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2009年9月30日 (水)

中小企業への返済猶予制度の確立は有効か

亀井静香金融担当相が、中小企業に対する債務の返済猶予制度を主張している。大臣の真意は不明だが、大塚耕平副大臣によると、まず金融機関の貸し渋り・貸し剥がしが大臣の念頭にあるのだろうということだ。

だが、報道では、「モラトリアム」ということで、記事にしているし、大臣の発言でも、それに近いものはある。ただ、どういう条件下で、これらの制度を設けようとしているのかは、明確ではない。報道が先走りしている感は否めない。亀井大臣の説明も足りないと思う。

当然のことながら、金融界は、このモラトリアム構想に、激しく抵抗している。一般的に見れば、基本的には、金融界の主張が正しい。企業経営の主体性を無視したモラトリアムは、いろいろ問題が多い。だが、前政権は、一部の大企業に対して、実質モラトリアムを実行してきたのも事実だ。その辺のバランスをどう考えるか。

リーマンショックで、急激な経営環境の悪化が、中小企業の経営をより厳しくさせ、住宅ローンを借りている人々も、所得の低下で、返済が滞りがちなのは確かだろう。民主党政権は、その辺のバランスを取ろうとしている。

しかし、そうだとしても、経営責任としての借入責任は、どのように問われるのか。借金をするのは、経営者が、採算を考えて、必要と決断したからだろう。その判断が間違っていたのに、国が救済に関与すべきなのか。

ただ、金融機関の身勝手な融資態度は責められるべきかもしれない。金融機関の貸し剥がし問題はくすぶっている。貸し渋りも今後増える可能性も高い。貸し渋りや貸し剥がしで苦しむ中小業者は絶えない。融資の仕組み・制度にも、問題があるだろう。

ところが、金融界を取り巻く環境は複雑だ。金融界は、すでにBIS規制で手足を縛られているが、さらにそれを強化されようとしている。そうなれば、基本的にますます融資は慎重にならざるを得ない。不良債権を増やさず、融資を増やすというのは、至難の業だ。それなら貸さない方が楽だ。つまり実質、手足を縛られて、日本の金融機関の機能を失っているのだ。

だから、大企業は金融機関から融資を仰ぐことを諦め、資本市場から直接資金調達しようとしているし、現実にそうしている。しかし、ある程度の規模の企業は、それができても、中小企業クラスになれば、やはり他人資本の融資に頼らざるを得ない。そこに貸し手と借り手の立場と意識のギャップがある。その辺を中小企業経営者はどのように考えているか。

となると、日本の金融機関が本来の機能を取り戻すためには何をやればいいのか、ということになる。世界の金融規制であるBIS規制は、日本の実情に合っていないのか。時価会計導入が、本当に適切だったのだろうか。BIS規制による金融機能低下が招く経済不活性を克服する手段はあるのか。

このように見ていくと、多分、モラトリアムのような一時的な処方箋だけでは何も解決しないであろう。国内金融のあり方をもう一度立てなおす必要がある。いずれにせよ、貸し手、借り手両者の意識を変える必要があるのだろう。

例えば、国全体にお金が回るようにするには、ゼロ%に近い金利の解消であろう。そもそも、それが金融機関を逆に苦しめているのは間違いない。他方、金融機関の融資のあり方を変え、ノン・リコースローンに改める必要もあるかもしれない。

また国としては、かつて小泉改革で、民営化されようとした、国策銀行を、一旦民営化停止し、幅広く、中小企業者が活用できる国営銀行の充実が望まれる。郵貯にしても、かつては、小口融資のよりどころだったが、それも民営化に伴い、段々難しくなる。その辺をどうするか。

また、今後、中小企業といえども、自己資本比率を拡大し、堅実経営に徹するしかないのであろうか。経営力を強化し、他人資本を脱し、今までの惰性に流された経営から脱する必要があるのは確かだ。

しかしながら、金融の悪循環を断たない限り、そういうことは不可能だろうし、モラトリアムが、効果的に働かない可能性があることを忘れてはならないだろう。

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2009年9月29日 (火)

映画『カムイ外伝』鑑賞

映画『カムイ外伝』を観てきた。子供時代、この漫画はよく読んだものだ。白土三平の作品で、友達同士で、回し読みしていた。実際は、子供が読むような内容ではなく、かなり深刻なものなのだが、何といっても、当時は忍者物が人気があった。

カムイは、抜忍のため、追われ続けるという内容なのだが、いつまでも追われ続けるという過酷なものだ。毎回毎回、危機に陥り、新しい技で、切り抜けていく。とても真似は出来ないのだが、皆、技の名前を言って、その気になっていた。

今から、考えると、白土氏は、何を描きたかったのだろうか。忍者の過酷な世界を通して、作品の裏には、人は、時間に追われ続けるということを示したかったのだろうか。彼も、当時、締め切りに追われていたのではなかろうか。

表向きの深刻なテーマは別にして、そういう意味もあったのではないか、と思われる。映画の方は、かなり活劇が入って、面白そうである。日本の最近の時代劇は、活劇が足りなくて、不満だったのだが、それを満たしてくれそうだ」。

実際、映画を鑑賞してみて、感じたこととは、久しぶりに見る忍者物という感じだ。流風の子供の頃は、結構、忍者物が多く、特撮も多かった。それが、子供心に、わくわくさせたものだ。実際は、あんなに飛びはねたりはできないだろうが、結構憧れたものである。

ところが、最近は、日本の作品にそういうものがなく、不満だった。海外の作品は、そういうもので、結構人気があるのに、日本の作品は、それを無視。あり得ない忍法は、駄目と言うことなのだろうか。

この作品は、それを解消してくれる。ただ、当時と違って、CGを結構使っている。それが最近の傾向なのだろうが、どこか不自然さが漂う。あまり現実的でなくてもいいが、現実と錯覚させるような表現が望まれる。

あまりにも、現実離れしすぎると、若干しらけるものがある。CGは案外、使い方が難しい。特撮の方がまだ許せる。それでも、この映画は、結構楽しめた。今の日本の映画界に、観客は、こういうものを求めているのだと思う。

さて、映画の内容は、抜忍で逃亡者のカムイが、常に、心が落ち着くところはなく、猜疑心で、いっぱいだ。これは犯罪者の心理に似ているかもしれない。追われる人生が、いかに辛いことか。

であれば、人生を追う方がいいのかということになる。しかしながら、追忍も過酷な運命にさらされている。彼らは、抜忍を始末しなければ、国には戻れないだろう。追われる方も、追う方も大変なのだ。

そして、結局、どこに行っても、カムイ以外、ほとんど生き残らないという深刻なものだが、人間は、いかように生きても、いずれ死ぬ。死からは逃れられない。そういうことを間接的に教えているようにも受け取れる。カムイと言えども、いずれ死を迎えるのだろう。

別の見方をすれば、現代人は、自由と言いながら、知らず知らず、多くの拘束の中に生きている。真の自由を求めて、それから逃れようとしたり、あるいは逃れても、自分自身で、真の自由を獲得するのは、大変なことだろう。

全ての人は、限られた範囲内での、自由を享受しているにすぎない。それは真の自由からは、程遠い所にいると、この映画は、示しているのだろうか。またまた、変な解釈癖が出た(苦笑)。だが、この映画は、単純に楽しめる内容でもあるはずだが、それなりのメッセージを発しているのは否めない。

