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2009年10月31日 (土)

食の実演販売

百貨店では、あいかわらず物産展が多いが、あまり買いたいものはない。価格も、安くはなく、高いものも多い。最初は、物珍しさから、それなりに人気があったが、今は、どうなのだろう。テレビでは、結構売れていると言っているが、限られた物品だけではないのか。

それに、どうしても人気のある地域の物産展に偏りがちだ。催す側から行くと、成果の上がらない地域の物産展は、開催できないということだろう。でも、そういうやり方が、流風には、あまり面白くない。いつも同じ地区の物産展の広告を見ると、もういい加減にせい、と言いたくなる。

ただ、その中で、興味を惹くのは、実演販売だろう。子供のころから、実演販売を見るのが好きだった、実際は、お小遣いが少ないから買えないのだが、そのにおいを嗅ぐだけでも満足だった。

それは、コロッケの実演販売だったり、煎餅職人が店頭で焼いている姿を見たり、回転焼きや鯛焼きの実演などをよく見たものだ。そのたびに、お腹がグーグー鳴り、よだれが出てきて、それを見た店主のおばさんから、試食させてもらったりもした。

ところで、客前で実演するということは、結構気合いを入れないと、うまく行かない。ある職人さんによると、健康管理が大切という。食べ物商売は、すべてそうだろう。体調が狂えば、舌の感覚が鈍くなるから、味を維持できない。

実演販売で、そのような裏の事情を慮りながら、観察するのは、いいかもしれない。それぞれの地区の一流の職人は、どのような味を追求しているのかを知りたいものだ。百貨店の物産展も、最早、地区に捉われず、いろんな地区の職人の食の実演物産展にしてはいかがだろうか。

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2009年10月30日 (金)

姿は俗性をあらわす

まっちょこさんが、モデルの話として、「見た目やファッションは、相手へのおもてなし」ということを紹介されているが、全く同感だ。流風も、子供の頃、母に、「贅沢なものは身につける必要はないが、常に清潔で、こざっぱりとした身なりをしなさい」と、よく言われたものだ。

更に、「特に、男は、仕事は戦場だから、どこで討ち死にするかもしれない。だから、病院等に搬送されても、恥ずかしくないように、下着だけは、清潔でできるだけ新しいものを身につけなさいと」と言われたことを時々思い出す。

まあ、母の表現は多少大袈裟のように感じられたが、得心できる部分もある。誰もが、家の代表であるだけでなく、個人は個人の代表である意識を持て、と言うことだろう。それが接する相手にも、よい印象を与える。

やはり身だしなみは大切だ。だから、外見は意味を持つ。外見は内面を語る。男の場合は、茶髪、長髪は出入り禁止にしたいぐらいだ。もちろん、だらっとした服装も駄目。ピアスや、たくさんの指輪もおかしいだろう。

きちっとした身なりは大切だ。そして姿勢も大切。姿勢の美しさは、実際以上に見せる。訪問者は、自宅で、どんな格好をされようと自由だが、わが家には、変な格好で来てくれるな、と言いたい。

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2009年10月29日 (木)

公への依存心を排す

実質破綻している日本航空に対して、政府が、日本航空への関与を強め、公的資金を使う意向のようだが、極めて疑問が多い。なぜ整理しないのか。整理することも含めての政府関与なのだろうか。日本航空は、普通の破綻企業同様、倒産させるべきだろう。

そうしないと、一般企業や従業員は、やってられない。経営が厳しくなると、給料やボーナスはカットされ、それは何年も続く。会社が潰れれば、退職金も企業年金なんて、なくなる。政府が関与して、退職者の退職金や企業年金が保護されるのは、納得がいかない。

日本航空も、一般民間企業の破綻と同様、整理して、従業員の退職金、企業年金は、ゼロにすべきだ。国は、規模が大きいから、助けるという発想を、いい加減に捨ててもらいたいものだ。

こういうことをやり続けていると、大企業の公への依存心を増すばかりで、経営者や労働組合を堕落させるだけだ。民間活力は、公への依存心を排するところから始まる。このケースに限らず、国民も、企業にしろ、国に期待しすぎていないか。依存心は、個人にしろ、企業にしろ、活力を削ぐだけだ。

*追記

多額の国の借金の現状、国や地方等のリストラは避けられない。今後、公的サービスは低下させざるを得ない。それは今までの政権の政策・行政の誤りだが、国民一人ひとりが助け合って、生きるしかない。早く高度成長期の意識を捨て、国や地方をあてにしない意識が必要だ。段々甘えは許されなくなる。

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2009年10月28日 (水)

里芋の収穫2009年

家庭菜園で、里芋を収穫した。この里芋、毎年のことだが、春に、買っておいた里芋が、あまり日にちが経っていなかったと思うのだが、ある日見ると、皆、芽を出している。これは大変と思ったが、全部、家庭菜園で、種芋に使うことにした。

全部で7個。毎年、こんなミスをするのだが、今年は、買った一袋全部。昨年は、育て方も悪かったが、収穫時期も誤り、十分な成果がなかった。やはり、ちゃんと面倒見ないと、植物も成長してくれない。これは人間も同じだろう。

今年も心配だったが、とりあえず、一株だけだ掘り起こしてみた。そうすると、どっさり芋がついている。ざっと23個程度で、皆そこそこの大きさ。栽培がうまくいき、結構な芋か取れたということだ。

何が良かったのかは、はっきりわからないが、畝を大きくしたことがよかったのかもしれない。肥料は何もやっていないが、生ごみの堆肥が活きたのかもしれない。もちろん無農薬。そして、本にアドバイスが書いてあったので、土が痩せた分、途中で、土を十分加えるようにした。

しかし、こんなに取れると、毎日、里芋料理になるのかな。ふむ、どうしたものか。料理と言っても、それほど知っているわけでもない。まず、里芋の炊き込みご飯。これは昔から作っている。ネットで見ると、いろんなやり方があるようだが、シンプルなやり方をしている。揚げとスライスした里芋を入れ、出汁と酒と醤油を入れて、炊くだけ。

その他には、大根と人参と揚げと里芋を煮込んだもの。これも割と簡単でおいしい。大根と人参と揚げという基本料理に、里芋を付け加えただけ。だが、里芋の風味が加わり、更に美味しくなる。それから、里芋と白ネギの煮込み。これも、違った味わいになる。ネギの甘さととろみがいい。後は、味噌汁の具に使う。

だけど、これらの料理だけでは消費しきれない。残り6株もあるのだ。どうしようか。出来は、株によって違うだろうけれど、全部で、ざっと100個は堅い(笑)。もし実現すれば、費用対効果は、抜群だ。何と言っても、種芋7個で、100個だもんね。嫌らしく、お金に換算すると、こりゃ凄い(笑)。まあ、獲らぬ狸の皮算用だけれど。

それに、一部、料理をして食したが、確かに掘り立ては、新鮮で美味しい。まあ、もともと、里芋は健康にいいとされる。やはり、新しい料理法を検討して、せいぜい食べることにしよう。

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2009年10月27日 (火)

景気は自ら創りだすもの

電機業界が、エコポイント制度の延長を政府に申し出ているらしい。大変おかしなことだ。民間で本来やるべきことを国に依存するのは、何とも情けない。それに、もともと、この制度自体、歪んだ制度で、恩恵を受ける者が偏る、極めて不真面目な制度だ。これに国が関与すること自体、おかしい。

また、一時的に、売り上げが上がっても、それは売り上げの先食いに過ぎないことも明らかだ。前政府に、業界が、どれだけ政治献金したのか知らないが、国民の税金を不適正にばら撒く制度は、当然、廃止されるべきものだ。民主党政権は、この要求を拒否すべきだろう。

それに、大体、このような仕組みは、やりたかったら業界で話し合ってやればいいことで、何も政府を巻き込む必要はないはずだ。景気は自ら創りだすものであるべきだ。電機業界は、そういうこともできない状態なのだろうか。依存心が増せば、それは衰退を意味する。昔の業界人が生きていれば、きっと嘆くことだろう。

