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2010年1月31日 (日)

『海の回廊』展に思う

日本は、古代・中世と、海を通じた交易で、当時、アジアの先進的な海外文化を輸入してきた。その礎の上に、日本文化は成り立っている。若い人たちは、そういうことをあまり意識していないかもしれないが、実際は、そうだ。何せ、その歴史的時間的積み重ねは大きい。

西洋からの文化は、安土桃山時代から鎖国していた江戸時代にも、宣教師等を通じて、多少流入しているが、本格的な影響は明治維新からだ。更に米国文化となると戦後からだ。そういう意味では、日本文化は、アジア文化を基本的に立脚している。欧米文化は、単なる味付けか、飾りに過ぎない。

さて、神戸の地は、瀬戸内海の港として、開発されたが、それは最初、東アジアへの窓口であった。そういう意味では、神戸は西洋文化の入り口としての方が、一般には理解されているが、実際は、それだけではない。

古代には、瀬戸内海を拠点とした豪族が活躍しているが、彼らは、朝鮮半島から鉄器や鉄具などを輸入している。神戸にある古墳等遺跡には、半島文化が色濃く漂っている。その後、平清盛が中国との交易に必要な港として、大輪田泊に注目して大きな港とするべく開発している。

その後は、仏教関係者で指導的役割を果たした重源上人が、東大寺再建のため、材木の調達のため、大輪田の泊を修復したりしている。これは国内的事情だが、それが港の開発に役立っている。

そのようにして、海外あるいは地域の交流を通じて、新たな文化が展開し、後には仏教等海外文化を模倣しつつ、日本独自の文化を築いている。ここには、交流→文化流入→模倣→土着文化との融合→独自文化の確立という流れがある。

そのようなことを意識してか、今、神戸市立博物館で、『海の回廊』展(平成22年3月7日まで)が開催されている。内容的には、次の三つの柱から成り立っており、約170点が展示されている。

 一、海を支配した豪族~海辺の大型古墳

 二、海をめぐる武士と僧

 三、海を越え、響きあう美

一、二については、先に述べたことに関連する内容になっている。三については、仏教美術について多くの作品が展示してある。今回、仏教美術について、十分な知識を持ち合わせていない流風としては、鑑賞してよかったと思う。

その中で、仏像について解説があった。仏像グループは、大きく四つに分けられるそうで、「如来」「菩薩」「明王」「天」だそうである。念のためにパンフレットに基づき紹介すると、下記のように示される。

一、如来

「如来」とは心理に達した人、完全に悟りを開いた人という意。髪の毛は螺髪という巻貝風の形で、大きく盛り上がっている。一枚の大衣を着て、飾りもつけない。釈迦の出家後の身なりを基本としている。

二、菩薩

「如来」になるため、悟りを目指して、懸命に修行している仏。長い髪を束ねて冠をかぶり、体にはネックレスやブレスレットなどの飾りをつけている。出家する前の王子時代の釈迦の姿をイメージしている。観音様は、菩薩の仲間。但し、弥勒菩薩は如来のこと。

三、明王

「明王」は、どんな力にも打ち勝つ仏で、教えに従わない人々を導くために、如来から強いパワーを与えられた仏。邪魔をするものを恐れさせる怖い顔と恐ろしい姿をしている。手には武器を持っている。

四、天

「天」とは、仏あるいは仏法を守ったり、福をもたらす仏で、元はインドの神だった。その姿は、貴人武将に表わされたりする。また男女の区別があり、吉祥天や弁財天のように女性形に表わされるのは、天独特といえる。

ふむふむ、なるほどねえ。これで、京都や奈良の仏像も、意味がわかって観ることが出来る(もちろん、その他に仏像が示している意味は他にもあるので、これだけでは十分ではない)。

こう見ると、先人達が、国を固めるため、輸入文化を活用しながら、産業開発につなげ、日本文化を築いてきたことが分かる。そのように文化と産業は密接に連動しながら、発達している。これはどの国にも言えることだろう。だから、文化だけとか、産業だけとか、偏った見方では、国の発展が望めない。

よって、文化人も産業に目配りしつつ、また産業人も文化に配慮して、共に発達していくということを再認識したいものだ。そういうことを考えると、今、国に必要な戦略は、文化・産業一体関連ビジネスの振興かもしれない。この展覧会は、そういうことを示唆してくれた。

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2010年1月30日 (土)

最近の自動車問題について

最近の自動車問題について、少し触れておこう。

まず、トヨタのリコール問題は、海外で高品質の部品を作れると錯覚したこと。日本の商品なのだから、肝心な部品は日本から輸出すればいい。より精度の求められる商品になればなるほど、優秀な日本の部品が求められる。それが海外でも出来るというのは大きな錯覚だ。それは机上の話に過ぎない。

日本の部品を輸出して、完成品を作れば、結果的に、輸出国には、多少高くなるかもしれないが、それでも需要があれば、売れるだろう。シェアを獲得するために、進出国メーカーと価格でやたら競争すべきではないだろう。輸出国で、何もかも取ろうとする姿勢が問題なのだ。棲み分けの考え方は、今後より重要になる。経営者は、本来あるべき姿に戻るべきだろう。なお、この問題は、トヨタに限ったことではないと念押ししておく。

次に、米国が、米国車をエコカー補助金の対象とするよう求めているが、それは仕方ない。日本企業も、米国で、政策に従い、恩恵を受けることもあろう。ただ米国車だけ有利な条件で適用対象とするよう求めているらしいのは、おかしい。

本当に、米国の自動車産業は、どうなったのだろうか。大体、日本に効率の悪い米国車など不要だろう。そもそも、この政策は、環境によい車の購買を促進するための政策であろう。

しかしながら、流風は、このエコカー補助金は基本的に賛成ではない。リーマンショック後の米国需要の急落に苦しむ自動車産業を一時的に救済する政策だったはずだ。それに本来、それは企業のリスク管理が甘かったからで、国が救済することではない。

環境問題を解決するために、エコカーを推進するのなら、既存の車に対する課税を強化して、誘導すればいいのだ。変な補助金制度を、前自民・公明政権から引き継ぐからおかしくなる。

このような制度がなければ、米国から、いろいろ要望されることもない。これ以上、米国から言ってくるのであれば、この制度を廃止すればいいと思う。それで国内の自動車需要がそんなに落ち込むとも思えない(もちろん、国内市場は、拡大する可能性も低い)。

*平成22年2月7日追記

トヨタの、リコール問題のその後の報道を見ていると、どうも原因は部品というより、システムの問題なようだ。それもハードレベルではなく、ソフトレベルの問題のようだ。そういう意味で顧客調査を怠ったようだ。顧客感性を無視した商品は、問題を起こす。他業界にも教訓になる。

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ビジネスを動かすには その七(商店街店舗)

ビジネスを活性化するのは、民間の知恵。決して政府ではない。国や行政への依存体質の高い企業は、早くその意識を脱しよう。どうも元気のない企業は内向き志向だ。そこから脱する意識が大切だ。

今回は、ずっと苦戦続きの商店街を取り上げてみよう。流風の近くにも、商店街はもちろんある。随分寂れて、廃墟に近い商店街もあれば、駅に近くて、賑わいのある商店街もある。しかし、いずれにせよ、その商売は、厳しいように見える。だが、外側から内情まではわからない。せいぜいマスコミの報じる程度の知識しかない。

だから、どうすればいいかなどと意見は述べられないかもしれない。また個別の戦術については、記さない。ただイメージとして感じたことのみ、ありふれたことだが、箇条書きで記しておこう。

一、まず買い手に商店街で買うメリットがあるかどうか。

今は、物はどこにも溢れ、どこでも入手できる。価格だけなら、大型店やネットで入手すればいい。それでも、商店街で買いたいという動機づけを与えられるか。基本的に、手間暇を惜しまない密着サービスは必要だ。サービスは有料でもよく、料金体系が明確であればいい。

二、次に言えるのは、業態にこだわっていないかということ。

例えば、物販であれば、物を売るだけで成り立つ時代は終わっている。以前にも述べたが、まず物を売る前のサービスと、物を売った後のサービスを整える必要がある。

そして、それが整えば、次に、物関連サービスを充実させる必要がある。すなわち、物は顧客にストックとして、あることを前提に商売をする必要がある。

確かに、物を数量的にたくさん売る方が儲かるが、今はそんな時代でもない。顧客が所有している物から派生するサービスを供給することが求められている。

三、顧客はどこにいるのか。

自分の顧客可能性のある人々はどこにいるのか、再確認する必要がある。その結果、顧客が買いに来てくれないのであれば、売りに行くことも考えなければならない。商店街の周辺に顧客がいなければ、遠いところに売りに行く必要がある。

それは行商に近いものかもしれない。行商は、先方に売るだけではいけない。近江商人の心がけにあるように、売り先で、自分の地域・店近くで売れる物を探して、持ち帰り、売ることをしなくてはならない。往復で、利幅の薄い商売でも、利益が上がるシステムを考える必要がある。

四、ネット販売の検討

行商もいいが、今はネット販売も一つの販売手段。但し、ネット販売できるものは、その地域で強い物か、オリジナルなものでなければ、成果は見込めない。どこにでもあるのなら、価格競争になってしまう。

だから、地域でオリジナルなものを探すか、新たに作り出す必要がある。ここにしかないものを売る。これで言えることは、決して、他の地区に売り上げ目当てで出店しないこと。どこでも入手できるようになれば、そのビジネスは終わりに近づく。そのためには、抜け駆けのないように、地域で協定が必要だ。また自社で独占など考えないことだ。

