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2010年8月30日 (月)

理紀之助の『常道』その七

今回の理紀之助の『常道』の言葉は、次の通り。

「万事勝つことを望まず、負けざるを心掛くべし」

勝負事で、勝ちにこだわると、落とし穴がある。勝ちが、たまたま連続して調子に乗ると、致命的な怪我をする。これらは先人が経験的に習得したことだ。『孫子』をはじめ兵法書には、勝ち過ぎることを戒めている。

よって、勝つことより負けないようにすることが堅実なやり方だ。負けないようにする方法はいろいろあるが、秀吉が、囲碁の名人と対局した時、真似碁をしたところ、勝てはしなかったが、なかなか負けもしなかったのも、一種、通ずる話だ。

囲碁の世界では、最終的に、勝敗は決するが、現実の世界では、完全な勝ちもないし、負けもないと考えておいた方がいい(勝ちに見えたり、負けに見えたりすることはある)。であれば、勝つことは望ましいかもしれないが、勝負は繰り返すと考え、勝ち続けることには、こだわらず、負けないようにし続け、体力を温存し、生き残った方がいい。

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2010年8月29日 (日)

中小企業は海外に工場を

最早、どうすることもできないと、円高で大騒ぎするのは、いい加減にしてもらいたい。某大手企業は、円高に伴う、決算予測を発表したが、単独決算では、減益だが、連結決算では増益である。

つまり、産業界に求められるのは、円高に対応しうる産業の大転換であり、貿易構造の改革だ。国内の産業を活性化させつつ、世界の貿易で利益を出しうる貿易構造に転換させなければならない。

その中で、中小企業、特に製造業は、国内でコストダウンの無理を重ねてきた。その結果、疲弊し、経営者も従業員も、生活が破壊されていると聞く。コストダウンも、経営者自らや従業員の身を削るようなやり方は、いつまでも続けられないのは明らかだ。

為替に振り回されるようなことがあってはならない。大企業は早くから、そのように手を打ってきたが、中小企業も、国際的展開を考えるべきであろう。人件費が違うのだから、経営体制を自然体で臨むべきだろう。無理な経営努力では解決できないことは明らかだ。

そして、海外での展開については、あまり自社の規模に捉われないことだ。海外で求められるのは、経営者の即断即決の決断力。多くの日本の大企業が、それができないで、相手国から相手にしてもらえないことが多いとよく指摘される。韓国企業に負けるのは、まさにそういうことだ。

その点、中小企業は、オーナーであることが多く、決断はすぐ出せる。海外の相手は、そういう相手を強く望んでいる。もちろん海外での活動のための基本的調査(可能な進出国、文化や商慣習、パートナー、海外経営管理、人材の問題、進出先のルール等)は必要だが、自社の余力を勘案しながら、海外専門家と相談し、実地調査に時間をかけて、独資で進出しては、どうだろう。

その上で、持ち株会社を設立し、国内子会社と海外子会社の連結決算で利益を出す仕組みに転換させればいい。やはり世界の流れに逆行して頑張り続けるのは、不可能で、柔軟な経営体制に切り替えていくことが望まれる。

今こそ、国と金融機関と産業が一体となって、新たな仕組みを構築することが求められている。一部の中小企業は、すでに海外に進出して、成功しつつある。中小企業も国内だけで頑張るには限界があると考えるべきだろう。経営体制の刷新を求めたい。

政府のやるべきことは、そのための支援やアドバイスであろう。彼らが、いつまでも国内に引き籠って、悲惨な思いをさせないことだ。国内空洞化の問題はあるが、市場をアジアに拡げて、中小企業が対応に遅れないように政策誘導すべきだろう。

*追記

なお中小企業の進出先は、一般的に資本主義諸国だろう。社会主義諸国は制度も運用も複雑だから、大変と聞く。これらの国への進出は大企業でないと難しい。

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2010年8月28日 (土)

理紀之助の『常道』その六

石川理紀之助の『常道』として、次の言葉を挙げる。

「人間は窮して大利をたくらみやすし。しかも、その成ることなし。窮したらば、大利を望むべからず」

借金を予定通り返せなくなったり、投資がうまく行かなくなったり、企業経営がうまくいかなくなると、当事者は、一発逆転を考えがちだ。ところが、それは十分に検討が加えられたものではなく、概ね、夢物語に過ぎないことが多い。そういうことは、多くは成功しない。

こういうことは、冷静な時は、誰も、そう思うが、危機に陥ると、正常な考えができなくなることが多い。そのためには、そういう危機的状況にならないように日頃から注意を払い続けることが大切だ。

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2010年8月27日 (金)

暑さにお手上げ

若い時、休日、自宅にもクーラーもなく、涼を求めに、外に出かけることが多かった。まず目的もなく、定期券を利用して、電車の中で、涼み、商業施設で涼を取ったことが懐かしい。ちょっと効き過ぎた冷房の中で読書したものだ。

始点から終点までの往復をしたこともある。大阪環状線をぐるぐるも、やってみた。でも、何周もすると、子どもじゃないから飽きてくる。それでも、車掌に咎められることもなく、よく乗ったことが懐かしい。

さて、最近も、あまりにも暑い日が続くので、暑さに強い流風も、少し参っている。ただ夏バテはなく、食欲はある。暑さを凌ぐのが大変なのだ。日中の暑さは仕方ないとしても、夕方から深夜になっても、室温が下がらないのが問題だ。深夜に35度は、さすがに参る。

これは昔はなかったことだ。お盆を過ぎれば、夕方から、涼しい風が吹きぬけたものだ。こんな暑さは、子どもの時も経験していない。というわけで、多分、今年ほど、クーラーを使った年はないだろう。

例年、クーラーを使うのは、年に一週間程度だが、今年は、ほぼ毎日利用している。クーラーは身体に悪いなど行っておれない状況だ。でも、電気代が、少し大変。いくら省エネ型でも、結構消費する。本当に困ったことだ。

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世界金融緩和競争の危うさ

日本の経済の実情からすれば、ずっと続けている金融緩和は、ほとんど意味がない。ところが資本市場は、円高で大騒ぎして、更に金融緩和を求めているという。確かに、世界は自国の貿易条件を改善すべく、金融緩和競争しているが、これは逆に金融環境を悪化させるだけだ。

為替の自国通貨高を防ぐために、金融緩和することは、一時的回復だけを目的とする近視眼的な期待だろう。こういうことは、時間を措いて、繰り返され、金融がじゃぶじゃぶ市場に提供され、最終的には行き場を失い、結局、各種市場を荒らすことになるだけだ(日本の場合、金融機関が国債を引き受ける原資になっている)。

このようなことを考えると、日本経済は、最早、金融緩和する状況でないことは明らか。これ以上、お金をじゃぶじゃぶ入れても、それは金融の機能マヒを拡大させるだけだ。それにバブル崩壊以降、超低金利政策を続けて、金融機関を支援してきたが、金融機関の収益構造は改善していない。

金融機関は、銀行・証券の垣根を取り外し、金融自由化を推し進めたが、却って、混乱を加速させている。金融機関は、投資信託、ファンド等の投資会社に企業体質を転換させようとしているが、世界の混乱から、うまく機能せず、それほどの収益を確保していない。

