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2010年5月30日 (日)

自民党再生の条件

自民党の復活はあるのだろうか。日本を財政危機に追い込み、国債残高を異常に積み上げた責任は重い。果たして、自民党は再生するのだろうか。

流風は、一度解体して、スローガンも新しく作り直し、新党を興せばいいと思うのだが、残念ながら、そのように動いていない。ただ、高齢の議員たちが、新党を興して流出しているのは不幸中の幸いか。

ところが、政策の失敗を積み重ねてきた“戦犯”は、まだ残っている。それは元首相たちと、それぞれの官房長官たちだ。彼らを追い出さないと、意識が変わらず、新しい自民党には生まれ変わらない。時々、一部の“戦犯”たちが、偉そうなことを言っているが、気に食わない。

彼らには、早く出て行ってもらうことだ。そうすれば自民党の雰囲気も変わるかもしれない。それに議員の大半を新しい顔ぶれにする必要がある。これからの選挙候補者は、10年後を見越して、40歳以下に絞るべきだろう。

後は、染み付いた古い政治手法の転換が求められる。お金のかからない政治手法を確立できるか。官僚に代わる自前のシンクタンクを確保できるか。それらの部分は、民主党と切磋琢磨すればいい。果たして、自民党は再生するだろうか。いや、新しく生まれ変わった自民党は、できるだろうか。

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2010年5月29日 (土)

最初の道

何事においても、最初に道をつける人がいる。私達は、先人のお陰で、その便益を享けている場合も多いことだろう。ただ、ここで考えなければいけないことは、最初の道が最適だったかということだ。本当の道は、もっといい道があったかもしれない。

普通に生きていると、一般には、先人の通った道を歩くものだ。その方が楽と考えるからだろう。また、他に道はあるはずだとは思いながら、惰性に流されて、労が多いと知りつつ、行動を起こさないのは、よくあることだ。

しかし、それが利用している人間にとって、最適かどうかは、検証しなければならないはずだ。事業仕分けも、従来の政府は、放置し続けたことにメスを入れた。別の意味では事業仕分けは、官僚たちの時代遅れの古い道(発想)を疑ったという意味で価値がある。

これは国の問題に限らず、企業でも、個人でも言えることだろう。流される方が楽なのは確かだ。しかしながら、そこでは、無駄な時間の消費と浪費がある。やはり定期的に、点検し、見直すやり方は、見習う必要がある。

但し、古い道を見直し、新しい道をつけるには、多くのエネルギーを要す。最初に道をつける人は、将来を見越して、慎重に計画されねばならない。

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2010年5月28日 (金)

兵庫で太子を感じる~斑鳩寺

兵庫県下で、聖徳太子を感得できる場所が、兵庫県揖保郡太子町鵤(いかるが)にある。一応、聖徳太子御遺跡霊場第二十八番となっている。「お太子さん」として、広く信仰を集めているという。長年、いつか行ってみたいとは思っていたが、なかなか行けなかったのだが、先日、行ってきた。

寺の経緯については、次のように説明されている。推古十四年(606年)に、聖徳太子が、飛鳥の豊浦宮において、推古天皇の御前で、勝鬘経を講説された。天皇は大変喜ばれ、聖徳太子に、播磨国揖保郡の水田百町(三百六十町とも)を寄進された。

だが、次のような民話とか伝承がある。天皇から寄進されたものの、この土地に来てみれば、そこは広山の神様の支配地。要するに、神様と言っても、当時の地域の有力者が所有していたということ。天皇からの寄進と言っても、当時は根拠もない。あの辺の土地なら、空いているだろうというような、少しいい加減な判断。まあ、時代も時代ですし、区画整理もない。

それで、ある日、突然、土地を引き渡すように言われても、引き渡しません。そりょそうだ。彼にすれば、聖徳太子って、何様だ、という感覚でしょう。天皇の力が地方に及んでいたとも考えにくい。

色々もめて、やっとの交渉の結果、「大きい石を投げて、落ちたところを境界としよう」ということになった。これで、聖徳太子側が諦めると思ったのだろう。ところが、聖徳太子は、砲丸投げならぬ、大岩をえい、やっーと投げると、遥か南の沖まで。えらい怪力でんな、聖徳太子様。

これには、広山の神様も驚き、小さい石を、おはじきのようにはじいてください、と哀願。それで太子が、はじいた石が荘園の境界になったとさ。それが水田百町(三百六十町とも)。大岩も、伝承では、御津の沖合にある岩礁だそうな。民話や伝承はいいね。子供に分かりやすく伝えるには最高。どこぞの婆さんが話を広げたのだろうか(笑)。

だが、今回は確認しなかったが、その石は、太子の投げ石として現存するらしい。当時12石あったものが、4石残っているという。ここら辺は、はじいた石と投げ石が混乱して矛盾している。まあ、話し合いで、境界を決めて、目印として、比較的大きい石を置いたというのが真実だろう。戦争に近いことはあったかもしれない。それでも、これらの石は一応、県指定文化財だそうだ。

そして、この区域を「斑鳩荘」と名付け、一つの伽藍を建てられたと云う。それが起源らしい。太子が亡くなられた後は、法隆寺に施入され、法隆寺領播磨国鵤荘の中核になる。すなわち法隆寺の荘園になったのだ。よって仁王門・聖徳殿・講堂・三重塔などの伽藍配置は法隆寺に似ている。

その後、出雲の尼子氏の侵入で、播磨地区が混乱し、1541年、夜明け前の出火で焼失した。その後、龍野城主、赤松下野守政秀の援助で漸次再建された。これにより、法隆寺を離れ、天台宗となる。

他に、施設としては、有料(300円)で、宝物収蔵庫「聖宝殿」を入館できる。ここには、十二神将立像午神、日光・月光菩薩像、如意輪観音坐像、釈迦如来坐像、薬師如来坐像、聖徳太子勝鬘経講讃図などが展示されている。結構、見ごたえはあるが、防犯のため、狭いところに押し込められて、少し残念。色々盗難事件があるので、仕方ないのだろう。

全体を観て感じたことは、地方にしては、立派な伽藍ではあるが、全体に傷みがあるということ。手が入れられていない。寺の財政では、手を入れられないのだろう。でも、後世に残していくためには、寄付を募ってでも、何とかすべきだろう。今は、ネットで募金も可能だろう。積極的に取り組んで欲しいものだ。

兵庫県下の、こういった施設は、その他にも結構ある。例えば、高砂神社もそうだろう。あそこも、傷みは激しい。何とかならないものか。京都のような観光開発が、まだ十分でないということだろう。この周辺には、今回は、行かなかったが、古代の古墳や神社も多く、適切に景観を保ちながら、観光開発すれば、魅力的な街になるだろう。

*参考

交通は、JR網干駅からバスで5分ほどだ。ただ便は少ないので、歩くのに自信があれば、バス道(国道179号線)を歩いて行くのもいいかもしれない。いずれにせよ、余裕のある時間配分にしておいた方がいい。

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2010年5月27日 (木)

仏像ガールのお陰

今年は、奈良は平城遷都1300年ということで、盛り上がっていることだろう。皆さん、どのお寺を回るのだろう。流風は、いつ行こうか。若い頃は、よく行った奈良だが、今は、簡単に行けそうで、行けない距離。やはり宿泊しないと無理かな。

さて、最近、仏像ガールなる人々がいるらしい。宗教に関心があるというより、その造形に関心があるらしい。そういう案内書も、出ている。確かに、観光地のお寺を回ると、そこでは、仏像も結構、目にされることだろう。でも、仏教徒であっても、仏像の、その意味はよく理解していないことが多い。

そこで仏像の意味を知るべく、それなりに知識を整理してみようという人がいてもおかしくない。それが仏像ガールだ。ところが、仏教関係者による専門書は、堅過ぎて理解しにくい。昔読んだ哲学者、和辻哲郎の『古寺巡礼』には、彼の仏像に対する印象は記してあるが、仏像の説明はない。

