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2009年11月30日 (月)

公務員の甘い懲戒規定

本当に、公務員の懲戒規定は甘い。民間では、懲戒解雇されると、履歴書に記載されるので、新たな仕事はなかなか見つからない。すなわち、一旦、懲戒解雇されると、再就職は難しい。そのため、企業の方で配慮して、温情で懲戒解雇は極力避けてきたところもある。

しかし、公務員は、国民の税金で飯を食っているのだから、もっと厳しくあるべきだ。民間では、明らかに懲戒解雇されるべきものが、停職程度で済まされていることも散見される。大変甘いのだ。信賞必罰をもっと厳しくしないと、国民から信頼されないだろう。大した仕事をしていなくても、信賞はあっても、ルール違反に対する必罰ができていない。

そして、懲戒解雇された人間が、官の仕事に再雇用されるのは、もっとおかしい。それを厚生労働省が行おうとしている。いろんな法律の縛りがあると言うが、それは改めなくてはならない。それに労働組合からの圧力もあるという。労働組合も、きちんと是非を明らかにして、民間常識から外れないようにしてもらいたいものだ。

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2009年11月29日 (日)

落し物の記憶

傘などの忘れ物は、若い頃よくやったが、最近は、注意しているので、あまりない。落し物となると、ほとんど記憶がない。強いて落し物の記憶と言えば、震災後、間もなくして、財布を落としたことが一度ある。

警察に届け出ると、届いていた。入っていたものは、千円札2枚と小銭という小額のお金とスーパーのポイントカードだったと思う。当時から、ビンボーだったのだ(苦笑)。警察官から、いろいろ確認の質問があり、届者に、お礼を言うように言われて、戻ってきた。

金額は、少なかったので、謝礼は必要ないとのことだったが、電話でお礼を言うのも失礼かなと思ったので、お茶菓子を持って、訪ねた。そこは仮設住宅で、少し年配の人だった。その方は恐縮していたが、当時の厳しい状況であっても、財布が届けられていたことに少し嬉しかったことを記憶している。

財布は、ぼろぼろ直前だったが、少し思い入れのあったもの。戻ってなくても仕方なかったが、戻ってくると、やはり嬉しい。今は、使っていないが、記念に取ってある。まだ使えないこともないので。でも、ずっと使わないだろうな。

さて、新聞報道によると、スケッチブックの落し物が届けられ、新聞記事になったことから、落とし主が判明して、無事、本人に戻ったとのこと。スケッチブックのようなものであっても、ちゃんと保管されていたのはよかった。

75歳の女性が、スケッチに行って、帰る途中、車から落とされたようだ。まだ白紙のページがあり、今後もイラストを描かれるようだ。流風だったら、下手な絵しか描けないだろうから、恥ずかしくて、申し出ないだろうな(笑)。

でも、お金と違って、見落としがちだが、落とした人にとっては、スケッチという行動プロセスの結果は大事なものかもしれない。そういうことを察して、落し物を届けた人の優しさがいい。日本も、まだ捨てたものではない。

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2009年11月28日 (土)

マンションババ抜きの時代

マンション専業大手の穴吹工務店が経営破綻した。専業であっただけに、リスク分散が出来なかったことが、破綻を早めたようだが、この企業に限らず、マンション開発企業は、経営に苦しんでいる。今後も、続いて破綻、整理は起こる可能性も高い。もうすでに、内々で整理した企業もある。

都市部のマンションは、わからないが、地方のマンションは、終焉を迎えつつある。住宅ストックが十分あり、余っている現在、新規のマンション開発はあり得ないだろう。新築マンションに、最早、価値を見出していないと言える。それにマンションは、環境の時代にも、対応できないことは明らかだ。

都市部のマンションも、新築は億ションを除けば、価格面から敬遠されている。再生、リフォームによる中古マンションの見直しも進んでおり、今後の動向が注目される。新築で無理なローンを組むより、賃貸の先払い感覚で、転売を諦め、“捨てマンション”という意識である。

このような発想をするのは、本来、男が多いのだが、女性も、それを容認しつつある。経済的な予算の制限ということもあるだろうが、リフォームでも、外観は、少なくとも、新築と変わらない。マンション全体の設備の更新リスクは負うが、そのことを考慮に入れれば、ペイすると判断しているのかもしれない。

仕事のための一時期だけに住むのであれば、賃貸同様、それで十分と判断する人が増えるだろう。基本的に、それは立地の良さの割に割安であることで判断される。ただ、相対的に古い余剰マンションは、設備更新コストもかかるし、いずれ廃墟になる。それを除去するには、コストがかかる。

マンションババ抜きの時代が始まったと言えるだろう。もちろん、中古マンションの価格動向は、わからないが、それなりに調べて見極め、期限を切って住む“捨てマンション”と割り切り、設備更新コストを負担してペイするなら、現在、お買い得物件があることは間違いない。

だが、最終的に、所有者が権利を放棄すれば、いずれ廃墟になる。その処理コストは誰が負担するのか、それが問題だ。

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2009年11月27日 (金)

ほうれん草の季節

冬場のほうれん草は、美味しい。湯がいて、鰹節やゴマをかけて食することが多い。子供の頃は、母から鉄分が多いので、ポパイのように強くなれると、無理やり食べさせられた。しかし、当時は、あまり好きではなかった。それはトマトや人参の比ではない。

やはり、ほうれん草は大人の味だ。最近は、よく食するようになった。湯がいて食べる他に、湯がいたものをオリーブ油やゴマ油等で炒めている。炒め方で、相当風味が違ってくる。子供の頃は、ほとんど湯がいたものばかりだったから、好きになれなかったのかもしれない。

湯がいたものは、一度では食べきれないので、冷蔵したり、冷凍している。冷凍したものは、解凍したのは、あまり美味しくないが、炒めると問題ない。まあ、今の時期は、冷凍しなくてもいいので、毎日、より美味しく頂ける。しばらくは、ほうれん草が食卓をにぎわすことになる。

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2009年11月26日 (木)

家庭菜園は、いつから始めるか

家庭菜園や庭いじりをやっていると言うと、まるで隠居した人間のように言われる。確かに、流風は、親の介護のために、若隠居した口?(実際は、体調を壊したこともあったこともある。現在は、ほぼ回復。隠居しているかどうかは、周囲の判断。仕事していても、隠居仕事に見えるかもしれない)だが、家庭菜園や庭いじりは、何も隠居してから始めなくてもいいと思う。

流風が、家庭菜園に目覚めたのは、つい最近で、親の介護から解放されてからだ。若い時、父に、家庭菜園とか庭いじりをやらないかと、誘われたが、そんな爺むさいことはやりたくないと断った。今は、そういうことに抵抗なくなっているから、流風も老けたということだろうか。

親の介護が続いたため、比較的若く隠居状態になったのも影響したのかもしれない。親は、ずっと庭いじりや家庭菜園を楽しみとしていたから、彼らができなくなると、そのお鉢が回ってきた。だから、最初は、やりたくてやったのではない。止む無く手伝ったのだ。

当初は苦痛だった。あまり好きでないことを、水遣りから始めて、雑草抜き、枝切り、虫とり、肥料散布の繰り返しだ。汗かきの流風にとって、特に夏は大変だった。腰の具合も悪くなるし、身体のあちらこちらが痛くなる。大体、義務的行動は苦痛が伴う。それでも、親の希望だから、精一杯やったつもりだ。

しかし、親が亡くなって、いろいろやってみると、これは比較的楽しめることがわかった。辛かったのは、きっと親の介護をしながら、嫌々やっていたから、楽しくなかったのであろう。本来、気分転換になるはずが、そうはならなかった。

男にとって、親の介護の負担は、やはり心理的に、大きかったのかもしれない。でも、それは子供の勤めだろう。ヘルパーさん等に助けてもらうとしても、親は子供が近くにいることが、最終的な幸せであろう。でも、介護は、正直、しんどかった。もういい。

