« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »

2010年2月28日 (日)

ビジネスを動かすには その九(内需産業の輸出)

ビジネスを活性化するのは、民間の知恵。決して政府ではない。国や行政への依存体質の高い企業は、早くその意識を脱しよう。どうも元気のない企業は内向き志向だ。そこから脱する意識が大切だ。

今回は、内需産業の輸出化。改めて取り上げるのも、どうかと思ったが、一応、流風の頭の整理ということで、ご勘弁を(笑)。

内需は、高齢化、人口減少に伴い、医療、介護、観光分野を除けば、あまり期待できない状態が、しばらく続くと見て間違いなさそうだ。となれば、小さくなる、あるいは頑張って横ばいの内需のパイの奪いあいになり、全体としての成長はあまり期待できない。

結局、内需産業の外需頼みということになる。ということで、内需産業の大手企業は、海外市場に舵を切り始めている。おそらく、それは正しい判断だろう。だが、それは利益率が低下することも十分考えられる。輸送コストの問題もある。最終的には、現地生産になる物もある。

中小企業も、海外展開には、いろんなやり方があるのだろうが、少し整理しておく。自社の商品の輸出可能性を踏まえながら、基本的には、次の通りかもしれない。

①自社製品の世界市場における見極め

果たして、自社製品が、そのまま、世界(特にエマージング諸国)で通用するのか、という問題。国内市場とは、需要環境は異なる。現状の仕様のままの輸出では、損益分岐点を今より低くする必要があるかもしれない。固定費の見直し、販売コストの見直し、数量ベースの底上げ、物流の見直し等。

②現地仕様への見直し。

日本仕様で無理であれば、現地の購買力に照らして、仕様を変更する場合も、当然考えられる。現地マーケティングが大切ということになる。過剰仕様を見直し、輸出先の経済事情に見合ったものに作り変えることも柔軟に対応する必要がある。また海外文化へのマッチングに配慮。

③リスク回避の検討

戦略を立てて、市場を見極め、テスト販売を繰り返し、じっくり進出する。いくらライバルが先行していても、ばたばた進出しないこと。自社の可能性をしっかり見極める。また資金回収や為替リスクも、当然のことながら、常に注意が必要だ。

④ルート開発

当然のことながら、現地にしっかり根付く可能性がでれば、現地の人を活用し、最適の販売ルートの開発。商習慣と回収の問題には、要注意。

⑤海外人材の育成

初めは、日本人がいろんなことを担当しても、最終的には、現地の人間に任せる方針が求められる。商売は、その地でさせてもらっているという感覚が大切。優秀な人材を日本に招き、エリート教育を施し、将来の責任者として、育成する。また、人材育成は、人間関係は大切にしながらも、自社に捉われないこと。彼らが独立したいと言っても、無理やり拘束しないこと。むしろ、ネットワークの広がりを歓迎する発想が求められる。

| | コメント (0)

2010年2月27日 (土)

米断ちの物語の教訓

子どもの頃、流風が病気になると、母は、よく「何々断ち」ということをやっていた。例えば、自分が好きな物とかを食するのを断つのである。そして、よく祈っていた。流風は、そういう姿を見ると、不思議で、食べたいものは食べればいいではないかと、思ったものである。

しかし、これが母の親心というものだろう。後年、その有難さを感じたものだ。「何々断ち」というのは、祈りの代償として、一つの生贄に近いのかもしれない。祈りという行為は、あまり馬鹿にはできない。子どもの幸せは、親の幸せ、と考えれば、祈りは、自分に返ってくる。

特別に宗教とは関係なくても、気になる人々の幸せを祈ることは、自分にとってもいいことなのかもしれない。ただ、それが偽装では困る。それは昔の物語にも、紹介されている。偉い聖人が住んでいた。彼は、米断ちをして、多くの帰依者を集め、尊敬されていた。

彼は、米の代わりに、木の葉を食していたと云う。そういう方だから、評判を聞きつけた文徳天皇は、すでに70歳にもなる彼を召しだして、神泉苑に住まわせた。

だが、それに興味を持った殿上人たちが、実際、彼に面会し、いろいろ尋ね、遊び心に、それでは、彼の屎尿を調べようということになった。ところがである。調べて見ると、屎尿から米らしきものがたくさん混じっている。

はは、これはどこかに米を隠し持って、食しているなと思い、彼が席をはずしている時に、畳をめくってみると、地面が少し掘ってあるので、掘り返してみると、布に白い米が包まれていた、という話である。

多分、彼は生米を食したのだろう。だから、十分消化せずに、証拠の品が出てしまった。結局、彼らにばらされ、逃げ出すしかなかった。このように尊いと思われている存在というのも、結構、怪しいものである。

有名な人、地位の高い人、名誉を重んじる人、いろいろいるが、一皮めくれば、市井の人となんら変わることはない。ちょっとしたことで、人々から持て囃された結果、虚偽の姿を演じなければならなくなる。ある意味、可哀想な人たちなのかもしれない。

*参考文献 『今昔物語』

| | コメント (0)

2010年2月26日 (金)

トヨタ、頑張れ!

米国で、トヨタの車が事故を起こして、その処理を怠ったとして訴えられ、トヨタの社長は、ついに米国議会の公聴会にまで足を運んだ。問題の根本は何なのか。自動車の品質に問題があったのか。それはハードなのか、ソフトなのか。また訴えた側に問題はなかったか。

こういう問題は、あらゆる企業に起こりうる。流風が思うに、トヨタの品質管理はしっかりしているから、ハード面での問題は考えにくい。制御系の問題も指摘されるが、多くの試行はされているだろう。そこに問題が生じなかったとすれば、原因は藪の中と言うことになる。

ただ、車の文化も、かなり年月が経つ。使用者は、運転操作のあるパターンが刷り込まれているだろう。仮に、トヨタの車が、環境車対応として、新しい操作システムを導入していれば、使用者は戸惑うかもしれない。実際はどうなのかわからないが、そういう部分での行き違いがあった可能性はある。

環境に優しい車づくりと、新しいシステムの啓蒙活動のバランスが悪かったのかもしれない。以上は、流風の独断の推定だが、いずれにせよ、トヨタは原因・結果を明確にして、実態を明らかにして、公表すればいい。もともと品質管理は、お手の物なのだから、その範囲を顧客レベルまで、拡げて、更なるバージョンアップしたトヨタを世界に見せて欲しい。

トヨタ、頑張れ!

| | コメント (0)

2010年2月25日 (木)

郵政は、都市部と地方を分割に

郵政の問題は、実質、民営化を先送りしている。郵貯と簡保の株式の売却も止めている。確かに、地方で、問題が起こっているようなので、仕方ない面がある。しかし、いずれ、何らかの形で、国有は止め、完全民営化せざるを得ないだろう。

国は、国債の引き受け手として、郵政を手放したくないのかもしれないが、それでは、国債問題を先送りするだけで、何の解決にもならない。民営化した郵政会社が、国債を引き受けるのかどうかは、その時の情勢によるだろう。

ただ中小零細の預金の受け手であるということであれば、運用の制約はある。それをどう考慮に入れて、郵政を運営させるか。そういうことを議論することは無駄ではないかもしれない。つまり、郵政を完全民営化すれば、いずれ郵政に代わる官営貯蓄機関を創ることになる可能性が高いからだ。

ただ、そうした問題の前に、解決すべきことがある。郵政は、都市部と地方では、その役割・重要度は大きく異なる。都市部では、それほど重要でなくても、地方に行けば、皆が頼りにしている現実がある。

すなわち、都市部は民営化に馴染むが、地方は、民営化に馴染まない。であれば、一つの組織で、それを運営することに無理があるのではないか。つまり郵政を都市部対応と地方対応に分社して、そこから、郵貯・簡保の問題をクリアした方が話が早い。

現在は、一つの組織で議論するから、堂々巡りをしていて、進展しない話になるのは、どうも都合が悪い。都市部と地方部の企業分割を検討すべきだろう。

| | コメント (0)

2010年2月24日 (水)

人生のリセットいろいろ

人は、人生に行き詰まり、リセットしたいと思う時は、誰でもあるかもしれない(概ね、周囲は、その必要性はないと思っていることが多いのだが)。だが、リセットは、遠回りでもある。人生の持ち時間は限られている。そう考えると、リセットは、あまり望ましいものでないかもしれない。

しかしながら、リセットせざるを得ない場合もある。何も自分が望んでリセットするわけでもないという人々もいる。自分で解決できることであれば、いいが、そうでない場合は、仕方ない。そういう場合は、思いきるしかない。新しい道を進むのみ。

他方、自分のわがままでリセットする場合もあろう。そして、その結果は、様々だ。その時は、気分が高揚しているからいいが、後で考えると、後悔する場面が多いかもしれない。もちろん、結果が分からないから人生とも云え、先達の経験や意見が、なかなか生かされないのは、そういうことが左右しているのかもしれない。

結局、近道と思ったことが、案外、遠回りの結果になったり、遠回りしたと思ったことが、案外、後に役に立って、最終的には、近道だったりすることもある。つまるところは、後悔しないように、自分の信じた道を歩むしかないのかもしれない。人の歩む道は、一様ではないということだろうか。

| | コメント (0)

2010年2月23日 (火)

既存の顧客を大切にするということ

1年ほど前に開業した饅頭屋さんがある。すべて手作りである。全国展開のため、工場で大量生産・販売している饅頭屋ではない。ああいうのは、無理がある。ここは、いつでも、できたてを頂けるので、結構美味しい。医師からは控えるように言われている饅頭だが、時々、2~3個、ばらで買っていた。