それは証券会社も同様で、低金利継続が招いた、金融構造の歪みが、経済さえも、不活発にさせている。結果的に、証券市場を低迷させている。証券会社は、旧来のビジネスシステムから抜け切れず、世界の変革経済を理解していないから、円高だけで大騒ぎしているレベルの低さだ。

結局、両者ともに、国内の金融資産の有効な活用が、結局できず、景気の足を引っ張っていると言えよう。発想の大転換が必要だろう。

*追記

もちろん、日本だけで解決できる問題ではないので、世界の金融緩和競争を止めさせる協議は必要だ。固定相場制とは言わないが、何らかの方策は必要だろう。

*平成23年8月21日

欧米の経済の悪化及び米国債の評価低下を受けて、円高に進んでいる。このことは、随分と前から予測されたことだが、経済人や、経済評論家は、あるいは政治家の多くは、また騒いでいる。

そして日銀・政府は金融緩和すべきだと主張し、マスコミも右へならえの主張には、ほとほとあきれる。金融緩和など、いくらやっても問題の先送りで、事態は更に悪化していく。問題の根本にメスを入れない限り、何も解決しないと、いい加減に理解しないといけない。

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2010年8月26日 (木)

理紀之助の『常道』その五

今回の石川理紀之助の『常道』の言葉は次の通り。

「知りたることを人に教えざるは、借りたる金を返さざる如し」

自分の知識や知恵を出し惜しみする人がいる。確かに苦労して得た知識や知恵を後輩たちに渡したくない気持ちは分からなくもない。全てを伝えると、自分の地位が脅かされると思うのかもしれない。

だが、知識も知恵も、多くの先人、先輩や周辺の協力があって得られる。そうであれば、後輩たちに、伝えて、初めて、自身の存在価値が認められる。自分の知識や知恵は、常に放出して、空の状態を作れば、次の新しい知識や知恵を得られる。

よって、既知や既知恵に捉われないことが大切だ。理紀之助の説いていることは、そこまで述べていないが、結局、そういうことになる。いずれにせよ、得た知識や知恵を後輩に伝えるのは順繰りだ。そうして、初めて知識や知恵に対してハングリー精神が養われる。それが自身の成長の原動力になるのだ。

*追記

これは今の日本の産業にも言えること。保守的に、現状に捉われては進歩を阻害する。

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2010年8月25日 (水)

株式市場を乱す要因

株式市場が、円高を理由に急落している。しかしながら、これはドル安・ユーロ安の結果だ。円高を株価下落の理由とするのは、少しおかしい。確かに輸出価格は上昇して、競争条件は悪化するが、今の大手の輸出企業は、多国籍化しており、単純ではない。

更に、国内株式市場の上場株式は、何も輸出産業ばかりではない。輸出産業の全体に占める比率は少ない。内需関連株も、下がるのもおかしい。大体、円高で騒ぐのなら、本来、円安でも騒がなくてはならない。円安の時は、過剰な利益を計上しているはずだが、その時は口にチャックだ。ところが、円安の時は、そんなに株価は上昇していない。

全く、ご都合主義と言わざるを得ない。極めて恣意的な騒ぎ方と言える。むしろ日本経済の現状から言えば、明らかに下がり過ぎで、本来は、リーマンショック以前の株価に戻ってもいいぐらいである。まともに評価すれば、現在の株価の倍くらいになっても、おかしくない。

株価が、業績は持ち直しているのに、リーマンショック以前の水準に戻らないのは、いろんな理由があるだろう。BIS規制や、国際企業会計に合わせるため、企業が持ち合い株式の処分や、持ち株を減らしていることも影響しているだろう。それらを穴埋めする個人投資家も、市場に戻っていないこともあるだろう。

そこで活躍するのが、外国人投資家とか、ファンド関係者に、株価が左右されるようになっている。彼らは成果を上げるため、3か月ごとに、短期的な取引をする。細かいいろんな屁理屈をつけて、相場を乱高下させて、利益を得ようとする。乱高下が大きいほど、うまみは大きいからだ。それが日本の株価市場を乱している。

現在は、多分、相場を下げて、利益を上げているのだろうが、いずれ、相場を上げて利益を上げる機会を見るだろう。こういうやり方は、ファンド金額が積もるに従って、年々激しくなっている。いわゆる投機化だ。

これらに対応するには、嵐が吹き終わるのを待つしかない。嵐は、誰も止めることはできない。相場・証券関係者は、政府・日銀に期待する発言をするが、それは正しくない。流れを読むことこそ、相場・証券関係者の仕事ではないか。自分の見通しに失敗して、国に泣きつくのは極めておかしい。あまり、騒がず、ばたばたせぬことだ。

*追記

欧米の景気が悪いのは当面続き、ドル安・ユーロ安を止めるのは、難しい。一部楽観的な見方もあるようだが、そんなに甘くない。結果的に、円高は、亢進する可能性が高い。それを止める方法はない。それに対応した経済運営をするしかない。

確かに、製造業の国内空洞化の懸念はあるが、産業政策としては、逆転の発想でローテクを中心に、中小企業の海外進出を促すべきだろう。海外の労働コストが日本と比して、かなり安いのだから、これを無理して競争しても、仕方がない。産業の高度化と国際ネットワーク化を強化して、利益を上げうる貿易体制に変更する必要がある。

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2010年8月24日 (火)

上田秋成の『雨月物語』の意図

   江月照らし、松風吹く

      永夜清宵 何の所為ぞ

これは、上田秋成の『雨月物語』の「青頭巾」の話の中で、快庵禅師が、童子を愛して、修業を怠り、煩悩に迷う僧に課す問だ。中世の雰囲気を伝える典型的な物語でもある。「青頭巾」の全体の詳しい筋は、ここでは紹介しない。

ここでは、先に挙げた快庵禅師の問いについて、少し考察してみる。以前、同様な漢詩を紹介したが、表面的な解釈は次のようになるだろうか。

「入江に月は輝き、松風は、吹きわたっている。一体全体、このような永遠を感じさせる夜や、清らかな宵は、何が、そのようにしているのだろうか」と。

果たして、この問いに対する答えは何か。現代的に、科学的に分析しても、何も出てこない。快庵禅師の趣旨は色々に解釈されるだろうが、流風の独断で解釈すると、次のようだろうか。

「自然は、人の存在以前の問題であり、あるものとして存在している。人も同様に、その中で、そのように存在すべく存在している。そのように考えて、迷いから逃れよ」と。

凡そ、迷うというのは、本来あるべき自然とか人とかを無視して無理するから、起こる問題である。人として、あるようにあれば、何も問題がない。そこには、意識も、無意識もない。だが、そのように考えることは、まだ修業が不十分であるとも言える。

このように読んでいくと、『雨月物語』も、奥が深い。それは上田秋成の特別な生い立ちから生まれたとも指摘できる。幼くして養子に出され、病気により、一部身体機能を失っている。養母はたびたび代わり(養母は優しかったようだが)、その精神性は、かなり歪んでいたと推定される。

それを大人になり、それなりに修正させていくが、そうすればそうするほど、自らの迷いを深めていったとも考えられる。この話は、彼自身の苦悩のプロセス表現とも受け取れる。すなわち、この「青頭巾」に限らず、秋成文学は、見方によっては、他者には、なかなか理解してもらえない孤高の文学とも捉えられる。これは現代人に通ずるものがあり、再評価せねばなるまい。

