になってきた。薪が不足してきたので、それを拾いに出かけると言う。薪というのは、予め、準備しておくものだが、急な来客で、女手では、それを用意するのも大変なのだろう。

そして、このブログのテーマ、留守中、閨の中を決して、のぞいてはいけませんと、女は言う。人間と言うのは、他人の秘密を知りたいもの。さてさて、祐慶たちは自制できるか。

六、しかし、能力は、のぞこうとするので、祐慶は、それを止める。

能では、中入り後、間狂言で、示される。能力は、『鶴の恩返し』のお婆さんの役割。能力(のうりき)とは、霊能力をもった者のこと。能力は、怪しいと感じていたので、祐慶に進言すると、彼は約束を守ろうとする。

約束を守る前提条件は、確かにそれぞれ違う。身の危険を感じているのに、約束を守ると言うのは、少し愚鈍かもしれない。常識を守る人々の間では、約束を守らなければ、信用されないが、非常の時には、それはルール外だろう。だが、それを見極め、こういうことを適宜判断することは、案外難しい。常日頃から、危機意識の高い者に限って、感じ取れるのだろう。

七、能力は、祐慶たちが寝入ったすきに、のぞきに行く。

ここも、間狂言。能力は、あくまでも、自分の判断を信じて、のぞきに行く。この能力の判断は、結果的に正しかったことになる。だが、その判断が、間違っていれば、どうなったか。『鶴の恩返し』と同じような結果になったかもしれない。

八、のぞくと、あら大変。閨の中にあったのは、山と積まれた人の死骸。

まあ、誰だって、驚くわな。現代的に言えば、殺人犯の住まいに、宿を借りたわけだから。それも、死骸は一つや二つではない。まさに、女の怨念がこもったような感じ。どのような人生であったかはわからないが、男に騙され、道ならぬ道を歩み続けたのかもしれない。

九、慌てた能力は、急いで、祐慶たちに教え、これを確かめると、庵から急いで逃げ出す。

祐慶も、それを聞いて驚いただろうな。実際確かめてみると、死骸の山。これでは、あの女に殺される前に、庵を退散するのも、尤もだ。いくら宿に困っても、安易に宿を求めてはいけませんよ、と言っているようにも思える。

十、すると、先ほどの女が、鬼女となって追いかけてくる。

のぞかれて、本性を見破られた女は、ついに鬼女として現れ、彼らを追いかける。でも、鬼女とは何だろうか。結局、迷い人のように感じられる。鬼女でなくても、女性は捉われの心を持つと、よく言われる。

現世第一と考える、現実主義者の女性は、なかなか、諦めの境地には至らない。しかし、捉われるのは、程度は違えど、男も変わらないかもしれない。いきなり、悟る人間など、どこにいようか。捉われ迷うのが人間。それを人生修行で、コントロールできるかどうかは大切だが。修行は、必ずしも、宗教者だけに限らない。生きるという修行は、皆、知らず知らずやっている。

十一、祐慶たちは、これを祈伏するため、必死に祈る。

ここでは、鬼女を何とか祈伏して、身の危険を取り除こうとする。祈伏すると言うのは、基本は、魂を鎮めること。念ずる効果は、現代でも、認められている。

そういうと、流風が子供の頃、病気をした時、母が仏壇の前で、しきりに念じていた。何を念じていたかは知らないが、念じるとことで、子供の病気は治ると信じていたようだ。その姿を見て、子供心に、早く治らないといけないと思ったものである。

十二、ついに鬼女は、祈伏され、恨み声を上げながら、消えていく。

鬼女は、祈伏され、恨み声をあげなから、といっても、案外、鬼女は安らかだったかもしれない。誰かに念じてほしかったのかもしれない。孤独で、思い込みが、不幸をスパイラルにしていくのも、一つの事実だろう。

この能は、比較的人気があるが、なぜだろう。のぞきという、人間の弱さか、人は自分一人で迷ってはいけないということだろうか。見方によって、いろんなことを教えてくれる。鑑賞者が、いろんな観点から、想いを致すということが人気の秘密かもしれない。ただ、いきなり鑑賞すると難解だろうな。

ブログのテーマとして見ていくと、のぞきも、場合によっては、認められるかもしれない。のぞきはダメよ、と言っておきながら、それを否定するつもりはないが、それもケース・バイ・ケースだ。現代日本人は、頭だけで考えずに、身体感性をもっと磨くべきかもしれない。中途半端な感想になってしまったが、いずれ、能を鑑賞したら、また記してみたい。

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