口に含むと、思わず、とろけそうになる。こういうのを至福の時と言うのだろうか。ところがである。少し前、買いに行ったら、大口の注文が入ったから、少し待ってくれと言う。仕方ないから、他のところに散歩に行って、再度、寄ってみたが、同じ返事。

仕方なく、買うのを止めた。そして、また行くと、同じことを言われ、終には、最近、その饅頭屋に行くのを止めた。売り切れなら仕方ないが、どうも納得がいかない。饅頭は、どうしても必要な商品ではない。むしろ衝動買いに近い。だが、いつも買えないのなら、買わない。そして東京人のように並んで待つことはできず、関西人は、並んで待つことを嫌う。

そして、久しぶりに、その店に行ったが、どうも雰囲気がおかしい。結局、店に入らずに帰ってきた。原因は、よくわからないが、一時的な大量の注文に対応し、既存の客を無視したから、顧客が離れたのではないか。もちろん、その他の原因も考えられるが。

確かに、会社を経営していると、注文は欲しいだろう。でも、一時的な大量の注文は、概ね、その時だけである。それに商品が現金引き換えでなく、掛け売りになりがちだ。そうなると、資金繰りも心配しなければならないし、余計な心配事が増える。それに詐欺まがいのことも多いし。

となると、一時的な大量の注文には、ぐっとこらえ、やはり既存の顧客を大切にするべきだろう。饅頭の利益率がどれくらいか知らないが、10円、20円の利益を大切に思い、こつこつ積み重ねる方が賢いというものだろう。

| | コメント (0)

2010年2月22日 (月)

漢方薬恐るべし

流風は、1週間前から体調が悪く、ブログでは、さも歩いたように記しているが、実は、散歩はできない状態だった。症状は、腹痛及膨満感ありで、異常な感じだ。原因は不明。鯖にあたったか、少し古かった焼き豆腐か、冷蔵庫に入れなかったレモン入りはちみつがよくなかったか。これら以外は、そんなに変なものは食していないから、よくわからない。

医者にかかるのも、なんだから、いろいろな胃腸薬を試したが、一時的に回復しても、結局、元の黙阿弥の状態が、数日、続いていた。何も食べたくない。体重は落ちていく。検診には引っかかっていないが、いよいよ、これは長引き、悪い病か。流風も覚悟を決めなきゃならないのか。

でも、便の色は悪くない。そして、昨日、ふと思い出した。数年前にも、似たような症状で、いろいろ試して、治ったことがある。ちと気づくのが遅い(苦笑)。あれは、ある漢方薬を飲んだからだ。但し、せんじ薬ではない。探してみると、まだ残りが合った。薬にも、期限があるようだが、この際、そんなことは言っておれない。

早速服用してみると、しばらくは変化がなかったが、時間を追って、何やら改善の兆し。そして、本日は、服用を続けた結果、かなり快方に向かっている。不快感は、ほぼ解消。まだ油断はできないが、治ると思う。じばらく、食事は、少しずつ増やしていく予定。今回のことは、食べ過ぎに対する警告かもしれない。だが、漢方薬、恐るべしである。

*注記

流風は、医師ではないので、漢方薬の種類は記せません。ただ今回服用したものは、粉状に製剤してあるものです。

| | コメント (0)

天水の漢詩

空は晴れ渡り、春らしい天気になってきた。いい季節だ。動きやすいし、散歩もしやすい。一年中が春だったらいいのにと思ったりする。それは叶わぬので、せいぜい、この季節を楽しむとしよう。

さて、今回は、中唐から晩唐にかけての詩人、李渉の漢詩を取り上げる。彼より弟の李渤(りぼつ)の方が有名かもしれない。940年頃、兄と共に盧山に隠居し、彼は白鹿を育てた。その鹿は、いろんな書籍を集めてきたという。よって、白鹿洞と呼ばれたらしい。後、戦乱なった時、多くの知識人が集まったという。

李渉の方は、後、請われて、出仕しているようだ。彼の詩は、『鶴林寺に題す』(*注)が有名だが、ここでは、『水月台に遊ぶ』を取り上げる。水月台とは、中国広東省にあった楼台のことらしい。

  白日を平流して、人の愛するなし

  橋上に閑行して、只だ自ら知る

  水は晴天に似、天は水に似たり

  両重の星は、碧琉璃に点ず

詩の意味は、次のようであろうか。

「穏やかな歳月が流れ、今更、この楼台に特に気を配る人もいない。夜、橋の上をうろうろ歩いて、私は、なんとなく分かる感じがする。水は晴れた空のように透明で、空は、まるで水のようである。上と下の碧いガラスのように、水辺も星が点じて、きらきらして、両方とも、なかなか面白いものだ」と。

不勉強で、この詩の背景は、わからないが、強いて流風的に、解釈すれば、戦争のために造られた楼台も、今では、それほど用はなしていない。空も水も、透き通っている。そのような平和が続けばいい、と詠んでいるように読み取れる。裏には、きな臭いにおいがしているのかもしれない。後、彼の願いもむなしく、唐は、騒々しい世の中になる。

*注    『鶴林寺に題す』

    終日昏々たり 酔夢の間

  忽ち春尽くると聞いて 強いて山に登る

  竹院に過ぎって 僧に逢うて 話するに因って

  又た浮生半日の閑を得たり

この詩については、いつか機会があれば、触れてみたい。

| | コメント (0)

2010年2月20日 (土)

『長尾和』展を鑑賞

先日、神戸ゆかりの美術館で開催されている『長尾和』展を鑑賞してきた。彼の作品は、地域と自然、そして、そこに住む庶民の生活を描いている。全体的に、素朴な味わいで、好感が持てるものばかりだ。

描き方は、ぼかしながらも、その表現は明確だ。そこに何気ない生活の奥深さを感じる。この画家は、どこにでもある人々の生活を愛していると思う。そして、生活の匂いもするのだが、文化的でもある。冷めてはいないが、客観性がある。

展示されているのは、62点だが、その内25点は、彼も被災した阪神淡路大震災時での、各所で描いたものだ。ああいう事態では、画家の表現は、瞬間芸だと思うが、その瞬間をうまく切り取り絵にされている。

それは、画家にとって、むしろ平時より描きやすいのかもしれない。それぞれが震災というエポックの後でありながら、緩和を伴う不思議な空間になっている。それはそれは微妙な空間になっている。それは彼の祈りに近い優しさなのかもしれない。

いずれ、またの機会に鑑賞したいものだ。2010年3月30日まで。

| | コメント (0)

2010年2月19日 (金)

消費税増税は、4年後でいいのか

どうも鳩山首相は、参議院選挙が目の前にちらつくせいか、政権を担当している4年間は、消費税を上げないと言明している。しかし、そんなことが本当に続けられるだろうか。確かに、特別会計の見直しで、ある程度の金は抽出するとしても、民主党のマニュフェストを実行するには、財源が足りなくなるのは、間違いないだろう。

確かに政権側にとっては、消費税は鬼門なのかもしれない。過去の政権は、上げようとして、政権を失っている。だが、今までの政権は、唐突に上げると宣言したり、流用などして国民との約束を守らなかったから国民から納得が得られなかったにすぎない。

きちんと政策を示し、これこれ必要だから、子ども手当も含めて社会保障のため、消費税をこれだけ上げるのも許してくれと言えば、多くの国民は反対しないだろう。ところが、民主党は、財源もないまま、マニュフェストの実行を急ぐから、海外金融市場から信用されなくなって、国債の格付けが危うくなっている。

国債の格付けが危うくなると、金利が上がる。景気が悪いところに、金利が上がれば、国内景気は悪化し、更に不況は強くなる。そうなれば、税収は落ち込み、国は破綻する。これは、ある程度、中長期に予測されることだが、国民は、そういうことを望まないだろう。

そうなると、数年後に急激に消費税を上げるより、今から少しずつ上げていった方が、結局は、国民の負担も小さくなる。今のままでは、政策により国債の増発が続き、結局、4年後の消費税は、5%アップより高くなる可能性もある。消費税は、最大20%も覚悟せねばならない。

そういう意味では、国民も理解しなければならない。どっちが得か、よ~く考えてみよう(笑)。笑いごとではないけどね。とにかく、そういうことも含めて、政府は、国民にきっちり納得のいくよう説明すべきだ。財政危機は、自民党政権がもたらしたものだが、民主党政権は、果たして、財政の危機感がどれくらいあるのだろう。

| | コメント (0)

2010年2月18日 (木)

くだらない提案~内部留保課税

日本共産党が、鳩山首相に、内部留保課税を提案したそうだが、くだらない提案である。そもそも、すでに課税済の法人所得に課税すること自体、誤っている。企業が将来のために、内部保留することは、企業体質の強化につながり、必要なことだ。

それは企業規模の大小に拘らず、必要な措置だ。それを労働者へ回せということらしいが、ポイントがずれている。企業経営が、基本的に分かっていないから、出る提言だ。そんなことを提案するより、租税特別措置の見直しの仕方を提言すべきだろう。

*追記

流風は、共産党の支持者ではないが、狭い範囲での政策は、まともに聞こえることもある。ただ大局観に欠ける傾向がある。国民政党になれないのは、そういうこともあるし、名前も嫌われている。最早、イデオロギーの時代でもないし、名前を変えればいいのに、古い体質から脱却できないようだ。

| | コメント (0)

嫌な週間~アレルギー週間

本日、二本目の投稿。

今週末から、暖かくなるようだ。やっと寒さから解放されるのだろうか。でも、これから嫌な奴が出てくる。それは花粉だ。花粉症で、苦しむ人がたくさん出るのだろうか。

さて、そういう季節を取り込むように、2月17日から23日は、アレルギー週間らしい。20日を中心に、日本アレルギー協会が、アレルギーの啓蒙活動を行うらしい。

流風も、アレルギーとしては、花粉症がある。若い時は、なかったが、中年になって、急に発症した。毎年、その程度はいろいろで、何もない時と、ひどい時がある。警戒しないといけない。またマスクのお世話になるのだろうか。