それから解放されて、単に家庭菜園や庭いじりをやってみると、多くの失敗はあるが、いろいろ教えられる。料理と同様、日常のストレス発散にもなる。適当に陽に当たって、健康にもいい。親も、あの世で、やっとわかったか、と言っているような気がする。となると、現役時代にも、やればよかったと思う今日この頃だ。

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2009年11月25日 (水)

自衛隊の広報のあり方

陸上自衛隊の広報センターが事業仕分けで、問題になっていた。予算の削減に、マスコミは否定的に論じていたが、的外れだろう。いい加減なコメンテイターには、本当にあきれる。武装機器の展示や体験に、どれほどの意味があるだろう。

そんなことより自衛隊の広報は、全国でもっと具体的にされるべきだろう。すでに自衛隊体験入隊の仕組みもあるわけだから、これに力を入れればいい。それを通じて、一歩一歩広報していく方が確実と思われる。

体験入隊は、正式には「隊内生活体験」と称されるようだが、新卒の社会人直前の体験入隊を義務付ければ、新卒の訓練にもなるし、自衛隊のアピールにもつながる。企業の評価も高い。自前で新人教育研修できない中小企業にとっては、有効だ。実際、体験した新卒が、きびきびと働き、人材教育に役立っている。

入隊期間は3日程度で、受講者は3日で3000円程度の費用だが、これは安すぎる感じだ。その効果からすると、1万円程度でも、企業からは需要があるだろう。もちろん、季節的に受け入れの限度があるだろうが、それは企業も柔軟に調整して受けさせればいい。

日頃、私達は自衛隊と接することは少ない。しかし、こういう体験をすれば、自衛隊が身近なものになるだろう。少なくとも、広報センターで、武器の展示を見せるよりは効果があるはずだし、各地域の自衛隊と地域住民の交流も深くなり、理解も深まるはずだ。

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2009年11月24日 (火)

スパコンは本当に必要か

事業仕分けが、話題になっているが、仕分け通りに、予算はカットされるべきだろう。もちろん、各カット分については、いろいろ言い分があろうが、歳入が40兆円程度、国債残高が900兆円もある以上、取りあえず、緊急性のないものはカットせざるを得ない。

例えば、スパコンは必要だとする新聞の社説もあったが、最早スパコンの時代ではない。宇宙開発、コンピューター支援による諸産業の開発に役立っているというが、十分活用できているとは思えない。コンピューター開発がすべてと錯覚している科学者に不安を覚える(*注)。

最早、限界点に近く、スパコンは時代遅れの遺物だという人もいる。スパコンのためのスパコン開発になっていないか。スパコン最新鋭のものを求めるとキリがない。お金が無尽蔵にあるわけでもない。費用対効果も曖昧だ。

科学というものは、そういうものだとしても、将来を展望して、費用対効果を見極めることは必要だ。スパコンに限らず、科学者の言う通りにしていたら、お金は限りなく必要になる。だから、一旦、財政が落ち着くまで、スパコンの開発やロケットの開発は、スピードを落とせばいい。それに世間知らずの科学者の言う事が、すべて正しいわけでもない。

*注

ノーベル賞受賞学者は、スパコンは、日本が一番にならないといけないと言う。そうしないと、他国に隷属しなければならなくなるとのことだ。この発想は帝国主義的発想だ。日本が武装国家を目指すのなら、それは首肯できるが、現在の国の方向性とは異なる。

スパコンは、ある意味、武器なのは確かだ。ある国が、それによって他国を支配しようとすることは考えられる。ただ、その支配は、脆いものだ。この学者に欠けているのは、人類愛という哲学だろう。エリートにありがちな発想だ。発言には、一種、驕りのようなものが感じられる。

*追記

医薬品の開発にしても、スパコンを使うという話もあるが、木を見て森を見ず、の開発になっている可能性も高い。人間には、免疫力がある。すなわち、ウイルスとワクチンを内蔵している。結局は、どんな薬も、ウイルスを持ったワクチンの開発になり、堂々巡りとなる。開発には、人間哲学が重視されるべきなのだ。あまり微細な研究は、人類に貢献するとは限らない。むしろ、物事を混乱させるだけである。

*追記

もう一つの科学の側面は、科学の希求が原爆や水爆、生物兵器を開発した。それは科学者の本来の意図ではなかったかもしれないが、今、地球上に存在する。スパコンも、同じ意味を持つ。ノーベル賞は、科学が戦争に使われた反省から生まれたものであることを科学者は再認識すべきだろう。

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2009年11月23日 (月)

みかんの季節

子供の頃、水筒のお茶がなくなると、近所の家に行って、お茶を補給してもらった。また知らない家でも、気軽に、お茶を入れてもらったものだ。当時は、火鉢でやかんが置いてあり、常時お湯の準備が出来ていた。それでお茶を入れてくれるのだ。

その時、お婆さんのいる家では、お菓子やみかんを勧められた。家では、あまり食べないみかんも、ここでは頂いた。お菓子や饅頭を頂いて、夕方、流風の食事の進み具合が悪い時は、母に、どこで何を頂いたのか、訊かれ、後日、母が、その家に伺って、お礼をしていたようだ。もらったら、何かを返すというのが常識だが、母は返すのが早すぎて、やや顰蹙をかっていたようにも思う。

さて、そのみかんだが、今が季節である。この時期、どこの売り場にも、たくさん積まれている。若い頃は、あまり好きではなかったが、最近はよく食べる。別にビタミンCを補うという意識ではなく、自然と口に入る。りんごのように包丁で剥かなくてもいいのも、楽だ。

どちらかというと、あまり大きくない小粒のみかんが好きだ。大きいみかんは、時期にもよるが、種ありのことも多く、食べにくいし、小さい方が、美味しさが詰まっているような感じもする。それに安い時もある(笑)。そういうと、父も、小さいものを好んだ。流風も、その影響があるのかも。

産地は、みかんというと、紀伊国屋文左衛門が有名なように、和歌山の有田みかんがすぐ浮かぶ。どの店にも置いてある。ただ甘さは若干弱いように感じる。また俗称、「女みかん」と言われる。どういう理由で、そうなったのか知らないが、皮が柔らかいからだと言う人もいる。

有田みかんも、もちろん買うが、熊本産、広島産、四国産も、よく買う。最近は広島産をよく買うかもしれない。これらは、どれも甘さが強い。但し、四国産は、地域によって違う。熊本産は「男みかん」とも言われる。皮が固いからだ。その他の産地は、その中間ぐらい。

これらを饅頭代わりに食べる。医師から、饅頭の代わりに果物を食べなさいと、勧められているからだ。本日も、鯛焼きを食べたかったが、ぐっとこらえて、みかんにした(笑)。それにみかんの方が安い。

饅頭は、1個100円くらいするから、10個買えば1000円。みかんは10個でも、300円から400円くらい。それでいて、健康にいいとなれば、これは最高。でも、いくら健康に良くても、食べ過ぎは、それはそれでよくないのだろう。ほどほどに思いながら、また、みかんの皮を剥いている。

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2009年11月22日 (日)

この不況感は、どこから来るか

政府がデフレ宣言したようだが、日本銀行は否定的だ。流風は、デフレではないと思うが、全般的には、景気は確かに良くないと思う。原因は、いろいろ考えられるが、構造的なものと産業人の意識転換が進まないことが招いていると思う。

一、まず物の充足による需要の低迷

日本は、戦後の崩壊した社会からすれば、急速に物は充足している。住宅のストックは十分にあり、家の中に置く家財道具も、揃っている。欲求の段階法則によると、供給側が、新しい欲求を満たすように動いていないことが、需要低迷に拍車をかけている。

