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2010年7月31日 (土)

女の心は猫の目

朝起きて、窓を開けると、じっとこちらを見ている目がある。一瞬、何かと思ったが、白い猫だった。どうも、どこかの飼い猫のようだ。野良猫と違って品がいい。ただ、じっと見つめられると不気味だ。

しばらく、見つめ合いが続いたが、猫の方が、フンだ、という風に、身体を移動させた。猫の糞や尿に悩まされているので、別に好かれようとは思わないが、嫌な感じ。流風は、どうも猫が苦手だ。

ところで、女性も、猫型と狸型がいるらしいが、猫型の女性が苦手だ。よく「女の心は猫の目」なんて言うけれど、あのころころ変わる女性の心理は、未だによくわからない。

過去の記憶では、当人たちに聞くと、話は全て、つながっていると言うが、単純で、鈍感な男には、どうつながっているのか、解釈が難しい。

女性のブログをいろいろ拝見するが、ブログを書く人は、ある意味で、どこか話をまとめているので理解しやすいが、会話となると、それが、そのように行かない。実際、彼女らは、猫型なのか狸型なのかどうか、わからない。

ある意味、女性の話は、どのタイプでも、芸術なのかもしれない(笑)。受け取る感性が必要なのだろう。やはり、無理に解釈してはいけないのだろう。流風は、もうあきらめ気味(苦笑)。

そうかと言って、わかりやすい女性が魅力があるかと言えば、それも疑問。男には、未知なものがある雰囲気のある女性の方が、魅力的に見えるから不思議だ。まあ、それは男の身勝手と言われれば、それまでだが。

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2010年7月30日 (金)

地方は本当に疲弊していると言えるのか

よく一部の政治家の方やマスコミが、地方は疲弊していると言うが、本当だろうか。極端な事例を出して、地方が、すべてそのようだと見せていないか。疲弊という言葉を、どういう理解で言っているのか、わからないが、それは自業自得の面も否めない。

仮に疲弊しているとするならば、それは国や地方から仕事をもらい、楽をしてきた反動ではないか(例えば、原発立地地域は、多額の支援金依存で、自立できない。原発が廃炉になれば、成り立たない財政になっている)疲弊しているのは、働きが悪いということに通ずる。時代の変化も読まず、受身の従来のやり方を続ければ、当然、苦しくなるのは当り前だろう。

だから、いつも選挙がらみで、金をよこせというお決まりの要求をする地方は、国にとってお荷物ではないかという議論も成り立つ。地方には、多くの無駄が存在している。それを改めようとしないところも多い。国にたかる体質が、そうさせている。

また人口が減っているということは、確かにハンディではあるが、人口を増やす対策を果たして打って来たのかというと疑問がある。ただ時代に流されて何もしなかったのではないか。

結果的に、すでに過疎の町になり、高齢者ばかりの村では、どうしようもないとも言える。その前段階で、手を打たなかったことが、過疎を生んでいるのだ。それは地方政治・行政力の欠如が存在していたということだろう。そんなところに、国の権限を委譲して大丈夫だろうか。

*追記1

また、地方には、所得がありながら、無申告で、税を納めていない人が多くいるという。専業農家、兼業農家、いろいろあるが、見かけほど所得が低くないところもあるのも事実であろう。彼らの、どれくらいかわからないが、結構いい暮らしをしながら、無申告で税を納めていない。

税務署としては、経理の指導もしなくてはならないし、それに簡単に従わない彼らに、そもそも多額の納税は期待できないから、放置しているらしいが、チリも積もれば山となる。やはり無申告は、摘発すべきだろう。

サラリーマンからすれば、こんな不平等はないだろう。そんなところに、政府は農業者に対して、戸別所得補償をするのだろうか。今ひとつも納得がいかないのは、流風だけだろうか。第一次産業に対しても、経営努力して、税を納める人たちを優遇するのが筋ではないか。

*追記2

宮崎県の口蹄疫問題は、不幸だったが、国から支援があるのは、当たり前というニュアンスの発言をした宮崎県知事には、あまり良い印象を持たない。リスク管理できていなかったのは、宮崎県ではないか。自分の不始末を国に求めて、どうするのだろうか。根底には、第一次産業は、国から支援を受けて当たり前という意識が強いのではないか。

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2010年7月29日 (木)

興と除

全ての女性とは言わないが、一般的に、女性は、何でも溜め込みがちだ。母も、とても着ることができないと思われる若い頃の衣服は、ずっと溜め込んでいたし、年齢的に、もう使うことのないバッグも処分しなかった。確かに、これらには母の歴史が積み重なっており、捨てるには惜しかったことは分らぬでもない。

でも、部屋のスペースは狭くなるし、整理整頓には限界がある。それに母の場合は、再利用を意識してか、ゴミのような物もなかなか捨てなかった。段ボール、空き缶、空き瓶など母が亡くなってから処分したが、かなりの量だった。それらは、とても再利用していたとは思えないのだ。

それに比べて、父は、日頃から、不要な物は、どんどん処分する方だった。父が亡くなった時、処分する必要があるものは何もなかった。更に、死の一年前から、まるで死を覚悟したかのように、少ない持ち物を処分していた。日頃から、人間は裸で生まれて、裸で死ぬ、ということをよく理解していた。

話は変わるが、以前にも取り上げた、耶律楚材の言葉を再掲しておこう。それは『元史』に記されているものだ。

 一利を興すは、一害を除くにしかず。

 一事を生(ふ)やすは、一事を減らすにしかず。

新たなことを興すには、不要なことを整理することには及ばない、と言っている。新しい物が欲しくなったり、新規のことがやりたくなったら、まず古い物を処分したり、事を整理してから考える。これは、政治、経済、経営、個人、すべての分野で共通することである。

古い物の処分や事の整理をせずに、新しい物や事を導入すると、結局、混乱を招くだけになる。だが、長い間、放置しておいて、ある日、突然に処分しようとしても、それはなかなか、うまく行かない。

だから、それは経営の場で、よく言われてきたように、整理・整頓・清掃を毎日繰り返すことで、気づきが得られる。日々、取り除く習慣が、新たな価値を生む環境を作る。そういう意味では、父のやり方を評価したい。

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2010年7月27日 (火)

独断のテレビドラマ批評

流風は、ドラマについて、楽しめる一定の基準を持っている。それは、独断と偏見で、ヒットする要素だと思っている。厚かましくも、以下に示す(要するに見たいドラマです(笑))。

  一、展開にスピード感があること。だらだら描かない。

  二、苦難が伴うラブ・コメディー

  三、戦闘物

  四、特撮活用時代劇

  五、ありそうでないこと。また、なさそうでありそうなこと。

  六、底辺に伝えたい人間哲学があること

  七、情理バランスのとれた内容

  八、未来に希望を見出せる内容

  九、視聴後、ハッピーさが感じられること

  十、現実の厳しさを描いてもいいが、過度に描かないこと

などが挙げられる。

ところが、日本のドラマは、以上の基準に満たず、相も変わらず、あまり楽しくないものが多い。それは、NHK、民放共に、見られる現象であるのは残念だ。基本的な原因は、ドラマで視聴者に何かを伝えようとする使命感が欠けているからだろう。シナリオに哲学が感じられない。よって、薄っぺらなドラマになっていることが、駄目なのだろう。

サスペンスドラマは、殺人が絡むし、当然、その内容は暗い(*注)。毎日毎日、このような内容のものを放送するテレビ局もいけないが、視聴率が稼げるというのは、それを視る視聴者がいるということだ。だが、視た後は、気分はあまり宜しくないのではないか。