ところで、花粉症には、いろんな原因があるらしい。今、流風の場合、一番疑っているのは、カビだ。というのは、屋外で、くしゃみはほとんど出ないからだ。ということは、原因は自宅の室内にあるということになる。花粉症ではなくて、シックハウス症なのかもしれない。

日本は湿度が高いから、密閉性の高い室内に、カビが発生しやすいのではないか。それにカビは、目には認識しがたいものも多い。昨年、リフォームして、壁紙を代えたところ、それまでのくしゃみが不思議なくらい止まった。

そして、親が使っていた古い家具も処分したところ、その部屋でのくしゃみはほぼなくなった。もちろん、完全ではないが、相当改善したと思われる。いろんな薬を飲む前に、家の環境を見直すことも、いいのではないかと思う。とにかく、長い間リフォームしていないのなら、カビを疑う意味はあると思う。

| | コメント (0)

朝の音楽、コルサコフに切り替え

本当に寒い日が続きます。いつまで続くのだろうか。暑いのもかなわないが、まだ耐えられる。まあ、そんなことを言っても、何も改善することはない。せいぜい、厚着して、温かいものを飲んで、過ごしますかな。ガス代、電気代だけがヒートアップ。むむ、これは辛いのう。

さて、夜明けの音楽として、ショパンをしばらく聴いていたのだが、もう飽きてきた(笑)。さすがに、毎日はちょっとね。そこで、音楽を切り替えた。それはコルサコフの『シェエラザード』。これは『千夜一夜物語』のイメージをよく表現していて、雄大な感じで、クラシックの中では、好きな方だ。

『千夜一夜物語』は、社会人になってから、岩波文庫のものを読んだ。暴君に、大臣の娘シェラザードが、王妃になり、千夜一夜の物語を連ねる。寝物語にしては、大変な量だ。作者の妄想がいっぱいの作品だ。でも、砂漠の中では、何の楽しみもないから、いろんな話が積み上げられたとも考えられる。

いろんな人の妄想を編集したのが、『千夜一夜物語』だろう。中には、少し事実があるかもしれない。でも、あの厳しい自然が生み出した名作ではある。子どもの頃、母がいろんなお伽噺を読んでくれたが、千以上の話はなかった。

そういう意味では、スケールが大きい。もちろん重複する話題や、あまり面白くない話もあるが、一応飽きない話という体にはなっている。もちろん、日本にも、海外から伝わってきた話を編集した古典(ちなみに『今昔物語』は、1040話)はある。ある部分、似ている。

これらの内容はは、本来、厳しい自然環境の下で暮らすアラブの人々が、子どもたちに伝えたかったことを、誰にもわかりやすく書かれたものだと思う。流風が子ども時代に読んでもらったものは、そこから子どもが喜びそうなものが抜き出してあるが、通読すると結構、教訓書だ。いずれまた読みなおしてみたい。

コルサコフは、それを、この曲に見事に凝縮していると思う。聴いているCDの指揮は、あのカラヤン。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による演奏だ。実は、もう一枚、別の指揮者のものがあるのだが、それは最初買ったものだが、あまり気に入らないため、ほとんど聴かないので、お蔵入り。

やはり、このカラヤン指揮のものがしっくりくる。まあ、クラシックに詳しくない流風が思うのだから、多分、一般受けしやすい演奏に仕上がっているのだ思う。いつまで聴くかわからないが、しばらく寝起きの音楽にしよう。さて、いつまで続くかな(笑)。

| | コメント (0)

2010年2月17日 (水)

梅の花の詩

近所を歩いていると、いろんな家で、様々な梅が花を咲かせている。いつもいいなと思いつつ、自宅に梅は植えていなかった。それでも1年ほど前、豊後梅を植えたが、花が咲くのは、あと4~5年かかるらしい。

それまでは、他家の梅を鑑賞させてもらう。ただ花は塀越しに観賞できても、他家のものゆえ、匂いまでは、嗅ぐことはできない。不審者とは思われたくないし。早く、花を咲かせてもらいたいものだ。

それにしても、梅は、寒くて、縮こまって、ギュッと何かにしがみつくように咲いている。だから、寒風の中でも、桜のようには簡単に散らない感じだ。それが余計に寒さを感じさせる。だから、寒梅と言うのかもしれない。

残念ながら、洒落を言うつもりはないが、今年は大変寒いので、まだ有名な梅所の観梅には行っていない。観梅に行くのは、寒さの我慢比べの趣がある。桜の時期も寒いことは寒いのだが、少し気持ちが違う。桜が咲くと、春は、すぐそこだから、寒さもあまり気にならないのだ。だから、桜の下で、宴会もできる。

梅の開花時期は、大変寒いことが多い。それでも、時々、寒さの中で、茣蓙を敷いて、梅を鑑賞されている人々がいるが、ああいう真似は、寒がりの流風には、とてもできない。じっとせず、せいぜい遊行して、甘酒などを提供されるのを飲む程度だ。そのように思うと、梅は、やはり冬の花なのだろうか。

だが、

  東風吹かば にほいおこせよ 梅の花

        主なしとて 春な忘れそ

この道真の有名な歌も、梅は東風が吹けば、花が咲くとしている。東風は、「こち」と読むが、春風の意味だ。梅は、春を感じとって、咲いているのだろうか。となると、梅は、やはり初春の花なのだろうか。

さて、前置きが長くなったが、梅を題材にした漢詩を今回は挙げておこう。それは蒙斎という人によるものだ。本名は、蔡正孫。蒙斎は号。南宋時代の人だ。題は、ずばり『梅花』。かの人たちは、梅に、そういうイメージを持っていたのだろうと云う詩だ。

  一樹の清標 万古同じ

  風流の人物 品題の中

  若し玉色の程明道に非ずんば

  便ち是れ深衣の司馬公

梅は、寒風の中を凛として咲く、品のある花とされたようで、この詩では、人物評に使われている。貞操堅固な人を指す。何も女性だけに向けられた言葉でもなさそうだ。貞潔であると言った方がいいのか。

まあ、意外と、当事者には、辛い選択かもしれない。行きかがり上、そうせざるを得なくなったとも考えられる(笑)。人は、ある程度、周囲に形づくられるのは避けられない。でも、こういう難しい生き方をした人たちは、後世の評価は高い。ただ、梅の花は、生まれながら、そういう性分を持っている。人間も、同じことなのかもしれない。

また同じく南宋の方秋厓という人が、同じ題、『梅花』を、詠っている。

  梅有りて 雪なければ 精神ならず

  雪有りて 詩無ければ 人を俗了す

  薄暮 詩成りて 天また雪ふる

  梅と併せて 十分の春と作(な)す

詩人には、「梅と雪」、「雪と詩」は、両方なければならないものらしい。この詩では、詩が丁度出来上がった頃に、雪が降ってきて、咲いている梅と一緒と考えれば、すべて揃い、満足、満足と詠っている。ということは、梅に詩の組み合わせは、ないのだろうか。

それはそれとして、梅は、しばらく、その花と匂いで楽しませてくれるようなので、やはり、寒風の中、上記の詩の意味を確認するためにも、一度観梅に行かねばなるまい。

*追記

がらんとした流風の部屋に、「梅に鶯」の色紙を飾ってみた。近所にも、鶯の声はまだだ。自宅にも、鶯が来て欲しいが、まだ梅の花がない。

以前にも記したが、実際、梅の枝にとまるのは、メジロ。もちろん、「ホーホケキョ」とは啼かない。本当のウグイスは、流風は、電線の上で、電線音頭をとっている(笑)のを毎年見かける。電線に鶯である。だから、梅に鶯は、色紙の上だけである。

また、付け加えると、色紙は、確かに「梅に鶯」となっているが、描かれているのは、間違いなくメジロ。でも、「梅にメジロ」とは、誰も書かない。

| | コメント (0)

2010年2月16日 (火)

飲食店での喫煙マナー

先日、施設の入口付近(外側)に置いてある灰皿の周りで、若い女性が、ぼっ~としながら、煙草を吸っていた。最近はよく見る風景だ。以前は、男が吸っているのをよく見たが、この頃は、女性の社会進出に伴い、これらのケースによく出くわす。最近は、喫煙者たちは、煙草を吸う場所に苦労しているようだ。

流風は、煙草を吸わないので、彼女らの気持ちはわからないが、多分、ストレスがたまっているのだろう。それとも同僚に勧められて、それが癖になったのだろうか。色々考えられる。煙草は、女性には、あまりよくないと言われるが、そんなことには無頓着なようだ。

さて、流風は、最近は、あまり外食はしないのだが、それでも時々、気分転換のため外食をする。先日は、昼食に、焼き鳥定食を食べようと、ある店に入った。結構人が入っており、店の人から、席を指定された。ちょうど横側には、30代の女性が食事中で、注文して、しばらくして料理が来た。

その時、女性が食べ終わったようで、おもむろに煙草を取り出し吸いだした。だが、これは災難だった。流風は煙草の煙が苦手(若い時は、それほどでもなかったが)で、咳き込んでしまった。それでも、その女性は煙草を吸い続け、ついには2本目を吸いだした。こういうケースは、男の喫煙者ではたびたび経験しているが、女性では初めてだった。彼女は、思いやりのない、おっさん化しているのだろう。

料理は美味しくないし、煙たいし、咳き込むし、辛かったので、早々に食事を終え、退散するごとく店を逃げ出した。残念ながら、店は禁煙席もないし、分煙もしてなかった。あの女性は、当然の権利のごとく、煙草を吸ったのだ。あれ以来、あの店には行っていない。