*映画『カムイ外伝』公式サイト

   http://www.kamuigaiden.jp/top.html

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2009年9月28日 (月)

これからの自治会のあり方

都心部では、若い人が自治体活動に無関心で、実質機能しないと言われる。それは地域差はあるだろうが、マンション等集合住宅が多く、無関心にならざるをえない。もちろん、マンションには、管理組合があるので、むしろ、その方が、自治会としての機能を果たしているところもあるかもしれない(でも、それは規模の小さいマンションに限られるだろう)。

しかしながら、自治会機能が発揮できなくなっているのは、都心部に限らない。地方においても、自治会は実質、機能しなくなっている。その理由は、高齢者が多いからだと言う。一部の活動できる人材に限界が来ている。つまり役割分担を振ろうとしても、動ける人材が限られている。

となると、最早、ボランティア精神で、自治会を運営することは不可能になりつつあるようだ。地方に若い人がいないのは、ある意味、深刻だ。「若い」というのは、何も20代、30代だけを指すのではない。それ以上の中間の年齢層も不足しているのだ。

結局、高齢者だけになってしまって、機能しなくなっている。それに意識も変わって、自分の時間を拘束する自治会活動には参加したくないと言うのは、何も若い人だけに限らなくなっている。

ということは、今後は、自治会活動は、ビジネスライクに取り扱う必要があるかもしれない。それはマンション管理組合が、管理会社に仕事を委託するようなものである。となると、今後の自治会費は、現在のような低額では運営できななくなる可能性が高い。

しかし、それも工夫次第で、抑えることができるだろう。回覧板は、メールによる一斉通知でいいだろうし、各種緊急案内も、メールでいいだろう。自治会費の集金は引き落としすれば、集金の手間も省ける。

後は、自治会からの外部委託の仕事を明確にして、コスト決めし、委託先の選定だ。それと、決算の承認のための年1回の総会ぐらいだろうか。これは、自治会のマンション管理組合化と言えなくもない。今後、自治会は、新しいやり方が求められているのかもしれない。

*追記 外部委託の仕事の可能性

自治会の規模にもよるが、外部委託の仕事としては、次のことがあげられる。外部委託と言っても、まず地域内の比較的元気な高齢者に有料で依頼すればいい。地域内に、どうしても人材が見つからない場合のみ、地域外に、人を求めることになる。

 ①一般事務作業

 ②役所から配布される印刷物の配布

 ③各種案内メール配信

 ④資金管理及び会計資料づくり

 ⑤各種清掃管理

*追記

ただ、自治会管理を外部委託にすると、本来の自治会の意味がなくなるのも事実だ。人と人の接触が無くなれば、都市部と同じ状況になってしまう。それを補うシステムが必要だが、ボランティアを含め、外部の人材に頼るようになるのだろうか。やはり若い人を巻き込み、歓迎する何らかの手を打つ必要があるだろう。

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2009年9月25日 (金)

一つの言葉

色々整理していたら、10年以上前のメモが見つかったので、転記しておく。多分何かで読んで、記録していたのであろう。

  一つの言葉で喧嘩して、

  一つの言葉で仲直り。

  一つの言葉で泣かされて、

  一つの言葉で嬉しくなる。

  優しい一言なるべく増やし、

  きつい一言減らそ。

  一つの言葉は宝です。

  大事に上手に一つの言葉。

今更ながら、読み返すと、流風も、知らず知らず、他人を傷つけているのだろうなと、自戒の念。無意識に傷つけてしまうのが、一番怖い。言葉が多いと、そういうリスクも負う。なかなか奥深い言葉です。

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2009年9月24日 (木)

ゆっくり急げ~地方への財源移譲

鳩山内閣には、地方への財源移譲に関しては、法的準備は急いだ方がいいかもしれないが、その施行・執行については、ゆっくり急げというスローガンが相応しいかもしれない。

つまり人々の意識は、ゆっくりしているので、意識転換には時間をかけるべきだ。地方は、今まで、自民党政策のやり方に慣らされているので、意識転換は、すぐには行かないかもしれない。

しかしながら、国や地方の財政状況は、惰性の出費を最早許される状況にはない。国も血を流さなければならないが、地方も血を流さなければならなくなる。早く手術をして、出血は早く止めた方が早く治るが、それをおざなりにすれば、いずれ地域住民に重い負担がかかる。

現在、国の無駄遣いが注目されているが、地方の無駄遣いは、ほったらかしである。国同様に天下りも継続されているし、特殊法人も、のさばっている。声高に叫ぶ地方の知事たちも、そこにはまだメスが入っていない。

財源を地方に移管しても、そのような状態が続くことは、住民は決して望まない。地方への財源移譲は、とことんリストラをやって、それを内外に示すべきだろう。そうやって、初めて、地方への財源移譲は許される。

だから、全ての地方に同時に、財源移譲する必要はない。意識転換できた地域には、比較的早く移譲されるだろうが、意識転換が進まないところは、移譲は当面、停止されることになる。

結局、地域の首長には、日本全体を見渡した経営感覚と、地域を豊かにできる政治・行政力が求められる。地域住民に意識転換ができる所だけが最終的には生き残る。つまり、これの意味するところは、地方経営の手腕如何によっては、今後、豊かになる地方と貧しくなる地方格差が必ず出てくる。

だから、今後は、成功した首長を、どのように評価するかも大切なことだ。それは成果報酬が適切かもしれない。就任時は、現在のような高額の報酬を抑え、退任時に成果が出ておれば、成果報酬を受け取れる仕組みがよい。もちろん、首長だけでなく、行政の責任クラスも同様な仕組みにすればいい。

大体、行政組織は、評価システムで動く。今までの評価システムの見直しは急がれる。そして、失敗した首長及び関係者には、どう言う責任を取ってもらうかも、今後は地方選挙には、マニュフェストに、きちんと、うたってもらわねばならない。

財源移譲は確かに地方にとって、裁量性が増すから、運営が楽になることは確かだが、運用を一つ間違えば、どん底に落ちる。財源移譲してもらう前に、やるべきことは、山積みだろう。そういうことを十分果たしてから、首長たちは発言すべきだろう。果たして、地方の首長たちに覚悟はできているのだろうか。

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2009年9月22日 (火)

ボケ防止の家庭菜園

女性が、男より長生きするのは、生物学的観点で説明されるのかもしれないが、女性は家の中のこまごまとした仕事をやってきたことが、脳の活性化に役立っているのではないか。それが寿命に影響しているのだろう。

ただ、最近の女性は、家事を放棄し、仕事に流れる人も多いから、将来も、女性が長生きできる保証はない(笑)。大体、仕事というものは、いくら工夫をしても、ワンパターンになりがちだ。

仕事も、政治家のような多様な心配りが必要な職業は、まだいいが、そうでない職業の場合は、気をつけなければならない。もちろん創造的な仕事にすることを心掛ければ、一生仕事をして、長生きできるかもしれない。

しかしながら、皆が皆、創造的仕事をできるわけでもない。それに普通、会社員であれば、確実に定年はやってくる。そして、定年後、何もしなければ、確実にボケて寿命も短くなるだろう。それを解消するために、何かをやらなくてはと、皆感じている。

そういうことを意識してかどうかは不明だが、兵庫県下の都市部(神戸市、姫路市、尼崎市)では、60歳以上の人々に、市民農園が人気があるとかで、常に待ち状態であるという。家に家庭菜園が設けられなければ、借りるしか手がない。マンション住まいだったら、止むを得ない。

