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2009年8月26日 (水)

離れ離れになった親子~謡曲『花月』

子供の頃、夕方になると、「夕焼け小焼け」の音楽が一帯に流れ、子供は早く家に帰るように自然と促された。最近の子供は、外で遊んでいるのをあまり見ないが、どこで遊んでいるのだろう。母は、少し帰りが遅いと、流風を捜し歩いたようで、遅れて帰って、よく叱られた。

暗くなって、遊んでいたら、誰かにさらわれて、ひどい目に遭う、とよく脅された。それは、当時、まだ時々見た角兵衛獅子にされてしまう、というようなことだった。あれは、物凄くしごかれるというのは、映画でも観たような気がする。

昔から、神隠しにあう、というようなことは、あったから、時代が変わっても、同様なことはあると、母は、流風の目を見て、真剣に語ったものだ。角兵衛獅子が、さらわれた子供かどうかわからないが、あんな曲芸は、運動神経の鈍い流風では、とてもできないだろうなと思ったものだ。

特に、水商売の集まりの繁華街へ行くことは厳禁だった。あの辺りは、いろんな人がいるから、危ないというのが、母の判断だったようだ。実際、子供の行方不明は、当時は、今ほど騒がれていなかったが、よくあったらしい。近所のおばさん達が、よく、そのような噂話をしているのを聞いたことがある。だから母の心配も、もっともな事だったわけだ。

さて、謡曲にも、子供がさらわれ、離れ離れになった子供を探すため、出家した父親の姿が描かれている。現代でも、いろんな事情で、親子が離れ離れになったりする。外国に拉致された事件も報告されているが、なかなか解決しない。拉致した人々は、親の悲しみがわかっているのだろうか。拉致した国が儒教国家だなんて、信じられない。決して、人間のやる行為ではなかろう。

ところで、今回取り上げる、その謡曲は、『花月』という。本来、冬の謡曲だけれど、それは無視(笑)。花月なんていうと、吉本の劇場名みたいだが、実際、どういう意味で、吉本は名づけているのだろう。そのことは措いておいて、そのあらすじは、以下、いつものように、流風が若干、脚色。

筑紫の彦山の麓で、左衛門と言う男が、一人の男の子と暮らしていた。その男の子が、七つの時に、彦山に登ったまま、行方不明になる。もともと、彦山は、七つ隠しで、当時問題になっていたという。

それも、少しかわいい子供だけを狙う。かわいい子供を狙うというのは、中世的と指摘する向きもある。現代では犯罪だが、当時は、かわいい子供を性的にかわいがるということがあった。小姓とかも、その類だろう。

そのような目的かどうかは不明だが、七つ隠しとして、自分の子供がさらわれる。ということは、かわいかったのだろう。左衛門は、ショックを受け、子供を探そうと、諸国を行脚するために、出家する(出家しないと、諸国行脚できない)。この男にとって、子供がすべてだったのだろうか。子のない人生は考えられなかった。

今は、父親は娘を可愛がり、母親は息子を可愛がるが、当時は、後継ぎの息子を大事にするから、そのようになったのだろうか。母親は、この謡曲では描かれていないが、すでに亡くなっていたのかもしれない。それが思いを強くしたのかもしれない。

諸国行脚する中で、ある年、京都の清水寺に詣でる。そこに、一人の喝食(佛家の食事の雑用をする童子姿の男を指す)が来て、やや大層な言い方(*注1)で、花月と名乗る。誰でも、親は子供に名づける時、それなりの意味を以て名づけるかもしれないが、彼の場合は、誰が名づけたのだろう。多分、売り出すための養父の知恵なのだろうか。当時、すでに、そういう専門家が生まれていたのかもしれない。多分、それは最初、僧侶辺りが始めたものであろう。

そして、小歌(*注2)を謡ったり、鶯が花を散らすとして、射落とそうとしたりする。また清水寺のいろいろの奇跡を縁起とする曲舞を長々と舞ったりする。 このように、清水寺縁起が、謡われる。こういう奇跡話は、誰が作るのだろうか。ちょっとした不思議な出来事に尾ひれがついて、広まっていくのだろうか。

そうこうする内に、左衛門は、この花月は、自分の息子ではないかと感じ取る。顔とか全体の雰囲気は、他人同士でも、長い間、離れていても、なんとなくわかる。ましてや、親子だったら余計のこと。

それで、いろいろ質問すると、間違いないと判断し、自分が親であることを告げる。これも清水寺の不思議か。滅多にない、離れ離れになった親子の再会。花月は喜び、天狗にさらわれて以来のことを舞いながら話す。その後、親子は、一緒に修行の旅に出る。

一体、この謡曲は、何を語ろうとしているのだろうか。表面上は、子供の時、さらわれた子供と親が再会することだ。その中に、いろんな仏道の話を交えながら、話が進んでいく展開だ。ところが、注記した、名乗りにしても、小歌にしても意味深だ。意味深というのは、考えすぎかもしれないが、本当の作意は案外、ここにあるのかもしれない。いろんな話をして、真意を隠す、おばさん達の話に近い(笑)。

*注1

    月は常住にして言ふに及ばず。

  さて、くゎの字はと問へば、

  春は花、夏は瓜、秋は菓、冬は火。

  因果の果をば末期まで。

  一句のために残すと言えば、

  人これを聞いて、さては末世の高祖なりとて、

  天下に隠れもなき花月と、

  我を申すなり。

*注2

    来し方より今の世までも絶えせぬものは、

  恋と云える曲者。

  げに恋は曲者。

  くせものかな。

  身はさらさらさら。

  さらさらさらに、

  恋こそ寝られね

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