つい先日も、とんかつ屋で、そういう事態に遭遇した。流風が食べていると、後から来た男の客は、座ると同時に、煙草を取り出し吸いだした。煙たいし、食事もまずくなる。店は、分煙も、昼食時禁煙にもしていなかった。

煙草を吸う人の気持ちもわからないではないが、もう少し、マナー心を持ってもらいたいものだ。喫煙者には、喫煙者の言い分があろうが、非喫煙者に対しても、心配りが欲しいものだ。そして、店側も、お昼ぐらいは、禁煙対応してもらいたいものだ。

*追記

報道によると、厚生労働省は、事業者が受動喫煙を防ぐよう義務付ける労働安全衛生法の改正案を来年の通常国会に出すよう検討しているらしい。その道のりは、厳しいものがあるかもしれないが、是非実現してほしいものだ。現状だと、非喫煙者としては、個店の飲食店利用は、避けるしかない。

(法案の骨子)

①通常の事務所や工場では全面禁煙か、喫煙室の設置を義務化(現在はガイドラインで強制力がなく、なかな徹底しないため)。

②従業員が煙にさらされる飲食店や宿泊施設では、従業員がマスクを着用したり、換気対策の徹底で有害物質濃度を低くする。

③罰則規定は未定。

| | コメント (0)

2010年2月15日 (月)

世評という危うさ

人の評価はなかなか難しいものであるが、世評で評価してはならないというのは、一つの真実であろう。凡そ、世間の評判というものほど、あてにならないものはない。それはマスコミによる評判も同様だ。ある時、彼らを持ちあげ、そして、ある時、非難する。

彼らの評価は、極めて現象的であり、一部分しか見ていない。かつては現在ほど、ひどくなかったが、現在は、庶民受けの良い迎合的発想が多く見受けられる。多くの国民は、それを危ういと思いながらも、いつの間にか流されている現実がある。

それは過去の報道を検証してみればわかる。彼らの報道が、いかに刹那的か。一時の現象しか見ていない。いや、もっと悪質かもしれない。すべてとは、言わないが、ある程度の流れを知っておきながら、恣意的に情報を流したり、留めたりしている。

マスコミの姿勢は、世論は、自分たちが作るものと思っているらしいが、それ自体が驕りのように感じる。それを当事者は自覚していないことが多いから、性質(たち)が悪い。だから、そういうところで、作られた世評というものは、彼らに都合よく、作られたものになりがちだ。つまりマスコミが目立つことに本心があるのではと、疑いたくなる。

ところが、本来、情報の取り手の私達が、情報を疑わなければならないのだが、民主主義の理解がまだ十分でないのか、鵜呑みしてしまう人々が多いのは残念だ。マスコミの情報が、彼らの取捨選択で、情報が創られていることを今一度、確認する必要がある。

| | コメント (0)

2010年2月14日 (日)

ネットラジオ、間もなく始まる

ネットで、3月15日から、関西でも、ネットラジオ放送が流されるらしい(民放ラジオ13局合同で、首都圏と関西のみ放送)。少し遅すぎた感あり。でも、AM各局は、放送が入りにくい状態のものが多い。現在は、アジア各国の電波が強すぎて、日本の放送局の番組が聞き取りにくい。

こうなれば、ラジオのネット放送はうなづける。ただ、大阪のAM放送局の番組は、テレビ同様あまり面白いものがなく、コンテンツの見直しをしない限り、ハードを改善しても、厳しい状態は続くかもしれない。

テレビ同様、うだうだと井戸端会議のような放送が多い。母は、早くから、そのことを訴えていた。ラジオで聞きたい番組は、ニュース以外、ほとんどないと。長寿番組も、続ければいいというものでもない。担当者は、結局、惰性で放送しているように聞こえる。また聴取率を上げるため、定期的に、景品で釣るやり方も気に食わない。

そんなことやっても、くだらないものはくだらない。景品で一時的に聴取率が上がっても、何も改善しない。くだらない番組であることは、若者も、そう思っているらしく、自己満足的放送内容の見直しが早急に求められる。

もっと大人の放送をしてもらいたいものだ。それが出来ないのなら、音楽をただ流した方が、まだましだ。これなら、時々、ニュースと天気予報、交通情報を流すだけでよく、経費も安くつく。果たして、ネットラジオで、どのような改善が見られるか、興味深々だ。

| | コメント (0)

テレビの視聴率を改善するには

テレビの視聴率が低下して、テレビ局は赤字らしい。それはそうだろう。くだらない番組が多すぎる。これは流風だけの意見ではなく、幅広い世代がそう感じている。若い人も、その点では、全く意見が一致する。多分、テレビ業界に人材がいないのだろう。流風の独断的見解で、問題を提起しておこう。

①そもそも視聴率の取り方に問題があるだろう。

流風は、テレビを視るのは、ほとんど録画だが、録画は視聴率に反映されないらしい。それで、頓珍漢な番組改編している。期待した番組がなくなったり、くだらない番組がいつまで放送されたりする。視聴率のデータの取り方を改善すべきだろう。

②視聴率評価が早すぎる。

そして、あまり短期の視聴率は気にしないことだ。価値ある番組は、継続することによって、多くの人に理解される。スタートして、ちょっと視聴率が低ければ、すぐ改編しようとする姿勢が頂けない。番組は育てるものだ。それができないのは、番組作りに命をかけていないから、そういうことになる。

③良質の番組と粗悪な番組の放送時間がちぐはぐである。

良質の番組は、視聴率のよくない時間帯に放送し、粗悪な番組がゴールデンタイムに放送されている。顧客感性と放送側の感性に大きな隔たりがある。時々、抜き打ち的に視聴して、粗悪な番組のスポンサーの商品は買わないことにしている。視聴者が、粗悪な番組を無くしていく必要がある。

④中途半端な時間にスタートする番組は不要。

他局との競争に打ち勝とうとするテクニックかもしれないが、あまりにもわざとらしい。番組のコンテンツで競争するべきだ。切りのよい時間に番組はスタートさせるべきだ。

⑤時間帯分析がいい加減だ。

どの時間帯に誰がどのように視て、誰が視ていないのかの分析が出来ていないように感じる。多くの世代対応の番組を作ることは本来不可能だろう。多くの人はそれぞれ視聴できる時間に限界がある。時間帯と、視聴可能時間のマッチングの精度は高める必要がある。

もちろん、録画という手段があるから、視たい番組があれば、録画すればいい。だが、録画したい番組もそんなにない。せいぜい映画ぐらいだろうか。

⑥密度のある番組作りが足りない

だらだらとした長時間番組がある。多くの芸人たちを使って、うだうだ話す番組は、どうしようもない。公共の電波を使って、こんな番組を作っている放送局は、本当に必要のなのだろうか。

更に、一見真面目そうな時事番組も、本質を読み取っていなくて、ただうだうだと、いろんな人が話して、時間が消費されるだけである。こんな番組を見て、多くの人たちは、時間を奪い取られるである。結果的に、テレビはつまらない存在になる。

放送界は、テレビの需要ターゲットをきちんと絞り込んで、もっと、まともな放送をするべきだろう。彼らの需要に合った番組構成が必要だろう。そして、スポンサーも、きちんと放送番組の内容を精査すべきだろう。

⑦視聴者感性の低い人たちが制作しているのか

視聴顧客感性にあった人が番組を制作する必要があるが、若い人が中心になって作っているという。制作者は、テレビ需要者に合わせて、適性に、いろんな年代層の人材を使うべきだろう。若い人だけでは、顧客の望むものは提供できないから、ますます視聴率は低下する。

⑧お笑いタレントが露出しすぎ。

彼らは、コストが安いのかもしれないが、結局、番組の質を低下させ、テレビ局の評価を落としている。もちろん、すべてのお笑いタレントが悪いとは言えないが、視るに値するのは、一握りにすぎないだろう。中途半端なお笑いタレントは使わないでもらいたい。

⑨同じ俳優、同じタレントを同時に、各局は使い過ぎるのは賢くない

どのチャンネルを変えても、同じ俳優、同じタレントが出ていると、視たくなくなる。それはテレビ番組を見た段階でパスだ。日本の俳優、タレントは、そんなに層が薄いのか。

| | コメント (0)

2010年2月13日 (土)

電線コード断線による火災事故多発

本日2本目。今回は、twitter的記事。140字内には収まらないけれどね。

電源コード断線による火災事故が多発しているらしい。電気あんかやコタツのコードの断線で火災が発生しているらしい。多分、一番いけないのが、たこ足配線。そして、コードの上に物が乗っている場合。またコードの本体へのぐるぐる巻きもいけないそうだ。

これは流風も、電気あんかは使わない時は、ぐるぐる巻きにしている。昔からやっているぞ!危ないのか。でも、親も昔からやっているが、火事はなかった。運が良かっただけなのか。

でも、電気あんかを使わない時、どのように保存すればいいのだろう。コードをだらりとしたまま保管するのも変な感じ。となると、炊飯器やアイロンや掃除機のように、巻き取り式の電気あんかがいるぞ。電機メーカーさん、開発のチャンス(笑)。高くなるのだろうか。

しかし、火事が起こることを考えれば、仕方ない。でも、電気あんかなんて昔からある。ところが、今まで、そういう物は開発されなかった。ということは、最近のコタツや電気あんかの品質に問題だと言うことか。それとも、昔から事故は起こっていたが、消費者には知らされていなかったのか。大いなる疑問。いずれにしろ、対策は取りたい。どうすればいいのだろう。

| | コメント (0)