しかし、公共の電波を使って、このような内容のものを放送するのはどうかと思う。それに、以前にも述べたように、殺人現場を見せすぎることは、青少年にもよくない影響を与える。

また、ぐれた人間を主人公にするドラマも感心できない。彼らが更生する姿を描いたとして、考えているのかもしれないが、そもそも、なぜ、ぐれていることを正しいと錯覚させるドラマ作りは、明らかにおかしい。制作者の神経が麻痺していると言っても過言ではないだろう。

またNHKの時代劇も、チャラチャラし過ぎている。娯楽時代劇だから許されていると思っているのかもしれないが、度を過ぎている。あれは現代の若い男女が、風体を江戸時代に似せているだけに過ぎない。にやけた若い俳優が、女優を相手に、まるで学芸会程度のドラマを放送するのなら、聴取料を返せと言いたい。

それに日本のドラマ全体に言えることは、内容がだらだらしていて、メリハリが全くない。それは描き方がくどいこともある。極めて女性的な描き方が多い。その出来具合で、制作者の程度がわかる。

小説で言えば、菊池寛や谷崎潤一郎の小説を感じさせる蛇足ドラマが多すぎるのだ。展開にメリハリがない。視聴者に余韻が残り、想像させるドラマがあまりにも少ない。丁寧に描くということと、蛇足は違う。

いくらデジタル時代に突入しようと、今のままの番組作りの姿勢では、いずれ海外のドラマにすべて食われてしまうことになるだろう。実際、現在、サンテレビでは、これでもか、これでもかという程度に、韓国ドラマを放送するが、その内容は様々で、必ずしもよいものばかりとは言えないけれども、楽しめるものもある。日本も、昔のように、内容のある物を作るべきだろう。

*注

但し、流風的には、『相棒』、『踊る大捜査線』除く。

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2010年7月26日 (月)

夏バテ解消~土用の丑

毎日暑い日が続いているが、幸い夏バテには至っていない。夏バテの原因は、睡眠不足と冷たい物の過剰摂取だと思うが、今のところ、そういうことに注意しているため、大丈夫だ。ただ、深夜まで暑いので、寝苦しいことは確かだ。まあ、それでも睡眠は十分とれていると思う。

夏バテ解消には、本日の土用の丑に合わせて、鰻を食するのもいいが、毎日というわけにはいかない。国産は、輸入品に比して、かなり高く、なかなか手が出せない。報道によると、鰻の卵からの養殖が可能になったらしく、将来は国産鰻で、鰻丼300円時代も夢ではないというが本当かな。

ただ、余り安くするのもどうかと思う。牛丼業界だって、あれは海外産の牛肉だが、安売り競争に走っている。何かが間違っていると思う。人の胃袋は一定なのだから、安くしたところで、売り上げが増えるとも思えない。無駄な戦争をしていると受け取れる。流風は、安売りしている牛丼屋には絶対行かない。いい加減に目を覚ませよ。

さて、また話が大きく脱線してしまったが、夏バテ解消に、毎日、鰻を食することはできないので、代替案を紹介。実は、父からの請け売りだ。それは、ずばり、甘酒だ。父は夏になると、甘酒の缶詰をたくさん買ってきて、置いていた。

暑い夏も、冷房もせず、甘酒だけで夏バテを乗り切っていた。流風は試したことはなかったのだが、昨年から始めている。割といい感じ。冷えた甘酒だけでもいいのだが、プレーンヨーグルトと合わせてもいい。今年も、冷たい飲み物を控えて、甘酒で乗り切るぞ。今は亡き父に感謝。でも、今日だけは、国産の鰻のかば焼きを購入する予定。これで完璧だ(笑)。

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2010年7月25日 (日)

夏の屋外の遊びの記憶

子どもの頃、休みになると、家の外での遊びがほとんどだった。家の中にいると、いろいろ手伝いをさせられるので、外で遊んでいる方が気楽だった。それに家の中だと、今のようにゲームもないし、飽きることも多かった。

遊びの道具は、自然の中から見つけるのが常識だった。大抵が自分より少し上の年長者から教えられる。そのことを親に伝えると、親も知っていたが、親から教えられることはなかった。遊びの仲間は、近所に女の子は少なかったが、一応男女混成チーム。もちろん季節によって、その遊び方はもちろん違う。

やはり秋や冬の方が、皆で遊べるには、いろんなものがあったように思う。大体、身体を動かして温まるというものが多い。例えば、遊びで一番多かったのは、誰でもできる鬼ごっことか、かごめかごめ。だるまさんが転んだもあった。鬼が「だるまさんがころんだ」と言う間に、皆が鬼に近付く。スリルがありましたねえ。また缶けり、Sけんも、よくやった。その他に、馬乗り、おしくらまんじゅうも。

夏の遊びといえば、これらの遊びより、川遊びがほとんど。当時、プールなんてない。でも、これは小人数でも楽しめた。暑い時期に、あのひんやりした気分は心地よい。農水路の小川なので、単に水を掛け合う水遊びの領域だが、いろんな生物に、ちょっかいを出して、確認して面白かったものだ。ガマガエルのあのぬるっとした感覚は、あまり気持ちがよくなかったが。

少し大きい泥川には、スッポンがいて、食いつかれたら離さないぞと、年長から脅かされたものだ。亀とスッポンの違いはよくわからなかった。時々、捕まえているのを見たが、少し亀より首が長いかもしれない。甲羅を叩いて、首をすくめると、なかなか首を出さない。捕まえた年長者は、これで、おこずかいがもらえると喜んでいた。

女の子だけでは、季節を問わず、ゴム遊びが多かった。ゴム遊びは少人数でもできる。時々、大人も参加していた。また盛夏の頃は、草相撲が多かった。一般的には、茎の引っ張り合いだが、いろんな植物の頭の部分を丸めて、引っかけて引っ張り合ったりしていた。

そして夏の終わりごろになると、ひっつき虫の投げ合いなどをして楽しんでいた。最近、この雑草を「オナモミ」ということを初めて知った。これは、まだ外すのは簡単だが、何かの雑草の種子は、なかなか外れなくて、洗濯しても落ちない。それを付けて帰宅すると、母は、いつも嘆いていた。最近は、あまり見ないけとれど懐かしい。

夏の終わりごろには、土手などに生えている数珠玉を取って、腕輪とか首輪を女の子が作っていた。母は、それでお手玉を作って、近所の女の子と楽しんでいた。男の子は、数珠玉を取るのを、よく手伝わされたものだ(笑)。

これらのことを思い出すと、子どもの頃、夏の間は、長靴を履いて、麦わら帽子を被って、麦茶の入った水筒を持って、屋外にいつもいたように思う。そして、いつも、なにがしかの発見が楽しかった。何かを見つける楽しみは、今も変わらない。

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2010年7月24日 (土)

千日酔う酒

お酒好きの人は、度数の強いものを好む人と、ただ何でもいいから量を望む人がいるようだ。どちらが本当の酒飲かは、流風の知る由もないが、これも癖のものだろう。嗜好と言った方が適切か。

流風なんて、せいぜいアルコール分4~5%程度の缶チューハイが精一杯。最近はビールも身体のため飲まない。またハイボールがはやっているらしいが、ウイスキーも、あまり飲まない。それよりチューハイをちびちびやる方が、楽しい(笑)。

そういうと、『捜神記』に、ある酒造りの名人のお爺さんの話がある。一応、備忘録的に記しておこう。名は秋希という。彼の醸した酒は、千日酔わすということで、酒飲みには、どうしても得たい酒だった。