*追記

最近知ったことだけれど、上記の漢詩は、『証道歌』にあるらしい。秋成は、この禅詩に深く同意し、ヒントを得たのかもしれない。

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2010年8月23日 (月)

首相の実質任期の問題

以前にも触れたが、日本の首相の実質の任期は短い。政治スキャンダルで辞任するものが多いが、自らの体調不調を訴える者、党内抗争、政権運営に対する自信喪失などが、主な理由だろうか。

それにしても、簡単に辞めるのは、安易すぎる。ころころ変わる日本の政権に対して、国際社会は信用していないことを政治家は考えていないのだろうか。実質、官僚が仕切っているのだから、大きな変化はないと踏んでいるのだろうか。

しかし、国民にすれば、大きな迷惑。政治は停滞し、必要な法案も次々と廃案になる。このロスは、天文学的に無駄だ。政治エネルギーの無駄だ。政治は、最も非効率なのだろう。これを改め、期限を決めて、政治にはスピードが求められる。拙速は戒めなければならないが、論理的な成案スピードは速めなければならない。

他方、法律が多すぎて複雑すぎるのも問題だ。大本になる法律と、瑣末な法律は、きちんと区別しなければならない。優先順序は、政権政党の恣意的なものだろうが、法律の重要性は、きちんと区分されるべきだろう。野党も、問題を複雑にすべきではないだろう。

ところが、これらを改善しても、決定的な問題が、政治決定機構である。まずトップの首相がもころころ代わることが、政治的空白を生み、法律面でも、実効面でも停滞する。今、また民主党内で、代表をどうするか、もめているようだが、国民の意向(管直人首相を代えない)を無視して、いい加減にしてもらいたい。

*注記

もちろん、逆に長期政権がいいとも言えない。長期に政権を担当すると、権力は腐敗する。あるいは独善主義に走る。これも国民にとっても迷惑なことだ。いや、むしろ短期政権より危うい。

*追記

民主党小沢一郎氏も、周辺に利用され過ぎる。今のままでは、鹿児島県民には失礼かもしれないが、西郷隆盛になってしまう。彼は、権力闘争の坩堝にはまるのではなく、表舞台で活躍してほしい。それは例えば、外相だ。

残念ながら、現在の岡田外相は、少し頼りない。海千山千の海外と交渉するには、真面目すぎる。相当前から、日米、日中の交流を続けている小沢氏は、いろんな人脈を活かして、外交分野で活躍してほしい。

某新聞社は、政権の要職に就かせることも反対なようだが、有為の人材を活かすことを考えなければならない。大連立の不成立を恨んでいるのかもしれないが、政治に感情を持ちこむのは誤りだ。

*平成22年8月26日追記

残念ながら、管政権は、挙党一致内閣を拒否したようだ。馬鹿なことだ。権力を握ると感覚が麻痺するとは、このことを指しているのだろう。そんなに有能な内閣と思っているのだろうか。世論に反して、また首相が替るのだろう。

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2010年8月22日 (日)

理紀之助の『常道』その四

今回も、石川理紀之助の『常道』から、その言葉を引用してみよう。

「人のためにする損は損にあらず、わがためにする利は利にあらず」

人や社会への貢献のために、いろんな手間をかけることは、回り回って自分に返ってくる。逆に、自分のために上げた利益は、結局、反社会的なものになりがちだ。

意味は違うが、損して得を取れ、に通ずるものである。企業も、目先の利益を追求し続ければ、いずれ困難に直面する。長期的視野で、将来を見通しつつ、現状に対応する。

かつて日本企業は、長期的視野に立った経営をしてきた。だが、いつ頃からか、西欧的短期利益追求型経営に移行し、おかしくなった。欧米の経営システムは、それはそれで彼らには、意味があるのだろうが、日本の経営には、合わない。

金融システムのBIS規制もおかしなことだ。西欧のシステムが、日本のシステムに、無理に合わそうという短絡的な考えが問題だった。それぞれの国の環境に合った金融システムが必要なのに、何でもかんでも、システムを統一してしまおうとする無駄がある。

日本の企業は、もう一度、社会に貢献することを、まず第一に、長期的視野で、企業行動基準を修正するべきだろう。西欧のシステムが、いつも正しいとは限らない。そのためには、国際社会をも説得しなければならない。

*追記

また西欧ビジネスにおいては、巨額の利益を貪り、後に、一部を寄付する考えがあるようだが、これは明らかに順番が違う。資本主義の行き過ぎは、社会を蝕む。それを巨額な寄付がなされようと、最早回復はできない。

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2010年8月21日 (土)

『ボストン美術館 浮世絵名品展』鑑賞

神戸市立博物館で開催されている『ボストン美術館 浮世絵名品展』を鑑賞してきた。鳥居清長、喜多川歌麿、東洲斎写楽を中心に134点、展示されていた。これだけの作品が海外にあり、日本で展示されるのを観に行くというのも、違和感を感じるが、仕方ない。

なぜ、これだけの浮世絵が海外に流出したかは、いろいろあるだろう。戦後のどさくさに、海外の蒐集家が、集めたのかもしれない。また、それ以前に蒐集したとすれば、日本人は、浮世絵に、それほど価値を認めていなかったことになる。

現代的に見れば、どこでも描かれている挿絵のようなもので、その絵に、それほどの価値を見出していなかったとも言える。あるいは、庶民は、日常的に接するものなので、ごく普通の存在だったのだろう。どこにでもある、一種、広告のように捉えていたのかもしれない。

ところが、外国人にすれば、異国の不思議な芸術に見えたのかもしれない。これを西洋人は珍しがった。これは日本人も同様だろう。外国に行って、違う文化に接すれば、それは、その人間には、新規性と捉えられる。

ところが、この浮世絵、よくよく見れば、そのほとんどが、花柳界の女性がモデルである。歌舞伎から題材を取ったものもあるが、基本的に、水商売の華やかな世界を題材に取っている。

凡そ、庶民にとっては、華やかに見えて、縁遠い存在だが、苦界という哀しむべき存在でもある。高い服を着て、顔を曝すことで、お金を得るというのは、玄人筋の水商売の宿命だ。現代で言えば、芸能人も、そのように言える。曝すことを代償に、高額の報酬を得る。

果たして、外国人に、その文化背景を理解していたかは疑わしいが、題材より、西洋とは異なる表現手法に、魅力を感じたのかもしれない。もちろん、西洋人も、うならせる、あの大胆な構図は、ある日、突然、湧いてくるものでもあるまい。あれを描くには、かなりの下地の能力が必要だ。

ところが、絵師の正体は不明なことが多い。鳥居清長、喜多川歌麿、東洲斎写楽など、皆、謎の人物だ。清長こそ、生没年は明らか(1752~1815)だが、歌麿は生まれは不明(1806没)だし、写楽については何もわからない。

彼らは、絵を習っていた武家出身を隠していた感じもある。あるいは、正統日本画の流れを汲む絵師かもしれない。あるいは、女性絵師かもしれない。帰化した渡来人の可能性もある。または、どこかの僧ということも考えられる。

