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2010年2月17日 (水)

梅の花の詩

近所を歩いていると、いろんな家で、様々な梅が花を咲かせている。いつもいいなと思いつつ、自宅に梅は植えていなかった。それでも1年ほど前、豊後梅を植えたが、花が咲くのは、あと4~5年かかるらしい。

それまでは、他家の梅を鑑賞させてもらう。ただ花は塀越しに観賞できても、他家のものゆえ、匂いまでは、嗅ぐことはできない。不審者とは思われたくないし。早く、花を咲かせてもらいたいものだ。

それにしても、梅は、寒くて、縮こまって、ギュッと何かにしがみつくように咲いている。だから、寒風の中でも、桜のようには簡単に散らない感じだ。それが余計に寒さを感じさせる。だから、寒梅と言うのかもしれない。

残念ながら、洒落を言うつもりはないが、今年は大変寒いので、まだ有名な梅所の観梅には行っていない。観梅に行くのは、寒さの我慢比べの趣がある。桜の時期も寒いことは寒いのだが、少し気持ちが違う。桜が咲くと、春は、すぐそこだから、寒さもあまり気にならないのだ。だから、桜の下で、宴会もできる。

梅の開花時期は、大変寒いことが多い。それでも、時々、寒さの中で、茣蓙を敷いて、梅を鑑賞されている人々がいるが、ああいう真似は、寒がりの流風には、とてもできない。じっとせず、せいぜい遊行して、甘酒などを提供されるのを飲む程度だ。そのように思うと、梅は、やはり冬の花なのだろうか。

だが、

  東風吹かば にほいおこせよ 梅の花

        主なしとて 春な忘れそ

この道真の有名な歌も、梅は東風が吹けば、花が咲くとしている。東風は、「こち」と読むが、春風の意味だ。梅は、春を感じとって、咲いているのだろうか。となると、梅は、やはり初春の花なのだろうか。

さて、前置きが長くなったが、梅を題材にした漢詩を今回は挙げておこう。それは蒙斎という人によるものだ。本名は、蔡正孫。蒙斎は号。南宋時代の人だ。題は、ずばり『梅花』。かの人たちは、梅に、そういうイメージを持っていたのだろうと云う詩だ。

  一樹の清標 万古同じ

  風流の人物 品題の中

  若し玉色の程明道に非ずんば

  便ち是れ深衣の司馬公

梅は、寒風の中を凛として咲く、品のある花とされたようで、この詩では、人物評に使われている。貞操堅固な人を指す。何も女性だけに向けられた言葉でもなさそうだ。貞潔であると言った方がいいのか。

まあ、意外と、当事者には、辛い選択かもしれない。行きかがり上、そうせざるを得なくなったとも考えられる(笑)。人は、ある程度、周囲に形づくられるのは避けられない。でも、こういう難しい生き方をした人たちは、後世の評価は高い。ただ、梅の花は、生まれながら、そういう性分を持っている。人間も、同じことなのかもしれない。

また同じく南宋の方秋厓という人が、同じ題、『梅花』を、詠っている。

  梅有りて 雪なければ 精神ならず

  雪有りて 詩無ければ 人を俗了す

  薄暮 詩成りて 天また雪ふる

  梅と併せて 十分の春と作(な)す

詩人には、「梅と雪」、「雪と詩」は、両方なければならないものらしい。この詩では、詩が丁度出来上がった頃に、雪が降ってきて、咲いている梅と一緒と考えれば、すべて揃い、満足、満足と詠っている。ということは、梅に詩の組み合わせは、ないのだろうか。

それはそれとして、梅は、しばらく、その花と匂いで楽しませてくれるようなので、やはり、寒風の中、上記の詩の意味を確認するためにも、一度観梅に行かねばなるまい。

*追記

がらんとした流風の部屋に、「梅に鶯」の色紙を飾ってみた。近所にも、鶯の声はまだだ。自宅にも、鶯が来て欲しいが、まだ梅の花がない。

以前にも記したが、実際、梅の枝にとまるのは、メジロ。もちろん、「ホーホケキョ」とは啼かない。本当のウグイスは、流風は、電線の上で、電線音頭をとっている(笑)のを毎年見かける。電線に鶯である。だから、梅に鶯は、色紙の上だけである。

また、付け加えると、色紙は、確かに「梅に鶯」となっているが、描かれているのは、間違いなくメジロ。でも、「梅にメジロ」とは、誰も書かない。

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