スポーツ指導者の資質

相撲界では、礼儀礼節を汚した横綱が、問題を起こして、やっと引退した。彼は、基本的に、日本の相撲を理解していなかったし、理解しようともしなかった。相撲を、ただのスポーツとみなして、単に強ければいいと判断したようだ。相撲は、相撲道と云われるように、日本古来の文化だ。

横綱ともなれば、強い以上に、威厳がなければならない。多くの子どもたちも見ているわけだから、礼儀礼節の面で、その模範にも、ならなければならない。そういう横綱の役割も理解できなかったようだ。あくまで、モンゴル相撲のように、ただ強ければ、誰も文句は言わないと思ったのかもしれない。

しかし、だからと言って、彼だけを責めるのは酷である。他国からきて、日本の文化は何も分からなかったわけだから、指導者は、その点をきちんと指導するべきだった。残念ながら、あの親方はできていない。だが、他の部屋のモンゴル出身の力士が問題を起こしているかと言えば、そうではないだろう。

やはり、きちんと指導しなかった指導者に問題があるのだ。親方には、相当重い責任がある。だが、相撲協会は、たった二階級の格下げで終えている。これは明らかに片手落ちで、彼も引退させて当然だろう。彼に指導者としての資格はない。

そして、今回、冬季オリンピックで、おかしな格好をした選手が、日本オリンピック委員会から、クレームが付けられている。彼は、日本の代表として出ている自覚がない。彼も、かの横綱と同様、強ければいいと思っているのだろう。

だが、オリンピック選手は、税金という国費を使って、日本の代表として行くのだ。どこかの民間施設で、競技するのとは大きく違う。国の代表であれば、それなりの身なりや態度をする必要がある。日本人の代表で行くのだから、国民に恥をかかせてはならない。

しかし、この選手も同様に、指導者に問題がある。オリンピックに行くことがどういう意味合いがあるのか、選手によく理解させていない。選手には、心技体をバランスよく、整わせる必要があるが、メダルの圧力のためか、勝つことばかりに集中させすぎる。そのため、人間としての涵養を養う点に指導が欠けている。

スポーツ指導者は、単にスポーツ指導がうまいだけでは駄目だろう。彼らが、その後、人間として、社会人として、誤りなき人生を送れるように指導しなければならない。それが指導者の務めだろう。

*追記

そして一流のアスリートが、必ずしも優れた指導者になれるとは限らない。一流のアスリートは、自身が成功例であるため、そのことを押し付けがちだから、指導がうまくいかない傾向がある。よって指導者として、別途、体系的に学んで、人格的にも優れた者のみ、その資格がある。その点、現在のスポーツ界は、勝つことを優先して、単に強いものだけを指導者にしている。これは戦前より、選手育成における人格の涵養の面で、問題が多いと云われる。

| | コメント (0)

2010年2月12日 (金)

春の夜の歌

どうも気温の変動が激しい。急に寒くなったり、そうかと思えば、4月の暖かさになったりで、体調維持が大変だ。これが春なのだろうか。だが、いずれ、暖かい日が続くようになるのだろう。春先というものは寒いものだが、いずれ暖かくなると思うと、気持ちは軽い。それが秋との違いだろう。

でも、感傷的な詩もある。李白の詩に、『春夜洛城に笛を聞く』というものがある。それは次のようなものだ。

  誰が家の玉笛か 暗に声を飛ばす

  散じて春風に入って 洛城に満つ

  此の夜曲中 折柳を聞く

  何人か 故園の情を起こさざらん

解釈としては、次のようだろうか。

 「どこの家で吹いているのだろうか。笛の音が聞こえてくる。春風に交じって、洛城に満ち満ちている。今夜流れてくる、この曲の中に、“折揚柳”という調べを聞いた。この曲を聞くと、誰でも、故郷を思う心が起きることだろうよ」と。

この詩の裏には、ずっと前、故郷を出る時、「折揚柳」曲と共に送られたが、いつか帰ろうと思いつつも、あっという間に月日が経ってしまった。ああ、故郷が懐かしいことよ。あの時、送ってくれた人は、どうしていることだろう、と意が隠されている。

送ってくれた人というのは、女性という意味も含まれているのだろうか。お互い、想いはあったものの、伝えられず、今に至っているというニュアンスあり。皆さん、とりあえず想いは伝えましょうね(笑)。女性のみなさん、バレンタインデーは、もうすぐですよ。結果を考えたら駄目ですよ(笑)。

また、脱線してしまったが、詩の中にある「折柳」とは、「折揚柳」の曲のことで、昔、人を送る際、柳の枝を丸く曲げて円にして、また帰ってきて、お会いできることを楽しみにしているという意を示した。

そういうと、春になれば、この時期、卒業、進学、就職、転勤あるいは退職などで、人々の移動により、いろんな別れがある。それぞれの別れで、人々は感慨深くなる。でも、別れは、終わりであり、始まりでもある。それでも、懐かしい人とは、つまるところ、ぐるっと回って戻ってくることを期待したいものだ。そして、新しい出会いに期待しよう。

| | コメント (0)

2010年2月11日 (木)

ビジネスを動かすには その八(百貨店業界)

ビジネスを活性化するのは、民間の知恵。決して政府ではない。国や行政への依存体質の高い企業は、早くその意識を脱しよう。どうも元気のない企業は内向き志向だ。そこから脱する意識が大切だ。

今回は、百貨店業界を見てみよう。関西でも、京都の四条河原町の阪急百貨店が閉鎖退店するようだが、百貨店業界は大変らしい。大きな百貨店同士の提携・合併は進んでいる。阪急の退店も、提携合併がらみとの噂もある。

また、地方の百貨店も同様な感じだ。顧客は、都市部へ逃げる上に、消費が落ち込み、ダブルパンチだ。経営コストを引き下げる努力をしないと生き残るのは大変かもしれない。

これらのことも含めて、今までにも、百貨店の問題については触れたが、少し整理して記してみよう。ただ都市型百貨店と地方百貨店では、その課題も違うが、それは特に区別しない。以下、感じたことをランダムに記していこう。ただ、戦術的な解決策は示せないかもしれない。

①まず、なぜ、百貨なのか。

百貨店は、そもそも百貨が揃うから百貨店なのだろう。確かに、百貨店に行けば、多種多様の商品が並んでいる。ただ、いろんな物を揃えるという、それだけなら、扱う物は違っても、百円均一の百円ショップとなんら変わらない。違いといえば、百貨店は、高級品で、品質がよく、高いイメージだ。

そして、「百貨」を、消費財のすべてが揃うのことを意味するのであれば、最早、現代では、百貨店だけでは無理かもしれない。百貨店は、もう一度百貨の意味を再確認し、顧客が期待している百貨とのズレを認識すべきだろう。そうすれば、解決策は見つかるかもしれない。

②物だけを売っていないか。

それに、最早、「貨」は、物ばかり売ることで満足してはならないだろう。アフターサービスだけではなくて、いかにサービス商品を揃えて売るか。物と物の組み合わせ、物とサービスの組み合わせ、サービスとサービスの組み合わせを要する。それらは百貨店の信用と人のブランドを組み合わせでの提供が他業種との差別化を生む。

③百貨店だけで、扱っている商品か。

最近は、百貨店だけで取り扱っているものは大変少ない。大きなスーパーでは、百貨店同様の物が扱われている。そして価格も安い。こうなれば、百貨店で購買する意味はほとんどない。

他の業態との差別化戦略はあるのだろうか。他業態が百貨店のお株を奪い取っている現在、新たな戦略が望まれる。存在価値の再確認は必要だ。

④販売手法が旧態依然としていないか。

そして、高く売るためか、説明しないと、顧客に納得が得られないのか、やたらと店員が多いことだ。もちろん、正社員だけでなく、その多くはマネキンと呼ばれる人たちかもしれない。そのことを含めても、多いのは事実だ。平日とか、時間帯によっては、顧客を上回る店員がいることはよくある。

そのように考えると、自社責任商品と、単に場所を貸しているのに過ぎない商品があるが、立地の良さから考えると、全体として見れば、あまり効率のよい商売ではないかもしれない。ネット販売も含めて、ビジネスシステムの見直しが必要だ。

⑤なぜバーゲンばかりするのか。

母もそうだったが、百貨店ではバーゲンの時しか買わなかった。百貨店で正価で買うのはアホだとよく言われた。その点、男は無頓着で、正価で買ったりする。それを知ると、アホ・バカ呼ばわりされる。女性はシビアだ。百貨店の顧客の大半が女性であることを踏まえると、そこに問題がある。

だが、百貨店は、なぜバーゲンばかりするのだろう。多分、それは売値に自信がないからだろう。つまり商売がいい加減なのだ。最近は、それを見透かされて、百貨店で見て手にとって、買うのはネットで、という若い人たちも多い。そして、それは親世代にも波及している。こうなれば、百貨店ビジネスはもう成り立たない。

基本的に、百貨店の原点、越後屋(後の三越)の正札商売に戻るべきだろう。値付けが甘いから、バーゲンばかりになるのだ。自信を持って値付けすべきだ。

⑥経営効率に問題はないか

韓国の百貨店が好調らしい。日本の百貨店と事業環境は異なるだろうが、参考になることも多い。百貨店は、不動産・設備管理費等空間コストと接客等人材コストがほとんどだ。これらをいかに効率的に運用するか。

百貨店の方針にもよるだろうが、家電量販店や百円ショップのような運営方法で成り立つ百貨店もあるのではないか。彼らの経営システムに学ぶ必要もあるのではないか。変なプライドは捨てた方がいい。