商売を国に依存するなんて、基本的にとんでもないことで、商売の主体性を放棄しているに等しい。それなら公共投資に依存する建設業界と何ら変わらない。電機業界は、いつからこんなに堕落したのだろう。

かつてサラリーマン経営者でも、オーナー経営者ほどではないが、意地を見せたものだ。それが失われているとすれば、今後の電機業界の未来は視界ゼロだろう。新市場を創造し、新取の精神を取り戻してほしいものだ。

*追記

以上のことは、自動車業界も同じ。エコカー減税など、馬鹿げたことだ。時代の必要としている物を、新取の精神で、挑戦していないから、こういう発想になる。今後は、基本的に電気自動車が普及するだろうし、いろんな業界からも新規参入も増える。そうなると、新市場が形成され、業界は再編される可能性が高い。基本的な戦略を練り直さないと、最早、既存の自動車企業も、世界で将来は残れるか怪しいものである。

*追記

小沢鋭仁環境大臣が、エコポイントを残すことに賛成の方向が予算に向けて、にじむが、環境政策を誘導するためのエコポイントというのは、おかしいだろう。民間企業が自主的に、あるべき姿の方向に誘導するのは、ばら撒きだけではないはずだ。それは古いやり方だ。彼は、とかく企業とのつながりが噂されているので、より注意すべきだろう。

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2009年10月26日 (月)

食産業の行方

9月のデータでは、外食産業は連休が多かったため、家族連れの客が多く、実績は、昨年を上回っているようだ。だが、今月も、外食店に、時々行くが、どこも割と客数が少ない感じだ。流風が行くのは、高級店でなくて、一般の庶民的な店だが、どこも閑散としている。大丈夫かな。人々の節約志向はより強まっているのだろうか。

そういうと、物販店では、水筒が売れているらしい。昔の大きなものでなくて、小型の物がたくさん展示してある。確かに、そういうものは、小さい鞄にも入れられるし、重宝だろう。喫茶店も、店によるが、飲食店ほどではないが、客足は落ちているらしい。一部店舗は、割引を始めている。

まあ、外食も喫茶も、無駄と言えば無駄なのだが、余裕を失っているのだろうか。しかし、皆が皆、何もかも節約しているとも思えない。節約しつつ、何かに消費している。いわゆる選択的消費だ。家計の予算の中で、メリハリをつけたいのだろう。その代表的な例が、お惣菜の店で、その勢いは落ちていない。

特に量り売りは、支持されているようだ。確かに予算内で、いろんなものが、選べるということがいいのだろう。消費者に選択を委ねるのは、マーケティングでも、その有効性は指摘されているが、それを地で行っている。もちろん、それでいて、味は確かさが求められる。

そして、従来は、駅地下など、会社帰りなどに求めることが支持されたようだが、最近は、それだけでなくて、自宅の近所の惣菜店が支持されるようになっている。いわゆるコンビニ型惣菜店だ。これがどのように進化していくのか、わからないが、外食店の不振に比べれば、まだまだ開発余地があるようだ。

それでは、外食産業は、どうすればいいかというと、規模の経済を追わないということだろう。昔から、飲食産業は、立地の選択と店を小さくして、運営するのが大切とされてきた。

つまり、人々の嗜好は年々変わるし、それに適宜対応しようとすれば、大きい店では、設備投資も過大になり、融通が利かなくなり、時代に取り残されてしまうことを先人は理解していたのであろう。小回りの利く運営規模にすることは意味がある。外食産業も原点に戻るべきかもしれない。

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2009年10月24日 (土)

歩数計と運動靴

一応、一日一万歩を目指しているのだが、夏ごろから、雲行きが怪しくなり、目標が達成できていない。別に夏バテしたわけではないが、今年の長梅雨というか、雨が多かったため、どうしても交通機関の利用が多く、結局、歩数目標はクリアできなかった。

ここへ来て、しばらく天候も安定しており、歩くことが増えて、歩数も増えているが、少し前、歩数計を失ってしまった。いろいろ探しまわったが見つからず。どこで落としたのだろう。これで三度目だ。前二回は、室内で、相当時間が経ってから、見つかった。買い直したから、歩数計は、貯まるばかり。傘と同じ運命だ。

そして、歩くのも、ただだらだら歩くだけではいけないということで、今回、バージョンアップしたものを購入。歩いた歩数は、以前の歩数計と同様に、表示されるが、それ以外に、運動の実効性のある歩数が表示される。だから、いくら、歩数が増えても、実効性のある歩数が増えないと、あまり意味がないらしい。それが一日、五千歩が望ましいということだが、それは、まだ一週間に一回程度しか達成できていない。

それで、どうしようかなと考えて、今度は運動靴を買い直した。この運動靴は、某タイヤメーカーの出しているものだが、歩いていて非常に軽快だ。何と言っても、歩くのが楽。こんなものがあるのなら、もっと早く買い換えすべきだった。これで、もう少し、実効性のある歩数を伸ばそうと思っている。

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2009年10月23日 (金)

日本の財政改革に対する訓言

日本の財政改革には、省益の排除が必要で、そのようにして、予算を削減しなければならない。鳩山首相が『老子』の言葉で、その考え方を披露されていたが、どの部分を指しておられるのかはわからない(*注)。そのような解釈をしておられる方がいるのだろうか。

むしろ、日本の財政における訓言としては、耶律楚材の言葉(*参考)の方が適切であろう。ただ、日本の財政は、それ以上に財政支出を減らさなければならないほど厳しい。そこに長年、浪費してきた自民党政権の大きなツケがある。

*参考 耶律楚材の言葉

  一利を興すは、一害を除くに如かず。

  一事を生ずるは、一事を省するに如かず。

各省庁の「省」は、そういう意味が含まれていることを官僚たちは忘れてはならないだろう。足し算で数字を積み上げるだけなら、小学生でもできる。彼らに求めているのは、そういうことではなかろう。省いたり、減らすことは、誰かに苦痛を与えるものだ。それを説得して、初めて、仕事をしたということになる。

ということは、国民一人一人も、甘えを捨てなければならないということだ。つまり、例えで言えば、たくさんのグルメ食品を与えられてきたが、それは一部の人々に対してだけかもしれないが、ある日、リストラされて、所得が急減したから、明日から粗食にしろ、と言うようなものなのだ。

人々は、日に日に贅沢になっている。人々にそれを元に戻せと言うのは大変なことだ。だが、そういうことをやるのが政治家であり、官僚だ。それには、十分な説得と理解が得られるような情報公開が大切だ。

*注

強いて、引用された部分として考えられるのは、『老子』第22章あたりだろうか。であれば、老子の言いたい趣旨とは、異なるのだが。まあ、いろんな解釈で流布しているので、多少、混乱が見られる。趣旨としては、一定範囲で、増減する自由自在の予算づくりを、という考えかもしれない。

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2009年10月22日 (木)

大阪市立美術館~『道教の美術』展を鑑賞

先日、大阪市立美術館で催されている『道教の美術』展を鑑賞してきた。この美術館に行くのは久しぶりで、駅から近くなのに、少し迷った(笑)。地下鉄天王寺駅から近くなので、少しだけど。若い時は、よく『日展』を観に行ったものだが、最近は御無沙汰。昔と何も変わっていなかった。

さて、その『道教の美術』展だが、道教には、前々から少し関心があったことは確かだ。老荘思想には憧れるし、このブログでも、プロフィール欄に、刺激を受けた書物として、『老子』を挙げている。孔子の考え方は作為があるとする老子の考え方には共鳴できるからだ。

しかしながら、老荘思想は少しわかっても、道教となると、日本では神道・仏教・儒教ほどには馴染みがない。わかっているようで、わかっていない。さらに道教者からすると、老子は敬っても、荘子は論外だとするからだ。ますますわからなくなる。