一般人には、もっとわかりやすい、基礎の基礎のガイドブックが必要だ。イラストで解説してあれば、誰でもわかりやすい。そういう流れもあり、最近は、僧侶に限らず、色々な人が仏像解説書を書いているようだ。

流風も、仏像ボーイ、いや、仏像おっちゃん(笑)、を目指すわけではないが、お寺観光のガイドブックとして、最近一冊のある本を購入した。仏像のイラスト付きで、各部が説明してあるので、大変わかりやすいので、すっと読める。

これなら、現地で、仏像の意味を確認しながら、観光を楽しめるだろう。意味も分からず、ただ眺めて、素通りするより、よっぽどいい。そういうことで、仏像ガール達の出現に感謝したい。

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2010年5月26日 (水)

高齢者の車の運転事故

先日、買い物に行くと、危ない運転をする車を見た。思わず、近寄らないようにして、じっと見ていたが、どうも運転手は高齢らしい。お爺さんだ。ふらふらしながら、発進していった。ああ、こわっ。ああいう人が事故を起こすんだろうな。

高齢者の車の運転事故が目だって増えている。アクセルとブレーキの踏み間違いというが、判断能力に問題があるのかもしれない。年齢と共に身体能力・判断能力は落ちるのは仕方ないだろう。

高齢者が車を運転することに問題があるのか。流風が観察する限り、何かに焦ったことが事故の発生要因と見る。年齢と共に、せっかちになる。そういうことが災いしているのかもしれない。

個人差はあるにしても、高齢者の車の運転に対しては、何らかの制限を加えるべきかもしれない。すべての高齢者に規制を当てはめるのは問題が多いかもしれないが、何らかの方策は必要だろう。

最近では、一定の年齢に達すれば免許証を返還することも促進しているようだ。都市部に住む限り、公共交通を利用すれば何とかなる。データを見たわけではないが、たまに運転する人が事故を起こしているのではないか。

高齢になってから、悲惨な事故を起こすぐらいなら、車の運転は止めた方がいい。私は大丈夫だと考えるのが一番危ない。高齢者(65歳以上)の免許更新は毎年とし、実施テスト(路上)をやり、厳しく制限する必要があるかもしれない。

*追記

また別の角度から見ると、基本の動作環境は変わらないものの、高齢者には複雑になりすぎた機能は、あまりよくないのかもしれない。パソコンや携帯同様、車ももっとシンプルな仕様が求められているとも言える。

*平成27年11月2日追記

最近も、高齢者の運転ミスによる事故が、よく報道される。事故に巻き込まれた人は、とんだ災難だ。

やはり何らかの規制が求められる。高齢者のほとんどが、程度の差はあれ、何らかの病気を持っている。また、その病気のために薬を服用しているだろう。その副作用が車の運転中に起こっている場合も推測される。

心身の能力低下が事故を招いていると言っていいだろう。となれば、高齢で免許を持っている人は、「健康調査に基づく」運転規制が求められる。また、都市への運転の乗り入れ規制も罰則も含めて考えられるべきかもしれない。

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2010年5月25日 (火)

母の書籍を整理しながら

世の中、照る日もあれば、曇る日もある。自然に対して、人間はどうすることもできない。せいぜい、それぞれに対応するだけだ。昨日は、雨風が強かった。兵庫県下では、一部被害も出ている。流石に、外出は止めた。

家の中で、じっとしているのも辛いが仕方ない。じっくり読書と行きたいところだが、どうも読書意欲低下中。そこで、CDを聞きながら、書籍の整理。かつて、母が、流風に、要望があって、買い求めたものを処分。ほとんど女流作家の物。流風の蔵書として預かっていたが、母も、この世を去って、三年。もういいだろう。

それに女流作家の物は、あまり読まない。何回か読もうとしたが挫折。女流作家には、それぞれ特徴があるが、全体として、女性特有のまどろっこしさ。自らの女性心理を小説の主人公に投影しているのだろうが、なんとなく重い。だから、読後感にストレスを感じる。そういうわけで、最近は読まない。

そういうと、最近のドラマも女性の脚本が多いが、大河ドラマもそうだが、筋が読めるので、ほとんど視聴しない。現代の感覚を時代劇に投影させて、変な感覚になる。封建時代の雰囲気は、決して、そうではなかったはずだ。シナリオライターが、こうあって欲しかったというのは、行き過ぎ。結果的に時代考証が出鱈目で、いい加減な時代劇になる。

そういうことを考えながら、整理すると、ざっと30冊。本箱が空いた。今、CDからは、ビー・ジェイ・トーマスの歌 “RAINDROPS  KEEP  FALLIN'  ON  MY  HEAD”が流れている。映画『明日に向かって撃て』の主題歌だ。邦題は、「雨に濡れても」だったような。どういう意味の歌詞だったか。照る日もあれば、曇る日もある、だったかな(笑)。今日は、曇り空ながら少し晴れるという。

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2010年5月23日 (日)

悲しき雨音?

珍しく天気予報通り、朝から雨が降って、午後から雨脚が強くなるというので、さすがに本日は、外出を控えた。なるほど、雷もすこし音がしていた。しかし、今までのところ、それほどでもない。でも、外出するリスクとを勘案すれば、控えたのが正解か。

雷は、今でも怖いが、子どもの時、家に雷が落ちて、ラジオの真空管が飛んだ時は、本当に怖かった。後から、帰ってきた父は、火事にならなくてよかったと言っていた。それでも、ある時、外で遊んでいたときに、雷が鳴って雨が降ってきた時は、帰るに帰られず、友達と、木陰にじっとしていたが、これが一番危ないと知ったのは、大人になってから。よく無事でいられたものだ。

そういうと、子ども時代にラジオから流れていて、よく聞いた「悲しき雨音」というものがある。カスケーズというグループが歌っていたが、最初に雷の音がする印象の強い歌だ。原題は、RHYTHM OF THE RAIN、となっている。邦題が、「悲しき雨音」になっているのは、その歌詞の内容から、そうしたのだろう。

歌詞の内容は、後年、確認したが、失恋の歌である。彼女が去って、未練たっぷりの男の気持ちを雨に語りかけるという形で歌われている。いつの時代も、どこの国でも、去っていくのは女性からのようで、気づくのが遅れるのは男の常。女性が、もう少し寛容になってくれればいいのだが、彼女にすれば、十分に待ったという、男女のすれ違い。

それでも、こういう内容の曲は、いつまでも支持されるようだ。でも、子どもの頃は、歌詞の内容を分かっていなかったけれども、なんとなくよかった。雷は怖いと言いながら、あの音は、好きなのだろうか。また曲を聴いてみたいものだ。

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求められる経済政策とは

戦略転換に成功しつつある大手企業を中心に業績は回復しつつある。日本経済に対しては、そんなに心配していない。今後も、BICs(*注)をメインに活動していけば、順調に成果を上げ続けるだろう。欧米の金融問題は確かに深刻だが、日本は、輸出で、外貨を獲得することに集中すればいい。

ただ、国内景気は、依然停滞しているように見える。国内需要に頼る企業は、どことも苦しい状態が続くのは当然の成り行きだ。少子高齢化が主たる要因かもしれないが、別の要因があるようにも感じる。基本的に何をするべきか。

一、国の財政は苦しいが、歳出削減と共に、歳入を増やす努力をしなければならない。

財政が再建されないと、景気回復の重荷になる。歳入を増やすとなると、増税が頭に浮かぶが、それは経済にマイナスの効果もある。もちろん社会保障などのように将来便益と税負担がバランスが取れていれば、国民が納得すれば、税負担も致し方ない。

ただ、国債の残高を減らすための増税は、歓迎されないだろう。国債残高を減らすためには、歳出削減して、それを充てるべきだし、事業仕分けで浮いた資金も、国債残高を減らすために、使われるべきだろう。

結局、経済を活性化させて、税収を増加させることが望ましい。自然増収分を国債の残高減少に振り替えるべきだろう。

確かに、国内市場は、少子高齢化のため、需要の伸びはそんなに期待できないことは事実だ。国民は今後も堅実な消費をするだろう。ただ、そこに新たな財政拡大政策を取ったところで、それはドブに金を捨てる行為に等しい。