いつだったか、中国の映画で、たまたま小便を入れたら、美味しい酒ができたという話があった。本当かな、と疑念を持ったが、今、多くの人たちが食するものは、偶然の産物であったことは確かだろう。

さて、話を戻すと、玄石という男も、酒好きで、全国を飲み歩いたが、本当にうまいと思う酒には巡りあわなかった。たまたま、秋希爺さんの酒のことを聞きつけたので、爺さんのところに駆けつけ、酒を所望する。ただ、まだ熟成が終わっておらず、爺さんは拒否するが、酒飲の要求はしつこい。止む無く、一杯だけ飲ませる。

ところが、一杯だけで満足しないのが、酒飲み。一杯が二杯になり、二杯が三杯になって、へべれけに酔うのは、酒飲みの常。彼も、二杯目も要求するが、その酒は、千日も寝かせているので、飲めば、酔う時間も長いからと、断固拒否。

仕方なく、玄石は家に帰るが、そのまま倒れて、動かなくなってしまった。家人は、医者に診させるが、最早、魂も抜けて、もうどうしようもないという。葬式を済ませ、そのまま埋葬した。現在の日本のように、焼く習慣はない。

それから、三年経って、爺さんが、彼のことを気になって、尋ねると、もう3年前に亡くなり、喪も明けているという。慌てた秋希爺さん、墓を掘り返すように言って、墓場に行くと、土は生温かい。中に、玄石は、まるで今、目が覚めたようにあくびをしたという。その息を吸った人たちは、3か月、起き上がれなかったという、まるで、落語にあるような話。

酒飲みは、こういうことを夢想するのかもしれない。3年酔って、目が覚める。でも、周囲は大きな迷惑。まあ、酔ってなくても、夢想する人たちが多くいる。否、誰だって、いくらかは、そういうものはある。そういうのも、多少は、味付けとしてあってもいいとは思う。

ただ、いつまでも、夢の中に漂うだけではいけないだろう。他方、現実が夢であることは、先人も指摘していることではある。夢か現か、ということは、誰にも当てはまるのかもしれない。つまり、夢の中の夢なのか、現実の夢なのか、わからなくなる。そう捉えると、酒に酔うのは、現実逃避の一時的な誤魔化しとも考えられる。

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2010年7月23日 (金)

恋風

このブログでも、たびたび取り上げている、恋愛の情を示した『閑吟集』の微妙な言い回しは、やはり面白い。もちろん、謡曲『恋重荷』のように深刻なものも、取り上げているが、今回は、女性の立場で、若干軽い表現のものを。

  恋は 重し軽しとなる身かな

      重し軽しとなる身かな

          涙の淵に浮きぬ沈みぬ

相手の、ちょっとした言動や態度に、一喜一憂する気持ちが出ている。まあ、恋というものは、そんなものだろう。不安定なものだから、恋なのだ。安心してしまえば、恋とは言えなくなる。それは恋の終焉と言える。

  恋風が 来ては袂に掻いもとれてなう

      袖の重さよ

         恋風は重いものかな

人を想う気持ちが、うまく表現している。あの人を知らなければ、もっと気楽に過ごせたものを。後悔と嬉しさが交差している感じを表している。

また、回文で、こういうのもある。

  きつかさや よせさにしさひもお

    思ひ差しに差せよや盃

回文というには、少し苦しいかな(笑)。前半では意味不明。よく芸能人が、言葉をひっくり返して言うのと同じ。それが少し長い。意味は、好意ある人には、盃をさす、ということ。よく宴会で、女性が好意のある相手の横に座るというのは、よくありますよね(笑)。まあ、横に座れば、嫌な奴でも、あまり邪険にしないことです(笑)。

以上、大体、女性の視点で描いているが、男も、対応方法として参考になるだろう。時には、恋風に吹かれるのもいい。まあ、風の向きはすぐ変わるので、要注意だが(笑)。

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2010年7月22日 (木)

暑い暑いと言うけれど、、、

気温は、朝で室内で30度程度、昼ごろからは35度ぐらいの状態が、夜まで続いている。そこで、皆さん、暑い暑いと言っている。でも、子ども時代から、この暑さの程度は、あまり変わらない。

変わったのは周辺環境と生活習慣だろう。子ども時代、車が通ると、土ぼこりが舞う、道が多かったが、最近は、ほとんどが舗装されている。そのため、照り返しが強くなり、気温を上げている。また水路に蓋をする暗渠が、水の蒸発で温度が下がるのを妨げ、気温は高いままになっている。

これらは、ある種、利便性を追求したことの結果だろう。また生活の面では、省エネ住宅として、密閉された空間で、クーラーを使うことを覚え、人間の耐暑能力が落ちていることも指摘できる。暑さに親しんでいれば、人間の体は、それに順応する。

でも、楽をしたいため、文明の機器を使うと、人間が弱くなる。それに仕事が絡んでくると、利用するのもやむを得ない。ところが、会社にあって、自宅になければ、身体は我慢できない。そういう悪循環。

でも、簡単な対処法は昔からある。例えば、

 一、適切な水分摂取

但し、体温を上げる、冷たいものの摂取は控える。

どうしてもということであれば、運動量の多い昼間にする。

夕食での摂取は、ゆっくりと。

 二、日傘、防止の着用

最近、帽子も被らず、日傘もしない人が増えているのには驚く。

 三、睡眠をしっかりとる

暑いから眠れない人も多いかもしれない。

しかし、クーラーや扇風機をつけたままにしない。

 四、栄養のある物を摂取。

    ①食欲がなければ牛乳

    ②ニラ、ニンニクの摂取

    ③トマトの摂取。またはトマトジュース

    ④長芋等の摂取

    ⑤うなぎ等

    ⑥肉の摂取は、野菜を十分に

 五、早寝早起きに切り替える

以上は、母から教えられたことだけれど、今でも、当てはまると思う。流風は、暑い夏が比較的好きだけれど、昨日、日中に、木の枝落としをしていたが、さすがに厳しかった。過信しないようにしようと思う。皆さんも、いい夏を過ごしてほしい。

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2010年7月21日 (水)

鬼も十八、番茶も出花

男は、大抵、まず女性の容姿を見る。中身の確認は後からだ。だから、女性は、まず外見に気を配らなければならない。たとえ、おかちめんことか、一円ブスと言われていても(失礼)、それなりに、容姿を整え、態度を美しく保てば、男は寄ってくる。むしろ、ブスと言われる方が、自信を失くして、改めないから、彼女らに不幸が訪れるのだ。

逆に、どんな容姿のいい女性も、態度が悪くて、中身がないと、男は去っていく。最近は、あまり容姿がいいと、初めから、男は近付かないとも聞く。振られるのが嫌なのだろう。実際、例の芸人からアプローチした女優も、実際のことはわからないけれど、性格が悪かったと評判だ。そういうこともあって、男は、ちやほやされなれている美人を敬遠しがち。もちろん、傷つきやすい男が増殖していることも影響している。

ところで、「鬼も十八、番茶も出花」という言葉ある。番茶も、二番煎じは飲めないが、淹れたては、それなりに美味しい。どんな女性も、十八ぐらいになると、それなりに色気が出てくる。それは必ずしも、美しいとは言えないが、若さが、それをカバーする。

でも、本来、この言葉の意味は、どちらかというと、父親が自分の娘を謙遜して言っている訳で、他人が言ってはならないだろう。どんな、へちゃむくれの娘であっても、親にすれば、愛しい娘だ。眼に入れても痛くない赤ん坊の時から見ていれば、他の娘など比べようもない。