ところが、日本が、道教と全く関係がないかというと、『道教の美術』展の案内のパンフレットを読むと、浦島太郎も、閻魔さまも、安倍清明も、七夕の織姫・彦星も、道教にルーツがあるというではないか。

それで、これは一応鑑賞してみる価値はありそうと思ったが、関西では、大阪市立美術館以外での展覧はないとのこと。少し遠くなった大阪だが、仕方ないと思って、わざわざ行ってきた。久々に吸う大阪の空気。昔より、少し澄んでいる感じ。ましになったのかな。

その展覧会だが、当日は、テーマにしては、若い人も多く、女性の観覧者も多かった。若い人も、道教に関心があるのだろうか。これは最近多い仏教美術展とは異なり、意外な感じだ。何が、彼らを引き寄せるのか。

不老長寿を究極の理想とする道教だが、果たしてそれだけだろうか。むしろ現世的な利益をかなえてくれるということに、日本の神社と重ね合わせて、わかりやすいからかもしれない。

道教は、中国で自然発生的に生まれた土着信仰に近いと思うが、人間の望むことは、どこでも、そんなに変わるわけでもない。また儒教は、支配者側の考え方だが、道教は、庶民に受け入れやすい考え方なのだろう。

しかしながら、この展覧会では、お経のような法典の展示も多く、観ても、内容は良く分からないものも多かった。結局、絵や像のようなものを多く鑑賞したが、なかなか、それだけで、道教を理解することは難しいようだった。

もちろん、この展覧会は、美術展であり、道教の教義に関するものではない。だが、庶民は、教義を理解したわけではなく、肖像画や各種絵画、あるいは像を見て、有難いと思い、希望を一心に念じたと思うと、そこに道教の根本が潜んでいるようにも感じられる。

だが、結局、日本人は、表面的な理解に留まり、中国人のように深くは信奉しないだろう。でも、裏を返せば、すでに、日本の文化に、意識せずに溶け込んでいることも確かなようだ。神道・仏教・儒教に、道教の影響は強く入り込んでいる。

日本人は、昔から、意識せずに、道教の影響を受けた仏教や儒教を受け入れ、知らず知らず、その文化に触れ続けていたのだろう。今後は、日本の日常の道教を少し、意識してみますか。

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2009年10月21日 (水)

異国の丘 その二

異国の丘には、前回紹介した歌謡曲になったものの他に、詩吟にした次のようなものもある。作者は源八岳氏で、本名は木村岳風。

 題名「異国の丘」

  誰が唄うか 遥かに聞こゆ 異国の丘

  哀調 綿綿 望郷の情

  北風に身を削る同胞の歌

  烏拉(ウラル)山辺 日没の天

  耐え忍んで 斃(たお)るるなかれ 異国の丘に

  故郷の 肉親 君を待つ事久しと

  友を励まし 又も唄う 異国の丘

  歌声は 天に通じて 鬼神をも 泣かしむ

解釈は不要だろう。この詩吟の方が、切迫感に富むが、現在では、あまり知られていない。帰国できず、満州に取り残され、極寒の地、シベリアで、強制労働させられた人々の呻きが聞こえる。

ずっと前、若い時に、京都に観光に行った時、歩いていると、たまたまシベリアから帰還された人々の家族の催しがあり、ふと立ち寄った記憶がある。確か、国から何も支援が出ないということで、多くの理解者を得ようとするものだったと思う。

流風は、何もできなかったが、棄てた民に対しては、国は、これほど厳しいのかと実感した。その裏には、いろいろ事情がありそうだが、戦争が、人々の生活を引き裂いたのは事実で、その他にも、色々ある。

*追記

戦後、外地から日本に全ての人が帰還できたわけでもない。いろんな事情から帰れなかった人々もたくさんいる。そして、帰ってきた人々は、世間から冷たい視線を受けている。

シベリアからの帰国者も、そのようであった。極寒の地で、食糧もろくろく与えられず、多くの人がいると、そこでは人間の本性が出る。大きく分ければ、自分の考え方を曲げない人、要領よく転向する人だ。

ソ連から、思想転向を言われても、変えなかった人々は、厳しい環境に置かれ続けたし、結局、彼の地で命を失っている人も多い。他方、要領よく、ソ連の洗脳に乗り、転向して、生き切った人々もいる。必ずしも、洗脳されたわけでもなく、洗脳されたフリをしていただけかもしれない。

流風は、どちらが良いなどと、言える立場でもない。だが、彼らは帰国後、一律に、ソ連に洗脳されたスパイと見做されたと聞く。現実、共産党に入党している人もいる。帰国後も、常に監視されていたとも言うし、仲間同士の相互監視もあったという。

自分の人生を狂わされてしまったことを恨んだ人も多いことだろう。理不尽な世の中とは言え、為政者のミスリードは、国民を苦しめることになる。そうならないためには、何をしなければならないのか。国民一人一人も、考えなければならない課題だ。

(この項、一応、これで終わり)

 

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2009年10月20日 (火)

異国の丘 その一

  異国の丘           増田幸治作詞

  一 

     今日も暮れゆく 異国の丘に

     友よ辛かろ 切なかろ

     我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ

     帰る日も来る 春が来る

  二

     今日も更けゆく 異国の丘に

     夢も寒かろ 冷たかろ

     泣いて笑うて 歌って耐えりゃ

     望む日が来る 朝が来る

  三

     今日も昨日も 異国の丘に

     おもい雪空 陽が薄い

     倒れちゃならない 祖国の土に

     辿りつくまで その時まで

若い人は、先に示した「異国の丘」という歌をほとんど知らいないであろう。子供の頃、両親が歌謡曲の「異国の丘」をよく感慨深く聞いていた。父は、別にシベリアに抑留されたわけではないが、戦友のことを思い出したのだろうか。天皇や政治家がボンクラだと、皆が迷惑すると、嫌そうに語っていた(*注)。ただ、この世代の常として、それ以上には、戦争のことを語りたがらなかった。

その代わりに、母がシベリアで抑留された人々のことをよく教えてくれた。あの極寒の地は、ナポレオンでも、制覇できなかったし、ヒットラーも同様の道を歩んだ。ソ連にとって、どんな軍事力より強い防衛線であることは確かなようだ。そんな地に抑留されたら、生きて帰ることは難しいと。

この歌は、戦争に負け、棄民政策により、ロシア軍に極寒の地シベリアに抑留され、極限における望郷の念が示されている。戦争に負けると、いかに悲惨か。棄民された人々は、シベリアに抑留され、ソ連軍は、日露戦争に負けた腹いせを、彼らに向けた。スターリンの指示であったという。

ちょうど、テレビでは、『不毛地帯』という、その極限に立ち会った人々を題材にしたドラマが放送されている。壱岐正を主人公としている。モデルは、瀬島龍三だ。軍の参謀だった彼は、日米開戦のシナリオを描いたとされる。ただ彼だけでなく、時代の後押しもあったののは確かだ。彼は、文書を作成したにすぎないだろう。

ドラマでは、彼が、シベリア抑留後、帰国し、その後の人生模様を描いている。もちろん、ノンフィクションではないため、事実と異なる部分も多く見られるが、おおよその流れは正しいだろう。ただ彼の側の限られた方角から見た、戦争に対する一つの知見という限界はある(原作は山崎豊子)。それでも、それも参考しながら、シベリアの極限に生きた人々の気持ちを、若い人々は、歌詞から読み取ることは無意味ではないだろう。

*注

流風が察するに、父の言いたいことは、ほとんどの知識人は、米国に戦争には勝てないと判断していたのに、当時の天皇や政府は、軍の暴走を止めることはできなかった。それは明治憲法における統治のあり方が不明確であったことによる。以前のブログにも示したが、「曖昧さ」が、大きな禍を生んだ。

*参考 

ドラマ『不毛地帯』を一応、視聴してみたが、最近の民放のドラマでは、出色の域だろう。時代の雰囲気も出している。出演者も豪華だ。民放でも、テーマを選び、そこそこお金をかければ、いいものを作れるということだろう。今後にも、期待したい。