五、客を迎える体制が整っているのか。

寂れた商店街の場合、昔は客がいたが、それがいなくなって寂れ、店が閉じられ、全体として、イメージが悪くなっている。そして客がますます寄り付かなくなる。

これから言えることは、①店のスクラップ&ビルドができなくて、ビジネスのリストラが出来ていないこと、②顧客はいないのに、古びた開店休業状態の店があることが、ますます魅力を失っている、という現象がある。

けれども、このような状況下、国から補助金をもらって、外観だけをきれいにしても、それだけでは客は呼べないことも事実だ。商店街全体としてのビジネスシステムの整備が、まず必要。

六、地域の魅力開発に関与しているか。

地元に人がいなければ、客を呼び寄せることが大切だ。それには地域独特の魅力が必要だ。つまり、他地域と競争しないオリジナル性があるかどうか。そして、あれば、それを積極的に発信していく。

そのためには、自分の商店街だけ見ずに、地域全体が国全体の流れの中での、存在価値を発見する。その中で、改めて商店街の位置づけをどうしていくか考える必要がある。商店街の存在価値を客観的に見る必要がある。その上で何をするか考えるべきだ。

七、経営者の若返りの必要性

自営業は、定年がなく、高齢になってもやれるということはいいかもしれないが、それが商店街の活性を阻んでいる。開店休業の店が多いのは、そういうことによる。意欲の無くなった経営者には強制的に引退してもらう。ルールを改定し、経営者の定年は必要だし、世代交代も必要。店の権利ということで、いろいろ制約があるのかもしれないが、若い人に貸して、運営を任せる仕組みも必要だろう。

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2010年1月29日 (金)

共存するということ

今年は、国連が定めた国際生物多様性年らしい。あらゆる生物の存在を認め、共に生きようという考え方だろうか。知識人にありがちな、少し甘い考え方のようにも感じる。人間は、生きるために、動物にしろ、植物にしろ、他のものを殺して生きている。そうしなければ、自分が生存を保てない。

そのように生存競争は厳しいものだ。海外の、ある組織団体(*注)が、クジラを殺すのは動物虐待と言うが、クジラは、たくさんの魚を食べ、人間の食料を奪い取る。魚があれば、生き延びる人々もいるはずだ。もちろん日本のような豊かな国が、それらを取り過ぎることは問題があるかもしれないが、クジラが増えすぎるのも問題だろう。

それはイノシシやシカが、農家の人々が折角栽培している農産物を荒らすのと同じことだ。増えすぎた動物は、ある程度、人間によって、調整されなければ、生きにくい。ただ、多くの犠牲を出さないように共存のため、彼らの棲みやすい環境を整えることには意味がある。要はバランスだ。

*注

彼らは、環境団体と名乗り、企業や有名人から、寄付を募り、クジラを取ることを妨害するのは、一つのパフォーマンスに過ぎないだろう。彼らの本心は、企業や有名人から、お金を掠め取ることが本心だろう。これは、かつて日本で問題になった総会屋の構造に似ている。

しかしながら、彼らと共鳴することは、企業や有名人との共存にはつながらない。彼らは、お金の供出を拒めば、企業や有名人を攻撃するだろう。企業や有名人は、それを恐れているにすぎない。だから、企業や有名人が、そういうことに怖じず、お金の供出を拒めばいいのだ。

そういう脅迫まがいの行動は、世界から締め出せばいい。あらゆる生物と人間が共存することは、ある程度必要だが、それを盾に私してビジネスする輩には気をつけなければならない。善意という見せかけには、要注意だ。それは日本にも存在する各種慈善団体にも言える(すべての慈善団体が、そうとは言わないが)。

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2010年1月28日 (木)

春簾雨の詩

毎日寒い日が続いている。冬は寒い方が、それが相応しいので、悪いとは思わないが、朝は起きにくい。寒暖計を見ると、室内温度零度。布団の中で、しばらく、くずぐずして、止む無く、思い切って寝間を出る。何事も思い切りは大切だ(笑)。

でも、昼間の温度は上がっているから、確実に春は近付いているのだろうか。だが、またまた来週から寒くなるらしい。それでも、先日の夕方近くの午後の雨も、冬の雨と言うより、やや春の雨の趣があった。

今回は、少し早いが、春の雨を題材にした漢詩もあるので、取り上げてみよう。頼鴨崖(らいおうがい)の詩を取り上げて見る。頼鴨崖は、頼山陽の子どもだ。子どもの頃から正義感が強く、苛烈であったようだ。それが災いして、幕府を攻撃して、睨まれ、安政の大獄で、若くして処刑されている。

詩の題は、『春簾雨窓に和す』というものだ。春の簾のような雨が、窓を境に内外、調和して、いい感じという意味だろうか。以下の詩の内容も意味深だ。

  春は自ずから 往来して 人送迎する

  愛憎何事ぞ 陰晴を惜しむ

  花を落とすの雨は

  これ花を催すの雨

  一様の檐(えん)声前後の情

解釈としては、次のようだろうか。

「春夏秋冬の循環よろしく、春は毎年巡ってくる。そのたびごとに、旧友を送り、新しい人を迎える。同様に、天候が晴れたり曇ったりするように、人々の愛憎は、様々に変わっていくのだろうか。

また春の雨は、花を落として、人々を嘆かせるが、元はと言えば、花を咲かせるのも、雨の力であろう。でも、人々の自分の都合で、一面的に見て、正しく評価せず、いろいろ言うのは一体どういうことだろうか」と。

彼は、人々の評価が、一面的で気ままに変わることを嘆いている。自分の思いが正確に伝わらないことに対する焦燥感が、この詩にはある。現象面だけ見ていると、すべての立場によい雨は降らないのは確かだ。

けれども、長期的に見えないものを見る努力をしなければ、正しく物事を捉えられない。暗に、いつか、自分の行いも、正しく評価されるだろうと表現している。時代が大きく変わろうとする激動の時代は、何事も評価は定まりにくい。では、今の日本は、どうなのだろうか。人の評価は難しい。

 

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2010年1月27日 (水)

お金と地位

今、経営者側と労働者側と、定昇アップとかベースアップについて、賃金闘争している。ある意味、そういうことを闘争出来る企業は幸せとも言える。企業により、それぞれの環境は大きく異なり、大変な所が多い。そういうところでは、定昇アップとかベースアップも望めない。多くの人が、祭りごとのように眺めているだけかもしれない。

さて、今回は、そういう話ではなくて、お金と地位は、同時に与えてはなりませんと、昔、よく言われたことについて、触れておく。多くの方が、ご存じだろうが、念のために記しておく。

最近の組織は、このような考え方は、どうだろうか。西洋式に、大企業では、地位が上がるにつれて、お金も増えているのではないか。組織はピラミッド組織でもいいとして、所得もピラミッド構造になっていないか。だが、それでは、組織は適正に動かないことも事実だ。

それなりに学識も見識もあり、人望のある者には、地位は与えなければならない。だが、最近は、そういう適任者が不足しているかもしれない。そういう教育を受けていないからだ。管理者の適性教育というのは案外難しい。

また、適任者に地位を与えても、所得の上がり具合は別物にしなくてはならない。地位は役割であり、それで、お金を稼ぐわけではない。もちろん、リーダーの善し悪しで業績は決まるわけだが、所得は、実際、成果を刈り取った人に与えられるべきなのだ。

もちろん、組織成果が上がるにつれて、役職が上がれば、役職手当がつくが、ボーナスは、それに比例しない。結局、どれだけ人材を育て、成果を上げられるようにしたかが問われる。つまり決して直接的成果で評価してはならないということだ。

逆に現場の人間は、成果を上げたからと言って、必ずしも役職に就かせるべきでもない。彼らが管理者として、誰もが適性があるわけでもない。ただ成果に伴う報酬は比例して与えられるべきだし、その金額が、役職者をはるかに超えても問題はない。

*追記

最近は、顧客対応のため、ピラミッド組織からフラットな組織に変更しているところも多い。ただ、その結果、小さいピラミッド組織がたくさんできている。組織運営においては、大きい組織であろうと、小さい組織であろうと同じである。

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2010年1月26日 (火)

時事報道のあり方

マスコミも、一部の新聞は、偏向報道、誤報道、誤表記があったり、また一部のテレビのニュース番組・時事報道関係は、コメンテイター、コメンター、政治評論家入り乱れ、個人の感情や思いを重視する結果、国民に間違った報道をする機関があることは大変残念だ。

マスコミは、感情を入れず、客観的に報道してもらいたいものだ。極論を発するコメンテイターやコメンターは、確かに、庶民受けするかもしれないが、視聴率獲得のために、マスコミが堕落してはならないだろう。特に政治に関する限り、その客観性が重視される。

庶民を感情で煽って扇動するのは好ましいことではない。そういうことを続けるのであれば、マスコミの権利を返上すべきだろう(特に、Nテレビ系、Fテレビ系)。マスコミは、正確な事実を国民に伝えるのが、重要な役目と再認識してほしい。

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鶏がらから一考察

鶏がらスープで味を取ったラーメンは大変美味しい。塩分の摂取を出来るだけ避けなければならない流風は、あまりラーメンを食さないが、それでも、時々無性に食べたくなる。そういう時は、我慢せずに、食べることにしている。流石に汁は飲まずに残すが。もちろん、鶏がらに限らず、豚でも豚骨スープは美味しい。いずれにせよ骨の成分が汁に出て、いい味を出す。

