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2009年8月30日 (日)

人件費と価値ある社員

企業経営者が、機会損失を失うことを恐れ、業績のいい時に、雇用を増やすと、業績が落ちた時には当然、人件費が負担になる。凡そ、人件費不況が起こる時は、概ね、このようだ。

だから経営者は、機会損失と、将来コストを常に考え合わせて、人を雇用しなければならないのだが、なかなかそれができない。それは顧客の要望に対して、断りきれないからだろう。ビジネスチャンスを逃したくない気持ちはわからぬでもない。

だが、顧客の要望と経営のかじ取りのバランスを取れない経営者が多いというのは、従業員にとっては悲劇だ。最悪の事態になって、人件費カットだ、リストラだと叫ぶ経営者。背に腹は代えられないのは、わかるが、なぜ、このような経営者が、いつまでも、なくならないのだろう。

結局、それは経営者が、人材を「数量」としてしか見ていないからだろう。会計上の机上の計算しかできないようになっている経営者が、最近増えているのは、実に嘆かわしいことである。

やはり社員に求められるのは、その「質」向上だろう。常に向上意識を持たせて、質のグレードアップをはかる。企業はそれを後押しし、それなりの活躍の場を与え、経営数値がわかる人材にしていく。

結局、それをやった企業のみ残るのだろう。従業員を「コスト」でなく、「価値」として、位置づけていく経営者が増えることを望みたい。

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2009年8月29日 (土)

不十分な人

書店経営で思い出した映画で、『ユー・ガット・メール』がある。トム・ハンクスとメグ・ライアンが出演していた。あるメールのやり取りをした男女の物語で、題名は、メール着信音だ。実は、二人とも、書店経営者。女性の方は、個人書店。男の方は、大型ディスカウント書店の経営者。男は、女性経営者に自分の身分を知らせていないというものだった。

ありそうで、なさそうな物語だが、確かに、メールだけのやり取りだと、相手のことはよくわからない。本心は隠すこともできる。そこに危うさがあるとも言える。メールでは、いくらでも、きれいごとが書ける。相手の目を見て、書いているわけでもない。だから、嘘が見破られることもない。

この映画は、最終的に、ハッピーエンドになっているが、いつも、うまいこと行くわけでもなかろう。やはり直接会って、判断しないとね。そうすれば、直観力を働かせば、ある程度、いいことも悪いこともわかる。まあ、それでも、映画は、ハッピーエンドが望ましい。楽しみに行っているのに、気分が暗くなる映画は、ちょっとね。

さて、その映画の個人書店の女性経営者を演じているメグ・ライアン、今では歳を取ったなあ(笑)。そら、アラフィフだから仕方ない。彼女は自身の不倫とかで、離婚しているようだ。まあ、いろいろあったのでしょう。

ところで、映画とは関係ないが、彼女が言っている言葉を最後に挙げておこう。

 “ 私って本当に不十分な人。

   そして、私はそういう自分を愛している”

残念ながら、どう言う状況での発言かはわからないが、共感(笑)。完全な人間なんて、いないでしょう。人間は、一生、不十分なままで、いるのでしょう。あの世に逝った人を除いて。

でも、昨日より今日、今日より明日と、少しでも、よくしたいものです。まあ、流風なんて、少し油断をすると、昔に逆戻り。そういうことのないようにね(笑)。そして、不完全を補ってくれる他人がいればベストですね。男女関係に限らず、惹きあうのは、多分、そういうことでしょう。

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2009年8月28日 (金)

書店経営はなぜ苦しいのか

現在、書店経営は大変なようだ。本が売れないからだ。本を読む人が大変少ないという。それに、小さい書店は、万引きの被害が多くて、閉店したところもある。万引きは、利益率の低い書店経営を追い込むことになるのだ。

やっているのは、学生たちが、ほとんどらしいが、万引きが、犯罪という自覚がないのだろうか。彼らの犯罪は、自分の人生に、ケチをつけるものだ。将来、本人が出世でもすれば、スキャンダルのネタにもなりうる。学生たちは、未来を傷つけないように行動したいものだ。

小さい個人書店は、そのように厳しい状態にあるのだが、全国的に展開している大きな書店も、実際、経営は厳しいようだ。印刷会社に株式を持ってもらうなどしている企業もあるので、そのことからもわかる。

それほど、人々の文字離れはひどいのだろうか。確かにネットが普及し、ほとんど情報が入手できることも影響しているかもしれない。全ての細かい情報はわからなくても、流れはつかめることができる。余程関心があれば、初めて書籍を読めばいい。そんなところかもしれない。

更に、出版物の多さも、業界を苦しくしていると言って過言ではないだろう。はっきり言って、「ゴミ出版物」が多すぎるのだ。出版物の内容を精査して、本当に社会貢献できるものなのか、業界で、第三者委員会などを設けて、「検査」する必要がある。

こういうことを言えば、いろいろ言う人がいるだろうが、いい加減に、業界は、「ゴミ出版物」の整理をするべきだろう。何も、それはエログロ出版物だけを指しているのではない。一見、真面目な出版物であっても、意味のないものはたくさんある。

いや、大半と言っていいかもしれない。要するに類似出版物が多すぎるのだ。これらを整理して、出版物の質を上げなければ、今後も、書店経営は厳しい状態が続くだろう。

*追記

もちろん、やりかたはいろいろあるだろう。ある書店は、まるで顧客のコンサルタントのようにアドバイスして、必要な書籍を勧めている。そうするには、店主が、その本の内容を熟知していなければならない。

すなわち、読んで納得したものしか、店においていない。よって、最近の話題本等は置かない。自分の目で読んで、厳選されたものだけが、店にある。そういう努力をしたところは、今後も、生き残っていくのだろう。

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2009年8月27日 (木)

旧作映画の流通

最近の大抵の映画作品は、人々の目に接することなく、上映は打ち切られることが多いようだ。もったいないことだとは思うが、映画が作られ過ぎているのだろう。作る前に、何か審査のようなものも求められる。シナリオの作り込みが大切だ。

制作者が作りたいから作るというのは、現在の著作物同様、資源の浪費になりかねない。最終的に、人々の目に接しなければ、自己満足に過ぎない。もちろん、映画の流通についても、問題があることを否定しない。

たとえば、最近の映画は、期待の高い作品を除いては、大体、1週間の上映がほとんどだ。それでは、なかなか作品が浸透しない。昔のように、1年間上映されて、人気が徐々に上がるという手法は現在では取れないのだろうか。

その後は、一部はテレビで放映されるかもしれない。若い時は、よく録画して、観たものだ。中には、ずっと保存しているものもある。一部はDVDになって、レンタルされる。最近は、旧作だと、100円レンタルというものもある。

流風も、そういうもので楽しむことはある。だが、ビデオにしろ、DVDにしろ、映画館ほど楽しめない(ただ、自分の都合に合わせて観るのには便利だが)。映画館の雰囲気は、一種独特だ。多くの人々と一緒に映画を鑑賞するというのは、別の感動を生む。

ところで、そういうことに、やっと気付いたのか、ワーナー・マイカルが、一部のシネマコンプレックスに、旧作を上映する専用スクリーンを設置するようだ。やっと映画市場も、その必要性に気付いたのかな。この会社は、中高年に利用してもらい、平日の鑑賞者を増やす目的らしい。でも、若者にも、意外にも受けるかもしれない。

その鑑賞料が500円(*注)。だとすれば、流風なんて旧作になるのを待ちますか(笑)。新作は、あらゆる分野の新製品同様、評価が定まっていない。結構、観てから、がっくりというものもある。旧作なら、ある程度評価は固まっているわけだから、損はない。

さらに、数年前の作品だけでなく、50年前ぐらい前の名作も上映されるらしい。昔の名作は、白黒でも、それなりに味わい深いものもある。両親世代が楽しんだものが観られるのなら、これも楽しみだ。

特に、戦前、戦中、戦後をテーマにした作品は、見ごたえのあるものが多い。そういうものが、日常的に上映されれば、人々が戦争に苦しんだことを、若い人にも、ある程度理解できるだろう。早く、関西にも、そういう専用スクリーンが、展開されることを期待しよう。