そうだととすれば、何をすればいいのか。はっきり言える望まれる政策は、不労所得を増やすことである。そして、お金が回って、金融機関が儲かるようになれば、不労所得にも税金はかかるので、税収は増える。そういう増税は、まだ受け入れられる。となると、退蔵されている国内金融資産の積極的活用が望まれる。

二、そのためには、日本銀行の政策金利を1%以上に引き上げる必要がある。

そうすることによって、民間資金の利子等の余剰(不労所得)が生じる。現在は、超低金利だから、却って、国内に適切にお金が回らない状態と言える。超低金利は、一見良さそうに見えるが、経済にマイナスに働いているのに、誰も、そのことを指摘しないのは不思議だ。

金利を引き上げれば、タンス預金30兆円(データは正しいかどうか不明)と言われる資金が市場に出てくる。これらの資金が動くことは、金利を生み、税を生む。機関投資家から安全運用資産と見られる国債の金利を低くしておけば、国としてもペイする。

三、それは株価を上げることにつながる

株価はいろんな要因で上がるが、現在の水準は低すぎる。この要因の一つは、やはり超低金利が招いている。金利と株価はトレードオフと考えられがちだが、諸条件が整えば、両方上がることは可能だろう。

やはり金利で余剰資金を生み、それが株式市場に流れ込む、よい循環に持ち込むことが大切だ。そうなれば、国も財政再建に目途がつくし、歳出削減を継続しておれば、国債残高も、減らすことも可能になってくる。もちろん、国内需要も拡大するだろう。

こう見ていくと、日本の内需経済の命運は、日本銀行が握っていることになる。輸出とのバランスは、政策としても苦慮するだろうが、政策金利を上げても、輸出に勢いがつけば、円高は吸収するだろうし、企業は、それなりに円高対策を取るだろう。必要なのは、企業に対して、事前に、いくつかのシナリオを明示しておくことだろう。そうすれば混乱は避けられる。

これからは、やり方によっては、日本経済は面白くなる。

*注

BICsは、BRICsの誤りでなく、ロシアを除くという意味で、BICsと表記している。

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2010年5月22日 (土)

注目されるVISTA諸国家

BRICsは、ブラジル、ロシア、インド、中国を指すが、資源大国のロシアは低迷し、ブラジルも、インド、中国ほどの成長はしていないようだ。ロシアは、脱資源と不透明なビジネス構造を改めない限り、今後の成長は見込めない。今では、せいぜいブラジルを含めて、BICsと呼ばれても差し支えない状況だ。

そして、今、BICsに続く国々として、VISTA諸国が注目されている。その国々とは、ベトナム、インドネシア、南アフリカ、トルコ、アルゼンチンを指す。IMFの予測でも、成長率が3%を超えるという。

もちろん、これらの諸国は、それぞれに面倒な課題を抱えているが、うまく投資を巻き込めば、健全な経済成長が可能ということだろう。条件としては、じっくり国内資本を充実させることだろう。

日本の企業の投資は、相手国にとって、プラスになるような投資を心がけている。その観点からすれば、これらの国々が、日本をパートナーとする利点は大きい。どこかの国のように、投資しても、すべて自国に持ち帰るようなことはしない。

そういう意味では、BICsに次いで、将来は非常に有望にな投資先になる可能性が高い。そのためには、まず各国の抱えている諸問題の解決に与することだろう。それは必ずしも金銭問題だけではない。システム、人材育成についても、しっかりアドバイスして、留学生を招くなど、若い人の交流も深めることが大切だ。

そのようにして、貿易基盤を固めれば、中長期的には、日本の貿易も、欧米一辺倒だったものから、やっと脱し、望ましい多極化貿易体制に移行していくのだろう。

*注記

但し、個人の金融資産の投資先としては、VISTA諸国家は、まだ不適といえる。若い人でも、あまり先走らないことだ。

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2010年5月21日 (金)

日本の畜産問題

宮崎県で、口蹄疫問題が大きくなっている。肉食はあまりしないものの、これほど大きい問題に発展すると関心を持たざるを得ない。農水省は、一応機敏に対応しているようだが、宮崎県の初期対応の遅れは否めない。

またイギリス等の口蹄疫事件の教訓が生かされていないのは、農水省も同じことかもしれない。わが国では起こらないと思っていたのだろうか。そういう意味では、リスク管理体制の不備が指摘される。確かに、管理体制はコストと絡むので、財政厳しい折、過剰な管理体制は無理かもしれない。

しかし、畜産中心の県に対してのみ、重点的に対策を打てば、それほどコストはかからなかったはずだ。もちろん、官僚だけでは判断できない部分もあるが、早く政治サイドに上げておくべきだったと思う。

そうでなくても、2007年には、鳥インフルエンザも引き起こしている宮崎県。この県の畜産システムに何らかの問題を抱えているのは確かだろう。当事者の方々の苦しみはわかるが、根本的な畜産のやり方に早くメスを入れる必要がある。

これらの問題が起こるのは、素人考えでは次のように考えられる。

 一、一部の畜産農家の環境の悪さから拡散するということ

 二、免疫力の問題~日照下の運動不足

 三、土壌の汚染状態の問題

  四、水質汚染の問題

 五、輸入飼料の問題

 六、大量飼育の問題~畜産密度の限界をオーバー

 七、畜産環境を悪化させる経済的要因

     ~国際化による価格の問題・経営問題

これらのことは、宮崎県に限らず、全国の畜産農家への警鐘になるだろう。ただ専門家ではないので、これ以上の言及はできない。畜産農家の中には、長年、努力して、改良してきた畜産農家もあるだろう。続けるにしても、廃業するにしても、彼らへの経済支援は、必要だろう。

ただ、流風は、輸入肉には、できるだけ手を出したくない。となれば、国内で生産された飼育環境も含めて、きちっと生産管理された肉を口にしたいものだ。生産システムを改善し、価格的に上げなければならないのなら消費者としては、仕方ないだろう。いかにすれば、生産者が、無理なく良質の畜産ができるか。消費者も、真剣に考える時期に来ている。

*追記

母は、ずっと前から、宮崎県の農畜産には問題があるとしていた(九州全体の農畜産にも問題があるとしていた)。どこから仕入れた情報か知らないが、いつも生産地を確認し、一生、口にすることはなかった。流風は、それほど気にしなかったが、これだけ問題が大きくなると、母の言っていたことの根拠を確認しておくべきだった。

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2010年5月20日 (木)

他人の痛みを知るということ

小さい子どもの頃、母に、流風のほっぺたや太ももをつねりながら、「人の痛みを知る人になりなさい」とよく言われた。このことは、よく覚えているが、前後のことは、忘れてしまった。多分、何か悪さをしたのだろう。

ただ、他人の痛みを知るというのは、今になっても、現実には大変なことである。人は、他人が病気になったり、怪我をしたりすると、見舞いをして、同情するかもしれないが、同情は、他人の痛みを知ったことにはならない。

人は、他人の痛みを知るには、自分が経験しないと、真のわかったことにはならない。自分も経験した病気とか、怪我に対しては、単に同情だけでなく、痛みも知っているので、真に「痛みを知る」と言える。そこから発する言葉は真実に近い。

だが、世間で言われるほど、他人の痛みを知ることは容易ではないし、そうかと言って、すべての痛みをわかれば、生命の存在そのものが危うくなる。そういうわけで、痛みを知るというのは、安易には語れない。

もっとわかりやすく言えば、女性は妊娠して子どもを産むのに対して、男は、それができないから、女性の産む苦しみは、一生わからない。せいぜい出産するのに立ちあって、妊婦の妻が難儀しているのを確認するだけだ。だから、決して、その痛みを知ることはない。せいぜい、頭で理解するだけだ。

だから、安易に「他人の痛み」がわかるとは言えない。ただ、気持ちとしては、過去に痛みで苦しみ、今も痛みで苦しむ人たちの声を聞くことはできる。痛みを知るとは、結局、本人が痛みで苦しんでいる人の声を聞き、聞き届けてあげるということかもしれない。