例えば、問題があるとすれば、人口とストックのアンバランスだ。都市への人口の集中が、不況感を促進している。地方には、住宅は余っているし、家賃も安い。だが、人はいない。都市では逆のことが起こっている。この調整がつかない限り、不況感はなくならない。地方に住みたいという欲求を増やすとすれば、何が必要か考える必要がある。

二、流通業者が、売上競争の結果、安い物を提供する結果、デフレ感が増している。

大手スーパー等は、売上のため、安くしないと売れないという幻想に覆われている。そのためプライベートブランドの商品を開発するが、価格を安くするため、量をこなす必要がある。しかし、消費者にすれば、消費の量は変わらないので、追加の消費はしない。そこで、更に売るために、安売りに走り、結局は売上も、利益も落ち込んでいる。

またユニクロや100円ショップにしても、海外の安い労働力のところで作らせた商品を輸入するため、国内企業は売れなくなり、更にデフレ感は増す(彼らは、自分さえ、よければいいという発想だ)。消耗品の場合は、海外で安い物をつくって輸入するのは、ある程度、仕方ないが、その他のものは、国内での付加価値戦略を誤れば、それは国を乱す結果になる。

三、産業の製造志向が強すぎること

サービス化社会と言われて久しいが、産業の方は、製造業中心の発想から抜けきれない。それは戦後の製造業の成功体験が忘れられないからだ。もちろん、国にとって製造業は大切だが、サービス化社会を誤解している人もいる。サービスは、形のないものゆえに、脆いものだと。だが、この考え方は改めなければ、製造業の更なる発展はない。

これからの発想は、製造業にしても、まずサービスありきなのだ。日本のメーカーは、知らず知らず、そのような発想をしてきたが、最近は、柔軟性が欠ける感じだ。仮にテレビを製造販売しているメーカーがあるとして、テレビという物の販売の意識では、物は売れない。消費者は、テレビで放送されるコンテンツを消費するためにテレビを買う。

だから、放送内容が充実されない限り、テレビは価値を落としていく。また、いくらチャンネルが増やされても、コンテンツが無意味なら意味がない。よって、省電力とかで環境に優れているとしても、それはサブの購買要因にすぎない。

確かに、アナログからデジタルへの転換により、テレビ業界はビジネスチャンスは増えたが、これは一時的なものである。メーカーの意識転換が進まない限り、テレビ業界に未来はない。これは他の業界も同じことである。

サービスで始まり、サービスで終わるビジネスシステムを作らない限り、悪魔のサイクルは断ち切ることはできない。物は、サービスのための手段であると認識すべきだ。そうすれば、新しいビジネスモデルを築けるだろう。

四、事務員が不要の電脳社会と旧体制の教育システム

パソコンの普及により、一般事務員の需要は減った。これは相当前から予測できたことだが、教育体制がついていけていない。未だに高校、大学では、事務員を育成する教育が中心だ。これが、産業とのずれを生み、高卒、大卒の内定率が低いことにつながっている。彼らが就職しないことは、社会の停滞を生み、不況感を煽っている。

あきらかに産業側、社会側が求める人材を教育側は提供していない。高校の普通教育は形骸化しているし、受験テクニックによる入試による選別は、社会を停滞させている。これからの高校、大学は専門化する必要がある。少子化の中で、いかに多様な人材を効率的に育成し、社会に配分していくか。

多様な社会に対応しうる教育体制の再編が求められる。まず高校の専門高校の比率を上げる必要がある。多様な社会に対応しうる各種専門高校の設立と、その上級クラスへの大学(あるいは、大学院)の転換が求められる。

五、男女雇用均等法による労働者の増加

男女雇用均等法による労働者の増加に対して、仕事の量が確保されていない。結局、企業の賃金総量は限られていて、使える人員も限られているとなれば、雇用を増やすには、賃金を安くする方法を考えるしかない。追加に人員を雇用すれば、平均賃金を下げるしかない。それは結果的に、安い賃金で共働きを強いることになる。これは国としても、所得税が上がらないことになっている。

学校教育の多様化を進めるとともに、新しいビジネスも増やさなければならない。それはビジネスの細分化というものもあれば、多様化という意味もある。少なくとも、単純化されたビジネス体系とは異なる、多様な独立系のビジネスを多く増やす必要がある。また消費者も、多様な価値を楽しむ文化に誘導することも大切だ。

六、政府の借金の多さが不況感を招いている。

人々は、国の借金に、多かれ少なかれ、知らず知らず怯えている。それは将来、増税になるという予感だ。借金は、インフレによる処理もあるが、それはあまり予測されていない。インフレになると期待すれば、株価は、低迷しない。

逆に、年金に頼らざるを得ない高齢者は、インフレを警戒して消費に慎重になっている。社会保障面での安心感が実態以上に不足している。財政再建は、景気をアップさせ、社会も安定させる。将来への展望と政府の説明責任が十分であれば、そのための、一時的な苦痛は辛抱できるだろう。

七、日本銀行による超低金利の継続が招く不況。

バブル崩壊後、金融機関の救済のために、当局はゼロ金利を実行したが、いつまでも超低金利を継続する理由は見当たらない。大体、政策金利が1%を割っているのは異常だ。これは米国の金融バブルを招いた原因ともされる。

それにいつまでも超低金利では、金融機関は、知恵を出さない。安い金利に依存した経営は、経営の堕落を生む。そのため、国内の資金循環は、よくない。それは国も同様で、安い金利なら、借りておけとばかり、国債を発行する。

これらが不景気感を醸成している。確かに海外との関係で、為替の急激な変動を避けるため、一挙に金利を上げることは無理としても、徐々に上げるべきだろう。その時、株価は一時的に下げるだろうが、慌てることはない(*注)。

八、BIS規制が、余計に経済を悪化させている面もある。

中小企業救済に対する金融法案なんて、大して意味はない。もっと根源的なことにメスを入れるのが金融庁の役割だ。BIS規制は、バブルに対する規制であっても、不景気やデフレには敵である。国際官僚は、自分の領域を守ろうとして、いたずらに規制をかけるが、時代が変われば、その役割も終わる。環境変化に対応できない彼らの罪は大きい。日本の金融庁も、それを認識して、彼らを説得しなければならない。

それにしても、官僚というのは、どこの国、あらゆる世界組織も変わらないということだろう。彼らは時代の変化を読むことができない困った人たちだ。そして、彼らが力を持っていることも。

上記のように見ていくと、為政者はデフレと思いたくなるかもしれない。国民新党は、やれ財政投資が足りないとか騒いでいるが、そんなもので解決できる問題でもない。程度の低さを感じる。

もっと恐れなくてはならないのは、日本銀行による低金利による流動性の過剰供給だ。デフレと見せかけて、いつインフレに転換しかねない状況であることを押さえておかねばならない。デフレというのは、目くらましだと思っていた方がいい。だから、デフレと、大騒ぎするのは止した方がいいというのが結論だ。早く上記の処方箋を考え、実施することが求められる。

*注

基本は、金利を上げるには、インフレ感がないと難しい。すなわち、円安に振れないと金利を上げる状況にはならない。それゆえ米ドルの金利の行方が気になる。ただ、現在は異常金利であり、その原則は必ずしもあてはまらない。

*平成21年12月1日追記

白川日銀総裁が、現状の日本経済を、「緩やかなデフレ」と認識したと発言。デフレの定義は難しいが、この判断でよいかどうか疑う。デフレの要素を抱えているのは事実だが、デフレと言い切れるかどうか。言葉のイメージは先行する。あまり望ましくない発言だ。

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2009年11月21日 (土)

私案・省庁分割再編

かつて、縦割りを防ぐとして、各省庁の統合がされたが、うまく機能していない。かえって、目的がぼやけて、国民生活から遠ざかり、公のサービスが十分機能していない。そのことを踏まえると、各省の分割・再編が望まれる。