*注

現在の新作の正規の映画鑑賞代は、1500円くらいが多い。そして特別の日や、特定の対象者に対して、1000円にしている。地域によっては、特別の催しに限って、映画鑑賞代も、新作でも特別鑑賞券などで安くしている時があるが、それでも、せいぜい1000円だ。

旧作が500円は、場所代を考えても、リーズナブルと思う。映画ファンを増やすきっかけになるかもしれない。

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2009年8月26日 (水)

離れ離れになった親子~謡曲『花月』

子供の頃、夕方になると、「夕焼け小焼け」の音楽が一帯に流れ、子供は早く家に帰るように自然と促された。最近の子供は、外で遊んでいるのをあまり見ないが、どこで遊んでいるのだろう。母は、少し帰りが遅いと、流風を捜し歩いたようで、遅れて帰って、よく叱られた。

暗くなって、遊んでいたら、誰かにさらわれて、ひどい目に遭う、とよく脅された。それは、当時、まだ時々見た角兵衛獅子にされてしまう、というようなことだった。あれは、物凄くしごかれるというのは、映画でも観たような気がする。

昔から、神隠しにあう、というようなことは、あったから、時代が変わっても、同様なことはあると、母は、流風の目を見て、真剣に語ったものだ。角兵衛獅子が、さらわれた子供かどうかわからないが、あんな曲芸は、運動神経の鈍い流風では、とてもできないだろうなと思ったものだ。

特に、水商売の集まりの繁華街へ行くことは厳禁だった。あの辺りは、いろんな人がいるから、危ないというのが、母の判断だったようだ。実際、子供の行方不明は、当時は、今ほど騒がれていなかったが、よくあったらしい。近所のおばさん達が、よく、そのような噂話をしているのを聞いたことがある。だから母の心配も、もっともな事だったわけだ。

さて、謡曲にも、子供がさらわれ、離れ離れになった子供を探すため、出家した父親の姿が描かれている。現代でも、いろんな事情で、親子が離れ離れになったりする。外国に拉致された事件も報告されているが、なかなか解決しない。拉致した人々は、親の悲しみがわかっているのだろうか。拉致した国が儒教国家だなんて、信じられない。決して、人間のやる行為ではなかろう。

ところで、今回取り上げる、その謡曲は、『花月』という。本来、冬の謡曲だけれど、それは無視(笑)。花月なんていうと、吉本の劇場名みたいだが、実際、どういう意味で、吉本は名づけているのだろう。そのことは措いておいて、そのあらすじは、以下、いつものように、流風が若干、脚色。

筑紫の彦山の麓で、左衛門と言う男が、一人の男の子と暮らしていた。その男の子が、七つの時に、彦山に登ったまま、行方不明になる。もともと、彦山は、七つ隠しで、当時問題になっていたという。

それも、少しかわいい子供だけを狙う。かわいい子供を狙うというのは、中世的と指摘する向きもある。現代では犯罪だが、当時は、かわいい子供を性的にかわいがるということがあった。小姓とかも、その類だろう。

そのような目的かどうかは不明だが、七つ隠しとして、自分の子供がさらわれる。ということは、かわいかったのだろう。左衛門は、ショックを受け、子供を探そうと、諸国を行脚するために、出家する(出家しないと、諸国行脚できない)。この男にとって、子供がすべてだったのだろうか。子のない人生は考えられなかった。

今は、父親は娘を可愛がり、母親は息子を可愛がるが、当時は、後継ぎの息子を大事にするから、そのようになったのだろうか。母親は、この謡曲では描かれていないが、すでに亡くなっていたのかもしれない。それが思いを強くしたのかもしれない。

諸国行脚する中で、ある年、京都の清水寺に詣でる。そこに、一人の喝食(佛家の食事の雑用をする童子姿の男を指す)が来て、やや大層な言い方(*注1)で、花月と名乗る。誰でも、親は子供に名づける時、それなりの意味を以て名づけるかもしれないが、彼の場合は、誰が名づけたのだろう。多分、売り出すための養父の知恵なのだろうか。当時、すでに、そういう専門家が生まれていたのかもしれない。多分、それは最初、僧侶辺りが始めたものであろう。

そして、小歌(*注2)を謡ったり、鶯が花を散らすとして、射落とそうとしたりする。また清水寺のいろいろの奇跡を縁起とする曲舞を長々と舞ったりする。 このように、清水寺縁起が、謡われる。こういう奇跡話は、誰が作るのだろうか。ちょっとした不思議な出来事に尾ひれがついて、広まっていくのだろうか。

そうこうする内に、左衛門は、この花月は、自分の息子ではないかと感じ取る。顔とか全体の雰囲気は、他人同士でも、長い間、離れていても、なんとなくわかる。ましてや、親子だったら余計のこと。

それで、いろいろ質問すると、間違いないと判断し、自分が親であることを告げる。これも清水寺の不思議か。滅多にない、離れ離れになった親子の再会。花月は喜び、天狗にさらわれて以来のことを舞いながら話す。その後、親子は、一緒に修行の旅に出る。

一体、この謡曲は、何を語ろうとしているのだろうか。表面上は、子供の時、さらわれた子供と親が再会することだ。その中に、いろんな仏道の話を交えながら、話が進んでいく展開だ。ところが、注記した、名乗りにしても、小歌にしても意味深だ。意味深というのは、考えすぎかもしれないが、本当の作意は案外、ここにあるのかもしれない。いろんな話をして、真意を隠す、おばさん達の話に近い(笑)。

*注1

    月は常住にして言ふに及ばず。

  さて、くゎの字はと問へば、

  春は花、夏は瓜、秋は菓、冬は火。

  因果の果をば末期まで。

  一句のために残すと言えば、

  人これを聞いて、さては末世の高祖なりとて、

  天下に隠れもなき花月と、

  我を申すなり。

*注2

    来し方より今の世までも絶えせぬものは、

  恋と云える曲者。

  げに恋は曲者。

  くせものかな。

  身はさらさらさら。

  さらさらさらに、

  恋こそ寝られね

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2009年8月25日 (火)

夏はどこへ行った

昨日は、昼間は温度は上がるものの、風があったので、そんなに暑く感じることはなかった。ほとんどの花は終わり、ひまわりも、枯れ始めている。種が取れ過ぎるので、今年は、種の採取は止めておこう。

蝉の鳴き声も静かになりつつある。ツクツクボウシは、啼いたり啼かなかったりと、彼らも迷っているようだ。トンボはちらほら。ただ、アゲハ蝶だけは、割とあちらこちらで見られる。

更に夕方になると、急に寒くなった。外では、秋の虫たちが啼いている。今年は夏が短かったなあ。夏を感じる時がなかった。夏はどこに行ってしまったのだろうか。9月に入れば、暑さはぶり返すのだろうか。奇妙で、物足りない夏だ。

今朝起きると、大変寒い。夏用の掛け布団を身体に巻きつけていた(笑)。布団も入れ替えが必要かな。羽毛布団を取りだした。でも、夏布団も、しばらく置いておこう。

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2009年8月24日 (月)

励ます人

励ます人、なんて書くと、お前、ハゲ増す人じゃないかと言われそうだが、流風は、何も手入れはしないが、髪の毛は黒々としている。何かつけているのではないかと、よく言われるが、決して何もつけていません(笑)。まあ、年齢の割に黒々としているかもしれない。髪の毛は、薄くなってきたが、それほど気にするほどでもない。

さて、本題に戻り、励ます人とは、世の中、励まし、励まされで成り立っているのでは、と思うことがある。まあ、人によっては、他人の励ましなどいりませんという方もいらっしゃるだろうが、人間というのは弱いものだ。ちょっとしたことで傷ついたりする。

どうでもよいことにくよくよしたりすることもあるだろう。それを励まされると、本来の自分に戻る。それはお互い様だ。流風も、落ち込んだ人がいれば、できるだけ励ますようにし、元気がありすぎる人には、辛口のコメントをしたりしている(笑)。ブレーキとアクセルね。否、飴と鞭か(笑)。

こういうことを書くと、もたれあいは、よくないと言う人がいるかもしれない。でも、「人」という文字は、そのようになっている。お互いが支えあうのが、人間社会だろう。ただし、励ましは、相手に本来の自分を気付かせることが大切だ。それは甘えとは違う。

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2009年8月23日 (日)