そして、本人が痛みから脱するのを、せいぜい軽くしてあげる気持ちや思い遣りが求められるのかもしれない。今さらながら、「他人の痛みを知る」ということは、大変なことが分かる。そういうことで、流風も、母の教えを十分に達成できていないと言えるだろう。

*追記

逆にいえば、自分の痛みを知ってもらおうとするのは、無理かもしれない。あまり期待しないことだ。結局、いろいろ他人に相談はしても、いいと思うが、自分の痛みは、自分で解決するしかないようだ。それは仮にパートナーであっても、同様だろう。せいぜい思い遣りに期待するしかない。

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2010年5月19日 (水)

歌仙たちの嫉妬(下)

貫之に六歌仙に選ばれた理由は不明ながらも、彼らを世俗的に茶化した狂言がある。題名は、『歌仙』となっている。六歌仙は、前にも示したように、僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、僧喜撰、小野小町、大友黒主。性別で見ると、男五名に、女性一名。ここからの発想で、面白おかしく、からかった内容になっている。随分と分かりやすい(笑)。

あらすじは、運がよく、いいことがあった人(果報者)が、太郎冠者と次郎冠者を伴い、玉津島明神に行く。玉津島明神は、以前にも取り上げたが、人麻呂、赤人と共に、和歌の三神の一人とされる。そこに、六歌仙が描かれた絵馬を奉納する。

ところが、どうしたことか、絵馬の六歌仙が動き出し、謡と共に絵馬から飛び出したから大騒ぎ。六歌仙は、和歌の徳を語ったり、けったいな題で、和歌を詠うことになる。これは、多分、果報者が、夢を見たんでしょう。能では、たびたび、夢と現実がごっちゃになる。狂言でも、その手法を使ったのかも。

さて、問題は、これからだ。歌仙たちは、和歌の案を練る内に、いざ一献ということになり、酒盛りが始まるが、小野小町が、僧正遍昭に酌をしたことから、他の男たちの嫉妬を生み、喧嘩になる。酌には、裏の意味もあるからだ。

この狂言、生臭坊主をからかっているのかな。どこの国も、聖職者ほど、異性に対して、いい加減な者はない。そして、一人の女性をめぐって、よくあることですね(笑)。結局、彼を交えて、女性の奪い合い。これは男の性(さが)か。

こういう題材、映画にもありますよね。無人島に、男女が流れ着いたが、一人の女性を除いて、後は、みんな男。それで、その女性を巡って、一悶着。まあ、女性のグレードがどのようであろうと、一人しかいないんだから、比べようもない(笑)。女性の方からすれば、羨ましいてなことに、男を選り取り見取り。

そこで、男たちは、一人の女性を争うことになる。客観的に冷静に見れば、馬鹿げているけれど、案外、このことは、一般世間でも、みんな、よくやっている。あまり笑えないんだ。異性は、この世の中に、たくさんいるのに、どういうことか、身近な一人の異性に捉われてしまう。これ、不思議と言えば、不思議。

僧正遍昭は、皆に叩かれ、這這の体で、逃げ去る。それに小町も追う。ところが、僧正は武装して、やってくるということになる。ここでも、武装する僧を、仏教の教義は一体何なのか、忘れていると、からかっている。そして、残りの四名も待ち構え、いざ一戦という時、夜明けの鳥が鳴き、六歌仙は、元の絵馬に収まっていたという。

これは、果報者たちが、やっと夢から覚めたということを指すのだろう。そういうことは舞台では示されないけれど。奉納すれば、夢を見れますよという風にも捉えられる。そこから、何を示唆されたと受け止めるか。作者も、いろいろあったんだろうな、と笑えてくる(笑)。

さて、話を戻すと、一人の女性を巡って、争いがあるのは、いつの時代もあるようだ。東西の色々な物語にも描かれているし、男女問題は、どこも変わりがないということだろう。ただ、争いに勝ったところで、つかまえた女性に、後で幻滅するのはどうしたことだろう。

ここで、初めて現実に目が覚めるのかな。まあ、過大に期待してはいけないということだろう。これは女性の立場でも、同じかもしれない。男女の期待値と実際は、大きな差異が必ずあると心得ておけば、何も問題はないということかな(笑)。

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2010年5月18日 (火)

歌仙たちの嫉妬(上)

六歌仙というと、『古今和歌集』に紹介されている。僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、僧喜撰、小野小町、大友黒主だ。『古今和歌集』は、紀友則、紀貫之、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)の四名によって、選ばれた歌集だが、実質は、紀貫之によるものだ。

よって、六歌仙も、彼に選ばれたと考えるべきなのだが、批評は辛口だ。引用すると次のようになっている。

 ●僧正遍昭

「歌のさまは得たれども誠すくなし。たとへば、絵にかける女を見て、いたずらに心を動かすごとし」

 ●在原業平

「その心あまりて言葉たらず。しぼめる花の、色なくてにほひ残れるがごとし」

 ●文屋康秀

「言葉はたくみにて、そのさま身におわず。いはば、商人のよき衣きたらんがごとし」

 ●僧喜撰

「言葉かすかにして、初め終わりたしかならず。いはば、秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし」

 ●小野小町

「いにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにて、強からず。言はば、よき女の悩めるところにあるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。

 ●大友黒主

「そのさまいやし。いはば、薪負へる山人の、花のかげに休めるがごとし」

貫之の六歌仙の評価は、女性の小野小町を除いては、厳しい。小町に少し甘いのは、貫之も男だからか(笑)。

しかしながら、なぜ、これら六名が選ばれたのかは、不明のようだ。貫之が本当に選んだのかどうかも怪しいとも言われる。勅撰集だから、上や関係者からのいろんな指名があったのかもしれない。貫之は気に入らなかった分、仮名序に、これだけ厳しい批評をして、憂さを晴らしたのかもしれない。本当は、選んだのは、本意でないと。

前振りが随分長くなったが、この続きは、次回。

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2010年5月17日 (月)

夏野菜の季節

昨日、急に温度が上がり、夏に突入したようだ。お陰で洗濯物がよく乾く。そういうこともあり、流風は、冬より夏の方が好きだ。でも、関西の蒸し暑さで、注意はするのだが、冷たいものを飲み過ぎて、夏バテしたりすることだ。そこで、夏野菜でエネルギー源を補うことになる。

特にトマトにはお世話になる。冬の間は摂取を控えている生のトマト(身体を冷やすので。ただし、煮込めば問題はない)も、これからは、ほぼ毎日食べることになるだろう。湯むきして食べたり、スープにしたり、煮込んだりする。どれも美味しい。

ジャガイモ、玉ねぎ、人参、ハムなどと適当に煮込んで、更にトマトとジュースで味付けしたものもいい。味は、塩とコショウで微調整する。トマトジュースは、あまり好きでなかったが、煮込んでスープにすると美味しい。またトマトジュースも、最近は、無塩で酸味の緩いものも出ており、それなら、なお問題はない。

後は、夏野菜としては、キュウリがある。塩でもんで、スライスして、サラダの具にするのもいいが、セロリと共に湯がいて、スライスして、お酢、ごま油、醤油等でドレッシングしたものが好きだ。

ピーマンは、野菜いための具とすることが多い。その他は、サツマイモと共に、みそ汁の具かな。ピーマンにひき肉を詰めたものも美味しかったが、油濃くて、最近は敬遠している。

その他の夏野菜としては、ニラがある。最近は、年中出回っているが、本来、夏野菜だろう。生食するのは夏場だけだ。夏のニラは、しゃきっとしている。スタミナをつけるのにはいい。ただ食した後の匂いが、ニンニク同様きついので、人と会う場合は、要注意だ。冬には、火を通すニラ卵にするが、夏場は納豆に入れるネギの代用として食している。冷え症にも、いいらしい。

これらを積極的に食して、この夏を乗り切りたいものだ。

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2010年5月16日 (日)

小人閑居して、、、

昨日に引き続き、今回は、閑居がらみの言葉を取り上げよう。それは、「小人閑居して不善を為す」という有名なもの。ここで、小人とは、どういう意味なのだろうか。もちろん、大人に対して、小人料金を頂きますという小人とは、もちろん違う(笑)。