いずれにせよ、作物づくりは、いろいろと頭をめぐらす。自然の複雑系に接して、いろいろ考えることもある。ボケ老人が、植物の栽培に参加して、活き活きとしていたという報告もされている。脳の活性化に役立っているのは間違いなかろう。

それに太陽にあたって、健康的だ。老人たちは、家に引きこもりがちになるが、それを解消して、日光浴の効果も得られる。日々の変化や、こまごまとした事象の発見は楽しいものだ。

そのように考えれば、定年退職者たちが、市民農園を借りようとするのも、よく理解できる。趣味人は、定年後も、いろいろやり続けるだろうが、大して、趣味のない人間には、ボケ防止に、家庭菜園はうってつけだ。

ただ、貸し手は積極的ではないようだ。つまり供給不足。その原因は、税制にあるようだ。しかし、農業者にとっても、耕作放棄地であれば、それなりに価値のあることではないか。いろんな人々に作物の作り方を指導しすることは、手間はかかるかもしれないが、楽しいことだろう。農地を貸すことに積極的になってもらいたいものだ。

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2009年9月21日 (月)

海外に買い取られた美術品~『美しきアジアの玉手箱』を鑑賞

現在、神戸市立博物館で開催されている『美しきアジアの玉手箱』(シアトル美術館所蔵、日本・東洋美術名品展。平成21年12月6日まで)を鑑賞してきた。一般に、所蔵展というのは、総花的になりやすいが、この展覧会も、その域を出ないのは致し方ない。本来は、切り口を明確にして、テーマに基づく展覧会が望ましいが、海外に作品があるため、諸条件が厳しいかもしれない。

それにしても、海外に日本の多くの美術品が所蔵されているのは、嫌な感じだ。しかしながら、これは日本の側にも責任がある。日本は、基本的に「捨てる文化」なのだと思う。時代が大きく変わると、古いものを容赦なく捨て去る。その思い切りには、感心するほどだ。

明治維新後は、没落士族がたくさんの所蔵品を、二束三文で処分した。もちろん、彼らの経済状況からすればやむを得ない。だが、政府は、それらの文化遺産を守ろうとしなかった。極端な例では、お城だって、民間に払い下げしている。

最終的には、国が買い取った例もあるが、多くの文化遺産は、ほったらかしだ。それを見た欧米人で、美術に造詣の深い人たちは、タダ同然で買い上げている。それは戦後も同じだ。戦後は、戦前の華族の没落や農地法改正に伴う大地主の没落により、多くの美術工芸品が食糧に代えられた。

それらを彼らは、またタダ同様の価格で入手している。そして海外に流れている。ただ感心することは、それらの保管状態がいいことだ。彼らには美術品の価値を大切にする文化があるのだろう。それは感謝しなければならないかもしれない。彼らが所有しなければ、この地球上から、すでに失われていたと思える。

さて、この展覧会では、様々な作品が展示されている。ただ絵画、工芸品など、日本の作品だけでなく、中国、韓国、東南アジア、インドの作品もある。98点中、日本のものは、55点にすぎず、その他は、海外のものであるのは、物足りない。展覧会の趣旨だから仕方ないが、流風としては、今回は、あまり他国の作品には興味は惹かれなかった。やはりテーマがぼやけて、総花的展覧会の限界かもしれない。

*追記

『美しきアジアの玉手箱』(シアトル美術館所蔵、日本・東洋美術名品展http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/tokuten/2009_03seattle.html

なお、「鹿下絵和歌巻」は、期間中、ずっと展示されるが、「鹿下絵和歌巻断簡」に関しては、一部展示替えがあるし、展示期間も短い。大半は10月4日までの展示となっており、一幅は10月6日から18日までとなっているので要注意だ。また、これらは、国内所蔵分である。

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2009年9月20日 (日)

エコポイント制度は全廃を

一部家電品に対するエコポイント制度に対して、小沢環境相は、来年度も継続するとしたが、これはおかしいだろう。そもそも需要の先食い制度だし、全ての人に恩恵が行き渡らない偏った制度だ。

民主党は、折角政権を握ったのだから、自公政権の作った悪しき制度を廃止すべきだろう。環境問題の観点からしても、非常におかしいのは明らかだ。またエコポイント制度は、結局、家電メーカーへの一時的な救済措置で、根本的な景気対策からは遠い所にある。

確かに環境面では、省エネの機器を導入することは望ましいが、買い替えは、ゴミも発生する。またトータル的には、長期で買い替えの促進を促していくことが望ましく、たまたま買い替えの時期に当たった人だけが恩恵を受ける制度には、大きな疑問もある。

大臣は、発言を撤回させるべきだろう。そうしないと、大臣は、国民から、変な眼で見られるだろう。民主党政権は、基本的には、自公政権の政策を廃止し、再度、その中の取捨選択と政策の練り直しを十分してから、より価値の高い政策に高めてもらいたいものだ。

*追記

ちなみにエコカーに対する制度も同じことだ。

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追慕の詩~李頎『題盧五旧居』

亡くなった人の家に行くと、その人がいるような錯覚に襲われるが、しかし、その人は、もういない。思い出の家には、懐かしい思いを馳せる。流風家には、もう母親はいない。よく泣き、よく笑った顔が思い出される。

漢詩にも、親ではないが、今は亡き知人を懐かしんだものがある。それは李頎(りき)の『題盧五旧居』で、そういう悲しさを詠んでいる。李頎は、現在の四川省の人。役人になったが、嫌になって、神仙の道を志したと云う。

この詩の題名に使われている盧五という人が、どのような人かは不明のようである。詩からは、先輩か友人のように思える。彼にとっては、良くも悪くも懐かしい人であったのであろう。深い悲しみが読み取れる。詩は、次のようなものだ。

  物在れども人亡くして見ゆる期無し

  間庭に馬を繋いで愁しみに勝(た)えず

  窓前の緑竹 空地に生じ

  門外の青山 旧時の如し

  帳望する秋天 墜葉鳴り

  ●(山に賛)●(山に元)たる枯柳 寒鴟宿る

  君を憶えば涙落つ 東流の水

  歳歳花開くも 知んぬ誰が為ぞや

解釈は、次の通りであろうか。

物質の世界は、何も変わらないが、人は寿命があるため亡くなって、二度とまみえることもない。盧五の旧居の庭に馬を繋ぐと、思わず悲しみがこみ上げてくる。人が住まなくなった庭には、空地に緑竹が生え、荒れ放題だ。ただ、門の外を眺めれば、緑の山々は何も変わらない。人が亡くなっても、変わるものもあるし、変わらないものもある。

季節は、天が高く、葉が落ちる音が寂しく、秋が深まりつつある。枯れた柳には、鳶がねぐらにしている。君のことを思い出すと、滂沱の涙が流れる。君がいなくなって、寂しさを覚えるがどうすることもできない。あるのは、私の心に宿る君の記憶だけだ。だが、花は、そういうこととは関係なしに、毎年、花を咲かせる。一体、誰に見せるためなのだろうか。人間の一生とは、儚いものよ。

流風の場合は、知人達は、まだ元気なので、そういう思いはまだない。だが、親への思いは、時々、感じる。知人たちに対しても、いずれ、そういう時を迎えるのであろうか。

 

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2009年9月19日 (土)