提携・合併のあり方

某大手ビールメーカーと某洋酒メーカーの提携・合併が騒がれて、少し時間が経った。果たして、この合併はうまくいくだろうか。合併と云うのは、違う文化の企業同士が合わさることだから、いろいろ問題がある。たとえで言えば、日本人が外国人と結婚するようなものである。

ところが、そのことを忘れて、安易に提携・合併する例が、度々見られる。銀行の合併もそうだろうし、百貨店の合併もそうだろう。第三者には、机上の数字合わせのように見えてくる。合併後の業績を見ると、必ずしも順調ではないことからもわかる。非効率な組織は残され、旧組織のまま、それぞれが運営する場合も見られる。

ところが、それぞれ、弱みを隠して、自らの思惑で、企業合併を推進することもある。ましてや、それぞれの経営者の顕示欲から始まる合併構想は、本来の合併の意味を失っている。これなどは、投資家にも、従業員にも迷惑なことである。また赤字隠しのための合併もあるだろう。

企業には、それぞれ強みも弱みもある。本来、両社が何のために合併するのかを、初めから、お互い提示して、合併構想を描くべきだろう。今後、日本の中小企業は合併を推進することが求められる。経営者は、仲介者を通じても、お互い、本音で、話し合うべきだろう。中小企業経営者は、サラリーマンである大企業経営者のようなことは、やらないとは思うが。

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2009年8月22日 (土)

屏風の教え

関西の商家では、昔から、次のような教訓がある。

   「屏風は広げ過ぎると倒れる」

最近では、家に屏風のある家は少ないだろう。流風の家にもない。ただ、室内用の物干しは、屏風型をしている。だから、実際、それは経験できる(笑)。この教えは、当り前のことを指しているのだが、経営者は、案外、気付かないことが多いようだ。

売上志向になると、どうしても、あれもこれも取り扱いたくなる。それが屏風を広げた状態と言えよう。だが、どれも結局、中途半端になり、結果として借金がかさみ、破綻する。商売のノウハウは、それぞれにあり、それをこまめに積み重ねないと、信用を築けない。大雑把な経営では、信用は築けない。

逆に、間口の狭い商売は成功すると言われる。一定の継続的需要が見込める分野で、専門性を発揮して、細々と商いしていると、大きい商売しているところと遜色ない利益を得る場合もある。一つ一つの儲けは小さいが、値切られることも少ないので、利益は確実に積み上げられていく。

確かに、間口の狭い商売をすると、当初は、なかなか売り上げも、すぐには上がらないし、商売を始めた頃は苦しい。それでも、そこを何とか潜り抜け、やりくりしていくと、少しずつ信用がついていき、更に顧客の継続的利用が利益を生んでいく。

しかしながら、「屏風はたたんでも倒れる」とも言う。利益を効率的に上げるため、あまりにも取扱品目を減らしても、魅力を失い、ビジネスとしては破綻する。ここら辺の塩梅は難しい。ABC分析により、売れ筋ばかりに商品を集中したばかりに、人気を失うこともあるのだ。やはり商売は、顧客に夢を見せる「見せ商品」も必要だ。そらそうでしょう、「店」は「見せ」だから(笑)。

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2009年8月21日 (金)

水害の記憶

子供時代、台風で、河川の堤防が決壊し、床下浸水になったことがあった。床下浸水と云っても、床上浸水の一歩手前だったと記憶する。父は会社に行って不在だったから、あの時の母の恐怖の顔は忘れられない。

近所の人がきて、テキパキと指示されて、それで、やっと落ち着いたのか、近所の会館に逃げるということになったようだが、しばらくして、雨も小雨になり、徐々に水が引いていった。

夕方遅く父が帰宅した後は、その後始末で大変だった。父が濡れている畳を上げるかどうか迷った後、その夜は上げずにおこうとなった。その他の物品の整理やら、水につかってしまった食糧などの処分など、とりあえずの処理をして、当日は終えたが、食べ物がない。

そうこうする内に、しばらくして、近所の方が、おにぎりを届けてくれ、その日は終えた。水は、井戸水を汲んで沸かし、お茶がないので、白湯で、おにぎりをほおばった。風呂は五右衛門風呂なので、井戸水を汲んで、薪は濡れて、あまり濡れていないものを選ぶのだが、なかなか燃えなかった。

それでも時間をかけて沸かし、深夜になってから、入った記憶がある。身体の汚れを取るため、皆、どうしてもお風呂に入りたい気分だったのだろう。流風も、いつもは8時就寝なのに、当日は遅くまで起きており、少し興奮していたかもしれない。でも、朝まで、なかなか寝つかれなかった。

翌日は、父は仕事を休み、家財の処理や、畳干しをしていた。このように水害の被害は大変だ。しばらく、落ち着くこともできない。兵庫県佐用町の水害の被害は、夏の災害と云うこともあって、その処理も大変なようだ。多くのボランティアの方々が入って、作業されている。佐用の人々も落ち着かれるには時間がかかるだろう。早く復旧されることを期待したい。

また残念なことに、高齢の女性(75歳)が、将来を悲観されたのか、自殺されていた。老い先短いのに、自殺とは、非常に悲しいことだ。人間生きていれば、いろんなことがあるが、絶望されたのだろうか。理由はわからないが、復興を見届けてほしかった。

確かに、被災された方々は、これからもいろんな苦労が多いかもしれない。今まで、国内外の様々な震災に対する寄付は、わずかばかりでもしてきたが、水害の被害に対する寄付は皆無だった。しかし、いろいろ報道に接すると、無惨な状態が映し出される。今回は、兵庫県民として、わずかばかりではあるが、寄付しようと思う。

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夏のインフルエンザ流行と免疫力強化

困ったことに、夏のインフルエンザが流行しているようである。それが新型らしいのだが、流風には、何が新型か十分知識はない。ただ、病気持ちで病院施設に入っている高齢の方々が亡くなっているが、それは一般には、夏は珍しいかもしれない。高齢者は、毎年、冬に風邪をひいて、それが悪化して亡くなる例が多い。

さらに、驚いたのが、プロ野球の選手が、罹っていることだ。体力も十分にある彼らが、このインフルエンザに罹るとは。確かに、この病気にかかった免疫がなければ、そうなるのだろう。高熱を出したからと言って、そんなに大変なことなのだろうか。騒ぎ過ぎではないかとも思うが、観客に病気をうつす可能性を心配しているのだろう。

でも、やはり心配なのは、病院や介護施設などのように患者の集団になっているところの対応処置が大切だろう。こういう施設では、個人の努力ではどうしようもない。菌が蔓延するスピードも速いし、抵抗力のない人も多いから、多くの禍を生む。

除菌しているから大丈夫と云うのは、大きな誤解だろう。過剰な保護をすれば、菌耐性の弱い患者は、少しの菌で、病気に罹る。こうなると、病院のような施設は、最も危険な場所と言える。そうは言っても、病気になればお世話にならざるを得ない。

結局言えることは、菌に対する耐性を強くするしかない。免疫力の強化は素人の視点でも望まれる。それは昔から言われているように、胃腸を強くすることだろう。今まで、民間で言われてきたことを記しておこう。

一、食べ物は、よく噛むこと。

これは胃腸の負担を小さくするし、消化がよいので、栄養が確実に吸収される。

二、食べる食品の十分な選択。

現代は、いろんな食品が溢れているが、加工食品は極力避け、新鮮な食材を調理して食べること。

三、口腔管理

口の中をきれいに保てば、病気に罹る率が低くなると指摘されていることは、以前にも記した。

四、胃腸の掃除を定期的に行う。

一般的には、絶食が勧められるが、これでは完全に掃除でないと言われる。そのため、漢方薬等で除去する。例えば、サルノコシカケとか、梅寄生がよいとされる。これらは、胃腸を掃除し、免疫力を高める。但し、加工された薬剤はきつすぎるので避け、煎じ薬が望ましい。後は、専門医によって、洗浄してもらう手もある。

風邪とか、インフルエンザは、胃腸と密接な関係があると言われてきた。医学的根拠は不明だが、多くの先人から、そう教えられてきた。食べ物の選択、食べ方、その後の処理が結局、強い免疫力をつくるのだろう。

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2009年8月20日 (木)

買ってみたら、中身が違う!