さて、今回は、別にラーメン論を展開するわけではない。なぞなぞと言うか、暗示する言葉として、中国の歴史書に出てくる話を取り上げる。『後漢書』の楊修伝に伝わる話だ。三国時代に、魏と蜀の争いの中、漢中争奪戦において、不利になった曹操は、ある命令を部下に暗示した。

ところが、誰も、その指示の意味が分からない。というのは、曹操は、「鶏肋(鶏がらのこと)」と一言発したのみだからだ。それを楊修のみ理解し、帰還する身支度を整えた。周囲が理由を聞くと、「鶏がらって、どうだい。食おうとしても、食えないだろう。でも、スープをとれるのだから、捨てるのも、もったいない」と。

すなわち、漢中は、取りたいけれども、蜀が押さえており、最早掃討は難しい。少し惜しいけれど、撤退する、という意。まあ、曹操の負け惜しみですね。実は、曹操は、自分の意をいつも、すばやく汲み取る楊修を普段から賢い奴だと認めていた。

だが、曹操の後継問題に関与したとされ、漢中撤兵後、曹操に殺されている(これには複雑な背景も影響)。立場によっては、権力の近くにいる者は、やたら才を示すと、警戒されて、身の危険が及ぶということであろう。

使われる人間は、才を示さないと認められず、それを示し過ぎると、身が危険に及ぶ。処世術としては、ちょろちょろと能力を発揮し、使う人間に警戒されないことが大切だ。ただ、阿呆・馬鹿と思われて、切られる可能性もある。組織社会で、生き残ることはなかなか難しいことを教えている。

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2010年1月24日 (日)

「四」という数字

日本では、四とか九は嫌われる数字だ。母も大変意識していた。これは、四(死)や九(苦)をイメージするからだろう。別に、「四」は、「ヨン」と読めばいいし、「九」は、「キュウ」と読めばいいと思うのだが、そう簡単に割り切れないらしい。

そういうと、中国でも、同じ発音で、忌み言葉があるようだから、どこの国でも、そういうことを信じる人はいるのだろう。単に、言葉遊びに思えるのだが。数字に対する感性は、国によって異なり、西欧人は、これらの数字に、全く反応は示さない。オリンピックは4年ごとだし、米国の大統領選も4年ごと。だが、13日の金曜日には反応する。

しかしながら、日本でも、海外文化の影響と言えないこともないが、「四」という数字は、比較的よく使っている。例えば、暦を見ると、1カ月も、大体、四週だ。太陰暦も太陽暦も変わらない。宇宙の摂理には逆らえない。そういうと、春夏秋冬という四季も、そうだ。方位も東西南北の4つだ。こうみると、世の中は、案外、4という数で回っているのかもしれない。

スポーツの分野では、野球も、輸入文化には違いないけれど、4番打者だと言うと主力選手だ。そして誰も嫌がる様子はない。企業の決算でも、4半期決算と言うのがある。3か月ごとに決算して報告しなければならない。以前は、中間決算と、本決算だけでよかったが、今は、4半期毎だ。これは多分、国際的な約束事で、そうなったのかもしれない。

そうなると、企業の中期計画というのも、3年にしているところが多いが、4年が適切なのだかもしれない。それは個人においても、そうなのかもしれない。一見、4日ごとの計画というものはないかもしれない。それでも、週休2日制と考えれば、1日を作成・チェック日とすれば、4日計画と言えないこともない。

以上のように見ていくと、時代とともに、数字の連想から始まる忌み言葉は、あまり意味がないのかもしれない。まあ、流風のラッキーナンバーは、この数字でないから、どうでもいいのだが(笑)。

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2010年1月23日 (土)

無限の境地

よく建設現場で、とび職の方が、非常に高いところで、身軽にひょいひょいと作業をされている。よくあんな高いところで、作業できるものだなと思う。しかし、彼らは、まるで平地を歩くかのように作業される。流風には、とても真似のできないことだ。

学生時代も、同期の人間で、高いところに上っても平気な人間はいた。あれは生まれつきの運動能力なのかもしれない。高いところにある橋とか、吊り橋などでも、すいすい歩けた。流風なんて、ゆっくり歩いて、かえって吊り橋が揺れて、動揺して、恐怖感が先に立ち、却って前になかなか進めなかったものだ。

そういう話は、昔の剣豪も経験していたようで、江戸時代の剣術家だった反町無格と言う人が、そういうことを伝えている。この話は、結構、お寺の僧侶から聞かされる。仏道の修行に通ずるものがあるのだろう。

その話と言うのは、後、無限流の創始者となった反町無格は、大変強い剣豪であったが、ある時、大変高い渓谷に懸かっている吊り橋を渡ろうとしたが、怖くて、なかなか渡れない。ところが、後から来た目の不自由な人は、杖を頼りに、あっという間に渡ってしまった。

これを見て、人間は見えるから渡れないのだ。それでは、目をつぶれば、渡れるに違いないと判断し、精神を集中すると、渡れたという。彼は、これをきっかけに剣術の奥儀を極め、無限流を始める。

人間は、現象面に五感が反応して生きているが、それが往々にして判断を迷わせる。意識を集中するには、極めなければならない。五感を超え、自分を宇宙の点と観じ、自分の中に、すべての宇宙があると思えば、何も怖くなくなるというようなことに至ったのだろう。

でも、凡人の流風には、なかなかそういう域にはねえ(笑)。多くの雑念に、惑わされ、迷いが生じるのは仕方ないとしても、それを減らす努力はできるかもしれない。奥儀を極めるには、学問にしろ、仕事にしろ、一心不乱に修練を積み重ねるしか手がないようだ。

*追記

反町無格については、よくわからない。民話では、室町時代の剣術家、塚原卜伝高幹と混同されている。この話も、事実かどうかもわからない。誰かが創作したのかもしれない。

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2010年1月22日 (金)

安売りが招く増税

バーゲン行くのもいい、割安な輸入品を買うのもいい。だが、それが回りまわって、自分たちに跳ね返ってくる。それでも、安売り品を購入しますか。増税は気にしないですか。

安売りの連鎖で、不景気感を煽っている(デフレ経済とは敢えて言わない)。下請けを叩いて、コストを削減し、途上国の安い賃金で作られた輸入品が増えれば、当然の成り行きとも言える。消費者としては、確かに比較的安い物が入手できるわけだ。

だが、国民にとって、これは必ずしも有難いとは言えない。国内産業は衰退し、雇用を奪う。従業員が失業すれば、彼らのための社会保障のための負担は増える。そして、安売りは、基本的に、企業の利益を損ない、結局、国や地方の税収を損なうことにつながる。

その結果、増税と言う方程式が成り立つ。つまり消費者行動が、それを左右するのだ。では、増税を最小限にして、国内の雇用を確保するためには、何をすべきなのか。企業、消費者共に考えなければならない。

企業も、自社の事業がどのような影響を与えているか、再度吟味が必要だろう。自社だけよければいいという発想は許されない。それができないなら、国の側から、何らかの規制が必要になってくる。

他方、ある程度の輸入品の利用は、国際社会における協調という難しい課題もある。先進国は、発展途上国の生産品を適度に消費することは望まれる。日本は、アジア市場はあらゆる産業に於いて、活動する必要がある。つまり国際経済は、あらゆる点でリンクしている。

となれば、輸出で儲ける企業は、輸入品で苦しむ国内産業のための、ある程度の負担は避けられないということになる。それはどういう形がいいかわからないが、一定量の国産品の保護と資金面での負担と、国内産業の輸出振興への支援が求められるだろう。

その辺を、どのように折り合いをつけるか。消費者は、そういう状況をよく理解して、消費する必要がある。今、自分が消費する内容で、どのような影響が生じるのか。あるいは、税制にどのような影響を与えるのか、いつもではなくても、考える習慣は必要だろう。結果的に、それがメーカーや流通業者の行動を変える。

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2010年1月21日 (木)

魚料理三昧

寒い日が続いたかと思うと、昨日のように、急に暖かくなったり、体調の維持が大変だ。明日からは、また寒くなるらしい。三寒四温とも、違うようだ。こういう季節は、しっかり栄養を摂って、健康を維持したい。

さて、父も魚料理が好きだったが、流風も、年齢とともに、魚を、よく食するようになっている。特に、冬の間は、魚介類が特に美味しい。1月に入ってからは、魚料理が多い。多いというより、ほとんどだ。適当に作っている魚料理が、どんな料理だったのか、改めて拾い上げて見た。まあ、簡単な料理ばかりだけれど(笑)。夕食に、一体何を作ったか、メモ的に記す。

●鯛の塩焼き

●秋刀魚の塩焼き

●鰤の照り焼き

●鮭の塩焼き

●鯖の味噌煮

●がしらの煮つけ

●カレイの煮つけ

●鰤大根

●カワハギの煮つけ

●アナゴ丼

●鰹のタタキ

●水煮の材料として鱈

●アジのフライ

●秋刀魚のフライ

●牡蠣の炊き込みご飯

●各種刺身類

こう見ていくと、正月3が日を除いて、約20日弱の間に、夕食は、魚介類の料理がほとんどで、肉料理がほとんどない。肉食は、お昼に外食で摂るぐらいだ。もちろん、毎月、そういうわけではないが、冬は、魚介類が美味しいのも事実だ。今年は寒いから、余計に美味しい。今後の課題としては、魚のアイテムを増やすことと、料理の幅を広げること。さて、今日は何を作ろうか。

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2010年1月20日 (水)