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2009年10月19日 (月)

良寛の『半夜』を詠む

なかなか大きくならない梅の手入れをしていて、ふと、ある詩をうろ覚えだったが、思い出して、本を繰ってみた。そうすると、良寛の詩にあったのは、梅ではなくて、黄梅雨だった。旧暦五月の梅雨のことを指すらしい。折角だから、季節外れではあるが、取りあげておく。題は、『半夜』で、次のようなものである。

  首(こうべ)を回(めぐ)らせば 五十有余年

  人間の是非は一夢の中

  山房五月黄梅の雨

  半夜蕭蕭虚窓に灑(そそ)ぐ

誰も、晩年を迎えると、このような感慨に浸るのだろう。あの秀吉も、辞世の句で、同じようなことを言っている。この世は、所詮、夢の夢なのだろうか。確かに、流風も、そろそろ、そういうことを感じないわけでもない。

何かの縁で、この世の中に、ぽとりと産み落とされ、彷徨ってきたのだろうか。結局は、そうなのだろう。山奥の、あばら家に雨が注げば、余計にそう感じるかもしれない。自分の一生は何だったのかと。

そういうと、流風の実家も、築うん十年で、あちこちにガタが来ている。でも、感慨より、むしろ雨漏りの方が心配だ(笑)。無常観に浸るのもいいが、もう少し、この世の中を楽しんでみるとしましょう。

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2009年10月18日 (日)

粕汁の季節

やはり涼しくなると、あらゆる料理が美味しくなる。特に温かくなる料理は、今後ますます増えるのだろう。毎年、夏痩せするが、これから、また体重が増えそうな予感。まあ、女性のようには、あまり心配しないけれど。年間を通じた体重パターンがあり、体型は若い頃から、変わらないから、安上がりの身体なのだ。

さて、料理の方は、これからは、おでん、鍋物などが簡単でうまい。男でも、気軽に作れる。もちろん、少し手を入れるだけで、それはグルメ(笑)。関西でも、ミシュランなんて騒いでいるが、流風には関係なし。自分の舌が、絶対だ(笑)。

それに星は自らつけるもの。会社の役職と同じで、それは狭い役割。それを評価する人は、食べに行けばいいし、そうでない人間は、無視すればいい。自分の行きつけが、星三つだ。格付けなんて、いい加減なものだ。そういうと、企業の格付けもね。

話は、例によって、それてしまったが、今回は、粕汁を作ってみた。秋に作るのは今年初めてだ。大根、人参、揚げ、ネギ、鮭をたし汁に入れて、酒、みりん、酒粕、塩を加えて煮るだけだ。今回は、平天が余っていてので、刻んで入れてみた。隠し味は、白味噌少々。

それにしても、この粕汁は、具の内容によっても味が変わるが、酒粕の種類によっても、随分味わいが違う。いつもは里芋を少し入れてみるのだが、まだ家庭菜園の収穫ができていないので、今回はなし。だが、大変良い味になった。

酒粕は、今回、「灘本場生板粕 六甲山」を使用。毎年、時々使うが、上品な味だ。好き好きだけれどね。だから、特に推奨はしないよ(笑)。拙ブログ読んている人には意味わかるよね。そして、今日は、おでんにするか。

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2009年10月17日 (土)

ゴミ問題は巡る

環境問題について、関心を強く持たざるを得ない時代だが、ゴミはどうしても発生する。流風は、生ごみは堆肥にしているので、ゴミとしては、ほとんど発生しないが、その他に、粗大ゴミとか、プラスチックゴミは、他の一般家庭同様発生する。

特に、プラスチックゴミの多さには辟易とする。あらゆる食材の包装には、プラスチックが利用されており、開封ごとに、ゴミが発生する。子供時代は、このような包装はなく、ほとんどが新聞か、薄紙であった。

野菜にしろ、魚にしろ、そうであった。豆腐は近所まで売りに来るので、鍋を持って行って、入れてもらうので、包装は要らない。肉は、薄い竹皮に巻いて、包装しにくるんでくれた。それは今でも同じだが、今は、さらにビニールの包装をする。そして、ビニールの手下げに入れてくれる。

こういうことを見ていくと、私達も、提供者も意識を変えなければならないのでは、と思う。包装の常識を覆す必要がありそうだ。ある飲食店では、食べ残しを持ち帰ることができるシステムを作ったそうだが、それも一つの方法だろう。

だが、そこでは、持ち帰るために、新たに包装することになる。飲食店での生ゴミは減るが、新たに包装ゴミが発生する。これらを解決する方法があるのだろうか。結局、消費者が容器を持ち歩くことしか方法がないのだろうか。

かつて牛乳は、瓶入りで家庭まで配達される仕組みで、空き瓶は回収された。でも、配達のためのエネルギーコストはかかっている。自転車であれば、ガソリンを使わないが、車やバイクを使えば、それは必要になる。ただ、消費者が店に買いに行くとしても、車で買いに行けば、ガソリンを使う。

そして、現在は、牛乳の購入は紙パックのものが多いだろう。リサイクルに出すとしても、瓶のような再利用はできない。もちろんリユースするにしても、洗うためのエネルギーコストが発生する。となると、どちらがいいのか。

となると、やはり消費者が容器を持ち込んで、商品を分けてもらう仕組みがよさそうだが、果たして、どうだろう。

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2009年10月16日 (金)

まずは財源確保から

民主党政権になって、まだ日が浅いが、マニュフェストの実行に向けて努力していることは評価できる。だが、財源が十分確保されていないのに、政策の実行をするのは、困難であろう。国民は、これ以上の国債の発行を望んでいないし、そのツケを将来世代に負担させるのも酷なことである(*注)。

となると、旧政権の予算の見直しが必要で、その洗い直しをしているようだが、その一つ一つを見ていくと、必要に感じるだろう。民主党議員は概して真面目だから、そこに落とし穴がある。新しい政権になったのだから、旧政権の政策の実行は、無視していいぐらいの度量が必要だ。

ただ予算編成に、時間はあまり取れないので、来年度予算は、とりあえず、全ての官庁に、今年度対比(補正予算含まず。本予算だけで)3割カットを指示すればいい。官僚は優秀だから、それぐらいの辻褄合わせはあっという間にこなすだろう。

それにマニュフェストの実行は、すぐできるとは、国民は思っていない。時間がかかることを承知している。もちろん、早く実行できたら、それに越したことはないが、「こども手当」を除けば、財源が確保できるまで、先延ばしでいいのではないか。

よって、平成23年度の予算から、段階的に実行できるようにすればいい。拙速にマニュフェストの実行を焦って、国債の追加発行は避けてもらいたいものだ。

もちろん、税収の落ち込みに対する手は打つ必要がある。新経済対策を具体化させて、発表することは大切だし、様々な減税を埋めるため、様々な工夫は必要だろう。

特に環境税は避けられない。国民にじっくり説明して同意を得るよう努力すべきだ。環境税は、直接、税収を増やす手段にはなりえないが、新産業創造には役立つはずだ。国家・国民をあるべき方向に誘導するためにも必要だろう。

また、その他にも、各種控除、補助金は、既得権益になっており、大いに見直すべきであろう。また中小企業対策では、中小企業は、申請に手間のかかる補助金は、案外望んでおらず、そのあり方を見直すべきだろう。その他の新税の創設も必要だろう。特に動いている産業に課税することは必要である。是非はあろうが、ネット取引にも検討が求められる。

*注

今期の予算では、すでに発行している44兆円の国債があるが、税収が見込みを割り込み、追加国債の発行の可能性に言及している。確かに、この分は前政権の見込み違いであろう。過大な予算に加えて、選挙対策に本来必要のない大型補正予算を組んだことが災いしている。