秋のシルバーウィーク

世間では、本日から、大型連休らしいが、流風には関係ない(笑)。先日収穫した柿を食べながら読書でもしようかな。それから、せいぜい、菜園の整備と、木の植え替えをするぐらいだ。

それにしても、ここしばらく、アゲハ蝶の多さには、圧倒される。一般的なアゲハ蝶は、見飽きたが、最近は、大型のアゲハ蝶がやってくる。種類はよくわからない。いかにも米軍の大型戦闘機風の形の蝶が、静かに、そして堂々と遠慮なく、悠々と飛んでいる(笑)。

よく見ると、種類も何種類か飛んでいるようだ。アオスジアゲハかな、モンキアゲハかな、いやいや、ナガサキアゲハかな。よくわからん。ジャコウアゲハではないことは確かなようだ。写真を撮ろうとデジカメを取りに行って戻ったら、もういなかった。やはり気まぐれの写真撮りは、成功しません(笑)。

そうすると、今度は、その中を、今度はトンボが数種類飛んできて、草花に止まる。子供の時のように、指を回して、取る気もなし。すると、それを察してか、胴の赤いトンボが、まさに目の前にやってきた止まった。安心すると、厚かましくなる、女性みたいだ(笑)。

さてさて、残りの時間はどうしようか。懸案の事案は、やっと処理し終えたし、映画や美術館巡りでもしますかな。連休中は天気もよさそうだ。

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2009年9月18日 (金)

人材の登用基準は何か

今回の鳩山新内閣では、どういう基準で大臣が選ばれたのだろう。報道によると、勢力バランス内閣だそうだ。昔で言う、派閥均衡内閣なのかもしれない。党内の勢力をバランスよく配置し、その上に乗っかる。

まあ、賢い選択だろう。このように人材の登用というのは、案外難しい。人と人の組み合わせを間違うと、組織はごたごたする。一角が崩れれば、脆いのも確かだから、しっかりやってもらいたいものだ。

ところで、大臣の登用もそうだが、一般企業での人材の登用はどのようになっているのだろう。大企業の場合は、変革時を除けば、すべではないが、ピラミッド型で、抜擢は少ないかもしれない。

中小企業の場合は、人材が少ないので、年齢ではなく、実力主義で、抜擢する場合もあるだろうが、平凡な企業は、家族的なしがらみゆえ、あまり思い切ったことができないのではなかろうか。組織内の登用は、それぞれの企業文化に基づき、ある程度、やり方は決まってくる。

しかしながら、外部からの登用の時は、少し事情が異なる。中小企業でも、外部から新しい人材をスカウトして、招いて、重要なポストを任せ、発展したところはある。現在、上場している企業の中にもある。一体、そのような人材発掘は、どのようになされるのだろうか。

各種関係先の紹介だろうか、あるいは金融関係からの斡旋だろうか、あるいは大学の研究者との関わりでスカウトしたのだろうか。いずれにしても、採用する基準は何だろうか。彼らを採用して、初めからうまいこと行くとは思っていなかったに違いない。

企業の風土、経営者の人柄、人材評価システム、スカウトした人材のネットワーク利用、社内人材との融和、良好な人間関係等が、うまくいった結果、力が発揮されたのだろうか。でも、どうして、その人を採用したか。

基本的には、その人材の情報を膨大に集めることなのだろう。つまらないことから、日常生活に至るまでの基本的な考え方や行動様式などが大切なのだろう。組織風土に、まず馴染める人材が第一条件だろう(それがいいかどうかは別として)。その上で、能力の査定をする。

となれば、面接する時には、やはり本人が記す履歴の内容が重要かもしれない。その表現で、経営者の感性に響くものがあれば、登用されることもあるだろう。結局、それは当事者同士の人柄のマッチングかもしれない。これは双方における、縁であり、運であるとも言える。人と人の出会いは、ある意味、奇跡なのだろう。

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2009年9月16日 (水)

タレント米は成功するか

兵庫県では、新規就農者が増えているそうだ。農業への関心が強くなっている。やはり国民一人ひとりが、食糧の自給率が危ういことに対して、疑問を持つようになったことは望ましいことだ。海外から調達すればいいという考え方は、今でもあるだろうが、それは海外に常に供給余剰があっての話だ。

これから、人口の多い国々が、少し需要を海外に求められば、たちまち、供給不足に陥るのは明らかだから、国内農業の立て直しは、喫緊の課題だ。そういう雰囲気の中で、一部タレントが、農業への参加や、米の販売をされている。

それは自分で作付けしたものや、地域の協力を得て作られたものに、オリジナルの冠をつけて販売したり、あるいはされようとしている。例えば、藤田志穂さんの「ギャル米」や、大桃美代子さんが手がけられている「桃米」(詳しくは、彼女のブログ『桃の種』はリンクを張っているのでそちらを)だ。

地域は、彼女らを広告塔にすることによって、地域活性化も図っている。だとすれば、多くのタレントの出身地は分散しているのだから、出身タレントに働きかけて、「タレント米」と作ることも可能だろう。そして、競わせればいい。

有名タレントは、出身地の米が、誇れるものであれば、故郷に錦を飾るではないが、販売促進の協力も必要だ。そうすれば、流風でも、ファンのタレントが、タレント米を発売すれば、買ってしまうかも(笑)。

もちろん、自ら農業するかどうかは別として、上っ面だけの協力では、あまり意味がない。農業への真の理解や、地域の掘り起こしの観点も必要だ。自分なりの考え方を発信することは、新しいファンを作る可能性もある。ミーハー的な観点だけでなく、タレント米はタレント自らの掘り起こしにつながると思うのだが。

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2009年9月15日 (火)

声美人と美しい言葉

女性で、声美人というのがある。電話で話すと、聞き手に非常に気持ち良く感じる女性のことだ。それは声のトーンとか、話し方に魅力があるからだろう。受付とか、コールセンターの女性には、それが求められる。ラジオのアナウンサーも、そういう仕事の範疇かもしれない。

声はすれども、姿は見えずだから、聞き手は、声だけでイメージして、男は想像たくましゅうする。実際、会って見て、がっかりということもある(笑)が、それでも、声のトーンや話し方は、人柄まで規定する。

挨拶も同様で、すれ違った時に、明るく挨拶されると、実際以上に女性は美人に見える。それは容姿と言うより、全体の雰囲気で、その女性を評価するからだろう。ということは、女性は美容法や身体を磨く以上に、言葉の発し方を学んだ方が、賢いということかもしれない。

もちろん、容姿はいい上に、美しい言葉を発する女性は、完璧だろうが、そういう女性は近づきにくい。男は、意外と臆病なのだ(笑)。それは逆のケースもそうかもしれない。ということで、男女のカップルで、完全な美男美女という組み合わせは、世の中、極めて少ない。

話を元に戻すと、女性は美しい声で、美しい言葉を発した方が、得をするという話だ。それは男に媚びよということでもない。美しい声で、美しい言葉を発することで、自分の価値を高めることは、自分に大きくプラスすると考えてほしい。最近は、男言葉を真似て、乱暴な言葉が、変にいいように捉えられているが、それは大きな誤解だろう。

*参考

  「美しい行為は、美しい言葉から生まれる」(ゲーテ)

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2009年9月14日 (月)

