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2010年6月 7日 (月)

漢詩 『花を惜しむ』一考察

流石に暑くなってきて、木々の花々は、ほとんど終わってしまった。アジサイなどは、シーズンなのだろうが、植えていない。ちょっと寂しいなと思ったら、バラの花がまた咲いた。これは、かなり前に、百貨店で、花の色が両親が気に入って、購入し植えたものだ。

鮮やかな色であることは確かだ。春の頃にも咲いた。季節ごとに咲くようだ。ただ手入れが十分でなかったのか、肥料が足りなかったのか、やや小さい。近所を歩くと、見事に咲いている家もある。うまいなあ。教えてもらおうか。

そして、鳥の鳴き声も、鶯の声も、さすがに聞かれなくなり、雀たちが騒がしく、チュンチュンと啼いている。いろんな鳥たちが、飛び交っている。ツバメがさっと飛んでいった。いつ見ても美しい姿だ。

さて、漢詩にも、花を惜しんだものがある。作者は不明で、蘇軾とも云われるが、わからない。詩題は、『花を惜しむ』。

  花正に開く時 天晴れず

  晴るる時 満樹緑陰成る

  闌干に倚り遍くして空しく惆悵す

  静かに聴く 黄鸝の一両声

作者の詩作の意図はわからないが、表面上の解釈をしておこう。

「今年は、花が満開の頃は、雨にやられるなど天気が悪い。そして、天候がよくなったと思ったら、花の時期は終わり、すべての木々は新緑で覆われている。私はと言えば、欄干に寄り掛かり、空しい思いに覆われている。そして、春の終わりを告げる鶯の声を静かに聴くだけだ」。

これは作者のどのような状態だろうか。多分、不遇の時を迎えた作者が想像できる。「いろいろチャンスはあったのに、タイミングが悪く、悉くチャンスを活かせない。これも巡り合わせなのか。左遷先の田舎で、無念さの中で、久しくじっくり聴くこともなかった鶯の声は、却って、空しさを倍加させる」というような解釈ができる。

なお、詩題の『花を惜しむ』は、『春を惜しむ』とも伝えられている。作者は、自分の春が終わり、夏も楽しめず、いきなり、秋か冬の気分なのかもしれない。だが、以前にも記したように、不遇の時代は却ってチャンスと考えるのも、処世の一つであろう。

*追記

不遇とは、狭い範囲内での相対的なものだ。第三者から見れば、とてもそう見えない場合もあるし、確かに可哀そうと同情される場合もあるだろう。しかし、世間を広く見れば、不遇と感じても、実際は、思い込みで、案外遠いところにある場合も多い。要するに、上を見ればキリがないし、下を見てもキリがないのだから、自分自身の中で、いかにバランスを取るかが求められる。

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