毎年、文学賞は必要なのか

毎年、いろんな文学賞が発表される。作家にとっては栄誉なことなのだろう。売れっ子になる登竜門のようだ。だが、流風は、それらの作家の作品はほとんど読まない。読んでも、失望することが多いからだ。近年は、無理やり、賞を発表している感じがする。文学賞の堕落と言える。

それに、あまりにも賞が多すぎるし、その選定の基準も曖昧だ。審査員も、それに相応しい人たちばかりではなかろう。結局、単に話題づくりだけを狙った企画という感じを受ける。題材も、少し、奇を衒(てら)ったものが歓迎されるようだ。だから、文学的にも、必ずしも高くないものも選ばれる。

しかし、その題材で決めるのなら、文学賞ではあるまい。無理やり、毎年選ぶのではなくて、3~4年に一度選ぶくらいがよいのではないか。後世に残る作品が選ばれるべきだろう。そうすると、審査員も、じっくり検討しなければならず、真に賞に値するものが選ばれると思う。また審査員自体の選定も、もっと慎重にしてもらいたいものだ。

*追記

新人のための賞はあってもいいと思う。ただ、その場合は、「新人」という冠をつけてもらいたい。そういう観点で、作品を読むから。

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2010年1月19日 (火)

小儲けのすすめ

確か福沢諭吉が言っていたのだと思うが、「学問のすすめ」ならぬ「小儲けのすすめ」がある。「小儲けのすすめ」とは、文字の通り、小さく儲けることである。なぜ彼が、そういう発言しているのかはわからないが、推定すれば次のようなのだろうか。

すなわち、大儲けするには、それなりの知恵を出さなくてはならぬ。そして、儲けを大きくするには、尋常の知恵では無理だ。だが、知恵を出したとしても、知恵の通り、世の中が動くとも限らぬ。つまり、リスクは大きいのだ。

リスクを小さくするには、誰にも分からないように動いて、利益という獲物を捕まえなければならない。他人に気付かれたら、その時点で、オジャンだ。結局、大きい風呂敷の中で、何を目指しているのか、分からないようにする。

それは何かと気苦労も多く、成功率も低い。ということは、小さく儲けて、それを続けていく方が確実だ。小さく儲けるのは、手間暇がかかるが、大儲けより、最終的にはいいということだろう。商人は、手間暇を嫌がってはいけない。

つまり普通の人より半歩先の知恵を出すが、それ以上は出さない。だから、楽しては、儲からないだろう。でも、誰も警戒しない。静かに、そして確実に儲けを得るのだ。ありふれた商売の中で、半歩先を行く商売を目指したいものである。

*注

もちろん、半歩先に行くというのは、その商いが世間に見えるということ。経営者は、ある程度、それより先のことを読んでおかなくてはならないのは言うまでもない。

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2010年1月18日 (月)

ビジネスを動かすには その六(家具市場)

ビジネスを活性化するのは、民間の知恵。決して政府ではない。国や行政への依存体質の高い企業は、早くその意識を脱しよう。どうも元気のない企業は内向き志向だ。そこから脱する意識が大切だ。

今回は家具市場を見てみよう。経営者と話すると、この業界は、ずっと厳しいようだ。実質、開店休業の店も多い。家具市場は、住宅着工件数に影響される。新築や引越し時には、新規に家具需要が発生する。しかし、最近の住宅着工件数は減少しつつある。それは国内に住宅ストックが曲がりなりにも、十分だからだ。

それに最近の住宅は、造作家具が備え付けてあり、必要な家具の量が減っている。そういうこともあり、住宅着工件数が減る前から、家具業界は苦戦している。となれば、何をすればいいのか。残念ながら、特別な手立てはない。結局は、以下のような家具周辺ビジネスを充実させるしかない。基本的には、手間がかかり、他社があまりやりたがらないものがいいだろう。以下、例示しておく。

 一、インテリアプランサービス

家具の販売は、消費者が店に来て、適当に選んで買う場合が多い。インテリア計画は不十分なことが多い。新築であれば、まだ全体のコーディネイトもしているだろうが、買い替えの場合は、消費者の判断で、購入後、後悔することもある。そのための簡易インテリアサービスを有料で行えばいい。そうすれば、間取りも把握できて、今後のセールスにも役立つ。

 二、小物家具とか隙間家具の充実

消費者は、家具の配置で、空間の使い方が非効率なことが多い。そのため、整理整頓が出来ていない家が多い。家具を配置替えすることで、隙間が生じるので、小物家具とか隙間家具を提案する。一、と同様、インテリアサービスの範疇に入れてもいい。

 三、オリジナル特注家具

自分だけの家具は持ちたいもの。それは、どんな部屋でも汎用性があり、堅牢で、ずっと使い続けることが可能なものに限る。基本的に、構造とデザインに詳しいスタッフと修理システムが必要。その前提として、インテリアプランサービスが必要。

 四、家具の個人輸入代行

海外に行って、実際に家具を見て、それが欲しいという消費者は意外と多い。ただ、大ぶりのため、日本の家には相応しくないものも多い。しかし、インテリアプランをして、サイズ的に問題がなければ、輸入代行するのもいい。料金体系を明確にしておくことだ。

 五、家具のリフォーム

いい家具は、使い続けたいもの。ただ修理は、出来るだけ、住んでいる地域で行いたい。運送で送って、リフォームする方法もあるが、プロセスを顧客が確認できない面がある。基本的に、家具職人の確保が必要。

 六、家具のクリーニング

意外と見落とされているのが、家具のクリーニングだ。仏壇のクリーニングはあるが、家具のクリーニングは、昔ほどではない。昔は桐の箪笥など、ある程度普及していたが、使い捨て文化と共に、廃れていった。クリーニングすれば、長持ちできるということをアピール。もちろん、市場的には、高級品のみに当てはまる。

 七、顧客の家具の廃棄代行(*注)、買い替えの促進

家具の廃棄に困っている人は多い。役所に言えば、ゴミ捨て場まで、持っていけば、有料で引き取ってくれるところもあるが、家具をゴミ捨て場まで持っていくのは大変。その結果、買い替えたいけれど、使い続けている人が多いのだ。

 八、顧客の家具移動サービス

部屋の模様替えは、誰でもしたいものだ。但し、高齢になると、それは難しい。子どもたちが近所にいれば、頼めるが、そうでない場合は、便利屋に頼むしかない。しかし、信頼できる業者はなかなかいない。それを、家具屋が引き受ければ、家の中のすぐの状態もわかるし、営業も可能だ。

 九、中古家具の仲介取引

高級家具を親から引き継いでも、処分に困ることがある。そういう専門業者はいるにはいるが、査定基準が曖昧。結構、疑わしい査定も多い。まず中古家具流通市場が必要だが、専門家具店のとしての目利きで査定すれば、信用してもらえるだろう。

 十、家具の組み立て代行

最近は、ネットで組み立て家具を購入する人も多いが、組み立ては、消費者の方でしなければならない。だが、慣れていないと、時間もかかるし、ケース等ゴミの処理も大変だ。それを代行すれば、ビジネスになる。

 十一、引越し等配送サービス代行

家具の単発の移動は、車を持っていれば可能だか、そうでない人は運送会社に頼む。それを家具屋で引き受ければ、移動先の状況がわかり、営業できる。

 十二、家具に関する各種教室の開催

名のある家具職人等を招いて、家具の製作プロセスや見分け方の教室を開催し、消費者に本物の家具を選んでもらう。その他にも、家具の製作教室を開き、消費者に実践してもらい、人材を発掘するなど。

以上のことから見えてくることは、単に家具という物品の販売にとどまらず、有料関連サービスに乗り出していくことが求められる。顧客の動向を見ながら、これらのビジネスを取捨選択しながら、ビジネス体系・価格体系を整えることが大切だ。そして、肝心なことは、決して無料サービスはしないこと。

更に家具業界の課題としては、環境がらみで、高級家具を普及させていくことだろう。その分野での買い替え促進は廃棄等環境のことを考えれば望まれる。そのためには、メーカーの品質保証、アフターサービスは欠かせない。

そして中古流通市場を作ることだ。そのためには、安物家具は、ある程度の市場はやむを得ないが、環境という観点から、ゴミとなる可能性が高いので、今後は、極力、市場から排除していく姿勢が望まれる。

もちろん、顧客の理解が進まないと、一気に進めることはできないが、業界として、オピニオンリーダーを擁して、積極的に啓蒙活動を推し進めるべきだろう。最終的には、国内にある家具の量は限られてくる。

そうなると、あらゆる家具サービスのシステムが地域に根付くことが求められる。家具の場合、嵩が張るので、ネット取引というのは、物流コストの問題がある。メンテナンスサービスは地域に根ざしたものでなければならない。それを1社単独でするのか、共同でするのかの判断も求められる。

*注

一般には家具の廃棄は、役所の環境課が粗大ごみとして扱っている。ただ、消極的廃棄ではなくて、家具の買い替え促進のための積極的廃棄のため、家具店が代行する。環境課との連携が必要。消費者の理解を得るため、環境のための廃棄家具基準が必要になる。

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2010年1月17日 (日)

15年前のこと

1995年1月17日に、阪神淡路大震災は起こった。毎年、大々的に報道される。この震災時、流風は、たまたま神戸にいなかった。数年前に転勤したからだ。災害に遭うかは紙一重。多くの親戚は程度の差はあれ、被災した。震災後、電話しても通じなかった。安否確認もできなかった。