買ってみたら、中身が違うということは、よくある。そんなことを言えば、父が生きていたら、「なんで、きちんと確かめないのだ」と叱られるだろう。まあ、それはそうなのだが、最近は、ややこしい表示の商品も多いのは事実だろう。

玉井人ひろたさんが、緑茶表示のボトルが、実はハンドソープだったと紹介されていたが、流風も、チューハイのつもりで買ったものが、中身はウォッカだったということもある。外観は、チューハイに似ており、どこにも、ウォッカと大きく表示はしていない。大体、酒であるという表示も小さい(*追記)。

こういうやり方は、少し、ひっかかるものがある。本来の商品の中身を小さく表示して、成分の一部を多く表示するのは、それはメーカー本位のやり方で、消費者の立場に立ったやり方ではないだろう。やはり、どこかおかしい。メーカーの姿勢が問われる。

*追記

ウォッカと聞けば、結構きつい酒と思われるのだが、結構いけたので、それはそれで良かったのだが。

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仕事は最終的には体力

生前、父と話した時、父が「お前も、私も、蒲柳の質だから、お互い無理が利かないので、苦労するなあ」と、ぽつりと漏らした。父も、流風も、体力があるタイプではない。父も流風も、極力、残業を避けて、体力を温存した。

流風は、子供時代、次々と病気に見舞われ、身体が弱かったから、父は、流風がいかにして生計が立つようになるか、随分と心配したらしい。流風は、子供の頃から、体力不足を、いかに補うかということが課題だった。それは、例えば、早寝早起きであったり、適度な気分転換であったりした。

しかし、流風も、いろいろ努力したが、いかに励んでも、限界というものがあり、幾度も壁にぶち当たった。一部の先輩の理解は得られたものの、内心、自分の体力の足りなさに、苛立ったものだ。

いかに色々考えても、大きなことを実行に移すには、相応の時間も費やさなければならない。ところが、それができない。体力がないと、終盤には疲れてきて、思考の方もうまく働かない。ストレスは大きくなるばかりだった。

このように見ていくと、やはり昔から言われているように、文武両道は大切なのだ。バランス良く、身につけるのがいいだろう。どちらかというと、若干「武」の方が優先させた方がいいかもしれない。

「文」、すなわち「智」の方は、基礎的な考え方(人としての教養)がしっかりしておれば、後からついてくるし、最悪、その「智」に優れた人々を参謀に使えばいい。体力に加えて、人を使いこなす知恵と人間力があれば、なんとかなると思う。

*追記

在職時のストレスから、内臓の病気になり、それが十分治っていないのに、働き続けたものだから、危ない事態に陥り、早期リタイア(ちなみに会社には、そのことを告げていない。他の理由で辞めさせてもらった)し、回復するにも十分な時間を要した。

結局、自身の体力の限界の無視と健康管理を怠ったことが禍を招くことになった。そういう反省を含めて、ここに記した。若い方々には、そういうことのないようにしてほしい。

また体力に自信がなければ、それにふさわしい仕事を選択するか、補助的な仕事に徹することが望ましい。その分野で一番になればいい。高望みしてはならない。

*注記

もちろん体力だけではだめで、精神力が伴わないと、物事はなしえない。

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2009年8月19日 (水)

カラオケ嫌い

以前にも記したかもしれないが、流風はカラオケが大嫌いだ。飲みに行くと、二次会は、どうしてもカラオケに行こうと言う人が多い。理由はわからないが、話すことがなくなれば、二次会では、カラオケで、時間を過ごそうとする考えからかもしれない。

だが、カラオケで、3時間とか、4時間過ごすという人の気持ちはわからない。確かに一種のストレス発散にしているのだろうが、やり過ぎれば、何事も逆にストレスになるはずだ。それにカラオケ環境はあまりよくない。インフルエンザの温床になっているとも聞く。不潔な環境のカラオケは多いかもしれない。

また、スナック等のカラオケも、頂けない。店側は、接客がその分、省けて楽だろうが、本来、カラオケのための店ではなかったはずだ。お酒は、ゆっくり嗜みたいのに、これらの店でカラオケに誘われるとうんざりする。

何も話さなくても、共通の時間を過ごすだけでもいいではないかと思うのだが、そうはいかないようだ。でも、他人の歌う歌を聞いても楽しくはないし、自分の歌う歌も、特に聞きたくもない。音痴な流風は特にだ。

もちろん、カラオケ愛好家を否定するつもりはない。しかし、全ての人がカラオケが好きでないということを知っておいて欲しいものだ。

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2009年8月18日 (火)

父の記憶法

父は、講演会等へも、会社から聞いて来いと言われて、行くのだが、いつも手ぶらだったそうだ。他の人は、手帳とか筆記用具を用意して、メモを熱心に取っていたが、父は前を向いて聞いていただけのようだ。それは父の同僚から、後日、教えられたと母が語っていた。

それでも、会社に帰れば、その報告は最も簡潔で、わかりやすく、的を得たものであったと言う。そこで、小学生の頃、一度父に聞いたことがある。「流風には、学校で聞いたことを、しっかりノートしなさいと言うのに、お父さんは、なぜメモしないのか」と。

そうすると、父は少し笑いながら、「人の話は、メモしていたら、それだけ遅れる。そこで、大事なことを聞き逃すこともあり得る。だから、聞くことに集中して、頭で整理している。流風は、学校だから、まだ聞き直すこともできるが、社会では、なかなかそうはできないのだ。お前は、まだ、きちんとノートしないといけないよ」と。

また別の機会に、父に違うことを聞いた。「前を向いて聞いていたら、メモもせず、段々眠くなると思う。どうすればいいのか」と。それに対して、父は「確かに、ずっと同じ姿勢で、聞いていたら、そういうこともある。だから、気分転換を頭の中で、10分か、15分ごとにする。そうすれば、眠くなることもないし、ちゃんと聞くことができる」と。

後年、思ったことは、人間の意識の集中は15分程度ではないかということ。それを工夫して、父は、学生の頃から、授業なども含めて聞いていたのだろう。父の言うことは、尤もだと思ったが、その後、大学に進学したり、社会に出て、講演会などを聞く機会を得たが、なかなか頭の中で整理できない。

結局、メモを多くとることになる。要点だけにすれば、いいのに、全てメモしようとした愚行。まあ、それでも、後には、慣れてきて、キーワードだけメモするようになった。そうすると、後で、次々と思いだされ、整理するとことができるようになった。しかしながら、ついに、父のようにはできなかった。多分、今でも。若い方には、早くから、父のやり方を真似してほしいと思う。

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2009年8月17日 (月)

手帳へのメモは、霊感の宝庫か

本田静六氏が、かつて、「手帳へのメモは霊感の宝庫」と、語っている。人間の記憶は、いい加減なものだから、すぐ忘れてしまう。流風も、若い時は、メモなしで、できたことが、年々歳を重ねるにつれて、記憶があやふやになりがちだ(悲)。

だから、氏の仰っているように、瞬間、瞬間を大切にするためには、その瞬間に閃いたことを、メモすることが、人生を有効にするのだろう。瞬間、瞬間を大切にして、感じ取ったものを逃さないように大切にする。

そう言われれば、だらだら時間を過ごせば、無意味な時間を失うことになるのだろう。意外と日常生活に追われている時は、いいが、暇ができた時の意識の持ち方としては、大切なように思う。

もちろん日常生活においても、閃きの瞬間はあるが、いい閃きは、その合間にあるように思う。閃きに対する、個人の価値観は、それぞれ違うだろうが、別にたいしたことではなくても、生活に味付けしてくれるものは、すべてそうなのではないだろうか。

でも、流風には、なかなか霊感というわけにはいかない。集中力が足りないんだろうな。今日からは本格的に暑くなりそうだ。暑さに負けて、閃きがぼやけないようにしよう。そうしたものの積み重ねは、これからの人生を豊かにしてくれるのかもしれない。そう思えば、今後もメモを大切にしよう。

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2009年8月16日 (日)

映画 『the Visitor』を鑑賞

基本的に、他人の推奨では、本を買ったり、映画を鑑賞したりしない。他人の感性による評価は、異なることが多いからだ。ただ、今回は、気まぐれで、他の予定を変更し、特別に、映画を観に行った。それは、時々、コメントをくれるSACHIさんが強く推奨したからだ。

