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2010年5月28日 (金)

兵庫で太子を感じる~斑鳩寺

兵庫県下で、聖徳太子を感得できる場所が、兵庫県揖保郡太子町鵤(いかるが)にある。一応、聖徳太子御遺跡霊場第二十八番となっている。「お太子さん」として、広く信仰を集めているという。長年、いつか行ってみたいとは思っていたが、なかなか行けなかったのだが、先日、行ってきた。

寺の経緯については、次のように説明されている。推古十四年(606年)に、聖徳太子が、飛鳥の豊浦宮において、推古天皇の御前で、勝鬘経を講説された。天皇は大変喜ばれ、聖徳太子に、播磨国揖保郡の水田百町(三百六十町とも)を寄進された。

だが、次のような民話とか伝承がある。天皇から寄進されたものの、この土地に来てみれば、そこは広山の神様の支配地。要するに、神様と言っても、当時の地域の有力者が所有していたということ。天皇からの寄進と言っても、当時は根拠もない。あの辺の土地なら、空いているだろうというような、少しいい加減な判断。まあ、時代も時代ですし、区画整理もない。

それで、ある日、突然、土地を引き渡すように言われても、引き渡しません。そりょそうだ。彼にすれば、聖徳太子って、何様だ、という感覚でしょう。天皇の力が地方に及んでいたとも考えにくい。

色々もめて、やっとの交渉の結果、「大きい石を投げて、落ちたところを境界としよう」ということになった。これで、聖徳太子側が諦めると思ったのだろう。ところが、聖徳太子は、砲丸投げならぬ、大岩をえい、やっーと投げると、遥か南の沖まで。えらい怪力でんな、聖徳太子様。

これには、広山の神様も驚き、小さい石を、おはじきのようにはじいてください、と哀願。それで太子が、はじいた石が荘園の境界になったとさ。それが水田百町(三百六十町とも)。大岩も、伝承では、御津の沖合にある岩礁だそうな。民話や伝承はいいね。子供に分かりやすく伝えるには最高。どこぞの婆さんが話を広げたのだろうか(笑)。

だが、今回は確認しなかったが、その石は、太子の投げ石として現存するらしい。当時12石あったものが、4石残っているという。ここら辺は、はじいた石と投げ石が混乱して矛盾している。まあ、話し合いで、境界を決めて、目印として、比較的大きい石を置いたというのが真実だろう。戦争に近いことはあったかもしれない。それでも、これらの石は一応、県指定文化財だそうだ。

そして、この区域を「斑鳩荘」と名付け、一つの伽藍を建てられたと云う。それが起源らしい。太子が亡くなられた後は、法隆寺に施入され、法隆寺領播磨国鵤荘の中核になる。すなわち法隆寺の荘園になったのだ。よって仁王門・聖徳殿・講堂・三重塔などの伽藍配置は法隆寺に似ている。

その後、出雲の尼子氏の侵入で、播磨地区が混乱し、1541年、夜明け前の出火で焼失した。その後、龍野城主、赤松下野守政秀の援助で漸次再建された。これにより、法隆寺を離れ、天台宗となる。

他に、施設としては、有料(300円)で、宝物収蔵庫「聖宝殿」を入館できる。ここには、十二神将立像午神、日光・月光菩薩像、如意輪観音坐像、釈迦如来坐像、薬師如来坐像、聖徳太子勝鬘経講讃図などが展示されている。結構、見ごたえはあるが、防犯のため、狭いところに押し込められて、少し残念。色々盗難事件があるので、仕方ないのだろう。

全体を観て感じたことは、地方にしては、立派な伽藍ではあるが、全体に傷みがあるということ。手が入れられていない。寺の財政では、手を入れられないのだろう。でも、後世に残していくためには、寄付を募ってでも、何とかすべきだろう。今は、ネットで募金も可能だろう。積極的に取り組んで欲しいものだ。

兵庫県下の、こういった施設は、その他にも結構ある。例えば、高砂神社もそうだろう。あそこも、傷みは激しい。何とかならないものか。京都のような観光開発が、まだ十分でないということだろう。この周辺には、今回は、行かなかったが、古代の古墳や神社も多く、適切に景観を保ちながら、観光開発すれば、魅力的な街になるだろう。

*参考

交通は、JR網干駅からバスで5分ほどだ。ただ便は少ないので、歩くのに自信があれば、バス道(国道179号線)を歩いて行くのもいいかもしれない。いずれにせよ、余裕のある時間配分にしておいた方がいい。

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