強烈な虫に刺される

家庭菜園をしていると、当然、多くの虫に接する。今では、バッタ、キリギリス、クモ、アリ等の他に、夜には、コオロギや鈴虫等がいる。これらは、結構癒してくれるし、その動きを観察しているだけで楽しいものだ。あるバッタは、ずっと身動きしない。翌日も、その翌日も。何をしようとしているのだろうか。死んでいるようでもない。今朝、見たら、1センチほど移動していた。

まあ、これらはまだいいとして、蚊が難敵だ。少し草取りをしていると、すぐ狙われて刺される。一応、長ズボン、長袖、首にタオル、軍手と重装備で臨むのだが、少しの隙間から、入ってきて刺される。ホントに、油断も隙もない。痒いなあ。

だが、蚊に刺されても、痒いだけだが、ある虫に刺されると激痛が走る。蜂もこわいけれど、意外と刺されない。彼らの巣の勢力範囲を侵さない限り、あまり刺された経験はない。

では、刺されたものは何かと言うと、イラガの幼虫だ。緑色しており、棘がいっぱいある。これに刺されると、とんでもない痛さ。運針の手元が狂って、針を指に刺した時より痛い(苦笑)。今年は草取りしていて、やられたし、できの悪い柿を収穫していても、やられた。

見えていたら、気がつくのだが、見えないところに潜んでおり、ちょっと素手で草や果物を取ろうとした時に、ふいにやられる。この激痛は、経験のない人にはわからない。しばらく、何もする気がしない。水で洗って、軟膏を塗って、しばらくして、やっと落ち着く。

あ~あ、鬱陶しい虫だ。でも、農薬は蒔きたくないし。仕方ないか。彼らも生きるため必死なのだろう。でも、もう二度と刺されたくない。本当に困った存在だ。

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2009年9月13日 (日)

人と動物の共通感染症

先日のブログでも、記したように、家の中で動物を飼う人が増えているが、同時に、人間も病気をうつされるリスクを負っている。両親は、室内で動物を飼うことは、絶対駄目と言ってしていた。特に父は、その危険性をかなり前から指摘し、動物との共生は難しいと、常々言っていた。

昨日(平成21年9月12日付)の日経新聞にも、その危険性を指摘する記事が載っていた。人と動物の共通感染症をズーノーシスと言うらしいが、さすがにその言葉は知らなかったが、動物と共にしている人は、十分気をつけてもらいたいものだ。

そうしないと、周囲の人々さえも、災難に巻き込むことになる。単にかわいいとかで、可哀想だからという理由で、飼わない方がいいだろう。新聞を読まれていない方のために、転記すると、人と動物の共通感染症の症状としては次のようなものがあるらしい(国立感染症研究所獣医科学部、山田章雄部長)。

①猫ひっかき病

  猫の爪に、ひっかけられて発症。

  傷跡に赤いおできができ、発熱や頭痛の症状がある。

②パスツレラ病

  ペットに舐められたりして感染。

  抵抗力の弱い人は、傷口が化膿したり、肺炎に。

③カプノサイトファーガ菌による感染症

  免疫力が低い人が噛まれると、発症。

  心内膜炎や敗血症に。死亡率30%。

④Q熱

  犬や猫を通じて、発熱や筋肉痛を発症。

  インフルエンザと似たような症状。

⑤トキソプラズマ症

  猫を通じて、発症。

  妊婦の初感染で流産。

⑥回虫症

  犬や猫を通じて、発症。

  腹痛や視力低下。

⑦オウム病

  オウムなどの鳥類を通じて発症。

  発熱、倦怠感など。インフルエンザのような症状。

⑧エキノコックス症

  犬(北海道)を通じて発症。

  肝機能障害など。

以上の症状を見るだけで、動物を飼うということが、いかにリスクが高いかがわかる。上記に記したのは、一部の動物に過ぎず、その他の動物も同様に、病気をうつされる危険性がある。

ということは、余程の覚悟と準備ができないのであれば、安易に動物を飼うべきではなかろう。特に、室内では接触密度も高く、危険と言える。  

一応、ズーノーシス予防のためには、飼育ルールの確立が大切なようである。すなわち、

一、犬用、猫用の混合ワクチンで基本的な病気を予防

二、一緒に寝たり、キスしたりしない

三、ペットになめられたら、すぐ洗うこと。食器の共有はしてはならない。

四、猫は必ず爪を切っておく。

五、乳幼児が一人の時に、ペットに近づけない。

六、散歩の時は、引き綱を用い、不潔なものを口にさせない。

以上のような対策は、ある程度有効であろうが、完璧ではないだろう。動物を飼うには、それ相応の覚悟と準備が必要(きちんと対応しようとすれば、それなりにお金と時間が必要になる)で、安易に飼ってはならないし、人に勧めてはならないだろう。十分な配慮なしに飼えば、結果的に、知らず知らず周囲にも迷惑をかけることになる。

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2009年9月12日 (土)

川面に浮かぶ紅葉

   嵐吹く 三室の山の もみじ葉は

        竜田の川の 錦なりけり

              能因法師 (後拾遺集、百人一首)

今回は、秋を題材にした文学を取りあげてみよう。ちょうど、ツクツクボウシも啼き終えたいることだし。上記の歌について、別に解釈を示す必要もないと思うが、一部の読者のために、若干、示しておこう。

三室の山とは、奈良県生駒郡の神南備山の別称らしい。ただ「み室山」となると、神のいます山ということになり、そういうことも含めて詠まれた歌かもしれない。

竜田の川は、同じく奈良県の西北生駒郡にある川で、上流は生駒川と呼び、大和川に注いでいる。近くに竜田神社がある。なお、表記には、「龍田」のものもある。

錦は、最近、着物を着る人が少なくなったので、触れる機会が減っているが、金や銀の糸や、様々な華やかな色の糸を用いて、華麗な模様に織り出した厚地の絹織物をいう。

歌の解釈としては、「嵐が吹き散らして、三室の山の紅葉は、竜田の川に浮かんで、それが水面に映えて、きらきらして、まるで、鮮やかな錦のようであったことよ」(*注)、ぐらいの意味であろうか。

また、竜田を歌ったものには、次のようなものもある。これは、謡曲『龍田』に使われている歌だ。この謡曲は、その他にも、いろんな和歌を組み込んで、作られているが、浅学な流風が記すには、限界がある。また、藤原家隆の歌の一部は、改変されて、「栬(もみじ)葉」が、「紅葉を」に、「渡らし」が、「渡らば」になっている。

    龍田川 紅葉乱れて 流るめり

         渡らば錦 中や絶えなむ

                   (古今集、読み人知らず)

    龍田川 栬(もみじ)葉閉づる 薄氷

         渡らしそれも 中や絶えらむ

                    (壬二集、藤原家隆)

二首ともに、龍田川を人が渡れば、それぞれ条件は違うが、その見事な紅葉で彩られた川を乱すことになると詠っている。そういうと、子供の頃、季節は違うが、女の子たちが、川に花びらを浮かべて遊んでいた。川は流れるので、花が流れる感じだった。それをやんちゃの男の子が川に入っていて、女の子から非難轟々だった。流風じゃないよ。

上記の和歌は、花ではなく、紅葉であるので、そのニュアンスは異なる。秋の風情ということで、感慨深いものがある。秋は、やはり、もの想いにふけるのがいいいのだろうか。流風は、美味しいものがいっぱい食べられるのがいい。花より団子ならぬ、紅葉より、果物(笑)。せっかくのいいテーマも台無しだな。