また、同様の表現で、「鬼も十八、蛇も二十」というのも、あるらしい。「あざみの花も一盛り」てな言葉もある。あざみは、先日ブログで記したゴボウの花に似ているという。地味な花と言えば、そうかもしれない。地味な花も、一盛りすれば、それなりに見える。

昔の人は、若い娘をつかまえて、いろいろな表現をしている。最近、流風は、眼が悪くなったのか、若い女性は、皆、美人に見えます(笑)ので、こういう言葉は、死語にしたいと思っていたが、どいうわけか、頭に浮かんだ。

女性は、見た目を大事にしてほしいものだ。まあ、化粧も含めて美容技術も向上しており、その心配はいらないようだ。男はそれで簡単にだまされる(笑)。でも、外見で、だましだまされも、きっかけとしては、いいのではないか。

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2010年7月20日 (火)

若い人の金投資

金の価格が高値で安定している。世界の人々が、貨幣に対する信用を失いつつあるのかもしれない。そういうことで、金の所有は、資産として有効かという質問を時々受けるが、流風には、その分野はなかなかわからない。

ただ、若い人が婚約指輪にダイヤモンドの台はプラチナというものが多いようだが、換金性という面では、金を贈った方が、良さそうに思うが、世間では、あまりそういうことはされていない。

資産価値は、ダイヤモンド類より金の方が価値が高いと思われるのだが、それよりダイヤモンド類で身を飾る点が優先されるのだろう(金の宝飾品はあるが、日本女性に、金を身につける習慣はあまりないこともある)。

でも、大体、女性の好む、宝石類は、高く売られているのに、売却時は、その買値の五分の一から十分の一になる。そういうことを考えれば、金の方が、まだ換金性に富む。市場価格は、もちろん変動するが、安い時に買って、所有すれば、いざという時に役に立つ可能性が高い。

そういうことで、アジアの国々では、金は大事にされる。万国、どこでも換金できるからだ。国乱があっても、それらを身につけて逃亡した話は、よく聞く。その点、他国から侵略されたことがないので、日本人は、それほど金の所有に、しゃかりきになるということはないようだ。ある意味、危機感が足りないのだろうか。

それでは、投資という観点で、金を見ると、どうだろうか。金価格は、国際市場で変動する。現在は、高値だが、1キロ800円台の頃もあった。要するに、リスク商品であることにかわりはない。安く買って、高く売れば利益が出るが、高値つかみをすると、売れば損をする。更に、為替の変動で、価格が変動するから、為替変動も見なければならない。

となると、資産として長期に保有する目的でなければ、若い人が、投資するには、少しリスキーかなとも思う。ただ昔、ドル平均コスト法で、定額投資したことがあるが、その時は、わずかながら、儲かった記憶がある。

最初、高値で始め、市場が段々下がって行ったが、そのため、少し多くの量が買えた。全体としての平均コストは、平準化され、それ以上の価格で売れば、儲かるわけだ。若い人たちは、時間があるのだから、そういう投資がいいかもしれない。

月々わずかのお金の積立と思えば、それほど負担にならないと思う。価格の変動をあまり気にせず、仕事に影響することもない。若い人の投資は、金投資に限らず、時間を活かして、あらゆる分野で、そういうやり方が望まれるように思う。

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2010年7月19日 (月)

“V-A-C-A-T-I-O-N”を聴きながら

子ども時代、夏の時期に、“V-A-C-A-T-I-O-N”をよく聴いた。なかなか元気のある洋曲で、最初に聞いたのは、弘田三枝子さんが歌っていた。声にパンチがあり、ウキウキさせてくれるものだったものだ。

後年、元曲を歌っているコニー・フランシスの歌も聴いた。原曲も、もちろん元気な曲だ。パンチは、弘田三枝子さんの方が強かったかも。歌詞の内容は、休暇を取って、ボーイフレンドと遊びまくるという内容で、親が心配しそうなものだ(笑)。

夏は、恋の季節とかで、気持ちもオープンになる。そこで、いろいろ出会いもあり、嬉しいことも悲しいことも起こるのは、どの世代も経験したこと。あらゆる世代で、繰り返されるはずだ。でも、流風は、当時、何をしていただろうか。

古歌にも、次のようにある。

  新茶の若立ち 摘みつ摘まれつ

    挽いつ振られつ それこそ若い時の花かよなう

                      (『閑吟集』より)

意味は、新茶を摘んだり摘まれたり、挽いたり振ったりする姿を見ていると、それは若い男女が、お互いつねったり、つねられたりし、あるいは、袖を引いたり引かれたり、あるいは、嫌よと振ったり振られたりして、じゃれ合っているのと同じだ、という内容。こういう恋は、若い人に似合っている。

だが、若い頃、不器用に、あれもこれもとできない流風は、一つのことに集中し過ぎて、あまり、そういう思い出はない。そういう意味では、あまり青春というものはなかったように思う。今さらながら考えると、最早、過去には戻れないが、そういうのは、あまり宜しくないのであろう。

若い時は、大いに恋に勉学に、仕事にと、欲張っていい。若い人は、VACATIONを有意義なものにしてもらいたいものだ(*注)。

*注

ここで言う「若い時」とは、20代以下のこと。勘違いしないように。それ以上になると、どれかに集中しないと、うまく行かない。特に、あれもこれもという女性がいるが、ほとんど失敗している。結局、二兎を追うもの、一兎をも得ずとなるのだ。そして、恋は愛に転換させる必要がある。

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2010年7月18日 (日)

わからない、わからない

それなりに人生を過ごしてきても、分らないことが多い。以前にも記したが、父も、晩年、そのようなことをよく言っていた。真砂を掬い取ることはできないと、悟ったように。父は、流風と違って、能力的に優れた人だったけれども、彼でさえ、すべてを知ることはできなかった。

人間というのは、ほんのわずかな知識で生きているのだろう。相対的にいろんな知識を有していても、それは“嵩”がしれているのだ。そうかと言って、知ることを止めれば、それは死しかないのだろうとも、ふと思う。

さて、家庭菜園をしていると、いろんなことが起こる。先日の豪雨で、菜園は滅茶苦茶だ。農家のご苦労が分かるような気がする。それでも、しっかり根を張っている物は大丈夫で、植え始めのネギがすべて、やられてしまった。今年は、ネギは諦めるとしよう。そこら辺が、家庭菜園の気楽さだ。

そんな菜園に、いろんな昆虫がやってくる。大まかなことはわかっても、名称はわからない。どれが害虫で、どれが益虫なのか。まあ、害虫、益虫は、人間様の都合だけれど。草取りしていて、時々、刺されたりするが、かなり免疫できたと思うよ。処置の仕方も、大分、身につけた。

そして、いろんな鳥が飛んでくる。スズメ、カラス、ウグイス、ヒヨドリ、サギぐらいはわかっても、それ以外は、なかなかね。何か餌をついばんでいるようだ。何かはわからない。虫が集まるから、鳥がやってくるのだろうか。やはり連鎖か。

更に、鳥が運んできた実生から、いろんな植物が現れる。綺麗な花を咲かせるものもあれば、少しずつ大きくなっている木もある。そろそろ木の種類を調べなくては。だが、色々調べて、わかるものもあるが、分らないものも多い。専門家に問い合わせれば、すぐわかるのだろうが、それでは面白くない。でも、わからない。