いずれにせよ、本業とは、異端のため、密かに描いたものだろう。名前は、仮名と考えるのが自然だろう。そして、今、現代の日本人も、正体不明の描き手の浮世絵を観ている図がある。

当日は、平日にも関わらず、多くの観覧者でいっぱいだった。丁寧に鑑賞する人が多いので、人が前になかなか進まない。日本人は、そんなに浮世絵が好きだったのだろうか。それとも、一時帰国した江戸時代の華やかな世界を覗き見ることに快感を得ているのだろうか。

それでは、仮に浮世絵に描かれた人々は、現代の日本人をどう見ただろうか。お互い、仮の世で、夢、幻の世界なのだろうか。また浮世絵に描かれた人々も過去の日本人だと思うと、未来の日本人は、現代の日本人は、どのように映るのだろうか。

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2010年8月20日 (金)

理紀之助の『常道』その三

本日も、石川理紀之助の『常道』から、取り上げる。

「善を語れば悪を忘れ、悪を語れば善を忘る」

善と悪の定義は難しい。それぞれの人間社会のルールに従って、善とか悪とか言われる。理紀之助が、この言葉を残した意図は、わからないが、人は、善がすべてと考えたり、悪がすべてと考えたりすることに警告したのであろうか。

一般に、性善説と性悪説というのがある。人間の本性は果たして、どうなのだろうか。まあ、言えることは、この世の中、善人ばかりでもないし、悪人ばかりでもない。100%性善の人もいないし、100%性悪の人もいない。

それに、人は誰でも、善と悪を、それぞれ有している。ある時は、善が強く出て、ある時は、悪が強く出る。社会は、いろんな比率の善と悪を持っている人々の集まりだから、より複雑だ。社会は、個人の性善・性悪が反映される。

社会の複雑さを構成している根本を知る必要がある。そう考えれば、一人ひとりが性善・性悪について、考えて見ることは意味があるだろう。

*追記

そういうと、『堤中納言物語』にも、虫めずる姫君が、次のように語っている。

 「人は夢幻のやうなる世に、誰かとまりて、悪しきことを見、善きをも見思ふべき」と。

子どもの姫が、これを語るのは現実にはありえないだろうが、作者の気持ちがよく出ている。

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2010年8月19日 (木)

理紀之助の『常道』その二

本日も、昨日に引き続き、石川理紀之助の『常道』の言葉として、次の言葉を挙げておこう。

「歯は剛くして欠け、舌は柔らかにして存す。鉄砲は鉄石板を破れども、柔かき綿は破り難し」

これは、俗に「柔よく剛を制す」を、わかりやすく解説したものだろう。「柔よく剛を制す」は、出典は、『三略』だが、この考えの大本は、『老子』にある。

男は、ともすれば剛に傾きがちだが、これで他を制しても、自らも傷つく。剛の方が男らしいと捉えられがちだが、長い勝負では、勝つことは難しい。

やわやわと対応するのは、女々しいと思っても、水のように変化対応して、生き残った者が最終的に勝利を収める。

もちろん、いつも、やわやよとせよとは言わない。時には、勝負に出ることも必要だ。ただ、それは生涯に、一、二度に留めたい。

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2010年8月18日 (水)

理紀之助の『常道』その一

今回から、石川理紀之助の述べた「常道」について記す。石川理紀之助については、以前、若干触れたので、ここでは省略。本日は、次の一文を呈す。

「父母をはじめ、すべて老人を大切にすべし。ただし、よきものを食わせ、着するよりも、心に苦労をかけざるを第一とすべし」。

戦後、儒教の衰えた日本では、老人を大切にするという思考が抜け落ちている。例の不明高齢者も同じこと。自分の親さえ、きちんと看取れない不幸。確かに、データ的には行政の怠慢だが、子どもたちも、自分に忙しく、親に無関心になっていることが原因だ(親の年金の詐取もあるようだが)。これは決して、いいことではない。親は先祖になる。先祖を、いい加減に扱えば、いずれ自分にも、返ってくることだ。

流風も、親に対して、理紀之助の説くようにできたかというと疑問が多い。亡くなってから、ああしておけばよかったとか、こうしておけばよかったとか悔いは残る。「心の苦労」ばかり、掛けていたように思う。ただ、親が亡くなってからは、親と似たような老人に対しては、優しく接するようにしている。

親が存命の方は、親への接し方を心して再考してほしい。特に高齢の親たちには、優しい言葉をかけて、安心させてほしい。

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2010年8月16日 (月)

ゴキブリが嫌われる理由

母は、ゴキブリが出ると、よくキャーと言って、父に処理を依頼していた。母は、爬虫類や昆虫を直に触っても怖がらないのに、不思議だなと思っていた。ただ、父が亡くなると、ゴキブリを平然と処理していた。あれは父への甘えだったのか、それとも頼るべき人がいなくなったから、仕方なく処理していたのか、わからない。

ゴキブリが、なぜ嫌われるのかについては、日高敏隆氏が、『生きものの世界への疑問』(朝日文庫刊)の中で、「ゴキブリはなぜ嫌われるのか」で述べられているので、ここでは、くどくどと記さない。

ただ、今年の夏は、流風家にも、多く現れ、仕方なく、薬剤入りの捕獲器で捕獲したり、直接捕まえて処理もした。やはりゴキブリは、男でも嫌な奴だ。それとも、そのように捕獲器メーカーに洗脳されたのだろうか。

だが、ゴキブリは、夜活動するゴキブリは、人間様が寝静まったと同時に活動するので、たちが悪い。そして糞か卵かわからないが、キッチンのあちらこちらにまき散らす。これが大きな迷惑なのだ。そういうわけで、処理することは求められる。

人類と共に生きてきたゴキブリ。でも、人類とは共存できないゴキブリ。それでも、お盆の間は、殺生を慎んできた。でも、盆明けも、彼らが出てこないことを望みたい。

*ゴキブリ対策(一応、流風的に)

 一、生ゴミを放置しない。密閉型容器に入れる習慣。

 二、水気を取り、シンクを清潔にする。

  三、ゴキブリの糞および卵のこまめな処理

 四、台所の床を清潔に。台所専用スリッパの利用

 五、捕獲器の設置または、ゴキブリが嫌う匂いを発するものを設置。

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2010年8月14日 (土)

玉音放送と憲法

明日8月15日正午は、玉音放送された日だ。流風は、もちろん知らない。両親は感慨深そうに語っていた。母は、「学生も含め知識人は、誰も、この戦争は勝てる見込みがないと知っていた。でも、誰も止めることはできなかった。皆、時代の雰囲気に呑まれてしまった」と言っていた。

結局、広島と長崎に原爆が落とされるまで、戦争を止めることができなかったのは、当時の為政者に問題がある。もちろん、天皇に恥をかかせてはならないという名目はあったが、実際は、軍部の暴走体質に問題があった。

以前にも記したように、戦争は始めると同時に、どう終えるか準備しなければならない。永久に続けられる戦争は存在しない。日露戦争までは、武士道がまだ生きていたが、それ以後は、廃れて言った結果が屈辱的な敗戦である。

結局、天皇の力を借りずに、戦争を終えることはできなかった。逆に言えば、いかに天皇の及ぼす影響が大きかったがわかる。玉音放送と同時に、小さな小競り合いは除いて、概ね、日本軍は、武器を捨てた。一斉に波が引くように、軍が引いていく姿を見て、外国軍は驚いたそうだ。