麻生前政権は、国を危機に陥れる結果になっている。確かに、鳩山政権には、過去の政策に責任はないが、国債の発行はせずにすむように努力してほしい。例えば、議員はもちろん、公務員は、ボーナスゼロでいいのではないか。

更に、来期の予算は、税収見込では、税収が不足するのは確実と見られている。今までの予算の慣行を破って、歳出の大幅な削減をしない限り、国債発行せざるを得ないという。

ところが、大臣の中には、危機感のない人がいる(農水大臣、文部科学大臣、防衛大臣、総務大臣など)。残念ながら、彼らは査定大臣の役割を十分に果たしていない。まるで自民党の大臣と五十歩百歩だ。もちろん、就任して日が浅いので、止むをえない部分もあるが、いつまでも役割を果たさないのなら、将来、交代も必要になってくるだろう。

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2009年10月15日 (木)

お勧めとは

時々、お勧めの本とは何ですか、と聞かれるが、返答に困る。流風は、書評で、本を買わない。書店で、実物を確認して、気にいったものだけを買い求める。本を読む動機は、何らかのきっかけだが、それに対応する書籍を探すことになる。

だが、他人に、それを求めたところで、成功するとは限らない。雑誌にも、夏、冬に、著名人が推薦図書を挙げているが、ほとんど参考にならない。確かに学生時代とか、社会人になりたての頃は、参考にした時期もあるが、それ以後は皆無だろう。

必要とする図書は、各人異なって当り前だ。人に薦められて読むというのは、主体性がなさすぎる。また最近のベストセラーも読まないことは以前にも記した。立ち読みしてみて、たまたま購入したものがベストセラーだったものを除いて、そのようにしている。

それは映画もそうだ。映画も、最近は、ネットで、事前に、上映される映画のホームページから、内容を確認して、観ることが可能になった。だから、映画評で、いくら評判がいいからといって、観に行くことはない。あくまで、自分の感性に合うものを選択する。

学生時代を除けば、その必要とするものは異なる。確かに専門書のようなものは、ある程度、評価が定まったものがあるかもしれないが、一般書では、そういうことはないだろう。他人の評価に惑わされず、自分の目で、確認したいものだ。

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2009年10月14日 (水)

神戸の魅力とは

兵庫県下にも、いろんな観光地があるが、神戸ほど面白い地域はないと思う。海と山に囲まれたところであるし、結構狭いのだが、観光にはうってつけだ。一日で、海も山も体験できる観光地は、そんなにはない。

それにいろんな催しはあるし、飽きさせない。観光のために、積み重ねてきたことが財産になっている。地域の開発のために、人の開発を続けて来たのだろう。だから、ふらっと散歩しても楽しめるところが多い。だから、お金はそんなに要さず、遊べる(笑)。

実は、一年ほど前に、実質、長年住んだ神戸を離れたのだが、今も、折を見ては、神戸に行っている。そうすると、懐かしい思いがこみ上げてくる。そんなに遠い所に引っ越したわけではないのだが。

どこに、惹きつけられるものがあるのか、はっきりとわからないのだが、百貨店の接客一つ見ても、他の地区とは違う。にこやかに、そつなく受け答え。ただ単に人員の接客訓練だけではない。

ああ、そうなのだ。人が違うのだ。神戸にいる人達が、何も神戸出身の人ばかりではないだろうが、そのような雰囲気になってしまう。やはり神戸はやはり都会なのだろう。ある意味、没個性なのかもしれない。

まあ、それは見せかけだけかもしれない。神戸人は、オープンに見えて、結構閉鎖的だから、本当のところは見せていない。だから、表面的付き合いは楽だ。適当に、話は合わせるしね。それがいいかどうかは別にして。

それでも、いずれにせよ、流風にとって、神戸は気持ちを楽にさせてくれる場所には違いない。今後も、気晴らしに、神戸によく出かけることだろう。あなたとも、街のどこかで出会うかもしれない(笑)。

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2009年10月12日 (月)

いつまで続ける超低金利政策

2009年9月現在、日本銀行の政策金利は、0.1%だ。現在の日本はバブル崩壊時ではない。しかし、なんだかんだと理由(特に為替問題や国債問題)をつけて、超低金利政策を日本銀行は続けている。これは、借り手への援助政策の続行だ。

日本銀行からの借り手の金融機関や、そこから借りている民間企業は、いつまで国民に甘えているのだろう。そして、日本銀行官僚による、惰性の政策の継続と見ていいだろう。しっかりしろと言いたい。

しかしながら、このことが日本の不景気に拍車をかけているのが、日本銀行は理解していないのだろうか。いつまで、金融機関や民間企業を支援するのだろう。支援が続く限り、銀行は弱体化する。支援したつもりが、金融機関には、逆に負担になっている。

というのは、現在、金融機関は、顧客に売るものがない。そこで債券だ、投資信託だとなる。しかし、これらの運用は難しいものだ。彼らが主として運用していないものが多いが、外部の運用機関に機関投資家として、運用を委ねても、結局はうまくいかない。

更に、それらの商品は、資金が海外に流れることが多いから、その内のいくらかが日本に還流しても、結局、日本国内の資金循環はうまくいかない。とどのつまり、超低金利が、日本の経済悪化から抜け出せない要因の一つだ。

もちろん、国内は少子高齢化に伴い、市場規模が縮小しているとも考えられるが、それでも1400兆円の金融資産があるわけだから、それが国内で有効に使われていないことを問題視すべきだろう。もしも、金利が高ければ、その利子が国内で動けば、相当の経済活性につながる。

以上のことを勘案すると、国内景気を刺激するため、新たな経済政策を示すことも必要だが、それと同時に、政策金利も引き上げることが望まれる。そういうアナウンス効果は絶大で、そうなるのなら、早く資金手当てをしておこうということになる。それは企業でも個人でも変わらない。

となると、やはり、企業としても、新しい方策による活性化が求められてくる。利益を上げるためには、付加価値を高めなければならない。国内の中小企業にしても、新産業にしても、ビジネスチャンスをめぐって動き出すだろう。

金融機関は、彼らに欠けているものをアドバイスし、時には人材を送り込んで、ビジネスの質を高めていくことが求められる。そうすることが、国内経済の活性化を生む。それが金融の本来の役割であろう。

ビジネスが活性化するのは、金利が上がる時なのは明らか。人間は、少しでも、金利負担をカバーしようと努力するところに、活路が見出せる。それは徳川家康の遺訓にも示されている。

今こそ、超低金利に甘える体質を改善すべく、産業に新しい課題を与えるためにも、その政策を脱するべきだろう。金利と人間の心理を十分勘案し、超低金利を脱してもらいたいものだ。

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2009年10月11日 (日)

嘘の報告~狂言『清水』

小さな嘘も、時間が経つにつれて、ばれてしまうことが多い。嘘の上塗りなどすれば、ますます辻褄が合わなくなってくる。世の中、よくできたもので、矛盾は、いつか露呈する。例えば、新人営業が、上司から得意先の新規開発して来いと言われて、活動するが、なかなか成果が上がらない。まあ、そんなに簡単に成果が上がる方がおかしい。

ところが、ある新人は、親戚にねじ込んで、成果を上げたとする。しかし、それは長続きはしない。一時的には、よい顔ができたとしても、本当の営業をやっているわけではないから、その後は、さっぱりと言う例が多い。

まだ、この新人営業の場合は、実数として成果になっているから、まだいいが、ベテラン営業が上司の厳しい追及逃れに、得意先に無理やりねじ込んで、架空の成果報告を上げるようになれば、もう終わりだ。まあ、上司も、部下に合理的な根拠のある数字の成果を求めさせないといけないけれど。

やはり営業は、ターゲットを絞って、地道にやるしかない。営業は派手なようで、極めて地味な仕事だ。人間関係の積み重ねには時間がかかる。成果は、それからだ。もちろん、人間関係ができていても、無理な押し込み販売は、いつか災難を抱えることになる。営業管理職は、各営業の数値から、それらを各種“信号”を察知して、誤りないように指導しなければならない。