よって、わからない、わからない、わからない、三連発。人間なんて、生涯に知っていることは、わずかなことだけかもしれない。知識自慢のクイズが流行っているようだが、それも所詮、限られた知識遊びなのだろう。

でも、知的刺激のため、子ども時代に戻って、当時は買ってもらえなかった植物図鑑、昆虫図鑑、鳥類図鑑買い求めますかな。CD版がいいか、紙情報がいいかも悩みの種。

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2010年7月17日 (土)

首相は退陣すれば、引退のルールを作るべき

鳩山前首相が、次回の衆議院選挙には出ないと言っていたのに、撤回するらしい。凡そ、日本ほど首相がころころ変わる国も珍しいが、退陣後も、引退せずに、議員に留まる人が多いのは明らかにおかしい。

上りつめた人は、基本的に、議員を引退するのが望ましい。引退して、現政府から要請があれば、特使等で動けばいい。未練たらしく、議員として残り、影響力を残すのは、組織の新陳代謝が進まず、悪い影響を及ぼす。

鳩山前首相は、女々しいことを言わずに、きちんと引退してもらいたい。そうしないと、また民主党のイメージが悪くなる。本当に、困った人だ。もちろん、自民党も、元首相たちがのさばっており、彼らがいる限り、支持するつもりはない。自民党は、支持を得ようとするならば、早く彼らを大掃除することだ。

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2010年7月16日 (金)

阿漕な奴

  伊勢の海 阿漕(あこぎ)が浦に ひく網も

        度重なれば あらわれにけり

                   『源平盛衰記』

よく、「あいつは、阿漕(あこぎ)な奴」だという表現を使うが、出典は、ここかららしい。阿漕が浦は、伊勢の国、阿濃郡の地名だそうだ。本来、阿漕は、重なるということを意味したようだ。それが、どう転じたのかわからないが、貪欲な人間を指して、あこぎな奴と言うようになったという。

その謂われを、謡曲は、伝えられてきた話として、次のように表現している。謡曲『阿漕』は、阿漕という猟師が、母の難病に効く魚があることを知り、神に供える魚をとる場所で、密猟して、しばらくは、ばれなかったが、何回も繰り返すうち、捕まり、戒めで、この浦沖に沈められたという話から、創作されている。

少し前に、大阪湾で、密猟していた明石の猟師の親子が捕まっていたが、彼らは、まさか沈められるようなことはない。それにしても、密猟は絶えない。彼らは生活のためとか言っていたけれど、実際は、どうなのだろうか。彼らこそ、本当に、阿漕な奴なのだろう。

また落語『西行』では、西行法師が、まだ佐藤憲清という北面の武士であった頃、絶世の美人である内侍の染殿という女房に恋煩いする話がある。身分違いの恋である。彼女は、彼に可哀そうに思い、文を送り、結局、逢瀬を重ねると、彼が次の逢瀬を聞くと、彼女は「阿漕であろう」と応えた。彼は、この意味が分からず、出家してしまう。

以下の話は省略する。この話は、両者の時代が、全く違い、完全な創作である。でも、似たような話はあったかもしれない。彼女の言ったことは、最初に示した和歌を踏まえて言っている。落語の作者も、教養のある人物と言える。

結局、彼女の言いたかったことは、「このような秘密の逢瀬も、度重なれば、世間の噂になってしまう」ということ。つまり、こうたびたび逢うのは控えましょう、と。婉曲な断り方は、昔は誰も身につけていた。

現代の人間は、表現はストレートすぎるかもしれないが、昔の人は、こういう表現で、ある意味、傷つけないようにした。だが、相手が理解できないと、西行のようなことになる。こういう方々と、付き合いするには教養が求められるということだ。

現代のように、ストレート過ぎる表現は、わかりやすいけれども、品がない。このバランスが難しい。まあ、鈍感な流風は、ストレートの方が助かるけれど(苦笑)。なかなか教養人にはなれません。やはり西行と同じ道をたどるのだろう。周囲には、染殿はいないから大丈夫だけれど。まあ、そういうわけで、せいぜい、阿漕な奴と言われないようしよう。

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2010年7月15日 (木)

国内景気対策は、輸出振興で

景気対策で、内需拡大が、よく叫ばれるが、結局、自民党政権時代から、全く成功していない。小渕政権以降、赤字国債を増発し続けて、財政投資をしてきたが、結局、何の成果も生まなかった。成果を生んでいないのは、誰もが気づいていたのに、それを止めることも修正することもなされなかった。残されたのは、巨大な国債残高だけだ。

そして、それを引き継いだ民主党政権も、基本的に、やり方は異なるが、同様に、財政支出を拡大し、成功していない。多くの新規の政策は、予算の組み直しをするとしていたが、それをしなかったため、多くの有権者から非難された結果が、参議院選挙の惨敗だ。しかし、民主党政権は、まだ政権を握って、日も浅く、早く修正されれば、かつての支持を取り戻すかもしれない。

また法人税を下げれば、景気がよくなるという考え方もおかしい。今回の参議院選挙で、消費税アップを社会保障のために使わず、法人税減税の財源に回すニュアンスが感じられ、民主党に投票しなかった人も多い。

大体、実効税率は、ブログでも触れたが、企業によって様々。法人税は、国際水準でも必ずしも高いとも言えない。更に企業の社会保障の負担を考え合わせると、世界レベルでも、低い水準だ。また、法人税を租税特別措置で、税を逃れていることがケースが多い。結局、表面的な法人税率で国際的に高いと論じても、ほとんど意味はない。

それに、法人税を下げて、仮に時間をおいても、法人税収が増える保証は何もない。むしろ、減り続ける可能性の方が高い。企業の国際化は、規模が大きくなれば、多国籍化するし、一つの国に、税が落ちる可能性を低くする。法人税を下げて、税収が増えるなどと言うのは、まやかしであろう。

ただ、流風も、景気対策を考えたことがあるが、国内で、決定的な対策は見つからない。はっきりしていることは、国内の需要不足だ。それを解消しない限り、いかなる対策を講じようと、多くは無駄になってしまう。

となると、需要先を拡大するためには、輸出の拡大をより推進するしかないように思われる。これは輸出産業と見なされている企業が、これらの企業は、やがて多国籍化し、日本を出ていき、その分、雇用が減るので、それを補うためには、むしろ内需産業と言われているものも輸出産業化させることに、成功のキーが隠されているように感じる。

内需産業とは、医療、医薬、福祉、介護、教育、農業、林業、水産業、観光など。他に水道システムを含む水関連、鉄道システム、電源開発などインフラ開発の輸出も重要だ。そういうことを推進していけば、現在、公共投資減少で苦しんでいる土木・建設業界にも、いずれチャンスが来るかもしれない。

輸出の形態としては、いろいろある。単に輸出するもの、相手国に進出するもの、世界市場を睨んでネットワーク展開するものなどが考えられる。対象は、中国、インド、東南アジア、西アジア、環太平洋地域が対象となるかもしれない。

そのためには、いろんなことをクリヤーしなければならないかもしれないが、まず挑戦する気持ちが大切だ。海外の人材のネットワークをつくれば、ビジネスは、基本的に、どこも同じ。やり方に戸惑っても、何とかなると思えば、何とかなる。

国は、いろんな障害や規制を取り除いて、貿易の交流の場を設け、貿易リスクを低減させることをアドバイスし、支援すればいい。それは従来やってきたことで、十分こなせる。国全体として、大きく舵を切りなおすべきだろう。

