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2009年7月 2日 (木)

ある男と、その愛人~謡曲『花筐』(下)

男大迹皇子は、結局、照日の前と別れを告げ、都に上るのだが、その後の、この謡曲のあらすじについて、流風の独断の解釈を添えて触れておこう(笑)。

一、越前にいらっしゃった男大迹皇子は、皇位継承のため、側に仕えていた照日の前に使いを出し、手紙と花筐を贈り、賜った照日の前は故郷に泣く泣く帰る。

花筐とは、花摘みに使う籠のことだ。流風なんて、籠など使わず、切った花を鷲掴み(笑)。そんなもん、あらへんもん。さすが、宮人。別に宮人でなくても、籠ぐらいは使うかな。そういうと、流風家にも、野菜籠ぐらいはどこかに。

二、彼女と別れて後、皇子は上洛されて、継体天皇になられる。彼は、照日の前に未練がなかったわけでもない。文の中に次のような言葉がある。

  誘われ行く雲の上。廻り逢ふべき月影を。

  秋の頼みに残すなり。

  頼めただ袖ふれ馴れし月影の。

  暫し雲居に隔てありとも

いずれ、迎えたい気持ちはあるようだ。まだ都に行かれて、日も浅いから、未練はあるだろう。まだね(笑)。

三、帝は、玉穂の都に御宮を造成され、一段落ついたので、ある日、紅葉の行幸を遊ばれる。

  萬代の恵みも久し富草も。

  恵みも久し富草の。

  種も栄ゆく秋の空。

  露も時雨も時めきて。

  四方に色添ふ初紅葉。

  松も千歳の緑にて。

  常盤の秋に廻り逢ふ。

  御幸の車早めん御幸の車早めん。

天皇に即位されたことで、世が安定し、きちんと回っていることを確かめに行かれるのであろうか。本来、行幸とは、そうしたものだろう。単に自身の楽しみだけなら、意味がない。庶民の生活の状態を把握して、為政の参考にする。

四、帝の手紙の文言は信じたいが、心揺れる照日の前。君を慕う気持ちは、ますます強くなり、思い余って、御文と御花筐を携えて、侍女とともに都へ赴く。

でも、こういう事態になると、簡単に捨ててしまう男も多いから、女性の方は不安やろうな。そりゃ、いくら文があったとて、そんなもん、あてにはできひんわ。愛は移ろいやすいもの。

天皇の周囲には、美女ばかりだろうし、都に入れば、いろいろ世話する人も出てこよう。いくら寵愛された照日の前とは言え、長いこと逢わなければ、日々に疎し、ということで、天皇の気持ちも離れるかもしれない。居てもたっても、いられない照日の前。

五、そうすると、ちょうど行幸に行きあい、その前に進み、帝を妨げたので、供奉している官人が、「無礼者」と、御花筐をたたき落とす。

気も動転しておれば、もう逢いたいという気持ちでいっぱい。行幸に行きあったのでなくて、多分、事前に調べはついていたのだろう。しかし、前後の見境もなく、帝の行幸をわざと妨げる。ただ、これは男から見ると、少し厄介。これほどまで慕ってくれるのはいいが、こういう女性は、愛を独占したがる。当時の天皇は、夫人(妃)がたくさんいる。その中で、うまくやっていけるのかな。実際、継体天皇は、后以外に、7人の女性を侍らせている。

六、しかし、照日の前は、おじけることなく、「これは帝から賜ったものである」と告げ、帝と会えない苦しみを嘆く。武帝と李夫人の反魂香の故事を語って、恋慕の情を述べる。

花筐を、はたき落した官人は、こりゃ大変と、驚いただろうな。罰せられる可能性高いし、えらいこと、やってしもうた。今後、照日の前から嫌がらせを受ける可能性がある。ああ、どうしよう。そんな官人の気持ちとは関係なく、照日の前は、延々と恋慕の情を語る。武帝と李夫人の反魂香の故事については、以前のブログで取り上げたので省略。

七、訝った官人が、帝に確認すると、それはまさに照日の前に与えた花筐であった。帝は、その女が、照日の前と確認し、連れ帰る。

帝が、花筐を確認すると、まさに照日の前に与えたもの。これはいい機会と連れ帰る。帝も、どのようにして連れ帰るか、思案していたのかもしれない。そういうことで、めでたし、めでたし、となっている。なお、この花筐の物語から、恋しい人の手馴れし物を「形見」と呼ぶようになったという。なるほどね(笑)。

先の説明でも、触れたが、照日の前は、少し情が深い。それだけに取り扱い注意(笑)。こういう女性は、どうしても感情的になりやすい。関係がうまくいっている時はいいが、少し気持ちが行き違うと、ちょっと大変。継体天皇も、その後、苦労したのではないかな(笑)。

*注記

基本的に、上記の解釈は、継体天皇の場合、あり得ないことを記しておく。上記の解釈は、あくまでも、一般的な男女の場合の解釈である。念のため。

というのは、この照日の前は、継体天皇即位前に、後の安閑天皇、宣化天皇を産んでいる。出自はともかく、皇子を二人も産めば、左うちわ。随分と権力風を吹かせたのかな。尾張目子媛とも云われたそうだが、実際、詳しいことは伝わっていない。

つまり、継体天皇の出生年は、不明で西暦450年頃と云われている。他方、皇子たちは、安閑が466年、宣化が467年出生となっている。ということは、継体天皇が即位した時は、58歳だから、皇子たちは、もういい大人。すなわち、皇子を引き連れての即位であったわけだ。

だから、その母親を放ったままにすることは、まずあり得ない。むしろ、話としては、継体天皇の即位に伴い、新しい后を迎えることで、照日の前と、揉めた可能性の方が高い。テーマの持って行きようにズレが感じられる。

この作品は、云い伝えなのか、創作なのか不明だし、世阿弥元清の作とされるが、それもはっきりとはわかっていない。随分とぼかしている。

ということは、世阿弥時代の、どこかの権力者を、遠まわしに、揶揄している可能性の方が高い。登場人物を現在の人を使えば、当局から、うるさいことを言ってくるかもしれないしね(笑)。そういうことで、この作品が作られたのかもしれない。

いずれにせよ、かなりの脚色が入っていると言える。まあ、時代的に、権力者のことは、悪く描けないしね。現代で言う、歴史小説の類と同じかもしれない。でも、暗くなくて、楽しめる内容には違いない。

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