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2010年2月27日 (土)

米断ちの物語の教訓

子どもの頃、流風が病気になると、母は、よく「何々断ち」ということをやっていた。例えば、自分が好きな物とかを食するのを断つのである。そして、よく祈っていた。流風は、そういう姿を見ると、不思議で、食べたいものは食べればいいではないかと、思ったものである。

しかし、これが母の親心というものだろう。後年、その有難さを感じたものだ。「何々断ち」というのは、祈りの代償として、一つの生贄に近いのかもしれない。祈りという行為は、あまり馬鹿にはできない。子どもの幸せは、親の幸せ、と考えれば、祈りは、自分に返ってくる。

特別に宗教とは関係なくても、気になる人々の幸せを祈ることは、自分にとってもいいことなのかもしれない。ただ、それが偽装では困る。それは昔の物語にも、紹介されている。偉い聖人が住んでいた。彼は、米断ちをして、多くの帰依者を集め、尊敬されていた。

彼は、米の代わりに、木の葉を食していたと云う。そういう方だから、評判を聞きつけた文徳天皇は、すでに70歳にもなる彼を召しだして、神泉苑に住まわせた。

だが、それに興味を持った殿上人たちが、実際、彼に面会し、いろいろ尋ね、遊び心に、それでは、彼の屎尿を調べようということになった。ところがである。調べて見ると、屎尿から米らしきものがたくさん混じっている。

はは、これはどこかに米を隠し持って、食しているなと思い、彼が席をはずしている時に、畳をめくってみると、地面が少し掘ってあるので、掘り返してみると、布に白い米が包まれていた、という話である。

多分、彼は生米を食したのだろう。だから、十分消化せずに、証拠の品が出てしまった。結局、彼らにばらされ、逃げ出すしかなかった。このように尊いと思われている存在というのも、結構、怪しいものである。

有名な人、地位の高い人、名誉を重んじる人、いろいろいるが、一皮めくれば、市井の人となんら変わることはない。ちょっとしたことで、人々から持て囃された結果、虚偽の姿を演じなければならなくなる。ある意味、可哀想な人たちなのかもしれない。

*参考文献 『今昔物語』

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