マッカーサーも、その一人だろう。戦後処理に、彼は天皇を利用した。その結果が、現在の日本国憲法を生む。この憲法が、やれ外国人に押し付けられたものだとか、よく論じられるが、確かに枠組みは、そうかもしれないが、日本の歴史的意思も含まれている。

ただ、憲法の解釈は、たびたび、米国の都合で、見直し(拡大解釈)を押し付けられてきた。憲法改正を論じる前に、一条ごとに、国民の意味の十分な理解が求められる。政治家による、拙速な改正は、望ましくない(*注)。

*注

憲法改正は、現在の現象に合わせるのでは不十分で、遠く未来を見越したものにする必要がある。急ごしらえの明治憲法が、統治に問題があったと気づいたのは、後の事である。それではいけない。あらゆる可能性を考えて吟味する必要がある。

なお憲法改正のやり方はいろいろある。

  一、全面的に見直す

  二、一条ごとに、見直す

  三、一部を削除する

  四、現状に追加する

また一部を見直す場合も、全体バランスを考える必要があり、憲法に基づき制定された法律の整理も含め、憲法改正は、とても大変な作業である。一部の政権によって改正されてはいけない。何代にもわたって、あらゆる各層によって万機公論がなくてははならない。それほど大変な作業という認識が必要だ。

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2010年8月13日 (金)

ぐれそうになった『一寸法師』

子どもの頃、自我が目覚めると、親のちょっとした言動にも、敏感に反応する。まあ、自意識過剰の類。親が生活の疲れも手伝って、ふと漏らした言葉に過剰に反応したりする。世間を知らないと、親の言うことが、びんびん心に響くのだ。

もちろん、個人差はある。たくさんの兄弟の中で育つと、そういうことは少ない。まず兄弟の中で、生存競争に勝たねばならないからだ。あまり、おセンチになっている暇はない。結果的に、神経は太くなるから、ちょっとしたことには応えない。

でも現代のように兄弟が少ないと、どうしても、親も子どもも、意識過剰になりがちだ。それが微妙に感情がすれ違い、親子喧嘩の元になる。これは多かれ少なかれ、現代の日本の家庭に見られることではないだろうか。

さて、今回は、あの『一寸法師』に少し触れて見よう。子どもの頃、読んだ童話の記憶では、お椀を船に、箸を櫂に、針を剣に、麦わらを鞘にして、都に上る話であったような。京都で、大きな家に仕え、そこの娘と同行すると、鬼に襲われ、一寸法師は飲みこまれるが、針を使って大暴れして、鬼が逃げ出すというような内容だったかな。

大体、生まれた子どもが一寸というのも、子どもにも分かるように、いかに小さいかを示すために、そうしたのだろう。いくら未熟児でも、3センチ程度で、少しも大きくならない、というのは、おかしな話。それに当時の医療技術では、未熟児を育てることは、当然不可能。あれっ、現実的に解釈しすぎだって。

そう、これでは、子どもに夢を与えられない。でも、童話の元になっている『御伽草子』では、随分と話が違うのだ。一応、備忘録的に記しておこう。よって、ご存知の方は、読み飛ばしてください。

『御伽草子』によると、長い間、子どもに恵まれない、40歳の姥(作品には、そう記してある。40歳で、お婆さんか。平均寿命が50歳程度では、そうかも)が、住吉大明神にお祈りすると、妊娠して、可愛い子どもを授かったことから始まる。

生まれ落ちた時が、一寸しかなかったので、一寸法師と名付ける。まあ、標準より小さかったのでしょう。だが、いつまでも、一寸であったとは記されていない。そこは童話と大きく異なる。まあ、そこまではいい。

ただ、この子ども、なかなか大きくはならなかったのは確かなようだ。13歳になっても、標準よりかなり背が低い。それを親が気にして、困ったことだ、どこかに出してしまおうか、と話しているのを、一寸法師が盗み聞きしてしまう。それで先手を打って、家出してしまうのだ。すこし、ぐれかかったかな。

親も、軽々に、子どもが聞くような所で、そういう話をしてはいけないという教訓。誰だって、一番信頼している親から、そんな話を聞けば、ぐれそうになりますよね。子どもは、純粋だから、そのまま受け取ってしまう危なさを親は気をつけなければならない。

それでも、親に、お椀と箸を用意してもらうところは、子どもらしい。ここには、表現されていないが、実際は、お椀と箸というのは、船と櫂を用意してくれたのだろう。親さまさまではないか。案外、子どもは、その有難さを理解していない。

それからは、京に出て、三条の宰相殿に、身体が小さいが声が大きいというハンディを逆手にとって、売り込み、採用される。大体、金持ちというのは、珍しい物や人を好む傾向がある。そこを狙ったわけだ。

この宰相には姫君がいるのだが、宰相は後妻を娶っており、姫君の居心地は悪そうだ。そのことを察知して、一寸法師は、一目惚れした姫を騙し取り、姫が家を追い出されるように仕組む。そういう知恵が働きそうな世間ずれした嫌な奴(笑)。

しかし、その逃走途中、鬼に出くわし、後は童話と似たような展開。鬼とは、盗賊だろう。鬼を退治し、鬼が打ち捨てた打ち出の小槌で、あらゆることが可能になる。要するに、盗賊の持ち物を横取りしたわけだ。

打ち出の小槌で、身長も180センチに成長。打ち出の小槌とは、一体何なのか。流風も欲しい(笑)。アラジンの魔法と同じことか。どこの国でも、そういう夢想はするらしい。またドラえもんの、どこでもドアの趣も。

いずれにせよ、これで、評判になり、帝に出仕を命ぜられ、出自も悪くないことがわかり、出世して、離れ離れになった親も引き取り、目出度しめでたし。これで、ぐれかけた一寸法師も、無事、立派に成功。

このよう見ていくと、『御伽草子』の一寸法師は、貴種流離譚の趣あり。いい出自の者は、最終的に、ぐれかかっても、ある一線は越えない。そして、色々苦労はあっても、最終的には、成功するという話。柴田錬三郎と同じ世界。シパレンは、最近読まれないから、皆、知らないかな。

でも、これじゃ、庶民はやりきれないから、童話の作者は書き換えたのかも。『一寸法師』も、大人の思惑で、童話に書き換えられた。でも、『御伽草子』の『一寸法師』の方が多少現実的で面白いと思う。

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2010年8月12日 (木)

政治家の為替に対する発言は不要

円高になっているためか、経済閣僚たちが、いつものように、おたおたとした発言をしている。全く、どの政党が政権を握っても、同じような発言をしている。馬鹿なことだ。大体、政府の主要閣僚は、為替の変動について、発言すべきではない。

口先介入のつもりがあるのなら、それは意味のあることかもしれないが、そういう度胸もないくせに、いろいろ発言するのはおかしいことだ。大体、為替については、いかなる組織も、自由にすることはできないものだ。それに色々コメントしても仕方ない。

そうすることができないとはっきり分かっているのだから、変動の状況に対応するしかないのだ。大きな世界的な流れを把握ししつつ、近未来の変化には機敏対応することが大切だ。円高になれば、製造業であれば、海外に工場をつくることが求められるだろうし、逆の流れになれば、違った方策を取るだけのことだ。