基本的に、国民サービスに対して、きめ細かく、スピードある対応をしようとすれば、決済権のあるトップによるダウンサイジングされた組織が望まれる。それがサービス社会の基本だろう。

縦割りの問題は、マトリックス組織にして、諸問題処理の重複を避けるシステムが望まれる。また特別問題・緊急問題に対しては、各組織から人員を出してプロジェクトチームが編成できるようにしておけばいい。

またプロジェクトチームは、各部門の仕事に優先するとする。これらの運営方法は、先進の民間企業に倣えばいい。議論はいろいろあるだろうが、私的に、分割・再編案を考えてみた(マトリックス組織が確立されるなら、分野別にもっと細かく分けてもいい)。

<分割案>

一、厚生労働省→厚生分野と労働分野に再分割

   更に、厚生省→社会保険分野を分割

二、文部科学省→文部分野と科学分野に分割

三、経済産業省→産業分野のみ残す。

   経済企画分野は、リストラし、政府に移管。

四、国土交通省→国土分野と交通分野に分割

   更に国土省は土木分野と建設分野に分割

         土木分野は名称を変える。国土保全省に。

         建設分野は、建設管理庁に。

五、防衛省は、国土保全分野は、分離し、軍事防衛に集中する。

六、農林水産省より林野庁を分離。農林中央金庫の分離。産業分野も分離。

<再統合案>

各省より分離独立した各庁は、政府直轄に。

一、文部分野と労働分野を合併して、文部労働省の設立

二、産業分野と科学分野を合併して、産業科学省の設立。農林分野における産業政策も吸収。

三、厚生省は、国民衛生省に

四、社会保険庁(2010年より、日本年金機構)は、財務省管轄に。

五、総合交通省の設立

六、自衛隊の一部を移管して、国土省土木分野と合併して国土保全省の設立

七、建設管理庁を設置して、政府の直轄に。

八、林野庁は、環境省管轄に。

九、農林中央金庫は、金融庁管轄に。

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2009年11月20日 (金)

年金による生活設計

イタリアでは、年金が破綻し、年金型宝くじが流行っているそうだ。あちらの国の人々も、年金不安になると、このような行動をとらざるを得ないのだろう。それでは、日本はどうか。日本でも、年金不安がいろいろ噂されるが、本当は、そんなに心配いらないと言う人もいる。

もちろん企業年金については、日本航空のように企業が傾けば、予定された年金が受け取れない事態は、今後も発生するだろう。退職金を取るのを後回しにした人々は、判断ミスしたことになる。退職金の代わりに割増しの年金がもらえると判断したことが裏目になるのだ。

そのように未来を予測することは難しい。ということは、もらえるものは今、受け取っていた方がいいのかもしれない。老後の生活設計を誤らないためにも、そういう判断は求められる。それはケースパスケースではあるけれども。

だが、自分で運用するとしても、運用を間違えば、損失が出るわけだから、それは自業自得ということになる。結局、他者に運用を任せるのも、自分で運用するのも、大変なことだ。時代を読むのも必要なのかもしれない。

ところが、現在、国民年金にさえも、掛けていない人々は、将来、無年金になって、老後は苦しい生活を強いられるのは確実だ。一体、そういう人たちは、どういうことになるのだろう。生活保護で救済するにしても、今後、生活保護適用は厳しくなるだろう。若い時に、定職に就かず、我儘を通せば、あまり楽な人生を送れない。

若い人々は、仕事を辛抱できず、短気を起こして、人生を台無しにするようなことのないように、社会に貢献している仕事なら、選びすぎないことを望みたい。そして、仕事を通じて、確実に、どこでも通用する力をつけて欲しい。

また若い時は、年金など、あまり気にしないものだが、高齢になると、収入はあまり期待できないわけだから、年金の意味を早くから把握してほしい。国には、年金が崩壊しないようにしてもらいたいが、個人としても、生活設計を確かなものにしたいものだ。

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2009年11月19日 (木)

世の中の不思議

遠くて近くは、男女の仲と言うが、最初に言ったのは、清少納言と云われる。『枕草子』の第167段に、「遠くて近きもの。極楽。舟の道。人の中」とある。この「人の中」というのを、男女の仲と捉えるらしい。

それにしても、極楽も、そうなのかなあ。まあ考え方次第ということでしょうか。何を極楽と考えるかで、それは決まるのでしょう。追いかけるより、考え方ということを示唆しているように思う。舟の道は、当時の交通手段からすると、そうなのでしょう。

では、男女の仲は、どうかというと、確かに、それは言えているかもしれない。そして双方の好意があって成り立つのは明らかだ。距離が近くなったり、遠くなったりしても、気持ちが通じ合えば、男女の仲はなる。

男と女は、いろんな縁で結ばれている。これは、ある意味、奇跡だ。人間生まれてくるのが奇跡なら、元をただせば、男女が結ばれるのも奇跡ということだろう。奇跡と奇跡の結びつき。奇跡が奇跡を生む。この世は、不思議だらけ。

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2009年11月18日 (水)

何かに似ている

人間の顔にしろ、声にしろ、誰かに似ていることはよくある。他人のそら似ということもあるし、電話で声だけ聞くと、本人と勘違いしてしまうこともある。そういう詐欺事件も発生している。本人確認は、今の時代、求められるようだ。なかなか、今の世は生きにくい。

さて、生前、母が最近の男の歌手の歌を聞いて、「何かに似ている」と言っていた。そして、「愛だ、恋だという歌ばっかりで、しょうむない(仕様ない。くだらないの意)」と非難していた。

「大体、男が女に振られて、うだうだ言うのは、だらしないのに、そんな歌ばっかり」とも。日頃は、ぽわ ~んとして天然だが、時々鋭いことを言うのが常だった。そして、のたまうには、「そうそう、最近の男性歌手の歌は御詠歌に似ている」と。

今、ラジオから流れている男の歌手の歌を聞いていると、確かにそんな感じをしないわけでもない。内容も、確かに、うだうだとした内容が多い。なるほど、母の指摘は確かだったようだ。天国で、「そうやろ。そうやろ」と言っているような気がした。

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2009年11月16日 (月)

中華料理店は大丈夫か

今日の朝から、急に寒さが増して、本格的な冬到来の感じである。これからは、温かい鍋物が楽しみだ。流風、やはり食べることには関心が強い。贅沢はしないが、食材には、まずまず、それなりにお金をかけているかもしれない。

さて、話は変わるが、数ヶ月前、知り合いから、「流風さん、最近、どうも中華料理店がまずい気がするが、どう思うか」と聞かれた。最近は、あまり外食しないので、即答は避けたが、確かに、たまに外食すると、おかしいと感じることはある。

例えば、料理の質が落ちていると感じるのである。神戸市内の中華料理店で、彼の言うことを確認しながら、食してみると、確かにおかしい。価格は、変わっていないか、むしろ若干上がっているのに、味が落ちている。どうも料理人が変わった感じだ。

ある店は、以前、リーズナブルな価格で、比較的美味しい料理を出していた。しかし、味がどうも違うし、料理も雑な感じがする。出来たての料理ではなくて、出来合いの料理を温めたのではと、勘ぐりたくなるものなのだ。

別の店では、定食を始めたのはいいが、素材の質を落としている。料理人に代わりはなさそうだが、なぜ素材を落とすのか。外食における素材のコストは、そんなに大きくないはずだ。コストダウンの仕方を間違っているのではないか。

更に、もう一つの店は、店舗を改装して、きれいになったが、味がぐっと落ちた。店名は同じだが、経営者も、料理人は代わっているようだ。以前、穴場として、よく利用していたのに残念。もう、誰も連れて行けない。

そして、つい最近利用した店も、たびたび利用していた店だが、料理人が、ここも代わっていた。なぜこんなに料理人が代わるのか。いいように代わるのなら許せるが、みんなグレードダウン。