よく子どもの頃、親から、人前で悪いことをしてはいけないのは当たり前だが、そのことは、たとえ、そこに人がいなくても、悪いことはしてはいけない。すべてのことは、天が見て知っている、と教えられた。

すなわち、ここで言う、小人とは、他人がいないと悪いことをしてしまうような人物を指している。だが、人は、修業が足りないと、勘違いしてしまいがちだ。誰も見ていないのだから、やっても大丈夫だろうと。しかし、そういうことは不思議と、すぐにではなくても、時間と共に露見してしまうのが常だ。

この「小人閑居して不善を為す」という一文は、『大学』にある。孔子の著したものだ。一応、流風の覚えとして、その後の文も記しておこう。

  小人閑居して不善を為す、至らざる所無し。

  君子を見て、而る後に厭然として、その不善を蓋いて、

  その善を著す。

  人の己を視ること、その肺肝を見るが如く然り。

  則ち、何の益かあらん。

  此れを中に誠あれば、外に形(あらわ)ると謂ふ。

  故に、君子は必ず、その独を慎むなり。

これは、君子に対する警告だ。家来が、本当の家来か、そうでないかを見破る必要があるとしている。本当に心から忠誠心のある家来と、そうでない家来とは、その言動や態度、行いから、見破ることができる。しかしながら、見破るには、君子自身が、真の誠ある言動と行動をしなければならないと諭している。

小人は、基本的に、まだ精神的にふらふらして迷いのある修業途中の人物を指しているのかもしれない。自分自身をコントロールを十分にできない世間知らずを指しているとも言える。よって、修業中の身の内は、独りにさせず、多くの監視の下に、餅つきのように、突き込んでいって、人格形成を行う必要がある。

果たして、流風が、小人を脱して、閑居しているのかどうかは、未だ自身ではわからない。修業は、一生のような感じがする。となると、、、、(笑)。まあ、ブログを書いていると、閑居のような感じがしないのも事実であります。せいぜい、下手な文章を書いて、自制するとしよう。否、自省かな。

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2010年5月15日 (土)

閑居と漢詩『幽居』

流風は、親の介護の後、本人の自覚はないのだが、年齢の割に早く閑居しているに等しいかもしれない。それは望んだことではなかったが、自分の体調と相談すれば、やむを得ない。

それがいいのか悪いのかはわからない。早すぎると言う人もいる。大体、急ぎ過ぎた人生だったと言えるかもしれない。何でもかんでも、結論を急ぎ過ぎたのかもしれない。しかし、今となっては、仕方ない。

さて、漢詩にも、『幽居』と題するものがある。幽居とは、世の中を遁れて静かにひっそりと住むことだ。作者は、韋応物だ。彼は、唐時代の人で、若い頃は、任侠の徒で、結構、悪いことをしたらしい。その後、玄宗皇帝の護衛をしていたが、皇帝の死後、行状を改め、読書に勤しんだという。

誰でも、転機というものはある。若い頃、暴れる人間は、ある意味、純粋な感性の持ち主であることも多い。それが正しい道に気づけば、猛勉強するし、逆境にも強いから、ひとかどの人物にもなることも多い。問題は、いつ気づくかということだ。

彼は、その後、そこそこに出世している。ただ、妬まれたりして、必ずしも順風満帆ではなかったようだ。人生には、いろいろある。だが、不倒だったようで、いつも、いろんなところから声を掛けられる人物であった。それだけ、どこか頼りになる要素があったのだろう。

その彼の詩は、不遇時代に作られたものだろう。内容は次のようである。

  貴賎は等を異にすと雖も

  門を出でては皆営むこと有り

  独り外物の牽く無くして

  此の幽居の情を遂ぐ

  微雨 夜来過ぐ

  知らず 春草の生ずるを

  青山 忽ち已(すで)に曙(あ)け

  鳥雀 舎を繞(めぐ)りて鳴く

  時に道人と偶し

  或は樵者に随って行く

  自ら当に間蹇劣に安んずべし

  誰か世栄を薄くすと謂わんや

解釈をいつものようにすると、次のようだろうか。

「貴賎により、等級が違っても、誰も、一旦、外に出れば、それぞれに生計のため、あくせくしている。ただ、私だけは、地位も名誉も財産に影響されずに、この幽居で、静かに、あれやこれやと思いを巡らせている。

微かな雨が、昨夜、降った。お陰で、春草も生え出したかもしれない。緑豊かな山が朝日を浴びて夜が明け、雀などの鳥たちが、家の周りで、忙しくさえずっている。

ここの生活では、時に、道教の修行者と一緒に歩いたり、樵の後に、ついて行ったりしている。このような生活は、愚鈍な私には、まさに相応しい。もちろん、そうかと言って、世間で頑張っている人々を、揶揄するつもりはない」と。

本音としては、どうだろうか。多少の無念さはあるかもしれない。悟ったことを示しながらも、本心は、必ずしも、そうではないかもしれない。不倒と言われた人物だからこそ、次のチャンスが巡ってくると思っていたかもしれない。

しかしながら、自ら、それを求めることはしない。流れに沿わない時は、バタバタ動かない。静かに、環境が好転するのも待つ。不遇の時の対処の仕方としては、望ましいだろう。こういう時は、案外何もかも、客観的に物事を見つめることができるので、自らを涵養できるのは間違いないだろう。流風は、残念ながら、幽居ではないだろう。閑居を楽しんではいるが。

*注記

閑居と幽居の違い(広辞苑より)。大変似ている言葉ですが、少しニュアンスが異なる。

●閑居

 ①閑静な住居

 ②ひまでいること。世事を離れてのんびりと暮すこと。

●幽居

 俗世間を避けて物静かな所に引きこもって暮らすこと。

 また、その住居。閑居。

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2010年5月14日 (金)

組織の新陳代謝

組織も、新陳代謝しないと、病にかかる。それはベテラン病とか、経験者病と言われるものだ。とにかく、過去の実績に捉われるものだから、新しいものに挑戦しない。結果的には、組織の活力が失せる。若い人さえも、それに感染し、やる気を失ってしまう。

組織も人も、ある目的に向かっていると、力を発揮するが、それがないと、方向感を失い、自滅する。そういう組織は、過去にいくらでもある。人間というものは、そのようにできている。こういうことを学ばない組織は、いずれ衰退し滅ぶのだ。

あるプロ野球のチームが、ベテランで、ずっと活躍してきたが、さすがに年齢に勝てず、故障の回復は遅れ、不振が続いていた選手がいたが、個人の記録や、過去のいきさつもあり、色々な人間関係から監督はレギュラーを外せない。

確かに年齢の割に、本人は頑張っていたが、4番の重責は、ここ数年果たしていない。ホームランも非常に少ない。そういう選手を使い続けることは、チームとしては、非常におかしいことは、誰も分かっているのに、誰も言い出さない。

結局、本人の申し出で、出場を控えることになったが、何をか、いわんやである。リーダーが、その決断をできないようでは、監督を引き受けてはいけないだろう。第三者が何を言おうと、自分の意思で、実力主義で以て、チームを運営しなければならない。

そうすれば、チームも沈滞することはない。結果的には、そのベテラン選手の代わりの選手が頑張り、今まで、どこかおかしかった5番打者が4番に座り、4番打者の自覚ができたのか、よい成績を残している。

そのベテラン選手は、復帰に向けて、調整しているようだが、引退の時期を誤ってはいけない。このチームにいる多くのベテラン選手と共に、早く引退すべきだろう。大体、プロのスポーツというものは、野球に限らず、若い人たちが、一所懸命やるから面白いのだ。

だから、ある一定の年齢に達すれば、一線から引くことが望ましい。組織の新陳代謝とは、まさにこのことだ。これはあらゆる世界に言える。企業組織しかり、政治組織しかり、官僚組織しかりである。

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2010年5月13日 (木)