*注

一般的な解釈を示した。紅葉は、時期によっては、簡単に散らない。紅葉が風に散らされて、実際に川面に浮かんでいる場合も考えられるが、紅葉が川面に映り込んで、そのように見える場合もある。文学的には、そちらの解釈の方が面白い。

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2009年9月10日 (木)

和熟一致ということ

倹約に励んでいた当時、何かと批判された尾張の徳川宗春は、最終的には、幕府から、隠居、蟄居の身となる。幕府は、倹約に励めと言っているのに、宗春は、反対の贅沢を繰り返した。幕府としては示しがつかないから、彼を罰として引退させたのだ。

この問題は、現代の日本のように財政状況が厳しい状況下で、為政者がどういう方策を取るべきなのか、示してくれる。倹約はしなければならないが、その一方で経済を活性化しなければ、国民経済は窒息してしまう。そこまでは行かなくても、息苦しい世の中にしてしまう。

人々の倹約生活の連続には限界があるということだろう。宗春は、やたらと締め付ける幕府のやり方に反抗したものと言える。それは庶民の気持ちを代弁していたのかもしれない。だが、国としての統制は乱れる。結局、彼は隅に追いやられる。彼のやり方も、極端に偏った手法だった。

この宗春が、その実際はともかく、割といい言葉を遺している。それは、「和熟一致」というものだ。国が何か課題を抱え、改革していくには、立場を超えて、全ての人の納得、信頼がなければならないというものである。よい政治と思っても、立場が違えば、それはよくないと映る。当然、そこには批判がある。

それを乗り越えるには、お互いの信頼なくして、前には進まない。仮にごり押ししても、将来に禍根を残すのみとなる。それなら、多少時間がかかっても、お互い理解しあえるまで、話し合わなければならない。そして、多くの人々は、自分の立場を捨て、過去のしがらみを捨てることが大切だ。その意識転換が大事なのだ。意識転換させる努力が為政者には求められる。結局、信頼に基づく改革は、はやくなる。

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2009年9月 8日 (火)

デザインによる付加価値

別に秋が近くになったからと言って、デザイナーでもない流風が、デザイン論を展開するのもおかしいと思うが、一応、企業におけるデザインの自分なりの認識を示しておこう。いつものことだが、専門家でもないので、確認しながら、読んでください(笑)。

商品の機能で差別化できなくなると、企業は、デザインでの差別化を検討する。それは価格競争に巻き込まれないようにするということを意味している。競争は大切だが、行き過ぎた競争は、企業を疲弊させる。そこで、付加価値を高めるため、デザインを利用する。

しかしながら、商品は本来、機能が優れていれば、デザインは、基本的に決まってくる。優れた商品は、優れたデザインのはずだ。それをデザインで差別化しようとするということは、その商品の機能が、まだ十分でないことを意味している。

もちろん、市場価格の問題があるので、絶対的な機能を持った商品は、市場にはない。絶対的な機能を持った商品は、とてつもない価格になるので、市場に受け入れられない。そこで、まさに市場と折り合いをつけた「適正価格」での、商品供給になる。

以上のような制約条件のもとで、企業は他社と差別化を図るべく、魅力あるデザインを考案する。だが、全ての人に受け入れられる商品はない。そこで、人々のデザイン嗜好を調査して、いくつかのグループを作り、そこに対応するデザインを検討することになる。

つまり、平均的なデザイン、最大公約数的なデザインは、量産しても、基本的に売れないということを経験しているからだろう。ということは、売り上げの極大化は望めず、いくつかの山の頂点を目指す戦略を打ち出すことになる。いわゆる次善の策だ。

これは中小製造企業に有利に働き、ビジネスチャンスがあるということである。小回りが利いて、小ロット生産もできる中小企業は、デザイン差別化戦略になじみやすい。もちろん、あまり細かく過ぎると、その弊害もあるが、今はネット販売も可能だから、認知度を高める努力をすれば、それなりに売上アップも可能だ。

これらのことは、現在では、自動デザイン、コンピューター設計、ロボット生産でも可能かもしれない。そうなれば、大企業でも、対応可能ではないかと反論が来そうだが、時代の空気を読む感性は、人間しかできない。またモノの作り込みも職人の経験には、ロボットは及ばない。

これは何を意味するか。つまり、まず作り手の意思を明確にすることだ。その中で消費者とコミュニケーションしながら、内容のグレードアップを図っていく。そうすることが続けば、固定客を生むことになる。

ただ、中小製造企業者に一番欠けているものは、消費者とのコミュニケーションできる製品であろう。いい技術があっても、コミュニケーションがなければ、ビジネス拡大ができない。それに、新しい切り口を見つけ、支援するのが、いわゆるデザイナーであろう。

*参考

以上のことを意識したものかわからないが、現在、神戸市立博物館を中心に4会場で、『感性価値創造ミュージアム』が開催されている(平成21年9月13日まで)。博物館では、西日本エリアで生まれた60品目が展示されている。

展示されているものの多くは、多分に、遊び心が備わっている。もちろん、全てが実用的である。ただ、参考価格も提示されていないのが気になる。価格は、大変大切で、価格も、ある意味、デザインであることを忘れてもらっては困る。それによって、ビジネスで成功したり、失敗するわけだから、いくら公共の施設を使った展覧会でも、片手落ちである。

そういうことを除けば、デザイン重視の展覧会としては、まずまずである。設営も、行き届いているし、雰囲気もいい。提供された冊子を見ながらの展示品の展覧はよかったと思う。ただ、こういう展覧会は、継続して、繰り返して、何回も開催する必要がある。そして、今後の市場や消費者への販促は、企業の個別の努力であろう。

 

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2009年9月 7日 (月)

誰もが知っている“三本の矢”について

どの方もご存じの三本の矢は、毛利元就の遺訓と言われている。子供の頃、絵本にも、そういうものがあり、母が何回も読んでくれた。元就が臨終の時、三人の息子、隆元、元春、隆景を枕元に集め、諭した言葉とされる。

念のために記せば、それは、三人に、一本ずつの矢を渡して、それを折らせた後、三本の矢を一度に折るように命じた。ところが、誰も、それができなかった。それを見届けた上で、元就は、兄弟三人が力を合わせれば、一人でできないことも可能になる。そのようにして、毛利家を守り抜け、と言ったというものだ。

まあ、子供心に、力を合わせれば、一人でできないことは、できるようになるのだなあ、と感じたものだ。確かに、よくできた話だ。戦前の小学校の読本にも、載っているらしい。そのため、両親世代は、皆、それが事実と思っていたらしい。

だが、これは明らかに創作だ。もちろん、元就が、三人に、力を合わせよとは、生前言っていたようなので、全くの嘘と言うことではないかもしれない。ただ、元就の臨終時には、隆元は、すでに亡くなっており、三人が揃うということはあり得ない。それに、元就が臨終のときには、皆、ええおっさんだ(笑)。そんなことさせるわけがない。

ただ、元就は、生前、三人宛に、教訓的な書状を遺しており、そこでは兄弟の諍いを戒めている。そして本家の兄を盛りたてることを命じている。そのことを元に、子供たちのために、創作したのだろう。以前にも触れたが、絵本、童話には、そういうものが溢れている。そこには、子供に対する大人の意思が働いている。