これは経営の何かが間違っている。確かに、客の入りが悪いから、人件費を削っているのかもしれない。だが、顧客からすれば、店の都合で、味を落とされれば、ますます利用出来ない。

まさに悪循環のサイクルに中華料理店は嵌ってしまっているのかもしれない。これは、案外、外食全般に言えることかもしれない。

*追記

もちろん、流風の利用する店は、庶民的な店で、決してグルメと言えるような店ではない。探して、それなりにお金を出せば、美味しい店はあるのだろう。しかし、こう軒並み、いい加減な店が増えてくると、探す意欲も萎える。

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2009年11月15日 (日)

大きなサツマイモ

先日のブログで、大きなサツマイモを収穫したと記したが、どうも大したことないらしい。新聞記事によると、兵庫県伊丹市で家庭菜園されている方が、長さ45センチ、重さ約6.8キロのものを収穫されたらしい。これは、凄い。イモのお化けだ。

食べられるのかな。その他にも、2~3キロのものが3個ほど収穫できたという。そういうこともあり、自宅で取れたサツマイモの重さを改めて測れば、1キロ弱が3個。その半分くらいが2個。あ~あ、何だ、この程度か。

収穫した時は、いつも買うサツマイモとは、断然大きさが違うと思ったが、落ち着いてみると、大きいことは大きいが、その程度なのだ。更に、乾燥するのか、日ごとに小さくなっていく感じ(笑)。

これだと何とか食することが可能なようだ。食いしんぼうの流風としては、食べられるのなら、まだ収穫していないサツマイモの苗がどうなっているか、楽しみになってきた。しかしなあ、いくらサツマイモが好きといっても、女性ほどではない。

じばらくは、大量にとれたサトイモと大きなサツマイモに、囲まれて、げっぷが出そうだ。誰か助けてくれ(笑)。

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2009年11月14日 (土)

本当に、米軍駐留は必要なのか

日米の最近の協議を見ていると、両者が右往左往する姿は、ある意味必要なのだろう。日本は政権が代わり、方針は変更されている。防衛省は、従来の利権を守るように動いているため、それは政権の意思とは異なることが、物事を複雑にしている。

安全保障の問題が、とかく議題に上梓されるが、まず自国は、自国の軍隊で守らねばならない。日本は、すでに、それを守る軍備(自衛隊)は充実している。しかし、米軍が駐留していることで、防衛の主体性が犯されている。防衛において依存心が一番危険だ。

日米同盟は大切だが、その中身は見直しされなければならない。米国の沖縄からアジア全体を睥睨する発想は、時代遅れと言えよう。確かに地政学上、有利な地かもしれないが、時代の変化に合わせて、安全保障のあり方も変わってくる。

米国の意識転換は進まないことに、日本政府はいらついている。そもそも主権国家に外国の軍隊が、いつまでも駐留するのは、おかしいことだ。それに日本の防衛力も、充実しており、日本周辺の防衛は、自衛隊で十分であろう。

となれば、日本に米軍が常駐する必要があるかどうか。米国が日本に費用を負担して、駐留をお願いするのならともかく、地位協定を乱用し、大方の費用を日本が負担し、国民の反感を強めている。

とにかく日米同盟の見直しが必要なのは確かだ。いつまでも、米国外交が、仮想敵国を想定しないと、国内を維持できないという情けない状態は許されないだろう。米国も、国際政治手法を改めるべきだ。

もちろん、死の商人と米国政権の関わりは、外せないのかもしれないが、それにしても、それでは進歩がない。やはり時代とともに、国際社会でリーダーたろうとすれば、考え方を改めなければならないだろう。

また現在の米国経済は病んでいるし、その回復も遅々たることが、米国のあせりを生んでいるのかもしれない。アジアに覇権が移行することに懸念しているかもしれない。だが、今更ジタバタしても始まらない。覇権がアジアに移動していることを素直に認め、それに柔軟に対応していくことが、米国の延命にもなる。

以上のことを勘案すれば、日本に基地を置いておいても、それは矢鱈、アジアに緊張を生むだけで、意味がない。もちろん、見えざる敵に対して、警告を発することは必要かもしれない。しかし、それは外交で十分行える。

そして、いざとなれば、緊急時に、米軍が日本の港や空港を優先的に利用できる内容にしておけばいい。軍備の発達した現在、すぐ駆けつけることは可能だろう。また各国の情報分析の交換を日頃から頻繁に行い、定期的に自衛隊と合同演習すればいい。それで安全保障が損なわれることはないだろう。

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2009年11月13日 (金)

2009年末の準備をしながら

今年も、はや11月も中旬に入り、流風でも、年末の慌ただしさを感じる。国の方は、事業仕分けとかで、無駄な歳出を見直している。公開でされているのは、好ましいことだ。ただ、こういうことは、毎年して欲しいものだ。今年だけでは意味がなかろう。無駄というものは、毎年知らず知らず生じている。

それは家庭でもだ。家庭でも、「事業仕分け」のようなことをすれば、多くの無駄遣いが発見されるだろう。但し、第三者でなく、自分ですることで、限界があるけれど。でも、支出の見直し、支出の優先順序の組み直しは、国と同様、これから求められるかもしれない。

さて、そんなことを考えながら、年末の準備を明日からしようと思う。まず大掃除だ。掃除は、基本的に、各所を少しずつすることが、全体を早く終える方法らしい。今年は、部分的にリフォームしたので、念入りに掃除する部分は少なくて済む。リフォームは、長い間、辛抱してきたのだが、最近、業者の見積もりも、こなれてきたので、決断した。これで、ぽろ家も、見違えった(笑)。しばらく、掃除が楽だ。

その掃除だが、室内を掃除する時は、マスクが大活躍する。かつては、手拭いで、口や鼻を覆ってやっていたこともあるが、最近はインフルエンザ用に入手して余ったマスクを利用して、掃除をしている。これは快適。

確かに最近の掃除機は、なかなか優秀で、排出空気も、そんなに汚れていないが、それでも塵は立つ。はたきで、塵をたたけば、それは舞う。それをマスクはカバーしてくれる。今のところ、インフルエンザにかかっていないし、出番は掃除用になっている。一体、あのマスク騒ぎは何だったのか。大した効果もないらしいし。

続いて、水周りの、トイレ、風呂、キッチンだが、順番に取り組む予定。キッチンが一番太変だろうな。特に換気扇周り。一応、日頃から気をつけているが、毎年、大変だ。料理をする以上、仕方ない。さっそく、お掃除グッズを準備しよう。

室外は、切りがないので、毎年、完全には終わらない。まあ恥ずかしくない程度に適当に(笑)。家庭菜園も、畝も整備して、ほぼ終わり、実質、サツマイモの収穫で今年は終わり。そうそう、先日収穫したのだが、時期が遅れて、大変なことになっていた。今年は、サトイモが出来すぎて、未だに食べ終わらないので、サツマイモの収穫を止めていた。

そしたら、サツマイモが巨大化。大根の大きさくらいになっており、これは、もう食べられないだろうな、と思う。一応、掘り起こして、放置している。どうしようか。困ったものだ。でも両親が、話していたように、戦後、食糧のない時代は、毎日サツマイモだった時期があるという。サツマイモのツルも調理して食べたという。やはり何とか調理してみるか。でも、まずそうだな。

それはさておき、おせちをどうするか、悩みどころ。各所に聞いてみたが、今年は業者おせちも低調らしい。各家庭で作るのだろうか。お惣菜の既成品や半製品に少し手を加えて、重箱に適当に詰めても、それなりのおせちにはなるから、そのように考えている家庭が多いのだろうか。

確かに業者おせちは高すぎる。本来、家庭で作るべきものを、バブルの頃から宴会用のおせちを家庭に持ち込んだものだから、変な風潮になったが、各家庭それぞれのおせちがあっていいはずだ。