トップのツイッター利用リスク

ツイッターは、ある程度、流行っているようだ。その瞬間、瞬間、感じたことを記して、反応を見る。最初小さな話題だったものが、様々に波紋を投げかける。そういうことを楽しく感じる人々がいるのだろう。

しかしながら、トップ層にいる方々は、避けた方がいいだろう。トップの発言は、重みがある。たとえ、本人は軽い気持ちで発信しても、それは十分に重い。ということで、トップ層のツイッター発言は評判が悪いし、随分と本人を貶めている。

例えば、米国のオバマ大統領や、日本の鳩山首相。総務大臣も、その尊大な態度と共に、ツイッター大臣と揶揄されている。トップ層にいる方々は、言葉は常に選ばなくてはいけないし、あまり軽く多くの言葉を発してはいけない。

最近は、説明責任とかいうが、それは周囲が忖度すべきもの。あまり何もかも明らかにしてしまえば、順調に進むべきものも進まなくなる。人々は、トップの一言一句に注目するため、トップは、発した言葉の影響力を十分考慮して発言しなければいけない。トップは、ツイッターには発言しない方がいいだろう。

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2010年5月11日 (火)

核家族の共働き問題

昔から、共働きは存在した。但し、現在と家族を取り巻く状況は異なる。昔は、二世代、三世代同居は当たり前だったから、若い夫婦は共働きでも、親世代が孫の面倒を見たり、食事の準備もした。それは、嫁、姑問題も、直接顔を合わせる時間を少なくできるメリットがあった。それで、お互い援け合いながら過ごせたのだ。

だから両親世代が介護状況になっても、嫁は面倒を見たし、そうすることで、相続の権利も与えられた。だが、戦後は、変な平等観から、相続も平等になり、親の面倒をみる子供のメリットは小さくなっている。結果的に、親子間の関係が歪んでいる例は示されている。

それに都市化により、核家族化の進行に加えて、男女平等意識というから、ややこしくなる。男女平等はいいが、役割は本来違うはずだ。それを何もかも一緒にする国の政策から、この国の家族の在り方がおかしくなった。

家族の在り方も含めて、政策は検討されねばならないが、国は、福田赳夫政権以降、観念的な政策がずっと続いている。それは学者等有職者の意見が中心になるからだろう。彼らは頭の中で理想論を展開する。

だが、一般国民は、現実の生活があるわけで、その整合性に問題がある。政治家が、きちんと国民の声を聞いて修正すればいいが、有識者の意見がそのまま法律になるから、国全体がおかしくなっているのだ。

そういうことで、やれ、女性の戦力が欠かせないとか言って、結局、賃金水準の下落を招き、デフレだと騒いでいる(*注)。もちろん、国内の不景気の原因は、それだけではないが、ある意味、男が頑張らないから、ダイナミックな経済にならないのも事実だ。

確かに男の頑張りは、バブルのような暴走を招くが、今は、その正反対の状況にあると言える。やはり男は、銃後の心配なく(古い表現ですみません)、一所懸命働ける家庭が大事だ。家庭のごちゃごちゃしたことを一々対応していたら、仕事のストレスの上塗りだ。その上、共働きになれば、いろんな行き違いから、家庭崩壊は十分考えられる。

核家族で、共働きは本当は不可能だと思う。となれば、やはり二世代、あるいは三世代同居が望まれる。国は、二世帯、三世帯同居を促す政策が望まれる。それは少子化を解決する手段でもありうるのだ。

*注

もちろん、女性にも男性的な人もいるし、男にも女性的な者もいる。そうした場合は、臨機応変に役割をチェンジすればいい。

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2010年5月10日 (月)

火災に備えて~住宅用火災警報器を設置する

我が国は、国民に対して、過保護かもしれないが、ある意味、良心的と捉えることもできる。他国によっては、日本について、よく行き気届いていることにびっくりされる。国民の声は、届いていないという話も聞くが、他諸国との相対では、そこそこに伝わっているとも言える。

さて、火事を出せば、七代恨まれるという。それほど、火事は怖い。家が燃えれば、家財一切なくなるし、生命の危険も、もちろんある。そして、近所に延焼になれば、大変な迷惑をかけてしまう。

被害を受けて、助かっても、その後の生活は、大変だ。そういうことで、両親も、火の始末には、念には念を入れて処理していた、火の用心には、細心の注意を払っていた。

しかし、いかように注意しても、他家からの延焼ということになれば、被害は逃れられない。そして、深夜、火災になって、逃げ遅れることで、多くの死者が出る。そういうことで、消防庁は、平成18年、住宅に住宅用火災警報器の設置を義務付けた。

新築は、もちろんだが、既存住宅についてもだ。そういうことで、ポロ家屋の流風家も、遅まきながら、住宅用火災警報器を、やっと設置した(平成23年5月末が期限)。やれ壁から離せとか、クーラーから離せ、照明から離せと、いろいろ条件が難しいが、何とか設置。義務にはなかった台所にも設置した。

もちろん、これで十分とは言えないだろうが、一応義務の対策は打ったことになる。後は、用意と準備だけだ。大事なことは、火事を出さないことこと。タバコは吸わないので、その危険性はない。来訪者にも、禁煙ということにしている。やはり火元になりうるのは、台所か。油を使うフライ料理は、極力避けている。身体にも、あまりよくないし。そして、外出時の火元の点検。

だが、他にもあった。電気コードからの火災リスク。台所に使用する延長コードは、防水型に買い替えた。また電気コードのコンセントにゴミがあると発火の可能性があるので、清掃も欠かせない。いずれ、すべて、電気コードを防水型に替える。更に古い分電盤も、取り替えた。そして、十年以上前の古い家電商品の処分と買い替え。

後は、家周辺の清掃により、火元になりうることを防ぐ。父がやっていたように、バケツに水を汲んで設置。水道管からは長めのホース設置。そして、最悪の場合のための、火災保険。こう考えると、家庭においても、火災のための防災はいろいろやることがある。

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2010年5月 9日 (日)

思いやりということ

子どもの頃、母に、思いやりのある人間になりなさいとよく諭された。果たして、流風が、思いやりある人間かどうかは、未だ疑問だ。父からは、人情をもっと大切にしないといけないと、たびたび注意を受けた。

しかし、この思いやりというものは、案外難しい。広辞苑には、次のように示されている。

 一、思いやること。想像。

 二、気のつくこと。思慮。

 三、自分の身に比べて、人の身について思うこと。

    相手の立場や気持ちを理解しようとする心。同情。

両親が言っていたのは、三、の意味が強いと思う。この思いやりは、「思い遣り」と書くが、「遣る」は、「進ます」というような意もあるし、「物事をはかどらせる」という意もある。となると、やはり、二、の思慮深くという意味になる。

思いやりが難しいのは、関係者が増えれば増えるほど、物事は複雑化するからだろう。結局、いろんな矛盾が生じ、トレード・オフが生じる。あちら立てれば、こちら立たず、という奴だ。それがいくつか重なると、もう収拾がつかない。

となると、どうすればいいのか。とどのつまり、それは人間性ということろに行きつくのではないか。妥協点を見出し、完全に満足でもない、完全に不満足でもない点を探り、信頼に基づいて、物事を決して行く。

ということは、思いやりというものは、片方だけではだめで、相互の思いやりが必要と言うことになる。お互いの立場を理解しあう姿勢が、必要と言うことだろう。すなわち、思いやりは、お互いの切磋琢磨の中で、生まれるものと言えよう。社会における思いやりは、そういうところに行きつく。

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2010年5月 8日 (土)

あっかんべーされる

子どもの頃、近所の女の子とたちと皆で遊んでいて、時々、ある女の子に、帰り際、あっかんべーされた。片方の目の下を指で引っ張って、舌を出すのだから、嫌な奴だと思ったものだ。流風は、おとなしい子どもだったから、そんなに女の子に、いじわるする方でもなかったから、なぜだろうとよく思ったものだ。

まあ、これは男児が、女の子にスカートめくりするのと似ている。関心があるから、そのような行為に及ぶ。あの当時の女の子は、どうしているのだろう。もう立派なおばさんなんだろうな(笑)。理由を確認してみたいものだ。多分、本人は覚えていないだろうが。