それを政治家が、騒ぐなと言いたい。大体、資本市場関係者が騒ぎ過ぎるのも問題だ。相場を乱高下させて儲けたいのかもしれないが、悪い傾向だ。それに政治家が乗せられて、どうするのだ。

政治家は、もう少し、為替の変動に対して見識を持ってほしい。単に円安になれば、経済にいいとは限らない。円高、円安、どちらにも対応できる柔軟性を企業や、市場に求めるぐらいでちょうどいいのだ。

*追記

民放のマスコミや報道関係者や政治評論家が、円高に対して、静観している日銀・政府批判をしているが、いい加減な奴らだ。輸出企業のスポンサーにおもねることしかできないのだろうか。そういうことは、報道以外で話すべきだろう。いつもながら、報道を私物化している民放のマスコミの報道が目に余る。彼らの免許を取り消せないものか。

*平成22年8月20日追記

前原大臣とか、玄葉大臣が、円高について、日本銀行・政府対応について批判しているようだが、自らの無能さを露呈させている。円高を批判するのではなくて、大胆に円高を活かせる貿易構造の仕組みにするのが政治家の役目ということが分かっていない。お二人は、これ以上の出世はないだろう。させてもいけない。

*平成22年8月23日追記

本日の某新聞にも、相変わらず、某証券系のエコノミストが、「円高を活かす経営など馬鹿げている」という風な趣旨で、日本銀行は資金供給を増やせと主張している。これこそ馬鹿げている。一時的な方策が、将来にも有効とは言えない。こんなことをやれば、永遠に資金供給を増やさなければならない。

資金循環が滞っているのに、資金をじゃぶじゃぶ入れても何も解決しない。解決しなければならないのは、資金が滞らないようにする国際貿易戦略だ。彼は何も分かっていない。プロの顔をして、結局、皆を混乱させていく。エコノミストとして、早く退場願いたい。

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2010年8月10日 (火)

治国斉家ということ

「修身」などというと、戦前の教育アレルギーの人々がいるが、別に儒教でなくても、大切な考え方だ。戦前の教育がすべて悪かったわけでもない。むしろ明治憲法の、不十分さを悪用した人々が、国をミスリードした結果、敗戦という国難があったと考えるべきだろう。

『大学』には、次のように、修身について記されている。

  古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず、その国を治む。

  その国を治めんと欲する者は、先ず、その家を斉(ととの)ふ。

  その家を斉へんと欲する者は、先ず、その身を修む。

  その身を修めんと欲する者は、先ず、その心を正しくす。

  その心を正しくせんと欲する者は、先ず、その意を誠にす。

  その意を誠にせんと欲する者は、先ず、その知を致す。

  知を致すは、物に格(いた)るに在り。

『大学』は誰が表したものかは不明とされる。孔子の遺書とも言われ、記し編纂したのは別人とも言われる。その解釈は、後々の学者が喧々諤々と論じることになり、朱子学派とそれを批判した陽明学派に分かれる。

流風は、細かい学説を理解していないので、表面的な字面で理解する。別に解釈はいらないと思う。ただ「意」は、「心が発する所」とか「心の源」と理解する。「知を致す」は、「極限まで見極める」と理解する。「物に格る」は、「現象の根本を見通す」と理解した。

結局、人間社会も含めて、森羅万象をすべて根本的に理解するという気持ちが、まず必要と、説いているのではと感じている。国を治めようと思う方々は、そういうことに通じることが求められる。安易な気持ちで、政治家には、なって欲しくない。

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2010年8月 9日 (月)

心が容姿を生む

よく破竹の勢いで、企業成長を続ける経営者が、何らかの事件を起こして、破綻すると、その容姿は一変する。いつも、その落差に驚く。あれが、あの時の経営者と同じなのかと。また男女関係で、おかしくなった夫婦の容姿も、あっという間に変わる。

人間の顔とは、不思議なもので、単なる容姿のいい悪いだけで、決まるものではない。それでは、いい容姿を保つには、どうればいいか。確かに、生活状態も影響するだろう。適切な食べ物と適度な休養。もちろん、適度な運動や姿勢も欠かせない。

だが、もっとも大切なのは、心の安定だろう。もちろん、女性については、多少、心の不安定さがある方が美しく見えるのも事実だ。恋愛中は美しかったのに、結婚した途端に、安心感で、美しさが無くなることも多い。

それでも、心が安定し、余裕があると、いい顔になるのは確かだ。更に、他者に対する許容度が増せば、言うことはない。些細なことで、怒るより、ああいうこともある、こういうこともある、人間社会では、それも仕方ない、と思うと、多くのことは許せる。

もちろん、何でもかんでも許せとは言わない。ただ人間社会は、多くの立場で、発言したり、行動するわけだから、いろんな考え方があって当たり前という観点に立てば、許容度は増す。

いろんな意味で、心に余裕がある状態にしておくのがいいのだろう。そういう人を見ると、憧れるが、流風は、まだまだ修業が足りない。皆さん、いい顔していますか。

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2010年8月 8日 (日)

向こう三軒両隣

お盆に入った。本日ぐらいから、各所で、お精霊迎えがあることだろう。先祖を確認し、先祖を敬うことは、自分自身の存在確認だ。お盆で休みだから、レジャーで遊び回るだけでは意味がないだろう。しっかり先祖供養したいものだ。

さて、幼児虐待が問題になっているが、高齢者の孤独死同様、近隣の無関心が招いている。特にマンション住まいの場合は、それがひどいようだ。比較的小さいマンションだと、そういうことは起こりにくいが、高層のマンションだと、他人に無関心になり易い。

流風も、若い頃、高層賃貸マンションに住んだことがあるが、結局、誰も知り合いはいなかった。朝早く出て、夜遅く帰宅するのだから、近所の人と話をする機会は、皆無だから仕方なかったとも言える。都会は砂漠のようなところ、といった歌詞もあったが、まさにそれだった。

戸建だと、自治会活動も無視はできないし、ある程度、参加せざるを得ないので、それなりに知己は増える。昔は、向こう三軒両隣といって、江戸時代の五人組の名残らしいが、悪く言えば、相互監視が防犯につながった。

個人情報保護も大切だが、近所に住めば、ある程度、お互いのことはわかるようにしておくことは大切だ。その点、主婦同士のネットワーク情報は豊かだ。流風なんて、全く知らないことも、一言尋ねれば、山のような話を頂ける(笑)。逆に言えば、流風のことも、どこで、どのように噂されていることやら(苦笑)。

それでも、これらはお互いに関心を持って、地域に生活していることはよいことだろう。流風の近所では、幼児虐待も起こらないだろうし、高齢者が孤独死に至ることもないだろう。今一度、向こう三軒両隣の精神を考えてはどうだろう。

マンションの多い都会でも、やり方で可能と思う。それは若い人たちも、感じ始めている。他人に無関心にならずに、もう少し関心を持つ。そういう姿勢が大切と思う。人は一人では生きていけないのだから。

お盆は、そういうことを考えるのにも、いい時期だ。各地のお寺では、お精霊迎えと共に、子孫に祀ってもらえない餓鬼たちが悪さをしないように、施餓鬼を行う。そういう優しさが、人間社会でも、必要ということだろう。