すべて、自分で作ろうとすれば、それは大変かもしれないが、最近は、お惣菜を、いかにも自分が作ったように見せかける主婦も多いというから、おせちなど、お茶の子さいさいかもしれない(笑)。流風でも、それくらいならできる。でも、重箱のある家庭が、どれくらいあるのだろう。

あんなこんなで、今年も暮れていく。

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2009年11月12日 (木)

奨学金のあるべき姿

最近の奨学金は、どうも意味が異なるようだ。昔は、学業の優秀な学生が、家庭の事情で、進学できない場合、奨学金を得て、学べるようにするシステムだった。もちろん、奨学金だけでは、生活が成り立たないので、多くは、篤志家という人たちが、住み込みなどさせて、家の手伝いなどをさせて支援した。

また戦前は、同じく貧しい家庭の子弟で、学業が優秀な人たちは、教育師範学校を選択した。そこでは、国が生活費丸抱えで、支援した。もちろん、その行く道は限られたが、多くの優秀な子弟が埋もれずに活用できるメリットがあった。

ところが、最近の奨学金を受ける人は、必ずしも、そういう人たちばかりではなさそうだ。奨学金によっては、学生ローンの意味合いが強い。果たして、奨学金と呼ぶのが適切かどうか疑問である。そして、多くの学生が社会人なってからも、必死に返済せず、いい加減に踏み倒しているということだ(*注)。

これはどうも変だ。本来、学業に励むつもりのない学生が進学すること自体、問題なのだろう。変なことだが、奨学金制度が、それを煽っている。基本的に、本当に優秀な学生でない限り、奨学金が受けられないような仕組みに戻すべきだろう。そして、他者から支援を得る意味を十分わかってから、奨学金を申請してもらいたいものだ。

*注

「奨学金」という名のローンを借りたという意識が薄いから、こういう問題が起こる。本来、返済不要の「奨学金」と「進学ローン」の意味合いが強い借金「奨学金」は名称をを分ける必要がある。本来、借金を奨学金とするのは明らかにおかしい。考え方によれば、詐欺行為に近い。

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2009年11月11日 (水)

お酢と健康

ある番組で、高齢の女性が、お酢の生活を推奨していた。彼女は、ある年齢になって、周囲が脳梗塞等で、次々と逝ってしまうので、危機感を持って、お酢の生活に目覚めたと言っていた。

確かに、歳を重ねるに従い、塩分や糖分の摂取は控えないといけないとされる。しかし、若い時からの食生活はなかなか変えられない。それに現代は、外食等で味付けの濃いものに、舌が慣らされてしまい、必要以上に塩分等を摂取しているらしい。

それが健康をじわじわ蝕む。気づいた時には手遅れということも多い。何を隠そう、流風も、かかりつけの医師より、塩分摂取を控えるように言われている。だが、塩分に代わるものは、ありそうでなかなかない、出汁や果汁ドレッシングで、ある程度、調節できるとはいうものの、限界がある。

そこで、お酢の出番となる。ただお酢にも、少量の塩分は含まれているのだが、塩とか醤油の直接摂取よりは、ずっと少ない。特に、お酢は、朝の摂取が望ましいと思う。まず、お通じがよくなる。朝から快調、否、快腸(笑)。

流風は、男だから、日頃から、お通じはいい方だが、お酢を摂取すると、さらに良い。便秘の多い女性には、是非お勧めする。変なサプリメントより、ずっと良いと思うよ。朝食は、日本食なのだが、まず漬物に醤油の代わりにお酢、納豆にも醤油や出汁の代わりにお酢。お酢を、できるだけ調理せずに、そのまま使う方がいいみたいだ。

酢飯もいい。その他、各種の酢の物。あまり手間をかけないで済むのは、流風向き(笑)。それで健康が保たれれば、御の字。大いに、お酢を使いましょう。

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2009年11月 8日 (日)

紙芝居の思い出

子供の頃は、今の子供のように、テレビも普及していなければ、ゲームもない状態だから、遊びは自分たちで工夫しなければならなかった。屋外の遊びの多くは、近所の兄貴分から、教えられる。それが代々引き継がれるような感じだった。そのことは、以前にも触れたので、ここでは、それ以上に記さない。

遊び仲間は、年齢差が結構あり、同じ年齢の者が群れたりすることは少なかった。ただ、そのような遊びをしていると、年代ごとに、できたりできなかったりする。だから小さい子供は、大きい子供がやっているのに、初めは、ついて行けない。そこで、小さい子どもたちだけで、集まって、できることを考える。

そんな時の楽しみが紙芝居だった。いつも定時に、おじさんが、自転車に紙芝居を乗せてやってくる。そうすると、皆、連絡して、寄り合い、母にねだった小銭を握りしめて行ったものだ。紙芝居は、立ったまま(現在は、座らせることも多いようだが、皆、立って聞いていた)、おじさんの話を聞くだけだから、誰でも参加できる。時には、お小遣いがなくても、少し離れて見ていた。

その時は、日頃は、むずがる小さい子供も、威勢のいい権太も静かに息をつめて、見ていた。どこか独特の子供の空間が形成されていた。冬には、子供の何人かは、青鼻汁をすすりがら、あるいは、どこかに塗りたくりながら、見ていた(笑)。そういうと、最近は、そういうお子さん見ませんねえ。

話の内容はほとんど忘れたが、勧善懲悪ものが多かったと思う。人情物、道徳物、幽霊物もあったような気がする。それを、水あめを舐めたり、柔らかい煎餅をかじりながら、見ていた。

だが、紙芝居の話の筋は、これからというところで続きになり、また来てよということになる。これは今のドラマも変わりはありません。ところが、毎回、いろんな話が出て、話が続かないことも多く、最終結果を知らないで、聞き流したものも多かったと記憶する。

つまり今日はAの話だが、翌日はBの話になり、翌々日は、Cの話になるのだ。そしたら、同じ曜日に来れば、同じ話が来るかと思うと、そうでもない。これは子供泣かせであった。結局、話の筋がすべてわかったものは少なかった。それでも、友達同士、ほぼ毎日、同じ時間に集まり、その待ち時間も含めて楽しんだ。

何が面白かったかと言うと、まず皆が集まることだった。今日は、どんな話になるのだろうかと、わいわい話し合う。そして、話の筋もだが、おじさんの語りが、毎回毎回、真に迫ってきて、面白かったのだ。それを真似する奴もいた。今から思えば、子供たちは、話の筋より、そちらを楽しんでいたのかもしれない。少し大きくなって、本が読めるようになると、話の内容がわかるようになり、紙芝居から、自然に卒業していった。

*特別展『みんなの紙芝居』

姫路文学館で、特別展『みんなの紙芝居』を開催している(平成21年11月23日まで)。紙芝居の歴史と、その実例を紹介している。紙芝居は、マンガの原型なのだ。それに語りが加わっている。それはテレビ漫画の原型だ。そして、子供たちへの影響を常に意識してきた歴史がある。今回は、ついでに訪問したのだが、このような紙芝居にスポットをあてた企画展に、拍手を送りたい。

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2009年11月 7日 (土)

中小企業のビジネス

ある中小企業の社長と話していて、これからの美味しいビジネスは何だろうか、という話になった。はっきりしていることは、中小企業は、大企業と同じことをしないことと、国の方針にあまり同期しないこと、という風に落ち着いた。

凡そ、国が旗振りをして、そこにビジネスの中心が行くのだろうと思って、中小企業が進出すれば、ほとんど破綻している。もちろん、ほんのわずかの成功例もある。国は、それをアピールするが、多くの中小企業とって、あまり参考にならないのが事実だ。

やはり国が旗振りするビジネスには、大企業が参画するしかない。そうかと言って、時代に逆行するようなことをやれば、それも難しい。時代を読みつつ、大企業が食い荒らした残骸を整理する中に、ビジネスチャンスがあるのかもしれない。