*平成24年4月5日追記

もちろん、景気対策には、新たな部門の輸出振興だけでは限界がある。やはり国内市場の活性化が必要だ。それには、多くの規制緩和が必要であろう。あらゆる常識を打ち破る必要がある。例えば、一部学者の方が主張している介護保険の民営化が求められるかもしれない。

国が作った介護保険の仕組みは、お陰で、介護の市場を生みだした。国民が、介護に金を投じている。この流れができたことは、望ましい。ただ、民間家事サービス業の市場の拡大を削いでいる。

今後は、この仕組みを完全に民営で行うことで、新たな市場が生まれる可能性は高い。ハイグレードな介護や、逆に寄付によるボランティア介護の仕組みも生まれるかもしれない。それは地域で異なるだろう。

そうすれば、国の社会保障の負担は小さくなる。国民は、幅広いメニューから選択できる。また年齢制限もなくなるだろう。一般の家事サービス市場との複合化から、新しいビジネスも生まれるだろう。

もちろん、一挙にはできないだろう。現在の介護の分野の整理が必要だ。しかしながら、最早、そういうことを検討してもいいと思う。

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2010年7月14日 (水)

農家への戸別所得補償制度は不要

農家に対する所得補償制度を民主党は推進しようとしているけれど、典型的なバラマキ政策の上に、これは農業を疲弊させるだけだろう。そもそも農業も、「業」が示すように、一つの産業。国は、方向性のガイドラインは示しても、そのやり方には、一々国が口を挟む必要はない。

それを所得が比較的高い、趣味的農業の兼業農家に、この制度を適用しようとするのは、選挙目当ての、不要かつ不適切なやり方だ。もちろん、自民党政権がやってきた農政も、決して褒められたものではないのも事実であり、多くの既得権組織は解散もしくは解体する必要があるが。

戦後の荒れ放題の食糧不足時代と現在では、その状況は大きく異なる。だから極論すれば、本来、農林水産省は、必要がない。せいぜい、種の研究と保護の機関と品質研究機関だけを残せば十分なのだ。であれば、農林水産庁に格下げして、総務省管轄にするか、産業全般を取り仕切る経済産業省に吸収させて、担当させればいい。

農業保護の時代は終わり、日本の農業は、優秀な経営者が経営する集団に転換させなければならない。事実、農業法人化による、企業化により、生産は効率化されつつある。生産性の高い日本の余剰生産物は海外に輸出すればいい。ということは、政策的には、他の産業と同じやり方でいい。そのことは、むしろ経済産業省は詳しいだろうから、担当させればいい。

経済産業省が、農業も含めて産業全般について、すべての貿易について、窓口になれば、海外との産業全般での総合的交渉がしやすくなる。基本は、強い農作物はより強く、弱い作物は日本仕様にしてもらって輸入するようになるだろう。そうすれば、現在の多くの関税障壁もなくなり、無駄な補助金や、流通も整理される。それは、世界にも消費者にも歓迎されるだろう。

また農水省の人員は、ほとんどが余剰人員と言われているから、輸出入の振興のためには、検疫担当に振り替えれば人材効率も増す。実質、働いていない多くの人員が、真に意味のある仕事をすることは彼らのためにもいいことだ。

確かに食糧自給率の問題はあるが、油や飼料を止められれば、農業は成り立たないのも事実。であれば、いかに効率よく、農産物をやり取りするかが問われている。せいぜい主食の米だけ、自給できれば、ほとんど問題がないだろう。その他は、商品力で争えばいい。大体、日常的な野菜類は、ほとんど国内で生産しているのだから、食糧自給率の問題にもならない。

後は、作物は自然に左右されるとはいえ、農業の品質は、今まで、それほど厳格ではないので、輸出するために、品目ごとに、生産者団体を作って、品質基準を統一し、レベルを統一し、量と質の面で、国際競争力をつけていけばいい。例えば、種の管理、土壌の品質、水の安全管理、生態系に影響を与えない肥料の使用は、最低限必要だろう。

となると、これは農業経営者の個々のレベルの問題になる。当然、そこには、能力の差異が生じる。レベルの高いところは、いい農作物ができるだろうし、低いところは、問題の多い農作物になる。最終的には、ある程度、経営的に集約されていくだろう。

そのようなことを考えていくと、戸別農家所得補償は、優秀な専業農家のやる気を失わせるだけだ。農家への所得補償は問題を悪化させるだけで、何もいいことはない。民主党は、戸別所得補償は止めるべきだろう。無駄に溝に金を捨てるだけになる。日本には、そんな余裕金は全くない。そんなことをすれば、民主党は、ますます支持を得られなくななるだろう。

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2010年7月11日 (日)

美人妻を妄想した男

若い独身者の男であれば、憧れの女性を彼女を恋人にしたいと思ったり、妻に迎えたいと思うのは自然の性(さが)だ。そういうことが高じて夢想したりすることもあるだろう。中国の奇伝に次のような話がある。

唐の時代、進士である、ある男が、某画師のところで、屏風を手に入れた。それは布地でできていた。そこには、綺麗な美人が描かれていた。かの国の美人画は立ち姿が結構多いが、それが、どのようであったかは、わからない。

美人画は、大体が、楚々とした感じが多い。しかし、絵は、概して、実際以上に描かれがちだ。彼が、絵師に、「このような美人は、世の中にいないだろう。仮に生命が与えられたら、どんなにか、よいだろう」と言い、「それが現実のものになれば、彼女を妻に迎えたい」と続ける。

そうすると、絵師は、「実は、私は、神から下された絵描きだ。そういうことは不可能ではない。屏風に描かれた彼女にも名前がある。その名を教えるから、百日間、呼び続ければ、応えるだろう。その時、絹織物を焼いた灰をを入れた酒を注げば、生き返るだろう」と言う。

彼は騙されたつもりで、呼び続けると、遂に美人の女性が現れたという。まあ、念じれば、叶うということはありうる。それは科学では説明できない。絵から、女性が飛び出すことはなかろうが、似た女性に現実に巡りあうことはありうる。

その女性は屏風から下りると、歩き、言葉も分かり、話もする。それは普通の人間と何ら変わりがなかった。自然の成り行きで、彼が希望したように、彼女と一緒になり、男の子もできた。

ただ、子どもが三歳になった時、友人が、「彼女は妖怪で、災難をもたらすから、この神剣で切り伏せよ」と警告する。友人は、彼女から発せられる、ただならぬ妖気を感じとったのだろう。

そして、友人から剣が届けられると、妻は泣きながら次のように言った。「私は、実は地仙(仙人にも、色々種類があるらしい。地仙は、やや低い仙人とのことだが、よくわからない)で、あの絵描きに、突然、絵にされてしまい、あなたに呼ばれたものだから、仕方なく、あなたの傍に来たのよ。あなたに疑われた以上、ここに留まることはできない」と言い終わると、屏風に子どもと共に戻って行った。

さて、あなたは、この話をどう受け取るだろうか。そんなことはあり得ないと考えるのが一般的だ。まあ、夢でも見たのだろう。そして、最初から子どもも描かれていたのに、見落としたのだろう。

そうかもしれない。ただ、人は祈ったり、念じたりすると、不思議と実現に近づくこともある。神頼みは、意外と馬鹿にできない。それは本人の決心の程度で決まるのだろう。つまり、念じたり、祈ったりして、願いが叶うかどうかは、その人次第とも言える。

すべてが科学的に処理できないから、人間社会は面白いとも言える。さて、あなたは、何を祈ったり、念じたりしますか。それは、やはり、母のように、他者の幸せを祈ることが、自分をより美しく見せる。特に女性は、そうであって欲しい。男は、この話のように、せいぜい妄想の旅を楽しむしかないようだ(苦笑)。