その映画は、『the Visitor』で、邦題は、なぜか『扉をたたく人』だ。内容は、舞台は米国で、大学で教えている老教授が主人公。彼は妻を亡くし、教員生活も惰性に流されている。

20年間、教える内容は同じで、昔のことはわからないが、最近は一コマしか受け持っていない。それでいて、各所からの要望も拒否し、論文もろくに仕上げていない。今までに、書いた本は4冊ほどだが、それは共著が多く、それも名前を貸しているだけだ。

でも、このような大学の先生は、日本でも多いだろうな。せいぜい通学する学生向けに書いた教科書を押し付け、新たな論文は、発表せず、のうのうとしている。ただ在籍が長いだけで、教授の看板も、下されることもない。なんて楽な職業。一般教員同様、教授免許の更新が必要だろう。

あらら、また本題からずれてしまった(笑)。まあ、彼は、このように惰性で、無駄な時間を過ごしている。その彼が、ひょんなことからシリア出身の青年と交流を持つようになり、彼が、不法滞在者であることから捕まり、それを解決すべく奔走する。何か見えない力に押され、新たな生きがいを感じたのかもしれない。

だが、米国は、それまでいい加減な処置だったのに、9.11以後は、取り締まりが厳しくなり、彼は、米国を追放され、シリアに送還される。それまでの彼の周辺の人々(彼の母親や恋人)の交流や、アフリカの楽器(ジャンベ)に惹かれたことを織り交ぜながら、世知辛く、余裕のなくなった米国社会を見つめた映画と言えるかもしれない。

米国は、かつて、アメリカン・ドリームともてはやされ、誰でも成功するチャンスがあるとされた。しかし、今では、新しい人々を受け入れる可能性も薄れ、徐々に活力を失ないつつあるのかもしれない。制作者の意図はわからないが、それを感傷的に描いているのは、多くの米国の人々が何か限界を感じているのかもしれない。

この映画を、どのように評価するかは、観る角度で違うだろう。いわゆるインテリが、表面的な観察で、感傷的になっただけとも捉えられる。不法入国者の扱いについては、深くは表現していないのは物足りない。いわゆる上っ面の映画と評することもできる。

また、法治国家では、法の下に、個人は無力感を感じて、何もできないと諦めざるを得ないのが、限界とも言える。法治国家の秩序は守られなければならないが、ルールを変える努力を怠れば、社会を行き詰まらせてしまう。

ルールは人間の作ったもの。時代に合わせて、それを変える努力をしなければ、社会は進歩しないという見方を、この映画が示唆しているとも捉えられる。それでは、私達は何を変える努力をしなければならないのか。

これは、多くの人にとっての命題となるかもしれない。そして日本の命題とも重なってくる。考え、主張し、行動することが、今、改めて、多くの人々に求められている。惰性に流されないためにも。

*追記

映画としての評価は、敢えてしない。SACHIさんほどの感動はなかったものの、入場料金1500円を回収するべく、鑑賞したので、それなりの解釈はできたと思う(笑)。大人の感傷映画と観れば、少々安っぽいが、それは見方の問題。いろんな面から鑑賞のできる映画と言えよう。

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2009年8月15日 (土)

見えないものは怖い~謡曲『羅生門』

最近、テレビで昔の映画『羅生門』が放送されていた。白黒だが、なかなかの出来だった。この映画は、記憶は定かではないが、子供の時にテレビで観たような気がする。

この映画の原作は、芥川龍之介の『藪の中』を主体に扱っているのだが、映画の題名は、『羅生門』になっている。確かに、羅生門は舞台の一つだが、少し違和感がある。小説の題名通り『藪の中』で、よかったように感じるが、制作者の意図はわからない。

芥川の『藪の中』は、確か読書好きの叔母から、芥川龍之介の本を小学生の時にプレゼントされ、その中にも収録されていた。小学生の理解では、大人の世界は、理解しようもないが、子供なりに、人の通らないところに行くのは危険だとか、旅行の時には、知らない人に気を許してはならないとか、そういう感想を持った記憶がある。本当の理解は、ずっと大人になってから(笑)。

ところで、謡曲にも、同じ題名で、『羅生門』がある。但し、内容は全く別のものだ。以前にも取りあげた源頼光の四天王の一人の渡邊綱の勇名を轟かした話である。あらすじは、彼らと、平井保昌と酒宴を催していた中で、保昌がちょっとした噂話を切りだす。

凡そ、酒宴となると、噂話や、自慢話。そしてシモネタ(笑)。それは男女、あまり変わらないのではないか。ここでは、噂話から、話が膨らんでいく。火のない所に、煙の立たないといわれるように、噂話も元がなければ、出てこないから、皆、聞きたがる。

さて、この噂話は、九条の南門である羅生門に鬼神が棲んでいて、日が暮れると人が恐れて通らないという。それを渡邊綱が聞き咎めて、そんなことあるはずがないと、保昌と言い合う。

それならと、確かめてこい、ということになって、言い出しっぺの渡邊綱は、証拠の札を頼光から授けてもらい、それを、羅生門に、その札を立てに行く。まあ、どの世界でも、言い出しっぺというのは、辛い目に遭う(笑)。本人は、そういう気がなくても、引っ込みがつかないことがある。

結局、渡邊綱は、皆が止めるのも聞かず、勇んで出かけ、門にその札を立てかけようとすると、鬼神が兜のしころをつかんで引き留めたので、太刀で鬼神の腕を切り落とすと、鬼は逃げて虚空に去る。一体、虚空て、どこなんだ。単に逃げただけかも。それを「虚空に去る」と表現すると、面白いものになる。

これで、渡邊綱は名声を上げたというものである。結果、良ければ、全てよし、の典型ですな。まあ、渡邊綱が、剛毅なものであったことは事実らしい。でも、ここでも、鬼神は何だったのかということになる。現実的に見れば、盗賊の一味だったことが考えられる。彼らは人々から奪ったものの隠し場所にしていたのだろう。

こんなことを書くと、流風は、また文学作品を貶めていると非難を受けそうだが、当時の人々にとって、見えないものは、全て鬼神であったのではと思う。だから、こういう解釈も許されるのでは。

凡そ、人は恐ろしいものは見たくない。お化け屋敷のように、楽しむのものもあるが、あれは人が作ったものであるとわかっているから、楽しめるのだ。当時は、治安は乱れていたし、安心して、住める状態ではなかっただろう。そこで、いろんな噂が流布する。それに尾ひれがつく。そんな状態だったのだろう。

そういうことをネタに、この謡曲では、渡邊綱の手柄話にして、盗賊を鬼神に代えて、制作しているのは、作者は、盗賊に配慮したというより、その方が面白くなるからだろう。受け手には、鬼神という見えないものが、いかにも存在しているように見せたかったのかもしれない。

作者は、観世小次郎信光と云われるが、実際は世阿弥であったかもしれない。いずれにせよ、彼の着想がこの作品になっているように思う。ますます深まる世阿弥に対する関心。彼はどんな人物だったのだろう。今後の関心項目の一つである。

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2009年8月14日 (金)

防災に備えて~どこに住むか

それにしても、静岡での、夏の比較的大きい地震にも驚いた。夏のインフルエンザ級の驚きだ。今、地球で、何が起こっているのだろうか。今、日本は、長梅雨による洪水、竜巻被害、台風、地震等による被災と自然災害のオンパレードだ。

長梅雨や台風、地震の影響で、各地は大変な災害に遭われている。今まで予想できなかった雨が降り続いて、地盤が弱っていることも災害を大きくしているのだろう。そして、今回の一連の災害は、確かに異常気象の影響もあるが、過剰な宅地開発や道路開発が災害を拡大させている面もある。

異常気象が問題なのは確かだが、過剰な開発が、被害の大きさを拡大していると言える。それでは、住民にできることは何なのか、今後、しばらく、いろんな観点から、素人なりに、記してみたいと思う。

まず言えることは、防災は、各人確かに必要だが、できるだけ災害の少ない地域に住むことが、まず求められる。もちろん、日本では、絶対安全な地域などない。どこにいても、ある程度の災害は避けられない。

しかし、歴史的に、災害の程度をできるだけ小さい地域に住むことは、一つのの防災対策だろう。それでは、どこに住めばいいのか。基本は地盤がしっかりしているところだろう。