さて、狂言にも、嘘を言ってばれる話がある。それは『清水(しみず)』だ。一応、名曲と言われるもので、主従の関係を皮肉った作品だ。そのあらすじを見ながら、感想を述べよう。

そこに出てくる主人は、どうも人使いが荒いようだ。計画性もなく、思いつきで事を進めたりして、部下への配慮も足らない。今でも、そういう社長がいますよね。他社の動きに幻惑されて、うろたえる。そして、とんでもない指示をする。あなたの会社には、いませんか。

ある日、流行りの茶の湯の会を明日催すから、茶の湯に使う、名水と言われる野中の清水を汲んで来いと太郎冠者に命ずる。こういう急な命令は、部下にとって、大いに迷惑。部下の事情にはお構いなし。

ところで、この野中の清水は、印南野にあったと言われる。現在の兵庫県の明石から西、加古川から東、北は美嚢川、南は海に囲まれた地域らしい。でも、大体この地区は、水が得られにくかったから、多分海岸線にあった名水と考えられる。現在でも、日本酒の醸造が確か、されているはずだ。

これら主従がどこに住んでいたかは明確ではないが、舞台は、多分、京都だから遠かったという設定だろう。太郎冠者は、こんな命令をいつも受けていたら、堪らんと思い、嘘を思いつく。

どういう交通手段をとるのか、わからないが、太郎冠者にとっては大変なこと。嘘をつきたくなる気持ちもよくわかる。どうせ、気まぐれな主人だから、気が変わるかもしれない。気が変わってくれたら、超ラッキー(笑)。

そこで、それは清水に恐ろしい鬼が出たということにする。この頃、印南野には、鬼が出るといって有名だったらしい。一体、鬼とは何だったのだろうか。ここでは、そのことについてはパス。以前にも、少し触れたが、いずれまた記してみたい。

それにしても、太郎冠者は、一応、清水まで行ったのだろうか。どこかで油を売って、行ったことにしたのだろうか。いずれにせよ、そういうことで、主人が大事にしていて、持って行った手桶は、恐ろしくて忘れてきましたと告げる。

ところが、これが逆効果。主人は、手桶が惜しいから、血相を変えて取りに行くと言う。こういう時は、鬼さえも、恐ろしくないんだ。大事なものは、恐ろしさを超える(笑)。一体、どんな桶だったのだろうか。塗りものの高級品かな。まあ、誰でも、自分の大事にしているものには、そういう風になるという作者の皮肉かな。

止むなく、太郎冠者は先回りして、鬼になり済まして、主人を脅かす。そして、ひれ伏す主人に、太郎冠者にとって、有難い都合のよいことばかり、命じる。まあ、人使いの荒い主人に、意趣返し。そういうことをやってみたい従業員は、今でもいるだろう。

不審に思いながら帰った主人は、もしやと思いながら、太郎冠者を試すと、鬼と同じ言葉を発し、その声が鬼の声と同じだった。更に疑念を抱いた主人は、もう一度清水に行こうと言い、太郎冠者は先回りするが、見破られてしまう。これは、ある意味、最初から、見破られることを覚悟して、太郎冠者が振るまっていると思われる。

嘘はいけないが、すぐ見破られる嘘で、コミュニケーションを図るのは、少し許されるのかな。上司に、すぐ直言するのもいいが、受け入れられないことも多い。こういうやり方も、一つの方法と言えなくもない。でも、そう度々は許されない。

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2009年10月10日 (土)

中小企業の金融

現在、貸し渋りと貸し剥がしが話題になっているが、これは5~6年前にも話題になり、金融庁に、ホットラインが敷かれた。この中で、貸し渋りも、運転資金を充てにしているところは貸し渋りされると、確かに困るが、最悪なのは、何と言っても、貸し剥がしであろう。

これは融資の約束を、貸し手が一方的に破り、融資資金を引き揚げるものだ。確かに、貸し手側からすると、借り手の経営状況が悪化して、将来資金の回収が危ないと判断し、資金を引き揚げるのは、一種の防衛本能だろう。

だが、かつて貸し手の事情で、資金を引き揚げたのが、バブル崩壊後の金融機関であった。それで多くの中小企業は破綻した。あれはひどかった。金融機関も、差し迫った事情があったのだろうが、人間のすることではない。

ただ、今般の事情は、あの時とは異なる。基本的に、中小企業の経営問題だ。もちろん金融に対するBIS規制問題が複雑に絡んでいることは確かだ。メガバンクは、手間のかかる中小企業への融資は、最早、敬遠気味だろう。

それに大手金融機関に、企業を立て直す能力のある人材は、リストラ後、不足している。結果的に機械的に、融資作業をしているところも少なくない。それは規模が大きくなればなるほど、そのようだ。それが、貸し渋り・貸し剥がしにつながる。

まだ中小の金融機関は、中小企業とも共に考える姿勢がある。だから、中小企業も、大手金融機関による安い金利で融資という甘い誘惑に負けず、将来どれくらい面倒見てくれるかも勘案して、融資してくれる金融機関を選択すべきだろう。そして、自己資本比率を高め、過剰な従来の他人資本依存の経営を改めるべきだろう。

*追記

こうなると、将来問題になるのは、やはり雇用問題である。国内で、いかに新しい産業を興していくか。それに尽きるようである。

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2009年10月 9日 (金)

萩の花から思い出す

萩の花は、咲くのが遅く、やきもきしたが、割と長い間咲いている。ただ切り花にすると、長持ちしなかったので、植えたまま鑑賞している。この萩の花言葉は、柔軟な精神らしい。流風も、見習わねば。今更、遅過ぎるか。

そういうと、その枝ぶりは、柳に似ているとも言えなくもない。柳に雪折れなし、と言うから、それと似た花言葉がついたのかもしれない。時期外れだが、五月雨のように咲いているのを見ると、狂言『萩大名』を思い出す。学生時代、習った記憶があるが、うろ覚えなので再確認してみた。

あらすじを確認すると、訴訟のために、在京している田舎大名が、気晴らしに遊山に出かける。太郎冠者の案内で、良い庭を見学することになったが、亭主は、和歌を所望するという。そんな心得のない大名は、太郎冠者に何か良い歌はないかと聞くと、たまたま太郎冠者が覚えていた和歌を教える。それが次のもの。

  七重八重、 九重とこそ 思いしに

          十重咲きいずる 萩の花かな

でも、萩の花をじっくり見ると、七重八重の感じはしない。桜でも、山吹でもない萩の表現としては少し変。確かにたくさんの房が垂れているので、そのように表現したのだろうか。

それはさておき、この大名は、この和歌をきちんと覚えられず、頓珍漢な物言いで、赤っ恥をかいてしまう。太郎冠者は、いつのまにか、どこかに姿を隠してしまう。上司のそういう姿見たくないし、とばっちりが来ても困る。部下というのは、いつの時代も、上司に振り回されるもののようだ(笑)。

でも、こういうことはよくあるんですよね。言われた言葉をすぐ記憶できる人もいるにはいるが、年齢とともに記憶力もあやふやになる。確かに記憶術というのは、あるが、それは若い時から訓練していなければ、歳を経てからではなかなかだ。やはりメモ、メモ。メモを見ながら言っても、いいじゃないですか。昔から、宮廷でも、カンニングペーパーはあったのだから。

それはそれとして、おはぎが食べたくなった。牡丹を見ながら、牡丹餅もいいけれど、萩には、やはり、おはぎだよね。甘党としては。ちなみに、牡丹餅より、おはぎの方が好きだ。それは粒あんだから。プレゼントしてくれるのなら、そちらを頼む(笑)。

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2009年10月 8日 (木)

相手に望む年収の幻想

若い女性も、年頃になれば、今も結婚を望むのは変わらないようだ。30歳近くになれば、それなりに周囲は、家庭を築く人も多いだろうから、少し焦り気味の女性もいるかもししれない。