ところで、先日、バスに乗ったところ、斜め前に、赤ちゃんが母親と共に座っていた。色白の美しいお母さんだ。そうすると、その赤ちゃんは、ふと振り返り、流風を見つめてきた。よくあることだ。目はまだ見えていないのだろうが、急に、舌を出して、あっかんべーの仕草。

おいおい、そんなに嫌わないでくれ。そして、目線を離さない。お母さんが、気づいて、赤ちゃんの姿勢を直している。そうすると、舌は引っ込めているようだ。そして、また振り返り、流風を見つめて、舌を出す。一体、これはなんだろうね。

そういうと、君も、お母さんに似て、色が白くて可愛いね。お坊ちゃんだと思ったが、どうもお嬢ちゃんらしい。異性に関心を持ってもらうのは、嬉しいが、なんだかね(笑)。でも、そういうことで、昔のことを思い出した。

*追記

なお、あっかんべーは、心を広やかにしてくれるようです。大人でも、童心に戻って、やってみるのもいいかも。但し、第三者から誤解されないようにね(笑)。

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2010年5月 7日 (金)

秀吉の言葉

今回は、秀吉の言葉を取り上げてみよう。「啼かぬなら啼かせてみせようホトトギス」という川柳で譬えられるように、秀吉は、いろんな工夫をして成果を上げた人。晩年は、ボケたと言われるが、安土・桃山時代の豪華絢爛な文化は、庶民をわくわくさせた。庶民出身の彼は、信長や家康と違って、庶民の気持ちをよく知っていたということだろう。

その無学の彼が、簡単だけれども、含蓄のある言葉を残している。流風の独断解説付き(笑)。彼の本来の意図とは違うかも。

 一、よくをはなるべし。

欲を離れろということ。欲に捉われると、足元をすくわれる。

人間だから、適切な欲は、進歩させるが、欲が深くなると、危険が待ち受けている。欲にも深い思慮が必要だ。

 一、おんなに心ゆるすな。

解説はいりませんね。心の隙は、女性問題から生じる。

女性は、どうしても現象面で騒ぎがち。それで判断すると間違うことが多い。心を入れて、心入れずのバランスが大切。

 一、人と物あらそうな。

他人が欲しがれば、まず与えよ、ということかな。

他者が欲しがるものを無理やり、先駆けて手に入れようとすると、敵を増やしてしまう。そういうことになるのなら、まず譲ればいい。そうすれば、相手も喜び、敵もできない。負けるが勝ちなのだ。まあ、ケースバイケースだけれど。

 一、あさ寝するな。

すべてのチャンスは朝にある。

早起きは三文の得と言われるように、朝には、多くの好機が待っている。脳は適切に判断よく働く。朝寝することは、すべてのチャンスを放棄すること。それでは、成功は覚束ない。

 一、何事も人なみになれ。

まず、人並みに、こなすことが、すべてのスタート。

新人が、あせって、あれもこれもという気持ちもわからぬでもないが、一つ一つを確実に自分のものとして、こなせることがまず大事。そうすれば、いずれ大きな仕事を任せてもらえる。

 一、身の行く末つつしむべし。

いかに勢いがあっても、言行に注意すべき。落とし穴は、自ら作るものだ。

仕事をやっていて、成果が続くと得意になるもの。それに地位が伴えば、態度も大きくなる。だが、多くの成果は、周囲の協力があってのもの。周囲の協力がなくなれば、自分自身は裸の王様。そうなれば、自分の身さえ守ることは難しくなる。

 一、何事もつくづく物ひげすな。

失敗しても、あきらめるな。一度の失敗はすべてではない。

元気な時は、大口をたたいても、失敗すれば、自分の能力のなさに卑下してしまう、そういう人間の弱さ。しかし、それではいけない。常に自身を励まし、自分の無限の可能性を開くべし。

 一、物にたいくつするな。

どんな状況であっても、楽しめ。創意工夫が身を助ける。

物事に飽きるということは、人生に飽きるということ。それではいけない。常に、いろんなことに関心を示す姿勢が大切だ。仮に、退屈な仕事でも、そこに何かを見出す姿勢は、何かを生み出す。それが継続すれば力になる。

以上、秀吉の言動を見ていくと、人生訓に近い。基本的に、人生を楽しみ、飽きないように努力してきた姿勢が読み取れる。

しかし、その彼も、辞世の句は、次の通りだった。

  露とおき 露と消えぬる 人の世や

        難波のことは 夢のまた夢

やはり、人間、死んだら終わりと、彼も悟ったようだ。

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2010年5月 6日 (木)

漢詩『事に感ず』を解釈する

次々といろんな花が咲く。ただ、急激な気温の上昇で、植物も戸惑っている感がある。暑さに参って、萎んでしまった花もある。逆に、暑さ歓迎と、元気に開花している花もある。花も様々だ。そして、いろんな昆虫がやってくる。蜂と蝶が主だ。

そういうことを見て、世の中を揶揄した漢詩がある。それが、干濆(うふん)の『事に感ず』だ。彼は唐の時代の詩人。それほど出世はしていない。やや、世の中を斜めに見る癖が、それを妨げたのかもしれない。

だが、この詩は、日本人には、比較的好まれて、詩吟に詠われることも多い。その詩の内容は次のとおりである。

  花開けば 蝶枝に満つ

  花謝すれば 蝶還(また)稀なり

  惟(ただ)舊巣(きゅうそう)の燕あり

  主人貧しきも亦(また)帰る

表面的な解釈は、「花が咲くと、その蜜を求めて、蝶が次々とやってくる。しかし、花が散ってしまうと、蝶は、もう戻ってくることはない。ただ、それに比べて、燕だけは、主人が貧乏でも、古い巣に毎年戻ってくる」ということだろう。

裏には、「そこそこの地位にあると、人々は、次々とやってくるが、左遷されたり、退任すると、水が引くように、誰も近付いてこない。ただ、親友だけは、私が、どんなに逼塞しても、訪ねてくれるのは、有難いことよ」というようなニュアンスであろうか。

このようなことは、多くのサラリーマンも経験していることだろうし、定年退職すれば、人間関係も切れてしまう。確かに、そのことを人の冷たさと捉えることもできるが、これは致し方ないこと。人には、それぞれ生活がある。

大体、仕事でつながる人間関係は弱いものである。やはり、仕事で、つながらない学友を大切にすることが長い人生では意味を持つ。学生時代の友人は、人生において価値があるということを示唆している。学生時代に、そういうことを見越した付き合い方が求められる。だから、友人とは、決して、利害で、つながってはいけないということも指摘できる。

*追記

ところが、ローマには、同じ燕を扱っても、次のような言葉が伝えられている。

「燕たちが、夏の季節には、我々の所にいるが、寒さに襲われれば、いなくなる。それと同様に、偽りの友も、人生の波の平穏な時には、そばにいてくれるが、運勢の冬、来たるとなれば、皆、たちまち飛んでいなくなくなる」と。見方が異なると、考え方も違ってくる。

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2010年5月 3日 (月)

今年の食ぺ物運

実は、今までのところ、今年の食べ物運は、あまりよくない。ケチの付き始めは、正月のお餅からだ。毎年、和菓子屋に頼むのだが、今年は、いつも頼んでいるところと違うところにした。昨年末、買い物をしている時、別の老舗の和菓子屋のお餅の早期予約のチラシが目に入ったからだ。

そこで、初めて頼むところを変えたのだが、これがいけなかった。お米は、有名なもち米を使用していて、杵つきとのことだったし、期待していたのだが、これを正月に食してみて、がっかり。餅に腰がないし、水っぽい。味もどこかイマイチ。これだとスーパーで売っている安物のお餅と大差ない。

これは杵つきと言っても、機械つきだったのではと思ってしまう。老舗の看板を挙げておきながら、こんなお餅では、どうしようもない。ということで、時々買っていた和菓子も全く買わなくなった。正月のお餅で利益を上げようとしたのだろうが、裏目であろう。和菓子屋は、正月のお餅は、最高のものを提供しなければならないのだ。