あの阪神淡路大震災でも、地盤の弱い所が、徹底的にやられた。つまり埋立地などが一番危ない。それは最近の事例だけでなく、歴史的に、どのように、その地域が形成されていったのかも、知っておく必要がありそうだ。

もちろん、基礎をしっかりすれば、ある程度の災害は防げるが、十分とは言えない。となると、やはり埋立地等は避けた方がいいだろう。沼地や田畑の埋立地は、あの地震ではマンションも倒壊している例もある。

基本的に、そうでなくても、造成地は危険と言われる。その他には、今回の水害のように、河川敷とか、扇状地は危ない。山の近くもよくない。但し、災害は、いつも起こるわけではない。長い間、災害が起こらないと、危険地域と言われるところでも、安全だと勘違いしてしまう。

今回、静岡での地震では、災害が比較的小さいとのことだ。それはずっと東海沖地震が叫ばれており、住民の意識が高いことが防災につながったのだろう。危険地域に住む人々は、常に危機意識を以て、防災の準備を怠らないことが大切で、行政も、そのノウハウの徹底をすることが求められる。

人々は、できるだけ、地盤しっかりした土地を選択しつつ、地域には、それぞれの対応方法を確立して、被害を最小限度にする訓練が大切だと思う。防災訓練は、嫌がる人が多いと聞くが、自らの身を守るためには、大変重要だ。

そして、弱者(高齢者、病人、子供等)の避難のさせ方を、日頃から申し合わせていくことが大切だろう。改めて、自治会の重要性を感じる。自治会組織がしっかりしているかも、選択の基準とすべきかもしれない。

*追記

また住まいしている地域の開発がどのようになっているかにも、住民は注視する必要がある。山林開発、道路開発、河川の状態にも、関心を持ちたいものである。いかに住まいが安全でも、周辺地域の開発が、自分の家屋を損なうリスクがあるということである。

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2009年8月13日 (木)

災害における避難活動は、個人責任か

兵庫県佐用町の水害に対する避難活動について、一部の防災の専門家が、非難していた。屋外が水で溢れているのに、屋外に避難するのは間違っていると。画一的な避難活動の体系に問題があると言うのだ。日頃からの避難訓練に従い、避難しようとした人々が不幸な結果になっている。何が誤りだったのか。

ただ、住民側からすると、人々は、防災の専門家のように生きているわけでもない。災害は、毎日起こるわけでもないし、正確に予測できるわけでもない。生活に追われて、どうしても防災対策がおざなりになりがちだ。日頃の訓練通り、行動しても、おかしくない。実際、多くの人々がそうではないだろうか。

ということは、各行政は日本における自然災害は、様々あるし、各地の地形の特徴によって、対応方法は異なるということを十分踏まえて、住民に絶えず警告する活動が重要なのだろう。常日頃から、自然災害の危険性を、やかましいぐらいに、警告することが彼らの役割になる。

いずれにせよ、行政による完全な防災対策がないとすれば、後は個人の意識を高くして、自治会レベルにまで高めて、共通の危機意識の醸成しか、手がないということになる。後は、避難活動を主体的に自分の意思で行う必要があるということだ。

今回のような急激な環境変化の災害に対しての避難活動は、やはり個人の判断で、行わざるを得ないのかもしれない。避難活動は、各個人において、常に危機感と、その用意と準備が必要と言うことになる。

ということは、つまり防災における行政の役割は、狼少年の役割(もちろん、本当の狼少年になってはいけない。住民に信頼されないといけない)と、災害後の迅速な処理しかできないということになる。

そのように私達は、認識を改めなければならないのかもしれない。様々なケースを想定し、各人が避難方法を考えなければならないのだろう。そのためには、防災の専門家は、ケースバイケースでの避難方法をもっと啓蒙しなければならない。避難に失敗した人々を非難する前にやることがあるだろう。

*追記

亡くなった方々には、ご冥福をお祈りしたい。また彼らの死を無駄にしてはいけない。

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2009年8月11日 (火)

一つの中にある区別

よく父が、この世は相対的であり、絶対的でないと言っていた。若い時は、何を言っているのやら、と思っていたが、中年になって、突き詰めれば、そうなのだろうと思うようになった。欧米社会を中心に、区別ということが当たり前になり、区別がさらに差別になっている。区別の固定化は、社会を停滞させている。

しかし、区別すると言うことは、その元は、一体であるはずだ。区別する前の社会を見渡せば、区別する社会は、おかしいのかもしれない。社会を運営するために、区別は生み出されたものであろうが、それは手段であり、それが無条件に引き継がれるのは、問題が多いかもしれない。

社会の進歩を促すには、やはり役割の変更が求められる。それが組織を活性化させる。そうすれば、区別も有用な手段になる。つまり問題になるのは、区別を固定化することであり、時代に応じて、区別を変更していくことだろう。

*追記

これは、個人の変革においても必要である。年配者は、自己の経験による判断に頼りがちだが、それを見直す勇気は大切だ。

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2009年8月10日 (月)

薬物犯罪者は、“伝染病患者”

世間では、芸能人の薬物犯罪で、騒がしい。彼らは自ら自分を貶めた。いい大人が、困ったことだ。彼らを薬物犯罪に走らせる環境も問題だろうし、彼らの精神性にも問題がある。

そして、彼らの犯罪を軽く扱おうとする一部評論家も許せない。ある番組のコメンテイターは、まず薬物を提供する組織を追求しなければならないと言うけれど~それはそれで大事だが~、本人たちが、そういうことに手を出さないことが大切なはずだ。

そして、彼らに対する罪状は軽くてはいけないだろう。有名人にせよ、無名の人間にせよ、薬物犯罪者には、厳しい制裁が必要とされる。社会への早期の復帰を叫ぶ人もいるが、薬物犯罪者は、ある意味、“伝染病患者”だ。

執行猶予などで、社会に放置すれば、“病”は、再発し、更に深くなるか、さらに他者に“伝染”しかねない。そういうことを防ぐには、一定期間、社会から隔離する必要がある。およそ、伝染病患者が社会でうろうろすることはあり得ないだろう。

そう考えれば、彼らには実刑が求められる。その程度は3年以上が必要だろう。執行猶予するなんて、薬物犯罪者には、最も危険な判断と言える。当局も、裁判所も、より厳しい対応が求められる。

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雨の多い夏

本当に、今年は雨が多い。梅雨が開けたと宣言されたと思えば、今度は台風の影響で雨が降る。立秋(8月7日)を過ぎているから、残暑なのだが、今年は、夏を経験したような感じがしない。

そして、かなりの雨量だ。晴れる日が大変少ない。まるで、一晴三雨のような感じだ。洗濯も大変だ。今まで、梅雨の時期を除いては、雨の翌日の晴れでも、洗濯はしなかったが、そうも言うておれない。少し晴れ間が出れば、洗濯して干すしかないようだ。これは本当に困ったことだ。

最近は、内干しの洗剤も出ているようだが、極力、内干しはやりたくない。室内に洗濯物の匂いがするのは、嫌だから。それに晴れてくれば、室内は蒸してくるので、異常な湿度になる。温度が高ければ、最悪だ。

更に、激しい雨に対して、水はけはしやすいように、処置しているが、それでも、こう雨が続くと、若干心配だ。晴れが続けば、それはそれで問題だが、雨が続くのも困る。それとも、家にじっとしておれという、御託宣なのだろうか。天は、所詮、自分勝手な人間様の思惑通りにはならないようだ。でも、作物だけは、ちゃんと恵んでほしいな。

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2009年8月 9日 (日)

20代の感性か~エリック・サティ 『ジムノペディ』

以前にも記したが、クラシック音楽に対しては、流風はミーハーで、そんなに詳しくない。だから、その音楽について、記しても、愛好家や専門家からは、馬鹿にされるかもしれないが、敢えて記す(笑)。

さて、流風の好きなクラシック音楽に、エリック・サティがいる。ただ彼の作品の中で、好きなのは、1曲だけで、『ジムノペディ』だ。あの、ゆっくりとしたテンポは、流風に合う。これはギリシャ東方音楽の特徴があると言うが、そういう専門的なことは別にして、心地よいので、時々聴く。