大人の視点で見れば、内容的には、悪くはないが、歴史的人物の実名を使う以上、やはり問題視されても仕方ない。まあ、そんなことを言えば、娯楽時代劇は、全て駄目になってしまうから、そんなに難しく言う必要もないのかもしれない。だが、事実も知っておくのも大切だ。

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2009年9月 6日 (日)

部屋を清潔に保つこと

子供の時、両親から、室内を美しく保つことをやかましく言われた。父は、きれい好きだったが、母は、掃除嫌いだったので、どうも、言うこととやることが、合っていないと思ったものだ。それでも、母は母なりにしていると考えていたようだが。

そういうことで、子供の頃は、躾とか何とか言って、部屋の掃除、廊下の雑巾がけ、風呂掃除は、流風にも、お鉢が回ってきて、大変だった。できるだけ楽しくやるように工夫はしていたが、所詮、子供やる掃除なんて、いい加減なものだ。

その結果、流風が、手抜きした箇所が見つかり、帰宅した父から、母は、お小言をもらっているようだった。誰にも文句を言えず、ぶつぶつ言っていた。大体、流風が掃除している間も、母は本を読みふけっているんだから、どうしようもない。困った母だった。

それでも、母に代って掃除をすることで、結局、わかったことは、室内にできるだけ物を置かないことが、室内を美しく保つ秘訣と理解した。そうすれば、掃除も楽だ。室内に物が溢れていたら、それをどかすだけで、嫌になる。最初から、なけれぱ、そういう心理的な負担も小さい。

よって、流風の部屋は、いつもガランとしている。若い時、数人の女性が訪ねてきたが、あまりに何もなく、生活感がないので、びっくりしていた。最低必要なもの以外は何も置かない、と説明すると、「信じられない」と言っていた。

もちろん、室内に、犬や猫を飼うことなどありえない。そんな煩わしいことはしない。いくら美しくしても、彼らは、何をするかわからない。躾の問題としても、相手は動物だ。人間のようにはいかない。清潔に保とうとすれば、それなりの配慮も余分に必要になる。

両親も、そういうことは絶対駄目と言っていたので、今でも、同じ気持ちだ。当然、室内犬や猫のいる、お宅には訪問しない。動物アレルギーはないと思うが、自宅に持ち帰るリスクをわざわざ抱える必要はない。君子、危うきに近寄らずだ。割と女性は、室内で飼うようだが、あまり、そういうことは考えないようだ。

犬、猫を飼うぐらいなら、今は亡き某女流作家が言っていたように、独身女性は、「男を飼えば」いいのだ(笑)。男によっても、部屋を荒らして、汚くするリスクはあるが(笑)。まあ、男より、動物の方が扱いやすいから、そちらに走るのかもしれない。でも、彼女らが本当に大人になるのは、いつになるのだろう。

まあ、随分と本題とずれてしまったが、部屋を清潔に保つことは、病気の予防になることも事実だ。いろんな環境機器の利用もいいが、まず基本的な清掃が大切だ。そして、ゴミがわかりやすいような部屋づくりや利用が望ましい。

*追記

これからの女性は、「男を飼う」と言うより、「男を育てる」思考が求められる。新首相の夫人も、そのような雰囲気の女性であろう。彼を励まし育成したのは、夫人の貢献が多いという。その論で行くと、女性は明るく、楽観的であることが必要なようだ。ただ、彼女の場合、離婚も経験されているから、それが現在の彼女の人間形成をしているとも言える。塞翁が馬なのだ。だから、単に明るくて、楽観的であればいいということでもない。

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2009年9月 5日 (土)

20代の仕事はがむしゃらに

若い人と、時々会うが、確かに、いい奴ばかりかもしれない。しかし、多少、のんびりしている。鷹揚だという形容があるかもしれない。育ちはいいのだろう。ただ仕事に対する切迫感がない。真面目で素直に話は聞くが、貪欲に学んでいこうという意思が感じられない。もちろん、全く学んでいないということではなくて、もう後ひと押しが足りないと感じる。

しかしながら、若い人たちには、20代が最も大切だと思って欲しい。残念ながら、20代が最も大切と、若い人に説いても、なかなか分かってもらえないことが多い。多くの先人は、20代に成し遂げた遺産で、そのあとの時代を生きている。大器晩成も、20代に、きちんと何事かをやっていて、初めて可能だ。20代の評価は、その後も続くと思った方がいい。

もちろん、大きな組織に属していれば、個人ができることは限られているだろう。しかし、もう一段高い視点を持ち、問題意識は、常日頃から養っておく必要がある。それが後年、役立つのは間違いあるまい。20代は、仕事は、がむしゃらにやって欲しい。

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2009年9月 3日 (木)

女の一生は男次第!?

先日、電車に乗っていて、若い女性三人組の話声が聞こえてきた。その内容は、ある若手女優が大資産家と結婚する話題で持ちきりだった。確かに、その若い女優が、玉の輿に乗ったのは、間違いないだろう。しかし、あまりそういうことに憧れる姿勢は、望ましくない。まあ、彼女らは、単なる芸能情報を楽しんでいるだけかもしれないが。

よく親が言っていたことに、「玉の輿は、必ずしも幸せではない」ということだった。お金持ちという者は、資産はたくさん持っているかもしれない。しかし、それらを湯水のように使えるわけでもないだろう。むしろ、資産を減らさないようにするには、一般のサラリーマンより、質素な生活を送らねばならない。

贅沢できると思って、嫁いだつもりが、大変な生活が待っていたという話もよく聞く。もし、嫁いで贅沢できたなら、その資産家の未来は暗いというのも、事実なのだ。そう考えれば、若い女性たちも、玉の輿の発想を捨て、もっと平凡な家庭を築くよう努力してほしい。平凡が幸せだと思って欲しい。平凡に暮らすのは、案外難しいことかもしれないが。

それでは、女性が男を選ぶ視線は、果たして、どのようにあるべきなのか。最近、婚活、婚活と、騒がしいが、男女が出会える場は限られているのだろう。それに世話する、おばさんの数も減っている。そういうことで、自ら、異性と出会える場に参加して、パートナーを得ようとしていることはわかる。

自立した女性も、仕事ばかりしていても、あるいは楽しいことを、いっぱいやっても、やがて満たされない自分があることに気付くのだろう。まあ、人間であれば、それは自然なことだ。多分、何らかの理由で、心のブレーキが強く働いていた女性たちが、異性探しとして、婚活をしているのだろう。

だが、そういう場でも、繕われた自己を表面に出すのでは、真のパートナーは得られないだろう。いかに自分を、ある程度さらけ出して、長所も欠点も、容認してくれる異性を探すことが求められる。

角隠しなんて、結婚式の行事があるが、結婚してから、角を見せられる夫もかなわない。現代は、角は角として、結婚前から、ある程度、見せておくのも、長続きさせるコツだろう。その方が、男は覚悟できる(笑)。ある程度は隠すことも必要だけれど。

もちろん、パートナーの選択は大切だ。現在、ある女優の薬物問題が、ずっと取りあげられ、その原因は何だったのか、と言われている。遊び人の彼を選択したのは、仕事へのストレス、管理されたイメージの窮屈さ等からの開放したい気持ちがあったのだろう。

確かに、彼女にとっては、面白い話題満載で、あちらこちらに遊びに連れてってくれて、非日常体験させてくれる男がよかったのだろう。結婚生活より、自分を解放してくれる男を選択したのだ。

