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2010年1月 3日 (日)

気づきを得る~謡曲『西行桜』

  花見んと 群れつつ人の 来るのみぞ

         あたら桜の とがにはありける

                       西行法師

この西行法師の歌は、何を語っているのだろうか。これを題材にしているのが、謡曲『西行桜』だ。桜の季節には、まだ早いが、一応、取り上げてみよう。

昔の人たちは、当時は、桜の花に対して、どのような鑑賞の仕方をしたのだろうか。桜は日本の花。輸入文化の梅から、日本の桜の文化へ移行して、西行の生きていた頃、どの程度、定着していただろうか、という疑問(謡曲が作られた時期と、大きくずれる)は別にして、以下、流風流に、あらすじを追いかけよう(笑)。

大体、花見客というのは、肌寒い中にも、花の色から、暖かい季節を感じ取ることもあるのだろう。そして花の精のためか、気分が高揚し、浮かれ気分になる。そのため、浮かれて花酔いしたかのように、桜の花の咲いている場所を確保しては、宴会騒ぎをする。

同様な状況が、春になると、京都・嵯峨の西行の庵のある近所に、各所の桜見物している人たちが、わいわいやってくる。普段は音信不通なのに、桜の季節になると、なんやかんやと理由をつけて押しかけてくる。

世捨て人の西行としては、心静かに、一人で、一本だけの桜の木の下で、眺め暮そうと思っていたのに、とんでもない邪魔が入った。来れば、追い返すわけにもいかず、愛想を振りまきながら、あれこれ気遣い。う~ん、やりきれん。わかる、わかる(笑)。

そういうわけで、上記の歌を皮肉をこめて詠ったのだろう。桜の木がなかったら、こんな気苦労もせず、静かに過ごせるのに。結局、こんな気苦労、もう嫌。仕方なく、彼らとともに、桜の木の下で、伏して、うとうとしていた。

そうすると、夜更けに老人が現れ、苦言を呈す。謡曲では、よくあるパターン。また出たか(笑)。すなわち「あなたは、人々が訪ねてくるのは、桜の科(とが)とお思いでしょうが、それは違いますよ。桜は人間ではないのですから、浮世の科はありません」と。

驚いた彼は、老人に「あなたは誰か」と問うと、「実は、桜の精だ」と答える。そして、ふと目覚めると、桜の下で、転寝していたものか、不覚にも夜明けまで休んでしまったようだ。ああ、夢だったのか。でも、これは何を意味するのだろうか。

多分、彼も、この歌を詠った段階で、何かしっくりくるものがなかったのだろう。花の科にするには、少し表現がまずいと気付いたのだろう。そこで、言い訳がましく、花の精を登場させた。心の中での責任転嫁(笑)。よくある、よくある、自分は悪くないということ。このように詠ませたのも、気の迷い。否、桜の精が、そうさせたのだと思いたい。

話の概要は、以上の通りだが、この謡曲は、何を語りたかったのだろうか。人間、集中している中で、少し間を入れると、気づきを得られることが多い。

以前にも同様なことを記したが、人は集中していると、周囲のことはわからなくなる。そして、案外、よいヒントは得られない。ただ、その集中から、ふと離れた時、突如として、示唆を受けることがある。例えば、深夜、ふと夢の中でヒントを得て、目覚めることがある。

これはどういうことなのだろう。基本的に何かに集中するということは続いているのだろうが、ふと意識が離れた時に、何かが反応するのだろう。脳は、人は、その意識を離した上で、一時の暇を得たのだろうか。意識と意識の溝が何かを生むのだろうか。

多くの人は、少し物事がうまく運ばないと悩むが、そういう場合は、一度立ち止まって、気分を切り替えることは大切だ。そこから、また新しい展開が見えてくる。但し、意識の底辺では、集中力は途絶えてはいけないのだろう。この謡曲は、そういうことを教えてくれているように思うのだが、穿ち過ぎかな。

*注記

もちろん、謡曲は創作で、西行が、そのように感じたかどうかはわからない。あくまでも、後世の謡曲作者が、慮ったに過ぎない。でも、いい線行っているのではと、流風は思う。作者は、世阿弥と言われているが、はっきりしたことは不明。当時は、作者は、別の人間でも、世阿弥にしておけ、となっていたような雰囲気がある。それは日本画と同じ。

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