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2010年5月16日 (日)

小人閑居して、、、

昨日に引き続き、今回は、閑居がらみの言葉を取り上げよう。それは、「小人閑居して不善を為す」という有名なもの。ここで、小人とは、どういう意味なのだろうか。もちろん、大人に対して、小人料金を頂きますという小人とは、もちろん違う(笑)。

よく子どもの頃、親から、人前で悪いことをしてはいけないのは当たり前だが、そのことは、たとえ、そこに人がいなくても、悪いことはしてはいけない。すべてのことは、天が見て知っている、と教えられた。

すなわち、ここで言う、小人とは、他人がいないと悪いことをしてしまうような人物を指している。だが、人は、修業が足りないと、勘違いしてしまいがちだ。誰も見ていないのだから、やっても大丈夫だろうと。しかし、そういうことは不思議と、すぐにではなくても、時間と共に露見してしまうのが常だ。

この「小人閑居して不善を為す」という一文は、『大学』にある。孔子の著したものだ。一応、流風の覚えとして、その後の文も記しておこう。

  小人閑居して不善を為す、至らざる所無し。

  君子を見て、而る後に厭然として、その不善を蓋いて、

  その善を著す。

  人の己を視ること、その肺肝を見るが如く然り。

  則ち、何の益かあらん。

  此れを中に誠あれば、外に形(あらわ)ると謂ふ。

  故に、君子は必ず、その独を慎むなり。

これは、君子に対する警告だ。家来が、本当の家来か、そうでないかを見破る必要があるとしている。本当に心から忠誠心のある家来と、そうでない家来とは、その言動や態度、行いから、見破ることができる。しかしながら、見破るには、君子自身が、真の誠ある言動と行動をしなければならないと諭している。

小人は、基本的に、まだ精神的にふらふらして迷いのある修業途中の人物を指しているのかもしれない。自分自身をコントロールを十分にできない世間知らずを指しているとも言える。よって、修業中の身の内は、独りにさせず、多くの監視の下に、餅つきのように、突き込んでいって、人格形成を行う必要がある。

果たして、流風が、小人を脱して、閑居しているのかどうかは、未だ自身ではわからない。修業は、一生のような感じがする。となると、、、、(笑)。まあ、ブログを書いていると、閑居のような感じがしないのも事実であります。せいぜい、下手な文章を書いて、自制するとしよう。否、自省かな。

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