*参考文献  『唐宋伝奇集』

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2010年7月10日 (土)

白い蛇

先日、草取りをしていると、すすっと逃げるものがある。トカゲと思ったら、蛇だった。毎年、出てくる細い蛇だ。梅雨の水気の多い時期に現れる。大きい蛇は、未だ確認していないので、近くには、いないようだ。

子どもの頃、母が家に白蛇がいると、家を守ってくれると、よく言っていた。当時、住んでいた家には、確かに蛇が住みついていたようだが、白蛇かどうかは確認できなかった。時々、ヤツデの葉に、脱皮した蛇の皮があり、母は、それを財布に入れておくと金持ちになれるとも言っていた。

母は、蜘蛛も大切にしていたから、蜘蛛と同様、母には、同居者という感じがあったのかもしれない。流風は、母の言うことは、迷信に近いと思っている。ただ、それだけ、母の生きた時代には、生活に蛇がいることは、そんなに珍しくなかったと思われる。

子ども時代、蛇を捕まえて、それを振り回して、女の子たちを脅かしている悪い奴がいた。そこで、子どもたちに、蛇という生き物を粗末に扱ってはならないという躾のための話を考えられた話が伝わったとも考えられる。基本的には、生き物を粗末に扱ってはいけないという考えが背景にあるのだろう。

ところが、中国では、白い蛇は、絶世の美女に化けて、男をたぶらかし、殺すという奇伝も多い。白蛇伝というものである(『博異志』李黄の「白蛇の怪」)。もちろん、創作だが、白い蛇に対して、あまりいいイメージを持っていないのかもしれない。それとも実際に毒蛇が存在するのかもしれない。

これは美しいものには棘があるということに通ずる。要するに、何でもかんでも、美しいというものに簡単に手を出していけないという教えにも捉えられる。でも、白い蛇には、毒蛇でなければ、一度、お目にかかりたいものだ。もちろん本物の蛇のことですよ(笑)。母の言うとおり、家を守ってくれるのかどうかはわからないが。

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2010年7月 8日 (木)

関西の七夕は旧暦7月

昨日は7月7日だったので、テレビもラジオも、七夕と報じていたが、流風の家では、七夕は1か月遅れの8月に母がいろいろやっていた。関西は、どこもそうではなかったか。七夕は、そもそも旧暦で祝うもので、本年であれば、旧暦7月7日は、新暦8月16日が相当する。

よって、本来は秋の催しなのだ。この時期は、空も澄んでおり、彦星と織姫が会うには相応しい。そういう空でこそ、雰囲気も出る。新暦の梅雨の頃の天気の悪い時に、七夕はおかしい。昨日は晴れていたが。

流風家の子どもの頃の催しとしては、毎年、8月7日頃に、次のようなことをやっていた(本来の七夕日とは、ずれる)。まず、短冊に願い事を書いて、笹竹に飾っていた。これはどこも同じかもしれない。あまり願い事がかなったことはなかったように思う。子どもの願いは弱いからだろう。

母は、割り箸を使って、キュウリとナスで、馬や牛をつくり、トウモロコシの毛で尻尾にしていた。月見の時と同じように、上新粉で団子も作っていた。更に、にゅうめん(素麺を煮て、汁そば風にしたもの)に、カボチャ、ナス、揚げが入っていた。それらを台の上にしばらく飾っていたものだ。

そして、しばらくして、下げたものを頂いていたように思う(正確には、同じものを食し、下げたものは頂いていない)。当時は、あまり美味しくは感じなかったが、今としては、いい思い出だ。これは、やはり母に感謝しないといけないのだろう。久しぶりに、にゅうめんが食べたくなった(笑)。

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2010年7月 7日 (水)

三千世界という意味

以前にも、取り上げた「三千世界」について、時々尋ねられる方がいるので、覚えとして単純化して、少し記しておこうと思う。もちろん、仏教用語の「三千世界」について、すべて記すことはできない。それは専門家に尋ねてほしい。ただ世間一般には、単に「世間」というような意味で使われていた。そして今は、あまり使う人もいない。

それでは、三千世界の元の意味はというと、これは仏教における宇宙の単位といえる。まず中央に須弥山があり、七山、八海、四州、八州、無料州が取り巻き、鉄囲山(てっちせん)を周囲に巡らしたものとされる。これが我々が属する一つの世界(一世界)だ。これらは、よく仏教画に描かれているので、目にした人は多いと思う。

そして、大虚空には、無量の世界が存在する。大虚空とは、宇宙を指しているのだろうか。まず、一世界を横に一千列(つら)ねたものを小千世界と称する。更に、小千世界を一千列ねたものを中千世界という。そして、更に、中千世界を一千列ねたものを大千世界という。

この大千世界を、千を三度掛け合わせたことから、三千大千世界といい、略して、三千世界というのだそうだ。そして、三千世界は、一仏の支配する単位となっており、「一仏土」ともいう。釈迦の支配下にある一仏土は、娑婆世界と呼ばれている。よく壁の内側から出てきた人が言う、この言葉は、ここから出ている。

なお三千大千世界を更に十万憶並べたところに、阿弥陀仏の支配する極楽浄土があるとされる。よく、そんな世界を考えたものだ。極楽は、ずっとずっと先の世界のようで、とても到達できるものではない。極楽は、善人でも簡単には手に入らないものらしい。

だが、物事は考えようで、人は宇宙の一部であると同時に、人自身が宇宙であるとも言える。そうであれば、極楽は、自分自身の中にあるとも考えられる。ハヤブサのように宇宙を探索するのもいいけれど、自分の中を探索した方が、極楽を発見するのは早いかもしれない。

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2010年7月 5日 (月)

男は聞いていない!

先日、テレビのスイッチを入れたら、バラエティのようだが、テーマは、「夫は妻の言葉を聞いていない」というもので、実際に実験して、検証していたので、普段は、バラエティなど視ないのに、少し見入っていしまった。そして思わず、ニヤリと。

凡そ、妻の話す話の内容は、日常の細々とした話が多いのは、どこの家庭でもそうであろう。夫としては、習い性になっているので、聞き流すことになる。それに対して、妻の方は、夫に話したのに、何も覚えていないと憤慨する。これ、よくあるパターンです(笑)。恋人時代とは異なりますよ。

夫だって、全く聞いていないわけでもない、例えば、妻側に一大事があれば、適切に対応するだろう。それに対応しないとなれば、それはちょっと、夫に問題がある。でも、それ以外は、家庭では、ゆっくりしたいので、細々としたことに神経は使いたくない。そのため聞き流すことが多いのも事実だ。

女性にとって、大事な、ぐだぐだ話は、男には辛い。いくら夫婦のコミュニケーションと言っても、夫側には、味付けにもならない。そこら辺は、男女の感性の違いだ。そのことは妻側も、理解して、あまり腹を立てない方がいいと思う。

強いて、流風が女性にアドバイスするとすれば、どうしても聞き届けてほしいのなら、それは上司に意見をと通すのと、同じ要領でやればいい。どんなに、いいプランや提言でも、上司の前で、滔々と述べるだけでは、同意は得られない。上司は、聞いていても、その実、聞き届いていないことが多いものだ。

それでは、どうするか。文書と共に、説明するのが普通だ。そうすれば、その時には、同意は得られなくても、文書は残る。時間をおいて、後で、気づいて読んで理解してくれたりすれば、それなりの意見も得られる。