基本的に、大企業は、ある規模の市場がないと、進出しがたい。費用対効果の点でも、資本効率の意味でも、経営者は、ある一定期間内に実績を求められる。となると、手間暇のかかるビジネスには、二の足を踏む。

やはり中小企業としては、大企業の嫌がるビジネスに進むしかない。だから、中小企業が手間暇を厭うようでは、最早、生きる道はないと考えた方がいい。若い経営者の中には、楽して儲けようというような安易な発想があるが、それでは成功は覚束ないと言えるだろう。

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2009年11月 6日 (金)

保育園依存症

それにしても、一体いつ頃から保育園依存症が始まったのだろうか。流風の子供の頃は、保育園は、あまり一般的ではなかった。水商売の人々が、子供を他人に預けて、夜、仕事に行くという風景はあったが。

しかし、母親は、子供にとって、生まれた時から、頼りになる存在だ。それから、突き放されると、子供は精神的に不安定になるはずだ。それは、その後も続き、情緒不安定を招きかねない。幼児における母親の存在は、大人になってから、意味を持ってくる。

それが、現在は、若い母親は、当たり前のように、保育園を求める。いつから、そうなったのだろうか。ある人によると、厚生労働省が、“三つ子の魂”を否定したことに始まるらしい。それは、人は数え年3歳までに、情緒も含めて、その考え方が定まるということを否定したことと同じだ。

どんな根拠か、わからないが、一部の学者の否定した学説を信じたのだろう。だが、人々は、長い歴史の中で、子供の3歳までの、親の接触がいかに大切かと感じてきた。そして、それは3歳以後も程度の差はあれ、同様だ。結果は、子供が大人になってから、はっきりする。子供時代に親の接触が深いと、キレる子供にはならないという。

例え、反抗期に、反発しても、ある一定のところで止まることができる。それは幼児の頃、親に受けた愛情が擦り込まれているから、親のことが許せるのだ。反発するのは、自分の存在を認めてほしいからだが、そのために親を試して甘えているのだ。そして、それの限界を確かめようとする。

それに対して、親が必死にぶつかってくると、それを愛情と理解する。幼児の頃に、親が子供に接していると、それは自然にできる。子供は子供だからだ。そのことは、大切なことだ。親はなくても、子は育つというのは、所詮、慰めの言葉にすぎない。子供時代、親との接触がないと、大人になって苦しむのは、子供本人だ。

ところが、幼児の時に、働きに出て、保育園任せにすると、親が濃密な接触をしていないことになる。それは子供の反抗期には、戸惑うだけで、困った存在にしか映らないことにつながる。それが子供との決定的な距離を生む。多くの犯罪の要因は、ここに潜んでいる。

もちろん、すべての子供がそうはならないだろうが、いつ爆発するかわからない不安定なものだ。世のお母様方は、働きに出るという理由で、子育てを保育園任せにしないことだ。子供の時の、母との接触は、子供に何らかの記憶が残るのは明らかだ。

いろんな困難に出合った時、母親の愛を思い起こすことができるような子育てにしてもらいたい。生活が苦しいから、共働きとは、よく聞くが、流風の子供時代と比べれば、いかに贅沢か。もっと堅実な生活を送ってほしいものだ。

*追記

保育園は、本当に生活が苦しい人だけに、社会保障的に実行されればいい。自らのわがままのために、育児放棄すべきではないだろう。育児と仕事の、どちらが重いかは、明らかだ。また、厚生労働省も、誤った育児のあり方を修正し、新たに啓蒙すべきだ。

*追記

最近は、父親が保育に参加する例もみられる。ただ、母親の保育に比べると、限界がある。子どもの変化を本能的に悟るのは母親にしか出来ないからだ。病変等に細かく対応できるのは、母親だということを忘れてはならない。

もちろん、父親の保育が悪いとは言わない。その効果として、娘の場合、大きくなっても、父親を嫌わない傾向があるという。それは幼児の頃から、父親の臭いを刷り込まれているかららしい。娘にずっと好かれたかったら、保育に積極的に関わるのも悪くない。

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2009年11月 5日 (木)

保育園問題を考える

保育園不足が叫ばれるが、保育園問題は複雑で、マスコミの報道は、一面的で、十分捉えきれていない。保育園需要は、様々な原因で需要が発生している。

まず、ダブルインカム世代。これは優れた女性が、子育てより仕事を優先する結果、生じる。それは子育てより、仕事の方が楽しいからだろう。彼女たちは、親はなくても子は育つとばかり、子供を保育園に預けて、仕事を優先する。彼女らの問題は、企業内保育で解決する場合が多い。企業内保育に企業が積極的に取り組むことが求められる。

次に、夫の稼ぎが良いので、専業主婦だが、育児疲れと称して、保育園に逃げ込むケース。確かに周囲に育児の相談者がいない都会の生活者にとっては、大事なのだろう。彼女らの問題は、相談できる人がいるかどうかに尽きる。また一時的な息抜きの時間を必要としているのだろう。これは、むしろ保育ヘルパーが適切かもしれない。介護ヘルパーが、保育ヘルパーを兼任している場合も、散見される。

そして、その次は、夫が非正規雇用か、何らかの理由で所得が低いために、妻が働きに行かなければならないケースだ。この場合が一番深刻だが、これも様々。生活レベルを改めないまま、生活が苦しいと言っている人も、結構多い。一応、行政には施策として、応援が求められる。保育園入所の条件が厳しく、ままにならないケースも多い。そこをどのようにして優先入所させるか。公的保育所では、現在と逆の所得制限が必要かもしれない。

国は、それぞれのケースに合わせた政策が求められる。一つの政策で、すべてが解決するわけでもない。

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2009年11月 4日 (水)

昔のマンガの再放送

先日、ふと朝、テレビをつけたら、懐かしい昔のマンガを放送していた。放送しているのは、サンテレビだが、制作コストを安くあげなければならない地方局は、再放送の取り上げ方が重要だ。最近のサンテレビは、韓国ドラマ、中国ドラマ、B級映画、時代劇の再放送が多いが、これにマンガの旧作が加わったようだ。

これらは大変懐かしいものが多く、他の民放放送がくだらないものが多い中、サンテレビとしては、苦肉の策だろうが、いい線を行っている。同じく、映画館も、旧作の上映を安くして、人気が出かかっているようで、こういうやり方は、多かれ少なかれ、ある程度の需要があるということだろう。

放送しているので視たものは、『鉄腕アトム』と『鉄人28号』だ。確か、『鉄腕アトム』については、子供時代、よく視聴した。アトムの彫刻も彫った記憶がある。確か、学校の休みの宿題に彫刻があって、題材に困り、たまたま家にあった、アトムのおもちゃのケースの表紙にしたと思う。不器用な流風にしては、意外に良くできた思い出がある。図案を真似たのだから、当たり前だけれど。

さて、その『鉄腕アトム』だが、子供の頃、あれだけよく視ていたと思うのだが、あらすじはほとんど覚えていないことに気付いた。だから今見ても、なかなか新鮮だ。子供向けのマンガと言えば、そうなのだが、作者の意図は深くしまい込まれていたようだ。結構、内容は深い。作者は、その時代の為政者や科学者を風刺しているのだ。

もう一つの『鉄人28号』は、少し視た記憶があるが、それほど視ていないかもしれない。しかし、名前はよく知っている。改めて視ると、その内容は、やはり大人の世界の風刺である。これも子供向けのマンガと言いながら、結構、大人の意見を滲ませている。まあ、多くの童話がそうであるように、マンガも書き手は大人だから、そういうことになる。