⑦地域に根ざしているか

都市部の百貨店を除けば、地域の百貨店は、地域との共存が必要だ。この点、大手スーパーは、出店効率を重点課題に置いたため、あまり成功していない。地域との連動的な動きはなく、あくまで「個店」だ。これはあまりよくない。「個店」=「孤独店」だ。

百貨店も同様で、百貨店内で、固まるのではなく、周辺環境を意識して、積極的に周囲に働きかけていく意識が必要だ。顧客開発も、共同でやってもいいはずだ。共同販促もいい。共同の売り出しもいい。棲み分けは十分可能だろう。巻き込む気持が経営者にほしい。地域が何かをやって、生き生きとしておれば、人は集まる。

⑧季節ごとのハレとケの区別を明確に

従業員も正月ぐらいは休ませるべきだ。従業員は、別の意味で顧客だ。従業員を大切に扱うことは、顧客を大切に扱うことにつながる。従業員の生活自体が、ハレとケの区別が出来ないようでは、大きな成果は望めないだろう。正月に店を開けたりしているが、これはハレとケの区別が経営者に出来ていないということ。

ハレとケを分けることは、あらゆることに、けじめをつけることにつながる。そういう季節感を出すのは、必ずしも、店の飾り付けのみではない。人の意識を含めて、どのように運営しているかが問われている。百貨店全体が文化の発信場所であることを忘れていないか。

以上、色々記したが、基本的には、百貨店の存在価値を経営者、従業員共に、再確認してもらいたいものだ。

| | コメント (0)

2010年2月10日 (水)

香炉峰の雪

本日は、昨日に続いて暖かいが、先日は、雪が少し積もった。また明日から急激に温度が下がり、寒くなるようだ。本当に体調管理が大変だ。

さて、今回は、その雪を題材にした文学に少し触れてみよう。それは「香炉峰の雪」。「香炉峰の雪」という文字に接したのは、学生時代の国語の教科書だ。『枕草子』に清少納言が、中宮定子とのやりとりで、自分の教養あることを自慢たらしく記している。

学生時代に学んだ教科書にも、出典は記してあったと思うが、古文が苦手だった流風には、なかなか思い出せない。少し気になって、もう一度確認してみた。そうすると、白楽天の詩だった。

40代半ばで、直言により左遷された彼は、「香炉峰下草堂東壁に題す」という詩を残した。全詩はもっと長いが、その一部のみ、備忘録として、記す。

  日高く睡(ねむ)り足りて 猶起くるに慵(ものう)し

  小閣衾を重ねて 寒を怕(おそれ)ず

  遺愛寺の鐘は 枕を欹(そばた)て聴き

  香炉峰の雪は簾を撥(かか)げて看る

  匡廬(きょうろ)便(すなわ)ち是れ名を逃るるの地

  司馬仍(な)お 老を送るの官と為す

  心泰(ゆたか)に身寧(やす)ければ 是帰処

  故郷何ぞ独り長安に在らん

この詩は、白楽天が、堂を作り、落成記念に、東の壁に書きつけたものとされる。今でも、芸術家であれば、やりそうなことだ。そして、詩の内容は、プラス思考なのか、負け惜しみなのかは、わからない様な感じだ。詩の意味は、流風的に解釈すれば、次の様だろう。

「日は高くなり十分眠ったが、また起きるのも、うっとうしい。寝室では、寝巻を重ねて着ているので、寒さも、そんなに気にならない。遺愛寺の鐘は、寝ながら枕を傾けて、聴いている。香炉峰の雪は簾をかかげると、ちょうど見える。

(自然が豊かで何もない)匡廬という所は、丁度、名を隠すには絶好の場所だ。(左遷されたため与えられた)司馬という職は、本来、隠居のやる閑職だ。だが、心身健康であれば、こんなにいい所はない。故郷というのは、何も長安に限ったことではない(と考えることにしよう)」と。

仕事をしておればいろいろある。いいと思って提言したことが、上司の逆鱗に触れ、左遷されることもある。ただ、彼のようにプラス思考で捉えることも大切だ。左遷は、熱(ほとぼり)が冷めるまで、少し頭を冷やしてこいという上司の情けの場合もある。

会社を辞めさせられなかったら、そのように理解して、プラス思考することも人生においては大切だ。新しい場所で、また新しい発想で、次の展開を考えることができる。若い人たちも、これから色々あるだろうが、くよくよしないことだ。ピンチと思った時は、チャンスなのだ。

| | コメント (0)

2010年2月 9日 (火)

無恙(むよう)

無恙(むよう)という言葉がある。中国の故事からきている言葉だ。日本語読みすれば、「つつがなし」という読みになる。この言葉は、それなりに誰でもご存じであろう。でも、最近は、あまり使わないかも。

流風も、一度使ってみようと思うのだが、この歳まで、未使用。親から「元気にやっているか」と問われたら、「恙無く暮らしております」と伝えたかった。でも、お前、何言ってるんだと、言われたかもね(笑)。

まあ、一般には親には使わないかも。世話になった人とか、恩師に対しては、いいかもしれない。この「無恙」の「恙」とは、毒虫のことを指しており、人間の心を喰う虫らしい。確かに、ちょっと油断すると、心の隙間に入り込む悪い虫、確かにありますね。

会社の偉いさんには、ごますりという悪い虫、政治家には、褒め殺しという虫もありました。女性が女性を褒める時も要注意(笑)。いずれも、自分が大したことないと自覚しておれば、いいのですが、ちょっと意気高くなると、危ない、危ない。

そうした言葉に、いつの間にか、心の中に驕りが蝕む。これでは、とても無事ではいられない。心を喰われないように、ご用心、ご用心。

| | コメント (0)

2010年2月 8日 (月)

公益のために使う

戦前は、貧富の差が大きく、現在の日本の格差どころではなかった。しかしながら、代々続くお金持ちは、それなりの見識を持っていた人々もいた。市井の中に見どころがありそうな若い人間がいると、彼らに投資した。

それも最近の投資家のように、回収を急ぐことなく、大抵が出世払いでいいというようなやり方だったと聞く。これはと見込んだ人間には、投資するという姿勢だ。駄目だったら、自分の鑑識眼がなかったということで諦める。

そして、母から伝え聞いたところによると、祖父も投資してもらった口らしい。職人だった彼は、腕がよく、早くから独立の志向が強かったが、資金がない。その時、どこから聞きつけたか、ある篤志家が無利子で資金を用立てしてくれたという。もちろん、何の担保もなしである。貧乏だから、担保になりうるものは何も持っていなかったそうだ。

その後、小さい商いながらも、それなりに成功して、後、お礼と共に、倍にして返したらしい。篤志家の方も、祖父が期待に応えてくれたことを大変喜ばれたそうである。祖父は、それが自慢らしく、よく母に語っていたという。ただ、その人には、一生、足を向けて寝られないとも話していたという。

さて、戦前、山形の地で、大地主の本間家があった。そこの八代目の当主に本間光弥がいる。明治、大正にかけて活躍した。活躍したと言えば、聞こえはいいが、表だって目立つことなく活動したらしい。ただ大人(たいじん)の風貌で、会ったいかなる人々も包み込んだという。

その彼が次のような面白い言葉を残している。誰に対して言ったものかはわからないが、多分、子どもたちに伝えたもののように思う。

「純収入の四分の一を以て、家計に充て、残余の四分の三を、国家、社会、公益のために費やすべし」と。

これは、一般庶民には当てはまらない。庶民には、不可能な数字だ。当時の本間家の純収入がどれだけあったかわからないが、相当の金額があったから、言える言葉だ。

だが、金持ちだからといって、皆が皆、そういうことをしているわけでもない。でも、彼は、この言葉を残した。それは多分、収入の多くが多くの人に支えられていることを認識していたからだろう。

現代の大金持ちの方々が、どれだけ、そのような認識をしているだろうか。現代の篤志家は、どこにいるのだろうか。そして、篤志家のお眼鏡にかなう人物は、果たして、いるだろうか。

*追記

祖父が篤志家から、いくら出してもらったかは、はっきりと覚えていない。子どもの頃、母は数字を上げていたと思うが、思い出せない。その頃、祖父は、工場周辺では有名だったらしく、親のような年輩の職人さんが、たくさんの御釈迦(不良品のこと)を出して、3個しかできないものを、彼は、ほとんどミスなく、同じ時間で、10個作り上げていたらしい。若くして、すく゜職工長になった。当時は、出来高制で実力主義だった。

| | コメント (0)

2010年2月 7日 (日)

夜明けのショパン

暦上、立春は過ぎたというものの、この寒さは厳しい。しばらく、三寒四温の日が続くのだろうか。寒いので、部屋の中で、じっとしていたいが、一万歩の目標はクリアしたい。それに、寒風の中を歩き続けると、結構体調がいい。部屋の中で運動もいいのだが、外の空気に触れることは意味がある。

それでも、朝、寝間から出るのは一苦労。寒さで、夜中に何度か目が覚めるから、二度寝、三度寝の結果、流風にしては、珍しく朝寝坊が続いている。三度目の目が覚めると、窓から少し明かりが入ってくる。そして、CDを聴く。

CDの曲は季節によって変えているが、今の時期は、ショパンが似合う。時期によっては、あのピアノの音がうるさく感じるのだが、この時期は大丈夫だ。そういうと、今年はショパン生誕200年。いろんな催しがあるようだ。クラッシックに詳しくない者としては、あまりそういう催しには関心がないが、一枚しかないショパンのCDを買い足そうかと思っている。

今、持っているのは、「24プレリュード/スケルッツォNO.2」というもの1枚のみだ。演奏は、あのマルタ・アグレリッチ。感性豊かなゆえか、3回も離婚した女性だ。彼女のお相手は、作曲者、指揮者、ピアニストと、ほぼフルコースを経験している(笑)。