当時所有していたマンションも、倒壊している可能性があった。交通手段もないと言うので、親に頼んで、状況の把握に努めたが、神戸には住んでいないので、明確なことは分からなかった。しばらくして、マンションの他の住人と連絡が取れ、確認したところ、外構は、部分的に被災しているが、本体は大丈夫と聞いて、ほっとしたものだ。

止む無く、しばらくして、神戸に向かったが、大阪で足止めされ、ひたすら、瓦礫の傍を歩き続けた。不思議と疲れは覚えなかった。どれくらい歩いただろうか。神戸に着くまでも、まるで戦災のような雰囲気だった。街は不思議と、静かだった。

だが、街のすべてが被災したわけでもない。山側は、ほとんど影響を受けていない。今でも、山側に住んでいた人と話すと、その意識の差が感じられる。そう、震災にしろ、事故にしろ、自分が傷を受けないと、その大変さはわからない。

流風だって、当時、その場にいなかったわけで、直接の被害は受けていないから、親戚から話を聞いて、その地震の深刻さを確認したものだ。震災後、しばらくして亡くなった伯母は、流風に会った時でさえ、悲壮な顔をしていたのを覚えている。震災の記憶が、そうさせたのだろう。

それでも、この震災は、流風にも、精神的に大きな影響を与えた。それまでは、どちらかというと、自信家でプライドも高く、自分の考えを押し通していたが、それ以後、人生、なるようにしかならないと、思うようになった。なせばなる、というのも、一つの考え方だが、そんなこと、もうどうでもよくなったのだ。

そう考えると、体調の悪さがずっと続いており、震災の前後して、会社は辞めたけれども、肩の荷が下り、流風なりに自然体で振る舞えるようになった。外部からは、虚脱感を持ったのではないかと指摘されたこともあったが、そうではない。体調も、徐々に回復していった。

確かに、内臓の病気だから、回復するのに十年以上要しているが、完全に癒えることはない。だが、精神的には、焦る気持ちはない。身体との付き合い方も遅まきながら分かってきた。時々、思うのだが、あの震災がなければ、今、生きていたかどうか怪しい。

ところが、生き延びて、このようにブログを記している。大した内容ではないかもしれないが、今後も、無私の精神で、若い人たちに、何かを伝えていきたいと思う。

*平成23年3月14日追記

3月11日に、東北関東大震災が起こったが、周囲の人々の受け止め方は様々。空しさを感じている人が多いが、中には、自分のことと考えていない人々もいる。被災を受けないと、実感として伝わらないのだろうか。この温度差に、お互いを理解することの難しさを感じる。

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2010年1月15日 (金)

動物を飼うという人間のエゴ

街を歩いていると、小さな犬に服を着せて歩いている人がいる。きっと可愛いがっているのだろう。それにしても、何時頃から、こんなに犬の散歩が増えたのだろう。昔も、犬の散歩姿は見られたが、異常に増えていると思う。それは飼い主の孤独感の癒しなのか。

散歩させて、きちんと健康管理している人は、一応、犬にとって恵まれているのだろう、と人間には見えるが、犬の立場に立つと、どうだろうか。所詮、どのように、可愛がって、扱っても、人間のためのものなのだろう。

だが、犬にとっての幸せは何だろう。犬に心はないかもしれないが、自由を束縛されていることに変りはない。基本的に、人間のために飼いならされたものなのだろう。そこに、どんなに愛情を注いでも、犬にとって、それがいいのかどうか。

やはり犬に限らず、あらゆる動物も、人間に都合のよいように、作り変えられてきた歴史がある。あるものは食用に、あるものは観賞用に。そう考えると、まず、人間のあり方を問うべきだろう。あなたに他者を支配する資格はありますか、と。できれば、動物を飼わずに済む生活が望ましい。

*追記

女性を中心にペット依存症の人が多い。それは年齢には、あまり関係なさそうだ。若い人の場合は、社会進出に伴うストレスの解消のために、ペットを飼う人が多いようだ。中高年の女性は、比較的孤独志向の強い方が多い。地域との人間関係が不安定による心の不安定さがペットを求めるようだ。高齢者の場合は、パートナーの死を埋める物として、ペットを飼う傾向が強い。

いずれにしろ、ペット以外にストレスの解消方法を見つけた方がいい。ペットへの過剰な期待は、禁物だ。社会への関与を増やすことに目を向けてほしい。またペットは、植物と違い、後の処理も大変だし、ずっと飼い続けられるかも不透明だ。安易にペットを飼うことは避けるべきなのだ。

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2010年1月14日 (木)

どんど焼きに行きながら考える

本当に、毎日、寒い日が続いている。いつも、防火の意味で、バケツに汲んでいる水も、氷が張って、意味をなさなくなっているのだが、氷の厚さからも、最近では、尋常ではない寒さ。水道管は凍るし、水は出ない。こんなの久しぶりだよ。子ども時代は、それが普通だったけれど。

でも、ある気象予報士は、予測が外れているとは言わず、あくまで、間違っていないと強気だ。気象庁の予測に対して、立場上、言えないのかもしれないが、そういうのはおかしいと思う。誤りは、認めないと、いけないよ。そうしないと、信用されなくなる。

そんな寒い中、いつもお参りしている神社のどんど焼きに行ってきた。しめ飾りを燃やすためだ。しめ飾りをまだ付けている家も、まだないではないが、1月14日から16日のどんど焼きの期間に、焼かないと、後の処理が困る。しめ飾りは、以前は、15日の成人日に下ろすのが多かったが、最近は、成人の日が早くなるので、早く下ろす家も多い。

そんなこんなで、いつ下ろすのかが、各家でばらばらだ。隣は、まだ飾ってある。ところが、最近に気になることは、お正月に、街を歩いていると、しめ飾りをつけていない家が結構ある。けじめという日本の伝統文化が失われるのが気になる。

また、正月に、従業員を休ませずに、初売りをする百貨店やスーパーも、ハレとケの区別ができていないのは残念だ。正月に初売りしても、そんなに月の売り上げは増えないデータもある。経営者には、もう少し、文化を大切に考えてほしいものだ。

さて、話をどんど焼きに戻すと、本日は寒いので、朝早くには、どんど焼きに行っている人は、まだ少なかった。一応、火にあたって、健康を祈ってきた。昔は、あちらこちらで、どんど焼きをしたものだが、最近は野焼きを禁じられており、自由には出来ない。久しぶりに、どんど焼きの火にあたり、気分がよかった。今年も、元気に過ごせるだろう。

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一つの意見は、すべてを代表するとは限らない

マスコミは、海外の情報の流し方を、ずっと間違っている。すなわち、マスコミは、よく海外のある国の、ある人物が発言したことを、その国を代表する意見のように、伝える。だが、実際は、そうでないことの方が多い。どの国にも、様々な意見があり、一つの意見で集約されることは、むしろ稀だ。

残念ながら、最近のマスコミ報道は、基本的に、政治・外交問題、経済問題で、特にひどく、その点をきちんを弁えていない。情報の入手経路が偏っているのだ。ただ、某国のA氏は、こう語った、あるいはB氏は、こう語ったと報道し、それがまさに、その国の意見のように報道する悪い癖がある。むしろA氏やB氏は、その国の少数意見であることは、しばしばだ。

今の日本のマスコミの報道は、情報の入手経路が少なく、情報が偏っており、その結果、質が低い上に、その限られた情報内容のチェックも甘く(*注)、ある国の限られた人物の偏った意見しか報道していない。それは国際的政治判断を歪めるものである。

今一度、「一つの意見は、すべてを代表するとは限らない」ということを再認識して、発言の裏にあるものを十分理解して、その思惑がどこにあるのか、精査して、情報を流してもらいたいものだ。それには、多様な情報の入手経路の確立が必要だろう。

*注

マスコミは、発言者の裏にあるもの(思惑や情報操作等)を把握しつつ、その国の多様な意見を収集して、分析して報道する義務がある。もし、それができないのなら、時事報道はあきらめてもらいたい。時事報道は芸能報道ではない。それが区別できないところに、時事報道の権利を委ねることはできない。

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2010年1月13日 (水)

古い牡蠣は怖い

ブログの女王とか言われている眞鍋かをりさんが、おフランス帰りに牡蠣にあたったらしい。高熱を出たことをブログに記されている。普段は、彼女のブログには関心はないが、今回は、少し覗いて見た。

どのような牡蠣料理を食されたのだろうか。考えられるのは、古い牡蠣だった可能性はある。流風は、幸い未だ牡蠣にあたったことはないが、父が戦前、軍属中に、牡蠣にあたったらしい。その後、父の胃腸の調子は悪く、それは一生苦しむむことになった。父は、それをとても恨んでいた。

軍隊でも、その生活は合わなかったようだが、牡蠣で体調を壊したことを一番悔やんでいた。だが、同じ軍隊に在籍した人たちは、同じものを食したはずだが、どうだったのだろう。ただ牡蠣に限らず、貝類は、古い物は怖い。もちろん、それは食品全般に言えることだが、肉類、貝類は、古い物は、食さない方がいい。

でも、彼女は、フランスのどんな店で、どんな料理を食べられたのだろうか。海外での食事は、国内よりリスクが大きいということかもしれない。内外の衛生管理の格差が、日本人には、きついのかもしれない。彼女も、後遺症が残らなければいいのだが。

ちなみに流風は、牡蠣料理でなくても、フランス料理を食べると、胃腸の調子がてきめんに悪くなる。まあ、そういうことで、長い間、食べていない。そして今後も、食べないだろう。ということは、フランスに行けないということ。お金もないし、いいか(笑)。

