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2010年6月 5日 (土)

好き嫌いを脱し包容力を~『菜根譚』より

生まれて、「好き嫌い」という言葉に接するのは、大抵が母親からだ。それは食べ物の好き嫌いを無くしなさい、ということだろうが、好き嫌いは、食べ物から始まって、接する人間にも出てくる。

ウマが合うとか、合わないとか。自分の育った環境が異なると、自然、雰囲気も話し方も違う。それが似ているのは容認できるが、異なるものを毛嫌いする。いじめなども、凡そ、そういうところからだろう。

子どもの頃は、余程小さい頃から人に揉まれていない限り、程度の差はあれ、そういう感情を持ちがちだ。大人になるにつれ、世間には、いろんなタイプがいることを知るが、それでも、好き嫌いの感情を露わにする人もいる。流風だって、偉そうなことは言えない。誰にでも、同じように接することができるかと言えば、未だ十分ではないだろう。

『菜根譚』では、次のように戒めている。

  身を持するは、太(はなは)だ皎潔なるべからず。

  一切の汚辱垢穢(こうあい)をも、茹納し得んことを要す。

  人に与(くみ)するは、太だ分明なるべからず。

  一切の善悪賢愚をも、包容し得んことを要す。

例によって、解釈をしてみると、次のようになるかもしれない。まず一行目は、「身を持する」とは、世の中を渡っていくには、というぐらいの、ニュアンスであろう。また「皎潔」の意味は、皎は、明るいという意味だから、続けて、明るく潔いということ。つまり、「世の中を渡っていくには、あまり潔癖で、堅いことを言っていては、うまく行かない」と言っている。

このように言うと、真面目な方は反論するかもしれない。また現在のマスコミ人や偉い学者様も、顔をしかめるかもしれない。潔癖を好む女性や学生も反論するだろう。でも、真面目すぎると、世の中、うまく行かないのも事実なのである。不真面目になれとは言わないが、非真面目は必要だ。

二行目は、「すべての汚い垢や穢れをも、呑み込み、顔に出さず、腹に収める努力が求められる」と。戦前の人々や、戦前の教育を受けた人々は、「清濁併せ呑む」ということをよく言った。これは何を意味するかというと、きれいごとの裏側にあるものや、汚いことの裏側にあるものとは、表裏一体であると理解していたのだ。

禅僧は、人間のことを、糞袋と言っている。きれいな食べ物を食しても、出てくるのは汚物だ。でも、それは人間がやっていること。どちらが正しくて、どちらが正しくないなど、どうして言えようか。

三行目は、「凡その社会の中の人と人の関係では、好悪の感情をすべて表してはならない」と言っている。親しい人でも、なかなか、その本心や心の奥底までわからないのに、外見や、その言動から、すべてを判断してはいけない。

最終行は、「だから、すべての人は、一時的な感情で判断せずに、見識を磨き、いろんな人がいるんだなあ、という広い心で、受け止める包容力を持ちたいものだ」と言っている。凡そ、自分のことでさえ、十分に分かっていないのに、他人のことが簡単に、わかるはずがない。そうであれば、安易に他人を判断してはならないということだろう。

つまり他者に対して、瞬間的に感じたり思ったことも、一旦は呑み込み、咀嚼する心の余裕が欲しいものだ。結局、彼の言っていることは、社会を一人一人が、もっと深く洞察しようではないかということではなかろうか。

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