どの相手も、彼女を満たすことは難しかったようだ。ないものねだりをしたのだろう。相手に完全を求めると、そういうことになる。彼女は、自分の演奏にも完璧を求め続けているのだろうが、人間には求めてはいけないことが分からないのだろうか。

それはそれとして、彼女の演奏は、素人判断だが、軽やかで、雰囲気がある。もちろん、他の演奏者と比べてもいないし、専門家でもないし、音感もよくない流風が、そういう判断をしていいのか、怪しまれるが。

ただショパンの曲が嫌いでないから、そう感じるのかもしれない。そういうことで、しばらくは、朝の目覚めは、このCDのお世話になる。さて、次は、ショパンのどんなCDを買い求めようか。皆さん、何かお勧めはありますか。

| | コメント (0)

2010年2月 6日 (土)

夫婦の愛の三原則

「全国亭主関白協会」(*参考参照)によると、そもそも「関白」はナンバー2で、ナンバー1は、「天皇」、つまり家では、「妻」ということらしい。ええっ、ということは天皇は女性。こういう問題は、いたずらに騒ぐと、また、どこかからお叱りを受けるので、軽く流す(笑)。

それはそれとして、そこの会長が仰るには、家庭では、男は、そのことを早く、悟った方がいいと忠告していた。そういわれると、なるほどね、と感じないわけでもない。もう昔のことだが、手遅れだが(苦笑)。

そして、「愛の三原則」等を提唱されている(*参考参照)。その内、「愛の三原則」は次の通り(その他の原則は、参考にて直接アクセスして、確認ください)。一応、頭では納得するよ(笑)。それが簡単にできないから、夫婦のいざこざは絶えないわけですが(苦笑)。

  ●「ありがとう」を、ためらわずに言おう

  ●「ごめんなさい」を、恐れずに言おう

  ●「愛してる」を、照れずに言おう

「ありがとう」、「ごめんなさい」は、わかっても、西欧的に「愛してる」とは、なかなか言えないもの。でも、この会長によると、心はこもっていなくてもいいらしい。どうもイタリア人的でいいようだ(笑)。それでも、女性は、そう言われると安心するらしい。

そして、夫は、所詮、妻には勝てない。初めから、白旗を上げていた方がいいことのようだ。変な意地を張ると、取り返しがつかなくなる。妻の方が上手なのだ。適当に、妻の掌で、弄ばれるのがいいのだろう。

でも妻が暴走したら、どうするのか。皆が皆、常識ある妻とは限らない。でも、日常から、慎重に妻と接していたら、暴走は防げるのかもしれない。

若い男たちは、いきなり、そういう考えに至らないかもしれないが、結局、そういうところに至ると、その会長は言っている。中高年の彼が悟ったのも、10年くらい前のようだ。それまでは、分からなかったわけ。妻という巨大な壁に打ち当って、悟ったのだろう。

婚活している人たちも、早めに学んでいた方がいいかもしれない。でも、頭でわかっても、なかなかという気持ちはわからないでもない。現実に、夫婦間で、いろいろなトラブルを抱えて、皆、同じ道をたどるのかも。さあ、流風も、遅まきながら学びましょう(笑)。そうなると、鬼は外ではなく、鬼は内だよね。鬼とも仲良くやろうよ。まあ、男はつらいよ。

*参考 全国亭主関白協会

            http://www.zenteikyou.com/index.html

「愛の三原則」以外にも、いろんな原則が定められており、夫婦関係に悩んでいる人たちにも、参考にはなると思います。夫婦でなくても、男女関係でも、そうだろうね。これ、ホント(笑)

| | コメント (0)

2010年2月 5日 (金)

日本のミニチュア文化

かつて、ある韓国の学者は、日本の文化は縮み志向だと指摘したが、ある部分では正しいだろう。それは日本が海に囲まれていて、国土が狭いことが影響しているかもしれない。

すなわち、海が防衛線になり、比較的外敵が少なく、その上、国土が狭く、人口が多い。結局、狭いところに、多くの人が住むという人口密度の高さがある。そこには、人々が肩を寄せ合うため、自然と、効率的な生活が求められる。

それは、住生活においても、同様だ。例えば、布団文化もそうだろう。ベッドの生活だと、簡易なものを除いては、折りたためないから、空間を占領される。国土の広い国で、大きい家に住むことが当たり前だったら、同じ空間を違う利用の仕方をする布団文化は生まれなかったかもしれない。

もちろん、今でも、布団に限らず、すべてをコンパクトにまとめようとする志向は今もなくならない。多くの電化機器もそうだろうし、家具なども限られた空間に当てはまるものが作られる。確かに、多少せせこましい考え方は、大きな発想を生まないかもしれない。だが、それが日本文化として、すべてがすべて否定されるわけでもない。

日本から、そのようにして生まれた多くの物は、世界に発信し、受け入れられているし、多くの機能を限られたところに詰め込む技術は、高い評価を受けている。もちろん、海外にも縮小アートというミニチュアの文化はあるし、日本だけというのはおかしいかもしれない。でも、多くの日本人の思考がミニチュア志向が、趣味ではなく、必要から生まれたものであるという違いがある。であるとすれば、それは特異とも言える。

さて、日本の工芸の分野でも、ミニチュアの文化は、かつて存在した。それは、当初、仏教に対する信仰から始まったと思われる。本来ある大きなもの(仏像)を自分の身につけるか、所有したいという気持ちから生じたのではあるまいか。同じ大きさのものを持つことは不遜として、認められなかったが、小さくしたものは、認められたのではないだろうか。

そして、最近は、オタクを除けば、あまり注目されないが、そういう文化的価値のあるミニチュアを収集してきた人々がいる。明治から昭和にかけて活躍した小林礫斎という人が作った、ミニチュア作品がそれだ。これを中田実氏(故人)が収集してきたため、今、我々の目に触れることが出来る。

その収集物の展覧会『ミニチュアの世界~小林礫斎と手のひらの宇宙』展が、兵庫歴史博物館で開催されている(平成22年3月28日まで)。物が小さいので、鑑賞するには少し骨が折れるが、なかなか面白い。じっと見ていると、小さい子どもたちの、ままごと遊びの道具のように見えてくる。

それが現実に大人の遊びが子どもの世界にまで浸透している。子どもの頃、グリコの景品に細かい人形とかおもちゃがついていたが、あれも、伝統的な縮小アートのミニチュア文化の影響だったのだろう。そして、それが延々と続いている。いろいろ展覧しながら、いろんなことを思い出させてくれる楽しい展覧会だった。

*参考

兵庫県立歴史博物館 

 http://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/official/exhibition-pl2.html

| | コメント (0)

2010年2月 4日 (木)

憂慮すべき伊丹空港問題

国土交通省が、大阪府知事の意向を受けて、伊丹の利益を関空に入れ、将来的に伊丹を廃港とする考えに傾いているという。しかし、これは大きな誤りであろう。以前にも触れたように、関空は、アジア全体に対する窓口空港にすべきで、伊丹とは基本的に役割は異なる。

伊丹に近郊外国に対する飛行機を飛ばす役割を担わすのもおかしい。関空は、国際空港の位置づけとして、徹底すべきで、伊丹は国内空港として徹底すべきだ。基本的に、これらの役割の分業が中途半端では非効率この上ない。

その上で、実質破綻している関空に対する支援を確立すべきだ。一地方の声の大きい首長の声だけを取り入れる国土交通省の考え方に問題がある。もっと、世界的視野で、空港の位置づけをするべきであろう。

結局、問題なのは、羽田、成田、名古屋、関空、福岡における国際路線の振り分けが大きな意味を持つ。羽田、成田は西欧諸国対応、名古屋は西欧・アジア半々、関空、福岡は、アジア諸国対応のように明確に、その役割を分けるべきだろう。

そして、国際空港と地方空港の役割分担を明確にすべきだ。羽田を除けば、国内路線をそれに絡めるからややこしくなる。国内空港の分野に、国際空港は、絡むべきではない。これからの国際交流や人の移動を総合的に考慮に入れれば、伊丹廃港という考えは出てこないはずだ。そして、伊丹も「国際空港」の看板を早く下ろすべきだろう。

*追記

大体、国土交通省が、伊丹から1000km超の航空機の運航を関空に移動させたところ、利用客が急減した実績がある。その影響で、北海道への関西からの観光客が急減している。地元経済は打撃を受けているそうだ。

机上で考えた案は、その通り運ぶわけでもない。関西人は、シビアであることを忘れてはならないだろう。便利で安くなければ、いかに関空に運航を集中させたとしても、失敗し、借金の上塗りをするだけだ。

そして、関西経済は、さらに地盤沈下して、荒れていくだろう。それが国としての戦略なら仕方ないが。橋本知事も、ブレーンにしている、東京の学者に煽られて、大阪人でありながら、そのことを全く理解してない。彼の支持率が高いというが、支持率が高いから、関空を利用するとは限らない。関空は、とても不便な地にある。それを無理して使うことはない。それが関西人というものだ。

| | コメント (0)

節分祭に行く

昨日、久しぶりに、いつもお参りする神社の節分祭に行ってきた。子ども時代を除けば、ほとんど節分祭には行ったことがない。ただ、あまりも寒く風が強いので少し迷ったのだが、一日一万歩の目標もあるので、思い切って、家を出た。しかし、風が強く、大変寒い。それなりに防寒具は着けてきたつもりだが、少し後悔して、思わずジャンパーの襟を立てた。

前にも記したように、神社までは少距し離ががある。予定の時間に間に合うよう早めに出発したのだが、着いてみたら、すでに多くの人で溢れていた。家族連れの方々も多い。子どもたちが、騒いでいた。でも、こういう催しには、子どもは欠かせない。