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少なくするということ(三寡)

昔から、三つのことを少なくするということが、健康法の一つとして伝えられてきた。流風は、医者から、ご飯の食べ過ぎを指摘されたが、今回は、そういう話ではない(笑)。それは三寡とも呼ばれるものだ。その三つとは何か。次のようなものてある。

一つ目は、思慮を少なくすること

別に何も考えるなということではない。そんなことをすれば、ボケてしまう。そうではなくて、物事に集中する時は、余計なことを考えるなということ。雑念を捨てよということ。現代は、情報過多でいろんな情報が否応なしに、耳目に届くが、それらを気にしていたら、何も進まなくなる。集中する時は、余計なことを考えるなということ。そうすれば、ストレスも少なくなる。

二つ目は、嗜欲を少なくすること

ここでは、酒を嗜むという意味ではなく、芸事のこと。気分転換するために、趣味を持つことはいいことだが、それも程度問題。あまり深く踏み込むと、本来やるべきことが出来なくなる。自分の本来の持ち場を超える嗜みは、却って、ストレスを抱えることになる。結局、本来の目的に反し、自分を失うことになる。やるべきことは何なのか、自分与えられている使命は何なのか、確認する必要がある。

三つ目は、言語を少なくすること

あまり言葉が多すぎると、他者から、いろんな誤解を受けやすい。その言い訳をするのは、無駄なエネルギーを使うことになる。そうであれば、言葉は少なくして、自分の持ち時間を有効に使う必要がある。

現代は、説明責任と言って、他者からいろいろ言ってくるが、相手が何も考えないから、そういう質問になる。結局、日頃から言葉や行動に深みを持たせ、相手がよく考えるように仕向けるべきだ。それでも、何も考えず質問する人間は、遠ざけ付き合わないことだ。そうすることがストレスを小さくする(*注)。

*注

勘違いされては困るが、上記のことは、個人生活においてのこと。政治や経営においては、説明責任が問われるのは仕方ない。逃げるような政治や経営は、あってはならない。

*注記

「三寡」とは、『養生雑訣』という書籍の中に、「養生の法は、思慮・嗜欲・言語を少なくするに在り」とあるそうだ(未読)。ちなみに流風は、三つともできていません(苦笑)。強いて言えば、二ぐらいかな。無趣味に近いから。

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2010年1月12日 (火)

特別会計の見直しはいいが、・・・

政府は、特別会計の見直しが不十分だったとして、今後メスを入れていくようだ。流風も、それ自体は賛成だ。特別会計ができるには、それなりの理由があっただろうが、不明朗な金の使われ方をしていたとされるし、国会のチェックもされなかった。

だから、特別会計の透明性は図られるべきだと思う。ただ、それらから抽出したお金を無駄遣いしないでもらいたい。それらのお金は、国債残高を減らすために積みたてられるべきだろう。民主党のマニュフェストのために使ってほしくない。

一般会計の見直しや、特別会計の改革は確かに求められるが、財政支出のために使われるべきではない。財政の再建が優先されるべきだ。民主党は、マニュフェストに拘って、財源の確保のできないままで、国債を増発し、22年度予算を計上したが、大変違和感を感じる。

これでは、使い道こそ違え、自民党政権と変わりがない。過大な予算計上は、その半分以上も、国債に頼っており、異常だ。確かに、リーマンショックの影響で、税収が急減したのはわかる。

しかし、それなら、国民に説明して、マニュフェストの実行は延期してもよかったのだ。選挙のためか知らないが、ばだばたと、予算計上したのは、大きな過ちであろう。もちろん、マスコミや、地方の多くの圧力が、それをさせたのかもしれない。そうであれば、現象面ばかり、過大に報道するマスコミの責任も大きい。

だが、積み上がった国債は、残高を減らさなければ、いずれ国民を苦しめることになる。そういうことを国民に十分理解させて、予算は編成されるべきだろう。平成23年度予算では、平成22年度の予算編成のような過ちをしないでもらいたい。

*追記

高齢社会であり、社会保障の充実のためには、社会保障費が増えていく。それを補うには、消費税増税は、避けられない。現役世代だけの負担では、無理があるのは明らかだ。消費税増税分は、特別会計の運営の見直しの中、微妙なことだが、社会保障特別会計にするしかないだろう。

かつて自民党政権は、消費税アップ分を社会保障に使うとしたが、一般会計のため、それは別の予算に横流しされた。ということは、一般会計では、駄目で、社会保障特別会計をガラス張りにし、社会保障にのみ使うという担保がなければ、消費税アップを国民から了承を取り付けることも難しいと判断される。結論的には、どんぶり勘定にしないことが求められる。

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2010年1月11日 (月)

仕事を変更するということ

昔、中国に、韓安国という人がいた。最初、梁国に仕えたが、前漢に使者に行ったことから、後年、認められ、漢に仕えた。ただ、まったくもって流転の人生であり、その浮沈は大変激しい。韓非子を学んで、合理的な考えを進めようとしたことが、禍を大きくしたのかもしれない。

すなわち、献策は当たることもあれば、外れたこともある。他を押しのけて、目立つ仕事は、成果が出た時はいいが、他者から嫉妬を買ってしまう。だから、逆に失敗すると、誰もかばってくれない。結局、失脚することにつながる。その彼が、次のことを言っている。

「現在の利益に百倍する利益がなけれは、その業を変えてはならぬ」と。

これは自省の弁なのか、どのような理由から発したのか不明だが、流風には、ちと耳が痛い。いろんなことに関心を示して、結局、十分な成果を上げられなかったことがあるからだ。かつて、上司に、お前の仕事は道楽だと言われたことがある。

このブログでも、「日々の風」としているが、思考がその日任せになりがちだ。確かに、それ自体は楽しいが、全体として見れば、まとまりがないかもしれない。岡目八目ということはあるかもしれないが。

少し意味は違うが、仕事は、一意専心でなければならない。ちょっと、よそ見して、あれがいい、これがいいと言ったところで、所詮、確かな知識も経験もない。やはり仕事は、一つのことを、やり続けることが大切なのだ。そうすれば、知識の積み重ねと経験でノウハウが蓄積される。

自分の携わっている仕事は、あまりよく見えないものだが、他者から見ると羨ましいものかもしれない。つまり、ある程度、経験を積み重ねた仕事には、ノウハウが凝縮されており、自信を持ってよいということだ。あれもこれもと思わず、今の仕事を掘り下げることが重要だ。

これは経営者にも同様のことが言え、今の仕事が苦しいからと言って、安易に他業種に進出してはいけないということを示している。まずは今の仕事の見直し・掘り起こしが求められる。

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2010年1月10日 (日)

現況の日本経済の雰囲気と中小企業

やっと景気の雰囲気が変わってきた。すでに輸出企業は、リーマンショックから方向転換が、ほぼ終了し、立ち直りつつある。更に政権が代わり、世間の雰囲気は早くも、変わりつつある。

何といっても、経営者の年頭の挨拶でも、民間が頑張らねばと、という意識が強くなっている。これは経営者の意識の中で、何か確信のようなものを掴みつつあるからだろう。中長期的には、景気はよくなる可能性があるだろう。もちろん、いろんなリスクを抱えながら、今後も進んでいくので、足元を固めながら、歩んでいく姿勢は求められるが。

ただ、経済学者の中には、近視眼的な経済対策を取らないと、国内景気は中折れすると心配する人もいるが、それは杞憂だろう。国内経済は、確かに、意識転換できない中小企業が多い。

あるいはバブル崩壊以後、政府の援助を受けて事業整理を先延ばししている企業が未だ存在するため、停滞感がある。それを一部政府関係者が勘違いしている。彼らを救済することは、最早、国民の過剰な負担になるだけでなく、国費の無駄である。

もちろん、事業を精査して、社会的に残す必要のあるものは、経営者を代えて残す必要もあるかもしれない。すなわち中小企業も、経営力が問われているのだ。つまりスクラップ・アンド・ビルドは必要で、そういうことを促すことは大切である。そうすることが国内の経済の停滞感を払拭する。

そして、新しい展開としては、民主党の政策(マニュフェストではない。マニュフェストは、選挙用の政策ガイドラインだから、実行されるとは限らない)を見ると、景気対策は、すでに織り込んである。それはすでに首相の施政方針演説に示されている。

中小企業にとっても、こういう変化は、チャンスである。政権が変わった時、ビジネスチャンスは増えるのは、歴史的事実だ。もちろん、大企業と同じことをせよというわけではない。大企業が取り組まない隙間ビジネスは、必ず存在する。現在のように地殻変動している時は、隙間が更に増えるもの。

今回のようなチャンスは滅多にない。中小企業も、政策を十分に読み込んで、展開すれば成果が出るということだろう。それには、従来の発想を捨てることが大切だ。やはり寅年は、いろんな意味で動き出す。経営者は、最早悲観的になる必要はないだろう。それには、事業整理するにしろ、新しい事業を展開するにしろ、思い切りが大切ということだろう。

*注記

但し、国の方針をそのまま受け入れるようなビジネス展開は危険だ。国の方針は、たびたび変わる。経営者自身で、国のあるべき方向性を把握することが求められる。盲目的な政府方針に準じたビジネスは成功しないということを付け加えておく。

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2010年1月 9日 (土)