次に食ぺ物運と言えるかどうかわからないが、この冬に大変体調が悪くなった。ブログを止めようとしたぐらいであった。原因追及をすると、どうも、ある出汁調味料だとわかった。少し賞味期限が切れていたのが、悪かったのかもしれない。

だが、一般的に、調味料が古くても、それで健康を害す例は少ないと思う。それで、再度自分の身体で、その調味料を少し使って実験してみたのだ。そうすると、同じ症状が出てきたので、それが原因とわかった。まあ、これは食物運が悪かったとは言えないかもしれないが。

更に、流風は、最近は、あまり外食はしないのだが、それでも、歩きすぎた時は、自分で料理をするのが嫌なので、時々外食する。そして、できるだけ、脳への刺激のため、あまり知らない店舗で食するのだが、これらがことごとくまずい。これが街中にある個店ならともかく、百貨店内に出しているテナント店なので、驚く。

スーパーのテナントの場合は、いろんな事情が絡むから、それは街中の個店と変わらないだろうが、百貨店の場合は、そうではない。だが、まずい店も多い。この程度なら、流風が自分で作った方が美味しいというケースが多いのだ。もちろん、流風が食するのは、高級店ではない。でも、ひどすぎる。

そして、更なる食べ物運の悪さは、粉物だ。関西は、自宅でたこ焼きやお好み焼きが主食になったりする。流風も、たこ焼きは作らないが、お好み焼きは時々つくる。小麦粉、長いも、卵、水、キャベツ、ネギ、カツオ節、天かす、豚肉、エビなどを入れて作る。

子どもの時は、高砂(兵庫県)周辺で始まったとされる「にくてん」と称して、母がよく作ってくれた。「にくてん」とは、こんにゃくとか、ジャガイモ、牛スジ等を入れて、お好みとは、少し違うのだが、母が作った「にくてん」には、これらのものは入っておらず、キャベツ、チクワ、紅ショウガ、カツオ節、天かすだけだったと思うが、それでもウスターソースを塗って食べれば、それなりに美味しかったものだ。

さて、先日、スーパーで、大手が出している「お好み焼き粉」が目につき、衝動買いをしてしまった。いつも、このメーカーのホットケーキの素は、よく買って食べるのだが、それは美味しい。だから、期待していたのだが、この「お好み焼き粉」は、とんでもないものだった。

本当に、お好み焼きを作ったことがある人が、この粉を作っているのだろうか。一応、作り方要領が書かれていたので、その通りにもしてみたが、まずい。とんでもない味だ。そこで、原材料表示を見てわかったのは、ホットケーキの原材料表示とよく似ていることだ。

推量すると、ホットケーキの材料が余ったから、「お好み焼き粉」の材料に回したのではないか。少なくとも、そう勘繰られても仕方ない代物だ。捨てるのも気が引けるが、どうしよう。無駄な買い物をしてしまったものだ。

以上、食べ物運の悪さをぐじぐじと記してしまったが、厄払いせねばなるまい(苦笑)。あまり明るくない記事ですみません。

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2010年5月 2日 (日)

春の終わりの漢詩から学ぶ

寒い日が続いて、春が来ないなあ、と思っていたら、連休に合わせたように、気温上昇。時期的には、春でもなく、夏でもない、曖昧な気候。だが、風が強く、湿度が低いため、そんなに暑くないので、過ごしやすい。予測より、いい天気でゴールデンウィークには相応しい。

そして、花々も、この温かさを受けて、一斉に咲きだした。ただ、女性が好きな薔薇が咲くのは、少しあとになるかもしれない。種類により、春夏秋冬それぞれに咲くものもあるが、春花の中では、咲くのは、一番遅い。

さて、今回は、南宋時代の蒙斎の薔薇の花を取り上げた漢詩を挙げておこう。詩題は、『春暮』。今のような時期を指すのだろうか。

  簾 東風に捲きて燕影斜めなり

  悠々たる芳草 楚天の涯

  千紅万紫都(すべ)て狼藉

  猶ほ薔薇落後の花有り

例により、解釈すると、次のようになる。

「強い春風に煽られて、簾は斜めに巻上げられる中、燕が飛んでいる。香草は、ずっと遠くまで、限りなく続いている。咲き乱れていた多くの草花も、強い風のため、さんざんに散らされている。そして、薔薇の花だけは、多くの花が散った後で、咲く」と。

この詩にも、裏の意が込められているのだろうか。流風流に無理やり解釈すれば、次のようになるかもしれない(笑)。

「春の花たちは、暖かくなると一斉に咲きだす。花も香りも、それぞれにいいかもしれない。ただ、流行のように一斉に咲くので、それぞれへの注目度は落ちる。そして、春風に、いつの間にか散らされてしまう。ただ、そこに、一つだけ遅れて咲く薔薇の花だけは、一際目立つため、人々の印象に残る。

人々の生き方は、それぞれだが、世の流れに乗って、活躍するのもいいが、人々が落ち込んでいる時に活躍する方法もある。そうすれば、存在価値は認められる。薔薇は、棘があり、人を寄せ付けないが、同様に、諫言ばかりしている人は、盛時には、煙たがられて、疎んじられることも多いが、危機になると、その価値は一際増す。そのような人材も、組織としては、必要である」と。

*追記

国にしろ、企業にしろ、あらゆる組織は、多様な人材を抱えている時が強い。あまりにも一つの考え方に固まった時、危機が訪れるのも、一つの事実である。

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2010年5月 1日 (土)

政治というもの

いつの時代も、政治など必要ない社会からは、ほど遠いのは致し方ないのかもしれない。だが、国民は政治に期待しすぎてはならない、と言ったのは、故大平正芳首相。彼は話し方をからかわれたが、優れた政治家だった。そうはいうものの、国民は、自然と政治に期待しまうのも仕方ないことか。

そして、いつの時代も、政治家に金の問題は起こる。金にまつわる陰謀が渦巻く。マスコミは、一面的にしか報道しないから、国民は皆、騙される。それを利用して、政治を混沌とさせようとする勢力が常にある。

常に政治の場では、形は変えても、権力闘争が起こっている。最近は、市民団体や検察審査会というようなものまで、巻き込んでいる。その中で、政策論争するのだから、まともなやり方では、正しい政策でさえ、法律を通すことが困難になる。

理想を言えば、権力闘争などなくて、政策論争が、きちんと是々非々で論じられるのが、いいのだが、民主主義のさだめとして、そういうわけにはいかないのだろう。現実は、人々のいろんな欲望が渦巻き、策謀により、持論を自陣営に引き込もうとする。

それは選挙結果に反映されるからだ。利益誘導は、いけないと言っても、議員は選挙に落ちれば、只の人。選挙に落ちれば、生活の保障もない。基本的に自由業だから、選挙に落ちれば、次の仕事を探さなければならない。

そういった環境下では、清廉潔白な政治家など、望むべくもない。マスコミは、そういうタイプを女性受けに期待するが、基本的に無理。そんなことをすれば、結局、金持ちしか議員になれない流れになる。

よって、政治家の金銭問題を、官僚的発想で、黒白をはっきりさせるのは所詮、無理がある。政治家というものは、基本的に灰色なのだという意識が欠けている。法治国家だからと言って、あまり生真面目に法を運用すれば、世の中が回らなくなる。匙加減は大切だ。

むしろ政治家は、その政策遂行能力で評価しなければならない。ただ、現在、その能力評価が不明確なことは、国民にとっても不幸せだ。第三者機関による、政治家の評価システムが望まれる。政治家の通信簿だ。そうすれば、それを参考にしながら、国民は、取捨選択して、投票に臨めば、いいことになる。

一面的に、面白可笑しく報道するマスコミに先導された結果が、選挙に反映されない時代を望みたい。マスコミ誘導の世論形成から脱するには、どうすればいいのか。マスコミの意見は、参考意見と割り切るべきなんだろうが、影響力がありすぎる。だが、視聴率絡みで、慎重な報道意識が欠ける。民主主義における政治というのは、本当に難しい。

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