また流風は手ぶらで行ったのだが、片手には、スーパーの袋を携え、準備万端の方が多かった。皆さん、意気込み十分(笑)。だが、豆まきの時間は、まだまだで、神事が執り行われていた。

待つこと、30分。皆がざわざわしてきた。期待と不安(笑)。そろそろ豆まきがされるようだ。華やかな雰囲気の福娘さんたちに、豆や餅が渡されている。でも、こんな後ろにいては、人が多くては、豆一つ(実は豆袋)受け取るのも難しいかも。

そうすると、豆まきが始まった。福娘さんたちが、豆をまくと、人が瞬時にその方へ。続いて、氏子さんたちが、豆をまいている。こちらの方もそれなりに(笑)。皆わいわいやって、笑顔だ。誰でも、福を受けたい気持ちはある。それを取りに行くのも楽しいものだ。取りに行かず、眺めている人たちも、豆まきの風景を楽しんでいる。

でも、福を分けてもらう状況は厳しい。少しあきらめムードの中で、一人の福娘さんと目が合った。そうすると、彼女は、流風の方へ。多分、これ勘違い(笑)。でも、腕力のない彼女の投げたものは、遠くには飛ばない。

その時、ころころと流風の足元に転んでくるものがある。思いがけず、それをキャッチ。いや、取り押さえた。福餅だった。薄い桃色の御餅だ。これは春から縁起がいい。福娘さん、有難う(笑)。

皆さん、豆袋を何袋も獲得されている。お爺さんは、たくさん取って、意気揚々と引き上げて、流風の傍を通られていた。おばさんたちも、2,3個は持っておられる。でも、流風は、久しぶりの節分祭で、福餅1個で満足、満足。今年は、いいことがあるだろう。

| | コメント (0)

2010年2月 3日 (水)

今年(2010年)の春節祭

本日2月3日は節分で盛り上がっているが、流風も神社にいって、豆を拾いに行こうと思う。でも、恵方巻はパスの予定。どうみても、行儀のよい行事ではない。子どもの頃、そういう習慣はなかったし、元々バレンタインデーのチョコと同じで、業者が考え出したもの。

チョコの方はまだ許せるが、妙齢の女性が、巻きずしにかぶりつく姿は美しいとは思えない。巻きずしにかぶりついて似合うのは、小さい子どもくらいだろう。流風も、子どもの時は、母がおこうこ巻とか、きゅうり巻、ちくわ巻、おかか巻などを作ってもらって、かぶりついていた。でも、大人になって、あんなことをしたことがない。気持ち悪いし、品がない。まあ、やりたい方はどうぞ。今年の恵方は、西南西だそうだ。

さて、話は変わって、表題の神戸の春節祭について紹介しておこう。中華街のあるところでは、旧正月を祝って、春節祭が催されるところが多い。今年の旧正月の元旦は2月14日。よって、神戸の春節祭は、2月13日から21日まで南京町で、開催される。

獅子舞は、今年も活躍することだろう。にぎやかな竜舞や獅子舞を見ると、元気をもらうことになる。南京町内の催しは、多くの人だかりができて、じっくりと観ることはできないが、多くの観光客が旧正月気分を盛り上げる。

今年は、それ以外にも、いろんな催しが計画されていて、14日には「中国史人游行」として、京劇の衣装やメイクで、歴史的人物に扮した人たちが、元町商店街や三宮をパレードするらしい(12:00スタート、16:00まで)。

いろんな催しが集中するのは、やはり土日だ(2月14日、2月20日、2月21日)。これらの日は、大体10時から催しがスタート。平日は12時からスタートで、主として北獅と雑技が催される。北獅は、通常の獅子舞(南獅)よりアクロバット的な動きをするそうです。観たことがないので、少し観てみたい。有料の催しとしては、占い、おみくじ、花文字、剪紙(切り絵)、ポチ袋くじ等がある。

また中華料理店では、正月料理が振る舞われるが、数量限定なので、毎年、流風が口にすることはないものが多い。よほど早くから待つ必要があるのだろう。まあ、それは最初からあきらめムード。いずれにせよ、ゆっくりと料理は味わえないだろうな。

そういう時は、少し離れた中華料理店へ。どこかは内緒(笑)。神戸には、南京町以外にも、美味しい中華料理店がある。最近は味の格差が目立ってきたが、適当に歩いていたら、見つかるかも。南京町のは、目星をつけておいて、平日味わった方が、ゆっくりできるかもしれない。今年はいつ行こうか。やはり平日かな。

*追記

昨日、「ココログを休止します」と報告して、一部の方々にご心配をかけました(なお頂いたコメントは、都合により公開していません)が、記事をアップして以後、アクセスがよくなりました(笑)。それまで、記事をアップするのに、手間がかかってアップアップしていたので、少し短気を起こしましたが、今のところ、大丈夫なようです。いつまでかわからないけれど、当面、記事は今まで通りアップしていきます。

| | コメント (0)

2010年2月 2日 (火)

短命・長命

一般に婿養子は、辛い思いをする。婿に入ったはいいが、妻に手厳しく扱われ、舅・姑にも頭が上がらない。まあ、今は、嫁をもらっても、嫁の方が威張っているので、男は、いずれにせよ、辛い思いをする(苦笑)。極たまに優しい嫁が紹介されているが、その実はわからない。

さて、婿養子の話では、落語に、最近も、ラジオから流れていたが、『短命』というものがある。別名『長命』である。なぜ、全く違うお題なのかは、話の内容を知っていると納得する。そのあら筋は、ある地主の所に来た婿養子は、次々と若くして亡くなって、ついには先日、三人目の婿が亡くなったことについて、長屋で貧乏長屋の大家と八さんが噂話をしている。

凡そ、暇人にとっては、噂話は、男も女性同様、楽しいものなのだろう。男は、女性ほどにネットワークを持っていないので、あくまで想像の世界での噂話になるのは、女性と少し違うところ。女性たちも想像の話から発展することは、しばしばだが、段々真実に近づいていく。そこらへんの執念には恐れ入る。本来、女性は刑事向きかも。

さて、八さんが、「余程、苛められて婿が辛いのか」、と世間の常識を持ち出して、言うと、大家さんは、「いやいや、他所と違って、それはそれは大事にされているとのことだったよ」。それじゃ、一体何が、ということで、原因探し。

そこで、大家さんが、「あそこの娘さんは、大変な美人。私から見ても、惚れ惚れするほどだ。お金に不自由はないし、常に二人は差し向かいだ。そんなこんなで、長生きできないんだろうよ」。

勘が鈍い八さん、大家さんの説明がよくわからない。その後も、いろいろなやり取りがあり、八さんも、やっと分かった感じがした(笑)。昔のことだから、現在のように、いろんな遊びがあるわけでもないし、他所に行く簡単な交通手段もない。今でも、田舎のすっぽこだ(笑。ど田舎の意)に行けば、何もないですよね。

まあ、楽しみとして、残されたことは、ただ一つ(笑)。そこは金持ちも貧乏人も同じ状況。貧乏人と違うのは、働く必要がないから、朝から晩まで、いちゃいちゃできること。そこで、婿は短命になるわけ。

他方、八さんは、家に帰れば、口やかましい嫁が、大きい声で、ああだこうだと口上を並べ、いつものように文句を言う。男女のムード全くなし。それで、じっくり嫁の顔を見れば、「ああ、俺は長生きできる」というオチ。

まあ、落語だから、面白おかしく表現しているが、案外、事実を言い当てているかもしれない。女性はともかく、男は、生涯にアレが出来る回数は決まっているという医学者もいる。でも、男を殺すにゃ、銭金いらぬ、ただアレだけ、とは哀しいね。鬼嫁より、まだましと考えるのは、まだまだ修行が足りないということ(笑)?

| | コメント (0)

2010年2月 1日 (月)

歩数計を変更する

一応、一日一万歩を目指しているのだが、今年のペースは、若干不足がち。寒かったこともあるが、体調が、なんとなくしっくりこないこともある。というわけで、若干目標ペースを落として、健康状態に合わせて歩いている。

ただ、この歩数計、今年になって壊れてしまった。壊れたというのは正確な表現ではないが、ある日帰って歩数を確認しようとすると、裏ぶたのネジが外れて、裏ぶた紛失。初めての経験。ズボンのバンドに留めているのだが、擦れたのが原因だろうか。

仕方なく買い換えることにした。もうこれで4~5台目だ。いくら安いものとはいえ、こんなに買い換えるのはあまりよくない。今までは、紛失して、室内のどこかから見つかることも多かったが、最近は、なかなか見つからない。

そこで、今度はタイプの違うものにした。つまり首からぶら下げられるタイプだ。これだと首からぶら下げるひもから外れない限り、失うことはない。今のところは順調だ。この首からぶら下げるタイプは、よく企業の社員が、社員証明書ぶら下げて歩いているが、あまり印象はよくない。どう見ても、社員が商品の値札のように見えるからだ(笑)。

まあ、企業としては、セキュリティーの問題で、仕方ないのだろうが、ちょっと笑えてくる。少し前は、そんなにいなかったが、今は、どいつもこいつも首からぶら下げている。そういうと、家に来る販売関係者も、首から名刺を入れたものをぶら下げている。いろんな事件があるからなあ。

それはそれとして、流風も歩数計を首からぶら下げるわけだから、あまり人のことを笑えなくなった。昨日の朝は、歩数計で覗きこんでいると、コーヒー店の店員から、笑われてしまった。時間を見ていたのだが、まあ、いいじゃないですか。携帯も持ち歩かないが、腕時計も不要になる。これで本当に、身軽に散歩できる。これがほんとの手ぶら主義。

| | コメント (0)

« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »