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2010年6月15日 (火)

密眼と漠眼

仏教の教えの中に、六眼(りくげん)という考え方がある。その中に密眼と漠眼がある。六眼というからには、他に四眼あるが、それは機会があれば、後日取り上げよう。これらの考え方は、以前、別の表現で紹介しているが、違った表現もいいだろう。

さて、密眼とは、詳細に分析的に見ることだ。つまり深く見る。「見る」というより、「視る」が相応しいかもしれない。現象面を、ただ見るだけでなく、視るのである。人間、いつも、そうしているわけではないが、密眼すれば、物事の本質が見えてくる。

次の漠眼は、ざっくりと、全体感を見るということだ。すなわち森を見る感覚だ。密眼は、木を見て、森を見ず、という傾向がある。それに陥らないためにも、漠眼は大切だ。目が好過ぎると、常にピントが合った状態だが、目が悪いと、眼鏡をしないとぼんやりとしか見えない。しかし、そのことによって、見える物がある。

要するに、眼がいい人と悪い人は、対象の見え方が異なる。眼がいい方がいいが、時として、眼が悪い方が見えることがある。だから、眼が悪いからといって、いつも眼鏡をかける必要がないとも言える。

世の中、見え過ぎる人も必要だが、ぼんやりとしか見えない人も必要なのだ(*注)。

*注

但し、単にぼんやり見ているのでは、呆け老人だ(笑)。そこには、何か全体的に見える物がなくてはならない。見る意識もなく、ぼんやり見ているだけでは、新しい発見はできない。

まあ、別の意味では、ただ、ぼんやりしている時間も大切なのは事実だが。

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