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2010年6月 3日 (木)

兵庫で太子を感じる~鶴林寺(下)

鶴林寺には、色々な寺物があって、一部、それは宝物館で展示されています。その中で、やはり面白いのは(こういう表現は不遜かな)、その盗まれたという『聖徳太子絵伝』だ。剥げ落ちた分のコピーと、手書きの模倣画が展示されている(*注)。

展示では、よくわからなかったが、図録によると、第1幅と第2幅は、善光寺縁起であり、第3幅は、太子の生まれる前の話と誕生から5歳までを描いている。第4幅は、太子5歳から12歳ま手を描き、第5幅では、太子13歳から21歳までを描いている。

続いて第6幅では、太子21歳から42歳まで、第7幅では、太子27歳から38歳まで描かれ、第8幅では、太子43歳から50歳まで描かれている。ここでは、遷化と葬儀の様子が描かれている。それ以後は、大化の改新の経過が描かれている。

これらの物語は、『聖徳太子伝暦』をベースにしながら、『日本書紀』、『聖徳太子伝補闕記』等を参考にして、作られていいる。ただ、引っかかるのは、聖徳太子の遷化後の大化の改新まで描いていることだ。

これは明らかに、当時の権力者が、太子を利用して、大化の改新を正当化するのに利用していると言えよう。歴史書の類が多くがそうであるように、歴史書は、書かれた時点の権力者の意向が強く働く。

太子は、新羅系の蘇我氏の一統で、明らかに新羅の流れをくむ人物だが、蘇我氏は、物部氏と対抗するうえで、仏教を支持し、百済系と組んだ。そして、蘇我氏は物部氏に勝つ。しかし、その後は百済系と主導権争いをし、一時期は、蘇我氏が権力を握るが、大化の改新で、百済系が勝利した。

このように見ていくと、古代においては、いかに朝鮮半島の渡来系の人々の影響が大きかったがわかる。仏教にしても、教科書では、仏教伝来は百済からと教えられたが、事実はそうではなく、高句麗、新羅、百済、あるいは北魏辺りから、それぞれから、入っている。その中で、太子は、高句麗の僧からの影響を強く受けた。その理由は流風には、わからないが、強く心に響くことがあったのだろう。

しかしながら、太子の意向は、大化の改新以後、強く現れ、日本が独自の文化を確立する流れになった。平安時代に入ると、誰も、それぞれの出自を主張することなく、日本人として、純化していく。そういう意味で、太子の果たされた役割は、なんと大きいことか。

*注

やはり、これらも美術品コピーの技術を活かして、そのままではなく、全幅の話の内容を、子どもでわかりやすく、分解展示し、コーナーを作って展示するべきだろう。この寺の観光魅力を増すには、そういう工夫が求められる。

*追記

説話で有名な「あいたたの観音様」の金銅聖観音像を宝物館で鑑賞する予定だったが、他のことに気を取られ、見逃した。展示してあったのかな。情けない話(苦笑)。さて、この説話は、盗人が、この像を金で、できていると勘違いし、盗んで溶かそうとしたが、「あいたた」という観音様の声に驚き、像を返して、改心したという話。像は返されたが、曲がったままという。

そういうと、最近、JR亀有駅前に飾ってある「麗子像」(流風はよく知らないが、岸田劉生の「麗子像」では決してない。ごち亀の秋本カトリーヌ麗子がモデルらしい。よくわからん)を誰かが曲げたらしい。専門家によると、一からやり直さなければならないということだったが、翌日、誰かが、元に戻していたという不思議な話があった。いつの時代も、不埒な者がいるものだ。でも、誰が、どうして形を戻したのだろうか。これも不思議だねえ(笑)。

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