しかし、これは明らかにパートナーの選択ミスということだろう。これは一般女性にとっても、参考になるのではないだろうか。結婚後、遊んで生活できるわけでもなかろう。そんなことをすれば、生活は破綻する(金銭的な面だけでなく)。

ということは、仕事ばかりで、世事に疎く、あまり面白くない男でも、真面目であれば、彼の「母親」になるつもりで、パートナーにした方が幸せかもしれない。女の一生は男次第と、よく言われるが、結婚は確かに、そういう面もあるだろうが、女性の異性の選択の考え方が、その後の一生を決めると理解した方がいいかもしれない。

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2009年9月 2日 (水)

兵庫県立美術館『だまし絵』展鑑賞

8月末に、兵庫県立美術館で開催されている『だまし絵』展を鑑賞してきた。夏休みも、最終ということで、子供づれの客が多く、大変賑わっていた。兵庫県立美術館では珍しいことではないか。あまり行かないので、本当のところはわからないが。

だまし絵、つまりトリック・アートについては、過去にも、このブログでも、触れたこともある。基本的に、観る側の先入観により、絵画技法に騙されるわけだ。すなわち、常識の反対側を描いたものとも言える。これは画家のシャレとも捉えることができる。

一般に、女性も、見る方向で、美人に見えたり、見えなかったりする。いつかの『新婚さん、いらっしゃい』に出演していた、ある夫婦の新婦は、自分が不美人なので、どういう方向から見れば、美しく見えるか研究し、彼氏(現在の夫君)には、よく見える角度しか見せなかったという。

これなども、“だまし”のテクニックを使った好例だろう。旦那は、まんまと嵌められたわけだ。まあ、プロセスが、いかようであろうと、本人が幸せであれば問題なし(笑)。逆に言えば、美人に見えても、男は気をつけよ、と言うことかもしれない。美人と見えるのは、錯覚に過ぎないと。

このように、女性は、見る方向で、確かに印象は異なる。同様なことは流風も経験がある。右側から見るのと、左側から見るのでは、ほとんどの人は、全く印象が異なる。そして前面から見た場合とも異なる。

また、バックシャン(今は、こんな表現しないけれど、後ろ姿美人のこと)は、後ろから見ると、美しい髪をしていて、男としては、いかにも、そそられる風情なのだが、顔自体を見ての判断ではないので、実際見て幻滅ということがよくある。時々、見返り美人というのもあるが、滅多にない(笑)。

さて、その『だまし絵』展については、過去にも、似たような展示会を観ているので、そんなに期待もしていなかったのだが、意外にも面白かった。観客が多くて、その熱気に押されたからかもしれない。

西欧・米国のだまし絵と日本のだまし絵が紹介されていた。どちらも甲乙つけがたいが、西欧・米国は、絵画手法をフルに用いた、だましの意図がはっきりしているものが多く、若干、皮肉を込めている。

基本的に、テクニカル重視だが、人間の持っている常識を、裏側から見たようなものが多い。ただ、西欧文化がわからないと理解できないものも多く、その部分は楽しめない。他の西洋画同様、これらの鑑賞は難しい。

日本のものは、全体と部分、過去・現在・未来が同時に存在するという遊び心とユーモアが多いと感じた。例えば、画面から飛び出しそうな幽霊像の裏には、仏教・儒教・道教が反映されているのだろう。現世の存在の錯覚を指摘しているようにも捉えられる。

霊魂は、そこら辺に漂っていると示しているようにも見える。確かに、怖そうに描かれているのだが、そこには生きる人間に対する優しさが含まれているように見える。だまし絵も、使い方では、意外な効果を生むようだ。

*追記

それにしても、だまし絵は、さらっとという鑑賞は難しい。多くの絵の前で、人々は立ち止まるため、鑑賞には時間を要した。入口で、鑑賞用音声ガイドを有料で貸し出しているので、それを借りて解説を聞きながら、鑑賞した方がいいかもしれない。

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2009年9月 1日 (火)

地震対策できていますか

本日、2稿目。

本日は、「防災の日」ということで、いろんな防災対策について、報道している。しかし、個人の過剰な物品の防災準備は、いざ、災害が起こった時、機能しないものだ。もちろん準備できる人は、準備してもかまわないが。基本的には、命を守ることに重点を置いてほしい。命を失えば、どんな物品の準備も無効になってしまう。

今回は、震災の対策について、再度、記しておこう。

一、寝室には、基本的に家具を置かない。どうしてもという場合は、固定する。

二、また小さな家具といえども、強度の震災では、凶器になりうる。キャスター付き家具は、できるだけ避ける。

三、その他にも、額類、大きな時計類、置物類は飛んできて、怪我をする可能性があるので、注意。

四、また多くの書籍の生き埋めになった例もある。過剰な物品は、事故を起こす可能性があると知るべき。

五、家具の上に物を置かない。

六、固定できない高さの低い家具類は、滑り止めを設置する。あるいは絨毯の上に設置する。

七、震災時、身を隠せる強度のあるテーブルや机を持っておく。

八、窓ガラスに対しては、飛散防止シートを貼るか、防災カーテンを設置しておく。

九、ベランダには、鉢類も含めて、物を置かない。

十、古いブロック塀は転倒する可能性があるので、よく点検しておく。

十一、寝室には、避難用ひも付き運動靴を常備する。

十二、震災時、火の元の心配より、まず自分の身を守る。

十三、出口の確保。でも、すぐに飛びださない。この時点で、火の始末をする。

十四、避難する時の持ち物は、最小限にする(時計、携帯ラジオ、携帯電話、現金、公衆電話用十円玉、通帳、印鑑類等)。

その他にも、あるかもしれないが、自宅にいた場合の対応としては、大体以上のようだ。

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9月1日は防災の日

毎年、9月1日は、「防災の日」だ。この日に決められたのは、関東大震災が、1923年9月1日に起こったからだという。しかし、現代の人間にとっては、遠い昔。90年近く前のことなど、記憶には、残っていないだろう。伝え聞く話では、印象は弱い。まあ、それでも、忘れたころにやってくる震災に対して、防災の心構えを説くことは大切だ。

だが、関西の者にとっては、関東大震災より、むしろ、1995年1月17日に起こった阪神淡路大震災の方が強く記憶に残っている。あの忌まわしい震災は、未だ生々しい。関西で、「防災の日」にするのなら、こちらの日付の方が相応しいと思う。

人々は、身近な災害には敏感に反応するが、遠方の災害には、やや無関心になりがちだ。事実、阪神淡路大震災が起こった時、東京・関東方面の方々の反応は、必ずしもよくなかった。彼らにとっては、関西で少し大きい地震が起こったのだろうと、他人事であった。

やはり身近な災害の方が、強く反応し、記憶に残るのは仕方ない。彼らにとって、やはり、関東大震災の方が、防災の日としては、強いイメージがあるだろう。ということは、防災の日を、地区ごとに決めていいのではと思う。

全国統一である必要もない。防災に対して、意識付けできればいいのだから、全国レベルでの催しにすることのないだろう。いずれにせよ、全国各地域で、被災の記憶に残る日を、防災の意識付けの日として設定し、日頃から、防災の心がけをしたいものです。

*追記

政治の世界も、地殻変動が起こって、ついに政権交代。こちらの「防災」としては、国民それぞれが政治に継続的に強く関心を持ち、無関心にならないことが、そのことにつながるようです。

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