でも、この曲は、若い人の感性としては、異質に感じる。というのは、この曲は、サティが21歳の時の作曲とされている。作曲の趣旨は、ゆっくりと、悲しみ、苦しみ、厳粛さを味わうと言うもので、結構重い題材だ。

一体、彼に何があったのだろうか。その後、彼の曲には、このようなものはなく、不思議な感じだ。そして、後の作曲は、流風の判断では、『ジムノペディ』を超えていない。『ジムノペディ』が、あまりにもインパクトが大きすぎて、超えられなかったのだろうか。

エリック・サティが一発屋の感じで、段々と、曲想が悪くなっている感じがする。晩年の曲は、曲調は、若い人の感性になっており、これも違和感を感じる。むしろ、若い時に作曲し、後年発表したように受け取られる。妙な感じだ。

『ジムノペディ』が果たして、彼による作曲なのだろうか。どうも若い人の感性とはかけ離れ過ぎているように、流風には感じられるのだが。人々は、年齢にふさわしい感性を持つべきだろう。

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2009年8月 8日 (土)

“ノーモア・ヒバクシャ”を考える

米軍による広島・長崎への初めての原爆投下は、約20万人の悲惨な死を招いた(その他に、空爆で、一般人が40万人亡くなっている)。それは、多くの一般国民の生命の殲滅だった。これは、ナチによるホロコーストを超えるものだろう。

日本への投下は、米国の人種差別もあると言われる。未だに、米国は、これを正当化を主張し、反省していない。父は、米国とロシアは、決して信用してはならないと、生前よく言っていた。人間に対する大した哲学もなく、ご都合主義の三流国と断言していた。

そのことはともかく、日本は唯一の被爆国である。ただ報復主義では何も解決しない。それでは、世界は破滅するだけだ。今後、このような悲しみは、世界のいかなる国においても、招いてはならない。昨日、NHKでは、特集の「ノーモア・ヒバクシャ」が放送されていた。

日本は被爆国として、世界にもっと日常的にアピールしなければならないのに、政治面では、為政者は、従来、米国への配慮かもしれないが、遠慮気味だった。やっとオバマ大統領の発言に伴い、日本も核兵器に対する考え方を明確にすることが可能と認識しているようだが、その意識の低さに愕然とする。日本が被爆国であると、本当に理解しているのか。

そして、核兵器は使える武器ではない。未だに、核兵器に対して、一部妄想を持つ指導者が世界にいるが、その妄想を早く捨てさせる必要がある。それは使えば、もはや地球を破壊させてしまう。自国だけ助かるということはありえない。

また日本の軍事専門家・政治家等の一部は、日本も核兵器を持つべきだとなど、議論する輩がいるが、彼らは、日本が唯一の被爆国だと言う認識が薄いのは非常に残念だ。核兵器の所有が防衛と考えるのは、世界の一部の妄想指導者同様、むしろ危険な存在でもある。

国を守るものは、何も武器だけではない。被爆国家として、“ノーモア・ヒバクシャ”の国際世論を作ることに意義がある。被爆者の苦しみを、最早、いかなる国の人々も味わうべきではない。“ノーモア・ヒバクシャ”でなくてはならない。これは、日本の国是にしても、いいくらいだ。そして、それを全世界に根付かせる必要がある。

確かに、これからも、正義と正義のぶつかりあいで、世界の争いは無くならないかもしれない。しかし、いかなる場合も、核兵器は使わないという共通の理解は、意思疎通しておかなければならない。

あらゆる国は、相手国の存在があって、はじめて自国も存在できる。相手国民を殲滅させても、いずれ、その死の灰は、自らに、あらゆる意味において、自国民に降りかかってくるという認識を深めるべきだろう。

このような状況下、むしろ、一般の国民が一人ひとり強く意識して、政治家等をリードしなければならないのかもしれない。世界から核兵器をなくすことを、多くの困難を伴うかもしれないが、日本がリーダーシップを発揮して、世界の人々の共通の認識にするようにしなければならない。

それが被爆国の使命だろう。そして、それは一人ひとりの意識の仕方で大きく変わる。さあ、世界の人々を巻き込んで、これからも、“ノーモア・ヒバクシャ”を、一人ずつ推進しよう。そして、同じ意識の仲間をもっと増やしていこう。

*参考

  http://www.nhk.or.jp/no-more-hibakusha/link/

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2009年8月 7日 (金)

忠告の仕方

人に忠告するのは、なかなか難しい。忠告される側が忠告を受け入れる態勢であればいいが、忠告しようとする時は、案外、受け入れ態勢にない場合が多い。すなわち聞く耳を持たない場合が多い。

大体、忠告というのは、忠告する側が、される側より、「上位」の気持ちの場合が多い。それゆえ、「絶対、こうするべきだ」とか言いがちだ。しかし、そういう気持ちは、受ける側にも、伝わるから、忠告は、むしろ反発される。

流風の経験でも、よく父に諭されたが、父の忠告が耳に入るのは、時間が経ってからであったと記憶する。言われた時は、反発するが、後で、父の言っていたことを冷静に考え直すと、父の言うことが正しいとわかる。そうして、やっと受け入れられる。

ということは、忠告は、しつこくしてはならないということかもしれない。忠告される側は、聞いていないようで聞いている。忠告は、時間をおいて、受け入れられる可能性が高いということだろう。それでも、どうしても受け入れられない場合は、再度忠告するか、放置するしかないのかもしれない。

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2009年8月 6日 (木)

タレントブログの条件

いろんなタレント(俳優等も含む)のブログがある。必ずしも、売れている人ばかりではない。これからの人や、過去に人気があったが、今は一線から身を引いている人が再挑戦する場合や、方向転換・イメージ転換をはかるために、ブログを開いている人もいる。ブログは、イメージ戦略とアピール手段として、利用しているのかもしれない。

むしろ、売れっ子は、忙しいので、ブログどころではない。そういう人たちは、大概、オフィシャル・ホームページでお茶を濁している。それゆえ、彼らの考えていることは、ファンの会員になって、特別の情報をもらわない限り、わからない。基本的に、非公開の立場をとっている人たちが多い。公開すれば、そのイメージギャップによるイメージダウンを恐れているのかもしれない。

さて、タレントブログを書くのは、いろんな動機があるだろうが、基本的には、自分をよく知ってもらいたいからだろう。本音では、売り込みであるかもしれない。彼らは、認知されなければ、売れっ子にならないが、そのための手段として、ブログが活用されているのだろう。

そして、比較的書くことが好きな人が多いかもしれない。ただ現在は、携帯メールの延長のような文章も目立つ。それゆえ、内容はほとんどない小学生の作文に近いものが多い。

しかしながら、文章がうまいから、売れっ子になるとは限らない。その辺が、このビジネスの面白さであろう。一般企業で、学校エリートが必ずしも出世するとは限らないのと同じだ。但し、馬鹿では、芸能界で生き残れない。文章がうまければ、別の世界で生きられるかもしれない。能力開発の一つにはなりうる。

またブログトップに、出演情報などを記す例も多いが、うざいのも事実だ。タレントブログを読む人は、そういうことを知りたいのではないだろう。そういうものは、別ページに記せばいいことで、ブログトップに持ってくるのは、どうかと思う。宣伝臭を強くして、ああ、この人は自信がないのだなと、思われるのが関の山だ。

タレントブログは、事務所の意向もあろうが、基本的に、その人の人間性を伝える場ではないか。だから、小学生のような日記もいいが、自分が何を考え、どうしたいのか、伝えなければ、タレント価値は高まらない。つまり常識とセンスが問われているのだ。

競争の激しい業界だろうから、いかに存在価値を明確にしていくかが、ポジショニングを決定する。もちろん、採用される条件は、それだけではないだろうが、息の長いタレントになるには、自分の価値を高める日頃の進化が、大切である。

*注記

この業界については、何も知らないので、あくまでも、一般人の見解である。

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2009年8月 5日 (水)

若造りの弊害

人間、いつまでも若いと思いたいのは誰もであろう。しかし、日々歳を重ねていくにつれて、老いていくのは仕方ない。年齢は、誤魔化せないものだ。それを無理して、若造りしても、却って老醜を晒すだけだ。歳相応の身なりは大切だ。特に女性にそのことが言える。