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2010年8月 7日 (土)

人はなぜ仮面を被るのか

人は多かれ少なかれ仮面を被っている。もちろん実際の仮面を被っている場合のみを指していない。よく外面はいいのに、内面は悪い人がいる。その逆もある。外面も内面も一緒というのは稀だろう。本人は、そのように思っていても、知らず知らず仮面を被っているものだ。

仮面を被るのは、実態を知られたくないというのもあるだろう。女性の化粧は、そういう意味もあるだろう。男も、外では、そういうことが求められることがある。感情のブレを相手に悟られないようにしないと、駆け引きで勝つことは難しい。

さて、本当の仮面を被るとなると、若干意味は違ってくる。もちろん、自分と違う人格が、新たに宿るという意味では同じだ。仮面に成りきれば、役者の役作りのような感じになる。日本では、神事の、鬼追いの行事や、獅子舞も、その類だろう。

仮面としては、人と動物の面が中心だ。それは世界どこでも、変わらない。人の仮面の場合は、多くが敬い憧れる対象が、そのようになる。それは多くは、その国の神話などの登場人物だ。

動物の場合は、現代では、生物多様性と言われるが、昔から、あらゆる生き物が人間と違う何かを持っていると考えられてきた。人間と生物が、それぞれ影響し合っているというのは、当たり前の考えである。そういうことを意識したのが動物仮面だろう。

生物多様性などと難しい表現をするのは学者の悪い癖。そして、彼らは、その本質を理解していないだろう。ここは深く掘り下げると宗教になってしまう。生物学や科学の範囲では、処理できない問題だ。彼らの議論は、世の中を複雑にするだけだろう。分らないことは、分らないままにしておいた方がいい。また脱線してしまった。話を元に戻そう。

仮面は、大体、能のように顔につける事が多い。実際、日本では、多くがそうだろう。ただ世界には、頭につける物もあるようだ。昨日のブログに記した『鉢かづき』のように、すっぽり被ってしまう仮面もあるそうだ。あの鉢は、仮面だったのだろうか。

このような仮面の展覧会が、兵庫県立歴史博物館で催されている。テーマは、「仮面のひみつ」(平成22年9月23日まで)だ。日本や世界の様々な面を紹介している。内容は、子どもの夏休みに合わせている。子どもたちは、この催しを見て、どのように変身するのだろうか。

まあ、あまり早く大人の顔を持って欲しくはないけれど。でも、どの親も、子どもには、早く大人になってほしい気持ちもあるだろう。流風は、いつまでも、子どもの心から抜けきらない、変な大人です。大人の仮面を被っているだけか(苦笑)。

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2010年8月 6日 (金)

ある姫と母の愛~『鉢かづき』

子ども時代(小学校に上がる前)、いろんな童話や絵本を母が読んでくれた。時々、父も。童話は、教訓物が多いわけで、時代背景を反映していて、親の願望もある。ただ、その時の時代の要請により、童話の元になっている原作とは、作りかえられている場合も多い。

最近の童話のことは、よく知らないが、昔のものは、儒教意識が強かったことは事実だろう。そして、戦後も、その流れは引き継がれていたように思う。時々、童話の元になっている書籍を読むことがあるが、童話は、儒教的に、細部に変更が加えられている場合もある。

それに比べて、童話の元の話の方は、随分、人間的であるのは確かだ。それは人間だったら、ありうる話が多く、素直に受け入れられる。だから、押し付けのような感じを受けることはない。それでも、見方によっては、多くの童話は、元の著者の意図は外していないかもしれない。

今回は、『鉢かづき』を取り上げる。残念ながら、童話と原作の差異は、わからない。実は、この童話は、流風の家にはなかった。近所の女の子の家に行って、当時、初めて知った。どちらかというと、女子向けの話だ。

この話の元は、『御伽草紙』などに記されている。河内国交野(現在の大阪府枚方市)のあたりに備中守真隆という人がいたが、裕福に暮らしていた。妻は教養が高く、姫が一人だけいた。幸せな生活が続いていた。

しかし、姫が13歳の時、母親が、急病になり、もうこれまでかという時、長谷観音に娘の将来をお願いする。そうすると、娘に宝物を載せ、鉢を被せよ、とお告げがある。そして、母はお告げの通り、娘に、鉢を被せる。そこから、姫の流転の人生が始まるというものだ。

以下、母の死亡、外せない鉢、父の再婚、継母の苛め、継母のあることないことの告げ口、父による姫の放逐、自殺未遂、山蔭の三位中将に拾われ湯殿の火焚きに。

そうこうする内、中将の四男宰相殿との出会い、男の愛の確認、愛し合う二人、親の反対、嫁比べで追い出そうとする姑の企み、愛の再確認、不思議な鉢割れ、美しい容姿と財宝、嫁比べの実行、舅・姑の評価逆転、大半の財産相続、継母の没落、父親の子ども探し、父との和解、長谷観音の御利益、となる。

姫の波乱万丈の人生だ。ちなみに鉢を頭に被せるというのは、鼻を覆う程度までだ。でも、これだと目が見えません。耳は、位置によっては、声が反響するかもしれない。姫にとっては、苦難の状況だ。それに、宝物とか鉢が載れば、重いこと、この上なし。

全体としては、まあ、ドラマとしては、面白い筋だ。いろんな話の中には、各種の教えを忍ばせてある。例えば、なぜ鉢を被せたのであろうか。そこには、深い意図があるのだろう。人生とは、重荷を背負って歩むものと言ったは徳川家康。それと似ているかもしれない。そして、姫の場合は、美しい容姿を隠したため、いろんな災難から逃れられた。

また宰相殿は、鉢を被っているため、姫の容姿は確認できていない。結局、惚れたのは、話し方、教養、物腰などだろう。もちろん、身体が美しかったこともあるだろう(笑)。ただ顔で惚れたのではないことは確かだ。男にとって、最初から、女性の顔は見えない方がいいのかも。

また宝物というのは、現実的に考えれば、鉢の中に実物はなかったと考えた方が現実的だ。むしろ、宝物の明細と、ありかを記した書状が入っていたのだろう。それは母親が結婚した時に、持参した宝物がほとんどと推定される。いざという時のために、どこかに保管していたと考えられる。それを娘に被せた鉢の中に隠して、渡した。

姫が本当の愛を掴んだ時、鉢が割れ、真実が明らかにされる。それまでは、宝を持っていることを他人に話してはいけませんよ、という教えかもしれない。昔の女性は、一人で世過ぎすることは大変だったから、いざという時のために、子どものために取っておいたのだろう。

親にとって、子どもは宝物。将来も、生活に困らないようにという、母親の深い愛と配慮。そこには母の愛の深さが読み取れる。最近は、変な親もいるけれど、親の愛は、いつの時代も変わらない。こう見てくると、『御伽草紙』は、なかなか面白い。いずれ、その他の話も取り上げるかも。

*追記

この物語を男の方から見れば、女性を判断する時、容姿で判断してはいけませんよ、ということになる。

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2010年8月 4日 (水)

