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2009年9月20日 (日)

追慕の詩~李頎『題盧五旧居』

亡くなった人の家に行くと、その人がいるような錯覚に襲われるが、しかし、その人は、もういない。思い出の家には、懐かしい思いを馳せる。流風家には、もう母親はいない。よく泣き、よく笑った顔が思い出される。

漢詩にも、親ではないが、今は亡き知人を懐かしんだものがある。それは李頎(りき)の『題盧五旧居』で、そういう悲しさを詠んでいる。李頎は、現在の四川省の人。役人になったが、嫌になって、神仙の道を志したと云う。

この詩の題名に使われている盧五という人が、どのような人かは不明のようである。詩からは、先輩か友人のように思える。彼にとっては、良くも悪くも懐かしい人であったのであろう。深い悲しみが読み取れる。詩は、次のようなものだ。

  物在れども人亡くして見ゆる期無し

  間庭に馬を繋いで愁しみに勝(た)えず

  窓前の緑竹 空地に生じ

  門外の青山 旧時の如し

  帳望する秋天 墜葉鳴り

  ●(山に賛)●(山に元)たる枯柳 寒鴟宿る

  君を憶えば涙落つ 東流の水

  歳歳花開くも 知んぬ誰が為ぞや

解釈は、次の通りであろうか。

物質の世界は、何も変わらないが、人は寿命があるため亡くなって、二度とまみえることもない。盧五の旧居の庭に馬を繋ぐと、思わず悲しみがこみ上げてくる。人が住まなくなった庭には、空地に緑竹が生え、荒れ放題だ。ただ、門の外を眺めれば、緑の山々は何も変わらない。人が亡くなっても、変わるものもあるし、変わらないものもある。

季節は、天が高く、葉が落ちる音が寂しく、秋が深まりつつある。枯れた柳には、鳶がねぐらにしている。君のことを思い出すと、滂沱の涙が流れる。君がいなくなって、寂しさを覚えるがどうすることもできない。あるのは、私の心に宿る君の記憶だけだ。だが、花は、そういうこととは関係なしに、毎年、花を咲かせる。一体、誰に見せるためなのだろうか。人間の一生とは、儚いものよ。

流風の場合は、知人達は、まだ元気なので、そういう思いはまだない。だが、親への思いは、時々、感じる。知人たちに対しても、いずれ、そういう時を迎えるのであろうか。

 

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