確かに、現在のように、コンピュータグラフィックの発達した状態から見れば、作画は、手書きで稚拙と言える部分もあるかもしれないが、そのシナリオは深い。作者は、子供たちに何を訴えようとしたのか。人々が、どうあるべきかを子供たちに説いたのかもしれない。

このように、マンガの旧作を視ていると、何もお金を新規につぎ込んで、新しいものを作らなくても、放送ストックがあるのだから、それを見直して、再放送することは意義深いことだ。それも、数年前のものではなくて、何十年も前のものを放送するのがミソだろう。放送局は、放送ストックを見直すだけで、たくさんの宝を発見するだろう。

*追記

なお『鉄人28号』の大きな立像が、JR新長田の駅前にできた。このマンガを知らない世代は、単に震災に打ち勝つという意味で作られたオブジェと捉えているらしい。

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2009年11月 3日 (火)

新米と「おばんざい」

冷える、冷える、急速冷凍みたいに寒い。冬物を一気に取り出した。毛布、ジャンパー、ベスト、マフラーなど。そしてコタツ、ストーブも。冬は、毎年、こんな急だったかな。一度に10度も下がるとは。

ところが、庭を見ると、サザンカ、椿が元気。両方とも、花芽を大きくしている。特に、サザンカは、今か今かと待ち受けている感じ。冬に強い木なんだねえ。サザンカは、比較的大きいものと小さいものもあるが、植え替えても、強い。植え替えて、枯らしたことはない。

さて、寒くなってくると、温かい食べ物がいい。鍋物、煮物、いずれにしても、美味しい時期だ。それにお米も、新米が出回っている。今年は、地元産でなくて、東北産のある特別栽培米を買ってみた。これが実にいい。粘り気があって、腰がある。あまりに美味しくて、食べ過ぎになりそうだ。

料理は、これから、「おばんざい」もいい。「おばんざい」なんて、全国の言葉だと思っていたが、京都を中心とする言葉のようで、知らない人もいるのには、少し驚いた。まあ、本来、家庭内で、ある材料でちゃっちゃっとできる料理を指し、食べ残さない程度の量を作る。

ところが、外食で、「おばんざい」と言えば、常備食を指すようで、流風も、どちらかというと、そういう意味で使うことが多い。その「おばんざい」の常備食は、これから冷蔵庫に入れなくても、保つので、鍋や皿に盛って、何日も、少しずつ食べれば、毎日の料理の手を抜ける(笑)。

そういうことで、昨日から、「おばんざい」スタート。まずサトイモがたくさんあるので、大根、人参との煮物。そして筑前煮。たくさん作って、テーブルの上に置いていたら、今日の朝には、にこごりが出来ていた。今日は、ブリのアラが買ってあるので、ブリ大根を作る予定。

後は、金平ごぼう、切干大根に、ひじきの煮物ぐらいか。つい先日買ったごぼうは、実に新鮮で美味しい。ごぼうの煮物はもちろん、豚汁にも使った。切干大根やひじきの煮物はたくさんできるので、食べ終わるのが大変だが、これからの時期は大丈夫。

それにしても、作り置きは、何といっても、楽なことは間違いない。主夫(?)にとっても、ありがたい存在だ。それに冷蔵庫に入れると、食べ忘れがあるが、テーブルの上に置いておくと、そういうことは少ない。後は、食べ過ぎて、体重が増えすぎないように注意するだけだ。

*追記

でも、こういうものを食べていると、業者の作るおせち等は、食べられなくなる。味が濃すぎるからだ。でも来訪者には、業者の作ったおせちかな。見栄えはするからねえ。正月のおせちをどうするか、本当に悩ましい。業者は、もう少し、薄味のおせちは作れないのだろうか。

*平成21年11月7日追記

寒くなり続けると思ったら、この暖かさ。おばんざいは、当面あきらめた(笑)。本当に、体調の維持管理が難しいのと同様、料理の管理も難しい。結局、作ったものは冷蔵庫行きだ。

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2009年11月 2日 (月)

墓所はどこに~漢詩『壁に題す』

時々、霊園のチラシが入っていることがある。お墓を新規に購入する人に対して、売り込んでいるのだろう。だが、新家を興せば、新たに墓がいるというのも、おかしな慣習である。確かに、昔は、兄弟家族が多く、一族郎党をすべて同じ墓にすると、そのお参りも収拾がつかなくなった可能性もある。

しかしながら、現在は少子化だし、家族も少ないわけだから、同じ墓でもいいはずだ。お墓を新規に作らないといけないというのは、お寺と墓石業者の結託と疑われても仕方ない。もちろん、兄弟家族が全国ばらばらに住んでおれば、遠くにお墓があれば、墓参りも日常的には、いつも行けなくなる可能性もある。しかし、それほど信心深い人も、どれくらいいるだろうか。

やはり先祖の墓は一つでいいと思う。たくさん作っても、何時までも祀られるとは限らない。多くは無縁仏の運命にある。人間は死んで、やがて土に戻る。そういうことが分かっておれば、新規に墓を求めるのも、どうかと思う。

さて、前置きが長くなったが、墓に関して詠んだ詩に『壁に題す』というものがある。作者は村松文三とされるが、別人とも云われる。村松文三は、幕末の勤皇家。詩は、男は学の志を決めて、故郷を出たからには、成就しない限り、帰らないというもの。当時の、学ぶということに対する意気込みと、それが、いかに大変だったかがわかる。

  『壁に題す』  村松文三

  男児志を立てて 郷関を出ず

 学若し成らずんば 死すとも還らず

 骨を埋む 豈墳墓の地を期せんや

 人間 到る処 青山有り

意味は、前半は、すでに示した通りだが、後半に墓という文字が出てくる。すなわち、墓をうずめるところは、先祖の墓とは限らないと、出郷の決心を述べている。そして、人の墓となるようなところは、どこにもあるものだ、と言っている。なお青山とは、かつてよく言われたが、墓を埋めるに相応しい緑が茂っている山のことだ。

こういう決心があれば、お墓は先祖の墓とは別の処につくってもいいのではないか、と言われるかもしれないが、作者の真意ではないだろう。彼の思いは、志と学びに対する必死な気持ちだけだ。先祖代々の墓に入りたくないとは言っていない。

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2009年11月 1日 (日)

電子レンジを買う!

一般の人からすれば、今時、電子レンジを買ったところで、別に珍しいことではなかろう。しかし、流風家は、親の代から、電子レンジが大嫌い。電磁波の問題もあるが、仕組みがよくわからいないモノには手を出さない原則に従ってきた。

特に母は電磁波を毛嫌いしたが、自然の中にも、存在する。多分、直感的に嫌だったのだろう。確かに、母の直感は当たるものもあったが、はずれのものも多い。しかし、長年、電子レンジは存在しなかった。

流風も、かつて、ずっと前、若い20代の頃、先輩に勧められて、温めレンジを購入することがあったが、温めても、すぐに冷めてしまうので、しばらくして処分した記憶がある。そういうこともあり、電子レンジは、ずっと、無いままで、蒸し器で温めてきた。

しかし、温めるだけでなく、料理をするとなると、最近の料理マニュアルには、電子レンジを前提としたものが比較的多く、少し困ったこともあり、知り合いにも、いい加減購入したらどうかと言われ、とうとう購入したのだ。

今のところ、温め用にしか使っていないが、大昔のものとは比較にならないほど、よくできている。まず、すぐに冷めない(笑)。まあ、久しぶりに浦島太郎状態です。商品は年々進歩しているということを失念していた。

電磁波のことはよくわからないが、今のところ、健康に問題はないようだ。影響は、長期的経過を経て、出てくるものなので、絶対安全とは言えないが。心配性だった母は、あの世で、心配しているかもしれない。

そういうことで、流風家に電子レンジが存在するということは、わが家には、革命的(笑)。せいぜい、この冬は、十分活用させてもらおうと思うのだが、うまく使えるだろうか。超不安(笑)。

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