ある女優も、かなり高齢と思うが、かなり若い役をされている。もちろん、役者はある程度の年齢の幅の役は、こなさなければならないだろう。だが、それが行き過ぎると、いくら役者でも、みっともないだけだ。周囲も、それに配慮しなければならないが、それができていない。

それは一般の女性でもそうだ。中高年の女性が、美容だ、エステだ、特別の化粧だと言っても、すでに土台は崩れかけている。そんなところに、無理にいろんなことを施しても、若返るわけでもない。それに中身が伴わなければ、最悪である。むしろ、全体バランスを崩せば、それは却って醜いだけだ。

ファッションにしても、そうだ。いい年齢なのに、若い時のファッションにこだわり、それを着用すれば、まるでチンドン屋のような状態になる。それはいくら有名ブランドでも同様だ。自らの年齢を自覚し、それなりのファッションにすべきだろう。

年齢相応の美しさの表現は、きっとあるはずだ。それは経験からにじみ出る人柄だったり、言葉遣いや所作、それに若い人に対する接し方というような人間の中身であろう。あらゆる意味において、若い人の憧れの存在であって欲しい。

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2009年8月 4日 (火)

心頭滅却すれば、、、。

今年の夏は、雨が多いせいか、そんなに暑くない。朝方も、比較的涼しく、過ごしやすいと言えよう。それがいいのか悪いのか、一概には言えないが。作物には、虫がつきやすく、被害も大きいかもしれない。

それでも、昨日、やっと近畿でも、梅雨明宣言をしたようだ。これからは、本格的に暑くなるのかな。暑いのは、暑いので、それは大変だが、やはり夏は暑い方がいい。ただ、外へ出て、少し運動すると、かなりの汗が出てきた。下着がじとっとしてきて、汗でびっしょりだ。

ただ、心頭滅却すれば、火もまた涼し、と思えば、ある程度、暑さ感は避けられるのであろうが、凡人には、なかなか、この領域には達しない。ただ、暑いと思えば、余計に暑く感じるのも事実だ。意識しないように努力するとしますか。でも、暑い(笑)。

この言葉は、恵林寺の快川和尚が、織田信忠に取り囲まれて、焼き打ちされた時、言ったため、有名になった。

  安禅不必須山水 

  滅却心頭火自涼

(安禅は必ずしも山水を須(もち)いず、心頭を滅却すれば火も自ずから涼し)

快川和尚がも火に囲まれて、言ったというのだが、誰が伝えたのだろう。ちょっと、嘘っぽい(笑)。多分、日頃から、そのような言葉を発していたのだろう。

この禅語は、『碧厳録』の第四十三則に対応したものと云われている。そこでは、寒暑が到来したが、どのように回避すべきでしょうか、という問いに対して、避ける必要はないとしている。

すなわち、暑い時は暑いし、寒い時は寒い。それを避ける無駄な努力をするより、とことん暑さ寒さを透徹すべきだと、説いているのだろうと云われている。「云われている」というのは、『碧厳録』は、表面上の解釈では、なかなか理解しがたいものだから。

ただ僧侶でわからないものを、俗人には、表向きの解釈で考えるしかない。せいぜい心頭滅却して、光熱費を節約しよう(笑)。まあ、庶民は、暑い暑いと言いながら、夏を過ごし、やがて秋になり、冬を迎えて、寒い寒いと言う。

そうして、一年を終え、毎年繰り返す。地球温暖化と言われる時代でも、寒暖の差はあった方がいい。それでは、夏を楽しもう。でも、今年の夏は、いつまで続くだろうか。

 

 

 

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2009年8月 3日 (月)

功を譲るということ

競争社会において、全て自分の功としがちだが、平社員の場合は、それでもいいが、それなりの地位に就けば、部下を引き立て、同僚に功を譲ることが必要になってくる。それでも、出世第一に考える人は、他人に功を譲るなど、とてもできないと言う。

そんなことをすれば、出世競争から遅れてしまうと。確かに、短期的には、そういう面はあろう。ただ、長期的視野に立てば、仕事は多くの支えで、成り立っている。自分の功が、全て自分の業績かと問えば、それは多分に怪しい。せいぜい、名目上、その仕事の代表者に過ぎない。

となれば、仕事を手伝ってくれた人々への感謝のしるしとして、功を譲ることは意味がある。それはどんな仕事でも同じであろう。もちろん、競争意識は大切で、何もぬるま湯に漬かれとは言わない。あくまで、競争する中で、功を譲ることが大切なのだ。

そうすれば、将来、更に大きい仕事をする時に、多くの支援が得られることを忘れてはならないだろう。それが器を大きくするということだ。

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2009年8月 2日 (日)

ちちんぷいぷい、と言うと、、、、。

ちちんぷいぷい、と言うと、関西某局のテレビ番組の名前になっているが、この言葉は、どういう意味で、採用しているのだろう。子供の頃、母が擦り傷を負った流風の脛を消毒して、軟膏を塗りおわってから、確か、そう言っていた。そう言えば、早く治る呪いなのだろうか。となると、この番組は、世間に疲れている人々の癒しを目指しているのかもしれない。

さて、この言葉は、一説によると、これは春日の局によって作られたものらしい。まあ、多分に、こじつけの感じもするのだが、それは次のようなものと云う。

  “智仁武勇は御世の御宝”

さあ、“智仁武勇”を何回も言ってみよう(笑)。ちちんぷいぷいに聞こえましたか。実際、言ってみると、そのように聞こえないこともない。かなり訛っているけれど。そういうと、そういう、こじつけをするラジオ番組もあったような。ちょっと無理があるようにも思うが、当時の日本の方言・言葉遣いからすると、あり得ないことでもない。

まあ、智仁武勇を発揮すれば、怪我も止むなし、というところか。御世のためにのためには、怪我も厭うな。武家封建社会の心がけというところか。まあ、一生懸命にやっていると、怪我もしないと言うけれど。戦時中、相手の弾を恐れたものは、戦死し、無我夢中で突っ込んで、何とか大きな怪我をせず生き残った人もいる。

現代でも、ちちんぷいぷい、は有効なのだろうか。一生懸命やっていたら、誰かが見守って助けてくれるのだろうか。でも、脛に疵持つ身(*注)を解消してくれるわけでもなさそうだ。流風にも、誰か、ちちんぷいぷいと言って(笑)。

*注

念のために記すけれど、ここでは深刻な意味ではありませんよ。ちょっと軽い意味です。まあ、小さい恋に破れたとか(笑)。ブログは、いろいろ解釈する人がいるので、難しい。まあ、流風の文章力に問題があるのかも。

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2009年8月 1日 (土)

イモ、タコ、ナンキンを食する

関西は、未だに梅雨明け宣言せずに、8月突入だ。深夜には、激しい雨が降っていた。8月7日は立秋。いったいもどうなっているのだろう。そういうと、数日前、ツクツクボウシが夕方啼いていた。何か勘違いしたのだろうが、変な感じ。今年の農作物の出来が心配だ。一部、値上がりしている。果物も、先日、桃を食したが、やや甘さが足りない。早く、まともな天気になってもらいたいものだ。

さて、先日、女性が好むというイモ、タコ、ナンキンを、男も食わんと調理して、頂いた(笑)。現代の女性が、果たして、どれくらい、イモ、タコ、ナンキンが好きかどうか、わからないが、家庭菜園でできたナンキンを調理してみた。

先日のブログでも記したが、ナンキンは、作ろうとして作ったものではない。勝手にできたのものだ。毎年できるが、去年の秋にできたナンキンは、どうしようもなかったが、今回も、こわごわ開けてみたが、何とかナンキンの味がした。それなりに美味しかった。

でも、流風の料理は基本的に簡単なものばかり。料理番組でやっているような手の込んだものは、邪魔くさいので作らない。ナンキンは、出汁と酒とみりんと醤油で炊いただけ。サツマイモは、ピーマンと揚げを使って、味噌汁にした。茹でタコは、適当に切って、キュウリのぶつ切りと合わせて、ドレッシングしただけの簡単なものだ。

それでも、まずまずの料理だ。但し、ナンキンは、半分使ったのだが、結構な量になり、少しもてあまし気味。少し残して、冷蔵庫へ。次は、いつ食べるだろうか。腐らせないようにしよう。でも、ナンキンは、二個収穫したので、もう一つ、でかいのがあるのだが、どうしよう。

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