逆は、私は私と、我を張る人もいるかもしれない(笑)。前にも、記したように、現代の女性は、そこそこ稼ぐし、実家では、経済的に比較的ゆっくりと育ってきた人も多いかもしれない。それがそのようにさせるのだろう。

そういう女性が結婚を望むのには禍ということも指摘されている。結婚して生活水準を落とすのが嫌という女性が多い。そんなことを言う人は、本当に人を愛したことがないからだろう。自己愛が強すぎて、他人を愛せない。

だから、相手に望む年収として、500~600万円(あるいは、それ以上)なければ駄目だと言う。しかしながら、男の一生は不安定なのもので、現在の年収で、相手を選ぶのは、極めて危険なことだ。いつまでも、その年収が保証されているわけでもなく、さらに年収が増え続けるかどうかも、わからない。

むしろ、旦那が倒れたら、自ら稼ぎだすことも求められる。人生、何が起こるかわからない。であれば、相手の可能性を信じて、飛びこむ勇気も必要だ。女性は、男次第と言われるが、男も、女性で大きく変わる。

あなたは、下衆な言い方をすれば、「アゲマンか、サゲマン」かが問われている。それは、あちらのことを指しているが、それだけでなく、パートナーへの接し方で、男が変わることを忘れてはならない。相手に望む年収は幻想だと知って欲しいものだ。

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2009年10月 6日 (火)

これからの日本の環境問題に対する住宅政策

民主党政権が、今後、どのような経済対策をするかわからない。基本的には、国内の資金循環がよくなるような政策を打つべきだろう(*注)。

そのためには、内需拡大にするにしても、いくつかの手を打つ必要がある。国や地方は、リストラと共に、費用対効果で、民需が盛り上がる政策が求められる。一応、巷間、いろいろ噂されている政策の可能性を順次、思いついたまま、整理してみよう。まず、今回は、日本の環境問題に関する住宅政策に関して触れてみよう。

①日本のビジネス戦略としては、脱化石エネルギー及び自然エネルギーの普及に努めることは、誰も否定しないであろう。日本は省エネルギーは得意としてきたが、それは化石エネルギーを前提としたものだ。

もちろん、化石エネルギーは、すぐに無くなることないので、省エネルギー技術は世界市場でも重要な意味を持つ。これは現状における二酸化炭素排出量を減じる。机上の排出権取引より、重要性は高い。

しかしながら、国内に関しては、化石エネルギーから脱することが望まれる。もちろん、将来においても、化石エネルギーの利用が完全に無くなることはあり得ない。だが、国民生活においては、脱化石エネルギーに徹する政策が、これまで以上に求められる。

②それは太陽光発電が、やはり主流になるのだろう。ということは、住宅政策の転換が望まれる。つまり、あまり太陽光発電が期待できないマンションには、環境税を課し(高層マンションほど高い税率にする)、太陽光発電を設置したある一定規模以上の条件を満たした戸建には、さらに優遇措置を取ることだろう。

③昭和56年以前の住宅は、1589万戸(住宅の種類不明。戸建が多いと思われる)あり、耐震基準を満たしていないものも多い。そして、耐震診断がおざなりにされている場合も多い。耐震補強するのか、建て替えするのかの判断を早急にさせる必要がある。政策的には、支援する制度が、すでにあるのだが、浸透していない感じがする。政策の更なる練り直しが求められる。

また、そうした住宅に、建て替え促進を促す折に、太陽光発電を導入すれば、優遇措置や補助金が得られる措置を講ずるのも適切だろう。

④そして環境に絡めるなら、新築・建て替えで、一定規模の庭があり、家庭菜園を持つ住宅にも、支援が必要かもしれない。どこか忘れたが、そういう地域開発したところはすでにあるようである。そういうことを後押しして、徐々に全国展開することも大切だ。

⑤そして、現実、少し地方に行くと、不動産は、割安な物件が多いわけで、国全体としても、人口分散政策の一環で、地方の民間住宅ストックを質量ともに充実させることも大切だ。東京など首都圏に人口が集中するのは、公共交通にとっては、効率的であっても、年々災害リスクは高まるばかりだ。分散させれば、その被害は小さくできることは、震災で実証済みだ。

⑥また、住宅政策とは直接関係はないが、指定樹種を7メートル以上の高さの物を、庭に数本以上、植樹した場合の支援も必要かもしれない。それは、それをメンテナンスする仕事が発生し、森林管理の人材を育成し、増やすことを可能にするからだ。彼らは防災と環境面で重要な役割を果たす。つまり、住宅地に、そのような高木を植えることは、森林保全の仕事をする人たちの所得を補助的に潤すことになる。

⑦それからリフォームによる住宅価値向上のため、リフォームも含めた中古住宅評価基準を明確にすべきだろう。これからは新築より、中古の流通が大切だ。そのためには、固定資産税の元となる路線価基準以外に、住宅の中身の実質的価値評価が大切だ。それには、リフォーム業者の格付けも重要で、設計図の管理・住宅の履歴管理とか考えると、建築設計事務所の役割が大切になってくる。彼らの意識転換も重要だ。

一応、ざっと見ただけだが。住宅における環境問題は、まさに人口の集中から分散へということだろう。一見、非効率に見えるが、環境にとっては、望ましいだろうし、人が散らばって住むことにより、環境面に良い影響を与え、国の保全価値を高める。新しい住宅政策に期待したいものだ。

*注

国内の資金循環をよくするためには、金融政策が大切だが、日銀と政策のすり合わせも必要だ。現在の超低金利政策による、国内資金の海外への流出が、国内経済を困難にしている要因の一つだから。

その点、現在の日銀トップは、学者みたいで、危機感が足りないのも事実だ。かつて民主党は、天下りを心配して、人選を誤った。日本銀行のようなところは、天下りはあまり気にせず、その有能さで選ばれるべきだろう。

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2009年10月 5日 (月)

菊と酒~王之渙の『九日送別』

9月9日は重陽の節句。今年は、もう終わった話題と思われるだろうが、旧暦では、今年は10月26日が、その節句。でも、日本では、あまり話題にされないし、特に催しもされない。せいぜい菊花展くらいだろうか。

しかしながら、その菊花展も、ただ菊の美しさを愛でるだけで終わることも多い。本来は、長寿を願って、この時期に咲く菊の花を飾り、菊の花を酒に浮かべて飲む。でも、このような風流な催しがなされないのは、少し残念な気がする。

さて、漢詩にも、重陽の節句を題材にしたものがある。その一つに、王之渙の『九日送別』がある。「九日」とは、九月九日のこと。これは、この日に旅立つ人を送りだす詩だ。ただ、誰を送ったものかはわからない。また中国語で「故人」とは、「旧友」のことらしい。

  薊庭蕭瑟として 故人稀なり

  何れの処か 高きに登りて しばらく帰るを送らん

  今日暫く同にす 芳菊の酒

  明朝は応に断蓬と作って飛ぶべし

解釈としては、「薊州の町の役所には、君が行ってしまうと、もう友と言える人は誰もいない。酒宴のため、どこかの丘や山に登って、いつか君が帰ってくるのを期待しながら、送るとしよう。

今日の重用の節句の、しばしの間、菊を浮かべた酒を酌み交わそう。明日の朝には、蓬が球形となって風の吹くまま、彷徨うように、私は、どこかに行ってしまいたい気分になるだろう」、ぐらいかな。

この詩に出てくる菊酒は、まだ試したことがないが、一度やってみようかな。中華街に行くと、中国茶の店では、時々「菊茶」が売られている。健康にいいらしい。一度、購入して、飲んでみたが、少し癖のある味だ。それ以来、買っていない。さて、酒の方はどうかな。

流風の庭には、小菊がたくさん咲きそうなので、今年は、その頃に試してみますかな。お酒は、どこのものにしようか。また菊は、確かに除菌効果はありそうだし、除虫菊があるように、虫よけの効果もある。娘さんを持つ父親は、せいぜい菊の花を持たせるべきですな(笑)。また脱線。

それにしても、友を送る時は、多少大袈裟に惜しむのがいいのだろう。別に古い友人が去ったところで、また新しい友人はできるだろうが、そこは惜しむ心を示すのが、情というもの。そして、やはり送別の詩は、春ではなくて、秋の方が相応しいのだろうか。日本では、移動が3月に多いので、当然、春になるのだが。

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2009年10月 4日 (日)

言葉の軽さの弊害?