暑さに相応しい食べ物

この夏は、最近は、あまり言わない酷暑かもしれない。普段、クーラーを使用しない流風も、昼間、読書する時や、寝る前にも、使っている。以前は、クーラーを設置したのも、無駄だと感じたが、今では、逆に感謝している。今までは、扇風機だけで、過ごせたものの、今年は、歳のせいか、無理もできない。

それでも、クーラーの設定温度は31度だ(笑)。実は、これ以上にしたいのだが、機械の設定上限は31度となっており、できない。それでも、それなりの冷風が来るので、過ごしやすいことは確かだ。若い時のように、やせ我慢はあきらめた。

さて、夏の食べ物というと、土用の丑に食した鰻だが、暑さのため、それ以後も、よく売れているらしい。まあ、暑い中、料理をするのも大変だし、そういうことになるのだろう。鰻屋は大変だろうが、書入れ時。

そして、先日にも記したトマト及びトマトジュース。夏バテにはてき面。甘酒にヨーグルトもいい。汗を流した後の栄養補給に効果。食欲がなくなったら、牛乳を一杯。

また、麦茶。麦茶は、夏、美味しい。子ども時代、水筒に入れてもらって、遊び回った。なくなると、近所のおばさんや知らない家でも、補給してもらった。みんな、快く、入れてくれた。あの時の麦茶は、それぞれの家の味がした。

ただ、時々、シーズンが過ぎてから、飲食店で、店で余ったのか、麦茶を出されることがあるが、夏に飲むほど美味しくは感じられない。麦茶は、やはり、夏の飲み物なのだろう。

毎朝、茶瓶に、麦茶を作るのは、子ども時代と同じ。まず食後に飲む。冷蔵庫には入れない。お腹を冷やしたくないから。冷たくしたい時のみ、氷を入れることにしている。

また、今年はスイカをよく食べた。スイカには、利尿作用があるとされる。体内に水がたまったりすると、体調が悪くなる。そこでスイカを食するわけだ。子どもの頃は、井戸に入れて冷やした。冷蔵庫に入れたと同様に冷えたものだ。

スイカは関西以西のものが美味しい。その他の地区のものは、甘さが足りないと思う。また、ゴミの量が半端ではないのが難点だ。菜園に、堆肥として使うので、問題はないが、そうではない方は、ゴミが大変だろうと思う。

また奈良漬専用のスイカもあるそうだが、父が、スイカの奈良漬が好物だったのを思い出した。最近は、奈良漬があまり売られていない。鰻丼には付き物と思ったが、最近は出さない店もある。またスーパーにも、あまり置いていないのは残念だ。食べる人が少ないのだろうか。

そして、今は、桃が出回っている。今日は、桃を買いに行こうと思う。桃は高い物が美味しいとは限らず、選び方が難しい。さて今日は、どこの産地のものが売られているだろうか。

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2010年8月 2日 (月)

法人税申告漏れの企業

よく法人税の申告漏れが、国税庁から指摘されている。国税庁は、税収を上げるのに必死だろうし、企業側は、いかに税金を少なくしようかとたくらんでいる。それは税法の解釈の曖昧さがもたらしている。もちろん、完全な税法は難しいだろう。

だが、かつて故・松下幸之助氏は、税金は、税法通り納めて、変な節税のテクニックは使うなと言ったという。税金を納めることは、社会的貢献と理解していたからだ。税金を納めて、初めて、経営者たりうる。彼には、節税も、脱税と、そんなに違いないと認識していたのかもしれない。

ところが、最近、パナソニックは、5年間で220億円の申告漏れがあったという。幸之助氏も、地下で嘆いていることだろう。株主の方ばかり見ていると、そのような誘惑が強くなるのだろう。これはパナソニックに限ったことではないだろう。

経営は、もっと広い視野で見なければ、つまらないではないか。結局、サラリーマン経営者が国を危うくする。そう考えると、法人税減税など、もっての外だ。

*追記

もちろん、オーナー経営者の方が、税金に対して、えげつないとも聞く。幸之助のような人は、稀で、大概のオーナー社長は、税金を誤魔化していると指摘する人もいる。だが、一時的に、誤魔化しても、いずれ経営が破綻している。当局から、厳しく指導されて、それを経営に活かした企業は残っている。

また昔は、税務署は、企業の利益を不当にむしり取るということがあったが、今は、企業が、当局を敵に回してしまうと、いろんな意味で経営は成り立たないと考えた方がいい。当局の指摘は、経営のアドバイスと受け止めた方がいい。税金を徴収して、経営が危うくなるというのは、本来あり得ないことだ。それに当局にとっても、企業が順調に利益を出し続けて、意味を持つのは間違いなかろう。

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2010年8月 1日 (日)

政党のシンクタンク

政策は、政治家だけで練れるものでもない。民主党の思いつきのようなマニュフェストは、国民にも迷惑なことだ。以前、民主党は、自前のシンクタンクを創ると言っていたようだが、実際は機能していないようだ。確かに、人を集めるには、お金もかかる。安くても、できの悪い学者や民間コンサルタントでは、変な政策が生まれないとも限らない。

政策は、どういう人材を集めるかによって、大きく左右される。更に、マクロの政策とミクロの政策に詳しい優秀な人材も集めるとなると、相当の資金がかかる。資金がないと、十分な政策も練れないのも事実だろう。

そういうこともあって、管直人政権は、官僚の見直しに動いているようだ。確かに、官僚も、個々の資質を見れば、優秀な人も多いだろう。問題は、官僚組織と、その運営にある。

そういうことを考えると、あまり大きな期待をするのは難しい。どんなに意欲のある若い人も、長い物には巻かれろとなりがちだからだ。政治家と官僚は立場が明らかに違う。

やはり政治家が、民意を反映して、政策の方向性を示すには、各界の知恵を集めるシンクタンクが必要であるが、そういう仕組みは、十分にできていない。となると、当面、民間経済団体をシンクタンクに代用するしか手がないように思える。

例えば、民主党であれば、「経済同友会」や「連合」のミックス、自民党であれば、「日本経団連」が相応しい。それぞれにいろんな意見をは発表しているが、それぞれの立場の表明だ(*注1)

ところが、管直人民主党政権は、選挙がらみで、「日本経団連」にアプローチしたから、政策が混乱している。この政党に、背骨のようなものがなく、まるで軟体動物のように、頼りなく感じる。今回の参議院選挙では、票数では、悪い結果は出ていないが、都市部でも、一部有権者は、民主党離れをしている。

野党である、現在の自民党の政調会長は、まともな意見を表明しており、民主党の人気取り政策で、深みのない政策が続けば、次回の衆議院選挙では、勝てる見込みはなくなる。

政策のブレをなくし、政策効果のシミュレーションをきちんとやって、実効性のある政策に高めるには、シンクタンクをどうするか、早く、見極める必要があるだろう(*注2)。そうすれば、思いつきの、いい加減なマニュフェストは、減るだろう。

*注1

「経済同友会」

 経営者個人の資格で参加した人たちが論議している。

「連合」

 大企業労働団体の意見表明。但し、「連合」は、「日本経団連」の意見に通ずるものがあるため、現実の労働の諸問題の把握は難しい面がある。

「日本経団連」

 企業集団の集まりによる意見を表明している。

*注2

その前に、自民党との違いを示す党の綱領を明確にしないと、政党の存在価値が疑われる。

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