今年の日常の目標

一応、今年の日常の目標を記しておこう。

一、早寝早起きの励行

基本的に、早起き早寝だ。夜更かしを伴う催しには、不義理している。自分の体調優先。

二、一日一万歩

昨年は、残念ながら、目標を達成できなかった。雨の日や天候の悪い日は、仕方ないが、平均5000歩前後に落ち着いた。また有効運動量には、程遠い結果。まあ、毎日一万歩は、難しいかもしれないが、一応、努力目標に設定。努力目標はいい言葉だ(笑)。

三、毎日ブログ更新

内容はなくても、毎日継続を目標(笑)。昨年末で、1500本の記事を書いた。基本的に、購読者の顔が見えないので、気分で記しているが、それでいいのだろうかと思い悩むこともあるが、どうしようもない。今までのペースで書き続ける。

四、行動範囲の拡大

近年、いろんな事情で行動範囲が狭まっていた。もう少し、広める。でも、旅行にしても、それなりに何か目標を設定しないとね。やはり、今年は奈良かな。せんとくんは嫌いだけれど。旅行は奈良以外に、京都、東京、中四国方面にも行こうかなと思っている。海外は、上海?だが、1億人も行くそうだから、十分見ることは不可能だろう。歩いて終わって疲れだけが残るなら、映像で満足するか。これって、歳が行った証拠(苦笑)。

五、掃除、整理整頓の励行

昨年、リフォームしたので、住み家らしくなった。もともと持ち物は少ないが、それでも、一年経つと何かと貯まる。掃除しやすいように、整理整頓継続。でも、掃除の回数がもっと必要だろうな。

六、料理のレパートリーを増やす

自己流だが、料理はだいぶん慣れた。だが、パターン化している。好きなものばかり作っていないか反省。季節にあった健康料理の励行で、レパートリーを増やす。

七、人を出来るだけ褒める

人に対して、声に出して褒めることの励行。やはりいいことは、伝えないとね。

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2010年1月 8日 (金)

他者への度量

他者を認めることは、なかなか難しく、粗を探すことの方が容易い。だが、組織を動かす地位に就けば、それでは人は動かない。最近、よく言われる誉めて動かすというのは、甘いという人もいるが、大事なことだ。ある有名な人は、3つ誉めて、1つ貶すぐらいが、丁度いいと述べられていた。

人間というものは、他者に認められたいものだ。これは、人を動かす要所を突いていると思う。ただ、そういう風になるには、いろんな葛藤がある。人間を幅を広げる努力というものは、簡単なようでなかなか難しい。

さて、同様な話で、松平楽翁は、ある古老の話を次のように伝えている。

一、「あの人はどうであろうか」と問われたら、「誠によい人である」と答えるようにしている。この場合の、「よい人」というのは、まず、よい人に違いない、と。

二、「然らば、あの人は」と問われると、「よい人である」と答える。この「よい人」は、普通の人であるという意味である、と。

三、そして誰しも出来の悪い人と考える人を、「どう思われる」と問われたら、「よい人である」と答えている、と。

一、二、の例は、理解できても、三のことは得心がいかないので、「どうしてか」と尋ねると、その古老が応えて言うには、

「人を見るには、まず十中に五つほど、よいところがあれば、非常によい人であり、一つか二つよいだけでも、大抵がよい人の部類に入るのだ。十中が十悪い人というのは、なかなかいないものだ。そうでなければ、悪い人とは言えないのだ」と。

他者を評価する時、良いところを見つける努力を怠ってはならないということだろう。そのためには、他者への度量を大きくする必要がある。そして、自己評価する時は、その逆をしなければならない。厳しく、自分自身を律しない限り、他者を評価できない。

松平楽翁は、それほど好きな人間ではないし、実際、それが実行できたか疑問が残るが、この話を留めたことは評価せねばならない。

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2010年1月 7日 (木)

平成22年の干支~庚寅

今年、平成22年が、寅年であることは、誰でも知っている。だが、流風は、不勉強で、干支については、ほとんど理解がなかった。いや、言葉は知っていても、理解しようとしなかったというのが正しいだろう。

確かに、熊楠の『十二支考』を読めば、虎について、史話とか伝説、民族の類は詳しく記されている。だが、そもそも、十二支とは何ぞやということは、この本には記されていない。つまり基本常識なのだ。残念ながら、流風は、その常識を持ち合わせていなかったことになる。

そういうことで、兵庫県立図書館では、新年のオープンに際して、「平成22年の干支 庚寅(かのえとら)」について、解説したパンフレットを配布すると言うので、早速もらってきた。部数に限りがあったようだが、幸いにもゲットすることができた。

そこで、流風の覚えとして、パンフレットに基づき記しておく。ご存知の方も多いと思うので、必要ないと思う方はパスしてください。あくまで、十分な教養のない流風自身のためのメモですから。

さて、干支とは、中国古代哲学の陰陽五行思想にある。まあ、ここまではわかる。太陽と月だ。その他の惑星として、木星・火星・土星・金星・水星の五惑星がある。そして、それに対応するかのように、地上では、木・火・土・金・水の五気があるとされる。なるほど。

この五気の輪廻・作用が、五行ということだ。ふむふむ。五行は、宇宙の万象、色彩・方位・季節・天神・十干・十二支等を象徴しているという。

更に、木・火・土・金・水の五気は、陽の「兄(え)」と陰の「弟(と)」に分かれる。これで十干ができる。すなわち、次のように表現され、イメージされる。

木兄(きのえ、甲)・・・・大樹

木弟(きのと、乙)・・・・灌木

火兄(ひのえ、丙)・・・・太陽の光熱

火弟(ひのと、丁)・・・・提灯・蝋燭の火

土兄(つちのえ、戊)・・・山・丘陵の土

土弟(つちのと、己)・・・田畑の土

金兄(かのえ、庚)・・・・剛金

金弟(かのと、辛)・・・・柔金

水兄(みずのえ、壬)・・・海洋・大河・洪水の水

水弟(みずのと、癸)・・・水滴・雨露・小流の水

そして、この十干に十二支が組み合わされる。略して干支。それで60年ごとに一周するように作られている。十二支を言えと言われて、詰まるタレントも多いですが、流風も、一瞬詰まる口(苦笑)。十干との組み合わせは、覚えられません。

十二支は、「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・羊・申・酉・戌・亥」ですよね(笑)。これは五惑星の中で一番尊いとされる木星の運行に拠っているらしい。

木星は、12年で天を1周するので、1年に12区画の中の1区画ずつ移行する。木星は、太陽や月とは逆回転するため、反映の仮の星を考え、時計回りのように西から東に移動させる。この仮の星を「太歳」と言うらしい。この居所に、配されたのが十二支だ。

いちおう、まあ、別の機会に、触れるかもしれないが、干支全般について記すのは、ここまでにしておこう。問題は今年の干支だ。つまり平成22年の干支は、庚寅。この庚寅の意味するところは、「庚」は、金の気であり、「寅」は、木の気で、金は木に強い。斧は木を切り出し、のこぎりは、木を細工する。すなわち金の性情が強いが、木のよいところを引き出すという意味もある。

また寅の月は旧暦で正月であり、新暦では2月を指す。すなわち春の中で、立春を意味している。卦は「地天泰」で、陰陽相和しているという。「地天泰」は、『易経』に解説してあるが、単に「泰」という場合もある。卦は吉である。これは何を意味するのか。君臣の上下の意思疎通がうまく行くという。

そして、そこから新たに動き出すということだ。ただ、それは英語で言えば、スクラップ・アンド・ビルドのニュアンスが強い。古い物を壊して、新しい物を作る。これを肯定的に考えればいいことだが、歴史的には、自然災害も多い。

例えば1650年(慶安3年)には、江戸大地震が起こり、180年後の1830年(文政13年)には京都大地震が起こってるのだ。これに180年を加えると、2010年。不気味だ。ノストラダムスの大予言より、物騒だ。まあ、そういうことが起こらないことを祈る。

しかし、阪神淡路大震災(1995年。京都大震災から165年後)でも、多くの犠牲者は出たが、再建に伴い、新しい街づくりがされたことは何たる皮肉か。スクラップ・アンド・ビルドは、多くの犠牲を伴うことを覚悟せねばならないのか。

結局は、何が起こっても、騒がず冷静に対応できるように、日頃の用意と準備が大切ということだろう。でも、どんなに用意と準備をしても、災害からは逃れられない。結局は、お互い助け合って、やり直すしかないのだろう。

今、日本自体も再建の途中だが、スクラップ・アンド・ビルドで、自然災害同様、多くの人が苦しむかもしれない。天皇の正月のお言葉ではないが、天災であろうが、人災であろうが、皆で助け合って、乗り越えなければいけないのだろう。そのためには、お互いの気持ちが通じ合わなければならない。そうすれば、日本の未来に明るい兆しが見えてくる。

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2010年1月 6日 (水)

若い時の貧乏

若い時は、給料が安いから、生活は大変だった。ただ、子どもの頃から、質素な生活だったので、それほど苦痛ではなかった。むしろ、自分の働きで、所得が得られることの方が嬉しかった。

だが、最近の若い方は、子どもの頃から、結構いい暮らしをしている。そして、不満を言っている。恵まれた環境で育っているからだろう。親も、知らず知らず子どもに贅沢させている。人間、一度、贅沢の味を知ると、それを落とせない。そういうことを親子共に理解していないのだろう。

ところで、新卒の就職できない人々がかなりいると聞くが、本当に就職できないのか。就職できない理由はいろいろあろう。確かに国内の経済状況は、あまりよくない。大企業の新卒の採用枠も減っている。