最近、言葉がやたらと軽く濫用されている。それも言葉の進化と捉えれば、仕方ないのかもしれない。だが、流風が歳がいったからもしれないが、気になることも多い。

例えば、かなりまえから、マスコミでは、「セレブ」という言葉が使われている。もともとの「セレブリティ」を略して、言っているようだが、どうもおかしい。英語表記は、celebrityだ。英和辞書には、「高名、令名、名声」、あるいは、「名声の高い人、名士」と訳されている。英英辞典では、後者の意味合いが強い。

となると、とてもセレブとは思われない人々まで、そのように呼ぶのはいかがだろう。大体、お金持ちだったら、皆、「セレブ」なのか。日本でも、そもそも金持ちにも二種類あり、一つは、代々続く資産家、もう一つは成り上がり。「セレブリティ」は、どちらを指しているのだろうか。

日本では、どうも一緒くたになって解釈されているような感じだ。まあ、もうすでに和製英語になっているのかもしれない。元の意味など、もうどうでもいい感じだ。ちょっと羨ましい存在を指しているのだろうか。裏には、すこし小馬鹿にしているような雰囲気もある。一種の言葉遊びかもしれない。

また、温泉旅館の「美人女将」というのも、気になる。どうみても、美人とは言えない、厚かましそうで、がめつそうで、いけすかない女将に対しても、そのように呼ぶのは、明らかにおかしい(笑)。まあ、「美人」という意味が、曖昧なのも事実だ。時代によっても、その評価基準は異なる。しかし、それらを斟酌しても、言葉遊びにしても、行き過ぎだ。

まあまあ、それでも、美人でない美人女将を、美人と持ち上げておれば、その接客は、多少いいかもしれない。ヨイショはどこの世界でも有効だ。毎日見る顔でもない訳だから、刹那的に美人と言うことにしておこう。褒め殺しという言葉もあるけれど。

それに、男性タレントに「男前」というが、どんな基準で男前と言っているのだろう。若い女性が、キーキャー、キーキャー騒ぐのは、大きな錯覚。作られた偶像さ。まあ、流風が言うと、羨ましがっているように聞こえるかもしれないので、これ以上の言及は避けよう。

これも美人同様、男前基準が曖昧なのだろう。確かに時代によって、その基準は変わるのだろうが、変な男前が多すぎる。あの程度なら、一般人にも、たくさんいるだろう。整形している男のタレントを男前と呼ぶより、ましかもしれないが。

ただ、男前なんかと言われて喜んでいてはいけない。半分、馬鹿にされているようなもの。お前は、それしか取り柄がないとね。男は顔じゃないよ、心だよ、なんて言うつもりはないが、ある程度当たっているだろう。それが男女の明らかに違うところだ。男に対して、男前と言われて悦に入っているようじゃ、そのレベルはしれたことということ。

あれ、また変な方向に脱線。言葉の軽さの弊害は、むしろ流風か(笑)。それにしても、言葉の意味変化の流行は恐ろしい。ほどほどに使わないとね。でも、時々、使っている自分がいる。脳が汚染されたか(苦笑)。

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2009年10月 2日 (金)

為替への介入は、基本的に、すべきではない

藤井財務大臣が、幾日か続いた円高を指して、「急激な為替変動だから、為替介入もありうる」とのニュアンスの修正発言をされたらしい。彼は、少し前に、為替への介入しないと言って、海外から非難轟々だった。それを気にしての発言だろう。

海外の投資家(*注)は、日本が円高になれば、どうも困るらしい。彼らには、内々の情報が取れないと怒るらしい。インサイダー天国の海外投資家の言いそうなことだ。それに、1円や2円の円高変動で、どこが「急激」というのだろうか。

馬鹿も休み休み言ってもらいたものだ。大騒ぎする人々の顔が見たいものだ。どうせ、お金の亡者の言うことだ。財務大臣も適当に聞き流せばいい。介入など、ほとんど必要ないだろう。大体、前にも記したように、現状、円安過ぎるのだ。

国民生活の観点からも、円高は望ましい。それが民主党政権の目指す方向ではないのか。輸出企業が騒いだとしても、放置できるレベルだ。1ドル=80円くらいまでは、十分容認できる。輸出企業に、そういう算段ができていないとしたら、経営の甘さと言って間違いない。

今後は、円高で、株価が上がっていく。ドルの低下は免れようがなく、内需経済に転換しなければならないのは明らか。円高を悪のように言う人々は、少しおかしい。円高になれば、雇用が減ると言うが、それは輸出企業に限った話。非常に偏った判断だ。円高をビジネスチャンスにできるか否かは、経営者の手腕次第だ。

だとすれば、政府が、このことに関して、あれこれ言うことは必要ないと思う。ノーコメントで通せばいい。海外の投資家が、下心十分に、思惑で、あれこれ言っても、あまり気にしないことだ。

*注

「海外の投資家」としたが、その大半は国内から海外に投資している投資家である。

*追記

政府関係者が為替の変動介入について、意見を述べるのは、短期間に10円以上変化した場合で、現状は、1ドル=80円を突破上昇し、かつ急激である場合だろう。そして、その場合でも、介入には慎重に対処してもらいたいものだ。それらは、必ず、揺り戻しがあるから、市場を十分観察してから、発言せねばならない。いずせれにせよ、当局の責任者は、マスコミが騒いでも、冷静に対処すべきだ。

*追記

輸出企業の円高対策は、基本的なものはある。

 一、円建て輸出比率を高めることだ。

    そうするには、日本の製品が優れていることが必要だ。

 二、海外調達比率を高めることだ。

    商品設計時に、そのことを織り込んだ設計をすることが求められる。

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2009年10月 1日 (木)

こがれ死に、ということ

   ゆく蛍 雲のうえまで いぬべくは

        秋風ふくと 雁に告げこせ

                (在原業平、後撰集)

暑さがぶり返したかに見えたが、朝晩は、日を追うごとに秋らしくなっている。なかなか咲かなかった萩も、やっと咲いた。秋風は、まだ強く感じてはいないが。

最初に示した歌は、ある男に恋い焦がれた良家の女性が、こがれ死にしたことを、その母親に聞いて、男は駆けつけたが、もう既に、その女性は、この世のものではない。季節は旧暦6月の末で、まだ暑い季節に詠ったもので、日の入り後、少し涼しくなった状況を指しており、現実に強い秋風は吹いてはいない。

夜風にあたり、蛍が舞いあがるのを見ながら、情を交わすことができなかった無念を感じながら、男は、この歌を詠んだのであろう。結構、男は、こういう後悔をするものだ。だから、女性も、気持ちの意思表示を明確にした方がいいかもしれない(笑)。男は、概して鈍感だから、態度で示さないと、男には通じないものである。

さて、今でも、男女ともに、いろんな異性に、憧れたりするだろうが、こがれ死にする人は、さすがにいないかもしれない。大体、憧れるというのは、遠くから見て、その実体を知らないから(笑)。まあ、本当のことを知れば、憧れることもない。

ただ現代は、あまりにも、あけすけに相手が見えてしまうことが、異性の魅力を減じているとも言える。自分を全て見せることは、却って、逆効果なのだ。だから、大体は知っているけれど、わからない部分もあるというのが、望ましい。もちろん、悪意があれば問題だが。

でも、憧れる異性があるというのは、最早、羨ましい限りだ。あの若い時分には、もう戻れない。

*出典 『伊勢物語』

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