夫に対しても同様だ。話すのはいいが、聞いていないことを前提にすれば、腹も立たない。その代わりに、どうしても聞いてほしいことは、メモ(あるいはノート)で渡せばいい。それに対しては、後で反応があるかもしれない。少なくとも、インプットはされる。

男は聞いていない!と怒るだけでなく、いかに聞き届けさせるか、妻側にも工夫が求められる。それが嫌なら、怒るだけ損だと思うよ。

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2010年7月 4日 (日)

『怪傑ゾロ』と『かいけつゾロリ』

子ども時代、テレビで、『怪傑ゾロ』が放映されていた。大盗賊ゾロが、弱きを助けて、強きをくじく、勧善懲悪物である。洋の東西を問わず、こういう物語はわかりやすい。子供向けに作られていたのだろう。勧善懲悪については、哲学的には問題だが、子ども時代は、そのように躾けていくのがいい。

ところが、この番組を熱心に視ていたのは、実は父だ。このテレビ番組が相当気に入っていたようで、いつも、照れ隠しのためか、流風を誘っていた。一人で大人が見るのは恥ずかしいと思ったのだろうか。流風は、この時間だけは、否応なしに、父の横に、いつも座っていた。

何がよかったのだろうか。物語の筋は単純である。不法者に苛められている人たちを救う。そして、ゾロが出現した証拠として、壁に「Z」の文字を剣で書き入れる。確か、歌では、「シュシュッと敵を切る」とか言っていたように思う。

彼は実は大富豪の息子で、ゾロにぞっこんの元大地主の娘ロリータに求婚しているが、彼女は、彼がゾロであることを知らない。ロリータは、彼の本当のことを知らないから、そこに齟齬が生じる。実は、父は、このロリータのことを気に入っていたのではないかと思っている。

何かと嫉妬心の強い母から、非現実世界に逃れたかったのかもしれない(笑)。ということで、流風も、一緒に視ることを強要された次第。まあ、それなりに面白かったとは思うけれどね。筋はすっかり忘れてしまったが、悪党も愛嬌があったと思う。

ところで、話は変わるが、姫路文学館では、『あそぶぜ!かいけつゾロリのおたのしみ大さくせん~原ゆたかとゾロリのなかまたち』というものが、間もなく、催されるらしい。名前が、『怪傑ゾロ』に似ている。残念ながら、流風は「かいけつゾロリ」なるものは知らない。

子どもたちには、人気の童話らしい。ネットで見ると、ゾロリは、キツネのようだ。愛嬌のある顔をしている。胸に「ZZ」の文字が。あはは、これはパクリだ。もちろん、名前は、『怪傑ゾロ』を意識したものだろう。作家の方も、流風と同じ年代かな。

この催しは、作家の原ゆたか氏が、高校生時代、姫路市で過ごしたことから、今回の催しにつながったようだ。夫人の原京子氏も絵本作家のようで、彼女の原画も掲示されるという。とにかく、この催しがあることを知って、『怪傑ゾロ』を懐かしく思い出した。

会期中には、お絵かき会、サイン会、声優によるお話し会(以上、事前申し込み必要)、こども落語会などが催されるという。会期中は、子どもたちで、にぎわうのかもしれない。流風は、さすがに、一人では行きにくい。近所の子どもを誘って行きますかな。その前に、『かいけつゾロリ』を読むべきか、迷っている(笑)。

*参考

かいけつゾロリ公式ページ  http://www.zorori.com/

*参考

 姫路文学館    http://www.city.himeji.lg.jp/bungaku/ 

 『あそぶぜ!かいけつゾロリのおたのしみ大さくせん

             ~原ゆたかとゾロリのなかまたち』

   期間:平成22年 7月16日~9月20日

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2010年7月 2日 (金)

風幡の説

ユーロの崩壊から、資本市場は荒れている。欧米の投資家が日本株を売り、株式市況は下落している。日本の景気は、持ち直しており、慌てることはないのだが、一部の投資家は、不安で仕方ないかもしれない。こういう投資は、余裕資金でないとまずいのだが、いつの時代も、儲けを強く意識して、無理してしまう人たちがいる。

さて、それはそれとして、「風幡(ふうばん)の説」というものを紹介しておこう。本間宗久が、後年、あきらかにしたものだ。彼は、江戸時代、吉宗以降に活躍した現在の山形県の豪商だ。

彼は米相場では、若い頃、相場に大きな失敗をして追い込まれ、禅寺に籠る。そこで、禅師から教えられたのが、、「風幡の説」というものだ。正確には、中国宋代の禅僧、無門慧開の公案集『無門関』の公案二十九「非風非幡」に拠るものだ。

一部を示しておこう。ただ、公案の解釈は、流風では心もとない。『無門関』(西村恵信訳注、岩波書店)のものを以下に転記する。

「六祖はある時、法座を告げる幡(はた)が風でバタバタ揺れなびき、それを見た二人の僧が、一人は「幡が動くのだ」と言い、他は「いや、風が動くのだ」と、お互いに言い張って決着がつかないのを見て言った、「風が動くのでもなく、また幡が動くのでもない。あなた方の心が動くのです」。これを聞いて二人の僧はゾッとして鳥肌を立てた」

六祖とは、慧能のこと。五祖を継いで、故郷に帰り、猟師の中に身を隠していた時、出会った逸話という。本間宗久は、この話を聞いて、相場の本質を悟り、それ以後、連戦連勝だったと言われている。一般に成功した投資家というのは、最終的に失敗に終わることが多いのだが、彼は、余裕の生涯を終えたと云う。

公案については、これ以上には解説しない。いやしくも投資をしようという方々は、自分で解釈して、自分のものとすべきだろう。それができないのなら、そもそも投資などいうものは止めた方がいい。

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2010年7月 1日 (木)

かもうりのゆうだち

今年も、はや7月。半年が、もう終わってしまったわけだが、時の経つのは早い。昨晩は降らなかったが、連日、激しい雨が続いていた。とても梅雨の雨とは思われない。梅雨は間もなく開けるのであろうか。

梅雨が開けると、市場に出回るのが瓜類。スイカは好きだけれど、瓜はあまり好きではない。それでも、何個かは、口にすることになる。あの水っぽい甘さは、何とも言えないという人々もいる。両親は好きだった。

さて、タイトルに挙げた「かもうりのゆうだち」とは、まず、かもうりとは、冬瓜のこと。夏できる瓜なのに、冬の瓜とは如何。冷暗所に置けば、冬までもつということから出ているらしい。「ゆうだち」は夕立。冬瓜の表面は、白いものが混じっている。

そういうところから、女性の化粧をあざけっている。最近は、学生時代から化粧慣れしているそうで、そういうことはないかもしれないが、化粧が上手でないと、そのように粉がふいた状態になる。

昔は、社会人になって、初めて化粧した女性が、よくそういう状態になっていた。確かに、あれは笑える。本人は、意外と気づいていないのだが、第三者から見ると、明らかにおかしい。若い人は、肌がぴちぴちしているので、化粧の必要はないのだが、化粧という誘惑には、いつの時代も負けてしまう。

そして、施した化粧が、さらに剥げていくと、夕立のように見えることから、「かもうりのゆうだち」という、嫌味な言葉ができた。念のために記せば、流風は、一度も、この言葉を吐いたことはありませんよ。

でもね、汗で化粧が落ちている、ご婦人たちを時々見かけるが、あれは見られたものではない。化粧室に掛け込んで、早く修正してもらいたいものだ(笑)。でも、女性は、夏場は大変だね。同情致します。

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