でも、言い訳を作るのは簡単。もっと、いろんな企業に挑戦しようよ。就職浪人しても、企業は評価しない。年嵩の行った人間は、雇うのが難しい。本当は、浪人した大卒(留年も)も、採りたくない。企業側の論理を理解しているのだろうか。

大企業の求人倍率は低い。でも、選り好みしていないか。親の意見に左右されていないか。初任給で選んでいないか。同じ地域で、就職活動をしていないか。業種、職種を選び過ぎてないか。自立精神が欠けるのではないか。

さて、日銀総裁まで出世した池田成彬は子どもの頃、貧乏を経験している。だから、戦後のタケノコ生活にも耐えられたそうだ。彼は35歳で結婚しているのだが、家財は何もなかったそうだ。借家に家具もなく、瀬戸物の火鉢と一張羅の服があるだけ。

だから、その後、順調に行っても、いつも、いざとなれば、あの生活に戻ってもいいという覚悟が出来ていたという。よく叩き上げの経営者がよくいう言葉だ。事業がうまくいっていても、急に逆展開することもある。その時、ああ、今までは夢だったんだ。また前の貧乏生活に戻ればいいや、と思うと、不思議と力が出て、またうまく回転する時がある。

人生、夢と言えば夢。いいことも、悪いこともある。普段から質素な生活を心がければ、何も恐れることはない。若い時、給料が安くて、大変でも、一所懸命いろいろ経験すれば、それは血となり肉となる。若い人は、仕事を選び過ぎないようにしてもらいたい。

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2010年1月 4日 (月)

2010年、新聞の行方

一部の新聞が、1月1日から、一部売りを値上げしている。日本経済新聞と朝日新聞は、朝刊を160円、夕刊を70円としている。理由は、資材の高騰と広告が取れないことらしい。なお定期購読は、現状維持。だけど、これは定期購読値上げの地ならしだろうな。

今時、値上げするのは、大した度胸だ。本当にコストダウンしているのかな。企業努力足りないと思うよ。記事も大したことないんだし、人件費も高いのでは。今はネットで各種情報が取れるし、国の発信する情報は、ほとんど確実に入手できる。

ネット時代の新聞のあり方を考えるべきだよね。毎日新聞は、先の報道では、共同通信と提携し、情報入手のあり方を整理するらしい。正しいと思う。自社の記者には、特別な切り口の情報入手に専念すれば、新聞の質も上がるというものだ。

一般的な情報は、共同通信の情報で十分だから、重複する記者は、他に転用できる。まだ毎日新聞は値上げを発表してないようだが、このように事業再構築して、記事が一新されるのなら、まだ許せるかも。

でも、日本経済新聞と朝日新聞は、内容も別に変わってないし、特徴もない。日本経済新聞は、情報の量は確かに多いけれども、官庁からの情報の垂れ流しが多いから、これからどうなるんだろうね。それに一般紙化を目指したから、経済新聞としての情報価値は落ちている。むしろ、系列紙の方が面白い。

朝日新聞も、ページ数は、やたらと多いが、子どもに迎合した記事が多く、大人が読む内容は実質少ない。新聞は、本来、大人向けに記されるべきで、主婦や子ども相手に記すようになって、この新聞は堕落した(この点は、他紙も、似たりよったり)。

その他の新聞の値上げは、発表されていないが、いずれ追随するだろう。だけれど、コンテンツの見直しをしないと、どの新聞社も、苦しいだろう。新たにマーケティングすると共に、記事内容を刷新することが求められる

*追記

日本の各大手新聞には、下記の特徴がある。もちろん、あくまで、流風の印象である。

日本経済新聞・・・・官僚思考で、確実な情報重視。

毎日新聞・・・・・・・・バランスが取れて、堅実だが情報が遅い。

産経新聞・・・・・・・・防衛・軍事情報に強く、保守系。

朝日新聞・・・・・・・・いわゆる外務省チャイナスクール系、革新系。

読売新聞・・・・・・・・いわゆる外務省アメリカンスクール系、自民党支持明確。

よって、朝日新聞と読売新聞は、権力闘争に利用されやすい。そして、新聞社も、それに協力しているフシがある。

*追記

ちなみに朝日新聞の一部売りは、ある売店で聞いたところ、まだ値上がりしていない。

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2010年1月 3日 (日)

気づきを得る~謡曲『西行桜』

  花見んと 群れつつ人の 来るのみぞ

         あたら桜の とがにはありける

                       西行法師

この西行法師の歌は、何を語っているのだろうか。これを題材にしているのが、謡曲『西行桜』だ。桜の季節には、まだ早いが、一応、取り上げてみよう。

昔の人たちは、当時は、桜の花に対して、どのような鑑賞の仕方をしたのだろうか。桜は日本の花。輸入文化の梅から、日本の桜の文化へ移行して、西行の生きていた頃、どの程度、定着していただろうか、という疑問(謡曲が作られた時期と、大きくずれる)は別にして、以下、流風流に、あらすじを追いかけよう(笑)。

大体、花見客というのは、肌寒い中にも、花の色から、暖かい季節を感じ取ることもあるのだろう。そして花の精のためか、気分が高揚し、浮かれ気分になる。そのため、浮かれて花酔いしたかのように、桜の花の咲いている場所を確保しては、宴会騒ぎをする。

同様な状況が、春になると、京都・嵯峨の西行の庵のある近所に、各所の桜見物している人たちが、わいわいやってくる。普段は音信不通なのに、桜の季節になると、なんやかんやと理由をつけて押しかけてくる。

世捨て人の西行としては、心静かに、一人で、一本だけの桜の木の下で、眺め暮そうと思っていたのに、とんでもない邪魔が入った。来れば、追い返すわけにもいかず、愛想を振りまきながら、あれこれ気遣い。う~ん、やりきれん。わかる、わかる(笑)。

そういうわけで、上記の歌を皮肉をこめて詠ったのだろう。桜の木がなかったら、こんな気苦労もせず、静かに過ごせるのに。結局、こんな気苦労、もう嫌。仕方なく、彼らとともに、桜の木の下で、伏して、うとうとしていた。

そうすると、夜更けに老人が現れ、苦言を呈す。謡曲では、よくあるパターン。また出たか(笑)。すなわち「あなたは、人々が訪ねてくるのは、桜の科(とが)とお思いでしょうが、それは違いますよ。桜は人間ではないのですから、浮世の科はありません」と。

驚いた彼は、老人に「あなたは誰か」と問うと、「実は、桜の精だ」と答える。そして、ふと目覚めると、桜の下で、転寝していたものか、不覚にも夜明けまで休んでしまったようだ。ああ、夢だったのか。でも、これは何を意味するのだろうか。

多分、彼も、この歌を詠った段階で、何かしっくりくるものがなかったのだろう。花の科にするには、少し表現がまずいと気付いたのだろう。そこで、言い訳がましく、花の精を登場させた。心の中での責任転嫁(笑)。よくある、よくある、自分は悪くないということ。このように詠ませたのも、気の迷い。否、桜の精が、そうさせたのだと思いたい。

話の概要は、以上の通りだが、この謡曲は、何を語りたかったのだろうか。人間、集中している中で、少し間を入れると、気づきを得られることが多い。

以前にも同様なことを記したが、人は集中していると、周囲のことはわからなくなる。そして、案外、よいヒントは得られない。ただ、その集中から、ふと離れた時、突如として、示唆を受けることがある。例えば、深夜、ふと夢の中でヒントを得て、目覚めることがある。

これはどういうことなのだろう。基本的に何かに集中するということは続いているのだろうが、ふと意識が離れた時に、何かが反応するのだろう。脳は、人は、その意識を離した上で、一時の暇を得たのだろうか。意識と意識の溝が何かを生むのだろうか。

多くの人は、少し物事がうまく運ばないと悩むが、そういう場合は、一度立ち止まって、気分を切り替えることは大切だ。そこから、また新しい展開が見えてくる。但し、意識の底辺では、集中力は途絶えてはいけないのだろう。この謡曲は、そういうことを教えてくれているように思うのだが、穿ち過ぎかな。

*注記

もちろん、謡曲は創作で、西行が、そのように感じたかどうかはわからない。あくまでも、後世の謡曲作者が、慮ったに過ぎない。でも、いい線行っているのではと、流風は思う。作者は、世阿弥と言われているが、はっきりしたことは不明。当時は、作者は、別の人間でも、世阿弥にしておけ、となっていたような雰囲気がある。それは日本画と同じ。

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2010年1月 2日 (土)

初夢、初風呂、初詣

正月も二日目。初夢はいかがでしたか。時々、勘違いしている人がいるけれど、初夢は、1日から2日にかけて見る夢(あるいは、2日から3日にかけてという人もいるが一般的ではない)だ。大晦日から1月1日にかけて見る夢では決してない。流風は、残念ながら、初夢を見ることはなかった。寒さで、夜中に何回も目が覚め、初夢どころではなかったのだ。

初風呂は、2日の午前中に、入るもの。今年は寒いから、湯冷めしそう。でも、身体を清める意味では、仕方ない。朝早く、入ったが、外も室内も寒いけれども、湯冷めの心配はなさそうだから、不思議だ。これで気分もすっきり。

残すは初詣だが、3日に参拝するので、今日はお預け。行けば、おみくじを今年も引こう。数年前から、住む場所の移動に伴い、神社を変えたが、恋愛運を除いて、よくあたる(笑)。だが、ちょっと怖いぐらい。

ところで、おみくじの有効期限は普通と違うようだ。すなわち、願いを祈って、成就した時までとされる。さてさて、今年のおみくじは、どんな結果に。

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